2013年8月28日水曜日

当然の法則-結局は実力相応の人生をおくるものだ

幸運に恵まれれば富裕になるし、運が悪ければ貧困になる。そうした面はなるほど大いにあるが、先輩や同輩、友人、教え子等々、色々な人たちを概観してみると、大体は実力相応の仕事をして、実力相応の実績をつんで、実力相応の暮らしをしている。そんな風に思うようになった。人生の浮沈、様々であるものの、納得できないという思いは案外してはいない。納得できるのだから、「世間」というのは意外と合理的なのだろう。

東京圏に戻って仕事をすれば収入は上がろうが、いま楽しんでいるユッタリとした時間はなくなる。ま、この辺で手を打つかと思うようになった。どこで何をしようと、その人の人生は、満足度という次元において、幸福という面において基本的に様変わりはしないものだ。無論、貧困の相続という現象はある。不幸の再生産という社会問題が発生している。それは確かだが、やはり落ち着く所に落ち着いているのが世間だと思うようになった。

人間にはそれぞれ<器>がある。器をこえて生きようとするのは、その人と家族にとって不幸の原因になると、今は考えている。

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最近、校長公募が流行している。公募する側にも、応募してくる側にも、一定の理由があってのことだ。ところが、あにはからんや、着任して1年にもならないのに退職する人がいるという。
退職したのは大阪市立南港緑小学校(住之江区)の校長に今年4月に就任していた千葉貴樹氏で、6月25日付で大阪市教育委員会議で退職を承認された。その日の記者会見の場で千葉氏は、「経験を生かし、英語教育に力を入れたいとアピールしたが、今の学校の課題は基礎学力の向上だった。英語教育に力を注げる環境ではなかった」と退職の理由を述べたという。
自分が期待した能力のない子どもたちだった、とも受け取れる弁だ。自分がおもっているレベルの学力のない子どもたちばかりだから捨てる、と言わんばかりだ。
10年以上も複数の外資系証券会社で勤めてきたという千葉氏は、成果主義のなかで生き抜いてきたのだろう。その経験から、短期で成果があがらなければ切り捨てる、という選択をしたのかもしれない。
(出所)前屋毅「公募校長辞任でおもう、この国はだいじょうぶか」
「損切り」は、事業においては非常に重要である。バブル景気崩壊後に民間金融機関は、淘汰するべき不良債権に望みをかけて、また復活させようと無駄な努力を払った。日本の「失われた10年」はそのために起こったことだ。「見捨てずに行こう」というその努力が真に愚かなことであったと心から理解しているのだろうか?「いま見捨てると過去の判断が間違っていたことになる」という問題先送りと識別できない点こそ重要だったのだ。成果があがらなければ切り捨てるという判断が、それ自体、間違っているということはない。

とはいえ、自分のプランが結実しそうかどうかの判断を3か月でするというのは、教育活動は愚か、起業支援においても、正当な判断ができる段階であるとは思えない。出来ないはずの判断を下したかのような体裁をとって逃亡したとも言えるし、あるいはそれ以前に教育者に求められる適性を自分が満たしているかどうかの確認すら怠っていたとも言えるわけであり、人材としては一流どころか、二流でもない。そう受け取って仕方がない話ではある。当該人物にとって今回の退職が、今後の新しい人生の中でどのように位置づけられるのか。おそらく今後、何度かの幸運と何度かの不運を経験するではあろうが、今回のケースから推測される<実力>を考慮すれば、大した成功はせず、まあ、ほどほどの暮らしっぷりに落ち着くであろうと。そう予想しても間違うことはないであろう。

重要なことは、その人その人の実力相応の人生を送れるように<機会>を与えるという点にこそある。3か月で短期退職したということ自体が問題ではないと思われる。もちろん人選基準に不備はあったのだろうが。

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<実力相応の人生>という点から言えば、次の<半沢化現象>はネガティブに評価せざるを得ない。
また、神奈川県の倉庫管理会社では、休憩時間を大幅にオーバーして戻ってきた社員が注意された際、Twitterなどで「うちの上司はパワハラだ」「この会社はブラック企業だ」などと書き、注意処分を受けたところ「やられたら倍返し」と言い放ったという。
 労働事情に詳しいジャーナリスト・佐藤大吾氏は「ブラック企業という言葉ばかりが浮上して、問題社員の反抗材料みたいになってしまうのは最悪のパターン」という。
「会社は、トップの判断がおかしいと思っても、組織として業務を円滑に進めるために一致して行動しなければならないこともあります。内容問わず部下に刃向かう社員がカッコイイというような空気はいいとは言えません。ドラマ『ショムニ』(フジテレビ系)や『斉藤さん』(日本テレビ系)が人気なのも、『半沢直樹』と同じく強い相手に臆せず正論を吐くからですが、現実ではなかなか難しいでしょう」(同)
(出所)絶好調『半沢直樹』の影響で「やられたら倍返し」乱発の“ブラック社員”が急増中!?

ロジックで考えれば、業務遂行能力が不十分な社員は管理者の裁量で配置換えするべきであるし、その判断に不満足であれば退社すればよい。不満足の果てに怠業をすれば解雇する裁量が社の側にあると考えるべきである。そもそもシンプルこの上ない理屈のはずなのだ。

しかしながら、そのロジックが正規社員の地位保全・解雇規制の下では中々通らないことが、企業経営を非合理的にしている。ある側面の非合理(=正規社員の保護)は、別の側面の別の非合理(=契約社員・派遣社員など不安定雇用)をもたらす誘因となり、会社はそのようにして全体的な経営合理性をとろうとするものだ。でなければ、日本企業は経営成果を出すことができず、国際的M&Aの標的になるだけだ。

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<実力相応の人生>で処遇することが日本社会の基本原則なのではないだろうか。実力の違いが実績の違いとして現れ、実績の違いが処遇の違いに自然に反映される仕掛けが最も大事だ。いかに善意に基づくものであれ、そんな自然のプロセスを人為的に制御しようとすれば、問題は永遠に解決できず、改正が改正を生み、複雑化し、制度の存在意義が評価できなくなるものだ。

<善意>で社会を改善できる余地はほとんどない。というか、善意そのものが社会というレベルでは定義不能であろう。

福沢諭吉は、明治初期のベストセラー『学問のすすめ』の中で、怨望(=嫉妬)だけは社会に良い効果を一切もたらさない最悪の動機であると指摘している。そして、その怨望はどんな状況で発生しがちであるのかという点にもふれている。

福沢は、怨望はその人の努力では何とかする余地が全くない、すべて運・不運で結果が決まる状況で蔓延するものであると述べている。だからこそ身分制社会、封建社会は福沢の敵だったのだ。<機会>を公平に与えるフェアネス(Fairness)が大事だ。チャンスが公平に与えられていれば、結果として富裕な人と貧困な人に分かれるとしても、事後的な結果は合理的なものである。合理的な不平等の下で嫉妬は蔓延しないーまあ、ゼロにはならないだろうが。むしろ結果の不平等は若い人たちの士気や野心を高めるものだと、小生は思うようになった。その時には、カネは不平等でも、幸福は平等に近づくのではなかろうか?



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