2013年12月28日土曜日

中国と日本: 目先の願い vs 窮極の目標

まずさしあたって願うのは当面の勝負に勝つことだろう。誰だって負けるよりは勝つ方を好むものだ。そのための方法を戦術という。しかし、負けるが勝ちという言葉がある。負けるのは戦術的結果、勝ちというのは戦略的な結果にあたる。戦略的な結果とは、最終的に求める目的に近づいたのか、遠のいたのかで判定できる。

太平洋戦争中の珊瑚海海戦は、日本が戦術的勝利をおさめ、アメリカが戦略的勝利をおさめたとよく言われる。確かにレキシントンが沈没し、ヨークタウンが大破した米海軍に対して、瑞鶴が無事で翔翮のみ小破した日本海軍が勝ったという形にはなっているが、結果として日本がこの海域から撤収し、目的であったポートモレスビー上陸支援を断念したのは戦略的意図の放棄を余儀なくされたのだから、それこそが目的であったアメリカ側からみればこの海戦は成功であったことになる。加えて、航空戦力が被った損害と翔翮の損傷が原因となって、珊瑚海海戦の直後に行われたミッドウェー海戦にこの二隻の空母が参加できなくなった。これもまたアメリカの戦略的勝利の一部である。

要するに、目先の成功を追い求めることで、最終的な目的を逸するという事態は往々にして生じるということだ。
国防大学政治委員を務める劉氏は今年、「較量無声(声なき戦い)」というドキュメンタリー映画を共同制作した。軍内部向けに制作されたとみられる同映画は、米国の「ソフトパワー」について、中国共産党を打倒する狙いがあると警告。劉氏は映画のなかで「米国は、中国に接近し、自らが主導する世界的な政治システムに融合させることで、中国を容易に分裂させることができると確信している」と述べている。 
同映画では、他の軍幹部も同様の警告を発している。なかでも最も印象的なのは人民解放軍の最高司令官であり、中国共産党トップである習氏の引用だ。
中国を抑え込もうとする西側諸国の戦略的目標は、決して変わることはないだろう。わが国のような社会主義大国が、平和的な発展を遂げるのを絶対に見たくはないはずだ」(出所)ロイター、2013年12月28日配信
ソ連の崩壊をもって冷戦は終結したとされるのが世界の常識になっているが、中国は共産党が人民独裁制をしいている国家であり、経済運営はなるほど「西側諸国」と相性がよい制度に変じられてきたものの、契約自由の原則と財産権不可侵を根幹とする「欧州の近代」とは真っ向から対立している点に変わりはない。中国が、最終的には米国との根本的不調和を自覚しているとすれば、それは至極当然のことである。

武力を用いた戦闘のみが戦争を構成するのではない。戦争とは国際政治の場で自己の意志を他国に強制するあらゆる局面において進行するとみるべきだろう。こう考えれば、今世紀は中国が超大国に復帰する100年であるとしても(これにも小生は一抹の疑念をもっているが)、最終的に有能な人材を引きつけ活発な技術革新を継続できるのはどちらの社会経済システムであるのか。組織制度の適者生存を通して決着のつくゲームがいま進んでいるとみる。このほうが現実がよく分かる気がする。だとすれば、年内に靖国神社を参拝するという行為は、その真の狙いがどこにあるのか、色々な解釈が世界各国でされているようだが、長期的な行動計画を最適化する中で、それでは今は何をするべきか。そんな戦略的な思考から「明日、靖国参拝をする」という戦術が選ばれた。どうもそうではなく、理屈をこえた衝動的な不満解消に近い行為ではなかったか。そう思えるのだ、な。

国家の盛衰は、軍事力によって決着するわけではなく、窮極的には文化的な優勢、倫理的な説得力、更には宗教的な普遍性で決まるものであるし、こうした決着過程は何より経済的取引、国民的交流の中で進むものである。太平洋戦争末期において日本の政治家は「国体護持」という固定観念に苦悩したが、いま中国に対して日本が抱き、アメリカに対して支援を求めている本質的なものは、究極のレベルにおいてやはり「国体」であるに違いなく、具体的に言うなら「皇室」と「神道」の文化的正当性を守りたい。つまりそういうことではないのか。だとすれば、「やれやれ、進歩のないことよ」と慨嘆したくなるのは、小生だけではないと思うし、アメリカ人が日本人のそんな最高レベルの願望を理解するのかどうかも怪しいところである。世界史はもっと過酷なのであるから。

またまた日本人は日本という国の歴史的過去にからめとられている。小生はそう思ってしまうのだ。正にこの点をこそ中国・韓国は攻撃し、非難するのである。が、率直に言って、日本人の側もまたフランクに色々な国のありかたを考えてみる時期ではないかと感じるのだな。国の姿は、過去のしがらみも無視するわけではないが、その時に生きている人間が自分たちの幸福を求めて決めるべきことだ。究極の目標とは「幸福」でしょう。ここを認めるかどうかで、あとが違ってくる。多数の国民の幸福を主目的に置くことが、民主主義のエッセンスではないかと小生は思っている。「守り抜く」という姿勢は武士道の花ではあるが、映画「最後の忠臣蔵」もそうであるように、つまるところ非人間的な結果をもたらすことが多いものだ。

2013年12月26日木曜日

首相靖国参拝への印象

日本人は『痛恨の極み』という表現に弱いところがある。予想される非難・批判など、万難を排して、それでも本懐を遂げようとする行動は、日本人にとって決して嫌うべきことではない。軽侮するよりは、むしろ敬意を払う行為となりうる ― たとえ、そんなことをして何になるのか、さっぱり合理的な理由が分からないとしてもだ。

『それほどやりたいならやればいい』という所が確かに日本人の心根にはあるのだ、な。もちろん『バカじゃないのか!』というのが、見ている側の率直な気持ちなのであるが、日本人の心の中には、賢人を喜ばずして、バカに魅力を感じる感性がある。だから、本日の安倍首相による靖国参拝を自国民としてどう思うか。中国や韓国、アメリカとはまた印象は異なるかもしれないと思う。
第1次内閣で訪問しなかったことを「痛恨の極みだ」と表した首相は、自らの言葉にこだわっていたとされる。中韓両国との関係悪化は、小泉純一郎元首相が「外国首脳で靖国参拝を批判するのは中国、韓国だけだ」と指摘するように、外務省も覚悟のうえだ。問題は米国の反応にある。(出所)日本経済新聞、2013年12月26日
 小生は、靖国神社という存在は否定される理由を十分に持っているし、むしろ戦後処理の一環として撤廃しておくべきであったと考えている。石橋湛山の提案に共感をもつものである。この点は、これまでの投稿を通じて既に議論していることだ。

とはいえ、紆余曲折の末になおも現存している靖国神社という宗教施設に自国民やその代表が参拝するかどうかの是非を、外国に云々されて、それに影響されて日本人が参拝したり、参拝をやめたりする論理はなく、あくまでその行為によって引き起こされる影響の損得のみが問題なのである。だから、あらゆる損失を甘受しても参拝するなら、それ自体が「誤った行為である」と非難する論拠はないと小生はおもっている。A級戦犯が合祀されている施設を参拝するのは、その戦犯たちを崇拝していることと同じであるという非難を中国、韓国はずっとしているのであるが、そもそも1928年に日本も署名したパリ不戦条約でいう<戦争>とは<戦闘状態>に限られるものかどうか明瞭ではなく、条約上認められていた<制裁>という行動範囲についても明瞭な定義はない。<戦犯>という概念が国際社会の法的実体として定義されていたわけでもない-今もなおそんな概念は明確に定義されていないのではないか-端的にいえば米英とソ連を主たる戦勝国として、戦後世界構築を進める国際政治の場において、使用された用語である。大体、古来、敗戦国の住民は兵士でなくとも虐殺されたり、奴隷として連行されたりしていたわけであって、戦後処理に寛厳はあるにせよ、終わった戦争は正しい戦争であったか間違った戦争であったのか、それは善であるとか、悪であるとか、倫理的に判断すること自体が巨大な虚構・フィクションでなくして何であろうか。それ故、たまたま「連合国」の側にいた国が、日本を「戦犯国」と呼ぶと、腹を立てない日本人はいないはずであろうし、そう呼ぶ側の倫理的な退廃を感じとるとしても、全く誤りではないような思いはする。

『ただね、それを言っちゃあ、おしめえじゃないの。今はさ、こういう世の中になっちまったんだからさ』。小生の印象、これが本日の結論である。

× × ×

もう一つ。中国、韓国は首相の靖国参拝に激怒しているのであるが、単に「慨嘆と怒り」を唱えるだけでは、益々一層「徴兵されて死んで行った自国の戦死者を後世の自国の首相が弔うことにも反対するのか」と、日本側の反作用を増幅するだけではあるまいか。要はA級戦犯を合祀している施設に参拝することが問題であり、そう判決されたことに間違いはないわけだから、A級戦犯を宗教施設に祀っているのは倫理に反する、と。具体的に問題点を指摘して非難するほうが、日本人にとっても説得的である。A級戦犯を日本国内で顕彰することはとんでもないことであろうが、ではどのように刑死した人々を慰謝するのかという点は、日本国民に選択の余地があるというべきだろう。


2013年12月25日水曜日

SONY 復活の兆しなのか ― Ultrabook DUO 13 にこめた本気度

先般、Windows 8向けのUltrabookを購入しようと思った当座、まずはPanasonicが出している製品の仕様を調べた。この何年か使ってきたLet's Noteのタフネスぶりに感心していたからだ。それに比べて、ずっと昔、SONYのVAIOが人気を集めていた頃に自分も買ってみようと手にしたのだが、あまりの鈍さと低品質ぶりにSONYという先端的メーカーは死んだのだと悟らざるを得ず、以来SONYの製品を買うことは止めてしまっていた。今回、Ultrabookを選ぶのにSONYを選ばざるを得なかったのは、カタログベースのバッテリー寿命の一点であったことは前に投稿した通りである。

ところが、買ってからすぐに気が付いたのは、バッテリーというより音質だった。素晴らしいのだな、DUO13から出る音は。AUDIO-TECHNICAのイヤホンをつけて聴くと、低音の厚みが素晴らしく、机上のTIMEDOMAIN LIGHTをつなげて音を流すと一層伸びやかな高音部とバランスの良さ、肌理の細かさに目を(耳を?)見張るのだ。音質でこれほど想定外の驚きを経験するのは、その昔まだ小生が大学生であった頃、秋葉原の某家電販売店を訪れて、オーディオ・コンポに参入したばかりのYAMAHA製品から流れ出る音を試聴して以来のことである。あの時もすごかったが、今回、SONY DUO13が響かせる音は半端じゃない。

そう思っていたところ、ネットに下のような記述があるのを見つけた。
VAIO Z21を使ったことのあるユーザであれば、スピーカーから発せられる音にがっかりしたことだろう。それまでのVAIO Zやtype Z等と比べて圧倒的に薄っぺらい音で、しかもボリュームを上げるとすぐに音割れを起こすほどひどい内蔵スピーカーだったのだ。もちろん、ヘッドフォン経由であればそんなことはないのだが、SONYの出している、しかもVAIOと名乗るそれが、こんな貧相な音しか出せない(しかもすぐ音割れする)のは、SONYブランド、VAIOブランドを著しく失墜するさせるもので、いくら薄型軽量化しても譲れないところはあるだろうと思ったものだった。 
そういう体験をしていたので、本機についてもサウンド周りはほとんど期待はしていなかった。だが、初めて聞いた本機の音はWindows 8のシステム音だったのだが、意外にいい音をさせるので、YouTubeのビデオやMP3ファイルなどを再生させてみてさらにびっくり。VAIO Z21など足元にも及ばない(というよりはVAIO Z21がひどすぎるだけで本機が大変素晴らしいというわけではない)素晴らしい音が、ステレオでしっかりと本機のスピーカーから響き渡ってきたからである。 
何と驚いたことに、本機は高級ウォークマンなどのAV機器に採用されているフルデジタルアンプ技術である「S-Master」が搭載されており、デジアナ変換を行わず直接DSPからデジタル信号のまま増幅させることで、音質の劣化を抑え込んでいるのだ。しかもスピーカーから発する音もこだわっている。まずは、スピーカー特性最適化によって明瞭な音像定位を実現した「CLEAR PHASE」、そして仮想サラウンド空間を再現する「S-FORCE Front Surround 3D」、ひずみを抑えて音圧を強める「xLOUD」、小さい音量でも臨場感あるサウンドを実現する「Sound Optimizer」などといった内蔵スピーカによるサウンド出力は、このクラスのモバイルPCとしてはあり得ないほど充実していると断言できよう。
(出所)http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2013/07/vaioduo13rervs8.html

そうか…高級ウォークマンに仕込んでいる秘伝の技術をパソコンに詰め込んで製品化したというわけか。ズバリ、音にこれだけこだわるとは、流石にSONYだ。これが今日の結論である。しかし、勿体ない話だ。

上に引用したブログ執筆者は「本機が大変素晴らしいというわけではない」と付け足しているが、それはまあ、薄い筐体のDUO13搭載スピーカーには所詮限界がある。イヤホンなりヘッドフォンを使うほうが正確だ。

ところで話は変わるが、本機に添付されていたデジタイザー・スタイラス・ペンとソフト"Note Anytime"との相性が大変いいのでプレミアム版を買ってしまった。それにも満足していたのだが、Bluetoothマウスを併用していると、ペンに追随しない時がある。最初は動かしたペン先通りの線が描けない原因が分からなかったが、マウスを止めてみると、問題は解消した。Note Anytimeもいいが、SONYが出しているVAIO Paperも侮れないと思う。こちらを好む人も多いだろう。ま、iPadと併用できるNote Anytimeを使うときのほうが多いことは多いが。

それにしても-と又々話は変わるが-Windows 8.1で動かないソフトがえらく多い点には困っている。InkspaceはWindows7までと案内しているので仕方がないが、RStudioもDUO13ではフリーズして使えない。こちらは障害報告はないようだが、SONYの8.1ではダメである。

追録: その後、単純な事実に気がついた。タッチスクリーン端末のOSはWindows RT 8.1である。単なる8.1で動いてもRTでは動かないソフトは多い。Inkspaceも8.1で動作するがRTでは"Not Applicable"になっている。バカだなオレ、こんなところであった— 2014-1-7.

2013年12月22日日曜日

日曜日の話し ー 近現代日本の20年周期説

明治維新後の近現代日本には大体20年前後の循環成分が混じっているのではないかと大分以前から思っている。

先日も別宮暖朗氏の『帝国陸軍の栄光と転落』(文春新書)で日中戦争の解釈ーむしろドイツ軍事顧問ファルケンハウゼンの構想を採用した蒋介石側のイニシアチブで開始された戦争であり、目的は日本軍を上海外周部のゼークト線に誘導し、攻撃を余儀なくさせ、そこで無視できないほどの犠牲を日本に与え、それによって当時日本の支配下にあった満州を奪還することにあったーを読んでいるときに、戦前期日本の政治経済の発展の循環変動を改めて思い出したのだ。

戦前期の日本経済のピークは昭和9〜11年(1934〜36年)であることはよく引き合いに出される。日中戦争開始が1937年だからその前年でもある。その頃、軍部と一部の革新官僚が結託して、統制経済システムの導入によって資本主義経済を改革しようと志していたことは周知であるし、つまりは社会主義に傾倒している清心な若手世代に見えた彼らが、一方では自由主義は黴臭い時代遅れの思想と馬鹿にしつつ、結果としては帝国日本を崩壊に導いたわけで、日本全体が迷走しはじめる分岐点。それが1934〜36年という時期で、その意味では歴史上極めて重要なのだ。

その一時代昔を20年前に置けば1914〜16年で、第一次大戦が欧州で始まり、世は「大正デモクラシー」、権威主義的であった明治から民衆が政治に参加し始めた頃になる。更に、その20年前の1894〜96年には、明治日本が制度的に曲がりなりにも完成の域に達し、自信を深めた日本は対中国外交問題を解決する手段として戦争をとっている。日清戦争である。その20年前は1874〜76年。明治維新直後、西南戦争直前。明治6年の政変で西郷隆盛が政府を辞め、大久保利通による富国強兵が推進された時期にあたる。

ついでにもう一度20年遡ると1854年。黒船来航の翌年となる。
このように歴史の節目は大体20年周期でやってくるように思われる。

逆方向に20年ずつ区切って行くと、1934〜36年の次は54〜56年。既に戦争は敗戦となり戦後の復興を経て「もはや戦後ではない」、そう書いたのが56年の経済白書である。それから20年経つと1974〜76年、高度成長は73年の第一次石油危機とともに終わった。次は、1994〜96年。戦後日本経済を支えてきた護送船団方式が崩壊し始める時期であり、北海道拓殖銀行が経営破綻したのは1997年。翌98年には日本長期信用銀行が実質倒産、国有化された。それから更に20年で2014年、つまり来年になる。失われた20年の終焉。デフレ時代の終息。うまくそうなれば、やはり20年というサイクルに沿っていたことになろう。

日本の近現代をつらぬく循環波動に20年サイクルがあるとすれば、今年、来年、再来年は重要な節目の年にあたる。そう言える気もするのだな。


藤島武二、佃島雪
出所:浮世絵検索

上の作品だが絵師・藤島武二とある。藤島武二というと大正を中心に活躍した著名な洋画家を連想するが、まさか藤島武二が版画もつくっていたのかと吃驚したが、藤島の日本画はほとんどないそうで、上の作品の絵師は同姓同名であるのだろうと思う。しかし、”版画 藤島武二”ではGoogleで検索できず、本当は誰が上の作品を制作したのか不明である。浅野竹二という版画家はいる。が、上の作品の落款もぼやけていてよく分からない。画風も少し違うようである。1940年頃から版画を制作し始めたということだが平成の世まで長生きしている。初期の頃には名所絵図を制作していたようである。共産党機関紙「赤旗」の印刷に協力して拘置所に入ったかと思うと、そこで検事と生涯の親友になっているようだ。浅野竹二という人は知らなかったが、相当面白い人物であったと見える。

ともかく、上の佃島を誰が描いたのかよく分からない。どちらにしても絵のような佃島風景があったのは随分昔のことである。





2013年12月21日土曜日

世界景気同時拡大の兆候

すでに報道でも何度かとりあげられているが、来年の世界経済は先進国、新興国ともに同時拡大の軌跡をたどりそうな気配である。

OECDでは次のように見通しを出している。
09/12/2013 - Composite leading indicators (CLIs), designed to anticipate turning points in economic activity relative to trend, show signs of an improving economic outlook in most major economies.
The CLIs point to economic growth above trend in Japan,and to growth firming in the United Kingdom. The CLI for Canada indicates a positive change in momentum. In the United States, the CLI points to growth around trend.
In the Euro Area as a whole, in France and in Italy, the CLIs continue to indicate a positive change in momentum. In Germany, the CLI points to growth firming.
In the emerging economies, the CLIs point to growth around trend in Brazil and to a tentative positive change in momentumin China,Russia and India.
Growth around trend in the OECD area

米国FRBの量的緩和政策転換の時期が不透明で、非伝統的政策をとる場合の出口戦略の難しさが確かにありはする。しかし、量的緩和縮小は金利や株価にはマイナス、と同時に実体経済がそれほど良いことの確証とも受けとられうる。市場の反応は、プラス、マイナスが相殺されて中立的なものになると予想する。

だとすれば、来年の世界経済は2012年冬以降の拡大基調を鮮明にするものになりそうだ。それは来春の消費税率引上げ前後で日本経済がくぐるであろう不規則な凸凹を乗り越える追い風になろう。もしそれほどのダメージもなく消費増税を実施できれば、今度の第二次安倍内閣は「ついている」。経済政策という面に限れば「運も実力のうち」と言えそうだ。前回(1997年)の消費増税は、その年の夏に起きたアジア経済危機、秋の北海道・拓銀破綻から進行した金融パニックとシンクロしてしまい、日本経済を奈落の底に突き落とした主犯にされてしまった―消費増税をしておらずとも97年から98年の日本経済は同じ軌跡をたどったであろうと容易に思考実験できるのだが、一度焼き付けられた失敗のイメージは古傷となってうずくものだ。当時の橋本首相と今の安倍首相がおかれている巡り合わせは正に対照的である。やはり「天運」というものはあるのか…。

2013年12月18日水曜日

人生を生きる自己流警句-天才・秀才・凡才・愚才

ずっと好きな言葉がある。
天才は成すべきことを為し
秀才は成しうることを為す
この言葉の出典は、たしかアイザック・アシモフ『銀河帝国興亡史』及びロボット・シリーズへのオマージュとしてグレゴリー・ベンフォードが著した『ファウンデーションの危機』(新・銀河帝国興亡史1)ではなかったか…そう思って、本を取り出しパラパラとめくると、単行本の8ページにあった。

オリヴォーはゆっくりと首を振った。「そんなはずはない。彼はきわめて特殊な人間だよ―努力を惜しまないんだ。かつて本人から聞かされた言葉に”天才は成すべきことを為し、秀才は成しうることを為す”というのがあったが―彼は自分のことを一介の秀才にすぎないと決めつけている」。
ずっと読んでいくと、「忘れないでくれドース。これまでにも言ってきたことだが、現在は”荊(いばら)の時代”だ。史上最大の危機なんだ」。プロローグはこんな風に進んでいく。

今では上下2巻の文庫本になっているようだ。



上の言葉を最近になって自己流で拡張して愛用しているのだ。天才と秀才だけでは使い道が限られるものだから。
凡才は成しうることを為そうとするも、為す方法を迷い 
愚才は成しうることを為すを怠り、成す能わざることを為さんと欲する
どうやら安倍晋三という政治家は成しうることを為してきた。しかし、成すべきことを為そうとしているのだろうか。ご本人は成すべきだと確信しているようだが、それは成す能わざることであるかもしれない。

どうも遠くから見受けられるところ、秀才総理として無難におさまる意思はないようであり、天才か愚才かのギャンブル路線をひた走るおつもりらしい。

この伝でいくと民主党の鳩山政権、菅政権は、愚才内閣であったのではなかろうか。もちろん評価は後世の歴史家にゆだねることである。

小生は……というと、成しうることを為してきたつもりであったが、遠く過ぎ去ってみると「あれは、ああすればよかった」とか、「あの時は、あんな風に決めるべきではなかった」とか、そんな事ばかりだ。ということは、小生もまた「成しうることを為そうとするも、為す方法を迷う」、まあ一介の凡才であったわけだ、な。


2013年12月16日月曜日

覚え書 ― 日中関係のヘーゲル的弁証法は?

日本がテーゼであり、中国がアンチ・テーゼかもしれないし、中国がテーゼで日本がアンチ・テーゼかもしれない。いずれでもよいが、この矛盾を止揚するジン・テーゼが必要だ。中国の建国理念にもなっているマルクス哲学でもこんな弁証法的議論をするはずだ。

昔なら社会主義こそ資本主義の矛盾を止揚する「次なる社会」と言われたものだが、冷戦の終焉以降、そんな戯言を言う人はいなくなった。実際、中国経済のコア部分はもはや資本主義であり、中国という国全体が国家独占資本主義だと言っていいかもしれない。日中いずれが歴史の「前衛」かという議論は意味がない。

いずれかが正しいと考える真偽のロジックではなく、両方を超越するロジックがいる。

同じことが、アメリカ、豪州などアングロサクソン陣営の「独立と自由」、「序列を秩序」とする中華理念についてもいえる。どちらかが正当と考えるのでは今後はダメかもしれない……ダメだろうなあ。歴史を通して、ずっと西と東が異文化社会のまま並立してきて、150年ほどの間、西に文化的重心が移動したが、結局、元の状態に戻りはじめている。当たり前の長期均衡状態に復元しつつあるだけのことかもしれないのだ。


とはいえ、今月の月刊誌"Voice"の特集は『中国の余命』だ。革命前夜という認識であるが、それは同感だ。小生はひそかに次なる中国で本格的発展を遂げて行くと思っている。

それにしても本日の道新には陸上自衛隊の諜報機関「別班」の存在が報道されている。戦前の陸軍中野学校を継承する組織である。加えて、その存在は首相も防衛省も知らず、部内限りの組織として最近はロシア、韓国、ポーランドで活動していると書かれているーこれもおそらく偽情報だろうが。記事は全体として「文民統制」を無視する活動と非難している。

確かに上意下達という命令系統から判断すれば「逸脱行為」になろうが、諜報活動それ自体は「お互い様」なのだ。というより、互いにライバルの状況や意図を探ろうとする諜報合戦は、それ自体ライバルに関する知識を増やすことになるので、紛争の深刻化を予防する政治ツールとなる。『怖いのは無知である。それは相手に攻撃を選ばせるからである』というのが基本ロジックである。

日中、そして米中関係の将来には不確実性がともなうが、このゲームは生き残りとは違うし、タカハト・ゲームでもない。かといって互いに同調の利益を認めるデート・ゲームでもない。互いに相手を好きにはなれないが、それでもハト・ハトで並立するしかない、タカ・ハトのハトより、ハト・ハトのハトがまだマシである。敢えてタカになろうとギャンブルをしかけるより、並立状況を続ける方を選ぶ。そんな世界状況が続くのではないだろうか。そうしている内に、今月号の"Voice"の見方が的中するのではないか。こんな風に思っている。


2013年12月15日日曜日

日曜日の話し-親鸞の過激さ「悪人正機説」をどう感じる

親鸞は浄土真宗の宗祖であるとともに、真宗が一向宗と通称されていた時代においては、戦国大名たちにとっては言いようのない恐怖の大王のような名でもあったろう。と当時に、現代においては必読書の中に必ずあがる『歎異抄』の主人公でもあるので、日本に生まれたあらゆる仏僧の中で親鸞は弘法大師・空海と並ぶ知名度をもっている。

その親鸞の宗教思想は「悪人正機説」として知られている。高校時代の倫理、または日本史の授業で
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
という歎異抄の一節をきいた人は多いのじゃないかと思う。善人ですら極楽浄土に往生できるというのに、悪人が往生できないということがあるものか。現代語ではこういう意味になるが、いやあ逆説的であります。なぜこう考えるのか、反対ではないか、そう思いました。バカじゃないか、ミスプリじゃないかと。



しかし、味わい深いのだな、これが。今日、何気にドラマ「白夜行」のアウトラインをみていると、毎回、武田鉄矢扮する笹垣潤三が口にしていた歎異抄の一節がまとめられていた。下に引用しておく。


笹垣潤三(演:武田鉄矢)が作中で呟いた歎異抄の一節は次の通り。 
第1話:「悪をおそるるなかれ。弥陀の本願さまたげるほどの悪なきゆえに。」(第一章)
現代語訳:悪を恐れることはない。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はないのだから。 
第1話:「わがこころのよくて人殺さずにあらず。人害せじとおもうとも、百人千人殺すことあるべし。」(第十三章)
現代語訳:自分の心が善良だから人を殺さないというわけではない。いくら人を殺すまいと思っていても、百人や千人を殺してしまうこともあるだろう。 
第3話:「この親鸞は父母供養のため、一返にても念仏そうらわず。」(第五章)
現代語訳:この親鸞は、父母の供養のために念仏を唱えたことは一度もない。 
第4話:「いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし。」(第二章)
現代語訳:どんな修行もできないこの自分なのだから、地獄こそが既に定まってしまっている自分の住みかなのだ。 
第5話:「念仏申せば八十億劫の罪滅す」(第十四章)
現代語訳:念仏を唱えれば十悪五逆といった重罪でも消滅する(と言うが、それは私たちが信ずべきことではない)。 
第6話:「苦悩の旧里(ふるさと)捨てがたく、安らぎの浄土は恋しからず候。」(第九章)
現代語訳:苦悩の多いこの世界は捨てがたいものであり、また安らぎの極楽浄土も恋しくはなれない。 
第7話:「念仏は浄土に生まれる種あり。地獄におつべき業や、総じて存知せざるなり。」(第二章)
現代語訳:念仏は浄土に生まれるためのものか、地獄に落ちるに違いない業か、全て私にも分からないことである。 
第9話:「弥陀の本願、悪人成仏のためなれば」(第三章)
現代語訳:阿弥陀仏の本願の真意は、悪人を成仏させるためのものである。
 このところ中韓関係は最悪であるが、第1話・第13章の言葉を日本人の本音、日本人の戦争観として先方に伝えるとしたら、儒教思想がまだ色濃く残る韓国人、中国人はどんな反応をするだろうか…、ちょっと怖いほどである。
わがこころのよくて人殺さずにあらず。人害せじとおもうとも、百人千人殺すことあるべし。
善人だから殺人をしない、悪人だから人を殺すというのは間違いだ。人を害したくはない、そう思っていても人を殺してしまう。100人、1000人の人を殺してしまうこともありうる。だから怖いのであり、そんな人が憐れであり、それ故に業を背負った悪人こそまず救済されるはずなのだ ― 親鸞の言いたいことを現代語にすればこういうことであったろう。

日本人である小生は、たとえば関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件、南京事件など、関係者が歩んだ人生は他力本願思想でのみ救われるものであると発想するが、儒教思想においては罪は罪であり、その罪は永遠に消えることはない。

これがいわゆる「歴史問題」の本質であり、「正しい歴史認識」という言葉で先方が伝えたい意図であるなら、そもそも日本人の多くが心に抱いている宗教思想、倫理観とは根本的に対立していて、相互理解は至難である。そう言える気もするのだ、な。アジア文化圏にはあるが、島国日本と大陸とは越えられない溝がある。そう言ってもいいかもしれない。

2013年12月12日木曜日

愚かな選択-公務員宿舎の賃料引き上げ

住宅の賃貸料が引き上げられるのは、需要が供給を超過している場合、もしくはインフレーションが進行している場合である。

国家公務員宿舎の賃料引き上げが行われる。日経報道から一部抜粋したのが以下である。
政府は16年度までに公務員宿舎を16万3千戸と現在に比べ25%削減する計画だ。現在の賃料水準のままだと、18年度の賃料収入は年300億円程度にとどまる。支出にあたる維持・管理費の460億円をすべて賃料でまかなうには大幅な値上げが必要だった。

 民主党政権は公務員宿舎の賃料が民間の賃貸住宅に比べ大幅に安い点を問題視し、昨年11月に賃料を「おおむね2倍」に上げる方針を打ち出した。安倍晋三政権も値上げの方針を受け継ぎ、財務省が最終的な上げ幅を検討していた。

 多くの宿舎が値上げの対象となる一方、財務省は主に自衛隊員が入居する宿舎は無料化を進める。財務省が無料と指定する場合、宿舎と勤務地の距離が100メートル未満にあることが条件だったが、来年度から2キロメートルに条件を緩める。値上げを受け隊員が基地や駐屯地から遠い民間住宅に引っ越すと、自然災害など有事への対応がおろそかになりかねないとの懸念に対応する。(出所)日本経済新聞、2013年12月12日
今回の賃料引き上げは、民間に比べて<安すぎる>というのが理由である。希望状況を踏まえたものでもないし、物価はデフレである。上げる状況ではないだろうと思う。

小生は、国が経営する機関の末端で仕事をしているが、この町に移ってきた当初は短期間だが宿舎(官舎と通称している)に居た。それまではずっと官舎暮らしだった。その官舎暮らしを北海道に来て短期間でやめたのは、余りに古く、劣悪で住み心地が悪かったからだ。確かに町のマンションのほうが賃料は高額だが、品質がいいのだからそれは当たり前である。建物の賃料は、場所だけではなく、品質も見て妥当かどうかを判断するべきだ。ただ「安い!」、「不公平だ!」と言い募るのは、あまりに単細胞的言動であろう。

大体、維持修繕など毎年のメンテナンスをさぼってきたから、要修繕住宅が増えて、これ以上は待てないということになるのだ。そもそも官舎など、ほとんどは減価償却済みで、賃料が入れば収益になるだろうと思えるほどだ。その土地を官舎にしておくか、民間に売却するのが得か。機会費用だけが問題である。もし民間転用との機会費用を考えて合理的な土地利用をするなら、官舎の立地場所の多くは1等地点であるのでー 小生は新人時代に横浜山手町の寮で暮らした ー現在の官舎の多くは2倍どころか、賃料を数倍ひきあげてしかるべきだろう。

だとすれば、内装も綺麗にして国営の賃貸住宅にすれば財政収入にもなろう。よいではないか。そこに入る多くの人は、しかし、場所柄「外資系企業の取締役クラス」、大体は外国人だろうなあ。国有地を使って、そんなビジネスをするか・・・。確かに<官舎は安い>という不平はなくなるだろうが、どこか可笑しくはござんせんか。

市中相場よりも安い賃料で住宅を提供するのは、給与の現物給付にあたる。支給した現物給付の金額ばかりを問題視するのではなく、官庁から近距離の場所に住宅を与えることのプラスの価値はあるのかを問うべきだ。大事な点は、これだけである。国家にとっての利益がコストを上回るなら、問題は何もない理屈だ。いまはないが「下駄ばきマンション」よろしく庁舎ビルの上半分を「幹部用宿舎」にしてもよいのではないか。正に職住近接。緊急召集にも即応できるので危機管理にもなる。その時、多くの国民は「あんないい所に住んで不平等だ」というだろうか。

安い住宅に入ることを羨むばかりではなく、もっといいやり方はないか、と。福沢諭吉もいうように、怨望(=羨望・妬み)は社会にとってプラスの価値は何ももたらさない。ただただ、完全にマイナスの動機。それが羨望である。そんな心理的な動機が今回の引き上げには混じっていなかったか・・・。

★ ★ ★

それにしても、最近はやけに自衛隊優遇が目立つ。僻んでいるわけではないが、そのうち防衛大学付属高等学校、その下には「防大付属小、中学校」まで創立されるのではないか。そしていつの間にか全国の県庁所在地には「防大付属」が設置されるなどということになるのではないか。おそらく防大付属高は全額国費、無料であり、逆に給与が支給され、付属小、中学校も一般公立校より安くなるのではないか。最後に、教育機関である防大・大学院とは別に「国家安全保障研究センター」なるものが共同研究機関として設立されれば、その時は戦後日本の在り方は決定的に変わることになる。そんな風にも想像される今日この頃である、な。


2013年12月9日月曜日

ねじれ国会 vs 強行採決

午後6時から安倍総理が記者会見を行い、臨時国会中の成果、特に特定秘密保護法についてその必要性や意義などを訴えている。

これを最初からやっておけば良かったのだろうが、会期中、結構外国訪問が多かったのでゆとりがなかったのだろうねえ…で、数の力を使っちまった。

どうやら強行採決で内閣支持率は下がったようである。興味深いのは、国民の大多数が「与党優位の国会運営はよくない」と思っているらしいということが、色々なアンケート調査から浮かび上がってきている点である。ねじれ国会ではダメだと感じて、参議院では与党に投票したわけだ。それがまあ、半年もたたない内に「やっぱり、ねじれ国会の方がいいなあ…」と。すぐ変わるんだねえ……

〽たのみがたきは女ごころと、秋のそらあ〜

まったく女性には失礼な表現ではありませぬか。歌うなら下の方でありんしょう。

〽たのみがたきは人の心と世のこころ〜

もし「ねじれ国会」であれば、特定秘密法案などとても通過しなかっただろう。与野党がそろって賛成する法案だけが通るのが「ねじれ国会」である。それではいけないという世論が半年以前にはどれほど多く耳に入っていただろう。ところがやってみて「ねじれ国会」では絶対に起こりえない結末をみると、「これでもいかん」。またまた腰をひいてしまうのだねえ。ああ、山口百恵の歌声が耳によみがえる。

〽ハッキリかたをつけてよお〜

大体、秘密保護法案は民主党が提出を検討していたものである。下のような報道もある。
民主党政権が提出を検討していたのは「秘密保全法案」。対象は(1)防衛(2)外交(3)公共の安全及び秩序の維持−−の3分野だった。審議中の今回の法案は(1)と(2)は同じだが、(3)は無くなり、「テロリズムの防止」と「特定有害活動の防止」に変わった。法案を所管する内閣官房はこの変更について「より具体的にした」と説明し、秘密の指定範囲には変更がないと説明してきた。
 ところが、赤嶺政賢衆院議員(共産)が入手した民主党政権時代の政府資料で、説明は事実と異なることが判明した。資料には(3)について「主として我が国におけるテロリズム防止等に関するものに限定」すると記載。特定有害活動が含まれていなかった。
 「特定有害活動の防止」が加わったことで、日本の機密を探ろうとする外国のスパイや日本の協力者の情報のほか、海外からの不正アクセスを防ぐために日本が講じている措置なども対象に含められた。「スパイ」や「協力者」の定義はあいまいで範囲は不明確。さらに、さまざまな情報収集活動を含むため、警察当局などの活動の多くが「特定秘密」となり、知らないうちに市民の情報が集められ、その行為をチェックすることはより難しくなる。昨年、民主党で法案検討のプロジェクトチーム座長を務めた大野元裕参院議員は「スパイ防止は入っておらず、スパイを取り締まる『防ちょう法』を作るつもりはなかった」と証言した。
 一方、自民党で法案を取りまとめる際にプロジェクトチームの座長を務めた町村信孝元外相は9月「安全保障が問題になっている時に、日本は相変わらず『スパイ天国』と言われると(米国などから)必要な情報を受けるのが難しくなる」と、スパイ防止の必要性を強調した。【青島顕】
(出所)毎日新聞、2013年11月10日

民主党案と自民党案の間には力点のシフトがみられ、現在の与党はスパイ活動防止を明確に重視する特徴がある。とはいえ、秘密保護法制がなぜ国際的に必要になってきているのかというその背景をみると寧ろ与党の発想の方が現実と即応している。そうも言えるのではないか。

2013年12月8日日曜日

日曜日の話しー 特定秘密保護反対と原発反対デモから分かること

特定秘密保護法案に反対するデモは、一つ一つが万人規模となり、しかも全国で同時多発した。参加している人物には若い人もいるが、TV取材で画面に現れる人はおそらく年齢60歳代であろうか。その昔、沖縄反戦デー、さらに遡って60年安保反対デモに参加した「歴戦の勇士」も混じっているかもしれないなあ…と、そんな感想をもちつつ観ている。

団塊の世代。かつて日本経済を支え、二度の石油危機を見事に乗り越えるも、不良融資に暴走し、遂にはバブルを演出したが、その後の20年という時間の中で、消え行きつつある老兵たちの悲哀を感じさせてもいた。昭和も遠くなりにけり。そんな忘れがたい世代であるのだが、ここにきて格好な老後の生き甲斐を見つけたか。正直、そんな風に感じています。

ただ特定秘密保護法案で戦前期の暗黒のような日本に逆戻りするのか。小生、どうしてもアナクロニズム、というか風車に突撃した老騎士・ドンキホーテを見る思いがするのだなあ。敵はそこにはいませんぜ、旦那ガタ…。


Don Quixote and Sancho Panza by Honoré-Victorin Daumier, c. 1866-68

『おのれ、許せぬ』と前進突撃するのはよいが、声なき民を哀れなサンチョパンサにしてはなりませぬ。彼らは決して愚かではございませぬ。上のドーミエのように、ついて行ってはいるが、ちゃんと生き様は見ているのでござんすよ。

それより気の付いた事。反原発デモと比べて、今度の特定秘密保護反対デモの何と盛んなことであろうか。その広がり、激しさ双方において、反原発意識をはるかに上回る動員力を反国家機密は持つのである。実のところ、同じ民主主義国家として価値観を共有するはずのアメリカ、イギリスなどから日本が機密情報を提供してもらう場合、「これは機密にせられたし」と要求があったとき、「厳重に秘密にしましょう」と。そんな受け皿になる制度を設けるだけの話しである。相手が秘密にしておきたい情報が日本に渡ったら「知る権利」が最優先されるのだとしたら、相手は教えてくれないでしょう。そりゃあ、日本の損だ。

それに対して、エネルギーとして原発をどうみるかは切実な問題である。福島第一原発の事故で16万人の人が避難し、2年半たったいま現在も9万人余の人が自宅に戻れないでいるのである。この現状をみれば、理屈はぬきにして「反原発・脱原発」を意識せざるを得ないのが人情ではないかと。小生はそう思うのだ、な。ところが、日本全国の人は反国家機密には燃え上がっても、反原発の方はそこそこ。これが現実であることが再確認できた思いがする。(参照:福島民報、2013年12月8日

まあ、背に腹は代えられんもんね。原発を全面放棄するのは、ちょっと無理かもしれんよねえ…。僕たち、私たちの暮らしってものもあるもんね。電気料金、これ以上あがると困るもんね。いろいろ事情があるわけでござんしょう。なんだかんだ言っても、この辺りに国民の最大公約数的な意識が浮かび上がってきた。そんな気持ちでいるのである。



2013年12月6日金曜日

国家機密とマスメディアの関係

北海道新聞は一面打ち抜きで

秘密保護法きょう成立

と掲げ、2面、3面とすべて与党の「特定秘密保護法案」で埋め尽くされているような案配だ。

世論猛反発、焦る首相
第三者機関 急ごしらえ

こんな刺激的なヘッドラインが目を射る。

あたかも中国・人民解放軍が尖閣諸島を急襲して、あの無人の岩礁を占拠し、五星紅旗を掲げ、付近には相当数の軍艦が集中されている。そんな風な大仰ぶりである。日中の限定戦争が真剣に懸念されるいま、仮に起こってもそれほどの衝撃的事件ではあるまいが、もし現実に起こるとしても新聞の扱いは今日の「特定秘密保護法案」とそれほど違わないのではないか。そう思ったりもするのだねえ。

ちょっと読んでみる。なになに・・・第三者機関による監察か。「身内」である官僚にするのか、民間人を登用するのかなどの課題は先送り。フ〜ム、ひょっとして、ジャーナリストとしては特定秘密候補にアクセスしておきたいわけなのか・・・ならば、ジャーナリストが自己の努力を尽くして情報源を探し、協力を自己の責任で引き出すという現在の取材方法よりは、よほど仕事が楽になるに違いない。こりゃあマスメディアとしては「監察機関」を設けろというだろう。しかし、これはマスコミ各社の利己主義ですな。正義とも、社会愛とも関係ない。

守秘義務の下に監察機関に参加した人がいるとして、その情報は国民に知らせるべきだと確信すれば、ルールを破って機密を漏えいするであろう。そして、漏えいは国民のために行ったことであるとマスメディアは全社をあげてアピールするであろう。そうした思想自体が全体として、公益を名分とした「スクープ」であり、企業であるマスメディアの販売拡大戦術であると小生は思うのだが、仮に純粋に社会正義のために漏えいを行うとしても、識別は不可能だ。そして「社会正義」といえ、それは当人の思い込みである場合も非常に多いのだ。

× × ×

究極のところ、政府を信じるか、民間の良識を信じるかに帰着する問題なのだ。

小生は、政府という組織は全体として非合理であり、知性などはないと考えている。だから政府は多数の私人によってモニターされねばならないし、私人の自由を制限する権限を政府に与えるべきではない。

しかし、国家機密の指定をモニターするとして、仮にその監察機関に民間の関係者が参加するとしても、参加するのは民間において強い影響力をもつ組織の代表者ないし当該分野の有識者であるのはほぼ確実であろう。そして、民間の代表者と政府の公務員と、いずれが広く国民に有害な影響を与えうるかといえば、小生は特別な地位を政府内に占める民間の関係者の方だと考えている。

なぜなら、そうした国家機密の監察業務に携わる人間は、もともとそうした分野に関心をもち携わってきた人であろうし、だとすれば真剣に取り組めば取り組むほど、自分の仕事にとってもプラスになるだろう。自分の仕事にとってプラスになる素材は、記憶し、覚書を整理し、何らかの形で自分自身の仕事の中で活用していきたいと考える誘因をもつ。最初は純粋の「監察業務」に参加することであったものが、次第に自分自身の仕事の成功につながる好機として国家機密にアクセスする私人が出現するのは、利益相反を形成し、国家にとっては不幸なことであるに違いない。このような状況に置かれる私人は、公務員とは相反して、機密には該当しないという情報ですら、仕事において競合する他者に対する優位性を築きたいがため、あえて機密にするべしと主張する動機をもつだろう。

たとえば裁判員制度を参考に、専門性などは考慮せず、国民全体を母集団として無作為に選ぶ人たちが国家機密の指定の妥当性を判断するのであれば、上記のような害はない。しかし、仮に特定秘密が妥当だと判断したときに、その判断に参加した私人に公務員に準じる守秘義務を課すことになるのだが、国家レベルの機密情報を漏えいせずに保持していけと命じるのは、無理ではないかと考えるのだ。

だから小生は、「特定秘密」なる機密を定義する以上は、その情報にアクセス可能な人間は「特定の少数者」であり、その少数者は国民全てに責任をもつ「公務員」でなければならない。これが当然のロジックだと思う。

× × ×

もちろんプロセスは文字に記録され、保存されなければならない。法案ではこの辺が曖昧なようだが、これこそ要点ではないか。保存された資料を整理し、そこから歴史的存在としての「時勢」を紡ぎだす仕事は訓練された歴史家のみが行いうる仕事だ。その結論が固まるには何十年かが必要だろうし、100年かかるかもしれないのだ。

そんな時間の中で解決して行くべき国家の意思決定は、現時点のマスメディア各社の「販売競争」とは切り離さなければならないし、ましてや個々の記者の「出世競争」とも金輪際無縁のことである。次元が違うというべきだ。

それにしてもマスメディアは、ときに「公務員」といい、ときに「官僚」という。言葉を戦略的に使い分けているようだ。どちらか、あるいは両方が常に偏りをもって使われている可能性が高い。

2013年12月5日木曜日

特定秘密保護法案について

衆議院で可決後、参議院に送付された「特定秘密保護法案」は、近日内に国家安全保障特別委員会で採決、そのあと本会議に上程される見込みになった。民主党以下、野党は与党(自民・公明)の強引な運営に反発しているので、このままでは野党欠席のまま強行採決になろう。安倍内閣は、第一次もそうだったが、強引な傾向がある。

国家機密について世界の現実を整理すると、結局はアメリカのように "Top Secret"、 "Secret"、"Confidential"のように区分し、機密レベルが上がるほどに厳重に保護するという体制、あるいは中国のように原則全ては秘密にする。この二つの間のいずれかの中間点を選ぶ事に帰着する。

小生は、何から何まで – 非公式なその場限りの、それでも重要な雑談、お喋りなども含めて – 全てを国民、取材記者に対してオープンにすることは不可能である以上、国家の運営に関する事は可能な限り文章で記録し、文章を保存し、100年程度の時間をかけて専門家である歴史家が資料を編纂して行く体制が「好き」である。その時々に国民が断片的な情報を入手したところで社会の意思決定が混乱するだけであり、マイナスの方が大きいと思う。ただこれではいくらへそ曲がりの小生であっても独裁政府のようであるように感じる。

要点は、機密情報保護体制の国際標準化だと言えよう。まずは情報の取引相手となるアメリカ、イギリスの秘密保護体制、更には歴史のある大陸欧州諸国の国家機密の取り扱いをなぜマスメディアは紹介しないのだろう。日本の今回の秘密保護法案を、それだけをピックアップして戦前の日本に逆戻りだと絶叫するだけでは、まるで明治維新後の自由民権運動を連想させるだけであって、まったく説得力をもたない。

政治に関する事はすべて<選択>である以上、単なる主張ではなく、現実に与えられている選択肢の一長一短を議論するプロセスがあってしかるべきだ。

マスメディアが、自社の利益を重視して望ましい方向を主張するのであれば、それは独占的な地位を利用して社会を望む方向に持っていこうとする行動と同じであり、それ自体が政治である。その手段に自社の新聞、TVなどを使えば、金権政治と本質的に変わりはない。

2013年12月4日水曜日

昨日投稿の補足ー領有権を争うなら協調解はありえない

中国が防空識別圏という戦略ツールを本当に使っていく意図があるのかどうか、まだ分からない面が多いという。あるいは中国政府内でも意見のばらつきが窺われるなど、色々と世情は喧しい。

ただ以下のWSJの報道でも言っているように、中国が仕掛けているのが領土紛争であるなら、これは原理的にゼロサムゲームであって、「協調による利益」というのはそもそもあり得ない。領有権は一方がとれば他方が失うからである。

この見解は、緊張緩和と不要な対立の回避を図る取り組みが、どれほど急速に米国の東アジア外交の焦点になったかを浮き彫りにしている。就任後9カ月が経った習主席が権力を固める中、中国政府は隣国に対して領土的な要求を強めるなど、ますます大胆な戦略に出ている。バイデン副大統領のアジア歴訪は、米国の政策と資源をアジア向けに再調整し、貿易関係の促進を目指すオバマ政権の意欲を強調する目的で前々から計画されていたが、この当初の目的は中国への対応にかき消された。(出所)ウォール・ストリート・ジャーナル、12月4日
領有権を主張する外交方針と平和的な台頭を目指すという中国の発言は、そもそも論理的に矛盾しているのである。

協調と平和を目指すのであれば、協調の利益が存在する外交ゲームの枠組みを構築しておかねばならない。そのイニシアチブを日本がとれるかどうかであるが、まあ戦略的思考には苦手意識をもつ日本のことだ。おそらくアメリカがアメリカにとって有益な状況に導くべく、今後、コミットメントを積み重ねていくことだろう。

2013年12月3日火曜日

東アジアで限定戦争は起こるのか

標題の質問に対する小生の答えは「起こりうる」である。望ましくはないが、まったく無意味な不祥事であるともいえない。論理的にはそう言える。

中国が設けた<防空識別圏>に尖閣諸島が含まれているというので — 含めずに設ければ中国には決定的なマイナスである以上中国の行動はなにもおかしくはないが — <緊迫感>が増してきている。

日本と中国の2国をとって単純なゲームを考えてみても、そもそも日中両国には協調の利益があるのでゼロサムゲームではない。つまり中国の利益は日本の損失、日本の利益は中国の損失となるわけではない。

にもかかわらず、協調困難な状況に陥っている理由としてはいくつかの可能性がある。一つは協調が不安定であるという見方だ。タカハトゲームとみる立場はその一例である。両国が穏健なハト路線をとる状態は実は不安定であり、どちらの側も自国がタカとなりリーダーになる誘因を持っている。それ故、主導権争い、示威行動、政治的意志を貫徹するための武力の行使、つまり限定戦争へのイニシアチブなどなどが予見されてくる。タカハトゲームの下では、両者がタカとなって戦う戦争状態は双方が希望していない。いずれかの優位が確立された時点で均衡が訪れる。

2番目の見方は、同じく協調が不安定であるとみるが、現状を「囚人のジレンマ」と解釈する立場だ。双方がハト路線をとって協調するよりも相手を屈服させるほうが利益になる。そのことを相互が知っているが故に先手を取って相手を攻撃する。そんな誘因が双方にある。それで戦争状態になるが、戦争状態を避けたいがために回避する事はむしろ自国の不利益となると認識されるので自然発生的に平和が訪れる事はない。そういうロジックである。ただ、囚人のジレンマという状況はワンショットゲームで発生しうるが、将来にわたって何度も意思決定を行う一連の行動計画を一つのゲームと考えれば、協調+報復戦略が一つの最適戦略となるので協調の持続が可能になるはずである。年末商戦ならいざしらず、隣り合う2国の外交ゲームを囚人のジレンマとみるのは難しい。

3番目の見方は、相手のとる行動に応じて、協調には協調、攻撃には攻撃をとる誘因が双方にあるという場合だ。これは戦略関係が補完的であるケースであり、ゲーム論では「男女のデートゲーム」に相当する。この場合、2国の行動が同調する傾向が生まれてくるが、安定的なナッシュ均衡がある。ただナッシュ均衡は一つとは限らない。緊迫した現状は、自国の攻撃的な姿勢が相手の攻撃的な姿勢を誘発している結果であると見るわけであって、いずれかが戦略を変更すれば相手も同調的な変更を行う。そう期待されるのがこのケースである。

整理すると、①日中関係に戦略的補完を認める場合、②囚人のジレンマではあるが長期的な行動計画を一つの戦略であると考える場合、これらのケースでは日中協調が安定的な均衡点となる。これをケース1とすれば、ケース1の特性は「目には目を、歯には歯を」が合理的選択であるというところだ。そんな行動方針が結局は安定的協調を形成するというのは逆説的ではあるが、ここがロジックの面白い点だろう。それに対して、タカハトゲームとしてみれば相互の実力を正しく認識するまでは限定戦争が予想されるものの窮極的には「押さば引け、引かば押せ」という戦略的代替性が当てはまっている。これがケース2となる。ケース2においては、相手と己れの実力を正確に知るという点が最も重要であり、自国のとるべき行動は実力の比較から自然に決まってくる。

小生が担当しているビジネス経済学では戦略論が一つのテーマになっているが、足元の価格競争では戦略的補完性が支配し「たたきあい」になりがちであるのに対し、企業の体力を決める生産能力戦略については戦略的代替性が主調となって、相手が本気で押してくる場合、同じ行動をとって正面衝突するのは愚策である。そんな議論をしている。当然そこでは各プレーヤーが様々の<コミットメント>を行い、ナッシュ均衡崩しを図るので、現実の進展ははるかに複雑である。

米中の太平洋覇権ゲームととりあげれば、中国がタカ路線をとるなら、まず米国陣営の西の要石である日本と韓国の弱体化をはかり、併せて米中経済関係の深化をすすめ、アメリカにとっての日韓の戦略的価値を低下させる戦略を選ぶだろう。アメリカは中国市場を必要としているが、中国もアメリカを必要としている。ここで、アメリカが中国を必要とするという意図を中国が戦略的に利用する事は常に可能である。と同時に、アメリカが中国のその意図をアメリカ陣営の利益に結びつくように利用する事も可能なはずである。

まあ考察はいろいろと展開できそうであるが、このような議論をすれば、どのロジックが当てはまる状況なのかによらず、日中(あるいは米中もそうだが)相互の国力を正しく伝え、互いに相手の力量を正しく認識する情報分析がまず重要になるし、さらに協調システムの構築に力を注ぐことが2番目に大事な点となる。信頼性に疑問符がつけられている中国のマクロ経済データ、(中国が国内的必要性からそうしている可能性が強いとはいえ)秘匿的体質と形容される傾向は、日中2国間においてすら安定的な関係を模索するための障害になっていると言うべきだろう。

2013年12月1日日曜日

日曜日の話しー使った言葉の表の意味と裏の意味

言葉に自分がこめる意味が相手に正確に伝わるかどうかは不確実である。

勤務先のビジネススクールで、昨日、卒業作品の中間発表会があった。各自が自分の企業研究や事業計画についてレポートして、二日後にディスカッサントが討論者としてコメントを寄せることにしている。

そのレポーターとディスカッサントの予定表であるが、学会などの常識では
報告者(レポーター):Aさん
ディスカッサント1(討論者1):Bさん
ディスカッサント2(討論者2):Cさん
と記載されていれば、自分の報告の後、討論者であるBさんとCさんが順番に立って自分の報告について意見を述べる。その討論者が一流であればあるほど、ビッグネームであればあるほど、報告する自分は嬉しくもあり、怖くもある。それが学会に限らず、すべての勉強会、報告会の「常識」だとおもうのだ、な。実際、上のような対応関係の下に氏名の並びを解釈するのは、「当事者の関心のありか」とも整合的である。

ところが本日になって学生から、いやそう解釈するのではない。報告者AさんはBさんとCさんからコメントを受け取るのではなく、AさんはBさんとCさんの報告に対してコメントを書かなければならない。自分のするべき「仕事」は、まず自分の報告、それからBさんとCさんの報告に対するコメントである。そう解釈するのが自然である、と。これはいわば「業務計画」というか、ノルマというか、そんな風に予定表を見てとる。確かにそんな解釈も可能なわけである。

な~るほどねえ~。小生、感じ入りました。確かに「自分のやるべきことは何か」をスケジュール表から見つけるという目下の関心に沿えば、「自分の報告にコメントしてくれるのは誰か」ではなく、「自分は誰にコメントをすればいいのか」、そこを知りたいと思うだろうねえ。関心の在り方によって知りたい情報も変わり、知りたい情報は何かによって手元の資料の読み方が違ってくる。

何かを話しても、人は自分の関心に引き寄せて、聞いたことを解釈するものだ。自分が疑問に思っていることのヒントなり、回答が得られると感じてはじめて注意をするものだ。授業も、説明も、初めから順序よく最後まできちんと注意をして聞く。そんなことはしないのだな。だから、勉強は、大体のところ「聞きかじり」である。読書は概ね「拾い読み」である。大学と言っても日常の現実はそんなところではないのだろうか。


Redon、仏陀、1905年


19世紀から20世紀にかけて活動したフランス・象徴派の画家ルドンが描いたものの多くはこの世には存在せず夢想されたものだ。存在はしないが、ルドンの絵を観る人は描かれたものを理解できる。そもそも真の意味で存在していないものは、人間には理解不能であり、描くことすら不可能であるはずなのだ。ルドンの絵を観る人がもつ想念は、そこに描かれたものとは違う。だからルドンの絵は象徴主義なのだな。

上の絵は仏陀が描かれている。だからといって上の作品が仏陀の肖像画であるなどと誰も思わないわけであり、絵の中の人間が仏陀に似ているかとか、仏陀の人生の一場面であるかとか、そんなことはどうでもいいわけである。観る人が、その人の関心や感性に応じて、様々に受け取って解釈してくれればルドンの絵は画家の意図を達成するわけである。そこに美が認識されれば、その作品は名作となる。

大学というところも、これに似ている。

いやさ、大学ばかりではない。

中国が設けた「防空識別圏」と、それに反発する日米両国の対応が毎日報道されている。設けた中国と、それを知らされた日本とアメリカと。その段階で、すでに日本とアメリカではもつ関心が違うだろう。中国の意図は日本にもアメリカにも正確には伝わらない。アメリカも日本も自国との関係で、自国がしようとしている事との関係で、中国の行為と意図を解釈するはずである。日本はやりたいと思っていることが難しくなるようには解釈しないはずだ。アメリカもアメリカがやろうとしていることと整合的であるように中国の行動を見るだろう。中国もそうである。中国の意図と合致するように日本とアメリカの行為を解釈し憶測するだろう。

この世界はそういう意味では誤解と錯覚から形成されるものである。そう思いませんか?