2013年12月1日日曜日

日曜日の話しー使った言葉の表の意味と裏の意味

言葉に自分がこめる意味が相手に正確に伝わるかどうかは不確実である。

勤務先のビジネススクールで、昨日、卒業作品の中間発表会があった。各自が自分の企業研究や事業計画についてレポートして、二日後にディスカッサントが討論者としてコメントを寄せることにしている。

そのレポーターとディスカッサントの予定表であるが、学会などの常識では
報告者(レポーター):Aさん
ディスカッサント1(討論者1):Bさん
ディスカッサント2(討論者2):Cさん
と記載されていれば、自分の報告の後、討論者であるBさんとCさんが順番に立って自分の報告について意見を述べる。その討論者が一流であればあるほど、ビッグネームであればあるほど、報告する自分は嬉しくもあり、怖くもある。それが学会に限らず、すべての勉強会、報告会の「常識」だとおもうのだ、な。実際、上のような対応関係の下に氏名の並びを解釈するのは、「当事者の関心のありか」とも整合的である。

ところが本日になって学生から、いやそう解釈するのではない。報告者AさんはBさんとCさんからコメントを受け取るのではなく、AさんはBさんとCさんの報告に対してコメントを書かなければならない。自分のするべき「仕事」は、まず自分の報告、それからBさんとCさんの報告に対するコメントである。そう解釈するのが自然である、と。これはいわば「業務計画」というか、ノルマというか、そんな風に予定表を見てとる。確かにそんな解釈も可能なわけである。

な~るほどねえ~。小生、感じ入りました。確かに「自分のやるべきことは何か」をスケジュール表から見つけるという目下の関心に沿えば、「自分の報告にコメントしてくれるのは誰か」ではなく、「自分は誰にコメントをすればいいのか」、そこを知りたいと思うだろうねえ。関心の在り方によって知りたい情報も変わり、知りたい情報は何かによって手元の資料の読み方が違ってくる。

何かを話しても、人は自分の関心に引き寄せて、聞いたことを解釈するものだ。自分が疑問に思っていることのヒントなり、回答が得られると感じてはじめて注意をするものだ。授業も、説明も、初めから順序よく最後まできちんと注意をして聞く。そんなことはしないのだな。だから、勉強は、大体のところ「聞きかじり」である。読書は概ね「拾い読み」である。大学と言っても日常の現実はそんなところではないのだろうか。


Redon、仏陀、1905年


19世紀から20世紀にかけて活動したフランス・象徴派の画家ルドンが描いたものの多くはこの世には存在せず夢想されたものだ。存在はしないが、ルドンの絵を観る人は描かれたものを理解できる。そもそも真の意味で存在していないものは、人間には理解不能であり、描くことすら不可能であるはずなのだ。ルドンの絵を観る人がもつ想念は、そこに描かれたものとは違う。だからルドンの絵は象徴主義なのだな。

上の絵は仏陀が描かれている。だからといって上の作品が仏陀の肖像画であるなどと誰も思わないわけであり、絵の中の人間が仏陀に似ているかとか、仏陀の人生の一場面であるかとか、そんなことはどうでもいいわけである。観る人が、その人の関心や感性に応じて、様々に受け取って解釈してくれればルドンの絵は画家の意図を達成するわけである。そこに美が認識されれば、その作品は名作となる。

大学というところも、これに似ている。

いやさ、大学ばかりではない。

中国が設けた「防空識別圏」と、それに反発する日米両国の対応が毎日報道されている。設けた中国と、それを知らされた日本とアメリカと。その段階で、すでに日本とアメリカではもつ関心が違うだろう。中国の意図は日本にもアメリカにも正確には伝わらない。アメリカも日本も自国との関係で、自国がしようとしている事との関係で、中国の行為と意図を解釈するはずである。日本はやりたいと思っていることが難しくなるようには解釈しないはずだ。アメリカもアメリカがやろうとしていることと整合的であるように中国の行動を見るだろう。中国もそうである。中国の意図と合致するように日本とアメリカの行為を解釈し憶測するだろう。

この世界はそういう意味では誤解と錯覚から形成されるものである。そう思いませんか?

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