2013年6月30日日曜日

日曜日の話し(6/30)

ブログ投稿が楽にできるiPadアプリがあるとはねえ。

まあ、あったらいいなあと思う人がいる以上、潜在的な需要があるわけで、このチャンスを生き馬の目を抜くような世界にいるデベロッパー達が見逃がすはずがないわけで、それ故に小生が欲しいと思うアプリはどこかに必ずあって当然だという理屈はある。で、今日の「日曜日の話し」はDraftCraftで編集し投稿という次第になった。文章の編集にはBluetoothキーボードを使うので、Windows8を搭載したUltrabookに限りなく近くなった、こんな風に使うのなら、Windows8のPCを使った方がマシだとは思うのだが。

確かに技術進歩によって仕事のやり方や暮らしのあり方は変わってきた。昔はできなかったことで、今はできることは多い。なるほど使うものは変わったが、しかし、やろうとしていることは実は同じだ。固定電話より携帯電話が便利だし、携帯電話なら低速より高速のほうが効率的だ。しかし遠くの人と通信したいという点に変わりはない。空を飛ぶことは出来なかったが、移動したいという目的に昔と今で違いがあるわけではなかった。所詮、人がやりたいと思うことは、今も昔もずっと同じだ。
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ラスコーやアルタミラの洞窟には太古の壁画がある。


ラスコーの洞窟もアルタミラの洞窟も単なる土の壁だが、描いた人から見れば、自分の描きたい絵を描くための媒体だったわけである。土の壁に描いたのは、板もキャンバスもなかったからである。板があれば板に絵を描くのは、それ自体、絵画における技術進歩である。

板に絵を描けば移動が可能になる。17世紀のオランダで油彩画なるものが普及し、板よりも帆布に描く方が便利に思われたのは、技術進歩の成果である。油彩画の創始者と伝えられるファン・エイクが、原始時代に生きていれば、当然、洞窟の壁に絵を描くしかなかったろう。もちろんキリスト教の祭壇画なる画題はあるはずもないのだが。それはそれで、別の画題で洞窟に絵を描いたことだろう。絵を描くことに違いがあるわけじゃあない。


ゲントの祭壇画、1432年、ファン・エイクほか
(出所)Salvastyle.com

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ずっと変わらないものが物事の本質であるなら人間社会の本質とは、技術進歩と関係のない、太古の昔からずっと同じであったもの、たとえば自己表現への欲望とか、賞賛を得たいという名誉欲とか、ないものを作りたいという欲望とか、そんなあらゆる種類の欲望であるのかもしれない。だとすれば、「欲望とは抑えるべきもの」と見るのではなく、「人間自然の性質」とみなして、欲望は社会にどのように貢献するのか ー 変わらぬ欲望が人間社会の進歩をもたらしてきたというのがロジックになるので ー そのための条件は何か、こういう考察がなければなるまい。ヨーロッパ発の経済学は、ありのままの人間を出発点にするが、しかし日本人はマナー、というより<基本動作>なる言葉を好む。<身の丈>という態度を好む。みんなで決めたルールを破る行為は<勝手気儘>とみなす傾向が目立って多い。人間自然の在り方をそのまま認めるのではなく、しつけと修練によって、使えない人間が使える人間に育つのだと考える傾向が強いように思う。自分の欲望は、日本においては他人には見せないほうが<無難>だ。

もし今もまだ身分社会であるなら、分際をこえて新しいことを始めようとする人は<ルール違反>をしていると受けとられる。真面目な人ほど、改革=ルール違反とホンネでは考える確率が高かろう。明治維新は当時の人にとっては<ルール違反>であったのだろうと思う。『こんなバカなことをした連中がなんでほめられるのか』と、そんな世の中であったからこそ<革命>でもあったのだな。

とはいえ、現代日本で、この20年間、社会制度が驚くほどに変わっていない理由が、「必要なことをする=欲望を肯定することをする=ルール違反」と判定してしまうような、いわば<社会的認知障害>であるのかどうか、それは定かではない。

2013年6月28日金曜日

逃がした魚は大きすぎた - ソフトバンク株

パチンコや競馬はやらないが、投資を一つの趣味にしていて、面白くて仕方がない。中年を過ぎてから覚えたギャンブルの味は忘れがたいと言われるが、金銭欲ではなくてギャンブルだといえばサッパリしているし、せいぜい10万や50万のカネをかけるパチンコとは違って、何百万のカネを投資するとなれば、パチンコや競馬は「砂遊び」の域を出ないのだな……

と言えば恰好はいいが、昨年末に4200円で売却したソフトバンク株は文字通りの想定外。案に相違してアメリカの通信会社スプリント・ネクステル社だけではなく、ス社が買収しようとしていた高速無線通信会社クリアワイア社も手にすることができる見込みになった。
ソフトバンクが米高速無線通信会社クリアワイヤを傘下におさめることが確実になった。26日、同社に対し実施していたTOB(株式公開買い付け)をとりやめると米衛星放送会社のディッシュ・ネットワークが発表。ソフトバンクが買収する米スプリント・ネクステルがクリアワイヤを完全子会社化する。 
ソフトバンクはクリアワイヤが持つ周波数を活用し、高速通信サービス「LTE」ネットワークの整備、拡充を急ぐ。クリアワイヤは7月8日の臨時株主総会で、スプリントの提案を了承する見通しだ。
(出所)日本経済新聞、6月28日
競合していた米国・衛星放送企業ディッシュ社をおさえて完全勝利したわけだ。まさかこんなに上首尾になるとは……。

ソ社の株価は勝利をおさめるまでは、多事多端な乱高下を示すだろうと心配していたが、今日14:05現在、5780円である。


(出所)Yahoo!ファイナンスで作成

これに対し、3月下旬には下がり切っていると判断して、今後のTPPの進展にも期待して買った三井物産株は下のようだ。


(出所)Yahoo!ファイナンスで作成

ナント、ナント……、「あまりのことに、涙こぼるる」というやつだ。

それにしても、物産株をいま買えば、高い配当もあって配当利回りは3.43%である。急騰したとはいえ長期国債なんて目じゃないのである。理屈からいえば、株価はもっと上がるべきだ。おかしい……。



2013年6月26日水曜日

雑談-意味不明の外来語が多すぎることは訴訟理由になる?

日本の公用語は日本語である。憲法ではこの点の規定がないので、どの法律で規定されているのか、気になってはいたが、調べることもなく放置してきた。そうしたら次のような記事を見つけた。
テレビ番組で理解できない外国語が多く精神的苦痛を負ったとして、岐阜県可児市の元公務員で、「日本語を大切にする会」世話人の高橋鵬二さん(71)が25日、NHKに対し141万円の慰謝料を求める訴えを名古屋地裁に起こした。
訴状などによると、高橋さんはNHKと受信契約を結び、番組を見ているが、必要がない場合でも外国語が乱用されていると主張。例として「リスク」「ケア」「トラブル」「コンシェルジュ(総合案内係)」などを挙げ、「不必要な精神的苦痛を与える」として、民法709条の不法行為に当たるとしている。 
高橋さんは「若い世代は分かるかもしれないが、年配者は、アスリートとかコンプライアンスとか言われても分からない。質問状を出したが回答がないので提訴に踏み切った」と説明した。原告代理人の宮田陸奥男弁護士は、「外国語の乱用は全ての報道機関に言えることだが、NHKは特に公共性が強く影響力がある。日本文化の在り方を社会に広く考えてほしいという趣旨もある」と述べた。
地裁では「140万円を超える請求」を求める訴訟を扱うとされており、慰謝料を141万円とした。
(出所)中日新聞、2013年6月25日 20時02分
NHKの放送で意味不明の外来語が多すぎるので地裁に提訴したというわけである。請求額は141万円。

改めて調べてみたら、日本語を「公用語」と規定している法律はないが、裁判所法では74条で次のように規定していることが分かった。
第74条 裁判所では、日本語を用いる。
もちろん日本の法律は全て日本語で記述されている。外国人向けに、たとえば商法や刑法の英訳版は<公的には>提供されていない - 私的なサービスとして、英訳法令が提供されている例はある。ついでにいえば、小生が勤務するところでも、授業は日本語で行われると予め案内されているし、入学試験では日本語を用いて出題している。 このような現状を総称して、日本国の公用語は日本語であると言うのだろう。

つまり、日本の公的機関が日本国民に対して公的な活動を行う時には、日本語を用いることが大前提になっているわけであり、それは全ての日本人が公的サービスを理解でき、活用できるようにするためである。当然、それは日本人が持つ権利である。そう認識しているわけだ。

だから、NHKで放送されている内容が、日本語ではないので理解できない。意味が分からないとすれば、それは権利を侵害されていることになる。そこで訴訟となったわけで、話の筋道は大変よく理解できるのだ、な。

確かにねえ~~、リスクは危険と言えばいいし、そもそも金融や経済理論のテキストではリスクを避ける人たちのことを「危険回避者」と言っているくらいだ。リスクという言葉を敢えて使う必要はない。コンプライアンスの意味が適法性、遵法的態度のことであると分かっている人は、案外少ないかもしれない。日本語でいえば、意味がそれなりに通じるのであれば、全ての日本人に分かりやすい日本語で語るのは公共放送局の業務上の義務である。確かに、そうも言えるだろう。であれば、裁判所も判決文において「リスク」や「コンプライアンス」といった歴史の浅い外来語を使うべきではないという理屈になる。

名古屋地裁は、上の訴訟を受理するにあたって、過去の判決文を改めて検証する羽目になるだろう。これは確実だ。

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しかし、意味不明な言葉というなら外来語に限った話でもあるまい。

たとえば官僚がよく使う「前びろに」。小生も、ずっと昔、役人仕事をしたことがあるが、他省庁の担当者に連絡するとき、先輩から「前びろにやりますから、と必ず言うんだぞ」と注意され、意味がよくわからなかったものだ。「前向きに」なら耳にしたことがあったが、「前びろ」はなあ・・・と、そんな困惑だ。「承っておきます」、これも中々使いこなせない言い回しだ。国会の想定問答を作るときの「合議」、ゴウギではなくて、アイギと発音するのだが、普通の人は意味が分からないだろう。

小生は統計分析を専門にしているが、「定常性」の意味が分かる人はそう多くはないはずだ。そもそも、NHKだけではなくマスメディアが広く使っている「GDP」という用語。これを正しく理解している人は、経済学部出身の人ですら半分はいないと思うのだ、な。だからといって、GDPでは分からないから「国内総生産」と言い換えても、ますます<???>であろうし、「付加価値の合計」と言っても同じことである。

そもそも論でいえば、「会社」という言葉だって明治になって造語された新語である。新語がなければ「カンパニー」という言葉をいまなお使っていたであろう。文明開化の時代、当時の人にとって「会社」のほうが「カンパニー」よりずっと理解しやすかったとは言えないだろう。

大体、「貯蓄」と「資産」の違いが分かる人は、10人に1人もいないはずだ。 普段、使われる言葉ならその意味が正しく理解されているのか。みんな理解しているつもりになっているだけではないのか。どうせ理解できないのだから、外来語をそのまま使って、「難しい話をしているのですけどね」と分かるようにしておくのも、ある意味でサービス精神とは言えまいか。これも一理屈ある話しでござんしょう……。

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それでも、さすがにコンプライアンスは「法律を守ろうとする姿勢」と言っておけば、何ら誤解をうむ怖れはないような気がする。これは法律の専門家に言わせると、とんでもないことなのだろうか?

小生は経済学が主分野だが、「GDP」も「付加価値の合計」も分からないと言う人には、数字的には、日本の中で仕事をしてもらった給与と会社の利益を合計した金額に大体近い、と話すことにしている。だから、GDPを増やすというのは、仕事の量を増やしたり、会社の利益の増加につながるのですと言うと、大体の人は「なるほど」とあいずちをうつ。

ま、外来語が多すぎるというので訴訟におよんだ人は、NHKの放送をきいていて、とても相槌を打つような気分になれなかったのだろうと推測はつく。

2013年6月24日月曜日

無党派 ー 計算高い利己主義者か、おさない夢想家か

都議選で自民党・公明党が圧勝し、政権与党は自信を深めている。反対に、民主党は半減未満の惨敗、というより壊滅状態になった。おそらく、来月の参議院選挙でもこの流れが引き継がれるだろう。

今朝の道新を読むと、参議院選の比例区で自民党に投票すると回答する人が29% – 28.8%だがヘッドラインでは28%と小数点以下切り捨てにしている – 民主党が8%である。ところが、「まだ決めていない」という人が38%いる。最大のマスを形成しているこのグループが、おそらく「支持政党なし」の「無党派」に対応していると推測される。

× × ×

「無党派」というのは、与党なら政権の運営状況や総理・閣僚の発言などをよく聴いて、野党なら公約や主要人物の発言をよく聴いてから、投票先を決めるという人たちのことだろうから、印象としては<合理的な態度>であると言っても、それなりの理屈はある。

ただ昨日の都議選では、共産党も当選者が倍増し、大躍進を遂げている。共産党の党員数というか、党費納入者数は数年前に大規模な整理を行ったため、30万人から25万人程度に減っている。また、一般に共産党シンパとみられる機関誌「赤旗」の読者は、10年前の36万人から24万人へ3割以上も激減している。経営的にも赤字で苦しい状況だ。いまの世情は「右傾化」を心配するべきなのであり、「左傾化」が懸念される時代ではない。まして共産党支持の流れが定着する社会状況であるとは、全然言えないわけだ。ところが、都議選で共産党が躍進した。これは無党派層が共産党候補を支持したからだと容易に憶測がつく。

全くねえ、ある選挙では民主党に投票し、次の選挙では共産党に投票する……。論理的に「ありえない」わけであり、小生は残念ながら、こういう投票行動の胸の内がサッパリ分からない。ただ、こ難しい理念の話しはさておくとして、日本における所謂「二大政党制」は、保守的な自民党とリベラルな民主党が対立する構図ではなく、既得権益層が支持する保守勢力と体制倒壊をはかる急進勢力に二極分化する、そんな二大政党に収斂されて行く。こんな行き方も、ひょっとしたら、ありうるのではないか。都議選ばかりでこうは言えないと思うが、参議院選でも共産党が躍進するとすれば、その兆しではないか、そんな風に思うのである。

だとすれば、無党派層もまた二極分化していくだろうと憶測されるのだが、それでも最後まで「無党派」であることへのロイヤリティというか、無党派であることへのコダワリというか、こういうグループは最後まで残るだろうなあ、と。そうも思われる。それは、つまり自分自身がどの社会階層に属するかという観点ではなく、よく言えば是々非々主義、悪く言えば「何かをしてくれそうな側」に入れる。最初から信念であるかのように一方の側を支持するのではなく、現状に基づいて自分の立ち位置を決める。そこが、「日和見」といえば成る程そうなのだが、ある意味で非常に科学的である、おそらく自意識としては堂々と語れないまでも、かといって引け目にも感じない、ある種の確信を感じる、そこで無党派という行動パターンにつながるのだと推測される。

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ただ小生は思うのだが、投票行動もその人の社会的関係をかなり反映するのだと思う。無党派という「派」がマスとしてあるなら、それに応じた社会的関係、その人達をとりまく社会状況が一定のパターンとしてあるのだと思う。

「これが自分の考え方に近い」ではなく、「これは良さそうだ」という観点で自分の社会的立ち位置を決めるのだとすれば、思想や原理ではなく、個別利益に即して自分の行動を決めていることになる。個別利益の見通しは、実は現在の社会システムを前提にしているものである。つまり、基本的には体制に属しながら、末端にいるために、自律性をもたず、それ故に大きな希望や動機は持てず、社会レベルの目標を持たないがゆえに、個別利益をみて自己の立ち位置を決める。そういうことじゃあないか?そんな行動原理が「無党派」を形成しているコアではないかと見ているのだ、な。

であるなら、こういう階層は江戸期・幕末でいえば、いわゆる「下級武士」と相似関係にある。上級武士というか、旗本ではなくて貧乏御家人。その下級武士が、実は指導層内部においては最大のマスであって、そのマスが特定の目標をもてば、執行部の組織体制を倒壊して集団的目標を達成できる。そんな自覚をどうして持てたかが「明治維新」を理解する大きなポイントだと思う。つまり、明治維新は上からの革命だと言われるが、逆に下からの革命でもあった側面があるので、やはり日本の歴史を画する一つの「社会革命」だった、こんな見方が大変面白いのじゃないかと思う。

入れる政党がないから、共産党に投票する。もし本当に都議選でそうしたのだとすれば、共産主義・社会主義思想をよく知らないのかもしれず、夢想的なキョロマではないかと思われるし、せいぜいよく言ってもロマンティストだろう。こうくくると、「まだ投票先を決めていない」と回答した人たちの怒りをかうかもしれないが、現在の社会システムを前提とした「リベラルの限界」を多くの人たちが意識しはじめている兆候であるのなら、無党派=ロマンティストと言葉遊びをしている場合ではないかもしれない。自由と人権、私有財産権と市場経済は、いまの社会を支える原理だが、社会を支える原理は多数の人の利益にならないと受け取られれば正当性を容易に失うものである。あらゆる共産党が唱える<人民の解放>が、「無党派」の支持を得る確率は決してゼロではないことを知っておくのがよい気がする。

ま、昔とは違ってプロレタリアートが国際的に団結するような経済環境はもはや存在しない。ミラノヴィッチ「不平等について」で強調されているように、不平等は階級によるものではなく、生まれた国によるものがずっと大きい。日本国内の「人民」は、世界においては恵まれたグループに該当する。だから、共産党といっても、日本一国限りの人民の解放を目指すしかないことは、自明である。話しは、所詮「日本ではどうなるのか」という、狭い限られたものなのだ。

2013年6月23日日曜日

日曜日の話し(6/23)

今日は毎月の月参り。寺から読経に来た。この何ヶ月、来るのはいつもご隠居である。いつもの経を朗々と読んでから、両親と祖父母の戒名を唱え「追善増上菩提○○△□」と続けて、最後は▲■家先祖代々の何とかかんとかで終わる。終わって、お布施を渡して「一休みしていきますか?」と尋ねるのも恒例である。すると2回に1回の割合で「そうですね」と答え、茶を喫してから帰る。時々、子息の現住職自らが来ることもある。住職は、小生の愚息が寺の幼稚園に通っていた時分、まだ副住職で幼稚園の園長であったが、北海道に来てから日の浅い小生は、墓参も不便になり、両親の供養をほったからしにするのを気に病んで、何とか親の菩提を弔うというか、当地でできることを探したあげく、愚息の縁で読経を頼んでみたところ、今日までの長い付き合いになったというわけだ。

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『文藝春秋』6月号の特集は「日本型リーダーはなぜ敗れるのかー原発事故と太平洋戦争」であり、福島第一原発の吉田所長と第二原発の増田所長の判断と結果の違いが話題になっている。これはこれで面白かったが、大体予想できることしか書かれていないのも事実だ。昨日、たまたま手に取ってパラパラめくっていると、「現代の名文入門」の中にドナルド・キーンと徳岡孝夫の対談が載っていた。

キーン氏がこんな発言をしていた。
荷風先生(=永井荷風)の家は、表札もなく、自動車がとても入れないような路地の奥にありました。日本人はよく謙遜して「うちは汚いところですが」と言いますが、そこは本当に汚いところでした(笑)。玄関で待っていると、前歯が抜け、ズボンのボタンが全部外れたおじいさんが現れました。とても感心できない身なりでしたが、そのおじいさんがまぎれもない荷風だったのです。 
しかし、彼が口を開いとき、もっとびっくりしました。あんなに美しい日本語を聞いたことは、後にも先にもありません。日本語特有の哀しさや翳りが感じられて、間違いなくこの人が、あの『すみだ川』などの作者なのだと確信させられました。
なるほどネエ・・・と、「日本語特有の哀しさや翳り」というのは、そうかもしれんなと。ま、英文のミステリーやスパイ小説を読んでいるとき、(当たり前だが)哀しさや翳りを感じることはない。翳りが漂っていてもいいはずのワーズワースの詩も、日本語訳だと何がなし無常観を感じうるのだが、英語原文だと妙に明晰感がでてきて、哀調がなくなるように思うのだな。時雨の日も、澄み切った晩秋の青空も、どちらも詩情をもつのだが、やはりこの二つの秋はどこか違っている。言葉の世界もどこか肌合いは違うのだろう。谷崎潤一郎は「陰影礼賛論」を書いたくらいだ。翳りの中に儚さと哀しみをみるのは、日本語というか、日本的感性の本質かもしれんなあ、それにしても米人がここまでJapanese Sentimentを身につけるとはすごいねえ、そう感じた次第だ。

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行きたくて行けなかった展覧会がある。それは京狩野派を率いた狩野山楽・山雪の特別展覧会だ。


狩野山楽、紅梅図襖、17世紀初頭

小生が幼少時に知った日本の芸術家はそう何人もはいない。母が買ってくれた絵本か何かで雪舟をはじめて知った。叱られて蔵に閉じ込められた時、涙でネズミの絵を描いたそうだ。それがまるで生きているようであり、雪舟の画才が認められるきっかけになった。そんな話しだったが、これを読んだのは何年生のことだったか。少年・狩野山楽が、大阪城で掃除をするところを怠けて、竹ぼうきで地面に絵を描いていると、たまたま豊臣秀吉が通りかかった。落書きを叱られる所だったが、余りに上手なので、狩野永徳に画技を学ばせることにした。これもその頃に読んで知ったのだろう。だから、小生の記憶の中では、著名な狩野永徳より狩野山楽のほうが、なじみのある親しい名前であった。

上の絵は17世紀初頭に制作されたという。であれば、関ヶ原の合戦は既に終わり、権力の中心は徳川家に移り始めた頃だ。秀吉に密着していた狩野山楽は、豊臣の残党と見なされて命も危なかったらしい。それでも赦され、江戸に連れて行かれることもなく、京都に住んで狩野派源流の画風を守ることができたのは、本人の運もあるだろうが、造り出す作品に魅力があったからに違いない。

絢爛豪華の中に翳りと無常観をこめ、それでいて芸術的な永遠性を形として残すのは、言うのはたやすいが、至高の画技である。キーンに煽られて、小生も青空文庫からiPadに永井荷風「すみだ川」をダウンロードしたところだ。


2013年6月21日金曜日

政策の「透明性」と戦略効果のバランスとは?

「手の内を明かさない方がよい」という言い方がある。あらかじめ言ってしまうと、相手がそれに備えるので、かえって善かれと思った効果が出てこない、というものだ。

「▲▲政策を実行していきます」と公表することをゲーム論では<コミットメント>という。このコミットメントが実効ある前提として、言ったことは守られるという「信用」がある。もし発言が信用されないなら、何を言っても言わないのと同じであり、無視されるだけである。

値上げ戦略は経営戦略分野では「デブ猫戦略(Fat Cat Strategy)」に分類されている。というのは、値上げの直接効果をみると相手の利益にとってプラスであるから、ライバルにとってはソフトコミットメントである。また、自社の戦略から予期される相手の反応も「同調値上げ」であるから ー その方が相手にとっても足下の利益拡大に沿う ー 戦略効果もプラスであるからだ。戦略効果がプラスだから、値上げ戦略を実行するなら、自社の方針を事前に公表し、競合企業にも知ってもらう方がよい。コミットすることでプラスの戦略効果が速やかに現れるので、自社の戦略がそれだけ効果的になるのだ。

反対に、値下げ戦略はライバルの顧客を奪うタフコミットメントであり、それゆえにライバルから報復的値下げを招くことが予期される。それゆえ、値下げ戦略をとる場合は、あらかじめ公表するなどは愚策であり、沈黙したまま実行するべきである。いずれ販売数量減少に直面したライバルは、その原因を調査して、自社の戦略変更を知るだろう。知った後は、対抗的な値下げを行うだろうが、こちらから先に言って、自社によいことは何もない。

このように<コミットメント>が望ましい場合と望ましくない場合があるわけで、その使い分けは自らの行為が相手に与える影響をどう読むかという戦略的効果の分析いかんにあるわけだ。

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黒田総裁は、逐次投入はしないと言って、緩和バズーカ砲をはなった。市場はそのつもりで日銀をみるようになった。バーナンキ議長は、これから締めていくからネ、とコミットした。

FRBは、量的緩和からの出口戦略を予告し始めた。国債の買取額は、年内にも削減を開始し、来年の前半には終了する見込みであると、「前ビロに」予告したわけであるが、このコミットメントは必要だったのだろうか。

アメリカでは必要な金融データは十分に提供されている。市場参加者は、いくらでも現状を分析できるし、将来を予測できる。FRBが状況判断を微調整し、<沈黙のまま徐々に国債買取額を減少させていったとして>、それは金融データから<事後的に>確認できるわけである。政策レジームは一定のまま、市場の需給調整に対応したと言えば、そう言えたはずである。議会で、今後の金融政策運営方針を質問されたとき、常に具体的にその通りに予告する必然性はない、政策効果から判断するべきだ ー 実際、前任のグリーンスパン議長は曖昧な説明で対応することも多かったと記憶している。

国債買取額を減少させていくつもりである、と。このコミットメントから、いかなるプラスの戦略的効果を期待しているのだろうか。当然、株価は急落するわけである。仮にコミットメントをしない場合に予期されるであろう状況よりは、コミットした今の市場の反応のほうが、より望ましい、と。そう判断したという理屈なのだが、それはどんなロジックなのだろう。コミットメントによって、出口戦略がもたらす効果が速やかに浸透することは、市場の変動を観察すれば明らかなのだが、緩和減速の効果を<速やかに>浸透させることが、現在の本筋にかなったことなのだろうか。

2013年6月19日水曜日

間違った伝説のはじまりか ― 日本の原発の停止と再稼働

毎日新聞が安倍内閣の原発政策に注文をつけている。
原発政策が、「3・11」前に逆戻りし始めたのではないか。安倍政権の姿勢に、そんな懸念を持たざるを得ない。
 経済政策「アベノミクス」の第三の矢として閣議決定した成長戦略に、原発再稼働への決意と原発輸出への強い意欲が盛り込まれた。それを先取りするように、安倍晋三首相は原発輸出の「トップセールス」にまい進している。
 東京電力福島第1原発の過酷事故を踏まえて自民党は、昨年末の総選挙で「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立」を公約に掲げたはずだ。なし崩しの方向転換は、とうてい認められない。
(出所)毎日新聞、2013年06月16日 東京朝刊 
しかし、日本国内の原発が全て稼働を停止したのは、東日本大震災が発生した2011年3月11日ではない。大震災後も原発は稼働を続けていた。全面停止に陥ったのは、大震災から1年以上たった2012年の5月5日である。この日、北海道電力の泊原発3号機が定期検査に入り、1970年以来42年ぶりに、全原発が停止する状態になった。以下のように報じられている。
国内の原子力発電所で唯一運転している北海道電力の泊原発3号機(北海道泊村)は5日深夜、定期検査に入り発電を停止する。政府は昨年3月の福島第1原発の事故を受け安全対策を見直すとともに、関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を求めてきた。しかし地元自治体などとの協議は難航。1970年以来42年ぶりに全原発が止まる事態となった。
 政府は2010年の猛暑を想定した需給を検証している。関西、北海道、九州では供給難が危ぶまれ、融通などを考慮すると、日本全体で家計や企業に節電の努力が迫られる見通しだ。枝野幸男経済産業相は関西電力管内で今夏の計画停電への備えに言及してきた。
 泊原発3号機では5日午後11時ごろに出力がゼロになる見通し。北海道電は定期検査の期間を71日程度とみている。その後、再稼働を視野に安全対策を確認するため、ストレステスト(耐性調査)の1次評価結果を国に提出する方針だ。
 政府は原発を当面活用する立場を保ち、ストレステストで先行した大飯原発を再稼働の最有力候補とみる。ただ立地する福井県や電力の消費地である京都、滋賀、大阪などの自治体との調整の行方はなお不透明だ。
 日本ですべての原発が止まるのは、70年に日本原子力発電の東海原発と敦賀原発1号機が定期検査により停止して以来。その後は原発の新増設が続き、東日本大震災の前まで電力の約3割を原発が供給してきた。大規模な事故を起こした東京電力福島第1原発の1~4号機は今年4月に廃止が決まり、現在の国内にある原発は50基。
(出所)日本経済新聞、2012/5/4 19:54 (2012/5/5 0:45更新) 
そもそも、大震災が直接的な原因になって、原発の安全性に疑問が生じ、安全管理の必要性から原発を止めるというのであれば、3.11の大震災直後に直ちに全原発を止めていたはずである。しかし実際には、上に引用したように、原発は動いていたし、泊原発が定期点検に入るまで、政府は別の大飯原発を再稼働させようと、懸命に協議をしていたわけである。その協議が、地元の反対によって整わず、<図らずも>全原発が停止することになったのが実態である ― このときに協議が整わなかった大飯原発が、いまは特例として再稼働を認められている唯一の施設であるというのも、何とも皮肉というか、支離滅裂な話ではないか。猛暑を乗り切るには電気がいるというのが理由だが、ま、言い方は悪いが、現在の原発停止は、大震災に端を発した安全意識の高まりというような、理念に基づくというか、哲学的というか、そんなハイレベルの話しではないと思う。

今なお国内の原発が再稼働に至っていない理由は、大震災がもたらした安全性に対する懸念というより、政府の原発管理政策が迷走したことであろう。具体的にあげるなら、大震災から2か月たった2011年5月6日、菅元首相が中部電力に対して浜岡原発の全ての原子炉の運転を停止するよう超法規的な要請を行った。まず挙げるのはこの点だろう。
菅直人首相は6日夜の記者会見で「中部電力浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)のすべての原子炉の運転停止を中電に要請した」と述べた。浜岡原発では4、5号機が現在稼働中。中電は定期点検中の3号機の運転を再開する可能性を示唆していた。
(出所)日本経済新聞、2011/5/6 19:16 

最初に引用した毎日新聞の記事を読むと、原発再稼働は3.11以前に逆戻りすると言う。大震災があった日からずっと原発は止まっているかのようだ。確かに、東日本大震災と福島第一原発事故は、一連の不幸な出来事ととらえるのが適切だ。しかし、3.11と全原発停止には因果関係はないと見るのが、客観的な事実ではないだろうか。大震災後も原発は稼働していたし、大飯原発は「背に腹はかえられない」というので再稼働しているし、そのことをマスメディアがどれほど批判してきたのだろう。今になって、大震災と原発停止を結び付けて記憶するのは<伝説のはじまり>である。

原発再稼働は、3.11以前に逆戻りするという選択ではなく、超法規的停止要請があった5.06以後の混乱がようやく終息する。言語表現からいえば、こういう言い方がはるかに正確であると思う。

江戸期・ペリー来航以後、幕府の為政者は開国政策に転じることは「鎖国」という伝統を否定することになると苦悶した。しかし、鎖国は「鎖国政策」と命名して実施した先祖伝来の政策では決してなく、その時はその時でキリスト教、カトリック国とプロテスタント国それぞれの意図などを憶測しながら、幕府の利益に最も沿うようにとった外交戦略だった。それも三代将軍になってからだ。それが200年もたつと、『幕府伝統の祖法である鎖国を変えるなど、断じてまかりならん」と、そう思って自らの手足を縛る原因になるのだから、「伝説」を信じていては身を滅ぼすというものだ。
枝野幸男経済産業相は14日、政府が策定中のエネルギー基本計画について「将来ずれる可能性が高い数値目標は避けたい」と述べて、同計画に2030年時点の原子力発電の目標比率を明記しない方針を示した。経産省で開いた総合資源エネルギー調査会基本問題委員会(経産相の諮問機関)で明らかにした。
(出所)日本経済新聞、2012/11/14 23:08 

「原発はいかん」と政府が判断したことは一度もない。自民党はいつそう決めたのか。民主党は本当にそう決めたのか。一度決めたことは、二度と変更しない保証はどこにあるのか。大震災・福島原発を反省して原発をとめたというのは「伝説」である。マスメディアは、読者を言いくるめるような語り方はやめて、考えることは正面から堂々と、原発を完全にやめるべきだ、と。特例になっている大飯原発も止めるべきだと。自社の責任において、そんな論陣を張るべきではないのだろうか。そう思えて仕方がないのだ、な。

あっと、一つ残っていたか……、自民党の公約「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構造の確立」は、「原子力に、これ以上、依存しなくてもよい経済・社会構造の確立」のミスプリでござんしょうなあ。政治家の心の中はわからぬが、発言や行動をみていると、そうとしか解釈しようがござらぬて。

2013年6月18日火曜日

英国の脱EU願望 vs 日本の改憲願望

イギリスの北アイルランドでG8サミットが開催中だ。そこでアベノミクスが世界の賞賛を博したと日本では報道されているが、たとえば英紙Telegraphをみると、そんなことは書いていない。どこでも、自分の国と関係する事柄で頭が一杯なのだろう。

英国にとって、特に保守党政治家の持病とでもいえるものは<脱EU願望>だろう。元祖はもちろんサッチャー元首相というべきだが、寧ろイギリスは伝統的に欧州大陸から一歩も二歩も離れていたいという感覚を歴史を通じて一貫して持っていたとも言われている。

本日のDaily TelegraphにこんなG8報道がある。
Today, David Cameron welcomed world leaders including Barack Obama, Angela Merkel and François Hollande to the G8 summit in Northern Ireland.The summit was opened with a statement announcing the EU-US trade deal, which leaders hope will help to secure the global economic recovery. The deal is expected to lift a series of taxes and tariffs on inter-continental business, leading to a single market stretching from eastern Europe to the Pacific coast of America.The Prime Minister said it would be worth £11 billion to Britain, the equivalent of £384 for every household, bringing two million new jobs and “lower prices in the shops”.  (Source)The Telegraph, Tuesday 18 June 2013

米欧間でも自由貿易協定交渉が進行中だが、自由化によって英国民一人当たり384ポンド(=5万7千円程度)の利益を享受する。200万人分の雇用が創出される。こんな計算結果を示しているそうだから、やっていることはTPP交渉に臨む日本と概ね変わらない。

保守党の政治家ケネス・クラーク(Kenneth Clarke)が発言している。
However, in today’s article, Mr Clarke, a well-known supporter of the EU, unlike many of his Tory Cabinet colleagues, says that this country will not be able to participate in this deal and others without its single market membership. “Irony of ironies, it is of course the EU that is making deals with the United States and Canada possible,” Mr Clarke says. “It should come as no surprise that Obama’s officials have commented that they would have 'very little appetite’ for a deal with the British alone.”

英国人が脱EUを願うとしても、それは自由だが、英国単独でアメリカ+カナダと何かを交渉しても、相手にとっては何の魅力もないだろう。EU対米国の貿易交渉であって初めてアメリカも真剣に向き合う。そんな指摘であり、ま、当然のことでもある、な。

翻って、憲法改正を日本の保守党政治家が願うのは、それは自由だが、そんな日本と単独で何かを交渉することがアメリカにとって魅力なのか?韓国にとって魅力なのか?ASEANにとって魅力なのか?中国にとってはどうか?安倍総理は、自分自身の信念から、是非やりたいことが沢山あるに違いない。それは野田前総理、菅、鳩山元総理、いやこれまでの全ての総理大臣は、何かしらやりたいことがあったに違いない。では総理大臣たるもの、最高権力者になってから、やりたいことができたのだろうか?むしろやりたくなくても、巡り合わせでやらされてしまったことのほうが多いのじゃないか。日本で最高の政治権力を握ったとしても、日本国内で自分のやりたいことを出来るとは限らない。政治家としての実力がなければ、やりたいことの半分もできないだろう。

国家も同じことである。日本人が日本のことを「かくありたい」と願望しても、それが出来るとは限らないのが、現実である。その現実は、日本だけに厳しいのではなく、英国にとっても厳しいし、この事情は全ての国にとって同じであると、そう思うのだな。

他国が理解し、応援し、味方になってバックアップしてくれることを目標に掲げ、結果として自国のひそやかな願望が、他国の力によってかなってしまう。賢明な政治家であれば、そんな道を探すはずである。

2013年6月16日日曜日

日曜日の話し(6/16)

色々なことが重なって、多忙気味だったが、それも一巡した。今週後半から来週にかけて、やりたいことに時間をさける状況になってきた。それで、昨日は、アウグスト・マッケの一作品を水彩で模写して時間を過ごした。原画は油彩画だ。それを水彩で写すと色が弱い。で、ガッシュを使った。アクリルを使ってもいいところだが、紙に描くと色味にペラペラ感が出て、あまり好きではない。

退職したら白老の辺りに隠宅をかって、特に雪の多い厳冬期はあちらで過ごそうかと思案している。最初に菩提樹を植えて、次に桜の樹を植えたい。それから自然条件が許すなら、バラを作って画題にしたり、コンテストに出品したりするかと夢想している。日本バラ会もあるし、国際団体もあるようだ。ま、引退したシャーロック・ホームズが、探偵とは全く関係のない養蜂家に転身したようなものだ、な。

以前、同僚とパスタを食べながら雑談で教わったのだが、その友人がイギリスに出張して、あるB&Bに宿泊した。翌朝、空は気持ちよく晴れて屋外を散歩したそうだ。すると芝刈りをしていた初老の紳士が挨拶をしてきた。中に戻ってマダムに「本当に綺麗な芝ですね、メンテが大変でしょう?」ときくと、「うちの人が一生懸命にやってくれるので任せているんですよ」と言われた。そうか、あの御仁はご主人だったのか、このホテルのオーナーというわけだな。で、マダムがさらに話した。「ああ見えて、主人は英軍の特殊部隊でずっと隊長をしていたんです」、特殊部隊の隊長ともなれば救難活動にも従事するし、爆弾テロ対策にも出動する。犯人グループを急襲して制圧するのも特殊部隊だ。あの人がねえ・・・「いまはとても楽しそうに見えますよ」、そういうとマダムは嬉しそうな表情をしたという。

何気ない話だったが、この話しは、小生、とても気に入った。

ノルデもバラを描いている。


    

Source: The Athenaeum

バラの品種にEmil Noldeという種類があるのを知った。情報源は「エミール・ノルデの水彩画」で、どうやら小生とは同好の士であるようだが、そこでバラのことをしった。



ノルデが使う黄色には情念が込められているが、上のバラは清らかな印象で、背後に色々な煩悩や汚辱を悔恨を隠し持っているようには思われない。

そんな負の要素を持っていないからこそ、美しく、かつ短命なのだろう、と。長寿は執着とも相通じ、執着は美しいか、醜いか、どちらだと問われれば、それは「醜いさ」と答えざるを得ない。全く同じことを「徒然草」の著者も書き残している。

2013年6月15日土曜日

アロー・ハーン: 精読する人は、いまどの位いるのだろう

小生が大学院に在学している時分、必読書の第一はアロー・ハーン(Kenneth Arrow & Frank Hahn)の『一般均衡分析』(General Competitive Analysis)だった。Amazonのコメント欄にはこんな感想もある。
何度読んでも読みごたえのある本である。ミクロ経済学をマスターする上では欠かせない。アメリカの大学院生時代に、何度も読み返しました。アローの書いた部分は明快,精緻でとてもよい。ハーンの書いたところは、ところどころ理解に苦しむ箇所が2,3ある。日本語訳は、またよくできていて、苦労の跡がよくわかる。本当によい翻訳だ。
何度も読むくらいだから、当時の言葉で括れば<どミクロ>、あるいは敬意を込めた<純粋理論派>に属する方だと推測される。

著者の一人であるフランク・ハーンは今年の3月に亡くなった。3月28日のTelegraphでも報道されているので、うたた感慨を覚えた方も多かろう ― アローの方はまだ存命中であるよし。

小生は、統計学や計量経済学を専攻していたので、指導教授は純粋理論には比較的冷淡な態度を示していた。『純粋理論はなぜあんなに甘いんだろうねえ』とか、『現実と言うのが見えているのかなあ』とか、『美しいけれども、それを信じて酔生夢死になってはだめだよ』、最後の句は多少小生の脚色が混じっているが、まあ、こんな感じだった。とはいえ、じゃあ我々は何をやっていたかと言えば、現在では絶滅寸前になっている「マクロ計量経済モデル」であったのだから、どちらもどちら、小生も時系列データを相手に、とんでもない推定作業をしながら、それがとんでもないことであると自覚はしなかったわけである。

今にして思うのだが、一般均衡分析で記述されていた諸々の定理は、今でも真理であることに変わりはない。なぜなら論理的に証明された演繹的な結論だからだ。資源配分を自由市場に任せた時に、必ず解はある、一定の状況に落ち着く、その収束点は社会にとって混乱をもたらすどころか、むしろ喜ばしい状況なのだ。このようなロジックを構築できると言うのは、素晴らしいことであると、いまなお思うのだな。大切なのはロジックである。だから人はその結論を認め、受け入れざるを得ない。

ただ「定理は永遠の真理ですが、現実がその定理の示すとおりになっているかといえば、前提が満たされているかが鍵になる。一般均衡を保証するための仮定を満たすのは容易ではない。そのためには努力が必要だ。こういう風に受け取るべきでしょうね」と、理論系の授業で当時の第一人者が語っていた。

一般均衡の存在定理も人気だったが、不均衡動学も注目を集めていた。市場がバランスせず、需給のアンバランスを調整しなくてはいけないとき、どのような調整プロセスを辿るのか。ケインズは失業を含む不完全雇用均衡を唱えたが、これを「不均衡動学」の一つのケースとして解釈する立場が非常に流行していたことも、今となっては大変懐かしい。

まあ、いずれにしても、当時の経済理論は極めて確定的なモデルであって、確率的なショックが加わり続けるプロセスとして現実の経済現象を解釈するという見方は希薄だった。まして、確率的なショックに応じて、経済システムがどのような応答をするのかという発想は全くなく、行われていたシミュレーションは外生変数が変更されたときに、内生変数はどのように変化するのかという計算だった。

こんな風に振り返ると、結局、時代をこえて生き残るのは純粋のロジックであり、永遠の真理は数学的な定理だけであることを痛感する。火から石炭、石油、原子力とエネルギー革命が進み、馬から機関車、自動車、飛行機、ロケットと技術が進化する中で、ピタゴラスの定理が覆ることは決してない。ユークリッド空間においては永遠の真理だ。現実を説明していると胸をはる研究者は、いつかより優れたモデルに駆逐される。ずっと読み継がれるのは、いつまでも真理であり続ける純粋理論のテキストかもしれない。

2013年6月13日木曜日

「クロダコースター」経済はいつまで続く、酔いそうだ

株式市場、債券市場、外為市場すべてが荒れていて不透明感が増している。ずばり言えば、クロダバズーカ砲が4月に炸裂してからというもの、ボラティリティが増幅されている。期待値を上方修正することなく、変動だけを高めているのであれば、異次元金融緩和政策はマイナスの政策効果をもたらしていると評価されても仕方のないところだろう。政策評価には1年ないし1年半程度の経過観察をするべきだが。

ただ、今では名議長と評価されているBen Bernanke FRB議長も、2006年2月に就任した直後は、それまでのGreenspan時代と異なり、市場の不安定性が目立って高まったという記憶がある。というか、そういうタイミングでもあったのだろう。下が2006年2月1日から2007年12月31日までのダウ平均である。

Source: Yahoo! Financeで作成

実体経済のピークは2007年12月にピークアウトするので2006年初めはまだ景気拡大期間中であった。それでも就任直後の5月から7月まで10%程度の株価下落に陥った。これは「5月に売りにげろ」という米市場の格言の現れとも思えるが、その後の急騰のあと、2007年に入ってからインフレ抑止に舵を切ったことに市場が過激に反応して、10%から15%程度の値幅調整を頻繁に繰り返していたことが見て取れる。

石油価格急上昇とインフレ抑止のための金利引き上げと景気崩壊回避とのバランスをどうとるかが難しい局面であったが、その頃はまだ実力のほどが分からないバーナンキ議長の一つ一つのコメントがあまりにストレートで稚拙に感じられ、その度に市場は不安にあおられて、暴落を繰り返した記憶がある。振り回された小生は「バーナンキ暴落」がまた始まったと愚痴を言っていたように覚えている。

日経平均は今日もまた前場で500円近い急落になり株価は12800円を割り込んだ。4月に就任した黒田日銀総裁の「異次元緩和宣言」後の株価上昇は帳消しになった。長期金利の先高感が株価に現れているわけだが、通常緩和では金利低下、異次元緩和では金利上昇とこんな屁理屈を信じる専門家は本来いないはずだ。理屈になっていないのだが、とはいえ、異次元の政策をとったときにどんな現象が起きるか知っている人は実はいないのだな。やったことがないもので・・・これまた事実だ。

「クロダコースター」は、急騰・急落を繰り返しながら、半年・一年のスパンでみて、どうなるのか?4月の巨大ショックがもたらした誤差修正プロセスが進行中とみれば、それはそれでいずれ均衡に達するとみられるのだが、マクロ経済のレジーム自体がスイッチしたとも考えられる。とすれば、現在の変動メカニズムに関する情報はない。

異次元の金融緩和と並行して、異次元の規制緩和、財政戦略、対外直接投資拡大策、対日直接投資誘引策が出てくれば、それはそれで高度の総合経済政策として機能すると思うが、どうやら日本経済の岩盤を変える第二のバズーカ砲は出るのかどうか不透明になってきた。さすがの安倍総理もパワーに限界がある。金融だけが突出したマネーゲームで終わりそうだ。マネー拡大だけでインフレを起こせるか?それだけの話しになりそうだ。成長しない国がいくらインフレを起こしても仕事の数や暮らしの水準は前と同じだ。インフレによる国債償還がたった一つの結果になる。官民ゼロサムゲームで官が得をするだけになる。家計、企業は今よりもっと貧しくなるだろう。本当はこれが狙いだとは誰も言わないし、小生もそうではないと思ってはいる。しかし、政治家と官僚組織がどう妥協する気か、誰も分かっちゃあいない。

これが本当の<不透明>、<不確実>。

いよいよ日本のマクロ経済は、ICU(=集中治療室)で蘇生治療を受けている図に近くなってきた。本当は麻酔科だけではなく、心臓外科や脳神経外科の医師も入る必要があるのだが、とりあえず麻酔科だけで何とかしている。死んじゃったら元も子もないわなあ。そう思ってみているところだ。

それにしても、景気が良くなってきたので量的緩和政策をそろそろ止めるかというと、金利先高感が出てきてーこれは自然だー、何とドル安に持っていけるとは、アメリカもつくづく要領がいいと言うか、トクな国だというか、羨ましい国だと思うのだなあ。

2013年6月10日月曜日

昨日投稿の補足ー日本とフランス

昨日は、訪日したフランス・オランド大統領の<いい間違い>を書いた。これは井戸端会議の域を出ないが、対フランス関係はこれまでも日本にとって貴重な外交的リソースであり続けたことは、しっかり記憶しておくべきだ。

戦前期、駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの著書『孤独な帝国 日本の1920年代』は、以前、本ブログにも投稿したことがある。1920年代というと、アメリカは「永遠の繁栄」と称される黄金期であったが、日本は第一次大戦中の好景気の反動に関東大震災の復興負担も加わって、経済的には苦渋にみちた時代になった。クローデルの著した本は、「大正デモクラシー」や「国際協調主義」という言葉でくくられることが多い反面、アメリカの拡大志向ーと言ってしまうと間違いなのだろう、大国化し国際的影響力を強める新興国が必然的にとる姿勢というべきかーの中で展開される外交戦略によって、徐々にアングロサクソン陣営から切り離され、孤立化を深めるこの時代の日本を、東京で観察し続けた職務日誌である。

その中でクローデル大使は、アメリカの戦略にはまりつつある日本へ同情を交えた眼差しを向け、日本との関係を強化することによるフランスの国益拡大、それが日本の利益という観点からも望ましいはずであるという報告を、フランス本国に定期報告していたことが分かる。

実際には、日本はワシントン体制に組み込まれ、29年の世界大恐慌後は満州事変、その後は日中戦争、インドシナ進駐、真珠湾奇襲、インドネシア侵攻へと文字通りの右往左往をたどったわけだ。ドイツを利用したといえばその通りだが、対日経済制裁の看板にもなった「ABCD包囲陣」にフランスのFの字はなかったー前年の1940年6月にフランスはドイツに降伏しているので当然でもあるのだが。

フランスはいま中国から貿易戦争を挑まれている。中国は、ドイツを味方につけ、フランスを狙った報復戦術をとろうとしているー具体的にはこの報道を。フランスも、まあ、日本カードを使う時機なのだろうが、今後の日欧FTA交渉を考えれば、フランスが日本にとってのリソースであるとも考えられる。フランス側に立てば、対欧農産品関税率で日本が譲歩することが頭にあるのだろうが、日本にとってフランスは貴重な外交的リソースであるというのは、幕末も、戦前期も、今も変わらない事実である。

2013年6月9日日曜日

日曜日の話し(6/9)

英紙Daily Telegraphは日本でいえば産経新聞に該当する保守派の愛読紙だ。小生もよくWEBでアクセスしては見ている。

そのTelegraphがこんな記事を載せていた。とはいえ、大事な件ではない。井戸端会議だ。

Francois Hollande mixes up Japan with China

Francois Hollande, the French president, was left red-faced in Tokyo on Friday after confusing his Japanese hosts with the Chinese.

Mr Hollande, left, made no attempt to correct his mistake Photo: AFP


By AFP 3:24PM BST 07 Jun 2013

During a press conference, Mr Hollande, speaking in French, referred to the Algerian hostage crisis in January in which 10 Japanese nationals died, saying he had "expressed the condolences of the French people to the Chinese people."
Mr Hollande, who is in Japan on a three-day state visit, the first by a French president in 17 years, made no attempt to correct his mistake.
A quick-thinking female interpreter fixed the verbal gaffe as she gave her simultaneous translation, rendering the sentence as it had been intended.
However, at least one Japanese journalist with knowledge of French picked up on the error.

『アルジェリアで犠牲となった人々への心からの哀悼を、フランス国民を代表して<中国の人々>に、お伝え致したく存じます』、まあこんな言い間違いをフランスの首相が日本でやっちまった、それも修正しないで言いっぱなしだ、これは恥ずかしいなあと、イギリスの新聞が報道したわけ ― ただ情報自体はフランス通信社(AFP)発であるということだ。

これ自体に実質的な報道意義はないと思うが、ニュース価値はあると判断したのだろう。他には、あまり書いている新聞がないので、覚え書きしておこうと思った次第。

日本にとっても、バツが悪いというか、不名誉なことだし、少なくとも愉快な話題ではあるまい。

政治家は言葉の世界にドップリとつかっている。言葉でどう伝えるかが一番大事である点は、研究者も共通している部分が多い。特に、経済学や経営学などではそうだ。反対に、芸術家や職人、エンジニアは言葉でどう語るかより、作った作品、残した作品ですべてが決まると言えるだろう。生前、どんなことを話していたか、どんな人柄であったかも知りたい対象ではあるのだが、それは別のテーマであって、伝記作家の受け持ちである。


堂本尚郎、絵画60‐20、昭和35年
(出所)ArtLog

言葉でどう語るかではなく、思いがあるなら作品に込めろというディシプリンは、小生、とても好きなのだ。その沈黙に清浄を感じる。

まあ、喩えは悪いが"Silent Navy"(=物言わぬ海軍)なる言葉で行動の美学を主張した旧帝国海軍も、善意で解釈すれば『結果でみてくれ』、と言いたかったのだろうなあ・・・と。小生もどちらかというと、というか相当極端に職人肌だと自分のことを観ているもので。

そこへ行くと、中国海軍の最近の活動はどうだい?ありゃ、見っともないねえ。これ見よがしの示威行動を何度も繰り返すなんざあ、覚悟のほどが知れている、あれじゃあ”Clamorous Navy”ではござらぬか。悪いとは言わないが、醜い。美学に反している。

ま、軍事力も政治のツールにすぎない。そう割り切ってしまえば、武士のモラルも、美学も何も、現場の人間が勝手に言っているたわごとになってしまうのだが、それじゃあ世の中堕落するのじゃないですかい?そう思うのだ、な。




2013年6月7日金曜日

円高の怪 – 理論的説明の範囲外なのか

米FRB・バーナンキ議長以下、QE3の出口戦略を語り始めた途端に、金利先高感が生まれ、景気の先行きについて不安がもたらされ、それが米株式市場を下げる要因として働いているという。だからドル安だ、と。ドル安=円高だから、日本の無リスク債券に運用先をシフトすればよろしい。とすれば、日本は円高になると同時に、国債利回りは低下する。日本の株価は下げるだろうが、長期金利急騰不安は一服する。こういうロジックがありうる。実際、10年もの国債の流通利回りは今日現在0.81%(Bloomberg)で、一時期の不安心理は解消されつつある。本当にそうなのか?理屈じゃなくて、屁理屈じゃないのか?

アメリカの国債買取額が減少するにしても、日本は<黒田緩和>によってこの先ベースマネーが市中にあふれかえることは約束済みなのだ。また国債買取の対象とする残存期間も長めになる。短期金利と中期金利は頭を押さえられるのに決まっているのだ。長期金利が高止まりする理屈はありえない – インフレマインドの形成以外には。

アメリカではQE3の出口戦略が語られ始め、アメリカの金利上昇がこの先予想されていますので、その不安から円高になってきております。

こういう無知蒙昧な「解説」 をきくと、小生は、『雨雲が関西から関東に移動し、関東では大雨を警戒する空模様になってきました。関西でも厳重な警戒が必要でしょう』。こんな風な天気予報を想像してしまう。

いずれにせよ、4月のクロダ・バズーカは市場には予想せざる巨大ショックであったにちがいない。そのショックに対して世界の金融市場がどのような反応を見せるか?それは予測誤差修正プロセス(Error Correction Process)であって、均衡到達時にどのような状態になるかという点とは関係がない。手元でインパルス応答マップを見ているわけではないが、4月の巨大ショックはプラスの盛り上がりのあと、マイナスの反動を自然発生させながら、1年から1年半程度の波状的な津波のような効果をもたらしているはずだ。

株価と金利の変動は、巨大ショックでもたらされた津波のようなものである。経済成長は実体的な要因が変わらなければ、前と同じである理屈だ。しかし、ショックでかき回された場合に、死んだ心臓が生き返ることはありうる。土台、マクロ経済は非定常で非可逆的なプロセスなのだ。そんな観点から、いまのジェットコースター的金融政策が展開されているのだとすれば、例えは悪いがTVでよく観る情景、つまりICUで心停止後の患者に電気ショックを加える図を想像してしまう。

150で!
バン
先生、VFです。
200に上げて!
バン
ダメです、先生
250!!
先生、無理ですよ、それは

どちらにしても、毎日変化する金融時系列データは、理論的な変動というより、極めてS/N比の低い動きであるに違いない。毎日朝になったら、なぜこうなんだと説明をきく。これが間違いと言っちゃあ、一番の間違いでござんしょう、な。日本の実体経済は数字をみる限りよくなりつつある。投資した株は持ち続けるつもりでござんす。

2013年6月6日木曜日

サッパリ分からないー年金支給開始年齢引き上げの意味

サッパリ分からないことの一つ。

政府の社会保障制度改革国民会議は3日、公的年金の支給開始年齢の引き上げを検討することで大筋で一致した。8月末にまとめる提言に盛り込み、政府に議論を加速するよう求める。会長の清家篤慶応義塾長は記者会見で「67~68歳に引き上げてしかるべきだ」と述べた。
(中略)
支給開始年齢の引き上げは定年延長などの雇用政策と合わせて実施する必要があり、時間がかかる。国民会議の3日の「これまでの議論の整理案」では「早めに議論に着手すべきだ」とした。
(出所)日本経済新聞、2013/6/3 20:17
今でも60歳定年退職から65歳の年金支給開始までが無年金にならないよう継続雇用を民間企業に義務づけている。「高年齢者雇用安定法」がそれだ。年金支給開始年齢を68歳に引き上げれば、継続雇用を68歳まで続けることを義務づけるのは確実である。一体、お上は会社に対して何歳までの従業員雇用を義務づけることができるのか?

年金だろうと給与だろうと、家計にとって名目はどちらでもいいわけだ。カネを渡すのが会社か、国かという問題だ。年金財政が苦しいので、会社が継続して給与で払ってほしい。要するに、理屈はそういうことになる。増税するなり、年金の一割減額をすれば、民間企業が老後の補償を代行する必要はないわけだから。

小生の勤務先は国が経営している。63歳で定年を迎え、65歳まで再雇用(=継続雇用)される。68歳に年金支給開始となれば再雇用期間もそれまで継続されるのか?そうはならないと思う。というのは、再雇用期間中の給与が年金額を上回っているからだ。カネを払うのは、給与でも年金でもどちらも国である。小生の場合は、「早くやめて年金生活に移ってください、そのほうが国としては楽なんで」。そういうことになるのだろうねえ。いやあ、単純に再雇用期間中の給与が年金と同額になるだけであろう。となると、これって、どこがどう違うのさ?そんな印象もある。ま、小生が仕事をず〜っと続ければ、若い人の仕事が一人分なくなる勘定だ。だから、どうせ同じ金額を小生がもらうのなら、正解は継続雇用じゃなくて年金生活に入る方がマクロ経済的にはよろしい、ということだろう、小生のケースでは。

公的年金制度は、既に破綻している。

★ ★ ★

もちろん定年制度が是か非かという論点はある。定年制度は正規労働者を手厚く身分保障することとのバランスで設けられている。設けないと、いつまでも従業員が会社に在籍して、経営者は人件費の膨張をストップできないからだ。これでは日本の企業は全て倒産してしまう。

高齢者継続雇用で定年制度が死に体になれば、正規労働者の保護制度もなし崩しに崩れる力が働くだろう。
7月の参院選を前に正規労働者に対する保護を少なくする話は停止している。安倍氏の支持率は70%に近く、選挙では自由民主党が勝利を収めそうだ。安倍氏の支持者は選挙後に労働関連法の改定など難しい改革に取り組むだろうとみている。
(出所)日本経済新聞6月6日、英フィナンシャル・タイムズ特約(5日付)
声高に唱えられている成長戦略第3弾には株式市場が失望した。とはいえ、それは岡山方言でいうショサ(=パフォーマンス)であり、本当に安倍内閣がやりたいことは何も語ってはいないのか。

しかしだねえ・・・高齢者は継続雇用を義務づける。正規労働者の解雇規制を緩和する。そりゃ、若年層の解雇に限定するということか?高齢者もか?高齢者の解雇規制を緩和するなら、今の高齢者雇用安定法は死文化する。

一体、どないなっとんのじゃ?

日本の雇用システム、社会保障制度、暮らしのあり方の全体が、ヴィジョンなき、なし崩しの変態をとげつつある。小生は、社会は作るものではなく、成るものだと考えているのだが、まさか中央政府の制度までがねえ・・・政府が作るというより、「仕方がない」という流れでそう成っていくとは、ここが善く言えば<自然流>、悪く言えば<無責任>の典型的な現れであろう。



2013年6月3日月曜日

尖閣諸島 ―こんなことを言ったら国賊か?

「中国人民解放軍」の副総参謀長をやっている戚ナントかさんが尖閣諸島領有権論争は「棚上げ」しようという提案をしたということで、昨日から今日にかけて、その報道がしきりだ。

尖閣諸島の領有権については日本の公式の立場は明確である。それはたとえば外務省のホームページでも伝えられている。その要点は次の文章に言い尽くされている。
  • 尖閣諸島が日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり,現に我が国はこれを有効に支配している。尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない。
  • 1968年に周辺海域に石油資源が埋蔵されている可能性が指摘された後,1971年から中国政府及び台湾当局が同諸島の領有権を公に主張。
そもそも尖閣諸島がどの国の領土であるかは解決済みであり、「問題」などはないのだから、協議をする必要性はない。解決済みであるのに、中国は後になってから問題を蒸し返してきた、というより「欲しがり」はじめた。こんな態度に真面目に付き合い始めたら、じゃあ「沖縄はそもそも中国領土だ」と言い出したら、「ちょっと相談しましょうか」、「九州だって、うんと昔は中国が領土と認識していたんだよね」、そう言われたら「エッ!困りましたなあ、相談しましょうかねえ」。何でも相談しないと不誠実にあたるのか?そんな考えもあるので、一概に外務省の「門前払い」が間違っていると言うつもりはない。

しかし、尖閣諸島は日本だと江戸期・旧幕時代に考えていたかといえば、そもそも琉球だって日本とは別の王朝国家であったわけである。日本になったのは、明治維新で開国した以降のことである。即ち「琉球処分」だ。明治以後の日本の近代史は、問題が多数錯綜しているので、まだ多くのことが灰神楽のような混乱の中にある。こんな基本的認識にたつことは、歴史科学的にみて間違いとはいえないのではないだろうか。

外務省の「問題は存在致しません」という言い分を聞いていると、バブルが崩壊した1990年代初頭、銀行経営者や大蔵省・日銀が「不良債権などという問題は存在致しません」と白をきって責任を回避していた状況を連想する。「実は大変なことになっておりまして・・・」と、直接責任者が定年で引退して、うんと後輩が責任ある立場について初めて問題の所在を認めた時には、既に解決が困難な状況に追い込まれていた。こんなタイプの管理ミスを日本的組織は往々にしてやってしまう。これもあらかじめ知っておいたほうがいいと思うのだ、な。

自分に何の落ち度がなくとも、隣の住人が「お宅の樹の落ち葉がうちの庭にいっぱい落ちてきて、それを掃除してたらギックリ腰になったんですよ、治療費を払ってください」と、そんな紛争は日常茶飯事なわけである。

「法律的には責任は存在致しません」では、問題の本質は解決しないのである。理屈でどうこう言えば相手も理屈を言ってラチがあかないなら、要するにカネのやりとりか、その他の相互援助体制作りでしょう。裁判をして決着をつけてもいいが、恨みが残るとなると、問題は結局何も解決していないわけである。問題を解決する方法として、行政官が法的論理で詰めるのは一つの方法であるが、政治家は行政府の役人ではない。論理以外の論理で解決して見せれば、それもまた「アートとしての政治術」になるだろう。

2013年6月2日日曜日

日曜日の話し(6/2)

サイズが合わない、間尺に合わない、つじつまが合わないことは結構ある。

数年前に画作を30年ぶり位で再開して、小生がいま暮らしている市の展覧会に応募してみた。その時は、F10号の油彩画を出品した。幸いに – というか、応募点数をあとで知るとよほどおかしくない限り入選したのだろうと思うのだが – 通ったのが大変嬉しかった。ただ実際に市展が始まってから分かったのだが、大半の人は30号とか50号で制作しているのだな。要するに、大作を出している。小生は何分の一かの小品を一つだけ応募したわけ。ちょっと誠実さを疑われても仕方のない出し方をしたわけだ。なので、翌年は30号と10号の二点を応募して、大きい方の30号を展示してもらった。ところが30号の作品なんて、自宅に持ち帰って置く所に困る。額縁をつけると重くなるし、大きすぎる。毎年、描いていったら、厄介者になることは必至なのだ。

アマチュア向けの公募展となると『一枚の繪』でやっている「日曜画家コンクール」、それから上野の森美術館で開催されている「日本の自然を描く展」が主な二つである。サロン・デ・ボザール展もあったが組織が解散してしまった。日曜画家のほうは、今年度からの変更だと思うのだが、出品作はF6号に統一されている。上野はF8号ないし10号でいい。それで、上野のほうにF8号と10号を一枚ずつ応募してみた。自分では8号のほうが自信があったのだが、10号のほうが入選したという通知が先日届いた。


晴れた朝、旧いカトリック教会をみる

「オレのとは違うなあ」というとドラマのようだが、出して言うのもおかしいが、何でもう一つの方じゃあなかったのかなあ・・・と。画風が合わない、違うなあということか。

これは「違うだろ!」というのは、もっとすごいのがある。自民党の大物国会議員OBが共産党の機関紙『赤旗』に相次いで意見を開陳している。野中元幹事長は憲法、戦争と平和について縷々のべている。古賀元幹事長もそうだ。安倍内閣の憲法96条改定の動きについて「絶対にやるべきではない」とのべ、強い反対を表明している。それから加藤の乱で有名な加藤紘一元幹事長が『赤旗』とのインタビューで従軍慰安婦問題を語っている。保守派の愛読紙である産経新聞はこんなコラム記事を載せている。
安倍晋三首相が旧日本軍による慰安婦募集の強制制を認めた「河野洋平官房長官談話」(平成5年)の見直しを表明したことに対し、自民党の加藤紘一元幹事長が20日付の共産党機関紙「しんぶん赤旗」日曜版紙上で批判した。自民党の元重鎮が他党の機関誌にわざわざ登場して“身内”を攻撃するとは、寡聞にして知らない。慰安婦問題をめぐって米紙ニューヨーク・タイムズはじめ海外メディアが「日本叩き」を強める中、加藤氏が加勢した格好だ。 
(中略)
政界から引退しながら、誰も頼んでいないのにノコノコと中国に飛び、「尖閣諸島は係争地」と放言した鳩山由紀夫元首相を、小野寺五典防衛相は「国賊」と指弾した。加藤氏の赤旗紙上での慰安婦問題をめぐる発言も国賊級だが、来る訪中で“余計”な言動をすれば、それこそ「国賊」となろう。(政治部編集委員)
(出所)msn産経ニュース、2013年1月26日
あたかも元自民党議員にして共産党機関紙に登場するなど「非国民」ならぬ「国賊」であるという扱いだ。小生も、保守的感性が醸し出す伝統尊重には大賛成なのだが、いわゆる「保守派」の方々の器の狭量なること、他を攻撃することの急なる点、時に辟易する思いだ。日本文化の優美と自称「保守派」の面々の粗暴。これまた間尺に合わないことよ。このアンバランスは何とかならないのかと思う。

いまNHKの『八重の桜』を観ているが、いよいよ会津藩は賊軍となり、官軍の討伐をうける前夜である。会津藩は幕命に従い、職務を忠実に果たしただけだったのだが、権力闘争の敵役に選ばれ、滅ぶことになった。役所や企業でもこんな割の合わないことは日常茶飯事である。これもまた、どこか「間尺に合わない」、「サイズの合わない」ことをやっちまったしっぺ返し。因果応報という点では、訪れるべくして訪れた一つの歴史的結果が会津藩の顛末だったのか。そんな風にも感じながら、憐れみを感じ、次回以降が楽しみになった。