2014年1月3日金曜日

断想: 仕事が人生か vs 仕事は生きる手段か

若いころは仕事漬けだった。仕事の成功は人生に勝つことであり-いったい何の勝負だったのか-人生の勝者になれば親が喜び、子には誇りとなり、自分も満足する…、まあこんな感じである。青雲の志しというのか、まったく青かったのだなあ。

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自分の人生を自己責任で切り開いていくのが人間社会の原理であるなら、自分の人生をかけるにたる仕事を見つけることが最も大事な鍵となる。人生をかけるに値しない仕事に一日の大半を費やするのは苦痛以外のなにものでもない。仕事は、自分の人生そのものであって、仕事を失うというのは自分が否定されることと同じだ…。こんな風にして職業は人生そのものになる。

しかし、職業的な成功、自分の人生の充実が最優先目標になるとき、自分自身を超える価値はもはやなくなるという理屈になる。年齢を重ねてくると、これが大変空しいのである、な。なぜなら、そう考える自分自身はやがて死んでしまう。あとに残るものはないのだから、どんな努力をしても、なにを達成しても、それが価値あるのは自分が生きているうち。せいぜい何十年かの賞味期限付きのことでしかない。

人は喜んでくれている…?いやいや、人の心は秋の空だ。帝国を創業してもいつかは崩壊するし、それが歴史の中で評価されるかどうかは、何百年たっても定まらないかもしれない。ましてサラリーマンを定年まで勤めても、何が職業的な成功か、「さっぱり分からない」、これが凡人共通の思いではなかろうか。

かくして近代社会の人間は、自由を求めていながら、心は虚無的にならざるをえない。

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一人の人間が「個人」として存在していると考えること自体がそもそも哲学的フィクションであるかもしれないのだ。

家族を形成し、子供を育てるというプロセスは、自分が楽しいからそうするのだが、「楽しくなくともしなければ」という側面もある。あらゆる生物共通の動機である「子孫の保存」と「生存競争」への執念が根底にあると言えば身も蓋もないか。まあ、ここまで即物的でなくとも、自分を超える存在がどこかにいて、自分は普遍的存在の要請に応えようとしているだけだという思いは、誰でももちたいと願うことがある。そういう時には、仕事はそれ自体の価値をもたず、より普遍的な目的のための手段となる。


イギリスの元首相が世人をはばからずに言っている。
And, you know, there is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families. 
こういう野蛮主義ともいうべき「血の絆」を古臭い妄想と否定する力のある「文明」はいまあるだろうか。21世紀の主たる問題は、「個人の尊厳」と「血の絆」を超える普遍的な価値を、神でもなく、天皇でもなく、国でも、社会でもない普遍的な存在を、動物的な種の保存を遥かに超える知的な形式を持たせてつくり出せるのか。ここに集約されているような気がするのである。





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