2014年2月27日木曜日

大学生の4割が読書時間ゼロとはこれいかに?

大学生協連が実施した「学生生活実態調査」によれば、学生の40.5%が読書にあてる時間をゼロと回答したということだ。調査に回答したのは全国30大学の学生8930人である。サンプル数を考慮すると誤差はせいぜい1.5%程度であるから、十分正確だ。

読書時間はゼロ…、それにしては今の大学生は色々なことを知っている、ということを小生は知っているし、小生の友人もこの点は同感のはずだ。それどころかIT端末を操作する技術は完全と言ってよいほど身についているし、物事を調べるノウハウも言われる前から十分に熟達している。そう感じているのだな。

この印象と読書時間はゼロという回答は両立可能だろうか?

「読書」という言葉に、どこからどこまでを含めるかという概念定義が定かではないため、断言的なことは書けないが、学校の授業に使うテキストは読書の対象には普通は含めないだろう。「読書」とは、ある意味で自発的な行動だ。更に、ネットに接続して画面の文字を追う行為は「読書」とは言わない。読書は、単独の或は何人かの著者が書き著した一冊の本を「完読」する行為をいうのではないだろうか。だから、「拾い読み」や「斜め読み」は読書の内には入らないと思う。

このように読書とは何かを考えながら、それに該当しない行為を順に消去していくと、現代という時代、真の「読書」をすることがどのくらいあるのだろうか?そんな問いに到達せざるを得ないのだ。

21世紀という今の時代、なぜ「読書」をすることが望ましいのか?

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それには読書をする動機・目的をリストアップする必要がある。読書の動機には幾つかある。たとえば

  • 調べている事柄について情報を集めるため
  • 時間つぶし・暇つぶし
  • その作家が好き-小説、詩などのケース
  • 社会的疑問、哲学的疑問に突き動かされて読む
  • 教養のため必読書として読んでおきたい-周囲の会話についていきたい

その他にもまだ多くのモチベーションが読書にはあると思われるが、大学生の40%が読書時間がゼロという報道に接して、何となく情けない思いをするとすれば、それは上に挙げたどんな読書を考えてのことだろうか。多くの立場があるだろうが、おそらく多くの人は「社会的疑問、哲学的疑問に突き動かされての読書」、「教養のための必読書として」、この辺の読書が望ましいと、そう考えているのではなかろうか。

しかし、社会や人生で何か深い疑問を感じた時、人は他人が書いた本を読まなければいけないのだろうか?そんなことはあるまい。というより、小生の経験では、むしろそれは有害だと感じることがある。本を読むよりは、人の話を聴いたり、人と話したりするほうがよほど効果的である。

文字を通して理解できる事柄は、意外なほど狭いものである。小生は、仕事柄、数学や統計学の本を読むことが多いし、仕事とは離れて知的興味にまかせて、色々な専門書を読む。どれも論理は一貫しているし、丁寧に読めばロジックは理解できるのだが、では身につくかと言うと本を読むだけでは肝心の本質が感得されない。大事な勘所がピンと来ない。そんな感覚は、本を読んでいて誰でも感じたことがあるはずだ。先達が身近にいない場合、本を読むしか方法がない場合は、本を読んで考えるしかないのであるが、インターネットもある、YouTubeなど動画サイトもある、メールも使える、チャットもできる、DVDもあればクラウドサービスもある現代、まず本を読め、まず本を読んで考えろという助言は、小生、あまり良い助言だとは思えない。

本というのは一方的なのである。それから、本を書いた著者自身が本を書いた後、考え方を変える、というか自分が本に書いた文章に不満を感じていることが多いものだ。直接話せるなら、ずっとそのほうが良い。これに反対する人はごく少数だろうと思う。

では「教養」のため必読書を読んでおくのはどうか。まあ、悪いことではない。ただ教養というのは、知的常識、Common Backgroundとして広く共有されて初めて意味をもつ。プラトンの「饗宴」や「ソクラテスの弁明」は確かに素晴らしい著作であり、小生も読んでよかったと思っている。しかし、読んだこれらの本について友人と議論したことはない。同僚と話題にしたこともない。相手は読んでいないのだな。相手が関心があるのは寧ろインド哲学であったりする。それは小生には関心がない、というか読む時機がずれてしまって、会話としては成立しないのだ。要するに、教養というのは「共有知」となって、はじめて教養たりうるのだ。

そんな共有知として有用な読書リストが、21世紀のいま、確立されているのか?疑問である。欧米のバイブルですらどうだろう?日本の『歎異抄』や『正法眼蔵随聞記』が共有知であるべきだとは、小生には思われない。むしろ共有知として誰もが聞いたり、話したりするのは、身近にある。日本はなぜ戦争をしたのか?どんな動機で戦争をしたのか?自分にとっての論理が大事であれば、相手の論理も同じ程度に大事であろう。こんな風な感性を広く国境を超えて持てる素材は、本という形をとっておらずとも、いわゆる「古典」よりずっと意義のある、共有知として持っておくべきものではないのか。そう思うのだ。

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読書にはメリットがある一方、著者の考え方を読んでいるつもりが、いつの間にか著者に読まれる、著者に洗脳されるという負の効果がある。健康によい食材が色々と提案されているが、合意されているものはない。一長一短だからである。

小生のかつてのゼミ生は時間があったら村上春樹を読むと話していた。別の学生は東野圭吾が好きだと言っていた。それは何かについて勉強するためではない。ただ面白いのだな。

その面白さを大学生たるもの誰でも感じることができるようになれというのは無理だろう。そんなことを言い出せば、テニスたるもの大学生なら誰でもプレイできなければならない紳士たるものの修練である。そんな風になるだろう。美大であればデッサンがこの程度でよく芸術を志せるものだ…となる。ピアノも弾けずに音大に入ってサックス演奏家を志したいというのか。不真面目だ。酒の一杯も飲めなくてどうする。ゴルフに関心がないとは、あきれ果てた奴だ。人生の本質は麻雀をすれば自然に分かるものだ…。民主主義より真面目主義、国のことより村のこと。本当にこんな感じだったねえ、昔は。

大学生たるもの読書時間がゼロとは何たることかと。「学生村」の住人にあるまじき過ごし方だ。そう慨嘆する人は『▲▲たるもの、このくらいはできて当然だろう』、そんな思考法をとってきたのではなかろうか。いわゆる「金太郎あめ集団」は、そんな風にして形成された古き良き日本人集団であったのだろう。






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