2014年3月18日火曜日

ベビーシッターの国家資格まで行くとは・・・世も末じゃなあ

ベビーシッター紹介サイトを通して依頼したところ預けられた幼児が死亡するという大変痛ましい事件が起きた。

そもそも幼児を預ける・預かるというサービス取引がビジネスとして成立するのだろうかという疑問を小生はもっているのだが、今回の事態に鑑みて—役所風の言葉だ—厚生労働省まで出てきて、ベビーシッターを行う人間の質を保証する仕組みを作りたいと言い始めたのには驚いた。
インターネットの紹介サイトを通じてベビーシッターに預けられた男児が死亡していた事件を受け、田村厚生労働相は18日、ネットを介したシッターの仲介について、実態調査を行う考えを明らかにした。
同日午前の閣議後記者会見で「どういう仕組みなのか、状況を調査してみたい」と述べた。
 森少子化相も同日の閣議後会見で「保護者が安心して子どもを預けられるように、子どもの命、健康が第一に守られるようにする」と述べ、ベビーシッターの質を保証する仕組みを検討していく考えを示した。

(出所)読売新聞、2014年3月18日

ベビーシッターは、もちろん英単語であり、特にアメリカでは10代の女子にとって最も人気のある家事手伝い、あるいはアルバイトとして知られている(参照:ブログ「日米文化」)。ブログの記述は個人的意見ではあろうが、同様の話しは小生の同僚もよくするところだ。アメリカで数多く開かれるホームパーティでは夫婦同伴で参加するのが常識で、それも夜に開かれることが多い。だから、パーティが終わるまで両親は留守をする。自宅で幼児を見守る年長者が求められるのは当たり前のことになる。必要があるから、応じる人がいるのであって、自然発生的に生まれてきた小遣い稼ぎのチャンスなのだ、な。ちなみに女子はベビーシッターだが、男子は芝刈りが人気トップのアルバイトらしい。いまも同じではないかと思う。

もちろんベビーシッターにまつわる事故も多いようで、ちょっとネットを検索しても出てくる、出てくる……、ただ寡聞にして、年若のベビーシッターが油断をして、不幸にもその家の幼児が亡くなってしまった時に、関係者ーたとえば預かった若者の親や亡くなった幼児の親など−がどう対応するのか、そこは熟知していない。そんな場合には、近隣付き合いもできなくなるのではないか。思わずそんな心配もしてしまうが、当然、類似ケースは多数発生しているので、裁判になるとしても陪審員は豊富な経験知に基づいて審議できるはずだ。そうした判例や社会常識の蓄積があると思われ、ここが昔の日本ならいざ知らず、現代日本とはかなり社会生活のスタイルが違う。日本は、アメリカのあとを追うようにして豊かになってきたが、ベビーシッターの利用頻度という点では、なかなかアメリカの真似をしない。アメリカの真似はしたくない、そんな幾つかの事例の一つだと思ってきた。

その原因は複数あると思うが、結構入り組んでいると思うし、今は主たる論点ではない。それよりもベビーシッターを行う人の質を国家が保証するという引用記事は、本当に全くもう吃驚してひっくり返りそうだったのだ。

こんな風では近所の助け合いもままならない国になるだろう—何か頼まれて、もし何かの手違いが起きてしまったら、自分の責任を厳しく追及され、依頼した側、依頼された側の相互了解がどうであったかとか、社会慣習はどうかという段階を通り越して、ただちに法律が適用されるということになる。日本には陪審員がいないのだ。謝罪をしても、土下座をしても、償っても、一度び事故を起こせば、もう本当には許してはくれぬ。過失致死傷罪が認められれば罪人となる。そんな社会で人々の助け合い精神が自然に生まれてくるだろうか。

助け合いの魂をもって復興に取り組む東北地方において、そこで暮らしている人たちの絆を破壊しつつあるのは、悪口や喧嘩などのトラブルではないという。むしろ外側の上から目線でカネを配分する大企業や、法律と規則で一律に統制しようとする政府のデリカシーの欠如が原因というではないか。ベビーシッターの質を国家が保証するとき、自由な人々の交流に任しておけば円滑に発展していく助け合いが、また一つなくなるのだ。そう考えるほうが的を射ているように思う。

10代の若者のアルバイトを厳しく制限し管理しようとする社会的感覚と、その若者が大学に進学したいと思うとき資金は全面的に親に依存しようとする姿勢は表裏一体である。自主独立の精神が、本来ならば日本の若者に育つ可能性があるのを、社会的に訓練する機会を安全確保という大義名分から制限しているのが日本社会の特徴の一つである。ここに目を向けるべきじゃあないかと小生はずっと思っているのだが、この話題はまた別の機会に。

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