2014年4月30日水曜日

昨日の追録‐個人情報保護はインモラルの温床になりうるか

英語の単語に"Immoral"というのがある。PODでは次のように語義が説明されている。
not conforming to accepted morality; morally wrong
 研究者の「現代英和辞典」は『不道徳、不品行、ふしだら』という説明だ。小生、わりとこの単語を使うことが多い。

今朝のワイドショーで話題になっていたが、遠足で依頼されたバスの確保を失念し、その失敗を隠蔽しようとして自殺偽装騒動を起こしてしまった旅行会社社員。これは甚だしい不道徳・不品行である。

小生: チェックシートを確認しなかった管理職の手落ちでもあるなあ…、まあ、担当者は懲戒解雇、上司は降格処分かねえ…。
カミさん: それくらいしないと、またあるかもねえ…

ホント、またあったら困るのだ、な。

★ ★ ★

処分やペナルティは、同じことをやった全ての人に平等に課するのが理想なのだが、実はそんなことは実行段階では不可能である。現実に実行されるペナルティは、文字通りの<一罰百戒>、運の悪い人が処分される。そんな一面がある。これは怪しからんことなのか。

仕方がないのだな。平等原則に執着すると、必要十分なほどに厳しいペナルティを加えることができなくなり、結果として組織の規律が緩み、勝手で怠慢な行動をとった者が得をするという始末になる。これでは誠実に仕事に励む者から先に会社を辞めていくことになり、いずれその会社は消滅する。ゲーム論でも強調するように、ある選択をしたときのペナルティを必ず実行すると言明することの目的は、<抑止>にあって、<処罰>そのものを最初から良いこととして定めているわけではない。『目には目を、歯には歯を』というか、そんな素朴な因果応報論というか正義論に基づいて、現代社会の処罰が定められているわけではない。あくまでも巨大化し、複雑化した現代社会を円滑に運営するためのツールとして、ペナルティはある。

それにしても、当該社員が解雇されるとしたら再就職しなければなるまい。ニュースにもなってしまったから苦労をするに違いない。では、ニュースになっていなかったら…。入社を希望した先の企業は、職歴をみて「なぜ前の会社を辞めたのか?」と、確かめたいだろう。そこで前の会社の人事部に電話をしてきく。

前の会社の人事部は『実は、事件を起こしまして…』と。そう伝えていいものか?

☆ ☆ ☆

小生は伝えるべきであると思う。履歴書に賞罰欄があるのは、そうした情報が重要であるからだ。しかし<賞>のほうは本人からすすんで記載するだろうが、<罰>のほうは隠蔽する動機がある。だから履歴書に記載されている情報にはシステマティックな偏りがある。第三者から補足的な情報を入手し、人材としての価値を正しく評価しようという採用側の行為は合理的である。

だから自分にとってマイナスになる情報を<個人情報>として保護の対象にする制度はインモラルの温床になりうる。そう思っている。

では、一度不祥事をおかした人物は二度と社会に復帰できないではないか。そんな疑問も生じるだろうが、そうはならないものだ。外国語の能力を身に着けたり、資格を取得することにより、チャンスを自ら作ることは可能である。そうした努力は、過去の失敗を打ち消して、というか失敗の経験があるからこそ、一層高く評価されることにもなるのではないか。筋金入りの人物なのだから。

<偏見>とは、失敗をおかした後の努力をみることなく過去の事件に固執する態度をさす。逆に、失敗を<隠蔽>し、きれいに取り繕って偽りの評価を得ようとする人物を評価しない行為は、偏見とはいえず、評価するべきでない人材を評価しない。それだけのことである。

こんな風に思われたので、個人情報保護という制度はインモラルの温床になるのではないかと。そんな補足を書いておこうと思った。

2014年4月29日火曜日

覚え書―情報と公正のバランスは予定調和しているか

こんな報道があった。
厚生労働省の地方機関・福岡労働局が2012年7月、翌春に高校卒業予定の就職希望者に「てんかんの生徒は主治医の意見書をハローワークに提出」するよう、福岡県を通じて各高校に文書で依頼していたことが分かった。雇用における差別的な取り扱いを禁じた職業安定法などに触れる疑いがあり、厚労省は福岡労働局を指導した上で、同年10月に全国の労働局に再発防止を通知した。(中略) 
てんかんを巡っては11年4月、栃木県鹿沼市で、てんかんの持病を隠して運転免許を不正取得した男がクレーン車を運転中に発作を起こし、はねられた小学生6人が死亡した(男は懲役7年が確定)。12年4月には京都市東山区の祇園で軽ワゴン車が暴走し、観光客ら7人と運転していた男性が死亡、京都府警は男性が持病のてんかん発作で事故を起こしたとして容疑者死亡で書類送検した。福岡労働局によると、事故を受け求人側企業から「生徒の面接時にてんかんの有無を確認していいか」などの質問が多数寄せられたという。 
 このため福岡労働局は同年7月17日、てんかんを含め企業から質問や要望の多い項目について回答をとりまとめた文書を職業安定課長名で作成して県と県教委に通知し、各高校長への周知を依頼。「持病がある生徒、障害を持つ生徒を一律に選考から排除することはあってはならない」とする一方、「てんかんの生徒については保護者の同意のもと、精神障害者保健福祉手帳所持の有無にかかわらず、主治医の意見書をハローワークに提出し、早期の職業相談を」などと求めた。
(出所)Yahoo!Japan ニュース (元記事)毎日新聞、4月29日配信

職業に就くには満たすべき条件があるのは分かっている。特定の持病があるとき、その事が職業的能力を決定的に制約することもある。これもわかる。しかし、本当に特定の職業につく資格を制限したいのであれば、あらかじめ公開されたフェアなルールの下で、資格試験を実施するべきだろう。職業の自由は基本的な人権として誰もが持っている以上、恣意的にその権利が侵害されることがあってはならない。これを否定することはできない。

これが原理原則であるのだが、もつべき資質・能力を志願者がもっているかどうか当人に直接確認したい時というのは確かにやってくるものだ。また、ある業務に配置する人材が持つべき資質・能力を正確に理解し、、志願者にそれを確認することの必要性を明確に認識していながら、企業がそれを敢えて確認することなく採用をして、もし万が一あとになって、潜在していた病気が発症して、重大事故が発生するとすれば、採用時の過失責任が企業にあるのかないのか?これも問題だろう。

しかし、そんなことを言い出せば、雇用側があらかじめ把握しておきたい情報は山のようにあるだろう。「てんかん」にとどまらず、「狭心症」などの循環器の持病も該当しよう。不整脈ですらアウトかもしれず、最近30日間の最高血圧が150を超えていればそれもダメ、そんな風になるかもしれない。かもしれないと言うより、そう扱わないと「てんかん」の患者を不当に差別することに該当する。そこが問題なのである。

病気ではなく、犯罪歴ならどうか?ある百貨店で買い物をしていたところ、犯罪歴のある契約社員がいることが(どういう経路か知らないが)分かってしまい、「不愉快だ」と顧客からクレームが寄せられてしまった。それでも百貨店はその社員を解雇できないか。会社側は、あらかじめその人の履歴を知っておくべきだった、知りうるべきであった、その人は採用を希望した時点で自分に関することを全てではないにせよ、聞かれることには全て正直に回答するべきであったと言うべきか。百貨店という場所は、すべての客が安心して、愉快に、楽しく買い物をするところである。過去に犯罪をおかしてしまった人物が働いていることは、顧客の希望をないがしろにすることなのか?それとも社会の側に<偏見>という問題があって、そちらを改善するべきなのか?

そもそも、仕事に就こうという人の立場から言うと、資質や能力、適性を言うのであればそれは採用された後で企業が実施する教育訓練や健康管理体制によって、結果は変わるであろう。最初からその人が持って生まれた資質や能力を、その人が歩んできた過去の履歴を問う事自体がフェアではない。こうした意見があってもよい。これが真の意味で「未来志向」というものじゃあないか。

福岡労働局の措置は多数の希望に沿って行われたことであった。それを不適切であったと指導したわけであるが、こうしたことは司法の場で審議を行い、結論を出した方がよい問題であると思う。議論の積み重ねがもっとも重要だろう。行政官庁の指導でケリがつく問題ではない。

2014年4月27日日曜日

拡大期・国家の非合理性と予測不可能性

1931年から第二次大戦終戦まで日本の行動に予測可能性はなかったようである。その意味ではこの15年間、帝国日本に合理性はなかったと評されてもいいと思う。いうまでもないが、1931年というのは、突然、満州事変が起こった年である。

その後、日本はソ連に対抗することを基本戦略とするか、満州の奪還を目指す中国ナショナリズムと対峙することを優先するべきかで路線闘争を繰り広げることになる。

1937年に始まった「日華事変」は、全面的な日中戦争だったが、どちらが戦略的主導権をもって始めたことなのかは諸説あって直ちには決めかねるが、日本政府には満州事変の鮮烈な成功体験の記憶があったに違いない。実際、中国の主要都市は驚くべき速度で日本が占領するところになった。計算違いは、それでも中国政府が戦争を継続したことである。早期和平を望んだのは陸軍であり、勝利の報酬にこだわったのは内閣である。こうして「日華事変」は、前例のない泥沼の戦争になってしまった。この時点で日本は出口のない隘路を歩まざるを得なくなった。

中国には勝てぬと見た日本は北へ向かった。対ソ連である。しかし1939年のノモンハン事件で壊滅的打撃を受けたことで、ソ連の軍事力には勝てぬことが分かった。そこで日中戦争の解決を目指した。中国を大きく南方から包囲すれば四川省に移った中国政府の補給線を絶てる。しかし、南方に進めば英米の権益を侵害する。とりあえず英米とは関係が薄い北部仏印(=ベトナム周辺地域)に1940年に軍を進めた。日ソ中立条約を結んで北の脅威をなくした1941年には南部仏印に進む。ところが同盟を結んだドイツがソ連と戦争を始める。日本も条約を破棄してソ連を攻撃することの有利が議論された。満州に配置される軍を増強した。

1941年に南部仏印に軍を進めた段階で、アメリカが対日石油禁輸措置に踏み切った。海軍は対米開戦やむなしと腹をくくり、その年の冬に対米・英・蘭戦争開始するまで一直線となる。

こうしてみると、戦前期・日本の崩壊過程は、対中国関係の悪化が主因の一つを為す。この点は明らかだ。

× × ×

天廻り地は転じて、今日、中国は海洋進出を図り、日米、というかアメリカの権益と衝突する方向にある。尖閣諸島はその衝突劇の最初の断片にすぎないが、オバマ大統領が直接発言することで、防衛に向けたアメリカの本気度が相当明らかに示された。

中国の最終的目的の一つが台湾統合にあることに疑いはないが、台湾統合だけが中国の夢ではない。実際、中国はあらゆる方面で国境紛争を抱え込んでいる。

中国の戦略軸は「東進」、「西進」、「北進」、「南進」の四つがあるが、いずれに進んでも歴史的国際秩序と衝突する。その衝突をおそれずに実行するとすれば、東進でなければ、北か、西か、南に決まっている。西に向かえば、インドとの国境紛争が再び激化し、イギリス、ひいてはアメリカと対決することになる。それにインドは核武装している。南に行けばベトナム、ミャンマーがある。強硬策をとれば、欧州、アメリカと敵対することになる。北はロシアがいる。ロシアとの国境紛争は、プーチン政権になってから、あらかた解決してきたが、尖閣諸島が失われた領土であるなら、1860年の北京条約でロシア帝国に譲渡された沿海州も失われた中国領土の一つだろう。小さな岩礁とは異なり、広大な領土である。ウラジオストクはロシア帝国が建設した植民都市である。しかしながらロシアも核武装している。

中華民族再興という奔流のようなナショナリズムが、東から北に転じるならば、日本は安堵し、アメリカも欧州も次はどうなるかと心配はするだろうが、別に気にはしないだろう。とはいえ、東の日本はアメリカの核の傘にいるというだけだ。日米離間の策を講じる誘因が中国にあるのは確かだ。

中国から観れば、東と南が有望に見えるだろう。そこで海洋進出を唱える。これこそが侵略につながるという意識は、かつて侵略された中国にはないであろう。

× × ×

今朝のNHK『日曜討論会』の話題は、オバマ大統領来日とTPP、それから中国の将来だった。別に、上のような歴史的な話が語られたわけではなかったが、日本にとってアメリカと中国は、国の在り方が変わらないとすれば、将来もずっと付き合わなければならない大国であり、難問であるに違いない。


Goch, Night Cafe in Arles, 1888

ゴッホの水彩画はあまり見ないが、色の配置には日本の浮世絵の感性がにじみ出ている。部屋を透視図法的に眺めるのではなく、斜め上から見下ろす源氏物語風の吹抜屋台法をとっていれば、日本人が描いた作品かと思うだろう。このままでも、まるでスタジオジブリが制作したアニメの一画面であるかのようではないだろうか。

文化は、武威や威信の感覚とは無縁のものであり、一方が他方の産物を「いいね」と認めれば、急速に伝播するものである。伝播して、浸透して、定着すれば、人の交流が盛んになり、生活は豊かになる。

人類の最終的目標は、文明の興隆にある。国家の威信が気になるのは、戦前期・日本と同レベルの議論である。それでも中国が失われた威信に郷愁を感じるのは、歴史を通して常に中華であったためである。そして共産党政権は抗日戦に勝利したという武威によって正当性を保っているからである。日本に対して下手に出るわけにはどうしてもいかないのだ。第二次大戦の終結で日本は明治以降に得たものをすべて失い、幕末に比べてすらもっと小さくなってしまったのだが、今日の日本人は失われた日本の威信に憧れたりはしない-ごく少数のアナクロニストは常にいるものだが。覇権はアメリカと中国が争うものだ。もし、万が一、中国でアメリカとの最終戦争論が考えられているとすれば、それは戦前期・日本の名参謀であり、その後すぐに時代に追い越された石原莞爾と同じレベルの議論であると言わざるを得ない。

中国が<中華>であり続けたのは中国文化によるものだ。中国の武威が周辺国を屈服させたからではない。その文化的影響力が、いまの中国にはない。それが問題の源だ。


2014年4月25日金曜日

メモ-米大統領訪日の成果はあったのか

二泊三日の訪日を終えたオバマ米大統領は、本日韓国へと向かった。

成果はあったのだろうか?
日米両政府は25日午前発表した共同声明に「日米安保(の対象)は尖閣諸島を含め日本の施政下にある全ての領土に及ぶ」と明記した。「米国は尖閣への日本の施政を損なおうとするいかなる一方的な行動にも反対」とし、海洋進出を活発にする中国をけん制した。(日本経済新聞、2014年4月25日)
尖閣諸島が日米安保の対象に含まれると明記してくれたというので、安倍内閣は「やった、やった」と歓迎しているという。しかし、閣僚が言ってきたことを大統領自ら繰り返したというのだから、実質は何も変わっていない。

TPPは「前進する道筋を特定した」という訳のわからない文言になった。

今回の訪日の成果を要約するとこんな風になるらしい。
日米両政府はTPPの協議結果や24日の日米首脳会談の合意内容を盛り込んだ共同声明を発表した。TPPは「重要課題について前進する道筋を特定した」と強調。安全保障では、沖縄県・尖閣諸島が日米安全保障条約に基づく米国の防衛義務の対象であると明記した。(上と同じ)
何しに来たのかねえ…そう考える人は多いだろう。それにしても『豚肉が、自動車が』という話を大統領がやってきてからまだやるかねえ。アメリカからみれば失礼な話かもしれない。大体、米の関税引き下げを最初から除外すると決めたのも理念・ロジックにかなわない。

× × ×

それにしても北海道新聞などこんなことを書いている。
日米関係を内政に利用する姿勢は大統領も同じだ。TPPがもたらす輸出や雇用への好影響を国内向けに強調する。対決続きの議会をなだめ、自らの2期目の実績づくりを狙う態度が見て取れる。
 TPPにはアジア太平洋地域の貿易や投資のルールを打ち立て、中国をけん制する狙いがある。そのために農業をはじめとする日本の産業が壊滅的打撃を受けるのでは本末転倒だ。(北海道新聞社説、4月25日)
唖然とするほどの理解ぶりではないか。

確かにTPPにはアメリカ経済を活性化する一面がある。アメリカから日本をみれば、TPPによって日本の農産物市場にアクセスできることになる。これはアメリカの得であるに違いない。だから大統領がアメリカ国内の農家のために頑張っている。確かにそう言ってもウソではない。しかし、日本人はこれを求めてはいないのか?求めていると思うから、日本の農家は心配なのだ。買いたくなければ買わなければよい。買うのはそれがいいから買うのである。それは日本人にとって得ではないか。なぜそれを言わないのか?いえばTPPから利益をうける日本人が、売れ行き不振に陥る農家の数に比べて、あまりに多いという事実が知れ渡ってしまうからだ。

前にも書いたが、農産物聖域5品目を完全自由化すれば、日本の家庭のエンゲル係数は他の先進国並みに下がり、金額にすれば毎年30~40万円程度の恒久減税に匹敵するほどの利益を得るだろう。そして、日本側が農産物を自由化しようといえば、アメリカも自動車、特にトラックの関税をゼロにして応ずることはほぼ確実である。

道新のいう「農業をはじめとする」は事実であるが、「日本の産業が壊滅的打撃」とよくもまあ付け加えたものだ。この感覚には脱帽するしかない。『真面目に議論しよう-TPPは誰がどれくらい得するのか』、そんな24時間特別番組を企画する必要があると思うのだ、な。

× × ×

オバマ大統領の訪日成果はゼロなのだろう-密約でもあれば別だが。そもそも米議会で「大統領貿易促進権限(TPA)」法案が通らず、首脳が合意してもアメリカの議会でひっくり返るかもしれない。これじゃあ、日本が真面目に譲歩するのは愚かであろう。この点は無視できない。

この秋の中間選挙で民主党が負ければ、2年間はそのままだから、そこから再開してもいいくらいだ。こうも考えるだろう。

TPPは、次の大統領選挙までほどほどに付き合いながら、それ以外のFTAをまとめていく。中国、ASEANとのFTAのほうが日本にとっては、巨大な恩恵がある。確かにそうだ。

オバマ大統領からみれば安倍総理は使い物にならないかもしれないが、それはお互い様なのかもしれない。全体的には、大統領が失ったものの方が首相より少しは大きいのかもしれない。



2014年4月23日水曜日

メモーこんな路地があったら面白い

昨晩みていたボンビーレシピから思いついた事。

小生: 港町なんだからさ、何とか小路とか何とか横丁もいいけどさ、ある路地をはいったらね、「ボンビーレストラン」とか、その隣には「貧困食堂」があるのよ、向かいには「超安亭」があって、斜め向かいの縄のれんは「酒貧窟(しゅひんくつ)」、その隣には回転寿しの「愚留愚留雑魚場寿司(ぐるぐるざこばずし)」。いいだろ?入るよ。
カミさん: ほんとよく思いつくよねえ、いいけど、お金もってない人たちばかり入ったら、やっぱり儲からないんじゃない?
小生: 出すのはボンビー飯だからねえ、人数で稼ぐんだよ。どう?観光の名所になるだろ?
カミさん: テレビにはなるかもね。
小生: それにしても金持ち・富裕層が集まり住んでいたこの町に貧困ストリートができたら、世の中変わったってことになるだろうねえ…
貧乏でも幸福はそこにある。うなるカネを持っていても、幸福は逃げていき、不信と孤独が忍び寄るものである。

少子化と高齢化を放置すれば、必ず日本人の生活水準は下がる。これは確実だ。だから大量移民受け入れになるのか、だからTPPで経済成長を求め農業は犠牲に供するのか?

貧乏にはなっても、何代か前の先祖の生活水準に戻るだけだ。夏の暑さを、冬の寒さを、じっと噛みしめるのも人生のスパイスだと思えばよい。「貧乏なんてこわくない」、そう開き直れば別に何もしなくてもよい。没落の権利は国民にある。こんな選択肢もあるというものではないか。

以下は今日のメモを書いていて、さらに思い付いて書き足した: 

親がこんなことを言って、実際に貧乏に耐えるのが子供の世代というのは、これはやっぱり無責任?、いや無遠慮?、それとも無気力?ま、なんでもいいが、誉めてはくれまい。子供たちからは『俺たちの親ってさ、あれよ、三無主義?というか、五無主義?とにかく自分勝手で、やる気なかったわけよ』。そんな風で、非常に評判の悪い世代になってしまうだろうねえ。

粗暴で攻撃的であったが、幕府を倒して停滞から発展への道を開いた幕末の志士たちの世代は、150年が過ぎたいまでもやっぱり評判がいい。攘夷を志しながら、いざ政権をとったら世界の潮流を理解して、国民に評判の悪い文明開化政策をとった明治の政治家も、評価は決して低くはない。『日本は滅びるね』と漱石は「三四郎」の暗闇の牛に語らせているが、それでも明治の政治家は庶民に媚びず、為すべきことを為そうという志だけはあったのだろう。

2014年4月21日月曜日

日中、どちらも首脳の取り巻きが悪すぎるのではないか

商船三井株が下げている。理由は、無論、中国の裁判所による船舶差押えである。本日の日経は以下のように報道している。
(13時55分、コード9104)下落。一時前週末比8円(2.2%)安の351円まで下落した。中国当局が19日に商船三井が中国で保有する大型輸送船を差し押さえたと発表した。今後の事業への影響を警戒した売りが出ている。商船三井に対しては、日中戦争が始まる直前に商船三井の前身となる日本の海運会社に2隻の船を貸し出した中国企業の経営者の親族が当時未払いの賃貸料や損害賠償を求めて提訴していた。中国での裁判では商船三井の敗訴が確定していたが、同社が賠償に応じていないとして上海海事法院(裁判所)が差し押さえを命じた。
 差し押さえを受けたのは鉄鉱石運搬船の「バオスティール・エモーション」。商船三井は敗訴確定後に、和解を求めて原告側に示談交渉を働きかけていたが、突然差し押さえを受けたという。同社の広報担当者は「情報収集中で対応策は決まっていない」とコメントした。
 市場では「現時点では業績への深刻な影響は織り込まれていないが、企業努力での解決可能かどうかは不透明な状況。同様の事例が続く懸念も出ている」(国内証券)との声が出ていた。〔日経QUICKニュース(NQN)〕
和解に向けて努力していたところ、突然、裁判所から差し押さえ命令が出たということだ。このところ、胡耀邦・元総書記の長男・徳平氏が来日し、安倍首相と会談したり、汪洋副首相が訪中した河野・元衆議院議長と会談するなど、今後の日中関係の改善を模索するような動きが見られていただけに、また「揺り戻し」かと。そんな心配をする向きもある。

「揺り戻し」なら靖国神社春季例大祭に新藤総務相や古屋国家公安委員長が参拝したことも「揺り戻し的行動」であると言えそうだ。また安倍総理の友人・知人グループの一員でNHK経営委員をしている長谷川氏が外国特派員協会で「積極的平和主義」と「自殺賛美」との関係について話したということだが、これも日本から発信されたブチコワシ的揺り戻しの一つに数えられるだろう。
埼玉大名誉教授でNHK経営委員の長谷川三千子氏が2014年4月15日、日本外国特派員協会で会見し、右翼団体幹部の野村秋介氏(当時58)が朝日新聞社で拳銃自殺したことを賛美するともとれる原稿を追悼文集に寄稿したことについて、自殺は「ミステリー」で、寄稿は「私自身の解釈を述べた」ものだと釈明した。…(中略)… 長谷川氏は、野村氏の没20年を機に発行された文集に、「人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどと露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである」といった文章を寄稿。これが「テロ賛美」といった批判を受けていた。 
この日の会見のテーマは、安倍政権が推し進める「積極的平和主義」。野村氏の自殺が「積極的平和主義なのか」と問われ、長谷川氏は「ある意味では、そうだ。一部のジャーナリストには、これが『ジャーナリズムへのテロ』だという誤解がある。本当にそれ(自殺)が意味するところは、彼に近い人にとってもミステリーだ。大きな謎(エニグマ)を残した三島由紀夫の自殺のようなものだ。多くの解釈があり得る。彼(野村氏)の自殺について、私自身の解釈を述べた」と述べた。
(出所)J-Castニュース、2014年4月21日

やはり安倍総理の取り巻きに属するとみられるNHK会長の籾井氏に至っては週刊誌に格好の話題を提供しつつあって、もはや全うな人物として見てくれる人がいるのかいないのか怪しくなってしまった。安倍総理自身は、対米外交も重要、対中外交も大事、対韓外交も大切で、それぞれ戦略的方針は固まっているのかもしれないが、『一体、どうしちまったんでしょうねえ、あの人たちは…』とでも言おうか、周囲の人がバラバラと勝手に言いたいことを言っては、トップの安倍総理にダメージが戻ってくる、そんなブーメラン現象が顕著に認められているのだ、な。ま、昨年末に自分自身でやってしまった靖国参拝が最大級の揺り戻しになったことも記憶に新しい。一部支持層に対するサービスなのだろうが、心から歓迎したグループはそう多くはないと思う。

「取り巻きが悪すぎる」というなら中国の習近平・国家主席もそうなのかもしれない。いくら文革期の下放で若い頃に苦労をしたと言っても、もともと革命期功臣を父に持つ太子党に属する人物である。政治基盤は、改革派ではなく保守派であり、国家の進歩よりも既得権益の擁護を重要視せざるをえない立場に身を置いている。この点は安倍総理その人と非常に共通していると思われるのだ。祖父や父が敵対していたのであれば、自分たちもまた互いの敵である。そういう血の宿命であるな。

日本から中国をみていると、次はどんな攻撃をしかけてくるか予想しがたい、そんな危険の香りが充満しているのであるが、中国から日本を見ていても『いまの安倍政権は危険でいっぱい』、そんな気分で溢れかえっているのだろうと察しはつくのである。

「取り巻きが悪すぎる」。この一言で総括してもいい。互いに敵視しあう状態を続けたくはないが、危なくて自分の方から融和的態度はとれない。それが現時点の日中両国の政権であると思われる。

2014年4月18日金曜日

覚え書-自白と証拠

10年近い年月を経て解決に至りそうになっている女児失踪事件が、今朝のワイドショーでとりあげられていた。

別件で逮捕された容疑者が、上の事件にも関与していると話し始めたというのだ。

カミさんとの会話録:

小生: 古い事件だねえ。だけど、もう物的証拠は出てこないのじゃないかなあ。で、あれだね…、状況証拠があれば、本人が否認していても死刑判決を出せるわけだからさ(毒入りカレー事件)、ということは自白があっても物的証拠がなければ無罪を出さざるを得ない。そういう理屈だろ?
カミさん: それは違うんじゃない?そうはならないよ。
小生: そうなるよ、それが理屈ってものだよ。
そうはならないよと言ったカミさんの感覚の方が現実的なのは分かっている。しかし、論理はやはり小生の方に味方していると思う。

証拠の存在が本人の認否に優越するのなら、証拠の不存在は本人の認否にやはり優越すると結論しなければならないだろう。だから、証拠がなければ自白があっても無罪としなければならない。

「証拠」とは、統計学者のいう「データ」である。データは、ないより在るほうが良いに決まっている。しかし、データにはねつ造されたデータ、いわゆる「データ・クッキング」もありうる。ねつ造されたデータなら無いほうが良い。だから、データがあるということ自体は、プラスでもマイナスでもないのである。

そして、データが無いという状態は、なにも分からない。むしろこちらの方がシンプルに結論を出せる。そう考えるべきだろう。

2014年4月17日木曜日

覚え書-早とちりの研究発表は許容範囲だ

小保方氏の「STAP細胞・研究不正騒動」がまだ続いている。昨日は、小保方氏が所属している理研内センターの副センター長をしている笹井氏が会見を行った。

井戸端会議の格好の話題になっているが、小生が考えてしまうのは、数学と自然科学との違いである。数学であれば、ある主張が正しいか誤りであるかを示すのに、何かを観察して実証する必要は全くない。その結論を主張している人が「証明」と称しているその論理的プロセスをチェックするだけでよい。どこかに論理的破綻が1か所でもあれば、それだけで主張はすべて崩れ去ってしまう。

もちろん主張が正しい可能性は残されるが、証明されていない以上、それは単なる「予想」でしかなくなる。

生物科学は実証科学であるから、論理的な誤りがあるかないかではなく、実際にそういうものが存在する、あるいは現象の帰結を予測できる。こんな検証が不可欠なわけだ。今回の論文には幾つかの不備があり、肝心の実験データの整理も不完全で、しかも重要な点については特許申請との関連もあるというので明らかにできない、と。そのため、公表したはずの論文の主張は、真なのか、偽なのか、そこが揺らいでいる。

どうも会見をきいていると主張は真と思われるが、その実証が不十分であるため、STAPの存在が証明できたわけではない。しかし、その存在を仮定しないとデータを説明できないので、「仮説」としてはやはり有効である。そういう受け取り方でいいのだろう。とすれば、確かに年の初めの発表は「早とちり」であった。

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こんな事態は、大きな課題に取り組んでいる時にはまま起こるものだ。実験データとは縁のない数学の仕事でも発生する。

「フェルマーの最終定理」という永らく証明できなかった世紀の難問があったが、1993年になってアンドリュー・ワイルズ(Andrew J. Wiles)が360年ぶりに解決したと突然発表した。人は皆驚いたが、それまでのワイルズの業績をみると、はなから否定するわけにはいかなかった。「最終定理の証明」は信じるに値したのだが、実はこの時のワイルズの証明には間違いがあった。その後一年間、ワイルズは証明の不備を解決できるかで苦闘を続け、一時は自分の早とちりを認め、降参しようかとも考えたようなのだが、ついに一つの閃きから最終的な解決へと到達し、今日ではフェルマーの最終定理は解決済みの定理となっている。

論理的検証だけですむ数学でも、大天才が早とちりをして、失敗しそうになる。まして運・不運や周辺条件の微細な違いから、安定した結果が得られにくい自然科学においてをや、ではなかろうか。

社会科学でも幾らでも類似例を挙げることができる。有名なのはMartin Feldsteinの論文 “Social Security, Induced Retirement, and Aggregate Capital Accumulation,”(JPE、1974)にある試算結果である。最近では2010年にラインハート・ロゴフ(Rheinhart & Rogoff)が発表した論文 “Growth in a Time of Debt,” (American Economic Review Paper and Proceedings, Vol. 100, Number 2, May, pp. 573-578)に誤りがあるというので、ちょっとした騒動になった-「騒動」といっても、学界限りの一騒ぎで、世間的に指弾をうけるという程にはならなかったが。

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確かに普通に注意をすれば「見落とし」や「計算ミス」は気が付くことが多い。健全な常識をもって自分の行っていることを冷静に見ていれば、あまりに酷い早とちりはしないものだ-ただ、第三者にあらかじめ研究結果を見てもらうなどは、普通はしないものである。

それ故、「故意の不正」とも受け取れるような間違いは、謝罪に値する。それは確かだ。他の研究者に迷惑をかけ、結果的に無駄な仕事に誘導してしまうからである。山を登っているパーティの先導がルートを間違えば全員が危険に陥る。

しかしながら、間違ったときに、『なぜ間違いだと認識できなかったのか』とか、『結果的に間違った主張をしてしまった責任をどう考えるのか』とか、まるでビジネス現場の損害賠償を議論するかのように触れ回るのは、これは的外れであると思う。利害を相手とするビジネスではなく、真偽を競う研究において、ある主張が間違っていたとして、それはマイナスの価値にしかならないのだろうか?そうではない。間違いにも価値がある。だからこそ研究はリスクが高く、採算には乗らないのだ。期待した結果が得られないにもかかわらず、『よし、よしっ』などと言っていれば、そりゃあビジネスではない。

ビジネスでは「過失責任」が厳格に適用され、「悪意」の有無も重要だ。研究はビジネスではない。成果が得られなかったとしても、そういう結果も予想しておくべきなのであって、それは「過失」ではない。「故意」に粉飾することも時にあるだろう。その動機もなくはない。やはり研究不正は起こりうる。しかし研究を共有知にするなら、「悪意の粉飾」から得られる期待利益はマイナスであるはずだ。特許を得ても、無効のアイデアなど活用されるはずはない。「早とちり」や「取り違え」は起こりうるものである。小生もクズのような計算結果に飛びつきそうになったことはある。思い込みがミスを誘い、早とちりや偏った選択をさせてしまう。とはいえ、「思い込み」は時に「信念」となり、「エネルギー源」にもなるのだ。

ビジネスは暮らしと直面しているがゆえに、不注意や失敗は直ちに顧客の損失となる。その責任が生じる。研究は、それとは違い、成功しようが失敗しようが、私たちの生活とは直接には関係がないのだ-「いえ、関係あるんですよね」と言えば、これ即ち「研究」の形を借りた「ビジネス」であって、だからこそ「産学連携」には以前から批判的な眼差しがある。どうも話題から外れそうだ。ま、筋論からいえば研究と暮らしには関係はないが、研究の成功は将来を豊かにする。だから、ただ成功を期待して待てばよい。これが理屈だ。

マスメディアは、世間の物差しを当てはめて、関係者が互いに傷つけあう状態に誘導するべきではない。それこそ社会的にはマイナスの貢献をしていると言われても仕方がない。

2014年4月15日火曜日

国会議員の収入は高いか低いか

国会議員歳費の減額措置が終わるというので揺れている。

そもそもが日本の国会議員、というより県議会、市議会など地方議員を含めた議員一般の待遇は諸外国に比べて、相当優遇されているという指摘がある。

その指摘は正しいかどうか、統計データを参照して論じるのも面白いが、これまでにもとりあげてきたので、今日は別の観点を覚え書きとして記しておきたい。

議員ではなく一般公務員の俸給は非常につつましいものである。その昔、小生がまだ小役人をやっていた頃、超勤手当は半分もつかないし、毎日の睡眠時間は自宅との往復を入れれば3時間か4時間しかなく、それに官舎といえば聞こえはいいが、外観はぼろぼろで出はいりするのも恥ずかしいくらいだった。いま暮らしている北海道に移住する直前、関西地方の某国立大学に勤務し、その時は大阪近郊の合同官舎に入っていたのだが、ある時期、トイレの水が流れなくなり、直してくれるまでしばらく風呂場の浴槽に残っている水をバケツにくんで流していたことがある。官舎というのは、自分の家ではないから、自費では修繕不可なのだ。

ま、いずれにせよ、国会議員はそれよりはずっとましであり、事務次官より高い歳費を支給されると規定されている。しかし、議員の立場、というか業務の進め方に目を向けると、必ずしも一般公務員と同列には話ができないことも分かる。一般公務員は、大きな組織の中で細かく仕事を分担して業務を進めているので、一人一人の寄与は大きくはないのであって、また仕事がつくり出す価値は、その人の人的能力に加えて官公庁が有しているハード・ソフトの資源全体が併せて使用されて、生まれているものである。

それに比べると、国会議員は政党には属しているが、議員の本務である立法作業を支えるのに、どれほどの資源が投入できているのだろう。議員秘書といってもせいぜいが数人。役所なら局はおろか、一つの課にも足らず、まあ室長程度の規模で仕事をしているに過ぎない、これがほとんどの議員が置かれている状況であろう。これでは、個人商店なみのアウトプットしか出てはこない。だから、必要な人手を雇用するために歳費から自腹をきる。

議員は、国家に雇用される公務員であり、支給される歳費は給与であるには違いない。とはいえ、実態は個人事業主に類似した活動を行っており、判事や検事よりも法律事務所を経営する弁護士により近いと言うべきだろう。だとすれば、概ね2000万円が支給されていると言っても、給与所得控除は大きく認めるべきかもしれず、それよりは経費を差し引き事業所得として所得金額を確定するのが実態に合っているような気もするのだ、な。経費率を半分とすれば、所得はせいぜいが1000万円。最近は、「身を切る」という名目で様々な減額措置がなされ、収入は1600万円ほどであるというから、所得は800万円程度。こう見ると、決して高額でもないであろう。銀行であればまあ係長程度の支給額に近いのじゃあないか。

日本は、むしろ国会議員の数を減らして、一人一人の歳費はむしろ引き上げるという措置も、とんでもないというわけではないようにも感じるのだ。ともかく、何事も思い込みによる断定は禁物である。

もちろん、国会議員は歳費に加えて、立法事務費や文書通信交通滞在費が手厚く支給されている。これらの金額が適正であるかどうかも大事だろう。しかし、官公庁の一般公務員なら、これらの基礎的業務経費に相当する部分は、給与ではなく公費負担として最初から役所が負担している。議員は、たとえば出張命令を受けるわけではなく、大きな組織には属していないので、こうした負担措置はやはり必要だろう。

引き合いに出すからと言って特段の理由があるわけではないのだが、たとえば専門職の代表例として「弁護士」になれば、30歳程度で5000万円程度を稼ぐ人も、決して稀ではないときく。国会議員が果たすべき業務の重要性とのバランスを考えると、確かに非正規雇用者に比べれば高額ではあるが、高給ぶりを非難されるほど高いとは言えないのではないだろうか。マスメディアは、一方ではこういう眼差しもありうることを考慮しながら、冷静にバランスよく報道してもらいたいものである。

2014年4月13日日曜日

受け手の知力・知識がなければ情報はすべて流言飛語になる?

どこが悪かったのか今もって分からないが、二日間寝込んだ後は順調に回復し、明日は本務先の初授業がある。

いま「統計」の授業方式は世界的に激変期にある。小生もずっと伝統的、というか記述統計➢確率変数と確率分布➢標本分布➢統計的推測という編成で授業をやってきたが、これでは履修者が理解するまでの時間がかかり、求める数学的力量も高きに過ぎるのだな。

ビッグデータ時代には「少なすぎるデータ」が問題ではなくなり、「多すぎるデータ」が問題である。一口にいえば、確率的な考え方が統計をマスターするうえで必要不可欠な数学的予備知識とは言えなくなりつつある。だから、教授法に迷うのだ。

で、小生は今年度からかなり授業スタイルを変えることにした。基本ツールもエクセルではなく、最初からRを使うことにした-これ自体はそれほど新奇ではない。地方の小売業もPOSデータを経営資産化するためにサーバーを設置する時代だ。標準誤差とか、有意性とか検出力とか、のんびりと授業をやっている暇はだんだんなくなりつつある。そんな感じがする。

ま、どちらにしても統計は情報の取り扱いに関する科学である。情報の扱い方を知らないより、知っているほうが良いに決まっている。しかし、統計を知っているからと言って情報の受け取り方が上手になるわけではない。

★ ★ ★

こんな「情報」がある。
東京都健康安全研究センターが各国の養殖サーモンに含まれているダイオキシン濃度を調査してみたところ、ノルウェー産の養殖サーモンから他国を上回るような高いダイオキシン濃度を検出しました。
「輸入サケ類のダイオキシン類残留レベル」という資料によると、ノルウェー産サーモントラウトから5.2pgTEQ/gのダイオキシン濃度を検出したとのことです。チリ産のサーモンから検出されたダイオキシン濃度は0.38pgTEQ/gなので、実に15倍もの差があることになります。
元々、ノルウェーの養殖サーモンにはダイオキシンが多く含まれていることが有名で、世界各国の専門家がその危険性を指摘しており、「消費者はスコットランドやノルウェー、カナダ東岸産の養殖サーモンを食べる機会は年3回(3食)以下に抑えるべき」と述べている研究者もいるほど、その危険性は高いです。
養殖サーモンに含まれるダイオキシン類の毒素は、自閉症や神経疾患、脳委縮を誘発し、人体に多大な悪影響を与える可能性を秘めています。
チリ産のサーモンはダイオキシン濃度が少ないとは言え、ダイオキシン類以外にも化学系の餌や添加物が加えられているので、養殖物の食べ物は出来る限り避けた方が無難です。
(出所)真実を探すブログ

小生が暮らす町でもスーパーではチリ産のサーモンを売っている。が、愛用している市場の店ではノルウェー産を買えるのだ-いうまでないが、ノルウェー産サーモンは脂がのっていて旨い。そのノルウェー産が心配だとはねえ…カミさんに話すと、それ以来、冷凍・買い置きしているサーモンを使おうとしない。

ただ、どうなのだろう。上の情報が公開されたのはいつなのだろう。日付が見当たらない…というか時間軸についての記述がないのである、な。一番古いコメントの日付は2013年11月23日なので、昨年秋時点の 状況を踏まえていると推察されるのだが、書かれている内容はその時点で有効なものなのか、以前はそうであったのか、ここがまた明らかではない。

どちらにしても、気を付けたほうがよいに越したことはないが、どの程度の信頼性を持たせればよいのかが分からない。まかり間違ったら、こうした情報は「流言飛語」となって、ネガティブ・インフォメーション・バブルの核になりうるのではないか。そう思ったら、なにがなし一抹の怖さも感じるのだ。

☆ ☆ ☆

本日は4月13日。歴史人物誕生日カレンダーによれば、今日生まれた歴史人物として英人・トレビシックを挙げている。蒸気機関車を発明した人物だ。あれっ、これはスティーブンソンではなかったか?調べてみると、George Stephensonは、蒸気機関車を実用化し鉄道事業への道を切り拓いた人物であるようだ。


SLニセコ号

かつて日本経済を支えた柱は、北海道に勤務する国鉄職員であり、四季を通して石炭を国内に安定輸送せずして日本の産業が回ることはありえなかった。事故や遅延が日本経済の停滞要因になるのは明らかだったわけだ。その後身である「JR北海道」の技術的伝統が揺らいでいる。伝統の揺らぎは、組織・技術の継承に問題があり、継承の揺らぎは戦略に原因がある。そして戦略の問題は、経営目的の正当性にまで遡るか、でなければ目的に対する戦略選択が最適であったかという問題に帰着する。
 
人間の思考や行動とは別に、SLの走る姿は美しい。組織の運営もまた、美しく正当なロジックを通してほしいものである。伝統が単なる因襲に堕落してはお先真っ暗だ。

2014年4月10日木曜日

愛しのクレメンタイン、愛しのカモ南蛮

火曜日に担当科目のオリエンテーションがあったが、起きた直後からだるくて、朝食を食べる気がしなかった。研究室には早めに入ったが、ゾクゾクとした寒気を感じ、ただ目をつむって椅子でじっとしていた。そういえば、前の夜から腹がしくしくと痛む感じで、寝返りをうつたびに腰から背にかけて痛みが走った。インフルか?それにしては喉は痛くない。いや、痛いことは痛いか…。分からん。が、とにかくしんどい。熱も出ているようだ。昼食に買ってあったパンは食べる気がしない。こんな感じでオリエンテーションを終えると、その日用事があって車を使っていたカミさんを呼んで、宅に戻る。戻ってすぐ寝込む。目が開けておられず、ひたすら眠る。「夜は何か食べれる?」、カミさんが聞くので、「重湯を作ってもらうかなあ…それに生姜をおろして、たっぶり添えて」。山のような生姜を一つまみずつ重湯に入れながら口にする。普段なら二、三回食べただけで閉口するはずだが、妙に美味くて、体が求めている感じがしたのは不思議なことだ。食後、プロポリスを10滴ほど水で薄めて服用する。喉にしみるので、雑菌が繁殖しているのかもしれない。その日は、たっぷりと眠り、たくさんの汗をかいた・・・

昨日もずっと病臥。食欲もなし。夜になってパン1個とバナナ1本がやっと喉をとおる。

本日は実質第1回の授業を行った。駆け足の「標準偏差」解説だったが、疲労困憊する。病み上がりである。

それにしても何だったのだろう。カミさんは、肩痛と腰痛を除けば、元気である。

☓ ☓ ☓

寝込んでいる間に、理研・小保方さんの研究不正騒動で一つ進展があり、TPPの方もアメリカのフロマン通商代表がやってきて、大統領訪日前の最後の協議が始まった。

報道ではないが、有力外交ウォッチャーはこんな見方をしている。
日豪EPA交渉で合意ができたものが、どうして日米TPP交渉でまとまらないのか。
それはもちろん米国が譲歩しないからだ。
だから日米TPP交渉は日本の全面譲歩か決裂か先送りしかない。
しかし先送りの選択はない。先送りすればもはやTPP交渉のモメンタムが失われ決裂と同じことになる。
だから日本の全面譲歩か決裂か二つに一つしかない。
そして安倍政権に決裂の選択はない。その場合は、オバマ訪日がぶちこわしになるからだ。今度こそオバマ政権は安倍政権を見放すことになる。
かくしてTPP交渉は日本の全面譲歩で終わるしかない。
(出所)天木直人のブログ、2014年4月16日

天木氏は、昨年の終戦記念日翌日に以下のような文章を公開している。タイトルは『安倍首相の挑戦を正面から受けて立った歴史家・加藤陽子』である。要は「日本は、侵略なることをやったのか、やらなかったのか」。この基本的な問いかけが、予想外に・いまだに・紛糾するようなので歴史家として考えを述べた加藤氏に対して天木氏が感想を記した文章になっている。
私が注目したのは、加藤教授がそこで述べた次のような言葉だ。
 「戦争が起こされた本当の原因と、国家が国民に対して行った説明が異なっていたということ、この歴史の事実を伝えることが歴史としての役割にあると考えています」
 そして彼女は要旨次のように続けたのである。
 すなわち満州事変の計画者・石原莞爾が満州事変を計画した際念頭にあったのは、ソ連の脅威に対抗するため国境線を北上させるため、そしてアメリカとの最終戦争の基地とするため、全満州を占領することだけであった。しかし、このような真の意図については、国民の前には決して明らかにされなかったのだと。
 軍や在郷軍人会は、満州事変の前の年、国防思想普及運動というものを全国展開するが、ある軍人が農民に向かって演説した内容を、後に満鉄調査部に勤務する石堂清倫が聴き取ったものから再現するとこうだったと。
  「諸君は五反歩の土地をもって、息子を中学にやれるか、日本は土地が狭くて人口が過剰である。このことを左翼は忘れている。だから、国内の土地所有制度を根本的に改革することでは改革はできない。ここでわれわれは、国内から外部へ眼を転じなければならない。満蒙の沃野を見よ。〔中略〕諸君は五反歩ではなしに一躍十町歩の地主になれる。つまり旦那衆になれる」
 これが侵略でなくて何だと加藤教授は言っているのだ。
(出所)天木直人のブログ、2013年8月16日


加藤氏の見方も、しょせんは現代に生きる一人の人間が過去の一連の事実をどう解釈して理解するかという、いわば『加藤氏が提案している一つの歴史』であり、その意味では当事者ではなく、ずっと後に生まれた人間の『あと理屈』であって、無条件に真実であるとは言えないのかもしれない-そんな無条件の真実があるのかどうか怪しいものだが。

しかし、このところ小生が『日本は、アメリカに敗北し、降伏文書への調印も米戦艦ミズーリ艦上で行った』という当たり前の事実の裏側にあるもう一つの異なる見方、『宣戦布告なき戦争・日中戦争は、中国が日本を8年間の持久戦へと誘った大戦略であり、失われた領土・台湾、満州他を奪回するためアメリカ、ソ連を介入するに至らせることが最終目的だった』と、それではその誘引策に日本が乗ってしまったのは何故かと、引き返す好機があったのに進んでいったのは何故かと、こんな問いかけに関心を持つきっかけになったのも加藤陽子氏の一連の著作であったので、上の文章にはよけいに興味をもったのだ。

突発的に発生した日中戦争(=日華事変)であるのだが、その発生前1936年5月の時点において、日本のシナ駐屯軍の規模は約3倍に増強されていた。これまた加藤氏の著作『とめられなかった戦争-NHKさかのぼり日本史』で知った次第だ。素人には史料まで読み込む時間はない。だから見方には偏りが生じるのが当たり前だ。歴史家の役割は、より全うな、個人の思い込みよりはよほどマシな歴史認識を教えてくれることにある。

☓ ☓ ☓

病気で目もあけていられない状態で寝込んでいると、頭の中で脈絡のない幾つかの音楽のメロディーを思い出すことがある。ウィンナワルツが鳴っているかと思うと、遊園地から映画館へ場面が変わり、西部劇『シェーン』をみている。古いねえ、だけどイイねえ。頭の中のCloud Playerが奏でる「愛しのクレメンタイン」、いつしかそれは「愛しのエリー」へと変わる。そして最後に「愛しのかも南蛮」。ああ、学生の頃に通った蕎麦屋、日暮里駅前の何という店だっけなあ…。あそこの鴨南蛮は美味かった。

何も口に入らないのが客観的状況であるにもかかわらず、寝ている頭の中では美味かった物を思い出している。人間の業というものだろう。

2014年4月6日日曜日

桜開花まであと一月

この二、三日は「寒の戻り」で今また小雪が散らついている。4月は中旬までは時に雪が舞う。小生がこの町にやってきた初めての春もそうだった。霧のような細雨が、毎日降ったり止んだりで、外出をして帰ってくると気づかぬうちにメガネのレンズが濡れていたものだ。そして部屋に戻って窓の外に目を向けると、霧かと思ったのが小雪に変わっていた。

外は寒いが、東京へ両親の墓参に出かけた3月上旬に比べれば、北海道と首都圏に違いはなくなっている。3月初めの北海道はどこも下のような雪景色だった。


ところが墓参の帰り、学生時代に下宿していた王子近辺を散策した日はとても暖かったのだ。


学生時代、王子神社の境内に入った記憶はない。まして遠くにある名主の滝まで歩いて行ったことは一度もない。時々、飛鳥山公園を散歩した位のものだ。

下宿は、滝野川の紅葉寺の隣りの家であった。北区役所で左折して歩いていくと、しかし、家の区画というか、並び方が全然変わっていて、小生が暮らしていた家がどこか全く分からなくなっていた。大家さんの名字も思い出せず、周囲を歩き回ってまた戻るしかなかった。

王子野戦病院に通じる道路も綺麗になっていて、「そこにクリーニング店があったはずだが…」とまるで浦島太郎のようなものだった。

王子神社に何度か参っていれば、おそらく境内の佇まいは昔と変わらないのであろう。すべては変わってしまったが、ここだけは変わらない一角を見つけた思いになれたのにと後悔した次第だ。

いずれにせよ、小生が東京で暮らしたのは30年を超えるが、今よりは確実に生活水準は低かった。その意味で、日本はバブル崩壊後も着実に成長しているのだ。その成長が、実質GDPという数字には表れていないほうが不思議なのである。愚息はいま小生が勤めていた同じ界隈で見習いをやっているが、ずっと豊かな生活を送っているはずだ。その愚息から久しぶりに電話があって、話してみるとノロ・ウイルスに感染したという。夜中に下痢が止まらず、七転八倒したそうだ。「便りのないのは、いい便り」とカミさんとは話していたが、「便りのないのは、出せない証拠」であることもある。とはいえ、ノロは回復もはやく、あとを引くことはなさそうだ。

23日はオバマ大統領が来るから、その辺は日米の国旗が飾られて、厳戒態勢になるぞと話すと、しょっちゅう厳戒態勢になると話していた。それが面白いと感じるのであれば、その間は雑用を押し付けられても十分な耐性があるはずだ。



2014年4月3日木曜日

捕鯨にあくまでこだわるか

国際司法裁判所で日本の調査捕鯨は中止との判決が出た-但し、南極海においては、である。日本政府は、この判決を尊重する姿勢をとっている。いくらなんでも戦前の国際連盟脱退騒動ではあるまいし、気に入らない結論を出されたからといって、「じゃあ出ていく」と言える時代ではない。

オーストラリアにとってクジラはWhale Watchingの観光資源である。そのクジラを日本は捕食しているわけだから、いくら『鯨肉料理は日本の食文化、日本の伝統でござる、各々方もぜひぜひお召しあれ』などと薦めても、所詮は水と油だ。クジラをどう見るかで重なる部分はない。

ただ、オーストラリアの観光収入と、日本の捕鯨収入のいずれをとるかという経済的対立の問題なのだというと、『問題の本質はそんなんじゃないんだ』と声を荒げて反論する人はいそうである。そこには知的哺乳類であるクジラへの敬意、巨獣”リバイアサン”への畏怖の念が潜在しているかもしれず、より高尚な生の哲学、もしくはエコロジカルな主張が包み込まれているのかもしれない。

敗訴となった真因にしても別にあるのかもしれない。ある会話や、ある行為が決定的な原因であったのかもしれない。結論が出るまで長い話であったので、『▲▲が■■と発言したのはまずかった、あそこで◇◇を提案して、誰それに●●を説明すれば理解が得られたのだ』とまあ、ホニャララ、フニャララと、物事の進展はいくらでも詳細に分析、再現できるものである。

その昔、一国の運命を決する大事な決戦で敗れた総司令官が、『私の馬が小さな石につまづき、ちょっとした混乱が波及して大混乱に陥ってしまいました、それが敗因です』と、物事の本質はそんなものだと言いたければ言える、そういう面もあるというものだ。

ま、いずれにせよ小生は、所詮は経済問題なのだと思っている、クジラ問題は。

☓ ☓ ☓

小生も幼少時にはトンカツならぬクジラフライをよく食したものだったが、幸か不幸か、豚肉や牛肉のほうがずっと旨いと感じてきた。育った町には漁港があって海産物も美味だった。鯨肉のランクは低かったのだな。仕事を始めてから、時々、渋谷の「くじら屋」に行って懐かしい味を楽しんだものだが、そのうち疎遠になって、今では店がまだあるのかどうかさえ知らない。

日本の料理文化の維持保存というくらいなら、保存に値する『日本、食の遺産』は、クジラと限らず他の食材、漬物、調味料等々、もっとほかに多数の料理が絶滅危惧状態になっているのではないか。日本の食文化の全体を包括した総合的アプローチが望まれる。でなければ、所詮はクジラを食べたい日本人が「なぜ食べたらだめなんだ」と憤っている。そうとしか見てくれないのじゃあないか。

ともかく、食文化をいうなら国際的な広報戦略を積極的に展開する必要はあったし、和食への高い評価が海外で浸透しつつあっただけに残念だ。

☓ ☓ ☓

国際的広報戦略といえば、前稿でも中国の対日広報戦略について述べたように、中国が採っているプロパガンダは相当効率的である。

日本経済は、いま空洞化に悩んでいる。空洞化とは生産拠点の海外展開を指すが、それは日本国内では採算性がとれなくなっているからである。その原因には、円高がもちろんあるが、それよりは労働力人口の減少と実質賃金の高止まりがはっきりと見通されるようになってきたからだ。

日本軍による侵略の記憶に訴えかける中国の広報戦略は、日本という国のリアリティとは無縁になっているが、それでも過去においては真実であっただけに、反復して聞けば「刷り込み効果」が生じ、有効なネガティブ・キャンペーンになりうるだろう。それは、日本が海外に経済展開する際のコストを高め、それだけ日本経済から体力を奪うのである。その分、中国の海外展開には有利となり、すでに海外にいる華僑たちの利益にも適うであろう。これまた世界市場における経済対立問題ともいえる。

それと同時に、中国政府が日本の侵略に言及することにより、いまの中国政府の反民主主義的体質が見えにくくなるマスキング効果もある。自分の服の色がおかしいと感じれば、「おかしい」と言われるより先に、誰か標的になる他の人物の服の色を「あれはおかしい」と言えばよい。ましてその人が、数日前にもヘンテコリンな服を着ていたとすれば尚更だ。これも前稿で書いたことだ。

2014年4月1日火曜日

政策にも「生産性」基準があるのではないか

政策には”コストパフォーマンス”、つまり効率性とか生産性という基準はない。「やったほうが良い」ことはどんな犠牲を払ってもやるべし。そんな暴論が通るのはそのためだ。

しかしながら、国民の暮らしは政府があるから存在しているわけではなく、生きている以上は民間経済が必ずある理屈だ。政府は民間経済の上に乗っているだけである。その民間経済では、100の成果を出すために200の犠牲を甘受するなどという行動はバカとされる。政府が行う政策にもこの常識を適用するべきだ。

どうやら中国の習近平・国家主席の訪欧は成功したようである。
習指導部は「韜光養晦」を捨て、国際的な影響力を行使する方向への転換を探っている。米国とは世界の二大国が互いに協力する「新しいタイプの大国関係」を主張。中国は米国をけん制する意味からも欧州との重層的な関係強化を狙う。31日の習氏のEU本部の訪問は、その一歩という位置付けだ。中国外交筋は「国家主席のEU本部訪問は初めてで、訪欧を締めくくる極めて意義深い会談だ」と語る。
(出所)日本経済新聞、2014年4月1日

確かに「覇権」を得ることの利得は大きいものだ。とはいえ、その利得は何らかの意味で覇権国の豊かさにつながるものでなければ意味がないわけであり、具体的には「より強い交渉力」、「競争優位の確立」、ひいては国際通貨発行権に由来する「シニョレッジ」までが含まれる。巨大な利益が約束されるからこそ、足元の経済的利益よりは、軍事的優位による覇権追求を目指す、そんな選択も出てくるわけだが、この二つの選択肢のどちらをとるかは、19世紀帝国主義から20世紀前半の中国を舞台とした覇権闘争においても様々な路線があったと見られている。

概して言えば、欧米は距離的な遠隔もあって軍事力による東アジア制圧よりも経済取引を通じた利益追求に力点が置かれていた。排他的権益への警戒感や門戸開放がしばしば唱えられたのはそのためだ。日本は、必ずしも領土や独占的利権を最初から求めたわけではないと思われるが、日露戦争で多大な血の犠牲を払って遼東・満州利権を得たあとは、いかにしてそれを守るか、中国に返還しない方法はあるのか等々、こんな方向を中心に政策を探ったと言っても間違いではないだろう。「守る」のは過去に得た資産である。利益はいま「得る」ものである。守らないより、守る方が良いのに決まっているという論法には、中々抵抗できないものだが、守るための決定的ツールは軍事力である。しかし軍事力をもって利権を守るのは野暮な外交の極みなのである。守るための犠牲があまりに大きいなら、利益は得られない。そんな思想が主流となった時代において、結果として日本が愚かなやり方を選んだのは、相互利益の機会を見いだすのではなく、得たものを守ろうとしたからだ。

政策にも「生産性」基準があるというのは、こんな意味である。尖閣諸島をめぐる政策にも「生産性」の違いが観察される。
オバマ政権でアジア・太平洋安全保障担当の国防次官補を務めたウォレス・グレグソン元海兵隊中将は、「われわれはストーリーを変え始める必要がある。個人的な見方では、現在、われわれは(尖閣諸島をめぐる議論の)主導権を握っていない。中国に握られてしまっている」と述べた。 
グレグソン氏は退役海軍少将で米海軍分析センター上級研究員を務めるマイケル・マクデビット氏と共に、25日に都内で開かれた東シナ海の緊張をめぐるシンポジウムで講演した。 
両氏は、日本は戦後長く平和主義を貫いてきたにもかかわらず、中国は日本を軍国主義に駆り立てられた攻撃者として描くことに成功していると指摘。その結果、日本に徐々に圧力をかける中国政府の戦略が効果を上げているとの認識を示した。 
マクデビット氏は「中国の目的は、徐々にではあるが確実に日本政府を追い詰めることだと私は確信している」とした上で、「中国政府は日本政府が『降参』と言うのを期待している」と述べた。
(出所)Wall Street Journal, 2014-3-27

中国は軍事力を強化しているが、軍事力は使えば失敗ともいえる政治ツールである。明治維新期の長州人・大村益次郎は「軍はタテに育成して、ヨコに使うものだ」と言ったそうだ。日本に対する中国の軍事的圧迫は、日本の資源を経済から政治・軍事に誘導することが一つの目的であり、よりソフトな国際的広報戦略の効果を強化するものである。その裏面で、というか同時に、中国政府にとっては痛い過去の履歴や人権への国内政治姿勢から、日本による中国侵略の記憶へと世界の目を転じさせるマスキング効果を引き出している。つまり中国は戦わずして日本を隘路に導こうとしているのだ、な。

安倍内閣が追求している政策は、好意的に観察すればアメリカの政策を代理執行するものだと言えるが、日本という観点に立てば中国の戦略が想定するとおりに日本は行動しつつある。そんな風にも見えるのだな。歴史問題は乗り越えがたいという論法は、アメリカから日中韓を観たときの眼差しであって、現実にはそんなことはないというのが基本的な理屈だ。

日本は日本で目的を「利益」にしぼる方が良い。将来の中国ならいざしらず、現在の中国と衝突する可能性があるのは日本ではなくアメリカである。アメリカの国益はアメリカ人が心配するべきことであろう。 こんな意見もあってしかるべきだ、そう思うようになった。ひょっとすると、この発想もまた韓流なのか……

P.S.
消費税率引き上げに対応した流通業界の準備に遅れが生じているため、税率引上げの実施日を1日延期し明日2日とする決定が財務省より発表された。買い物に外出したときにこんな話しをカミさんにしたら、意外や「ホント?」と聞いてきた。エイプリル・フールの題材は幾らでもあるのにと残念至極だった。