2014年5月11日日曜日

三国志よりペリー・ローダンを政治家は読むべきではないか

中国には『一流は韓非子を読み、二流は孫子を読み、三流は三国志を読む』という話があるそうだ。そういえば毛沢東は、数々の政治学の古典より、水滸伝や三国志の方がよほど役に立ったと語っていたそうである。

とはいえ、三国志は後漢末期の魏・呉・蜀対立の時代の話しであるから、西暦で3世紀、日本はまだ卑弥呼の時代である。大和朝廷すらできていない。その頃の話が、現代という時代でなおも役に立つというのも眉唾物であろう。

寝る前の睡眠薬代わりにSF超大作『ペリー・ローダン』をパラパラめくることがある。オリジナルは既に400話を超えたらしいが、日本ではまだ300話くらいまでしか訳が出ていないという。小生が読むのは、ずっと前、最近ページをめくっているのは第1話の"Die Dritte Macht"(第三勢力)である。その中に次の下りがあった。ローダン殺害を命じられたクライン中尉がゴビ砂漠のスターダストまでやってきて、そこでローダンと直接話をして戻るときの話しだ。
Als Leutenant Klein zwei Stunden später zu seinen wartenden Kollegen am Fluß zurückkehrte, gab es nichts mehr, das seinen Entschluß ändern konnte. Er war der erste Streiter für Perry Rohdans Idee geworden, eine Idee, die moralische Grundlage eines künftigen Sternenreichs werden sollte.
Source: Perry Rohdan"Die Dritte Macht", Pabel-Moewig Verlag KG, pp.154


2時間ほどの後、クライン中尉が二人の仲間が待っている川岸に戻った時、彼の決断を変えるものは何一つなかった。クライン中尉は、ペリー・ローダンの理念を信ずる最初の一人になった。その理念は、来るべき星間帝国を支える倫理的基礎となるべきものだった。
中国がよく唱える『新たな大国間の関係』という理念が、カビにまみれた古臭いものであるのは、ローダン・シリーズを読むだけですぐに分かることだ。このベストセラーは中国では読まれていないようだねえ……「下らない」、そう思っているのかもしれない。

時代が変わるには、人が先に変わらなければならない。人が変わるためには、変わらないより変わるほうが善いのだ、と。そう判断する新しい倫理が生まれていなければならない。その新しい倫理を支持する人が増えていくプロセスこそ、社会の進歩の具体的な面である、つまり歴史そのものである。そんな風なことが、子供ですら愛読するSF小説でちゃんと述べられている。

何かといえば『死守せよ』とか、『これを守り抜かずして、国を守れるのか』…、小生思うに目指す高さが最初から違いすぎるのだなあ……、誠意や信義は貫かれるのだろうが、そこには無駄死にと指導層の無能があるだけだ。価値観の混乱を収束させる知的営みがないのである。会津藩の忠節は歴史の華となってはいるが、その倫理は狭くて人をひき付けず、そのままでは進歩を阻害したのである。残念ながらそう言わざるを得ないのだ、な。

三国志や水滸伝の感覚でやっていちゃあ、いまの世界を進歩させるなど、はなから無理である。必要なのは、頭の中を新しくすることである。明治維新だって、人の頭の中を切り替えたから成功したのじゃなかったんですか、いまのまんまじゃ世の中、動いていかないヨ。

ま、今日はこういう話である。





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