2014年5月18日日曜日

現代中国に残るカビの生えた社会哲学をどうみる

日経が本日こんな報道をしている。中国が対日宥和姿勢をとりはじめたというものだ。
 【青島(中国山東省)=北爪匡】アジア太平洋経済協力会議(APEC)貿易相会合に出席中の茂木敏充経済産業相は17日、中国の高虎城商務相と会談した。日中閣僚の会談は2013年12月に安倍晋三首相が靖国神社を参拝して以来、初めて。高商務相は会談で「日本との経済・貿易関係を重視しており、その安定と発展を望む」と強調し、日本との関係改善へ意欲を示した。経済分野を中心に中国が事態打開を探る動きが出てきた。(解説総合・経済面に)

 両閣僚は17日昼、中国・青島で開催されているAPEC貿易相会合の休憩時間に20分間会談した。

 高商務相は日本の尖閣諸島国有化を改めて非難する一方、「中国は一貫して日本との戦略的互恵関係に基づく経済貿易を重視してきた」と指摘。日中関係の安定に向けた事態打開に前向きな姿勢を示した。

 12年9月に尖閣問題が深刻化して以降、経済閣僚として初めて公式の場で日本との関係改善に言及した。日中間の政治関係が依然冷え込むなかで、まずは経済関係から修復を探る意向とみられる。

 茂木経産相も「両国の間には難しい問題はあるが、戦略的互恵関係を優先させることで一致した」としている。
 (出所)日本経済新聞、2014年5月18日

中国が日本に対して姿勢を軟化させたのは、言うまでもなく対ベトナム関係が急激に悪化したからだ。明々白々なのだな。

対日関係で攻撃を一時中断して日本と小康状態を作っておいてから、ベトナムには全力で懲戒的攻撃を加え、ベトナムが屈伏してから、また日本に対する攻撃を再開する意図である。ま、分断作戦というか、各個撃破の古臭い戦術である。どうも中国共産党の発想は、中国史の舞台を飾ってきた王朝興亡劇のレベルを出ていないような感じがして仕方がない。確かにシェークスピアはいま読んでも面白く、人間はいつの時代も変わらぬ存在だと実感させられる。しかし、国際政略は、歩兵・騎兵の時代と現代世界とでは、異質であるのが当然だ。そもそも「国家」という存在をどうアウフヘーベンするかが問われているのが21世紀だろう。思うに、中国では近代小説も近代哲学も厚みに欠け、この200年の進歩をもたらした思想的基礎を勉強しようという意欲にも欠けているのではないだろうか、と。そんな風に隣りの大国をみている。

日本に西洋的合理主義が浸透し始めたのは、明治維新をはるかに遡る享保期、徳川吉宗将軍の時代であると言われる。蘭学の普及である。後に松平定信が「寛政異学の禁」を行って保守的な思想統一を図るのだが、享保から寛政まで時間にして70年程度ある。ちょうど太平洋戦争終結から現時点まで「戦後日本」の長さが70年だから、同じ程度の存在感をもっているわけだ。

その江戸期・18世紀に、絵画の世界においても「線よりも面の重視」、「写実主義による明暗や遠近の表現」を特徴とする西洋画が日本に入り始めた。中でも円山応挙、司馬江漢はその先端を歩んだ芸術家である。


伝円山応挙、京三条大橋、1751~1764年頃


円山応挙、天橋立図(眼鏡絵)
(出所)応挙の眼鏡絵


司馬江漢、三囲絵(眼鏡絵)、1783年

眼鏡絵というのは版画の一種で、鏡に映した絵を眼鏡でみて鑑賞する制作術である。西洋画の基本技術が上の画面からもみてとれるが、この新しい技術は中国を経由して日本に伝わったのだ。

蘭学の普及、西洋画の輸入に刺激され、伝統的な浮世絵の作画法もまた新しい境地に進むことができたのはいうまでもない。幕末の葛飾北斎、歌川広重の浮世絵はその果実である。葛飾北斎は黒船来航の4年前に他界しているが、もし生きて黒船の話しを聞いていれば、それを絵にしたことは間違いないだろう。

日本は中国や朝鮮に先駆けて西洋文明をとりいれて発展し、発展した国力で中国や朝鮮を侵略したと歴史はまとめられている。半分はその通りだが、西洋文明を先に目にし、経験していたのは、日本ではなく、中国であったことも確かな事実である。日本は、新しい方法を試しつつ消化し、黒船が来航する以前に次第に変わり始めていた。

変わる日本を固定しようとする反動的な政策を繰り返していたのが幕藩体制だった。その既得権益層が自己崩壊したのが明治維新である。そう見るべきだろう。中国、朝鮮では旧体制が残存したのだ。なぜ残存できたのか?旧体制の残存を可能にした<中国・朝鮮の倫理的基礎>を考察することは、今日的な意義をもつ社会思想史上の問題だと思う。




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