2014年5月7日水曜日

朝ドラにはまってしまった

今期の朝ドラ『花子とアン』にはまってしまった。モンゴメリー作『赤毛のアン』をはじめとする数々の児童文学を日本に紹介した翻訳家・村岡花子の生涯を描いた作品である。

村岡花子は、小生も戦後に紹介された少年少女向け文学作品で育った世代であるので、当然のこと知っていた。とはいえ愛読したのは少年のことゆえ、ヴェルヌの冒険小説やルブランの怪盗ルパン物、それからラムの『シェークスピア物語』やスティーブンソンの『宝島』などの方が好きだったことを覚えている。ケストナーの『飛ぶ教室』は、初めて読んだときにはそれ程でもなかったが、いまでは小生にとって掛けがえのない作品だ。

というわけで、『赤毛のアン』は同級の女子が話しているのを聴いてはいたが自分で読んだことはない。『少公女』、『秘密の花園』もそうだ。なので、村岡花子がヒロインになるといっても、興味はほとんどわかなかったが、ドラマの出来は断片的にでも10分みれば自然と伝わるものである。見事にはまってしまった。というか、見たタイミングも良かったのだな。「腹心の友」となる葉山蓮子が編入学する回を偶然観たのだ。舞台になる東洋英和女学院には多少の縁があり、それも一つだったが、その蓮子嬢が柳原白蓮であることはすぐにピンときた。柳原白蓮が村岡花子のクラスメートだったとはねえ…、世間は狭いものだ…気がついたら、はまってしまっていた。

× × ×

村岡花子は、翻訳した児童文学がずっと読み継がれており、その意味では日本人の心の中に生き続けている人である。他方、柳原白蓮が起こした駆け落ち事件は、戦前に生きた人々で知らない人はいなかった程の一大スキャンダルであったのだが、今日その事件をアリアリと思い出す人など一人もおるまい。ゴシップや醜聞事件は、その時限りの興味にまかせた一過性の現象であるに違いなく、中身というか実態というか責任というか、そんな実質的な内容はほとんどない、空っぽに近い井戸端会議がゴシップの本質なのだろう。二人の男女が感じあう愛など、大きいか小さいかでいえば、とても小さなことでしかあるまい。

人生がはかないとすれば、愛はもっと短い。『人生は短し、芸術は長し』だ。人の命はすぐに終わるが、生きているうちに残した芸術作品は時を超えて生き続ける。

しかしながら、いかなる作品もその作品を創造した人自身を超えていることはない。作品は不完全である。創作者は常にそう意識するものだ。芸術家が人生の中で残す作品はすべて不完全である。


Kandinsky, Moscow, 1916

× × ×

「戦前の人々で知らない人はいない」という表現を使ったが、調べると戦前期の村岡花子は子供向けのラジオ番組に登場する「ラジオのおばさん」として誰もが知る人であったそうで、戦後になって70年が経過したいま、翻訳家・村岡花子というイメージが定着しているというのは、「ラジオのおばさん」に親しみ、戦後日本を知らない人には極めて意外な落ち着き先であるのだろう。そんな感想も覚えるのだな。「そんな風になられたのですね」という意外感があるのかもしれない。

文字に書かれたものは後の世に伝わり、生身の声や姿の記憶は時間とともに急速に消え去るものである。『ジーザス・クライスト・スーパースター』のユダではないが「お釈迦様はお元気で?マホメットは山を動かしましたか?あれは宣伝か?名だたるあなたの磔は、大見えきったか、本心なのか?」……、マルクスって大変有名ですけど、あなたマルクスを知ってるの?その人本人が話す姿をみて、その声を聴いて、その人と同じ時間を共有した経験がない人は、いかに書かれたものを精読して、その人のことを調べたとはいえ、所詮、その人を知らないことに変わりはない。こうも言えるだろう。

おそらく現時点の世界を形作っているものの90%程度は失われて、缶詰のような状態になって100年後の世界に記録が伝えられるわけだが、あらゆる感情や臨場感、リアリティを捨象したとき、いま生きている私たちは100年後の私たちが憶測するのと同じように考え、行動し、生きているだろうか。多分、100年後の私たちは、いまの私たちがなしたことを朧げにしか理解できないかもねえ……、「タイムスリップしてやって来てごらんよ、そしたら分かるってえものさ」、「ホントはどうっだったかって?」、「真理ってものがあるのかないのか分からねえが、一度こちとらまで来ておくれなら、見当がつくでござんしょう」。まあ「歴史」など、最初から限界があることを一所懸命に議論しているのである。

上にあるカンディンスキーのモスクワを見て小生が連想するのはロシアのモスクワではなく、『風の谷のナウシカ』に出てくる「火の7日間」である。空を飛んでいる黒い鳥は「巨神兵」の影である。"So dachte ich"とカ氏に伝えたところで、そもそもカ氏はナウシカなど聞いたこともないわけだ。しかし、いまカ氏の作品をみて感じるイメージは、小生にとってウソではなく、自分の経験から派生した心理的現実である。何のリアリティも共有していないカンディンスキーが小生の心の中で生きているなどは不可能なのである。

そんな風に考えてみると、村岡花子は日本人の心の中に生き続けているが…という最初の表現は修正したほうがいいかもしれない。いま生き続けているそのイメージは、本人とは多分まったく違っている。もちろん違っていてもいいのである。




0 件のコメント: