2014年5月9日金曜日

メモ-これって社会常識の欠如の一例か?

ある有名で人気のあるニュースサイトにこんな記事がある。タイトルは「採用担当から学生への上から目線について」である。批判をするという意図は全くないので、出所はあえて示さず、ただ社会で交わされている議論の一例として引用しておきたい。


「なんで、新卒採用って人事の方が上から目線なのですか?」 
私はそのようなことを考えたこともなかったので、「どういうこと?」と聞き返した。彼はこう続けた。

「だって、採用の案内だとか、人事のブログとか、あるいは会社説明会に行っても、みんな偉そうじゃないですか。」 
なるほど。確かにそうかもしれない。リクナビの就活アドバイザーなどの話を読んでも、やれマナーだ、身だしなみだ、言葉遣いだ、様々に「配慮をする」ように書かれている。

「もちろん、学生なんて社会の厳しさをわかっていない部分もあるけど、別に社会人だからって偉いわけじゃないですよね。それとも、「年長者だから偉い」という論理ですかね?」 
うーむ。確かに「偉そうにする人」と言うのは存在するが、人事が特にそうというわけでもなさそうだが・・・。
確かに「社会人」のほうが「学生」よりも偉いわけではない。 偉いわけではないが、現実に社会において、より大きな発言力を、というか大きな影響力、つまり人や物を動かせる力をもっている。これも事実である。大人は子供より「偉い」というわけではないが、大人が社会において大小様々の権限や権力を分担して、社会を運営している。大人と子供の関係と、社会人と学生の関係は、大変よく似ているのだな。

相手のほうが自分よりも社会的影響力があり、大きな権力をもっているからと言って、だから相手は自分より偉いわけではない。これは当然のことである-これが分かっていない人物はなるほど多いとは思うが。

人間はすべて平等である。『天は人の上に人をつくらず』だ。しかし、社会人は学生よりは平均的により多くの税金を支払っているはずだ。無論、税金を払ったからと言って「偉い」わけではない。しかし、税を納めて社会を支えることを甘く考えては駄目だ。家庭を経済的に支えている人が、家族から相応のリスペクトをうけるとしても、それは道理にかなっている。カネをもうけりゃ、それですむというわけではないが、働いて得たカネで自分以外の人を支えるというのは、そうそう楽なことでもありませんぜ、何らかの「愛」があればこそだ、自分を愛してくれる人がいるって有難いよ、そのくらいは感謝の気持ちをもって認めておいてもいいではないか。小生はそう思う。

納めるのがカネではなく命であることもあった。戦前期には、召集令状がきて最前線に応召する若者を地元は壮行会を催して送り出した。心の内は、赤紙を免れた己が幸運を喜んでいたのだろうが、だからといって入営する若者に敬意を払う気持ちがなかったわけではあるまい。それは文句なく立派なことだ、と。出征する青年に向かって「ご苦労様」という労りと哀惜の気持ちを感じるのは(大げさにいえば)国の基本だろう。武士の情けに近い共感の感覚に似ているかもしれない。こんな思想は"Out of Date"なのだろうか。

なるほど「社会人」だから「学生」より偉いわけではない。偉いわけではないが、これから社会的役割を応分に負担しようとする候補生が、経験を重ねたベテランに敬意をもつとしても、それは卑屈なのではなく自然な感情だと思うが、これは小生が古い世代に属しつつある証拠なのか?……、当たり前だと思うけどねえ。ま、そんなことを感じた。

こんな風に言えば、「じゃあ、税金を多く納めた人物ほど、敬意を払われて当然だと言いたいわけ?」と反論されそうだ。多額納税者が優遇されるのは当たり前という理論は、もちろん小生の意見ではない、ないが一概に「とんでもない邪説だ」と切って捨てる異端の思想でもあるまいに。そう思っているが、これはまた別の機会に。

上で引用したニュースサイトの記事の最後は以下のように締めくくられている。
推測するに、長いこと社会人をやっていて自分たちが得た経験を学生に「教えてあげたい」という気持ちが強い人ほど、「偉そうに見える」のではないだろうか。 
「あー、自分もそうだったな、教えてあげたいよ」という気持ちが、時に「教えてやる」という態度に変わってしまう。 
居酒屋で、後輩に説教を垂れる先輩、といった構図そのものにも見える。

ともすれば自分もおかしそうな過ちである。本質的には採用は人を試す場でなく、説教をする場でもなく、「お見合い」なのだと、改めて思う。
以前、小生も日本的タテ社会の中で勤務していたので、大変懐かしく若かった時代の日々を思い出した次第だ。

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