2014年7月13日日曜日

カネの威力に限界はあるのか

愚息を相手に話しをしている時、こんな話題になったことがある。仕事を始めたらスーツがいるだろう。それは高いのかという話しだ。

そりゃあピンキリだよ。アルマーニとか、バーバリーとか、それもオーダーするとなると1着で30万とか50万は出さんとなあ、買えんよ。だけど着れればいいって割り切れば、2着で1万ウン千円というのも売ってるよ。

どのくらいがいいかなあ。

ズバリ、仕事の内容で違うね。昔、聞いたんだけどな、銀行はいいものを着ないとダメだ。安物を来ている営業担当者が預金をしてくれと頼んでも、心配で預ける気にはならんだろ。資金を預けるならリッチで上得意をたくさん持っている銀行を選びたいものさ。社長もそうだね。融資を申し込みに行く時、安物は着ていけんだろ。経営状態ダイジョブかって思われちまうさ。リッチであること、成功していることが求められる仕事なら、いいスーツを着る。これが原則だな。この発想を延長すると、弁護士もいいものを着る必要がある。安物を着ている弁護士に弁護を頼む気にはなれんからね。

その反対は国会議員だろうな。いいスーツを着るより、安いスーツを着て、一生懸命国事に奔走していると、人の胸を打つね。そう感じるだろ。首相や大臣が最高級のスーツを着ているとして、それが人を安心させたり、喜ばせたりするかい?人を裁く判事や検事も同じだね。高いスーツを着て、上物のネクタイをしている人に刑罰を定められるなんて、罪を犯した側が憐れじゃないか。犯罪はカネに困ってやっちまうことが多いんだよ。大体、公務員たるもの、カネをほしがっちゃあダメさ。カネにピーピーしていても、権力をもっているだろ。権力は使う、沢山のカネをもらう。そりゃダメだよ。経営者はここが逆だねえ。カネに困っている経営者は、それだけで失敗しているっていうかな、ま、失格だと言われるだろうなあ……

だからね…高いスーツを買うべきか、安いスーツを着るべきかは、仕事で決まるのサ。

ざっとこんな話をしたのだ。

× × ×

その時は、『たかがカネ、されどカネ』、月並みだがそんな話しでおわったような記憶がある。

ただ、「たかがカネ」と言い切れるほど、カネの力の限界はすぐにやってくるのだろうか。

命がカネで買える、寿命がカネで買える時代であることは、何も高額の保険外診療を持ち出さずとも、もう誰も疑いをもたないはずだ。

しかし、人の心はカネで買えない。ずっとそう話してきたが、そう限ったものでもないといつしか思うようになった。人はカネが入ると、まずは自分の欲しいものを買う。次に愛する人が欲しがるものを買う。買うものがなくなるとカネを増やす。そう思ってきたが、人間が欲しいものはモノや財産だけではない。人を支配したい、人に影響力を及ぼしたい、やれと言うことをやってくれる人を作っておきたい、それも願望の一つだ。そんな風に人の主になる近道は、やはりカネではなかろうか。愛による結びつきではなく、恩義と奉仕の結びつきである。そもそも昔の武士の社会では御恩奉公の原理で組織が作られていた。禄のためには死をも恐れぬのが武士道の一側面だ。禄というのは終身雇用どころではない、子孫代々含めた永代雇用が原則なのである。だから恩義ができる。忠義はその恩返しである。

人を支配できるということは、人の心をもカネで買えるという理屈になる。老後の生活を保障してくれる人がいれば、その御恩に報いるため、自分にできることは恩人や恩人の親族のために忠実に行うであろう。そこには一定のモラル、行動の美学が形成されるであろう。

人の形をしていない政府からカネを権利としてもらうなら、恩義などは感じようはずはない。小生、寡聞にして、厚生年金を受給しているから日本国に恩義を感じ、財政再建のために一肌脱ごうという人に出会ったことはない。

率直に行って、どちらの社会原理が善い社会をつくるのか、はっきりしなくなったと感じる。

× × ×

イタリア・ルネサンスの3大芸術家は、普通、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの三人とされている。いずれも盛期ルネサンスを支えた巨匠であり、フィレンチェ近郊で生まれたか、そこで仕事をした縁があるかという共通点がある。また当時の芸術家は、権力者の保護を受けながら仕事をするという生き方をとらざるをえず、仕事を求めて都市から都市へと渡り歩いた点も共通している。フリーでやっていくというのは無理な時代だったのだ。


Leonardo da Vinci, Mona Lisa, 1503-1505


先日投稿のウォーホルもそうだったが、またまたモナリザである。

イタリア人であるレオナルド・ダ・ビンチの傑作「モナリザ」がなぜパリのルーブルにあるのか。知ったのはいつだったろうか。フランス王フランソワ一世が世界史に登場していたことは覚えているので、その時に一緒に話をきいたのが耳に残ったのか。いまでは忘れてしまったが、レオナルドが晩年を過ごしたのは、フランス王の居館であるアンボワーズ城であり、そこで最後の数年を弟子とおくった。フランソワ一世はフランス・ルネサンスの花を開かせた国王であり、と同時にスペイン・オーストリアを支配していたハプスブルグ家のカール5世とイタリアをめぐり何度も戦った間柄として知られている。

モナリザはレオナルドが永年持ち歩きながら筆を入れていた作品であるが、その作品は最期を看取ったフランス王の所有となった。名画「モナリザ」は、レオナルドの死後、弟子が相続し、それを国王がカネで買い取った。その後、王朝が変遷する中でルイ14世に寄贈されたとWikipediaには記載されている。それでいまもルーブルにある。

今はフランスが所蔵する最高の美術品の一つとして知らない人もいなくなったが、これを描いた人も買い取った人も、フランスという国家のために取引をしたわけではない。権力をもつ側は芸術家を保護し、芸術家は権力者のために仕事をした。王は富と力を得て、その富で芸術家の心も得た。ここにカネの力の限界を見ることは出来ない。

人間が生きていくのは、いつの時代でも容易なことではなかったが、分かりやすいシステムは複雑なシステムよりも、それ自体として善である。そんな当たり前の真理が見直される時が遠からず来るかもしれない。カネの集中が権力の形成につながれば、その中心には貴族や僭主、いわゆる支配階級や独裁者が生まれる(とされている)。それは民主主義を崩壊させる(とされている)。しかし世界は複雑な進路をへて発展してきた。人間の歴史も所詮は自然史の一部である。人間社会の将来こそ真の意味で不確実だ。


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