2014年7月17日木曜日

屁理屈-戦争を忘れるって悪いことなの?

屁理屈をこねると、幼い頃、亡くなった父に叱られたものだ。というのは、屁理屈は、何かヤバいことを隠したい-近年流行の言葉でいうと隠蔽したい-ときか、そうでなければ自分は間違ってないと強弁したいときにこねるものだからだ。要するに、ロクなものではないのだな、屁理屈は。謝るべきこと、伝えるべきことがあれば、余計な小細工をせずに堂々と対応すればいいわけだ。

今週の『週刊現代』だったか、『ポスト』だったか、新聞広告が近接して載るので紛らわしいが、「戦争を忘れることは悪いことなのか」というタイトルが目に入った。

日本の大衆週刊誌は-というか、どこでも大衆紙はそうだと思うが-結構、保守的・愛国的なので、いつまでも戦争責任や敗戦国としての自省を求められるのは鬱陶しい、そんな右翼的心情がうかがえて、大丈夫かねえと感じたのだが、それより最近の井戸端会議、TVのワイドショーで頻繁に使われているフレーズ「〇〇することって悪いことなの?」。大変、危うさを感じました。こういう議論の仕方をされると、もともとロジカルなディベートに慣れていない日本人は、コロッと言いくるめられてしまうのじゃないか、と。

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戦争を忘れるって悪いことなの?

正しくはないけど、悪いとは言えないと思うとか、悪いということの定義で色々ありうるんじゃないかとか、討論にも値しない幼稚な雑談を始めると、どんな結論が出てきてもおかしくはない。

1+1は2でないとダメなの?地球を原点にとれば、太陽が回っていると考えても悪くはないよね?ほんと、色々と出てきますわな、もっともらしい議論は。いくらでも作れます。

上の問いかけは、しかし、一見正当な問いかけであるように見えるので始末がわるい。しかも三段論法に構成できるのでもっと困るわけだ。

忘れること自体が悪いとは言えない。戦争を忘れることも忘れるという行為の一例である。故に、戦争を忘れること自体が悪いとはいえない。
こんなロジックに騙されるとすれば、そもそも討論はできないと言われても仕方がない。もし上のような論法が正当なら次のように論じてもいいはずだ。
相手が怪我をした原因は私が走っていたからだ。しかし、走ること自体は悪くはない。故に、私は悪いことをしたわけではない。
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哲学者カントは、善意思より以上に善なるものを考えることはできない。つまり善の本質は善を求める人間の意思にあると考えた。そこから倫理について議論を始めている。

走ること自体はなるほど悪くはない。しかし、走ってぶつかって、相手が怪我をしても仕方がないと考えれば、それは「未必の故意」であり、悪い行為である。注意をすれば避けられたかもしれないのに、不注意で相手を倒してしまったら、それは「過失」である。

善悪は、人間の意思について問われるものである。

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戦争を忘れること自体は、なるほど悪いこととはいえないだろう。しかし、自らの戦争犯罪を忘れようとする、なかったこととしたい、済んだことにして責任は放棄しようとする。そんな意思が働いているのだとすれば、そんな意思を持っていることが悪いのだと糾弾されても仕方がない。

小生はそう思っている。

歴史戦略は不毛である。しかし、自分自身の行動の履歴は自分がよく知っているべきだ。記憶しておくべきだ。この点に変わりはない。

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今朝、愚息の出た高校が夏の甲子園大会予選を勝ち進んでいる夢をみた。父は高校野球の大ファンだった。夢の中でも父は亡くなっていた。父からみれば孫になる愚息と予選の話しをしたかったろうと眠りながら胸が熱くなった。涙が出そうになった。そこで覚めた。「……どうやら親父も思い残すことがなくなって、浄土に往けたのだなあ」と。仕事運に恵まれたとはいえない父の心が救われたのなら、母ももう心配なことはなく、安心立命できたに違いない。そう何となく思われた次第だ。以前は、父母の夢をよく見たのだが、今日のような夢は初めてだ。

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