2014年7月21日月曜日

「改善」より「ゼロから新しく造る」ほうが簡単なことは多い

本日付の日経「経済教室」は示唆に富む。テーマはイノベーション(=技術革新)である。もはや使い古された言葉であり、イノベーションを叫んだところで、それ自体はイノベーションには全くあたらない。
……。既存企業はそもそも新しい知の組み合わせによる環境変化に対応しにくいことだ。例えば、米ハーバード大学のレベッカ・ヘンダーソン教授とキム・クラーク教授(当時)は、90年に発表した論文で「アーキテクチュアル・イノベーション(設計思想の革新)」という概念を提唱した。これは、ある産業分野の「部品」に技術革新が起きなくても、部品同士の「組み合わせが新しくなる」ことで革新的な製品が生み出されることだ。

 しかし既存企業は新しい組み合わせに対応するのが難しい。なぜなら、企業の組織構造が「既存製品の部品の組み合わせ」に準じているので、組み合わせの変化に必要な異なる部署間の新しい交流が難しいからだ。

 例えば、50年代にソニーが小型トランジスタラジオを「新しい部品の組み合わせ」で開発して米市場に乗り込んだとき、ライバルだった米RCAは部品それぞれの技術は非常に高く、ソニーのラジオに技術供与までしていた。しかし、RCAの組織が既存のラジオの部品の組み合わせに対応した構造になっていたために部門間の新しい組み合わせの交流が起きず、結局ソニーに対抗する製品を出せないまま市場シェアを奪われた。

 逆にソニーが、50年後に米アップルの「iPod」に対抗する製品を「作れるはずなのに、すぐに出せなかった」のは印象的である。多くの場合、新しい組み合わせを阻むのは技術問題よりも、組織問題の本質と捉えるべきだ。
(出所)日本経済新聞、2014年7月21日

 新しい試み自体が、会社という組織にとって本質的・能力的・技術的に不可能であることは寧ろ少ない。可能であるにもかかわらず、チャンスを実現できないままに終わるのは、能力ではなく組織に問題があるという指摘は非常に重要だ。

その組織は、戦略に従い、戦略は目的に従うものである。一定の目的にしたがって構築された組織が、ひとたび構築されると組織内のヒエラルヒー(=階層的秩序)が定まり、その組織内価値観が共有され、いわゆる主流と傍流が形成されるにいたるものだ。既存組織の中で真に革新的なイノベーションを引き起こすのが大変困難である理由は、本当の革新が完成された組織内秩序と矛盾するからである。

経営・政治を問わず、体制内革新を断行して、既存組織を再活性化させる人物がしばしば傍流から輩出されているのは、まさに理の当然でもあるのだ、な。

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この8月下旬にキッチン・トイレをリフォームすることにした。来年度以降は浴室、玄関、それから壁紙を含めた全体的な内装を変えるつもりだ。

それで市内のリフォーム専門企業の経営者と相談を進めているのだが、その人によれば増改築で一番難しいのは『あれを残し、ここはこういう形で残しながら、あとは新しいものを入れて、全体としてはパリッとした風にしたい』と、そんなリクエストであるそうだ。求められている課題が難しいので、検討に時間がかかり、そのためコストも割高になり、価格交渉にも時間を必要とする。それでまた割高になるという悪循環になるそうだ。

『ゼロから新しいものを入れる』、これが一番簡単で効率的、安くて効果も上がる近道だという。確かにそんな感覚を覚えることは多い。統計学の数理的な論文を読むことが多いが、人の書いた証明を読み進めるのは本当に面倒だ。ロジックの骨格としてどんな話をしたいのか、あらかじめ説明を聞いていると、もう証明の本文を読む必要はないくらいで、自分でゼロから書いてみるのがかえって手っ取り速い。すると人の書いたものとは書き方が随分違ってくる。それでいいのである。真偽を確認できればいいのだから。

日本の明治維新、戦後の復興期も、ゼロから造り直す作業の一例だったのだろう。

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どんなイノベーションも実現する前は「単なるアイデア」でしかない。それを具体的な商品としてコンテンツを定め、生産・販売ラインに乗せていくのは、住宅建築と似た作業であるに違いない。組織の設計も最適化しなければならないので面倒だ。『ここは従来通りで…、あそこは手を入れないように…ここは考え方だけを反映するようにして、……できた商品の斬新性が犠牲になるのは本末転倒ですからネ…』、複雑で迷路のような企画は、それ自体として失格のはずなのだが、それを何とかこなしながら苦闘してきたのが、最近20年の日本企業の経営史であったのかもしれない。



Picasso, Factory in Horta de Ebbo, 1909

天才ピカソは、人生の中で画風が激しく変化した画家として知られている。たとえばモネやセザンヌは、初期の作品と晩年の作品をみて、モネはやっぱりモネだと思うし、セザンヌはどこまでもセザンヌであると感じる。つまり、生涯を通しての一貫性があるのだ、な。そこに安心感とか安定感、方向感があると思うのだが、ピカソは違う。


Picasso, Death of The Treador, 1933
Source: 上と同じ

絵画画面の構成原理はまったく違うが、ピカソの作品と聞けば、上の二つには何かの共通点があるのも確かである。それが同一の人間の同じ感性と精神からつくられたという証しであるのだろう。

理念と方法の選択、作業と運営、完成に至るまで、そこには統一性がなければならない。巨大企業が、組織内で妥協を繰り返しながら、いくらイノベーションを目指しても、出てくるアウトプットは「革新」ではなくて「改善」である。

「お荷物」となった事業分野をいくら改善してもタカがしれている。社内エリートが担当している「花形」もやがて「お荷物」になるのがプロダクト・サイクルである。未来の成長は「問題児」によって実現される。ずっと昔から言われていることだ。

ゼロから造るのではなく、組織内改革でイノベーションを成し遂げるには、真の目的にそって組織内破壊を繰り返すことが避けられない。そんな破壊を、統一的・効率的・迅速に進めるには、選ばれた人物の能力への信望が揺るがない原理が必要だ。アメリカの老舗・大企業でも苦手な領域だ。まして日本の伝統的大企業では容認不能な考え方かもしれない。

だから、新しい事業を始めるなら、そのための組織をゼロから造るのが最速の道かもしれない。

日本人は、しかし、モノだけではなく習慣もまた大事にする。縁を大事にする。一度できたものを磨き上げるには適した国民性だが、見込みのないものを捨てて、新しいものを育てることで割り切るには、とても向いていない。狭い国土で、無駄を省きながら、一所懸命に暮らしてきた中で形成された文化だと思う。

自分に適したやり方で行くしかない。これを今日の結論にしておこう。

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