2014年7月9日水曜日

メモ―いわゆる「絶叫型釈明」の是非について

兵庫県議会の某県議が公金の使用について釈明をしている途中、不覚の落涙どころか、絶叫を発するに至り、号泣しつつ弁明するという哀れこの上ない姿を満天下にさらしてしまった。

良心から出たものかどうかをさておき、もはや彼の御仁に議員の職責を委ねるには大半の人が躊躇するだろう。

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身の進退はさておき、挙措動作としてあのような絶叫型釈明というのはどうなのだろう?やってもいいのだろうか?

ま、表現の自由だから、ね。これまでの議員なら、批判や疑惑の的になった時、淡々とした態度で『まったくもって身の不徳の致すところであります』と、まずは謝罪をして、そのあと起立して深々と頭をたれる。そんな姿であれば、もう何度みたか知れない。今回もそんな風に謝っておけば良かったのじゃないか、あの某県議は。最初はそう思いました。

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ところが月並みのパターンで謝罪するという選択をしなかった。その点は、確かに「奇人・変人」のカテゴリーに分類されるようなお人柄なのかもしれないが、うがってみれば記憶に残るような行動をとった。そんな深い考えも心にあったのかもしれない。

実際、受け取りようによっては「公金横領」ともみられる行為をしたわけであり、今後の調査によってはどうなるか分からない。もしこれまで通りのパターンで『申し訳ござらぬ』と謝罪をするのであれば、『案外、腹の黒い人間よ』と、謝罪そのものが大衆、いや有権者の怒りの火に油をそそぐかもしれない。ところが、唖然とするような絶叫型の謝罪をして『世の中を変えようと、変えようと……』と連呼すれば、『バカな奴だねえ、まったく。世の中の常識ってえのを知らねえのかい。だけどよ、世の中を変えるのは案外こんな人間さね』。こんな風な見方も出てこないとは限らない。実際、幕府の世をひっくり返した志士たちは、常識的にみれば、とんでもない素っ頓狂であったに違いない。吉田松陰など、歴史に残る人物であるが、演出によって悲劇にも喜劇にもなりうる人物であろう。

噂の某県議も十数年も後に、いまは喜劇の主人公であるが、世に恵まれずに自爆した悲劇的な志士として私たちの子孫の記憶に残るかもしれないのだ。『事実は小説よりも奇なり』とも言うくらいだ。

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