2014年8月27日水曜日

日本人はなぜ最重要なことを議論しないのか?

いま何が一番重要なことだろうか?集団的自衛権?従軍慰安婦の解決策?、対中外交?対ロ外交?TPP?原発再稼働?辺野古埋め立て?安倍改造内閣の行方?etc. etc. ...

どれも違うと小生は思う。そして多くの人は「どれも違う」と答えるのではないかと思う。

なぜなら、多くの人、というより大多数の人の最大関心事は<幸福>であるはずだからだ。この点を否定するのは、小生、欺瞞だと思うのだな。

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国にとって、地域社会にとって非常に重要な政策をどうするかで、自らの幸福も大きく左右されるだろうといわれれば、それは影響を受けないわけはないが、政治的環境がどう変わろうと人は生きていくものであるし、国や政治がどうなろうと何とかなるという性質のものである。しかし幸福でなければ人は生きていく気力を失うだろう。少なくとも人は国が戦争をしていても幸福にはなりうるものである。小生はそう思っている。でなければ、戦争なるものは人類社会から消失しているはずである。

18世紀後半の啓蒙思想を背景にして「幸福追求の権利」が基本的な人権として意識され、アメリカの独立宣言やフランス革命時の人権宣言で明確に主張されたことは日本でも世界史を勉強する中でよく知られているはずだ。しかし、日本人はそれを欧米流個人主義の象徴として受け取っているのではないだろうか?自分の幸せをまずは追求しようとする人生哲学から、自己利益を目的とする資本主義がうまれ、そこから領土的野心、支配欲を衣の下に隠した帝国主義が生まれる。まあ、ろくなイメージを連想しない。日本で、-そして中国や韓国でも当てはまるかもしれないが-幸福追求の権利をうたっても、心底からアピールしないのは、この理念に日本人の多くは共感しないためではないかと思われる。『幸福追求だけじゃだめだろが!!』、マアそんな心情である。

実際、その後の世界の憲法で「幸福追求の権利」が条文の中にどう明記されているかとなると、どの国でも国権と人権とのバランスをいかにしてとるかで苦心している面が強いようである。ま、「幸福追求権」という権利を「法的に」定義するなら、かなり難しい問題となるのは間違いない。

法律的に難しいことは間違いないが、この点を徹底的に再確認することの重要性は、何も変わっていない。小生はそう思うのだな。

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<幸福>を定義するのは哲学上の最大の難問でもある。それは思想史が現にたどってきた紆余曲折からも察することができる。幸福とは、いうまでもないが<楽しい>とは違う。<面白い>とも違う。<恍惚感>とも<充実感>ともイコールではない。

古代ギリシアの哲学者プラトンは『ゴルギアス』の中で、人の幸福をあらゆる角度から検証している。その中で主人公ソクラテスは次々に質問している。家を建てるなら大工という専門家と相談する。詩を口ずさみたいなら詩人にきく。音楽をきくなら音楽家だ。病気に罹れば医者を探すだろう。では幸福になりたいと思えば、誰にきけばよいのだろう?それは哲学者である。哲学者とは、知を愛する者という意味である。幸福は哲学者が語るものであって、エンターテイナーが提供できるものではないのだと。そんなことを言っている。

幸福に至る道を二千年以上の時間をかけて探してきたのが西洋だ。中国の古代哲学は熟知しないが、日本で幸福を考え抜いた哲学者は何人いただろうか?別に西洋文明を崇拝するわけではないが、率直に言ってこの点は、日本社会のウィークポイントだと小生は思っている。

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確かに、何が好きか?どんな食べ物が好きか?何をしたいか?何が楽しいか?どうありたいか?それは文字通り「人は色々、人は様々、たで食う虫もすきずき」である。しかし、最終的に幸福でありたいというのは、すべての人にとって共通の願望であろう。他に国民共通のどんな願望があるだろうか。自分一身のみ幸福でありたいと願う人は考えにくい。これもかなり明らかではないだろうか。故に、幸福について議論したり考えたりすることは、枝葉末節の政策を論じるより遥かに重要度が高いはずである。

幸福の向上が政治・経済の窮極的な目標であるとする—というか、小生は当然そうあるべきだと思うし、他には思いつかない。その大前提の下で、はじめて戦略を論じることができ、国内の制度が決まる。「国がとるべき行動は何だろうか?」、目的を定めることなくこの問いかけには答えられまい。経営目標が決まらずして、社内組織の是非など論じられるはずはない。それと同じである。この<目標>が日本ではいつも揺らぐ。何をするかを論じて、何故するのかを問わない。

いま日本にかけているのは『幸福論』だと思う。同じタイトルの本は、岩波文庫にヒルティの著作もあり、アランの作品もある。プラトンも考えたし、アリストテレスも考えた。ローマ時代のエピクテートスも考えた。近代ドイツのショーペンハウエルも考えた。エピクテートスはローマ帝国五賢帝の一人マルクス・アウレリアス帝の心の師であったと伝えられる。

<幸福>をどう理解するか?そして共有するか?それは社会的なことすべての基礎のはずである。そこを考えた思想の厚みが日本にはない。あまり真面目に議論してこなかった。ここに日本の弱さがあると思う。「富国強兵」が残した負の遺産をここに見るべきだと思う。


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