2014年9月6日土曜日

ライバル心: 「敵意」に変えるのは誰なのか?

いま某大企業の人材研修ゼミに協力している。もう3週間が経過したところだ。昨晩は最終週を控え、ビジネスホテルから広壮な温泉旅館に宿を移し、盛大なジンパをやった。

今回の研修全体のディレクター役をしている同僚は、講義の中で『史上最大の作戦』(の一部であろうと思うが、時間的に)をみせたらしく、オマハビーチの話しが何度も出ていた。誰が真っ先かけて突進するかとか、誰が生き残るだろうとか、麦酒を豪快に飲み尽くしながらそんな風に盛り上がっているのをみていると、アアこいつらは文字通りのナイスガイ、my boysだ、そう思った。

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戦争によらず、ビジネスによらず、勝負をかけることは多い。自分たちがナイスガイであると同時に、敵方もやはりmy good boysなのだ。直接戦い合った敵味方同士は、多くの場合、相互の敬意、というか命をかけた過酷な運命をともにくぐった友情のようなものが芽生えてくると言われる。敢闘精神というのは人間共通の心情なのだろう。人類は、原始の時代から殺し合いを続けてきたわけで、もし一度でも戦い合ったから互いを憎しみあうというなら、今頃はもう人類は自滅していたろうと、小生、考えるのだな。しかし、決してそうなってはいない。

元帝国海軍の高木惣吉は、著書『太平洋海戦史』(岩波新書)の序文で古代ローマ帝国が行ってきた数々の残虐な行為をその偉大な文明の創造と併せてともに見て理解することが、歴史を理解するということだ、と。そんなことを書いている。古代ローマが偉大であった点を、悪かった点と切り離して理解することは適切ではない。常に全体としてみることが大事だと述べている。小生もまったく同感だ。現実は一つのものであり、それをどう考えるかは、その人がどんな角度から見るかによって変わるものである。一部を全体から切り離す歴史理解は、単なる主義であって、歴史ではない。

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それにしても、直接に戦い合った敵味方どうしでは、闘争心、というかライバル心はあっても、相手に対する憎しみという感情が意外やそれほどのものではない場合が多いとするなら、それでは敵に対する憎悪が一般に形成されるのはなぜか?

それは戦争継続の意図をもった人間集団がいるからだ、というのがロジカルな結論だろう。戦争は政治の延長である。故に、敵国に対する憎悪をつくるのは政治家、もしくは政治家につながる諸々の集団、これが理屈である。また、実際そうなのだろうと思う。戦争を続けるエネルギーは「憎悪」である。「不信」だけで戦争は続かないものだ。したがって戦争を継続したい政治家には「敵国に対する憎悪」が必要だ。

結果としてマスメディアがその憎悪を広く国民に伝播させる機能を果たすにしても、マスメディア自体が何かの政治的意図をもつことはない。マスコミによって好戦的気分が国民に広がり、政治が高揚した気分に押し流されるというのは、多分に表面的な現象で、本質的には政治が主導して戦争を選択肢に含め、マスメディアはプロパガンダを担当する。こんな理解が正しいと思う。

戦争をプロデュースする主体はマスメディアではない。あくまでも「時の権力者+支持基盤」である。

故に、権力を有した指導者が拡大を欲すれば、即ち「侵略」となり、停戦をこころざせば、即ち「平和」を築く努力とされる。この点は、当人たちの説明やまわりの解釈とは関係なく、ロジックとしてそうなる。

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