2014年10月28日火曜日

安倍政権―悲しいかな、杞憂ではなかった…

政治とカネが問題になって政権が危機に陥るという現象は何も戦後日本に特有のことだとまではいわない。しかし、もう数えられないほど何度も繰り返し、日本の政権はカネの問題で崖っぷちに追いやられてきた。

戦後早々の芦田均内閣は昭電事件で崩壊し、造船疑獄では絶体絶命になった佐藤栄作議員を救うために犬養健法相が指揮権を発動して自らは職を辞した。長期政権を続けていた吉田内閣が倒れたのはこの事件がきっかけになった。その後もロッキード事件、リクルート事件等々、数えきれないほどである。政権トップも巻き込んで、これほどの頻度でカネの問題が政権を揺さぶり続けてきた先進国は、小生の勉強不足もあるのか、聞いたことがない。なぜそうなのかを真剣に考えるべきだろう。実は、カネの問題は戦後日本ばかりではなく、早くも明治維新直後からその時々の政権や将来ある政治家を危機に陥れてきた。山縣有朋が政治生命を絶たれる寸前になった山城屋和助事件は特に有名である。明治5年のことである。この時、西郷隆盛が山縣を評価していなければ、明治陸軍、ひいては帝国陸軍はなく、日清戦争もなく、日露開戦を決意することもなかっただろうし、朝鮮併合ということもなかったと想像される。

随分前に、安倍晋三氏が自民党総裁にカムバックしたとき、おそらくはこうなるのではないかという小生の予測を投稿したことを思いだした。そこでは次のように締めくくっていた。
ま、ひいき目に見て、首相自身は鈍感なのだろう。だとすれば、安倍晋三首相の側近には是非キョロマがいてほしい。昨年秋にも投稿したことだが、そろそろ誰か閣僚が傲慢な失言をして、そのフォローが拙劣に過ぎ、次第に内閣支持率が低下する。そんな突然の暗転が夏の参議院選挙の前に来るか、後に来るかで、日本の将来がある程度は決まってしまう。そんな風に見ているところだ。
昨年の5月1日の文章だ。

傲慢な失言と不透明な資金経理の違いがあるのは見込み違いだ ― 韓国に対してはかなり傲慢な発言と行動を繰り返している。

昨夏の参議院選挙には見事に勝利した。この春の消費税率引き上げとその後の反動もどうにか乗り越えそうな按配だった。TPPと原発再稼働もそれほどまで政権への逆風になっていない。株価も不安定な10月を通り過ぎた。長期政権への道が開きかけていたまさにその時、上で予想したような雲行きになってきたのは、やはり天の配剤というべきか…… 。

昨夏の参院選の勝利と消費税引き上げで、やはり中枢部に驕りが生じ、柔軟性をかき、多くの国民や外国がそうあってほしいという姿は何か、目を向ける気持ちをなくしていったのであろう。

あとは消費税率を予定通り10%に引き上げて体力を使い果たすか、未練に迷い何もかもを後回しにして、結果として指導力を喪失し、そのまま消えていくか。現政権の行方はこの二つのうちのいずれかではないかと予想する。

ま、今回も自民党内の諸氏に首相が足を引っ張られたといえばそんな図式である。首相と与党議員は、民間企業の社長と社員の関係とは違う。ましてオーナーと雇われ店員の関係とは本質的に違う。要するに、与党議員は首相を軽く見ていても、次の選挙には通る(ような)気がするはずだ。今回の「不正経理ドミノ」は党内の驕りと緩みが原因であることは間違いないが、日本政治の問題はこの緩みを締める指揮監督権限をもった党内役職者が不在である点にある。そしてこの問題は、低品質で問題ある議員にせよ選挙区の有権者が選んだ国会議員であり、所属する政党の責任者であってもその議員の職を剥奪することはできない。それどころか、「活動改善命令」を下すことができない。いわば、議員が各自各自で自由に対等な立場でやっている。立法府のこのような状態に原因がある。これが理屈であろう。

2014年10月26日日曜日

「これは現実か!?」の2、3例

信じられないことは多い。

香港行政長官が発言したという。
香港の梁振英行政長官は20日外国メディアとの会見で、行政長官の選挙制度改革をめぐり、抗議行動を続ける民主派学生らの要求に応じ、住民が立候補者を指名できるようになれば、貧困層や労働者が選挙を左右することになるとの認識を示し、要求に応じることはできないとの立場を繰り返した。
(出所)Wall Street Journal Japan, 2014-10-21

う〜〜む、確か香港は中国に返還され、中国を統治しているのは共産党ではなかったか……。香港の貧困層や労働者が長官を決めるのでは都合が悪いのか。世は変わったのか、もはや共産主義はこの世から消えたのか。

★ ★ ★

これは現実かと思われる出来事の最右翼は、文字通りの夢の世界である。

今日の朝、えらく具体的な夢をみた。
小生は、とある商店街を歩いていた。カミさんや甥っ子が側にいたように思う。その甥っ子が国家試験を受けるというので『そりゃ合格祈願にカエルの黒焼きを食べないとなあ』、そう言うと甥っ子が『ええっ!そんなの食べられないよ』。『中でもヒキガエルの黒焼きが一番きくらしいぞ』、そう言いながら旨そうな匂いと煙を漂わせている店の軒先に歩いていくと、籠の中でヒキガエルが動いている。
いきなり場面が変わる。たそがれ時である。道を隔てた向こうに知り合いの奥さんが白い服を着て淋しそうに立っている。その奥さんは、つい数日前にご主人を亡くされたのである。奥さんの横には誰も暮らしていない廃屋がある。声をかけようとしたその時、奥さんが上げた右手の上がほんのりと明るくなった。あっと思いながら見ていると、奥さんは廃屋の方に歩き始めた。手の上には明るい火がうっすらと灯るように見える。奥さんは廃屋に入っていった。と、小生もいつの間にかその中にいて奥さんを見つめている。廃屋の天井には穴があき、屋内は蜘蛛の巣だらけだったが、奥さんが入ってくると、ずっとそこで人が暮らしている暖かさに満ちた部屋に変わった。台所の蛇口からはきれいな水が出るようになった。奥さんはその台所に立って何かを作り始めた。
起きてから「ああ、あの家は亡くなったご主人の生まれ変わりだったのか」と気がついた。

もちろん現実ではない。もし本当にあれば「これは現実か!?」どころの騒ぎではない。

2014年10月25日土曜日

「政治とカネ」を攻めるのが定石になったのか

『一利を興すは一害を除くにしかず』というのはモンゴル帝国の宰相をつとめた耶律楚材(ヤリツソザイ)の言である。

実は、歴史に名高い名宰相であるはずの耶律楚材は、特にこれといった業績(=軍功や政策)は一つもないと言われているようだ。ただ、モンゴル帝国の非文明的な蛮行から数多くの文化的遺産を守り抜いた。そんな点で中国では大変評価の高い人物であるそうな。文字通り、一害どころか多くの害を除いてくれたわけである。

不透明なカネの問題が与党の政治家にあるとき、野党はその問題を鋭意追求する。確かに不可欠の行動である。正に文字通りの『一利を興すは一害を除くにしかず』だ。いま日本の野党は政治の定石、政治の王道を歩みつつある。そう言えそうだ。

とはいえ、定石ばかりに頼っていては勝負に勝てないのも事実である。そもそも「定石」とは、基本的にはこうすれば危なくない、思わぬ不覚をとる心配がない。それが「定石」なるものの目的である。大体、勝つための定石などある方がおかしいでしょう。双方が勝つための定石をとったらどうなる。矛盾しているのだな。その意味では、民主党はじめ、いま野党がとっている戦術、与党のカネの問題を追及する戦術は、相手を弱体化し、自らは安全な立場に身を置くことになるので、この先政治的発言力は高まりこそすれ、弱くなることはない。負けない戦術をとっている。これは言える。

しかし、自らの実力を高めているわけではない。相手を自分と相応のレベルに引き下げて、それによって自分の敗北を回避しようとする戦略であると言える。

これをしも『一害を除くにしかず』と堂々と言えるのか?

ま、ほかに名案がなければ、カネの問題を追及するのが上策だ。うん、理屈はとおっている。

日本の国益を得るには、まずは「政治とカネ」にまつわる一害を除くのが早道だ。確かに「国益」には違いないが、そちらには"Grand Strategy"というか、大戦略はないんですか?そんな情けなさというか、冷めた思いというか、確かに言っていることは正しいけどねえ…という割り切れなさは多くの人が感じつつあるのではないだろうか?

2014年10月23日木曜日

公と私ー「家族のために」は公か私か

道徳という授業科目が設けられるというのが話題になっている。「公道徳」という言葉も復活するかもしれない。

おそらく日本人としてあるべき姿、日本国の本来の姿を守りたい。そんな意識が指導層に広く共有されてきているのかもしれない。

× × ×

朝ドラ『マッサン』で憎まれ役だったはずの優子嬢が父の経営する住吉酒造の経営危機を救うため、どうやら銀行幹部の御曹司とお見合いをして、政略結婚を余儀なくされそうだ。

家族を守るために望まない結婚をする女性は「公」に殉じたことになるのだろうか?これは一つの倫理的問題だろう。大体、日本人は自己犠牲という行動が大好きである。それも感情を押し殺し、自分一身の都合は顧みず、他者や普遍的価値のために一身をなげうつ行為をみると甚だしく感動する傾向がある。

一般に人間の行動の善悪は、(本来的には)その人の意志によって決まる。自分と深い繋がりがある、自分を超えた全体的な価値を守るための犠牲的行為はすべて崇高であって、窮極の利他的行為と言える。そんな利他的行為は「公」に殉じようとする動機と似た動機に基づくものである。形はどうあれ、動機は美しい。強いてこの先を議論するならば、どうせ行動するなら、もっと効率的で賢明な行動があるはずだ、と。そんな会話になるはずである。これは善意志というより、理智と判断を上手に使う話しである。頭を使う話しになる。

たとえは悪いが、仁義なき世界で自組を敵から守るために敢えて犠牲となるヤクザは、その時の心情においては国を救うための特攻隊員と相似ている。たとえその者が奉仕している組織、とるつもりである行為が全てまるごと日本国の法に違反している犯罪だとしても、当事者にとっては身を捨てて組織に殉じる行為である。殉じる対象が宗教団体であれば殉教になり、会社であれば殉職となる。多くの人は、何はともあれすべて自己犠牲という動機が美しいと感じるはずである。ただ、行動の理非曲直という点については、色々な話しがある。

経営者にとっては会社全体が「公」であり、自民党にとっては自党の党利を超える日本の公益があるはずだ。これが世間の感覚だろうが、もっと視野を広げれば日本人が日本の公益のみを追求するとき、海外は日本の利己心を非難するだろう。

× × ×

何だか話しが大きくなってきた。話題を戻そう。

「家族」のために自分を犠牲にしない人が、「国」を守るなら自分を犠牲にしてもかまわないと。もしそんな人間がいれば、いかにも安手で嘘っぽく、口先はともかく信用できない。そもそも「日の本国男」や「日の本国子」という人間はいないし、「国」という存在からして甚だ抽象的である。天皇も君が代も日の丸も象徴でしかない。家族や地域が大事だという姿勢が「身勝手」であるとよく言われる。国や社会が大事だという「常識」を説く人もいる。しかし人は、まず家族をつくり、結果として地域が出来る。できた地域が統合されて国が構成される。逆ではない。

普通の人は、「公」というか「国」というか、ぼんやりと意識されているだけの存在よりは、まず自分が大事にしている親しい人達のために一身をなげうつはずである。動機が具体的であるぶん私的である。とはいえ、すべて世の中こんなものだろう。「公」は実際にそんな実物があるのではなく、意識されているから「ある」と感じるだけである。その「公」という意識は、まずその前に「私」がある、他人の「私」に敬意をはらう、相互に敬意を感じるその感覚から自然に形成されるものであろう。これがロジックである。

すべて抽象的概念は、それに先立って具体的な現実があるものだ。「公」より先に「私」がある。ずっと昔、愚息に話していたが『日本という国より、おれの家系はずっと古い。これだけは確かだぞ』。これが正しい思考の順序だろう。

故に、「公」や「国」を大事に思う心を直接に作ろうとしても、それは不可能であると思うのだ、な。「公」の意識を育てたいなら、まず多くの「私」が「公」という存在を望むところから議論を始めるべきだ。それには共同する、それには分業をする、人が集まって交易が広まる、取引を通した経済活動の拡大が、他ならない文明の進歩である。文明の進歩は「公」という意識の向上と表裏の関係にある。こんな話しは、福沢諭吉が百年以上も前に『文明論の概略』の中で云っていることである。
一身独立して、一国独立する
この認識は明治時代にだけ当てはまるものではない。

日本だけが、不可能であるはずの「公」を勝手気ままに作っても、それは偽物の「公」である。


2014年10月20日月曜日

信念・合理性・子供のワガママ

同じ日に経産相、法務相の二人の閣僚が辞任した。いくら小さな事柄でも、法に違反すれば公職にとどまることはできない。この点を甘く考えれば、国が人々に対して「法を守れ」とは言えなくなるからだ。だからこそ、法律は慎重に作っておかないといけない。

とはいえ、金の問題はいざしらず、『団扇を配ることのどこが悪い?』という反論に類似した抗弁はとても多い。法の理屈は明快だ。有価物を配るのはダメだということだ。鉛筆はダメ(なのだろう)、メモ用紙も1枚や2枚はともかく、1冊はダメかもしれない(と思う)。お茶もだめなのか…?つまり、法律専門家でなければ、どこまでが常識の範囲で、どこから先が違法なのか定かではない。故に、選挙活動の是非は「専門家」の世界なのである。

しかし、そもそも「選挙」というのは本来、「専門家主義」とは正反対の立場から実施されるものではないのか。人種によらず、性別によらず、出身によらず、学歴によらず、職業によらず、個々人の信念やライフスタイルが本来は自然に発露されるよう、なるべく広範囲の自由を認めておくべきだという意見は当然あっておかしくはない。

それを「柄がついていれば団扇、ついていなければ団扇ではない」と、こんなことで候補者を裁いてもいいの?やっぱり本質的な疑問になるのではないか。ま、笑止な話なのだなあ。法律家が「団扇」を定義できる資格があるわけでもなく、こんな議論をしていると段々バカになるのじゃあないかと心配になってくる……。

★ ★ ★

近現代の歴史について読書するのが割と好きな方だが、『満州事変は自衛権の発動であり、満州国樹立は中国内部の分離運動によるものであるとの日本側の主張を、(国際)連盟に了解させるよう努めるべきであると考えていたのである』。これはいま読んでいる『昭和陸軍全史(1)』(川田稔)の一節で、陸軍・中堅幕僚のホープであった永田鉄山の見解を述べた箇所である。前後にある書簡などを併せて考えると、大体そうなのだろうと説得力のある所でもある。

満州事変が自衛権の発動なら、日華事変も自衛権の発動であり、その後もすべて自存自衛のために行った戦いであることになるだろう。いまなお類似の意見を述べる政治家は多くいるように感じる。当然「右翼」である。

ま、要するに1930年代以降の昭和陸軍の特徴は、『自分たちが悪いと相手が言うのは相手が間違っているためだ』という思考パターンなのだ、な。自分たちの信念が世界の非常識であることに気がつかなければ、子供のワガママと同じことを絶対に正しいと思い込んでやってしまう。そんな好例である。

小生の亡父は軍事教練を経験した世代で、「天皇」に対するホンネの心情も「帝国軍人」の表も裏もよく見聞きしていた風であったが、「陸軍は大人数で力をふるうが井の中のかわず」、「海軍は外国をよく知っているが声が通らない」。いまや常識になっている台詞だが、結局は最も頻繁に引き合いに出されてきた物言いが、実は(やっぱり)最もよく真実をついているとらえ方なのだと、読後感というか読中感というか、改めて感じているのだ。

やはり己の信念と矛盾するのでなければ、世間の常識とは良い関係を維持するのが合理的である。


2014年10月19日日曜日

政治資金ーいっそ必要経費払戻し制にしてはどうか

松島法相の団扇騒動と告発があったかと思ったら、今度は小渕経産相の政治資金不正経理が明るみになった。

そもそも内容自体は、『エッ、団扇をもらったらいかんの?』、『団扇をもらったからその人に投票するかねえ?』とか、『後援会が観劇ツアーを企画するなら実費をちゃんともらえばいい話しだろ』、『そんな初歩的なミスを故意にするかねえ…』、まあその程度であって、何かの巨悪がそこに隠されていると。そんな話しにはならぬ。多くの人は表現は悪いが『アホだねえ…』、こんな反応だと思うのだな。

もちろん何もしないわけにはいかない。そこが「政治的微罪」の悲しい所だ。辞めるしかないだろう。しかし辞めれば、それによって現在の政治の動きを停滞させる。支持されていない政治なら停滞してもいいだろうが、支持されているなら大きなマイナスになる。そこが「政治的微罪」の怖い所だ。

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切符をきられたスピード違反は15キロオーバーで大したことはなかった。大したことはないと思ってそれを公表せずにいた。ところが、たまたま記者からそれを耳にした野党議員が「事件を隠していた」と追求した。騒動になったが、その時の対応がお粗末だった。トップたる適格性を疑われるに至り、職を辞さざるを得なくなった。この時点において、たまたま部内では紛糾していた廃棄粒処理施設移転問題にケリがつく目処がついていた。近日内にスピード違反をしたトップが地元に説明をする予定になっていた。しかし、それもトップの辞任ですべてご破算になった。廃棄物処理施設移転はとうぶん塩漬けとなる方向になった。

上のような事例は、最近の日本で山のようにあるのではないか。

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その時の違反を処罰することは法律的・事務的・道義的には正しい。しかし、そのことが最終的な目標達成の障害となるのであれば戦略的には失敗である。

入国管理において、すべての旅客のスーツケースを開けさせ、現物を検査すれば不法に持ち込む大麻等を確実に摘発することが可能だ。しかし、あらゆる人的・時間的コストを払ってでも、その確実性を求めるか。ゲーム理論で政策当局のコミットメントを議論しているが、その理由はこの筋合いからである。

政治とは「政治事務」とは違う。政治は「戦略的行動」でなければならない。戦略には目標がある。目標は国家の運営、国益の実現だ。これを忘れちゃあいけないと思うのだな。

ま、辞任ですむのは文明が進歩したからだ。「これでは道義が立たぬ、己の不明を羞じる」といって、いちいち切腹をしていたなら国家が損をする。

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いずれにせ不正経理はまずい。すべて過失はまずい。

不注意によって何らかの損失は生じる。過失をどの程度罰するかという問題は、その過失によって生じた損害を見てもよい。そしてその損失とは、目標を達成する上で生じた損失を指すと考えるのが合理的だ。

大体、政治資金の決算については政府に「政治資金適正化委員会」が設けられている。「政治資金監査人」は登録制になっている。監査が期待どおり機能していないのではないか。

サラリーマンの収入はガラス張りだが、個人事業、専門的職業に従事する人は誰でも税理士と相談しながら経理ミスを防止しているはずだ。もちろん監査済みの決算に不正が見つかったからといって、ミスは監査人の責任ですとトップは責任を回避することはできない。しかし、経理ミスを見逃す監査人は、能力を疑われ、業務を継続できなくなる。

そもそも政治家はすべて「公僕」である。政治に必要な資金は、政党経由で国(=財務省?総務省?国会事務局?)に実費払戻しを請求させてはどうか。公僕なら「必要経費払戻し」くらいの権利は当然あるだろう。

政治家当人の事務所、後援団体を含めた「政治法人」とでもいうか、連結決算対象を定めておくのも一法だ。対象外の支持者が不正経理をしたからと言って、それは政治家の責任ではないし、監査対象でもない。

要は、線引きをはっきりするという点に尽きる。

道路交通など、日常生活の場で数多くの「微罪」が社会的障害になるなら、それはシステムに欠陥があることの証拠である。政治の場で、多数の微罪が国家的損失を引き起こすなら、やはり制度設計のどこかに欠陥があると見るべきだ。

政治資金の経理については、今後、制度の見直しが進むのではないかと予想する。

2014年10月18日土曜日

有給消化率「世界最低返上」は成功するか?

日本の有給休暇消化率が「世界最低」を争うほどに低いということは小生が若い頃からずっと変わらないでいる。

政府はついに努力目標から義務化・強制化へ舵をきると、そんな報道が出てきた。
有給休暇の消化を企業に義務付けることができるか、厚生労働省が検討に入ったと伝えられている。政府による休暇の取得促進はこれまでも行われてきたが、果たして今回の改革は、我々の生活に変化をもたらすものになるだろうか。
(出所)Yahoo!ニュース、2014年10月18日

確かにすべての勤労者は、一定の枠内で休みたい時に休む権利をもっている。しかし、ドラマではないが『きょうは会社休みます』とは中々言えないもので、その心理は一度オフィスで働く経験をしただけで分かる。

『休みます』と言いづらいのは会社だけではない。忘年会、職場旅行、サークルのOB会、その他あらゆる種類の懇親会、何事によらず「欠席します」とは言いづらいものである。参加が義務ではない、というか寧ろ義務ではないが故に自発的に「当然」出てくれるよね。そんな空気が充満しているわけであり、その空気が読めないのは「まだまだだね」と。そんなインフォーマルな受け取られ方が、仲間作り、派閥の所属等々、色々な場で非常に影響してくるのが日本の社内風土である。

「顔を出す」というのは英語でどう表現するのか……、ちょっと思いつかなかったので調べてみた。すると、出席する=attend、ちょっと違うねえ。顔を出す="show my face"、おいおい隠れて覗き見するのじゃないんだから。姿を見せる=make my appearance、何だか将軍が最前線に出張っていくようだが、ちょっと違うなあ…、どうも適切な英語表現がない。と、「これか!」というのがあった。表敬する=pay my respect to Mr. X、これか!「顔出ししておけ」というのは、上司や先輩、同輩に対する表敬であって、『日頃からお世話になっています』と、相手のメンツを立てる場である。これなら分かる。だから、特別な事情がない限り、毎日オフィスに顔を出すのは、日本ではとても大切なことである。

ただ上の記事でも紹介されているが、海外で有休消化率が高いのは、誰がいつ長期休暇をとるか「上が決めている」からでもある。つまりいつ自分が"Off Work"になるか、それは生産管理、経営戦略上の所掌であると考え、配置につくも休暇に入るも、命令による。そんなスタイルだ。ま、軍隊式ではあるが、これなら直接上司も『しっかりリフレッシュしてこいよ」と言いやすいし、周囲も『戻ったらしごいてやるからな』と気軽に言える。休む当人も『命令とあれば仕方がありません。では明日から▲▲月○○日まで失礼致します』。痛々しい空気はまったくない。

とはいえ、得意先情報をチームで共有しておかないと、休暇命令を出しても不慮のトラブルを心配した命令違反が続出するのじゃないかという気はする。「担当者」の不在は、怪我や事故でも起こりうるわけで、普通のことなんだけどねえ……。

資本主義も株式会社も、近代式軍隊もすべて西洋発の組織原理である。自然発生的に成長した方法には無理がない。どんなシステムも直輸入したままでは、サイズの合わない靴を履いているようなもので、どこか不完全であり、現場は痛々しくなることが多い。歴史を踏まえた人間臭い制度も、よその国が輸入すれば、輸入した後は平板な「権利」と「義務」の関係に整理されてしまう。『仏つくって、魂いれず』。この種の問題は、夫婦、家族、地域社会、自治体、会社、官庁等々、いたる所に隠れている。

× × ×

今日から月曜までカミさんは亡兄の三回忌で四国・松山に帰郷する。さっき空港まで送ってきた。故人を追憶するための儀式は、どれが正しく、どれが誤りだと言う議論はできない。

日本の明治維新はこの辺りのバランスを上手にとった。夏目漱石や永井荷風によれば散々だが、明治という時代にも評価できる側面は確かにあったというべきだろう。それでも富岡製糸場が日本の国宝になるときけば、漱石も荷風も目を回すかもしれない。


2014年10月17日金曜日

靖国神社ー春・秋・盆の風物詩になった政争

春・秋の例大祭、盆の季節の終戦記念日と、その頃になると必ず政治家の靖国神社参拝が世間の井戸端会議の話題となり、それに対して中国の非難、韓国の避難、時にはロシアの非難、アメリカの遺憾の意表明が相次ぎ、日本国内のメディアはメディアで支持派、絶対反対派の二つに分かれて主張をぶつけあう。そんな騒ぎがもう何年もずっと繰り返されている。

バカだと言えば不謹慎だが、論争するならするで何かの結論はもう出すべき頃である。

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今度も高市総務相が秋の例大祭には靖国参拝をすると表明し、これに対して中国の批判がまたまた報道されたりしている。そういえば日本国内の政治評論家・田原総一郎氏が高市氏の靖国参拝をTV番組中であれこれ批判したというので大荒れになったということも耳にした。

この話題について小生の個人的立場は本ブログにはすでに投稿している。石橋湛山元首相の撤廃論など、なるほど戦争直後の時点においてはそれが自然な提案であったのだろうと、非常に共感しているのだ。とはいえ、人によってこれほど主張がわかれる話題はない。

自然にまかせていても論争の収束点には行き着かない可能性が高い。

× × ×

誰もが、渋々ながらも認めざるを得ない結論とは、結局は、<論理的な結論>だろう。理屈に合わない主張を根気よく一つずつつぶしていくしかないのが靖国問題と戦犯問題である。

不思議なことは、靖国問題やA級戦犯など微妙な問題について世論調査が行われたことをほとんど聞かないことである。

どちらに転んでも結果が出れば出ればで、大きな論争を引き起こすきっかけになる。マスコミ各社はそう思っているのかもしれない……、怖いのか。ここまで文章を書いてきて、ふと気になりGoogleで検索してみたのだな。そうしたら、やっぱりありました。毎日新聞の世論調査で『A級戦犯分祀に賛成か反対か』を質問している。この結果を引用しているブログがあったのだ。あらゆるブログ全体に検索の網をかけるというのは凄いことである。

調査は平成18年に実施されたから相当以前である。分祀に賛成は63%、分祀に反対が23%で、概ね3分の2の人はA級戦犯分祀に賛成していた。

もちろん元データをチェックしたわけではないので、一つの素材として見ておくべきだ。とはいうものの、こんな結果だろうなと感じる結果である。

× × ×

高市総務相は「国策に殉じて亡くなられた方をどのように慰霊するかは国内の問題で、 本来は外交問題となるべき性質のものではない」と、16日の衆議院総務委員会でもそう答弁したと報道されている。

靖国神社に祀られている英霊は実に多様である。また、祀られていない戦没者、というか戦争犠牲者も実に多数である。その中で一つ確実なことは、戦後裁かれたいわゆる「A級戦犯」は「国策に殉じて亡くなられた方」ではない。国策を決定した人々、国策決定に強い影響力を及ぼした人々であり、つまり日中戦争から太平洋戦争に至る当時の日本の指導層である。告発の公平・不公平という問題はさておき、この点だけは確かである。

自らの人生が、軍事裁判における有罪で終わった以上、その国策は失敗したのである。失敗した国策の下で、300万に達する日本人が「国策に殉じて」亡くなった。これも事実だ。故に、指導者はその責任をまずは日本国民に対してとらなければなるまい。これがロジックではないか。

まして、その当時、国家元首であった天皇や陸軍大臣、参謀総長の意向にも反して(時には明白に無視して)、満蒙・支那・朝鮮など周辺地域で攻撃的軍事作戦を推し進めていったことは資料から明らかにされている。

日本が主体的に「軍事裁判」を戦後に行っていても、1920年代後半以降、軍規に違反して部隊を動かし、未承認の作戦を次々に展開したことの責任が追求されていたことは間違いなく、結局は実際の歴史と大同小異の — いやはるかに秋霜烈日の視点に立ってー「戦犯」が裁かれていたことであろう。そう想像できるし、またそう考えるしか選択の余地はない。戦勝国によって一方的に裁かれたという被害者意識は欺瞞である。原因が国策の誤りにある以上、最終結果は同じである。小生はこんな風に思っている。

それ故、現在の総務相がとっている立場は、日本の外から見ても内から見ても、非常におかしい。大きな欺瞞を隠蔽している。真の殉難者に対して失礼であると。そう見ているのだ、な。

2014年10月16日木曜日

10月は本当に「アノマリー」か?

ドイツ経済の後退、EU経済の後退予想に端を発した先行き不透明感から世界の株式市場が動揺している。

16日前場中ごろの東京株式市場で日経平均株価は安値圏でもみ合っている。前日比350円程度安い1万4700円台前半で推移している。一時は下げ幅を400円超に広げた。世界経済の先行き不透明感が強まり、運用リスクを回避する動きが続いている。
(出所)日本経済新聞、2014年10月16日

今年前半は、株価があまりに凪状態で変動しない。『これはおかし過ぎる』と指摘されていた。それが夏場を過ぎると、一転俄かに風雲急を告げてきたというわけだ。これもおかしなことだ。

今回の下落の発端は「EU景気」といわれるが、このこと自体は対ロシア経済制裁、ドイツ経済への打撃など、一連のつながりからEU景気の後退は半ば予想されていたともいえる。

予想されていたことが、さて現実になったからといって、株式市場が動揺するというのも奇妙な話ではないか。マスメディアの解説はどうも浅い。そう感じるのは小生だけだろうか?

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ま、上の話しはともかく、9月後半から10月に入るころ、この先もAmazonやFBを持っていて大丈夫だろうかと気にはなっていた。

大体、1929年大恐慌のきっかけになった「暗黒の木曜日(Black Thursday)」は10月の出来事だった。また、日本がバブル景気に足を踏み入れるきっかけになった1987年10月19日「暗黒の月曜日(Black Monday)」も10月である。2011年の「リーマンショック」は9月15日。どうも9月から10月にかけては何が起こるか分からない「危ない季節」なのだな。

危ないからリスクを意識する。だから早めに売る。株価は下がる。しかしながら、10月に下がるのなら、絶好の買い場であるはずで、株式投資を考えている人は7月や8月には買わず、下落する確率の高い9月、10月を待つはずだ。なので、合理的に市場価格が形成されているなら、結果として9月、10月はことさらに株価暴落が発生しやすい季節ではなくなるはずである。ところが、現実には今頃の季節、株価は暴落しやすい傾向がある。これは確かにアノマリー(=正常ではない、おかしな現象)だと思うが、どうだろう。

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数字を冷静に見ると、EU全体の景気は(今のところ)おしめり程度の減速である。アメリカ経済に異常は見当たらない。OECD全体をみても急速な崩壊が心配される「バブル」が進行しているわけではない ― 心配があるなら中国経済くらいだろうが、共産党政権は危機に際しては何でもできる権力を有している。しいて言えば、エボラ熱の感染拡大、イスラム国の影響拡大、パキスタンタリバンの影響拡大、シリア問題、イラク問題……まだあるか、心配事は?秩序維持のための世界的メカニズムは作動しているのか?

10月だから株価が動揺しているのか?現時点の世界情勢の実態を反映した本物の動揺なのか?数字だけを見れば、余裕資金があったら米株に追加投資したい位なのだが、この見方が正しいかどうか、まだ定かではない。

2014年10月14日火曜日

世界市場はデータ過敏症?それとも中国不安?

ドイツ経済が景気後退局面に入ったと言うのでEU経済についてはにわかに先行き不安が高まってきた。先日OECDから公表された景気先行指数(Composite Leading Indicator)も確かに欧州については頭を下げた形になっている。




う~む、確かにEURO地域全体の景況は、5月の101.0をピークにして、100.9、100.8、そして8月の100.7と次第に低下している。これを称して『欧州経済の先行き景気不安』か…、そして昨日のNY株式市場は大きく下げた。本日は新聞休刊日だが、日経WEB版には『世界的な景気の減速懸念から、売りが続いた。ダウ平均の3日間の下げ幅は673ドルに達した』と報じている。

噂や不安ではなく、実態をみると不安は欧州ではなく、むしろ中国の方だろう。中国は、いま現時点でソフトランディングに懸命のようだが、中国バブル崩壊の心配はずっと潜在意識の中にある。

ま、日本は(幸か不幸か)尖閣国有化とその後の反日暴動をきっかけにして脱・中国経済依存を基本方針にしている。その間隙にドイツ製品が中国に浸透してきていた。欧州の景気後退は、中国経済の足踏みを反映するものだと思われる。

アメリカは自律的に回復しつつある ― テンポは極めて緩やかだが。原油価格(WTI)は本年前半に上昇したが、基調は横ばいである。住宅価格はシラー住宅価格指数の上昇が一服しているが、これは当然の調整であり、これまでの住宅価格回復が急テンポすぎた。FRBの量的緩和終了が意識されるたびに、株式市場の心理はクールダウンさせられているが、いまアメリカ経済を測る数字に異常が出ているわけではない。

ロシア経済は数字的に落ちているわけではない。同じEUでもフランスは回復ステージにある。

日本は……、4月から8月にかけて、景気のピークアウトを示す典型的な形をとっている。


(出所)上と同じ

もちろん消費税率引き上げの反動である。

が、ならしてみると結局、2012年末から13年にかけて何が何だかわからず浮き立った半年間があり、消費増税の前の駆け込みがあったものの、全体としては横ばい圏内。潜在成長力に沿った軌道から上放れしてはいなかった。現状はこんなところだろう。

円安で少しは製造業の海外移転がスピード調整されたか…、それと円レートが下がったので、ドルベースの収益が上がり、その分だけ円ベースの株価がレベル調整された。これで儲かった人も多かろう。とはいえ、日本経済を活性化するための<実質に踏み込んだ構造改革>は何かやったか……?社会保険料は少し上げた。消費税率も少し引き上げた。が、もうイヤだという国民の声がある。10%は勘弁してほしい。次第に強く意識されるようになってきている。中途半端だ。国の姿はこうあるべきだという志がない。が、ホントに嫌なら仕方がない。

あと死ぬまで10年か15年、日本経済がもってくれればいい……。まさかそんな思いが「世論」ではないのだろうが、どうも志が衰えている印象だ。

こころざし衰えし日はいかにせましな
冬の陽の黄なるやちまた
つつましく人住む小路
ゆきゆきてふと海を見つ
波のこゑひびかふ卓に
甘からぬ酒をふふみつ
かかる日の日のくるるまで

三好達治の『志おとろへし日は』の第二連の2行目は、断然、「冬の日」よりも「冬の陽」がいいと思う。高齢化した日本社会は、いま、社会全体が「志おとろへし時代」に入ろうとしている。世論にはかなりのバイアスが混じってくることを考えなければならない。

数字は現実を正直に映し出す。要するに、中国経済の混迷、何もしない日本。匍匐前進するアメリカ。世界経済のポイントはこんなところではないか。

国民に「匍匐させるなどそれでも良い政府か」といいかねない日本社会と、「匍匐するときにはその前で旗をふるのが良い政府だ」と考えそうなアメリカと。観察される違いは、その違いを生み出している国民の違いによると考えるのがロジックだろう。



2014年10月11日土曜日

メモ: 宗教的対立とは?

『過激派テロ集団・イスラム国』への参加を意図していた学生が隣町の大学からも現れて、遠い地の話しではなくなってきた。

イスラム教は、そもそもキリスト教の分派でもあるわけで、キリスト教を国教としていた中世ビザンティン帝国の宗教政策上の失敗に遠因があるとも言われている。

ただ、今日はその話題ではなく単なるメモである。

× × ×

仏教では「神」という呼称はない。しかし日本の神道では多数の神がいる。それらの神は、仏教上の至高の存在である「仏」がとりうる多くの形のいくつかであるとイメージされている(ようだ)。現在では採用されていないが、聖徳太子以来の本地垂迹(ほんじすいじゃく)説というか、神仏習合論であり、こちらが寧ろ日本文化の伝統には沿っている。

今朝、はっきり目が覚める前に思ったのだが、仏教には阿弥陀如来や大日如来、釈迦如来など多くの如来がいる。年を重ねるにつれて、阿弥陀如来の名号をとなえる他力思想に共感を覚えるようになったが、阿弥陀信仰は唯一の神を信仰する一神教ではない。なぜなら、他の多くの如来が同じ仏教で信仰されているからであり、異なる名称をもった多くの如来的存在が本質的には同一の神であるとは議論されていないからだ。

しかし、多様な存在を認める以上は、その統一性というか、整合性というか、更にその上位にある<如来性>を象徴する存在を考えないと議論はまとまらないと思うのだな。どうも仕事上、常に<公理>から出発しているので、そんな考え方が癖になっている。

最近の小生に近しい<阿弥陀如来>も、一つの如来的存在であって、すべての如来に共通する如来的な本質だけを具有した存在を認めなければならない。そう考えてしまうのだ。このロジックは、すべての宗教的議論に包括的に適用される。

なので、教理には全くの素人であるが、すべての宗教は究極的には唯一の神を想定しないと理論化できないと。すべて宗教は同じ一神教として見ないとおかしい。今朝、そう思ったのだ、な。

× × ×

この理屈でいえば、すべての宗教は究極的には<神>自体を信仰している点は変わらないわけで、信仰自体は同じである。内容の違いはすべて民族的なもの、歴史的な原因によるものだ。つまり、人間的な原因である。信仰する神が異なるために、宗教上の対立が生まれ、紛争に至ることはない。

宗教的な対立は、信仰自体によるものではなく、学説の違い、手順の違い、儀式の違い、歴史の違い等々、宗教エリートの権力闘争になるわけで、つまり政治の問題である。そして政治問題の原因の多くは経済にあるといわれるから、結局は経済政策になるのかもしれない。

神々の問題も、根底にはカネや損得の問題があるというと堕落した見方かもしれないが、案外、本筋かもしれない。

2014年10月9日木曜日

報道と流言飛語の違いを疑う

前・産経新聞ソウル支局長が韓国側の検察に起訴されたという報道だ。

日本側のマスメディアは各社とも批判的な意見のようである―マア、当然だろう。

今後、いろいろなリアクションが出てくることは間違いない。ここで、韓国側の現政権がいかなる戦略的意図をもって今回の摘発・起訴までの道筋を描いたのか。そんなことをここで論じるつもりはないし、ほとんど意味のない事だ。

ただ思うのは、これまでにも何度か投稿したことだが、マスメディアが時に引き起こすネガティブ・インフォメーション・バブル ― こうでも言いようのない現象についてである。

ネガティブ・インフォメーション・バブル……流言飛語といってもよい。甚だしい例は、関東大震災時に発生した悲劇である。誰でもWikipediaで概略を知ることができる。典型的なネガティブ・インフォメーション・バブルである。
震災発生後、混乱に乗じた一部朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などが発生したが、こうした事件情報は混乱期にあって流言、デマなども生み出し、過度に警戒した民衆によって朝鮮人が殺害されるなど、朝鮮人側にも大きな被害をもたらした。最終的に日本政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制をおこなうまでになった。震災発生後のメディア情報の中には、「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあったが虚実は判然としない。
(出所)Wikipedia「関東大震災」

ちなみに真偽に関する信頼性についていえば、WikipediaはBBCよりも上位にあるという調査結果がある。調査は英国で行われた。マスメディアの情報はしばしば流言飛語であるというのは、国によらず多くの人々が感じている。そのことを示す証拠になるのではないか。

今回、韓国の検察当局が産経記事について問題とした核心は、根拠や裏づけを調べもしないで、バケツリレーよろしく、<噂>を左から右に伝えると言う、その姿勢にあると。公式には、こんな理由を掲げている。

もちろん産経の支局長は報道するべき価値があると思った、公益にかなうと思ったと、そんな風に話しているという。しかし、単なる<噂>をそのまま伝える行為は、通常、<流言飛語>に加担すると言われても仕方のない行為である。

もともと韓国政府は産経新聞社に好意をもっていなかったことは推測される。政治的な意図が隠されているようにも思う。ま、ある意味、色々な邪念が背後にある。そんな風にも思われる。

とはいえ、マスメディアの唱える「報道の自由」は、調べもしないで勝手な噂を(時には尾ひれをつけて)勝手に流す。そんな権利とは本質的に異なるものである。小生は、そう思うことが非常に多いのだな。

2014年10月6日月曜日

サムスン-この拡大戦略はDNAがなせる行動か?

韓国サムスンが半導体事業に極めてアグレッシブな拡大戦略に打って出るということだ。
【ソウル】韓国のサムスン電子は6日、韓国に半導体の新工場を建設するため15兆6000億ウォン(約1兆6千億円)を投資すると発表した。同社は陰りの見えるスマートフォン(スマホ)以外に成長の活路を求めている。 
新工場の着工は2015年で、17年の稼働を目指す。

 新工場はソウル近郊の京畿道平沢(ピョンテク)市に建設される予定。同社は現在、国内では器興(キフン)区と華城(ファソン)市に主な半導体工場を持っている。

 権五鉉(クォン・オヒョン)共同最高経営責任者(CEO)兼副会長はこの投資について「サムスンの将来的な半導体事業に著しい影響を与えるだろう」と述べた。
(出所)Wall Street Journal Japan, 2014-10-6

 1980年代に世界半導体市場の覇権はアメリカから日本に移った。しかし90年代になって、日本はバブル景気の後始末で『三つの過剰』 ー 過剰債務、過剰設備、過剰雇用 - の解消に専念した。採った戦略はスリム化、協調的設備廃棄だった。政府自らが「過剰▲▲脱却が急務」と、そう音頭をとったことも影響した。

世界市場で攻勢をかける好機をうかがっていたサムスンは、日本の縮小路線に乗じて、攻撃的拡大戦略をとった。そしてそれが成功した。生産能力については「押さば引け、引かば押せ」の戦略的代替関係が当てはまることが多いからだ。韓国の進出と日本の後退は、日韓半導体生産ゲームのナッシュ均衡でもあったのだ。スリム化した日本勢は巨大化したサムスンと戦う意志はもはやなく、ひたすら製品差別化と「匠の技」路線を歩いていった。以後、半導体市場の覇権は日本から韓国へと移り、サムスンはその後スマートフォン市場へ参入し、今日までの成功物語を演出した。

そのサムスンが、利益の限界が見えたスマホから半導体に経営資源を集中させるという。
逆なら分かる。

利益の見込めない半導体市場から撤退する。スマホ市場に資源を集中する。ハイエンドのR&Dを強化する。ローエンドでのコスト優位性を徹底する。それなら分かる。サムスンが半導体をすてて、スマホに集中すると決定すれば、ライバルに対しては相当強烈なコミットメントになる。それと、スマホ市場は、確かに急速にコモディティ化しているが、バッテリー、GPSの活用、ビッグデータの活用等々、まだ未開発の分野は多く残されているはずだ。サムスンの利益機会は、半導体ではなくスマホ市場にまだ多く残されているのではないか。

これに対して、半導体は、単なる「IT産業のコメ」である。ウォン高も逆風だ。そして、なんと1兆6千億円の拡大投資!……差別化できるのか?コスト競争力は持てるのか?これが逆噴射にならなければよいが。

それを敢えて半導体市場で攻勢に出るとは……川上部門を内製化するシャープの垂直統合モデルをイメージしたか?それとも半導体市場でシェアを高めて価格支配力を握ろうというハラか?スマホ市場のライバルである中国スマホ企業に対して売り手交渉力を持とうというのか?色々と考えての選択だろうが、いまの世界半導体市場において価格支配力を行使するのは、参入の容易性を考えると、不可能ではないか。現実にはシェアを握っても価格を支配することは難しいのではないか。

今回のサムスンの決定をライバル陣営は歓迎しているような気がする。

2014年10月4日土曜日

模倣と創造

昨日は誕生日だったが、免許証更新に時間をつぶして、気分はザワザワしたままで、ただ一日が過ぎていった。

行くたびに、どこかの手順・やり方が変更されている。便利にするという理由はあるかもしれないが、前と同じでそんなに変わらないではないか。カネをかけてシステムを変更する意味があるのかと。そんな風にも感じる。もっと先にやることはないのか、と。


模写‐ゴッホ‐畝みち‐F8
(出所)岩波文庫『ゴッホの手紙』第545信のデッサン

…われわれの貧しさを軽くするために全力を尽くすことが、僕の義務であるのを、はっきり感じる。
それは画業の上には何の価値もないことだ。ゴーガンは僕よりはミレーに近い感じがする。僕は彼よりはディアスに近い。だから僕はディアスのように、組合に金を入れるために大衆の気にいるようにしていくつもりだ。僕は彼らよりも金を使った。そんなことは彼の絵をみた瞬間どうでもよくなった。うまく行くにはあんまり貧しいなかで仕事をしたのだ。
まあ待っていたまえ、前に送ったのよりいい、もっと売れそうな絵が出来ている。そしてもっとできそうな気がするのだ。やっとそれに確信をもてた。『星空』、『葡萄の枝』、『畝みち』、『詩人の庭』といったような詩的な題材を見つけると、ある連中の気に入ることが僕にもわかった。(引用: 岩波文庫『ゴッホの手紙(中)』、296頁)
オリジナルが目の前にあるわけではないので、ゴッホを模写しようとして、いつの間にか自分の絵になってしまった。

1888年前後、アルルの麦畑でゴッホがのこしたドローイングを本でみて彩色したくなったのだ。同じころ、大体同じ場所で描いたとみられるゴッホの作品。


Goch, Wheat Field, Arles, 1888

筆触、色調、パワーすべてが段違いであることはPCの画面からも一目瞭然。これがレベルの違い、天才と愚才の違いというものだ。やるだけ無駄だったか……。

それでも構図のとりかたも含めて、最初から自分で描いた作品と比べれば、模写であれオマージュであれ、天才の足跡を模倣することは自分を高める勉強になる。

自分一人の「独創」などはタカが知れている。単なる「思い付き」がまかり通る社会であってはならない。大いなる遺産の価値を認め、偉大なものに対して謙虚な気持ちを持つときにのみ、自分でも納得できる結果が残せるというものだろう。世の中の99パーセントを占める凡才の生きる道はこれ以外にない。

「創造」とは、集合知の進歩という形をとって進むものだ。天才ですらその天才が憧れる偉大な先達がいる。

人間に出来ることは<誰かの>あとを追う。これ以外の道はないと感じることが多い。

2014年10月2日木曜日

消費税率引き上げをめぐる景気判断は?

後期の授業が勤務先ではじまり昨日は「マクロの見方」について講じた。

マクロといってもマクロ経済学を解説しようとすれば通年4単位でも説明しきれない部分が多々残る。まして二コマ3時間で話すことができるなど、断片のそのまた断片的な部分でしかない。なので、まずはマクロ統計の見方、GDPの意味するところあたりが要点になるのは仕方がない。ま、顧客や利益、戦略について議論をするうえでの経営環境といった位置づけである。

そのGDP統計だが、話してみて<実感>したのだが、いまほどGDP統計をめぐって話題性がある時期は今後ないかもしれない。

☆ ☆ ☆

『あなたが、近々、新規事業をたちあげようと思っているとして、今年の初めに一番気になっていた点は何だったでしょう?』

『それは、消費税率を5%から8%に引き上げる影響です』

『そうですね。消費税率をあげると、収入が同じという前提にたつと、より多くの消費税を払いますから必ず消費者は消費を減らす。景気にはマイナスになります。しかし、消費税率を上げることこそ、日本経済にはプラスなんだ。そういう意見もあるのですね。だからこそ上げる。それが理屈でしょう。』

『その辺はどうなると予測されているんですか?』

☆ ☆ ☆

今年2月時点の日経短期予測は以下のようになっていた。


(出所)日本経済新聞、2014年2月28日

税率引き上げ直前の1~3月期に実質季調済前期比でプラス1.1パーセント、その後の4~6月期でマイナス1.2パーセントの反動減となる。そんな予測になっていた。

実際には、こうなった。


(出所)内閣府

8月の二次速報では、1~3月期にプラス1.5パーセント、4~6月期にマイナス1.8パーセントのかなりな落ち込みになった。駆け込みが予想以上であり、落ち込みも予想を超えた。そういえばいいのだが、昨年からずっと前期比を図にかいてみると、段々下がっている。アベノミクスの勢いもここまでかと思わせる形になっているのも事実だ。悲観論はこの辺から出ているのだろう。

一方、毎月出る景気動向指数をみると、明るい兆候もある。


(出所)内閣府

データは7月までの数字だが、先行指数が反転回復している。いずれ一致指数の回復につながる動きである。ただ、異常気象の影響で8月-そして9月も?-の経済活動は相当のマイナスの影響を受けたかもしれない。とすると、上に見る先行指数の上昇は、実際の景気回復としては現れないかもしれない。

気がかりである。ただ今年の前半によく言われたアベノミクスの限界。それは数字からも確かめられていたことなのだな。

☆ ☆ ☆

やはり4~6月期の相当の落ち込みが十分回復しないまま、秋を迎えているのではないか。そんな気はする。

7~9月期のGDP速報は、一次速報が11月17日、二次速報が12月8日に予定されている。一次速報から二次速報にかけて相当大きな修正があることもある。

安倍内閣は7~9月期のGDP速報をみて、消費税率の2回目の引き上げ(8%→10%)を最終判断しようと考えているようだ。

一部の国のように統計データ作成に政治的圧力が(直接)かかることはないが、それでも統計作成部局が感じるプレッシャーは相当なものだろう。