2014年11月29日土曜日

「GDPショック」:この大きなウソ

この7~9月期のGDP速報は専門家の予想をはるかに下回るマイナス成長というので大きなショックをもたらしたと、今なお波紋が続いているようだ。

確かに7~9月期のマイナス成長は喜ばしい数字ではない。しかし「予想をはるかに下回る」というのは真っ赤なウソであると。そういわざるを得ないのだな。

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たとえば9月時点で4~6月期の二次速報値までが利用可能だった。その9月時点のデータからボックスジェンキンズ法を使って7~9月期以降の予測計算をしてみた。結果は下図のようになる。


使用したデータは実質季調済の実額である。予測期間は7~9月期以降1年間。図に見る通り、7~9月期は前期比マイナスと出る。

これはRのパッケージ"forecast"でauto.arimaを使った結果である。図のタイトルにあるように、季調済系列にはないはずの季節成分を調整している。季節成分をとり切れていないということだが、念のためにデータを対数化して同じ計算をやってみた。それが下図である。

対数化した実額には単純な"order=c(1,1,0)"が当てはまる。やはり7~9月期は前期比マイナスである。予測された実質季調済前期比は▲0.37%である。ほぼ公表値と合致している。

下の図は11月に公表された速報の4~6月期までを用いて7~9月期以降を予測した結果である。但し、季節調整はGDPを対象に手元のX12Arimaで別に行った。だから公表値と完全には合致しない。

予測は上と同じ。Rの"forecast::auto.arima"による。実額だと、やはり、とりきれなかった季節成分を検知してしまう。


図に見るとおり、7~9月期のマイナス成長は事前に予測可能だった。というより、上の図の予測値(青)と実績(赤)は非常に近接している、つまり「7〜9月期のGDP速報はほぼ予測どおり」であったことになるわけで、この点は9月時点の予測も同じである。

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ほとんどの専門家はプラスの前期比を予想していたときく。が、ここで示した予測計算はデータがあればほんの1分でできる。専門家が怠っていたはずはない。結果をみれば「マイナスもありうるか」と、そう思ったはずである。まして、大きなショックを感じるはずがない。それ故、エコノミストが受けた「GDPショック」は真っ赤なウソであると感じた次第である。





2014年11月27日木曜日

参院選違憲判決の意図せざる政治性

昨年の参院選は一票の格差から「違憲状態」にあったとの最高裁判決が出た。

最近の違憲判決の流れから見て、これ自体は予想の範囲にあった。が、こうした姿勢が裁判所にとって賢明なのかどうか。疑問ではないかと、小生、考えるのだな。

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違憲状態をもたらす主因として、まず衆議院小選挙区については全都道府県に定員1名を割り振り、あとは人口に比例して定数を決めるという方法。これが大いに問題だとしている。まあ最高裁の持論なのであるが、定数配分方式にまで踏み込んで違憲判決を出してきている。今回の判決は参院選挙であるのだが、要するに有権者一人当たりの定員に格差がありすぎる。そういう主旨である。

司法府が数字の大小をみて、そこまで言えるか、と。この点である。

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日本人が暮らしているのは経済活動を通じてである。法より前に暮らしがある。

その経済活動には農業や林業のような土地集約型産業もあれば、製造業、サービス業など労働集約型産業もある。地方では農産物を生産し、大都市ではサービス業に特化するのは経済の理屈に合っているのだ。

最高裁判事の思考に沿えば、農業地域は人口が希薄だから議員定数は少なくとも良いということになる。結果として大都市で大都市型の経済活動に従事している人たちの意見が政治に反映される傾向になるだろう。

それ故、最高裁が展開しているロジックは、一つの経済政策であり、極めて政治的である。

ひょっとすると、TPPに反対する国内農業団体を牽制するコミットメントとして違憲判決が次々に出ているのではないか。水面下で政権から最高裁に何らかの圧力がかかっているのではないか。そんな邪推もありうるのではないか、というより「ありうる」と書いてしまう本ブログが現実にこうしてあること自体が、最高裁判決の正当性に影を投げかけるように思う。慨嘆に値すると思うのだね。

都道府県に一名の定員を割り振る、というか地域間の平等を図ることの是非は、本来、憲法の段階で(具体的に、あるいは理念として)明記しておく方が適切である。一名の定員を各地域に平等に割り振ること自体が正義に反するとは、小生、どうしても思われないのだ。

それにしても、地元の北海道新聞が「違憲判決」を喝采(?)し、国会の怠慢を指弾しているのは一寸、というより大変に滑稽である。東京新聞がそう書くなら理屈にあうが、道新がねえ…。ほんとに分かっているのかなあ…。そんな風に読んだ。

【追記】ちなみにアメリカの上院は各州とも定員2名で「州」という地域について完全に平等だ。州別の人口をみると最大のカリフォルニア州が3387万人、最小のワイオミング州が49万人(2000年センサスによる)。一票の格差は69倍に達する。それでも違憲にはならない。なぜなら憲法で各州平等の定員が定められているからだ-他方、下院は人口に比例して定員が配分される。これも憲法に定められている。日本とアメリカでは地域の独立性や国情が異なるだろうが、民主主義と選挙を考えるうえでは大いに参考とするべきだと思われる。

2014年11月26日水曜日

いまどきの経済評論-丁寧に議論することが丁寧なわけではない

何年か前になるが小生が担当している統計科目の授業評価で、定型的な質問項目のあと、こんな自由記述を頂いたことがある。
分かりやすく説明しているつもりでしょうが、かえって分かりにくくなっています。
学部授業を担当していた頃を思い出しても、こんな回答をもらったのは初めてだったので、ややショックであった。『そうかあ、分かりやすく説明すること自体は良いことなのだろうが、それは聴く相手にとっては不親切。そういう可能性も確かにあるよなあ……』と、こんな反省をしたわけだ。

消費税率再引き上げ時期を1年半延期するという安倍内閣の判断。これをめぐって多くの評論が出てきている。全部を読む価値はないと思うが、たとえば好例としてダイヤモンド・オンラインの『消費増税先送り“YES”or“NO” 主要な対立点を整理する』がある。

日数がたてば「Yahoo!ニュース」から削除されるかもしれないので、論点だけを整理しておきたい。記事はこんな風にまとめられている。
  • 第一の論点は「経済再生が先」か、「財政再建が先」かである。アベノミクスは周知のように(1)大胆な金融緩和政策、(2)機動的な財政政策、(3)成長戦略の3本の矢から成り立っている。
  • 二番目の論点が、財政つまり日本政府への「信認」が低下するかどうかだ。
  • 第三の論点は、消費税の再引き上げを前提としていた政策が影響受けるという点だ。12年8月に成立した消費増税関連法は、社会保障と税の一体改革を目的としたもので、消費税率の引き上げが前提となっている政策も多い。
確かに丁寧な考察と丁寧な論理構成ではあるのだが、相当の経済センスをもったハイレベル・ビジネスマンでも「・・・で?」と思わず言いたくなるのではないだろうか?

『ま、要するに、これは中々難しい問題なんですよ』。どんな専門家もそうだが、そんな結論を下す医師がいれば患者はそのうちこなくなるものだ。

経済政策とは、日本の経済戦略であり、戦略である以上は目的がある。その目的を達成するための一連の行動計画が戦略である。そして、戦略を構成する一段階ごとの行動が戦術に当たる。なので、いまどんな行動をとればよいのかを検討するときは、戦略に沿った行動をとる。そんな話になるわけだ。

評者が経済政策を論評する時は、まず理念・目的を確認したうえで、戦略を二つの選択肢に整理したほうが分かりやすい。上策と下策、現行戦略自体を批判してもいいだろう。そして、今回提案されている「消費再増税の1年半延期」は戦略変更には該当せず、戦略的後退という戦術であると思われるので、その戦術の適否を論評する。『一年半延期+一年半後に必ず税率を上げる』。この戦術変更は現行戦略と整合するのか?こういう議論になるのではないか。

丁寧だが、分かりにくい説明は多くの場合、「だから何?」が欠けているためである。

2014年11月25日火曜日

メモ − この経済音痴ぶりはなぜか

いま「不況」だと野党は言っているようだ。大衆系週刊誌も「不況」だと書いている。

しかし、政府が意図的に不況にしようと考えるはずはないわけで、そもそもそんな政策は公約違反だ。

消費税率は引き上げる。財政支出は増やさない(そもそも国債発行を減らすのが目的だから、増税+支出拡大では元も子もないわけだ)。この場合は、家計の手元に残るカネが減るので、消費が落ちるのは当たり前だ。増税が景気を悪化させないようにするには、同時にどんな需要を増やすかを考えておかないといけない。ここの配慮が−財政再建原理主義者が政府部内で強い影響力を持っていると想像するが−足りなかった。そんな所だろう。財政再建自体が景気にプラスだと説得するのは、余りに精緻な理屈をこねる必要があり、説得は極めて困難なのだな。財政再建は景気というより、長期的に見た日本への国際的信頼を高め、投資や起業を活発にして潜在的成長力を高めることに戦略的意図がある。社会保障を充実させるためというが、そもそも財務省には今以上に社会保障支出を充実させる意志は希薄だとみている。増税の目的は財政再建。ここでウソをつくべきではないだろう。

「アベノミクス」というのは、現政権のマクロ経済戦略で一定の行動方針のことを言っていると理解しているが、その道筋は

  1. デフレ脱却 (← 物価 ← 量的緩和・金融政策)
  2. 財政健全化 (← 消費税率引き上げ+インフレ)
  3. ビジネスに優しい制度改正

この三本柱を順に実施していく。戦略の目的は「潜在的な経済成長率引上げ」だと言っている。こんなところではないか。

これに対して、先代の白川日銀の狙いは少し違っていた(ように見ていた)。高齢化が進む債権大国・日本がとるべき道として<通貨の信頼性>に重きをおいていた。ところが、日本の金融政策が世界から評価されることで<円高>が進む。円高は円ベースで資産を有する高齢世代には優しいが、デフレは持続しがちになるー実はドルベースの資産も減価する。そのデフレは短期的には実質金利を高く意識させるのでビジネスには厳しい。とはいえ、デフレは物価の低下。商品価格が下がったと(短期的には)錯覚する人もいるが、長期的には重要ではない。こんな見方であったに違いなく、これまた一つの完結した経済戦略である。そう見ていたのだな。

どちらも将来の日本人の暮らしを守る戦略にはなっている。あとは日本人がどちらを選ぶかである。どちらが目的を達するのに効果的な戦略か。それがディベートの論題だ。ところが<伝道者>なり、<啓蒙者>がいまの日本には不在なのだ、な。そもそも政府の経済戦略を分かりやすく伝えるはずの『白書』がずいぶん難しい本になってしまった。官庁エコノミストという職業集団もほぼ消滅した。

いまいるのは足元の景気が上がっているのか、下がっているのか。そんな景気判断をするエコノミストである。景気判断は確かにニーズのある専門家サービスだからなくなることはない。

独自の・自分だけの意見を発表して、専門家の世界で自分が占めるポジションを上げたところで、社会的なインパクトは誤差の範囲である。本来はいずれかの陣営に分かれて論争するべき問題が、実は目の前にあるにもかかわらず、専門家は論争せず、自分と他人の違いを説明することを考えている。論争しないから普通の人たちも路線選択を迫られていることに気がつかない。間違いを正そうと。そんな原始的な発想でニュースを聞いている。

政治家やマスメディアの経済音痴の背景には、専門家の論争回避、論争をして負けるというリスクを避ける。こういう安全第一の姿勢が遠因であると。そう見ているところだ。せめて経済閣僚同席の場で、あるいは国会の公聴会という場で、経済専門家が二つの陣営に分かれてディベートする。そうすれば、直観にすぐれた政治家は”御前試合”の成り行きをみて、どちらが信頼に値するかを悟るに違いない。いま為すべきことは<決着>をつけて、その結果を国民に広く語り、最終的な目的とそのための戦略を国民が意識として共有することだろう。

このようにしても直ちに理想的な経済戦略が採用されるとは限らない。しかし、少なくとも「社会保障充実」と一方で唱えながら、一方で「暮らしを守るため」に家計への増税には反対、国債増発にも反対、企業には増税を、と。こういう愚かな大衆扇動型の政党を淘汰するには極めて有用なはずである。

2014年11月24日月曜日

小さい政府 vs 大きな政府。こんな論争がなぜ起こらない?

この年末もまた選挙と政治の季節になった ― というより、ちゃんとなっているかねえ…。

今回のテーマはアベノミクスに対する信任投票であるというが、これは安倍政権による「注文相撲」であるのは分かりきったことである。

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この7~9月期の実質GDPは、確かに季節調整済み前期比で2期続けてマイナスとなった。実は、塩をキズに塗り込むようだが、原系列の前年同期比でみると、より際立った落ち幅となっている。

7~9月期の前年同期比はマイナス1.3%。4~6月期は消費税引き上げの反動があった(はず)とはいうものの、前年比ではマイナス0.2%の微減にとどまっている。

記憶にも残っているだろうが、小売現場では税率引き上げの反動減を先読みして、4月に値下げセールを設定するなど価格設定には工夫がされていた。それで年度末をまたいでもそれほど客足は落ちなかったのである。報道でも何度か伝えられていたはずだ。

とはいえ、前年比にみる7~9月期のマイナスが長期的な目で見てそれほど惨憺たるものではないことも明らかだ。

というより、アベノミクス云々によらず、日本の経済成長力はこの20年間ずっと同じである。

成長力が同じである。これは当たり前なのだな。何も成長力を高めることをしていないからだ。

……カネをばらまいても、日本人の仕事ぶりが実質的に変わらなければ、生産される価値は同じであり、経済は成長しない。

カネをばらまくのは廃業と起業の新陳代謝を加速する。これが目的だ。ところが、別の方向から、日本経済にイデオロギー的なギプスをはめる。こんな逆噴射をすれば、国内にはカネだけが増えて、株価が上がる。そのうちに物価も上がるであろう。

物価が上がれば賃金も上がるだろうが、賃金が上がれば物価も上がる環境にある。つまり、実質賃金は増えない。生活水準はあがらない。生活水準は仕事の中身を変えて生産性を上げなければ向上しないからだ。仕事のやり方を変えるには、世代交代が定石だ。その経路も高齢者の雇用確保で機能不全になっている。

いま日本では、本来は社会保障政策として解決するべき問題を、政府がビジネスを規制する、ビジネスのやり方に介入する手法で何とか対応しようとしている。そうできるのは、企業に対して中央政府の権力が強すぎるためだ。というより、ビジネスの声をきこうとする国会議員をマスメディアが批判するからでもある。

結果として、ビジネス現場の効率性が停滞し、所得が停滞し、暮らしも停滞する。暮らしを支える所得は、ビジネスが生むのであって、政府はピンハネしているだけでカネは本来何も持っていないのである。豊かになるには、政府に要求するより、ビジネスを育てるしか道はない。マスメディアはしばしばその事実を忘れる。

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上図でタテに引いた点線は、安倍内閣誕生が事実上内定した2012年第4四半期を示している。成長力は何も変わっていないが、株価は以下のように推移してきた。

2012年末から2013年の初夏に至るまで信じられないほどのラリーを続けたわけである。

当時の世界的な報道を見ても、黒田日銀総裁によるバズーカ砲(=超量的緩和)と「デフレ脱却」をかかげたアベノミクスが、相当の期待を形成したことは間違いない。多くの国は日本経済が活性化することを喜ぶ。外国にとっても日本経済の活性化は利益になるからだ。




しかし、上に述べたようにアベノミクスによって、というより黒田日銀総裁の<バズーカ砲のみによっては>日本経済は活性化しない。このことが明らかになってきている。雇用が改善したというが、増えたのは非正規労働者だけである。野党の批判はもっともなのである。

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しかし、『当社の株価はずっと下がってますが、社員一同ハッピーに仕事をしていますヨ』と、そんなことをいう経営者は結局は無能である。

株が下がっても、日本企業はみんなハッピーで、非正規労働者も正規労働者になった。一件落着だよね、だからいいんだよね・・・とはならないわけである。

株価は上がったのだから、今後為すべきことは、カネではなくモノの次元。つまり仕事の中身、規制や安全管理、健康管理など仕事のルール、その他の諸々の行政上のシステムを変えていく。残っているのは実はこれだけである。しかし、時間がかかる。全般的にやり遂げるには10年から15年はかかる。新幹線計画並みの根気がいる。

日本と外国を同じシステムにするか、世界市場以上にビジネスにとって有利な制度にしていく。もはや成長にはこれしか道がない。それが理屈なのだが、これをやると生活基盤を奪われる国民が少なからず出てくる。それでも多くの人が助かるなら仕方がない、と。

まあ、こんな風に損得勘定に徹底できるかどうかは、やはり危機感というか、「生き残るためには何をいま為すべきか」と、こんな感性を日本人が共有しないと経済成長は難しいのだ、な。

ま、難しいならこれ以上の豊かさを諦めてもいいわけだ。

こう考えると、率直に日本人がいま為すべきことを語っている政党がひとつもない。これには呆れ果てるばかりだ。某政党などは『まず国会、霞が関が身を切らないといけない』と、そんなことをまだお経のように唱えている。バカではないのか。ほんとにそう思います。

当たり障りのない世間話をしながら選挙をしている。なので、小生、今度の選挙は「井戸端選挙」と言うことにした。本来あるべき「世直し選挙」とは全然別である。為すべきことを率直に語って信任を問うているわけでもない。だから「信任投票選挙」でもない。

2014年11月23日日曜日

人間が変わらないなら、人生は昔も今も似たようなものだ

昨日は本務先の卒業年次生による中間発表会があった。通常授業のように内容の理解を求める場ではないものの、小生も採点員、一部セッションの司会役など、役割の一端を果たしている。

大学で仕事をするのは、企業や官公庁で働くことに比べれば、はるかに楽な仕事である。人によっては、そんなことはない、24時間考えているのだから休みなどはない等々、色々な反論がありそうだが、両方を経験した本人がそう感じているのだから仕方がない。

仕事がそもそも上から降ってくることがない。ザックリといえば、これこそ『大学の自治』である。この一点だけをみても大学は楽である。

それでもこの年齢になると、様々な不満をもったりするのだ、な。ハッピーだという理屈はあるんだけどね。満たされない感覚があるならそれは煩悩なんだけどね。罰があたるんだけどね。わかっちゃあいるが、不足を感じる度合いは一向に減らない。持て余すような心情は確かにある。『もっと大きな仕事ができたのに』とか、『あそこであんな雑用を引き受けなければ貴重な▲▲年間を無駄にせずに済んだ』とか、誰に言えばいいのか分からないことで、言わずに我慢してきたことは誰にでもあるだろう。何をするにしても、人間、そんな気持ちをもつものだ。そういう生物種なのだ、な。

言いたいこともあるだろう。
怒りたいこともあるだろう。
泣きたいこともあるだろう。
・・・
これらをじっと黙って耐えていくのが男の修行である。

全部覚えているわけではない。正確に覚えているわけでもない。ただ、「耐えていく」と言っている位だから山本五十六も普通の人間だったのだろう。それにしても、高倉健という俳優は軍服というか、制服がよく似合ったねえ。

仮に、昔の仕事を続けていれば、続けたなりの結果は出せただろうが、その時はまた人の裏切りや、妬み・誹りを甘んじて受けるという責め苦があったろうし、それより自分の胸中に醜い野心や名誉欲が湧き出すのを止められなかったに違いない。権力への阿諛を覚えずなしたに違いない。そんな騒々しい心こそ「不幸」そのものだと昔から定義されている。

結局はその人間の出来・不出来がその人の人生のアウトラインを決めてしまう。そう思うことが増えた。人生の岐路でどんな選択をするかで具体的中身は変わるし、寿命さえも運・不運によるところが大きい。が、どうなるにせよ特定の時代に、特定の育ち方をして、特定の社会を生きる一人の人間の生は、互いに似ているものだと思う。<英雄>や<先覚者>は実在した人間とはあまり関係ないのだと思う。

どうも暗いことを書いてしまったなあ・・・。「憂鬱」という奴か。

2014年11月20日木曜日

Google Visualization API の1回目のトライアル

以下はGoogle APIの試行である。
まだ細部の使用法はあやふやな箇所があるが、とりあえずモーション・チャートをR:googleVisで作成して保存し、tag='chart'部分をここにペーストするだけだ。 マニュアルを丁寧に読まないといかん。

2014年11月19日水曜日

「今でしょ!解散」―目に余る野党の体たらく

安倍総理が衆議院解散という勝負に打って出た。まあ、政略的には抜き打ち、というか奇襲である。一応は大義名分を掲げているが、要するに「勝てるのは今だ」という戦略的判断であろう。

現政権の今後の見通しについては、民主党が「政治とカネ」を攻撃目標に定める選択をして、いくつか功を奏したことから、小生は予想のとおりと判断して以前に投稿したところだ。こんなことを書いている。
あとは消費税率を予定通り10%に引き上げて体力を使い果たすか、未練に迷い何もかもを後回しにして、結果として指導力を喪失し、そのまま消えていくか。現政権の行方はこの二つのうちのいずれかではないかと予想する。(2014年10月28日)
消費税率引き上げに原発再稼働があり、更にTPP(オバマ政権にもうまとめる力は残っていないかもしれないが)での妥協がある。先細りで追い詰められて解散に追い込まれるより、余力のある「今でしょ!」という思いなのだろうか。

小生、今回の解散は『今でしょ!解散』と呼びたい。

 これに対して、野党は「大義名分がない」、「党利党略というより、総理の個利個略だ」、「自分勝手だ」等々、一斉に反発している。それにまた、野党系マスメディアが「その通りだ」と、甘やかすような提灯記事を掲載するのだ、な。

情けないねえ……。

選挙はしばらくは無かったはずである。それが予想外の時機にやってきた。奪われた政権を奪還するチャンスが向こうからやって来たのだと。なんでそう発想しないのだろうねえ。『飛んで火にいる夏の虫-いや秋の虫か、ヨシ!受けて立とうぞ!』と、そう勢い立つ野党が一党だに見られていない点にこそ、今の日本社会が象徴されている。日本政治の大きな柱たるべき野党の体たらくを明瞭に見ることができる。そう思うのだな。

× × ×

自民党幹部がよく口にする「常在戦場」の四文字は自民党の専売特許ではない。河井継之助や山本五十六を産んだ越後・長岡藩が三河以来250年間伝えてきた藩訓である。ある意味、公職に身を置く人間として持つべきスピリットではないだろうか。

こんな風では、与党が勝っても、野党が勝っても、なすべき問題解決はできない ― いや、与党が勝てば、信任されたということで、現在の政治方針に沿って押していくということになるだろうなあ。それも、問題あるんだけどねえ…と、今はそんな風にみているところだ

2014年11月18日火曜日

WEBで結果公開が時代の流れ-Rとplotlyの試運転

ネット上で作図したグラフを公開する仕掛けである"plotly"をインストールした。手元で作図する言語はRでなくともよい。PythonでもMatlabでもよい。が、まずPlotlyに登録し、API利用のAuthentificationを受けておく必要がある。この辺の説明は非常に丁寧なので、説明の通りに進めて以下のグラフを得た。


動的なグラフをWEBで公開するには、この他にGoogle APIも利用可能だ。これについてもRにインターフェースが提供されている。 

ずっと以前には、統計分析の授業をパワーポイントと同期させながらビデオカメラで収録し、それをオンデマンド授業としてストリーム配信する実験をやっていたものだ。もう何年前になるか……?2005年か6年前後のことだと思うから、既に10年も前になる。

当時の目標は、フリーで視聴できる授業を多科目編成し、いわばネット上の「フリー・ユニバーシティ」を立ち上げるというものだった。パワポと同期化した動画ファイル編集には結構高額なソフトを必要とするなど、カネのかかる試みでもあった。 こういう先駆け型かつ労働集約型の研究は、やはり大都市圏に圧倒的優位がある。何か変なことをするのでもヒトが集まるのだな。北海道にいると、そもそも人が少ない。(関心をもつ人を探したのであるが)どの研究者も遠隔授業配信には興味をもたず、そのうちに小生自身が疲弊してきて、ついに止めてしまった。

当地に移住して色々なことに挑戦して、その時々、満足できる収穫を得てきたが、いまでも残念に思っているのは、フリーユニバーシティ構想である。アシスタントを雇用する資金が提供されていれば、周囲の関心が高まるまで何とか続けることもできたのだろうが、科研費というのは必要なときには支給されず、多くの人がやっていて「これは大事だ」という計画にはカネをつける。そんな仕組みであるな。「何の役にも立たなかったねえ」……、役人仕事であると、今ではそう思っている。 ま、フリーユニバーシティと同じで、はるかに大規模な構想である"Gakko"が既に立ち上がった。これから後はビジネスである。

それで随分、ネット経由の成果公開には関心が失せていたのだが、その間に随分便利なツールが登場したものだ。面白い。

2014年11月16日日曜日

結局は「組織」より「人間」なのか

企業にはそれぞれ社風がある。堅く言えば上下の権限格差(=椅子の大きさの違い)から個人に与えられた裁量範囲(=その人でなくとも話しが通じるか)ということになるだろうし、日常のイメージで言えば「理想的な▲▲マン」に企業文化は象徴されているものだ。

社風はどうあれ、やはり人間集団が曲がりにも組織化され、特定の目的が追求されているなら、指導的地位にあるものが実際に組織を動かしているのが望ましい。というか、分かりやすいと思う。

西浦進「昭和陸軍秘録」(日本経済新聞社)が評判らしいから読んでみた。西浦進は著者というより、東大の研究会が何度かインタビューを重ねた記録が本になったものだ。同氏は、満州事変以後の「昭和陸軍」を主として陸軍省軍務局軍事課から身近に見ており、太平洋戦争開戦時には東條首相兼陸相の陸相秘書官の任にあった。戦後は陸上自衛隊幹部学校戦史室長、やがては防衛庁防衛研修所戦史室長を勤めた人物である。

読みどころは多々あるが、やっぱりねえと感じたのは、「私は陸軍省で役人のような仕事をやってまいりましたが、夢はやっぱり馬上で指揮刀をふるって連隊を指揮したかったですよ」という所だ。文章をそのまま引用しているわけではないが、その組織が理想とする人物モデルというのはどこにでもあると。同じだねえと小生も非常に共感したのだな。

昭和6年に満州事変を起こした石原莞爾が参謀本部第一部長になっていた昭和12年、盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まった。最初の時期に不拡大を基本戦略にしようと考えたのが石原部長だが、現地に赴いた所、かつて満州事変を見事に「成功」させた石原を模範としているのだと反論されて絶句したというエピソードは有名だ。

「ここで仕事をするなら■■さんのようにやってみたいものだ」、こんな目標は誰でも持っているだろう。それが「組織」ならどこにでもある「企業文化」であり「社風」であり、それが本質的に間違っているなどは中にいる個々人には思いつかないものだ。というより、そんなへそ曲がりは「異端者」として排除されるだろう。

西浦秘録でもう一つ、「組織は誰かが動かしていますから。トップの師団長が立派な人物ならトップが動かします。しかし、人間集団ですから。参謀長が自分より先が見える、そう思えば師団長は参謀長を重んじますよ。結果として参謀長が全体を動かしていきます。一番有能な人間が誰かというのは、顔の見える範囲であれば、いつも話している中で分かりますから。あいつならどう考えるかと。結果として有能な人物が重んじられます。それを下克上というのかどうか……」。これも文章をそのまま引用しているわけではないが、こんなことも言っている。大学という組織は個人商店街のような所だから違うのだが、ずっと昔、小役人をやっていた頃は確かにこうであった。戦前も戦後も同じだねえ。そう感じたのだな。

ここにこそ「年功序列」の弊害がある。「能力主義」で人事を動かすべきなのだ。まだ深く研究しているわけではないが、そんな単純な結論にはならないと感じる。

2014年11月15日土曜日

「戦争」と「交戦状態」

日本の近現代史を勉強していたときは「▲▲戦争」(日露戦争ほか)があると思ったら、「○○事変」(満州事変ほか)がある、更には「■■事件」(ノモンハン事件ほか)もある、まったく訳が分からぬという感想をもったものだ。この辺り、英語でも各種の交戦状態を区別し、使い分けているのだろうか……。日本の場合は、国際法上の宣戦布告をしたかしなかったか、ローカルな武力紛争であるか、参謀本部の作戦計画によるものであったかなど、手続き上の線引きが一応はあるらしい。

近代以前の戦争は皇帝や王の戦争だった。なので一方の君主が亡命したり、継戦意志を放棄すれば、そこで(一つの)戦争は終結した。軍隊は君主の軍隊だから、一般国民とは区別されていた。第一次大戦で独王ヴィルヘルム二世が亡命した時、ドイツ軍は崩壊したわけであり、ドイツ国民の敢闘精神と戦争の有無とは区別されていた。この辺のロジックはロシア革命前後のロシア軍のポジションとも共通する。

君主制国家から民主主義国家になり、戦争は君主ではなく国民がするようになってからは、戦争の終結と戦争責任が曖昧になった。

いや、そもそも日清戦争の開戦前、君主であった明治天皇は『この戦争は臣下の戦争であり朕の戦争ではない』と言ったそうな。臣下が戦争を引き起こしたとすれば「統帥権干犯」にあたる。しかし、この件が大事件になることはなかったようだ。

もし日清戦争で日本が敗北していたとすれば、「戦争責任」の所在で激論が展開されただろう。


2014年11月14日金曜日

Python(x,y)をインストールしたのだが…

統計教育に使う基本ツールは、ずっと昔はFORTRAN(というより付属する数値計算サブルーチン集)だった。学生時代に導入セミナーを聴いてみたが、1から100までの合計(=5050)を計算して印刷するのに、なぜこんなに面倒な段階を経るのか、さっぱり理解できなかった。紙で筆算した方がずっと速いのだね。ま、1から100万までの合計計算なら「電算機」とFORTRANがいかに強力であるかを思い知ったと思うが−いやいや、等差級数の公式を使えば、これだって30秒もかからぬ−そもそも昔の大型電子計算機のメモリーなど何メガという容量でしかなかった。計算速度も遅かったので、多数桁の合計を指示すればCPU使用料がバカにならない額になり、他の利用者にも迷惑だ。で、「まずは1から100までを合計してみましょう」という実習をしたのだと、今になってみれば思う……いや、ホントに意味なかったねえ。

その後にSPSS時代がやってきた。いまでもあるが、FORTRANで300行ほども書くところを、SPSSでは10行くらいになるだろうか。素晴らしい時代がやってきたものだと感じた。ただ、自分でカネを払う学生時代は、そうそう電算機でデータ解析をするなど、贅沢の極みだったのだな。なので、小生の最初の商売道具はポストSPSSの一番手"SAS"である。関西方面の某大学に出向扱いで籍を置いてからも、ずっとSASを使い続けたが、その頃は大学の統計教育は何を使っていたのだろう。SASというデータ解析システムは、結構、高額のレンタル料を毎年払わなければならず、卒業してからもずっと使い続けられるようなツールではない。便利だからといってSASで統計教育をするなど学生個々人にとっては不親切の極みであったろう。

小生が大学という場で統計教育を担当するようになってからは、SPSSやSASよりはずっと安価なエクセルの分析ツールを使ってきた。このエクセルのアドインソフトは統計専門家には悪評サクサクなのだが、エクセルなら卒業後も使う人が多いし、分析ツールは必ずついてきていた。日常的にやる分析手法くらいなら検定から回帰分析まではいっているから、大体は「分析ツール」で済む。この辺の事情はアメリカでも同じだったと見えて、初級者向けの統計学テキストでもエクセルの分析ツールが道具として使われていた。

その「分析ツール」もマック版オフィスには搭載されなくなり、めっきりとユーザー数も減ったとみえる。この2、3年で大学の統計教育ツールはフリーのRに全て置き換わってきた。そのようにもう断言してもいいのではないか。日本でこうなのだから、アメリカ、欧州など海外ではもっと先を行っているだろう。最近では寧ろSPSSでもR言語が通るようになってきたが、これも時代の流れだ。学生時代に教わったツールは、卒業後もずっと使えるなら使うものだ。ビジネスの現場で−基幹業務のインフラ構築はともかく−Rが浸透してきているのは、単にそれが流行しているからではない。Rに慣れた人が量産されつつあるからだ。こうなるともう時代は後戻りできない。統計ツールはRで決まりである。

とはいうものの、というか、にも拘らず、小生、科学計算分野であまりに評価の高い点を無視しがたく、ついにというかやっと"Python(x,y)"をインストールしてしまった。で、使い始めたところなのだが、『こんな冗長で長ったらしいコマンドを入力させるソフトがなんで流行るのか?』と。ズバリ、そんな感想である。データ解析に至っては、すべてRでできる。それも短い入力で簡潔にできる。逆にRでできるデータ解析でPython(その内のNumPy、SciPy、MatPlotLibという方が正しいが)にできないこと(≒したくないほど面倒臭いという意味)は無数にある。それでもPythonの利用者急増ぶりは目立つという。これって新し物好きのミーハーということなんだろうか?何らかの実質的理由があるということなのだろうか?

一つ言えることは、Pythonは開発言語であって統計ソフトではないということだ。科学計算は何も統計計算だけではない。方程式の求解や最適化、数式処理も科学計算である。なのでPythonには、RだけではなくMaximaの機能も含まれている。テキスト処理もできるし、データベース制御、ネットワーク制御やWEBアプリ開発もPythonでできる。要するに、これだけ知っていればやりたいことは全部できる。こんな機能はRは持ち合わせていない — 「ない」と断言してはいけないかも。「弱い」というべきかも。

統計分析が必要になったので、Rを勉強するのは確かに厄介だと思う。他の役にはあまり立たないからだ。日常的に使っている開発言語にライブラリーがあれば、それを使って済ませるのが道理だ。と、このように書けば、確かにRはいまビッグデータ七つ道具の一つだが、Rをも包括する形でPythonがビッグデータ時代を支える言語基盤になる。これはありうる。

ま、そうなったらそうなったで、小生はどうでもいいのだが、その場合はR言語を理解するPython Shellを是非作ってほしいものである。やっぱりNumPyの配列と添字は奇異に感じるのだね。データの7個目(添字6)から13個目(添字12)までを切り出すとき、X[6:13]とは普通書きませんて…。それから、ちょっと乱数を生成して、ヒストグラムを描くときのあの回りくどい記述は…。大学の統計教育でPython+NumPy+SciPyが主流になることは、まず絶対にありえないと小生はみる。が、ビッグデータ時代の分析ツールはひょっとするとPythonに全面的に置き換わるのだろうし、だとすれば今後、Pythonサイドでは既に精度が検証済みのRのパッケージがどんどん移植されていくのだろうと予想している。それはC言語がシステム開発の万能兵器になってからFORTRANライブラリーがC言語に移植されていったのと同じ道である。

★ ★ ★

Pythonのことはもういい。

TVの報道ステーションでは、海上自衛隊が参加しているペルシャ湾の機雷掃海をとりあげている。米(英?)海軍の艦長にインタビューして、敵から攻撃を受ける可能性があるかと質問したところ、それはあるという回答だった。ま、当たり前であるな。撒かれた機雷を除去すれば、それは撒いた方からみれば敵対行為である。

しかしだなあ、攻撃を受けるとして、それは「戦争」ということになるのか?確かに日本は戦争を放棄しているが、武力は持っている。あらゆる状況において武器の使用を禁じるなら、警察官は武器を所持してはいけないし、かつてあった「あさま山荘事件」などはあってはならない「銃撃戦」であったわけである。しかし、誰もテロ行為や反国家的暴力事件に対して武器を使用することに反対はしない。もっと言うと、あさま山荘事件が「内戦」であったとはいわない。言わないが、国権の発動たる「戦争」を国家に禁じるなら、「内戦」に応ずることも禁止されるのがロジックではないか。外国への武力行使は憲法上ダメだが、日本人には場合によって可、という論理はおかしい。いつか想定外の状況になり、憲法上の論理なき無制御状態に陥る。こんな心配も(僅かだろうが)あるのではないか。ま、この辺は法律専門家のほうが詳しいだろう。長くなったので、また改めて。

2014年11月11日火曜日

タブレット"Regza AT703"の使用感

以前投稿したSONYのVAIO DUO13には、その手書き性能も含めて十分以上に満足してきたのだが、やはりサイズが大きく、いつも手に持って移動するには一寸<オーバシイ>のだな(これも四国方言かもしれない)。

それでiPadを使ってきたのだが、現状のiPadで最大のウィークポイントは数学的計算にも使える手書きソフト、というより手書きに耐える使用感をもったペンが皆無だという点にある。人によって使用目的は千差万別だろうが、小生はそう思ってきたわけ。とにかく、色々と試してみました。Penultimateは言うに及ばず、Noteshelf, Note Anytime, Banboo Note(だったかな?もうアンインストールしたもので)……、どれも我慢して使えば使えないことはないが、SONYの電子ペンとNote Anytime(現・MetaMoji Note)と出会ってからは、iPadはメモ作成からは引退状態となっていた。さてそうなると、iPadの存在価値も揺るぎ始めたわけであり、そもそも二代目iPad2は重すぎるという点もあって、そこを何とかしたいと考えたのだ。

そこで軽くて使えるタブレットはないものか。そう思って、評価の高い機種を調べてきたところが、東芝のRegza AT703が最高峰であると。特に、手書きソフト"TruNote"の書き心地はWACOMの電子ペンの使用感とも相まって極上である。そんなレビューを見つけたのである。

で、早速購入したのが下のAT703である。Windowsではなくアンドロイド・タブレットである。以前にもSONYのアンドロイド端末"Xperia"を試しに買ってみて失望したのだが、大丈夫かねえ…、そう思いながら到着をまった。


届いてから早速に設定作業を済ませる。Googleのアカウントを既に持っている場合は実に簡単である。

確かに、手書き入力の感覚は至高のレベルであり、紙に書いている感覚とほとんど同じである。特に東芝製のTruNoteを使っている時は素晴らしいが、MetaMoji Noteを使った時の書き味も十分良いものだ。ちなみにMetaMoji Corp.の社長は浮川和宜氏であり、同氏は日本語FEP"ATOK"と伝説的ワープロ「一太郎」を世に贈ったことでも知られる。そのMetaMoji Noteで文字を書く場合、SONYやAT703であればスラスラと書けるのだが、小生が持っているiPadではペン先がついてこないのだね。多分、古いiPadなのでCPU能力が足りないのであろう。それと良いペンがiPadにはないのだ(何度も書くようだが)。MetaMoji NoteはSONY Duo13、iPadともクラウド経由でファイル共有しているので実に使い勝手が良い。大事な計算メモはすぐにEvernoteに飛ばして、どこからでも検索できるようにしている。それともう一つ。学生から提出されたレポートをマイクロソフトのOneNoteで読み込んでから、AT703を持って喫茶店に入り、ソファで珈琲をすすりながら手書きのコメントを書き入れ、添削後の内容をPDFに書き出して、そのままネット経由で学生にフィードバックする。できあがったOneNoteファイルは次回授業に使うから一石二鳥だ。こんな作業もiPadでは欲求不満が高まるのだが、AT703ならスムーズにこなせる。これまた大いに評価しているところなのだ。

この点だけでも、今回はじめてアンドロイド端末を買った意味はあったのだが、もう一つiPadにはない素晴らしい点としてウィジェットがあげられる。Google Chromeで頻繁にアクセスするブックマークは第一ホーム画面に常時表示すれば便利だし、カレンダー、タスク管理などなど、常に更新しながら目で確認できるのは、仕事をしている人向きだ。

もちろん不満もある。アンドロイドというOSの弱点なのだろうか、所詮タブレットはこの程度というべきなのだろうか、動作にギクシャク感があり、それと数理系のソフトが意外と弱いのだね。数式処理ソフト"Maxima on Android"があり、それなりに使うに堪えられる程度には仕上がっている。その点には満足しているが、所詮はタブレット版で「まあ動くんだね」という思いもある。ま、あと3点ほしい84点という所か。この"Maxima"とiOSにある"Math Studio"はどちらが優れているか?微妙である。次にPythonだが、とりあえずAT703には"QPython"をインストールしておいた。一方、iPadには"PythonMath"があり、少し動かした感想だが、"PythonMath"の方が小生の役には立つようだ。それとBasicは、やはりあると便利なので、iPadでは"cbmHandBasic"を入れている。これとアンドロイドの"BASIC!"もほぼ同じだが、昔のベーシック言語を使った人はiPadの方を採るのではないだろうか。

以上、全体を通してみると、双方互角、正に甲乙つけ難い。「手書き」を除くと、iPadの方がソフト的には充実しているというか、完成度が高い印象を受ける。ここでもしも、アンドロイドの統計ソフト"R Cosole Premium"の完成度が十分なレベルに達していれば、ためらうことなく小生はiPadを廃棄して、東芝のAT703だけを常時持ち歩き、PCを使うまでもない仕事は全てアンドロイド端末ですませることにしていただろう。残念ながら、小生の商売道具である"R"がタブレットで少しでも「使える」のは有難いが、あれは「使っている」というレベルには至っていない。動作も決して安定していない。落第であると思う。アンドロイド端末に負の印象を持ってしまう材料になってしまっているのは残念だ。

なので、予定というか期待とは裏腹に、今日もカバンにはiPadとAndoroid Tabletの2台を入れるはめとなり、カバンの重量はかえって重くなってしまったわけである。

どちらかを外したい。となると、手書き性能が出色なアンドロイドをとるか、それとも全体的なソフトの使い勝手がよいiPadかの選択だが、これが本当に迷う所なのだなあ……。ま、最強力編成が<SONY Ultrabook Duo13+AT703>であるのは確かだ。最初の意図に反し重量がかさんで仕方がないが、明日の授業ではこの2台を持っていくことにしよう。

追記: 東芝のAT703は音質が出色である。この点はほとんどのレビューで挙げられており、全くその通りである。アメリカのHarman/Kardonを搭載しているためで、古いiPadの-いまのiPadは知らない-音質をはるかに超えている。とはいえ、SONYのDuo13の音質も前に投稿したとおり素晴らしいので、小生はDuoで聴いている。

2014年11月10日月曜日

日中会談-とりあえず損をしない選択が「定石」である

考慮するべき要因が多すぎ、一つ一つをとっても確実な見通しが得られないとなると、これは真の意味での「不確実(=Uncertainty)」である。

展開が不確実なゲームには、トランプや麻雀があるが、碁や将棋、チェスなど運の入り込む余地がないゲームであっても、その時々の選択肢は複数ある。こちらの選択に応じる相手の反応は確定的には予測できない。となると、これまた先行きは不透明、真の不確実性が生じてくるわけだ。日中二国間の外交ゲームも状況は似ている。
領土問題や歴史問題、そして靖国神社参拝をめぐって高まっている緊張を乗り越え、安倍晋三首相と習近平中国国家主席は10日、北京でのアジア太平洋経済協力会議(APEC)の開催に合わせて握手を交わし、より機能的な外交関係の構築に向けて歩み寄った。これはスタートと言える。

 とは言え、このビデオでも分かる通り、両首脳の会談はあまり友好的と言えるものではなかったようだ。習国家主席は見るからに安倍首相の挨拶に応えるのを拒否し、写真撮影の間中、まるで、尖閣諸島(中国名:釣魚島)から乏しい草木をむしり取っている一匹のヤギと握手しているかのように見えた。
(出所)WSJ, 2014-11-10

何と日本国の首相がヤギの扱いをされているのだが、たとえ相手をヤギと思おうが、ウシだと思おうが、ここで握手をしておけば損はしないと。そんな判断が双方にあったから握手となった。そう見るのが理屈だろう。まずは双方、「定石」を選んだというわけだ。

日本の方から主導的に宥和的姿勢をとるのは可能だが、中国側は「引かば押せ」とばかりに自国の利益を強硬に求めてくる可能性を否定できない。この目線は中国側もそっくり同じであろう。市場ゲームと違って国家には「退出」という選択はない。攻撃を続行しても最後には反撃を予期しなければならない。相手側から協調的姿勢を引き出そうと思うなら、いずれかの時点で和解を提案する必要がある。とはいえ、そうするにはそうするで"When"と"How"という難問を解かなければならない。

要するに「名案」がないのである。握手のほかには。

アジア経済圏にとって最良の結果は、いずれかが「大国」となり、安定的なアジア経済圏が形成されることだ。それが可能なら全てのプレーヤーが利益を得られる。覇権を握らなくともフォロワーの利益が十分大きければ、覇権を得るための闘争は損である。が、(残念ながら、これが最大の問題だと小生は思っているが)中国は地理的な大国であるが大国にふさわしい文化・文明を提案できていない。日本は(今となってはそう呼ぶ人もいないかもしれないが)「経済大国」はともかく、歴史を通して多民族国家を円満に運営したことがない。更に、中国だけではなく、アメリカにもアジア経済圏のプレーヤーであろうとする強い意志がある。

中国はアメリカの同盟国である日本を弱体化することは国益であるし、と同時に強い日本との距離を近づけることもアメリカに対して相対的な国益となる。どちらの方向をとっても中国には国益だろうから、<いまAPECで握手をする>くらいは妙手とまではいえないが、中国にとっては好手となるはずだ。

2014年11月9日日曜日

「ここは負けられねえ」、プライドか、戦略か、それともバカか

愚息からカミさんに電話があり、年末近くにこちらに帰るからと言ってきたという。いつ東京に戻るのかと聞くと、まだ帰りの便はとっていないという。

あかんねえ…。いつ北海道に帰り、いつ帰京するのか、往復とも飛行機を押さえ、当地に滞在中は何をする、どこに行く、それらの予定を固めてから連絡をするべきではないか。そんな話しをカミさんにすると、子供が母親に電話をしているのにそんなのオカシイでしょと一笑にふした。

とはいえ、行き当たりばったり感とでもいうか、改善した方がいいねえ、という感想は抑えがたい。

職場では、その場その場の仕事ぶりが評価されているという。素直だからねえ。一方、いまやっている仕事は、全体の論理構成をきちんと通さないと相手から隙をつかれるので、そこをもう少し鍛えないといかんと言われているようだ。うん、うん、そんなウィークポイントは幼少の頃からあったなあ。

今度は「戦略と戦術のどこが違う?戦術と戦闘はどこが違う?」。こんな質問でもするかねえ…。

いまやっている仕事に100%頑張るのは大事だ。最前線で目の前の仕事に集中する人がいないと何もできない。しかし、それだけでは大きなことはできない。いまの仕事の目標は何か。そもそも最終的に何をやり遂げたいと決めているのか。為さねばならないことを今やっているのか。そんな問いかけは戦略である。これを損得勘定と言い出しては議論にならぬ。どの人間に、どこで、どんな戦闘を行わせるか。これは戦術だ。どんな順番で、いつ、どのように戦うか。いかにして最終的目的を達成するか。それを考えるのは戦略だ。戦術的失敗を戦闘で挽回することは不可能であり、戦略的失敗を戦術で挽回することも不可能である。「やめたわ」と投げてしまうのが正しい時もある。玉砕を覚悟して死守させるのが正しいこともあるのだろう。その判断は戦略的見地からなすものだ。

……こんな話しでもするかねえ。しかし、若いときというのは一球入魂。まさに一期一会だもんなあ。「後が大事だ、ここは退け」と言ってもきかないよ。昨晩のフィギュアスケート・羽生結弦選手の衝突事故もそんな風にみることが可能だ。10代というのは猪突猛進とも言えそうだし、大した者だという印象を形成できたのなら優れた判断をした、そうも言える。

ま、見ているときはヤケクソのようにも見えたが、あれこそ武士道と言いたい人もいるかもしれない。

2014年11月5日水曜日

質問のルール − 国費を投入する以上、ルールを設ける方がよいのか

野党議員の質問に首相が激怒したという報道があるので何々と読んでみた。ま、下世話なことには—イヤ、国会が下世話であるとはトンでもないことだが—興味があるのだ、な。
安倍晋三首相は4日の参院予算委員会で、過去の週刊誌の記事を元に首相に対し「脱税疑惑」を尋ねた社民党の吉田忠智党首に対し「重大な名誉毀損(きそん)だ。議員として恥ずかしくないのか。全くの捏造(ねつぞう)だ」と激しく反論した。
 吉田氏は「政治とカネ」の問題を追及する中で、首相に関して平成19年に週刊誌が報じた「相続税3億円脱税」疑惑について事実かどうか尋ねた。
 ところが、「もう時効だが…」と述べた吉田氏に首相は激しく反応。「まるで犯罪者扱いではないか。失礼だ。答弁できない」と発言の撤回を求め、審議が中断した。
 結局、吉田氏は「断定的に申し上げたことは申し訳ない」と陳謝。これに対し首相は「こんなことに時間を使うことに国民もうんざりしていると思う。いくら質問とはいえ、慎んでほしい」と不満そうだった。
(出所)Yahoo!ニュース←産経新聞、2014年11月4日

脱税を疑わせる根拠は(某)「週刊誌」であるそうな。

確かな根拠もないのに「事実」を捏造してはいけない。これは確かだ。

しかし……法廷では証人への反対質問で『あなたの友人の一人から聞いたことですが、本当はあなたは事件当日には風邪で寝ていてよく知らないんだと。そう話していたそうですね。それは本当ですか?』と、「異議あり」と抗議されるような質問を故意にすることもあるだろう。証人の発言は、双方の立場から質問をされて初めて客観性を帯びるものだ。とはいえ、憶測や信頼もなく勝手に「そんな事実もあったかもしれないと思うのですが…」と言って、「それは憶測だ」と抗議され、ここで裁判官(=国民でもよい)が質問の根拠を求めた場合、「私にもわからない」と答えれば「憶測でものを云うな」という注意になるわけで、結果として証人を侮辱した罪に問われても仕方がない。 これが公のルールだろう。それが分かっているから、質問者は直ちに根拠のない質問を撤回する。

とはいえ、その質問を聞いた人の記憶には残ってしまうわけである。そんな戦術を戦術としてどこまで容認するべきか。

野党議員は「脱税について週刊誌に書かれているが、それをどう思うか?出版社に対して抗議はしたのか?」とでも質問をすれば、これは事実確認だから、首相にも返答義務があるのではないか。抗議をしていないとすれば、書かれたことを容認していると思われるがそうかと質問すればよい。…まあ、その果てには週刊誌の取材根拠を確認するために出版社に対して国政調査権を行使するということにもなるだろう。

そもそもマスメディアの記事には、真実と嘘(=誤報)が混在している。その点は周知の事実である。嘘が発端となってネガティブ・インフォメーション・バブルが発生すると社会的損失が生じる。故に、誤報の合理的疑念がある場合、当人によらず第三者であっても報道元を名誉毀損で提訴する権利を与える。そうすれば、報道の真偽に関する公的な審査を速やかに開始し、ネガティブ・インフォメーション・バブルを事前に防止することになる — 審査開始に至ったという事実そのものがバブル発生を防ぐだろう。それは社会的な利益にもなる。最近はこうしたことを考えることが増えてきた。…名誉毀損について第三者による提訴を認めるなら、韓国と類似の制度になるか。

2014年11月3日月曜日

大学自治は「あるべき原理・原則」なのだろうか?

小生の若い時分から、というより戦後日本においてずっと、大学の自治は絶対的原則だった。なので、学長、学部長など全ての役職はトップダウンではなく、基本的に内部の人による選挙によって選ばれてきた。選挙によって選ばれるが故に「有権者」の意向に反するような決定やプロジェクトはできない。これが大学の原理・原則だった。

しかるに、だ。道内の一大学が学長選挙はもう止めようと。意味ないし、というわけなのだろうが、すると(案の定)地元の道新が以下の社説を掲げて反対した。
「大学の自治」が空洞化しかねない。
 学長を決めるに当たって、教職員投票を廃止する国立大学が出てきた。道内でも北海道教育大が初めて投票をやめる。これで全国86校中5校になる。
 経済界の重鎮や学内外の有識者などで構成される学長選考会議が選考を一手に握る形になる。
 法律上、問題はない。しかし、ほとんどの教職員がタッチできない密室でリーダーが決まれば、学内に閉塞(へいそく)感が募らないだろうか。
 経営手腕や対外交渉力ばかりが優先されれば、すぐには成果が出せそうにない基礎研究や教員の地位保全が脇に追いやられかねない。道教大には再考を求めたい。
(出所)北海道新聞、2014年11月3日

こんな心配は実は国立大学法人化の当初段階からそもそもあった心配だった。それが表面化してきたというわけだ。

ただ思うのだが、学長は学内選挙による、大学は自治が原則というのであれば、学部も自治、学科も自治、講座も自治となり、誰を採用して、誰が何をどう教えるか、どんな事を研究するかなど、全て現場が決める、その人が決める。そんな理屈になるし、実際現実を振り返ってもこうだった。

サービスを求める側ではなく、サービスを提供する側がすべて決めるから、ついてくればいいというのは学問に対する自信がなせる姿勢なのだろうが、いわゆる「顧客志向」という路線からは180度正反対の態度であるわけだ、な。

学問が永遠に不変の、時代や国を超越した絶対的真理であれば、その真理を会得した賢者についていくのが正しい在り方になるのだが、何が正しく、何が誤りであるかは実は定まっていないのであって、いわゆる「パラダイム転換」は社会科学ばかりではなく、自然科学でも起こってきたことだ。ましてや、いま何が世界で最も役に立つ知識であるか、何がいま最も求められている教育内容であるかは、その時々、変わるものである。大学の役割の一つが「人を育てる」ことにある限り、時代を超越して同じことを教えるというのは無理である — まあ、何を教えるかは学界の潮流に応じて変わってきている。ポイントは学界の潮流をどうみるかなのだ、な。

ロジックは人が作るものではない。自然や社会に客観的に存在している論理が「真のロジック」であろう。人はその真のロジックを探すだけである。日本の大学がいま色々な問題をかかえていると指摘されるのは、社会的変化をもたらしている真のロジックに沿わない自らの伝統に固執しているからだ。そんな一面も確かにあるだろう。大学の自治と云っても、単なる価値観でしょ、と言われたりするのはそのためだ。

組織は戦略に従い、戦略は目的に従う。最も重要なのは目的であって、目的を設定するのは理念である。ラテン語とスコラ哲学、リベラルアーツは特定の時代において大学の存在意味を高めるものだった。近代哲学の講座は国民を啓蒙し知性の平均的水準を高めるために不可欠の存在だった。会計学、商学は近代ビジネス教育の柱だった。大学という組織のあり方には確かに「伝統」がある。が、せいぜいそれは過去の時代において最適であった組織である。大学が果たすべき役割もまた時代とともに進歩するものだ。

大学は、社会の知を独占する人間集団ではなく、一定の目的を達成するために社会の知を組織化した機関である。現場の人間が一生懸命にやっているだけでは望ましい方向に向かわないことがある。これもまた大学が直面している戦略的な現実だろうと思っている。学問の独立と大学の自治はイコールではないのである。

2014年11月1日土曜日

ビッグデータ: デマ・流言飛語に対する当局の反撃ツールとなるか

世はビッグデータ時代である。

10年前ならまだなおリスクと金融工学が時代のキーワードであった。それがリーマン・クラッシュで信頼は失墜し、もう言い出せなくなった。で、次のカネのなる木はというと社内に埋もれたままになっているデータ、それを扱いやすいようにデータベースに再編集して分析ソフトを開発すれば、情報廃棄物が経営資源となる。アメリカは、保有しているデータ、データベース技術、統計技術、すべてにおいて最先進国である。

ビッグデータは文字どおりの"Post Financial Engineering"、アメリカの国家戦略であると言えるのだ、な。

そのビッグデータも遂に、というか到頭というか、利用形態も来る所まで来た感がするというのが次の報道だ。
イギリスのロンドン警視庁がある特殊なソフトウェアを使ったシステムのテストを実施していることが判明しました。ロンドン警視庁がテストしているのは、犯罪組織やメンバーが犯した過去のありとあらゆる犯罪データを使って、近い将来に犯罪を起こしそうな人物を事前に予測するシステムです。
BBC News - London police trial gang violence 'predicting' software
http://www.bbc.com/news/technology-29824854 
ロンドン警視庁がテストに使用しているのは、総合コンサルティング会社Accentureが提供しているソフトウェア。テストに使われているソフトウェアは、ロンドンで発生した4年間の犯罪データを、収集した4年の翌年にギャング組織およびそのメンバーが犯した犯罪データと組み合わせて解析するというモノです。犯罪データと言っても、日時や場所、犯人名といった犯罪履歴だけでなく、犯人の行動やSNSでの投稿や言動までありとあらゆる情報まで含まれます。
(出所)Gigazine, 2014-10-31, 事件を起こしそうな人物 

要は、インターネットを流れている超ビッグデータを解析すれば、販売や災害を予測できるばかりではなく、犯罪も予測できる、犯罪を起こすであろう人物も予測できる。だから、危険な人物をマークする。

公安検察、公安警察にとっては、危険な反政府的デマ活動を摘発する有効な手段として、垂涎のツールとなりうるであろう。同じ道を日本も歩むことは容易に想像できる。

しかし、特定秘密保護法があることを考えると、どうも今後の情報戦争の中で、政府と民衆との関係が少し不公平であるような気はする。デマは、いわば「ネガティブ・インフォメション・バブル」、情報としては中身がエンプティだから賞味期限は短く、思考能力のある人物は影響されない。それに対して、犯罪に関するビッグデータ解析で当局が把握する情報は、実質的な中身があり、それに権力が加われば相当大きな力の格差が生まれるかもしれない。

確かに経済社会を動かす本当の情報は民間が持っている(はずだ)。政府が持っている情報はしょせんは「ナマモノ」ではなく「オ古」である(はずだ)。それ故にケインズ理論が前提していると言われる「ハーベイロードの前提」は嘘である(はずだ)。しかし、本当にそうなのか。聴診器だけでなく、レントゲンやMRIまで扱う医師は、当人よりも圧倒的な健康情報を持っているのだ。