2014年11月23日日曜日

人間が変わらないなら、人生は昔も今も似たようなものだ

昨日は本務先の卒業年次生による中間発表会があった。通常授業のように内容の理解を求める場ではないものの、小生も採点員、一部セッションの司会役など、役割の一端を果たしている。

大学で仕事をするのは、企業や官公庁で働くことに比べれば、はるかに楽な仕事である。人によっては、そんなことはない、24時間考えているのだから休みなどはない等々、色々な反論がありそうだが、両方を経験した本人がそう感じているのだから仕方がない。

仕事がそもそも上から降ってくることがない。ザックリといえば、これこそ『大学の自治』である。この一点だけをみても大学は楽である。

それでもこの年齢になると、様々な不満をもったりするのだ、な。ハッピーだという理屈はあるんだけどね。満たされない感覚があるならそれは煩悩なんだけどね。罰があたるんだけどね。わかっちゃあいるが、不足を感じる度合いは一向に減らない。持て余すような心情は確かにある。『もっと大きな仕事ができたのに』とか、『あそこであんな雑用を引き受けなければ貴重な▲▲年間を無駄にせずに済んだ』とか、誰に言えばいいのか分からないことで、言わずに我慢してきたことは誰にでもあるだろう。何をするにしても、人間、そんな気持ちをもつものだ。そういう生物種なのだ、な。

言いたいこともあるだろう。
怒りたいこともあるだろう。
泣きたいこともあるだろう。
・・・
これらをじっと黙って耐えていくのが男の修行である。

全部覚えているわけではない。正確に覚えているわけでもない。ただ、「耐えていく」と言っている位だから山本五十六も普通の人間だったのだろう。それにしても、高倉健という俳優は軍服というか、制服がよく似合ったねえ。

仮に、昔の仕事を続けていれば、続けたなりの結果は出せただろうが、その時はまた人の裏切りや、妬み・誹りを甘んじて受けるという責め苦があったろうし、それより自分の胸中に醜い野心や名誉欲が湧き出すのを止められなかったに違いない。権力への阿諛を覚えずなしたに違いない。そんな騒々しい心こそ「不幸」そのものだと昔から定義されている。

結局はその人間の出来・不出来がその人の人生のアウトラインを決めてしまう。そう思うことが増えた。人生の岐路でどんな選択をするかで具体的中身は変わるし、寿命さえも運・不運によるところが大きい。が、どうなるにせよ特定の時代に、特定の育ち方をして、特定の社会を生きる一人の人間の生は、互いに似ているものだと思う。<英雄>や<先覚者>は実在した人間とはあまり関係ないのだと思う。

どうも暗いことを書いてしまったなあ・・・。「憂鬱」という奴か。

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