2015年12月31日木曜日

使えぬ・・・Surface Pro 4

タブレット風ノートPCといえば、まずはAppleのIpad Pro、そしてMicrosoftのSurface Pro 4の評判がいいようだ。どちらもPCとしても使用できる仕様をもち、加えて高性能のデジタル・スタイラスが付属しており手書きのメモを残すことができる点では共通している。

小生は、極端な手書き機能重視派であって、今までの経験では(世間の評価が高くはないのが不思議だが)SONYのVAIO Duo 13を超える書き心地を味わったことはなかった。タブレットの中ではデジタルペンの書き味が良いと評価されている東芝のRegzaで使うTruNoteよりも明らかに上である。

それでも100%完璧であったかと言えば、それはやはり不満はあったわけであり、だからSurfaceを購入してみたわけである。

アップルのiPad Proにしなかったのは、これまでのiPadの手書き機能にもはや諦めの境地に達していたからである。

さて、Surfaceは使えるか……。

使えぬ。

手書き機能はマア、マアだ。メインのOne Noteで使うデジタルペンは、期待したほどではないが、SONYや東芝に劣っているわけでもない。小生は、OneNoteよりMetaMoji Noteが愛用のソフトなのであるが、純正ではないこのソフトウェアを使う時にも、ペンの書き味、追随性は悪くない。加えて、OSがWIndows 10である。早速、RSudioをインストールして「どこでもデータ解析」を実行している所だ。

しかし、結局は使えぬ。

それはスリープから復帰するまでの時間に難があるからだ。一拍遅れる。画面が暗いままで待たされるのは結構不安を感じさせるのだ。これが第一。そして、時に復帰できない現象が多すぎる。これが第二だが、これ自体ですでに致命的ではないだろうか。暗いままで待っていると、いつまでたってもスタートしないわけだ。あれっ・・・では済まない。こんな問題を残したまま出荷するべきではなかったとすら思う。

モバイルですぞ。外で使う機会が多いのだ。カバーを開いて、スイッチを押しても、戻らない。これだけでモバイル失格だ。

小生も色々なマシンを使ってきたが、スリープから復帰できない製品に出くわしたのは初めてだ。

Googleで調べると、色々と類似の現象を起こしているようだねえ。やはり購入がはやすぎたかもしれない。少なくとも授業では使えないねえ・・・・・・。いざ始めようと思ったら、「アレッ!・・・」というのでは話にならぬ。

2015年12月30日水曜日

今年一年の棚卸し

今年の投稿数も本日を含めて184稿。昨年とまったく同じになった。ま、一年365日。隔日ペースで180日とあと2〜3回。これが平常ペースなのだろう。

今年の投資は、米株は絶好調、日本株は微増という塩梅だった。

最初は、米株と日本株が半々のウェイトにしたのだが、今では米株が3、日本株が1の割合にまで格差ができてしまった。

とにかく日本株は株価が上がるとしても亀の歩みだ。東京市場の最大の問題である。

もちろん事後的にみれば、日本でも急成長した銘柄がなかったわけではない。が、そんな銘柄を発掘する面倒を普通の個人投資家のだれが容易にできるか。これがポイントだ。結局、日本株に投資した人で大成功したのは少数の幸運に恵まれた人たちだけでなかったのか。

東京市場は成長とは関係しない、もはや世界の仕手株市場。ごくごくマージナルな市場になってしまった。そう感じるのだな。

羊辛抱、申酉騒ぐ。せめて来年は少しは飛躍してほしいものだ。

★ ★ ★

歳末になってまで騒いでいるのはやはり日韓の歴史問題。

今度の日韓合意をめぐっては日本国内はまだしも韓国では大荒れのようである。

小生の勉強不足のせいだろうか、どうもよく分からぬ事がある。それは韓国側が頻繁に口にする日本の「法的責任」だ。

一体、どこの国の何という法に基づく責任を求めているのだろうか?こんな初歩的疑問を記すのは恥ずかしいのだが、小生は素人なので、仕方がない。

それは日本の法か、韓国の法か、国際法かのいずれかしかあるまい。それも、厳密に言えば、現在の法ではなく、当時(=戦争中)の法でなくてはならないと思われる。

もし日本の法に基づいて日本に不当行為があり賠償責任があるならば、とっくの昔に日本政府が実行するか、もしくは日本の裁判所が賠償を命じていたはずである。20年も紛糾するはずがないと思うが、一体、どないなったんのや。そう思うのは小生ばかりではあるまい。

では国際法に基づいた責任が日本にある可能性があるのだろうか。

もしそうなら、韓国側は国際司法裁判所で決着をつけようと主張するべきである。しかし、そんなことには一言もふれていないのではないか。というか、半世紀前に締結された日韓基本条約を素直によめば、国際法によるとしても、日本に「法的」な賠償責任はないという判断になるのではないか。 そんな見解をどこかで目にした記憶があるのだが・・・。

最後に、韓国の法が外国である日本国の政府に対して適用される事はないので、これは考えるだけ無駄であろう。

だとすると、韓国のいう日本の「法的責任」とは、どこの国の何という法に基づく責任なのだろう。朝鮮日報、中央日報など韓国紙の日本語版を読んでも、この辺の具体的な内容が書かれていない。だから、彼の国の言い分がストンと理解できないのだ。

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ま、法的責任がないのであれば、あるとすれば道義的責任ということになるが、法によらずして政府予算から(韓国側基金に出資する間接方式だとしても)韓国人女性に給付してもよいのか。いかなる受給権をそこに認めるのか。日本の国内法に照らして法的に妥当な支出なのか。

特別法でもつくるのだろうか。

会計検査でアウトになる心配は金輪際ないのか。

日本側でも法的にきちんとしてほしいと感じるのは、小生だけだろうか。

2015年12月28日月曜日

北海道の鉄道事業: 認めるべき大前提

再びJR北海道で鉄道事故が起きた。旭川・鷹栖間にある函館本線・嵐山トンネル内で発生した火災である。寒冷地域ではトンネル内で出来た氷柱が架線に接触しないよう水を脇に流す必要性がある。天井部分にウレタンでできた漏水防止板をはりつけるのはそのためだが、ウレタンに火花が散ると燃えやすい。列車が走行する際に架線から飛ぶ火花が原因となって火災事故が起きるのはそのためだ。今度もそうであったらしい。

JR北海道では最近数年間に重大事故があいつぎ、安全管理体制には疑問符がついている。JR東日本から技術的支援を仰ぎながら改善には努力していると聞いていたが、なかなか道のりは遠いようだ。

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「道のりは遠い」と書いたが、この道はどこかの出口に通じているのだろうか。JR北海道が歩んでいる道は、実は「迷路」なのではないか。単に「迷走」しているだけではないのか。そんな視点も必要だろう。小生はへそ曲がりなのだ。

安全管理とは要するに安全のための資金投入を惜しむなということである。マージナルに資金投入を増やしたときに、マージナルに増加する収入が支出を上回るなら、安全のための支出を増やすべきである。これが経営上の基本ロジックだ。

ロジックに反した経営をすれば、経営不安につながる。

しかし、JR北海道が置かれている経営環境を考えるべきだ。安全投資をして、それが主因となって乗客数が増えるだろうか。そうは思えないのだな。では、乗客数が増えないとして収入を増やすことができるだろうか。もしJRが暮らしの中の必需財であると思う人たちがいれば、料金を引き上げれば収入は必ず増える。というか、安全とは、JRを利用する人たちのための安全なのだから、JRを特に必要としている人たちが安全コストの多くを引き受ける。それが本来の理屈だろう。

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現実には、そんな理屈は通じない。世間も政治もそんな理屈を容認はしないだろう。

北海道は広い。そして住人の密度はうすく散らばって暮らしている。鉄道走行のための一人当たりコストは高い。加えてJRが自ら負担すべき鉄道維持補修コストも高い。北海道の気象は変えようがないのだ。

そもそも北海道には純粋の私鉄はない。JR以外の経営主体があっても公営である。 公営鉄道は私鉄とはいえない。

離島的特性のある四国ですら愛媛県には「伊予鉄」(=伊予鉄道株式会社)があり、香川県には「琴電」(=高松琴平電気鉄道)がある。松山市内には伊予鉄バスも伊予鉄タクシーも走っており、都心では「いよてつ高島屋」が人を集めている。その伊予鉄の鉄道事業も松山市周辺部に限定したものである。ところが北海道には私鉄がない。ないのには理由があると考えるべきだ。

鉄道事業は十分な人口密度がなければ経営できない。
要するに、北海道で鉄道事業を経営するのは至難である。というか、石炭も樺太等北方貿易もなくなった現在、そもそも不可能なのだろう。

JR北海道が安全のために十分な支出ができないのは、安全のために費用を負担しても収入につながらない「不採算路線」が多いからである。そのため、収入を期待できる都市型事業に資金を投入せざるをえない。そこで得る利益で鉄道事業を維持するためだ。その都市型事業も競合他社との競争を避けられない。故に、鉄道事業の安全が不十分になるのだ。このような経営をしている企業は最終的には必ず破綻する。

JR北海道の安全面での弱さは、努力不足ではなく、論理的な結果である。
逆に言えば、鉄道の安全を十分に確保する経営を行うなら、JR北海道は経営不安に陥る可能性がある。

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  1. 安全を重視したいなら、主要路線以外の路線を低コストのバスに切り替えるのがロジックだ。厳冬期にも安全な道路を整備するのは国と道である。
  2. 北海道全域の鉄道路線を死守するのであれば、料金を引き上げ増収をはかる。
  3. 料金引き上げによる増収が難しいなら、安全をその分犠牲にせざるをえない。
  4. JRの鉄道路線は北海道の公共財だと考えるなら、財政資金を投入するべきである。

選択肢はこの他には考えられないと思うのだ、な。

ただし、既存の発想をくつがえすようなイノベーションは考慮していない。

2015年12月27日日曜日

「経験していない=決してわからない」ことは多数ある

話をきくだけでわかることは多数ある。一般に知識・学問といわれるものはそうだ。

逆に、説明をきくだけでは、本当の意味で理解が不可能であることも多い。


母は戦争世代であり、都市に居住していたので空襲の経験者である。空襲警報が鳴った時の恐怖や、迎撃する日本の戦闘機のエンジン音が聞こえた来た時の気持ちは小生にはわかりようがないことだ。

迎撃する日本の戦闘機には日本の操縦士が乗っており、生還する確率は極めて低かった。

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日韓を悩ませてきた「従軍慰安婦問題」が「解決」するかどうかの瀬戸際にさしかかっている。そんな報道である。

しかし、この問題は「解決」という状態がそもそもありえないわけであり、何かをするといっても、それは両国の政府間で何かの措置に合意する文書を残すということである。

そんな文書が政府間で作成され、公表されたからと言って、当事者たちの経験はなかったことにはならないし、過ぎた時間が戻ってくるわけでもない。

個人や家族の問題としてとらえるとき、未解決・未対応の問題はいつまでも残ることだろう。それが外交問題にはもうならないとしても、だ。

これまた、当事者になってみないと所詮は経験したことではなく、本当にはわからないことだ。


一人の人間が生きるとき、自分の若かった時の心情は自分で記憶しているものである。しかし、自分が50歳になったときの自分、70歳になった時の自分、90歳まで長生きした時の自分が、何をどう思っているか、事前には全く分からないものである。

若いころに想像する齢をとった自分は、実際に齢をとった自分とは、想像を絶するほど違う。

齢もまた、とってみないとわからない。

いや、覚えているはずの記憶ですら、自分に都合のいいように上書きされるものである。カズオ・イシグロの作品『日の名残り』では、そんな風に述べられているそうだ。読んでみなければならない。

2015年12月24日木曜日

日本人ゴルファーの弱さ: ないものを探してもダメではないだろうか?

ゴルフ談義は面白い。スポーツは戦争とは違うが、人生と暮らしをかけたギリギリの勝負の場では人間の生の姿が露わに出てしまうからだ。

こんなコラム記事があった。韓国人ゴルファーの活躍ぶりを考えたものだ。

少し長くなるが抜粋しておきたい。

テレビ画面に引き込まれるほどのつばぜり合いは、正直あまり思い出せない。「日本の選手はトーナメント終盤で勝負弱い」と嘆くより、外国人選手、特に韓国選手の終盤で争い合ったときの、あの強さは何なのか。少し掘り下げてみる価値があると思う。 
 米大統領就任式で、新大統領の宣誓の最後に必ず口にする言葉がある。「So help me God」(神よ助けたまえ)。大統領としての執務に全身全霊をささげ、最後は神の力に委ねる。最後の孤独な、そして世界の情勢を左右しかねない決断をしなければならないときでも、神が存在する。不安や疑いを消すのが神の存在なのだろう。 
 今年のゴルフ中継を見ていて、イ・ボミのほか何人かの韓国選手が胸で十字を切るのを目にした。実は、韓国民の約3割が熱心なクリスチャンで、儒教や仏教を上回るといわれている。新宗教といわれる宗派もキリスト教が源流とされ、しかも相当熱心な信者の集まりであることは広く知られている。別に宗教の種別は何でもいい。強い信仰心が、不安や疑いを消す役目を果たしているのではないのかと思うのだ。 
 日本では戦後、信仰心が薄れたという見方がある。もちろん、正月は神社に初詣、お盆と葬式は仏教で、それにクリスマスと教会での結婚式など、宗教に関わるいろいろな行事が1年中続く。ただ、それらの行動が熱心な信仰心によるものかといわれると、考えてしまう。 
 とすると、優勝まで最後の数ホールを残して1ストロークの攻防を繰り広げている、あの日本選手たちはどうか。隣にキャディーがついているとはいえ、自分のショットや攻め方の不安や疑いを、結局1人で背負ってしまっているのではないか、と思えてならない。 
 韓国選手が強いのは、恵まれている日本選手と比べて「ハングリー精神」が強いからとよくいわれるが、それだけではないはず。日本選手も大事な場面での神に代わる存在を探さないと、ここぞの一打で不安や疑いはずっとつきまとう。強い心、すなわち自分を信じる強い気持ちで不安を消すことができるようになれるだろうか。新シーズンの日本選手の奮起を願ってやまない。
(出所)日本経済新聞、2015年12月24日

結局は、神という存在に着目したか……。なるほど。

西欧で神の首を切り落とした哲学者がいるとすればそれはカントであると詩人ハイネは書いている。

そのハイネの言は、カントの中の『純粋理性批判』によるものだろう。結局のところカントも『実践理性批判』において、人間の善悪というモラルが成立するには神という存在が必要であり、人間が人間たりうるには神の存在を前提しなければならない。故に(?)、神を肯定する。そんな論法をとった(と小生は解釈している)。

「こうしようと思うが、これでいいのだろうか……」と、そんなギリギリの根源的疑いの崖っぷちに立った人間一人が、最後に頼れるものはその人自身の理性であるというのは無理だろう、ということは、まず洋の東西を問わず誰でも認めるはずだ。ヒトは理屈で頑張るものではない。

だとすると、天の神にゆだねるか、他の人間に帰依するか。このいずれかしかない。

戦前期の日本人を支えたのは皇国日本というバックボーンであったろう。言い換えればこれは国家神道なのだから、やはり宗教的思想だったといってもよいのではないか。

上に引用した記事の最後に「神に代わる存在を探さないと」と書いているが、そんな存在は何もないし、あるとすれば『そうせよ』という上役、というかハッキリ言えば主君という存在だろう。

まあ、サムライといえば聞こえはいいが、サムライとは漢字で書けば侍。侍従という言葉があるくらいで、君命を待つのが本来のサムライである。

日本の誇るべき精神的主柱として武士道を無視することはできないが、仕えるべき主君、守るべき家をなくした日本人の弱さがここにはある……と感じるのは小生だけだろうか。

2015年12月23日水曜日

日記―男二人の焼肉パーティ

昨冬は11月から猛吹雪が毎週のように襲来し、それも爆弾低気圧とかで記録的猛吹雪になるでしょうという天気予報が繰り返し、繰り返し流されていたものだ。ま、結果としては、小生が暮らす道央地方はそれほどでもなかったが、それでもクリスマス前の今頃は雪が1メートルを超していたように覚えている。

今年はまだ積雪ゼロである。ホワイト・クリスマスどころではない。昨日も雨が降った。『長崎は今日も雨だった』ではなく、札幌は今日も雨だったの世界だ。

昨日、新しく着任したばかりのT准教授と市内の某レストランで年忘れ会をやった。氏は日曜日に大連から戻ったばかりである。雪見酒を期待して昨日に設けたのだが、まったく雰囲気がでない。食べたのは焼き肉だ。
炭の香や 牛肉あぶりて 夜深し
映画をみることがあるかと聞くとTさんは『ウォール・ストリートがいいですね。マイケル・ダグラスのあの映画はアメリカのピッツバーグで勉強していたとき、毎日のようにみて、それで英語を勉強してました』。

過ぎた時間を思い出す人に特有の表情と声でそんなことを話した。

そういえば、小生の旧友に金融専門家であるYS先生がいるのだが、彼もまた留学した当座は毎日のように映画『ブレードランナー』(=アンドロイドは電気羊の夢を見るか)をみて英語の勉強をしていたそうである。(ある意味)追いつめられるような状況に自らを追い詰め、将来への道を切り開く勉学の場をアメリカに求めたのであった。

作品は異なるが、似た状況におかれた日本人の若者がおなじようなことをして英語の勉強をしていたことに関心を刺激される。

小生の母方の曽祖父は、明治になってから旧幕期以来の老舗をつぶしてしまい、それでアメリカの桑港に渡航して、某ホテルの皿洗いを手始めに肉体労働に従事し、何年かのあと小金を蓄えて日本に帰国し、店と土地を取り戻したそうな。会ったこともない曽祖父であるが、小生と共有してはいない時間の中で、そんな人生を歩んでいたことが子供心に非常に面白かった。ただ、曽祖父の時代は、活動写真があったとしても無声映画だ。英語の勉強は行きの船の中でやったのだろう。

それもこれも今では茫々たる過去のことになった。

2015年12月20日日曜日

古い記憶: 叔父の講釈と詭弁

小生の従妹のご夫君が比較的若くして世を去った。叔父から届いた突然の訃報であった。

その叔父には、小生が社会に出るとき、いろいろと世話になったことがある。

たまたま受けた公務員試験に合格して小役人になろうとしていた小生に叔父は公務員の安給料をあげて『悪いことはいわない、止めとけ。必ず後悔する』と忠告したものだ。

小生: 社会のための仕事をして報酬をもらえるなら、それは金儲けとは別でヤリ甲斐を感じるんです(青臭いネエ……)。 
叔父: 民間だって仕事をすることで社会には貢献しているんだぞ。社会のために仕事をするなら、民間も公務員も同じだ!
恥ずかしながら、小生は叔父の意見を正面から論駁することができなかった。

民間企業が栄えてこそ、日本の繁栄がある。公務員は税金から給料をもらっている。だから『国のために仕事をしているのは、役人も会社員も同じだ』と言われると、グッとつまったのだな。

いやあ、無知蒙昧であった・・・。
いまなら、叔父の詭弁を認識することができる。

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会社とは「営利法人」である。当たり前のことだが、利益をあげられなくなれば会社は倒産する。

故に、目の前にローリスク・ハイリターンの投資機会がありながら、余裕資金を「地域社会に貢献できる」という単にそれだけの理由から、低収益が見込まれている廃棄物処理事業に資金を投入するならば、その経営陣は株主総会を乗り切れないはずである。

会社は投資家が満足できる利益を提供する必要がある。

利益を求めざるをえない経営陣の経営戦略を実現するために従業員を雇用する。取締役ではない会社員はすべて「部下」である。故に、会社員の目的とは自社利益である。公益ではないし、まして他社の利益ではない。他社の利益を図れば「背任」にあたる。

他方、いかに小役人であっても役人の仕事の目的は公僕であることであって、役所の利益ではない。

会社の利益のために行動する会社員はモラルにかなっているが、役所の利益(=定員・予算・天下り先)を主目的に行動する役人は非難される。

★ ★ ★


正しい結果が予測されるからと言って、その行動が正しいわけではない。

社会的な公益が予測されるからと言って、社会のために行動しているとはいえない。

自社利益の追求は、公益の追求に動機づけられているわけではないのだ。


2015年12月17日木曜日

夫婦別姓合憲判決に思う

表題の件で最高裁判決が出た。夫婦同姓は合憲という判断だ。

これに対して、(新聞紙上では)女性差別の現実を見ていないという反発がある。もちろん家族の伝統を守るものだという肯定論もある。

フ〜ム……、思うに夫婦同姓を法律が求めるからといって、女性を差別することにはならないのではないか。男性が女性の姓を名乗ってもいいのだから。

韓国(中国も)は夫婦別姓である。日本も江戸期以前は夫婦別姓が原則であったようだー北条政子は通称ではなく、源政子ではない、あくまで北条政子であったのだな。夫婦別姓だからと言って、韓国や中国、近代以前の日本が男女平等社会かといえば、決してそうではないだろう。

日本は、子供は父の姓を名乗るという父系社会できた。これは東アジア全域でそうだと思われる。父系社会といっても、財産相続その他で父系か母系かという実質的な伝統はもう残ってはいないが、父と母の姓が違ってもよいとした場合、子供はどちらの姓を名乗るのか。これは「通則」を決めておかないと、やはり混乱するかもしれない。

たとえば、先祖の祭祀権は『慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者』が相続すると民法で規定されている。そして、慣習的には祖先の祭祀を行うのは、その家の長男であろう。実際、位牌には『▲▲家先祖代々之霊位』と記されている家庭は多いと思う。墓石には『□□家之墓』と彫られているところが多いと思う。ならば、特に長男は父の姓を名乗ることが期待されるのだろうか。長男は差別されるということなのだろうか。確かに、夫婦同姓により女性が苦痛を感じるときがあるのだろうが、農耕社会となってから以降千年以上も日本が父系社会の歴史を歩んできた。そして、それ故の慣習もある。これも現実だろう。

社会とはそもそも同調ゲームだと言える。男女のデートゲームと言うともっと簡単だ。同調を強いるからには、意にそまぬ選択を強いられる人たちにはプレッシャを感じさせるであろう。それでも、プレッシャを感じつつ、結局は社会に同調して生きているのだな。この現実をありのままに見ることを小生は選びたい。

安定している暮らしの現実をお上が混乱させることは避けた方がよい。

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日本人の苗字は「どこの誰だ」という名乗りを上げる時の「どこ」に当たる部分だ。それに対して、昔の侍社会には氏があった。氏とは出自であり、社会階層と直結する。たとえば、源尊氏は氏+名、足利尊氏は苗字+名である。足利に住んでいる尊氏という意味だ。しかし、姓を支えるこうした親族・同族システムは社会的にはもう機能していない。というより、会社も店も同族集団の財産というより社会の公器である。日本人は日本で暮らしており、同族という傘のもとではもはや暮らしていない。

日本全体で考えればよいということになれば、氏名は、要するに個人が特定できればよいのだ、な。生活が混乱しないように慣習に従えばよいわけである。使いたければ「我こそは木曾冠者義仲なり」と、通称をつかえばよいわけだ。ただ、法律上の手続きを行うときは『正式の名前を記載されたし』と。この位は許容範囲なのではないか。忠臣蔵に出てくる吉良上野介の正式の氏名など誰が知っていよう。それでも(ジェリクル・キャッツではないが)本当の名前を求められる時はあったのだ。本当の名を誇りをもって名乗れるなら、そんなシステムが最上のシステムではないか。

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いまでも同族関係は空虚となり、親子関係すら希薄になっているが、このうえ相続税率を100%に引き上げ、親子関係からほぼ全ての経済的側面を奪ってしまえば、そもそも姓に実質的な意味合いなどなくなるであろう。

父と母、いや別姓であれば父方、母方の祖父と祖母、父方、母方それぞれの父方、母方の曽祖父と曽祖母・・・、みな姓が違うだろう。どれを名乗ってもいいんじゃないの?経済的にはどの苗字を名乗るかによって実質は何も変わらないよね。お好きにどうぞ、と。未来の社会はそんな名前=記号である社会になっていくかもしれないのだ。となれば、マイナンバーだけあればいいよね。番号で行きますか。公的文書に氏名は書かなくともよろしい。マイナンバーを記載してください、と。

番号1924562238の方、窓口までお越しくださあい・・・(ディスプレイニモ番号ガ点滅スル)

名前はすべて通称となる。

ええぞなもし。いいねえ。これまたクールな社会ではないか。現在はそれまでの過渡期であろう。


それよりはもう一つの判決。女性の再婚禁止期間だ。

すでに以下の報道がある。
政府は16日、女性の再婚禁止期間の100日超部分を憲法違反とした最高裁判決を受け、民法の規定を見直し、禁止期間を現行の6カ月(約180日)から100日に短縮する方針を決めた。(時事通信)
これよりは、女性が妊娠の事実に気がつかないままに結婚し、結婚後に妊娠の事実を知った時に、その子の権利はどう守られるのか。男性の権利は?女性の権利は?某タレントの騒動もあったが、今という時代、むしろこちらのほうが実態とより密接に関係するのではないだろうか。

なぜかって・・・?
だって、結婚とはそもそも子弟養育システム。いろいろな見方があるだろうが、9割方、ほぼ全面的に、「結婚」とは子供を育てるためにあった方が安心で便利だから存在するに過ぎない。「家」を捨象した現代社会では、とどのつまり、そうだろうと思われるのだがどうだろう?

2015年12月15日火曜日

メモ ‐ チャイナリスク

『テロより恐いチャイナリスク』。

これは読みますねえ…。うまいタイトルだ。

コマツの建機は中国ビジネスの成功の代名詞だったが……〔PHOTO〕gettyimages
開発ラッシュに沸き、都市のあちらこちらで建機が砂埃を巻き上げていた光景は、ほんの少し前まで各地で見られた。が、経済が失速を始めると、開発案件は軒並みストップ。中国ビジネスで「わが世の春」を謳歌した大手企業を一転、奈落の底へ突き落としている。
コマツに次ぐ国内2位の建機メーカーの日立建機も惨状は同じ。同社の主力商品である油圧ショベルの中国における需要データを示す資料によれば、直近の10月は前年同月比で▲43%と目も当てられない。さらに見ると、9月は▲49%、8月は▲51%、7月は▲52%、6月は▲54%と、コマツ同様に「需要半減ショック」に襲われていることがわかる。

(出所)現代ビジネス「経済の死角」、2015年12月14日、以下の引用部分も同じ。

建設機械、工作機械の需要半減ショックといえば、2008年9月に勃発したリーマン危機後の景気崩壊と同じスピードである。

同じことが、現在中国で進行中なのか?

「今年度は、自動車各社の中国工場稼働率が5割まで落ちると言われるほどです。現代自動車はあまりの不振で、販売台数の開示を一時見送っていた。日本勢は過剰な値引き競争には参戦していませんが、利幅は薄くなってきた。
トヨタはこの半期で中国での販売数を伸ばしたのに、中国分の利益は100億円弱の減益。会社全体で慎重な業績見通しを立てているのも、チャイナリスクを意識すれば慎重にならざるを得ないからです」
自動車市場も同様。

すべり落ちる中国経済が、日本企業を、日本経済をむしばむ。それはいま始まったばかりで、本格化するのはまさにこれから。2016年はテロよりチャイナリスクの猛威が日本全体を巻き込んでいくことになる。
クレディ・スイス証券チーフエコノミストの白川浩道氏が言う。
「中国経済が悪化する流れは当面変わりません。実は中国の不動産バブルはすでに崩壊している。が、それを表面化させないために、不動産投資をしている大企業などに金融機関が追い貸しをしているのが実態です。
これは時間稼ぎをしているだけでいずれ限界を迎える。そのとき、不動産投資をしている大企業が破綻する可能性もあり、そのショックは日本の輸出企業を中心に波及し、日本の株価を引き下げる」
日本総研副理事長の湯元健治氏も言う。
「中国の株式市場はいま落ち着きを見せていますが、安心はできません。中国企業の債務残高は莫大で、GDPに占める割合が約157%。日本企業が'80年代のバブル時にGDP比で約132%の債務を抱えていたことを思えば、これが不良債権化したときのインパクトははかりしれない。

まあ、日本と違って不良債権穴埋めに公的資金を入れることくらいは共産党政権にとっては造作もないことであろうし、いざとなれば土地公有制が建前のところを例外的な土地払い下げを行えば、国有企業も救われるし、民間企業も債務超過に陥らずに済むというものだ ― 中国の国家資産が減少するが全体に比べれば微々たるものであろう。

それ故、中国バブルが崩壊しても(いや、もやはしつつあるという判断であるが)、共産党政権に打てる手はあると小生はみているのだ、な。

ただ、まあ、対中投資を盛んに行ってきた欧州。思わぬ(いや米国発のサブプライムについで二度目の)不覚になって、またもや富を失う事態になるかもしれない。

2015年12月11日金曜日

敵対勢力には強いが内部対立には脆いものだ

強大な勢力や組織は敵対勢力との覇権闘争には強いが、最大の陥穽は自らの意思決定でつまづくミスである。

戦前期・日本の帝国海軍は1920年代の世界的な海軍軍縮の流れに組織内部の意識がついていけなかった。執行部(=海軍省などの軍政派)は、新しい外交思想をよく理解していたが、現場は対外的協調姿勢を単なる弱腰としか見なかった。

強力な海軍が混迷し、太平洋戦争に至ってもなお内部がゴタゴタしていたのは、それ以前に生じた亀裂が原因である。

陸軍も同じである。

宇垣一成による軍縮断行は世界的な潮流に従うものであったが、組織内部に生まれた反発が若手将校をまとめ、それが最終的には皇道派・統制派の派閥対立を生み、対外戦略よりも部内の人事バランスにエネルギーを使うという状況になってしまった。

巨大組織は、外部勢力との戦いには強いが、内部に生じる派閥対立には脆いものだ。


自公両党による軽減税率協議も首相官邸の少々強引な介入により一応の結論は見えてきた。そんな報道である。

しかし、消費税の軽減税率には経済学者、財政学者を含めほぼ大半の専門家が反対していると伝えられている。この反対は理論的にも筋が通っているのだ。

衆議院において自民党は292議席、公明党は35議席でしかない。なぜ自民党が自らの基本方針を曲げてでも公明党の言い分を尊重しなければならないのか。連立政権は欧州にも多いが、ドイツにおいて与党の一角を占めていた自由民主党(FDP)が巨大なキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)を振り回していたなど聞いたことがない。

おかしい、と。そんな観点は当然あるわけだな。


一部の食品について消費税率を8%の軽減税率にする。10%か、8%か。そんな細かい点でもめることに何か実質的な意味があるのか?

10%一律のほうがシンプルで混乱がない。なるほど理論的にも正当である。

大体、税率10%など欧州の20%、25%に比べると微々たるものだ。そのくらいの税金を納めずして、社会保障がどうとかこうとか、求めることばかりをいう資格はない……。

こんな言い分もあるのであって、財務省もこれに近いと思われる。


ただ、欧州で実施されている付加価値税率を見てみると、食品に10%の税率を課している国は(あることはあるが)多くはない。

たとえばドイツ、フランス、イギリスの例をみると、それぞれ標準税率が19%、20%、20%(いずれも2015年1月1日現在)だが、食品には7%、5.5%、(何と)0%の軽減税率を課している(出所)。

消費税で徴収した歳入増加を社会保障の充実に充当するのであれば、たとえ消費税率を30%に引き上げても、その分社会保障が充実され、医療や年金、介護サービスの水準が上がるわけであるから、(ロジックでいえば)国民は何も痛税感を感じないはずだ。実際、デンマークでは本年1月1日現在で付加価値税率が25%でありながら、軽減税率は一切設けていない、食品も医療も書籍も25%の税率。これはこれで大変だろうと思う。しかし、国民は高福祉・高負担の原理原則を理解しているのだろう、ついてきているわけである。

デンマークは大したものだが、同じ北欧のスウェーデンは標準税率25%に対して、食品は12%と税率を低くしている。フィンランドもそうだ。


社会保障に充当するのだから、消費税率は必要な分だけ税率をあげ、そしてシステムはシンプルなものとして、理解しやすいものにしよう。これは正論である。

しかし、世界の現実をみると、どうやら正論(であるはずの政策)が機能しないようだ。正しいはずの理論を基準にして、多くの国が間違っているのだと理解するよりは、そうする方が何らかの意味で合理的なのだと考える方が理にかなっている。

ここから分かることは、
本来、正しい理論というものはない。現実がとるべき方策を教えている。
こんな発想なのだろう。
とるべき方策を決めたあと、それを正当化する理論モデルを造るのが学者の仕事だ。
ま、こうなるのだろう。

著名な統計学者であるボックス(George E. P. Box)がある本の中で書いている言葉だが
...  all models are wrong, but some are useful
こんな認識がある。帰納的な経験主義に基づけば、こんな考え方になる。

だとすれば、政治的嗅覚から、来年の参院選を考えると、いまは食品全体を軽課するべきだと。こんな没理論的な選択をする政権幹部(?)がいるとしても、これはこれで正論である。
専門家は政治家に従うべきである。
先の敗戦から日本が学んだとすれば、この一点だろう。


ま、いずれにしても現政権は高支持率を維持し、反対勢力も弱体で長期政権必至の情勢だが、唯一つ挫折するとすれば、内部の足並みが乱れる、内部の意識が執行部についていけない。

そんな時であろう。

【加筆】

夕方になってから『酒類を除き外食を含む食品全体を軽減税率対象とする』ことで自公幹事長が合意したとの報道あり。これによる歳入減少は1兆3千億円に達するという。これで予定されていた社会保障充実、浮上していた低所得層への一律給付などもボツになるであろう。自民党内部でのイメージ悪化があり、また支持基盤への実質的利益の規模等々を考えると、本当にプラスの成果があるのかという点も疑わしい。

今回の公明党は、戦闘では勝利したが、戦略的には失敗であったかもしれない。

【加筆第2弾】

本日(12月12日)になって自公両党がやっと合意したということだ。先刻、谷垣自民・井上公明党幹事長が公式に語っていた。外食をはずし食品全体を軽減税率対象に含めるという結論に落ち着いた由。「不足する財源はこれから探します」ということだ。人事院勧告に基づく給与引き上げが先日閣議で決定されたが、あれは大丈夫か?刑事裁判には一事不再理の原則があるが、閣議ってヤツはどうなんでしょう。「公務員諸君、すまぬ、あれはなかったことにさせてくれ」と。これが可能なら問題は一挙に解決されるのではござんせんかねえ。公明党のほうが「それはちょっと止めてくれませんか」というと思うが。




2015年12月8日火曜日

積極的平和主義もいいが積極的民主主義をも言うべきかもしれない

日本のマスメディアは、大雑把に分類するとすれば、朝日、東京新聞あたりは明確に左におり、産経、読売は右にいる。毎日は、まあ、少し左か。日経はビジネス情報が主体だが、であるが故に政治外交などの話題では相当右寄りだ。

産経ニュースも、小生はよく見ているのだが、頻繁に挿入されている右翼系の宣伝には辟易させられることが多い。

今日も『日本を戦争に引きずり込んだ犯人』なる言葉が目に入ってきた。この宣伝、頻繁に目に入るのだ、な。『・・・その答えは明治維新にありました』ということだ。・・・、これは右翼系か?左翼ってこともありうるが。スタンフォード・フーバー研究所にいるN氏って、何者なんでござんしょう。この人を知らない人はモグリってことだそうだが。知らんなあ・・・吾輩は。

それにしても、言うに事欠いて『日本を戦争に引きずり込んだ犯人』という言い草はないだろうに。これでは日本人全体が被害者である、と。だまされた、と。流石にこれは言っちゃあいかんのじゃないか。

それはどうやら違うようですぜ。やったことはやったと頭を垂れるのがサムライってものじゃあないんですかい。普通の日本人もずいぶん威勢のいいことを言っては舞い上がっていたじゃあござんせんか、日露戦争で賠償金をとれないってんで、腹をたてた群衆が都内のあちこちに火をつけて暴れたり(=日比谷焼きうち事件)、和平を結んで帰国した小村外相を非国民だといって非難したり、そんなこともありましたぜ。日清戦争だって、あれの大義名分て何です?総理大臣の伊藤博文さんはやりたくないって言ってたそうじゃないですかい。勝海舟さんも反対してたってねえ。天皇陛下も、これは朕が戦にあらずっておっしゃってた。そう聞いていますがねえ。みんなで勢いでやっちまったんじゃないですかい。反対してた人もいたようなんですけどね、多勢に無勢、みんな聞く耳持たなかったそうじゃないですか。朝鮮、台湾、満州、南洋、みんな日本のものだったって、うちのオヤジはそう自慢してましたぜ。だまされて引きずり込まれたってねえ、アンタ、よくそんなこと言うネエ。

ま、太宰治ほどの文才があればもっと痛烈に書いているだろう。

表現の自由は確かに重要だ。しかし、日本が戦争をしたのはそうしむけた犯人が引きずり込んだからで、日本人は被害者なのだという認識。これは見たくはないねえ…、規制してほしいねえ……。責任逃れにもほどがあるってものだ。

2015年12月6日日曜日

メモ-倉本氏の見方と感想

今年の初めになるが脚本家にして舞台演出家である倉本聰氏が日経ビジネスの連載企画『日本の未来へ』に登場した。

そこで述べられている同氏の意見や見方。以前からファンの一人であった小生としては賛成できる点もあったし、できない点もあった。

覚え書きにしておきたい。

 100万円のクルマを買って1年間使うと、価値が50万円に下がるというのが今の考え方ですよ ね。 
でも僕たちが子供だった時代は違った。100円の靴下を1年間使うと、かかととつま先に穴が 開きます。そうすると、お袋やばあさんが夜なべで靴下を繕ってくれる。だから1年間履いた靴下 は、かかととつま先が分厚くなってごろごろするものだったんですね。   
じゃあ、その分厚くなった靴下の価値が50円に落ちているかというと、逆なんです。お袋やば あさんが夜なべしている後ろ姿が焼き付いているから、200円、300円の価値に上がっちゃって、 捨てるどころか宝物になっていくわけです。そういうものだったんですよ。
 (出所)日経ビジネス・オンライン、2015年1月16日、【倉本聰】『日本はリッチだけど幸せじゃない』

価値を創るのは、人間の汗と涙である、と。いわば労働価値説ともいえるだろう。

小生は賛成である。

数学者・エッセイストである藤原正彦氏が若いころにアメリカに留学したとき、かの国が織りなす美しい自然美に接しても決して感動を覚えることはなかった。その理由は、自分の同胞の汗と涙がそこにはないからであると悟ったことを書いていた所がある。感性としては重なっている。

買うものは使われているうちに消耗し、価値を減じる。カネを使ってモノをいくら揃えても、どんどん消費するばかりで何も豊かにならない。貧乏なままだという感覚は、小生には同感できるのだな。

 「足るを知る」ことが僕の座標軸なんです。それをこれまでずっと伝えてきましたし、これから も伝えて行くべきことです。前年比一辺倒から離れること。そこに本当の豊かさがあるはずです。
(出所)同上

小生の祖父は、法曹の仕事を一生続けて判決ばかりをかいて人生を送った人だが、『起きて半畳、寝て一畳、 人間本来無一物』を座右の銘にしていた。

豊かさと幸福は全く関係しないかといえばそうではない。大いに関係している。これについては既に投稿した。今年のノーベル経済学賞を受賞したディートンが著した『大脱出(The Great Escape)』も同じ、大半の経済学者も同じ見解だ。とはいえ、幸福の本質、というか幸福そのものとは何かと問われれば、それはやはり物的生活とは関係のない純粋の幸福をさすのであろう、とは思う。

 僕はよく大学時代や浪人時代に勉強したことって何だったんだろうと思います。大化の改新が何 年だとか、微分積分、サイン、コサインって、皆さん社会に出てどのぐらい役立っています?  僕は因数分解の簡単なのが税金の計算の時にちょっと役に立つぐらいです。それよりも、「この 草は食べられる」「この動物は危険か」とか、そういうことを知った方が、数段暮らしには役に立 つでしょう。

(出所)同上

これは同意できない。サイン、コサインも、微分積分もデータ解析や将来予測では不可欠の道具であり、これらがなくては飯の食い上げだ。小生の暮らしにはなくてはならないものである。

倉本氏が日常的に活用していると思われる携帯電話やインターネットを支える技術にも<最適化>の技術は応用されているはずであり、であれば微分積分やより一般的な関数解析が基礎になっている。

天気予報を可能にする技術にはサインやコサインが応用されているはずだ。

ここには、理系・文系の違いはあれ、人間の汗と涙が注がれている。故に、価値があると言うべきだろう。

2015年12月5日土曜日

「不敬罪」は報道規制にはあたらず

今朝の道新をみていると『NYタイムズ、一部空白で発行』という文字が目に入った。下には『「タイ王室記事不適切」印刷会社削除』とサブタイトルがついている。何々?天下のニューヨーク・タイムズが一部空白のまま発行してしまったのか、と。

本文を読むと、どうも「タイ王室の財産」と題したフリージャーナリストの記事の印刷を印刷会社が拒否したとのことだ。最後には『タイには、王室の名誉をおとしめたものを罰する不敬罪が今も存在する』と記して道新のコラムは終わっている。

ふ〜む、不敬罪か・・・。「今も存在する」というのは、「まだあるのか、そんな遅れた制度が」と言いたげでもあるなあ。小生はそんな見方には同意しないけれどネ。

以前にも何度か投稿したが、考えたことを言葉に表現する自由、つまり「表現の自由」は近代社会であれば当然認められている制度的要件として合意されている。

しかし、JR電車の中で向かいの席に座った客が奇妙な服を着ているからといって、『変な服着てるよなあ、センス疑うよ」とか何とか、高声でしゃべれば、最悪の場合、ぶん殴られるであろう。それは相手の感情を傷つけた以上、当然の反応として予測しておかなければならない。もちろん暴行罪として相手を訴えることはできる。しかし、経緯を知れば当局は暴行を加えた相手側に情状を認めるであろうことは確実だ。

時間と国を超えて、いつでもどこでも<礼>は<モラル>の核心である。そして礼の端緒が辞譲にあるのは孟子を待つまでもない。相手に譲るには相手の存在への尊重が先に来る話しだ。モラルを失った側が、相手に倫理や人道を訴えても、もやは無意味だろう。これがいわゆる<傲慢>である。

表現の自由とは、自分の言葉に責任をもつということと表裏一体である。デスクに「こう書け」と業務命令されて書く文章には責任はほとんどない(拒否する自由を行使しなかった責任はある)。が、自ら書く文章にはすべて責任がある。

王室に対する不敬罪を法から削除したとしても、そういう感情が国民に残っている国で、安易に王室の名誉を傷つける文章を書いて公衆の前に提供すれば、最悪の場合、何らかのテロ行為を被るとしても、それは当然ありうる可能性として考慮に入れておくべきであろう ― パリの事件を思い出したまえ。考慮に含め、覚悟をした上で行動するべきなのだ。

不敬罪を法で規定することの意味は、その国に広く共有されている感情を傷付けてはいけないというソフト・メッセージである。そして、特定の罪に対して一定の罰条を適用するという原則を通し、結果の合理的な予測を可能とするものである。

「表現の自由」とはいえ、それは現実の社会の中でマネージされる重要なことのうちの一つでしかない。これ自体が目的ではないと考えておくべきだろう。

2015年12月4日金曜日

「あれよ、あれよ……」というパターンで制御不能になるか

『堤も蟻の一穴』からという諺がある。軽く考えていると、事態が悪化し、気がついた時にはどんな人間にもコントロール不能の事態になっていた。そんな戒めだな。

第一次世界大戦もそうであったというのが定説だ ― それはそうだろう。オーストリアの皇太子夫妻が海外で過激派青年に殺害されたからといって、その事件が原因となりドイツ、トルコ、ロシア、フランス、イギリス、イタリア、果てにはアメリカ合衆国をも巻き込む世界大戦が勃発するなど、誰が想像できたろうか。戦争が終わった後になって、一体この戦争の原因は何であったのかと振り返り、なるほど帝国主義的対立、植民地争奪戦、経済的権益の衝突など色々事情はあったがそれらはずっとあったもので決め手ではない、結局はあの暗殺事件、原因はあれではなかったのか、と。まあ、そのくらいしか原因は思い当たらない。そんな情況であっただろうと想像する。

殲滅戦が支配的であった19世紀の戦争から一変して第一次大戦は持久戦となった。この新しい戦争の様相から衝撃をうけた日本の帝国陸軍が将来の国家総動員体制を構想するようになり、ひいてはこれが軍国主義日本を歴史に登場させたことを想えば、王族二人が殺害された「サラエボ事件」ほど、歴史に残る「小さな事件」はそうそうはない。

蟻の一穴である。

靖国神社公衆トイレ爆発事件の主犯として(案の定というか、心配されていたとおり)韓国人男性が浮上してきたと報道されている。

事件自体は全く小さな事であり、下らないとすら言える。

とはいえ、首脳同士の会話が再開され、外交的修復が期待されていた矢先にある中で、この小さな事件の落としどころは日韓双方にとって結構な難問になるかもしれない。産経新聞ソウル支局長の公判に世界遺産承認時のゴタゴタ、これに靖国神社問題が加わって、もとからある従軍慰安婦と竹島問題、それに元徴用工問題もあるか。だんだんと蟻の穴が増えて来た。そんな印象がある。


引き続くようならビザなし入国の一時停止が検討されるだろう。戦略的には補完関係が支配する同調ゲームになっているだろうから、良い均衡から悪い均衡へ双方が滑り落ちていく可能性はかなり高いとみる。
政府は6日、今月末まで暫定延長されていた韓国からの観光客などに対する90日以内の短期査証(ビザ)免除措置を3月1日から恒久化すると発表した。韓国は既に日本に対し査証免除を実施済み。今回の措置で日韓双方が査証免除で足並みをそろえることになる。
 今後、韓国からの観光客などの増加が見込まれ、政府が目標に掲げる「年間500万人交流時代」の実現に向け弾みがつく。日本側には、小泉純一郎首相の靖国神社参拝で冷却化した日韓関係を改善するための足掛かりにしたいとの思惑もありそうだ。
 政府は昨年の愛知万博に合わせ、同年3月から9月末まで、観光や商用目的など90日以内の短期滞在について査証を免除。その後も5カ月間暫定延長した。
 この間、入国した韓国人による不法滞在や刑事事件などの犯罪を調査したが、特に問題がなかったことが確認できたため恒久化に踏み切った。韓国からの入国者は、韓国経済の発展や、02年のサッカーW杯共催などで増加傾向にある。
(出所)日刊スポーツ、2006年2月6日

10年前にはスポーツ新聞でもビザなし入国恒久化が報道されていた。

ドラマ『冬のソナタ』がNHKで放送され、日本の韓流ブームがブレークするきっかけとなったのが2004年である。「このドラマ、日本と韓国の政治家と外交官の何人分の仕事をしたんだろうね」と、その当時、カミさんと話したものだ。

現在の日韓関係は、その後10年間の政治家と外交当局の無能に原因がある。蟻の一穴から堤が崩壊する悲劇はこれまでにもあるが、放置した責任が管理者にあることは最初から明らかなことだ。

油断と無責任は何時の時代も大失敗の原因となるものだ。

それにしても、「靖国神社」。

江戸時代には、あの一帯は広大な火除け地(広場)であり、そこに明治になって小さな招魂社ができてからも、祭りやイベント、時には競馬をみに庶民が集まってくる場所であったときく。


小林清親、九段馬駈け
(出所)靖国神社

戦前の軍国主義が、陸軍軍人の危機意識と国家神道思想の鬼っ子だとすれば、平和な九段坂はいまだその思想に占拠されている。それを放置する日本人も(ある意味)油断していると言われても仕方がない。

2015年12月3日木曜日

OneNote Clipper ― なかなか性能があがらないなあ・・・

マイクロソフトのOneNoteは(マイクロソフト製だから、という先入観とは逆に)案外なほど「使エル」ソフトである。

授業の進行には最近の流行にもれずパワーポイントを使っているが、それを手元の進行メモにするにはスライドという編集形態はやっぱり不便である。参考資料があればリンクボタンを貼ったりするが、接続には時間がかかりイライラする。

いまはOneNoteにパワーポイントをセクションとして入れている。スライドはページになるが、手書きのメモが書き込めるし、マーカーで囲むことができる。参考資料は別のセクションに立ててもいいし、関連スライドのページの次のページに印刷イメージを貼り付けてもよい。

無題の新しいページを開くと、それは全くの白紙であり、図をいれてもいい、手書きで計算をしてもいい、写真を貼ることもできる、写真にメモを書くことも可。しかも、この白紙ページ、巨大である。東芝のアンドロイド・タブレットについているTruNoteやMetaMoji(旧ジャストシステム)のMetaMoji Noteのように1枚のサイズに入らないということがない。どこまでも書ける。

要するに、なんでもできるのだな。しかも、マイクロソフトのクラウド・サービス"One Drive"に保存しておけるので、どの端末から見ることも可能だ。

だからタブレットでOneNoteをみながら、授業ではパワーポイントを投影して話をするようになった。

ところが不満がある。One Note Clipperである。Rによる実習は入力コマンド、グラフ描画を含め、すべてRmarkdownをタイプセットして、HTMLファイルに変換している。ところがHTMLファイルの印刷イメージは、OneNoteの標準メニューからは挿入できない…ようなのだ。そこでChromeやFirefoxから一度ファイルを開いて、それをクラウド上のOneNoteファイルにイメージを挿入するわけだが、うまく行かない。

うまく行かないケースを整理してみると、どうやらMathJaxで数式を編集しているときに起こるらしい。途中まで問題はないが、最後までクリップしてくれない。プツンと切れてしまう。「正常にクリップされましたか?」というメッセージが出るのは、ご愛敬というより、ブラックユーモアだろう。

クリップされたあと、テキストとイメージの別は継承されているようだ。が、すべてイメージとしてクリップしてもカマヘンのやけど……。領域を指定する方式もあるが、スクロールするといかんみたいね…。

というわけで、せっかくの便利なツールなのだが、肝心なところでユーザーに欲求不満を残す。いやはや、やっぱりマイクロソフト的なソフトだねえ、と。ま、フリーで提供してくれているわけだから、文句の言える筋ではないのだが、やっぱりネ。

【補足】

ブラウザからPDFファイルにしてしまえばイイわけではある。確かにイイのだが、とはいえやっぱりソフトはきちんと作り込んでほしい。そういうこと。

2015年11月30日月曜日

Isil - 出口戦略を今から語るとはやはりアングロサクソンだ

テロ集団「イスラム国」の脅威に対抗するために西側世界とロシアが協調しようとしていた矢先にトルコによるロ空軍爆撃機撃墜事件が発生した。

その背景やら動機は、また別に分析しなければならないが、まずはいかにして形成されかかった協調体制を維持するか、そのための戦略はなにか、そんな話題がいま満ちあふれている。
…… Their principal concern is not whether Isil is an evil organisation that poses a threat to our security, but over the end game: what happens if and when the Islamists are beaten and their embryonic caliphate dismantled? What takes its place and, in particular, what role will Bashar al-Assad play? Too often in this region, intervention has unleashed forces that have been hard to control because of a lack of planning for the aftermath. Mr Cameron may win his vote; but he and other powers lining up to take on Isil need to be clearer about what its defeat would entail.
Source: The Telegraph, 2015-11-30

英紙テレグラフは「イスラム国」を打倒するには、というか崩壊させるにはどうすればよいかを、もはや論じてはいない。崩壊へ導くこと事自体は、本腰をいれれば、確実に実現できるからだ。というより、放置すれば化学・生物兵器を使ったテロ、核を使ったテロへと先鋭化するのは必至であるから、いま組織を消滅させておかなければならないわけである。

故に、本当の問題はイスラム国を消滅させたあとに何が起こるかを予測しておくことである。

「イスラム国」を軍事的手段によって消滅させた後に発生するだろう事態をコントロールできるのか?


こんな風に議論している新聞は日本にはない。論理的な議論をしようとすれば、微妙な問題を(ある意味)あからさまに、露骨に、包み隠さない言語表現で語らないといけなくなる。

露骨な表現は日本人にとって苦手である。それは尊敬語や謙譲語が発達していて、フラットな語り口が日本語では不自由だからだろう。特に会議では率直な議論が難しい。だから水面下で個別的にやる。そうなると、一貫した議論にはならず、論理が通らない所がでてくる。個別を超越する一般的な論理に対して、日本人はしばしば鈍感である。

論理に鈍感であるのは、八方まるくおさめようと努力しているためだ。和の文化とロジックとは中々とけあわないものである。


戦略とは目的を明確にすることである。明確にされた目的に戦略は従う。そして戦略を実行する組織が決まる。

しがらみのある政府より、本来、ジャーナリズムのほうが自由な議論ができるはずなのだ。が、日本では何にこだわっているのか、多くの場合、マスメディアが自由な議論を避けているような印象がある。だから、論調がどことなく似通って来るのだろう。

2015年11月29日日曜日

絶句するが物事の真相をついている発言

今日の標題にあるような発言はしばしば「妄言」と称される。それを頻繁に口にする人物はあまり多くの人からは好かれないものだ。

『それを言っちゃあ、おしめえってもんだよ』

寅さんの言を地でいく人は、少数派で支持は少ないが、それでも居てくれないと困る。そんな人は確かにいるものだ。

子どもが転んで怪我をしたとき、子どもを助け起こしてあやしてくれる大人がいなければならないし、親を非難する人、うっかり目を離すことはよくあることだと同情する人。道が悪いという人。保育所がないからだと言う人。多種多様な見方を総合しなければ真実は見えてこない。
死にたいと思っても生きられる。政府の金で(高額医療を)やっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろと考えないと解決しない。
高齢者の終末期医療について問題提起した発言だ。

まったく同じことを高齢者予備軍の小生はずっと考えている。この種のことを発言禁止にしてはいけない。 『いろいろと考えないと解決しない』と、そう言っているのだから。

誰かって?麻生太郎副総理・財務相である。21日に開催された政府の社会保障制度改革国民会議における発言である由。

ごもっとも、である。

【追記】
……と思ったら、その後すぐに撤回し、該当部分を会議議事録から削除するよう求めたとのことである。

以下はいずれも産経ニュースのURL:

http://www.sankei.com/life/news/130121/lif1301210012-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/130121/lif1301210009-n1.html

2015年11月26日木曜日

軍事的優位もビッグデータが決める時代

軍事活動もビッグデータ・オリエンテッド・オペレーションが支配する情況になってきたようだ。

こんな報道、というか公表がある。
Air Mobility Command (AMC) noticed that C-17 airplanes departing from Oman and Kuwait were very inefficient when flying into Afghanistan compared to other parts of the world.
Out of 3,535 sorties, those flights were 5 percent less fuel efficient than the average.
What AMC realized is that air commanders were flying with extra fuel to reduce ground time in Afghanistan.
“Those departures where we saw the inefficiencies, they were putting on 40- to 50,000 extra pounds of fuel so that when they landed in Afghanistan they didn’t have to wait around for an hour or two to get those aircraft refueled and get back out,” Anderson said at a Nov. 19 speech at the Tableau Government Summit in Washington.
Source: Federal News Radio, 2015-11-19 

ビッグデータ分析によって燃料費節減を可能にし、軍事活動の低コスト化を実現できる。そんな主旨である。

戦前期日本では陸海軍参謀達の「信用」は相当なものであったらしいが、軍令を支える参謀達の実際の仕事たるや、今ならPCやタブレットがあるからまだいいが、軍事資源の残高確認、配分・運用の立案、点検などなど、要するに事務官が普通にやっている仕事で忙殺されていたようである。加えて、作戦活動に伴う予算見積もり、予算要求なども陸海軍本省まで出張っていってはやっていたそうだから、つまるところはデータ処理が毎日の仕事であったわけである。

Power BIやRは高嶺の華にしても、せめてExcelくらいがあれば高級参謀達も助かっただろう。

だからコンピューターの登場、その小型化の果てにビッグデータ時代が到来すれば、軍事活動を支える「参謀業務」が効率化され、低コストで精度が向上する。これは当然に期待できるわけで、これによって経済的負担を軽減し、その国の長期継戦能力をアップさせ、ひいては国家戦力の選択範囲が広がる。硬軟おりまぜて柔軟な政策を展開できる。ここまでは述べておいてもよさそうだ。

ずっと以前になるが、サッカー・ワールドカップも既にビッグデータ時代になってきている。この新しい流れに対応した欧州勢と自分たちのスタイルにこだわり続ける南米を比べれば、南米勢に勝機はない、と。アメリカ人が予想するこんな見方について投稿したことがある。

サッカーで起こっていることは、当然、野球でもバスケットでも起こりつつあるし(というか、スポーツ統計学は最も人気のあるデータ分析になっている)、それが戦争でも起こるとしても全く自然なことである。というより、現実には起こる順番が上とは逆であったのだろう。

いま進行中のテロ集団との非対称な戦闘においても、結局はデータとデータ分析という技術で問題は解決されることになる。小生はそう見ているところだ。具体的な解決の姿はまだ予想できないが……。


2015年11月22日日曜日

断想 ― 人生の支えとは、結局、何なのか?

人が生きていくのに何が支えになるか?

あまりに広い問いかけだ。正解があるはずはない。回答も無数にあるだろう。

カネだという人もいるだろう。カネは関係ないという人もいる。家族か?仕事か?友人か?どれもない人はどうする?

だから正解はない。
とはいえ、最近、小生にとって最もおさまりの良い答えを見つけたような気がする。

人は、老いる前には希望によって支えられ、老いてからは誇りによって支えられる。人が死を選ぶのは、希望を失うとき、あるいは誇りを失って老いたときである。


小生が「誇り」などという語句を公言すると、失笑する人も多いはずだ。笑われることは分かっている。しかし、失笑に対しては失笑で返すのが定石だ。冷やかしに対しては冷やかしで、批判に対しては批判で、異論に対しては異論で返すのが、人間社会の定石だろう。

だから、(どこまでもへそ曲がりの小生は)年老いてからの支えは、つまるところ「誇り」ではないかと、個人の立場としては断言する。


幸福は生きる目的ではあるが、生きていくときに支えになってくれるものではない。そもそも幸福は常に自覚されるものではない。

だから若い時分は希望がいる。



誇りは若者の自尊心とは本質的に違う。若い時分に経験する成功体験から生まれるのは陶酔である。それは時間とともに薄らぎ、失敗によって帳消しになる。二日酔いに似たものだ。その頃にもっていた自尊心は反抗心と表裏一体の心情であった。

誇りを持とうにも、若い時分はその実態がなかったのだ。

真の誇りは努力と失敗の何層もの堆積によって支えられるものだ。失敗や苦杯が多ければ、それだけ多くの傷を心身にうけ、だからこそそこに誇りが自然に芽生える。そういうものだと分かってきた。

ワインの熟成にも似ている長い時間がつくりだす心の香りである。その香りがなければ、老いてからの人生は殺伐としている。

誇りという香りがなければ、後悔という人生の苦みを消すことは出来ない。


2015年11月20日金曜日

売れるには「イイ物」を作る必要があるのは確かだが

先日、IT系企業の比較について本ブログに投稿したところ、またまた、こんな見方に遭遇した。本当に、多いのだな、こういう考え方は。

タイトルは『スパコンの研究開発費は「浪費」ではなく「投資」 行き過ぎた「仕分け」に注意』という。

冒頭に相当の迫力がある。
日本の技術力の高さを証明する結果が出た。
理化学研究所は18日、スーパーコンピュータ(スパコン)のビッグデータ処理(大規模グラフ解析)性能を競う国際ランキング「Graph500」で、理研のスパコン「京」が1位になったと発表した。7月に続き、2期連続の快挙となる。
(出所)The Liberty Web, 2015-11-19

プロダクト・アウトというハイブラウな用語を使うまでもない。よくあるよね、こういう言い方、である。



この1年で何度『日本の技術力』というキーワードを見たり、聞いたりしたことだろう。もう数えきれない。

技術力がいま日本の誇るべき『お家芸』なのだろう。

技術力は高いにこしたことはない。

しかし、技術力=イイ物をつくる力。そう考えるなら、これは問題だ。

実際には、悪いものが売れて、イイ物が売れないケースは、数えきれないほどある。それは、イイには違いないが、高すぎて勿体なく、その割には使い道に乏しいからだ。イイ物は、しばしば役には立たないがイイのだ、な。小生もそんな感性は好きだが、健全な感覚でもないことは自覚している。イイ物は、イイが故に、それ故にこそ「浪費」であることも大変多いと感じているのだ、な。

小生、へそ曲がりである。イイ物偏重は不健全であると断言したい。


昨日の野球・日韓戦の試合後に韓国のキム監督が言ったそうだ。『強者が弱者に負けることもある』、と。

イイ物だとアピールすることは悪い事ではない。しかし、使ってみて『確かにイイ物だ』と言ってもらうことが最終目的だろう。だとすれば、まず使ってもらうことが先に来る。使い続けてもらうことが最も大事だ。これは時代や国を超える真実である。

イイ物、イイ人、イイ施設、イイ場所・・・、イイのに消えていくものは余りに多い。『劣ってあれる(=can be low and poor)』ということが勝利の一因になることがある。

2015年11月18日水曜日

テロリズムと敵対する周辺列国の戦術は?

「イスラム国(IS)」のテロが世界を震撼させている。

武器の取引市場に容易にアクセスできる状況は、大国による直接統治も困難にし、かといっていかなる形の自律的統治も難しいかろう。そもそも「国民」という意識を超えるローカリズムが広く蔓延しているようだ。


第一次大戦でオスマントルコ帝国が倒壊してから以後、100年という長い年月がたった。かつては「世界を支配した」イスラム社会は、中東全域にわたる覇権を失い、経済的富を欧米に奪われ、名誉とプライドを失い、文明的な劣位に没落し、群小国家に粒状化する中でオイルマネーだけが頼りの漂流を続けてきたような印象がある。

まあ、これも第一次大戦と粗雑な戦後処理の副産物であると言い切ってしまえば、かなりの部分は当たっているのかもしれない。かつての行いの結果として引き受けるべき結果をいま引き受けている、と。欧米に対して冷たい批評をするならそんな風に言えるのかもしれない。

要は、Divide and Rule、なのだから。


しかしながら、もう欧州には支配を裏付けるカネがあるまい。ロシアにもカネはあるまい。長期にわたって軍を動かす力は周辺の「列国」にもはやなく、続ければ破綻するのは「列国」のほうであるのは分かり切ったことだ。

他方、テロリズムを実行する側は、安く調達できる人間を利用した低コストの勢力である。

速戦即決を求めるのは、原則としては劣勢にある側なのであるが、テロ集団とむきあう国家にあっては、むしろ国家の側に早く結果を出そうとする誘因がある。

故に、使用する武力レベルを上げる誘因をもつ。その極限には戦術核がある。その使用を思いとどまっているのは、ただただパンドラの箱を開ける恐怖があるからに過ぎない。


もしも欧州にギリシア問題がなければ、というかそもそも高度の福祉政策もなく、社会保障もなければ、国家は敵対する勢力に向かって大規模な遠征軍を派遣していただろう。

それが出来ないのは、成熟した市民社会がそこにあるからだ。市民社会の維持は高コストである。であるが故に、打撃に弱く、ヴァルネラブルであり、即時の行動をするには余りに硬直的だ。

ここにも対立や紛争に時間とカネを惜しむ速戦即決の誘因がうまれる。そして、目に見える結果を熱烈に求めているのは最初からテロ集団の側である。これも事実である。

いま「イスラム国(IS)]の収入源になっている石油精製設備に空襲のターゲットを移しつつあるときく。

となれば、敵対する双方が持久戦を選ぶ経済的条件を失うことになる。

想定を超える殲滅戦が発生する可能性が高まっているとみる。しかし、片方は「国家」ではない。粒状化し、散在化した人間集団であり、意識を共有する「プレ国家(Urstaat)」のような共生存在だ。

そこには瓦解はなく、絶滅があるのみだろう。

問題は「その後」である。


4世紀から5世紀にかけてキリスト教がローマ帝国の国教になる段階において既にイエス・キリストの人性と神性をどう考えるかで宗教的対立が生まれていた。東ローマ帝国による宗教政策、東西ローマ帝国の力のバランスの背景にはキリスト教内部の正統派と異端派の対立があり、その対立の根源はイエスは人であるか、神であるかという問いかけにあった。

選択肢としては、イエスは人である、あるいはイエスは人であり神である、もしくはイエスは神である。この三択なのであるが、これに各主教管区の対立が絡まって、5世紀から6世紀のローマ帝国域内は混迷を深めていた。いわゆる宗教会議の決議に対して反乱を起こしたのがエジプト、シリアである。神学論争が民族的対立に転化したきっかけとなった。6世紀の東ローマ帝国を治めた名君ユスティニアヌスも宗教政策には苦悩し、その果てにエジプト、シリア、パレスチナの住民は7世紀になってキリスト教異端派に寛大であり、教義的にも受け入れやすいマホメットの下に集まるに至った。

宗教政策の失敗からキリスト教異端派がイスラム教にメタモルフォーゼし、そこからサラセン帝国が成長し、旧ローマ世界が別の世界になったのだが、最初の混乱から結末が見えてくるまでに約300年かかっている。

イスラム国家が倒壊してちょうど100年。

現代世界における宗教政策の行く末はまだまだ先が見えない。


2015年11月17日火曜日

iPhone4sの後釜を何に?

今使っているiPhone4sが大分ヘタれてきたので機種更新しようと思案している。

最初はiPhone5-いまでは6になったが-を考えていたが、三年前とは違って今ではもうAppleの製品を持つことにさしたる興奮、というか新鮮味を感じなくなってしまった。ともかく高速で、安くて、便利なもの。選択基準はひたすらこの三点につきるようになった。

とすれば、Androidであろう。既にタブレットはiPadからAndroid仕様のRegzaに乗り換えている。


SONYの"Xperia Z5"に(半ば)決めていた。ズバリ音質である。それと、おサイフケータイの利用者ではなかったが、使えるという点は中々よい。使ってもいい。

ところが使用中のソフトバンクからGoogle Nexus 6Pが出ることになった。製造は中国のHuawei(華為技術)だ。

緊急速報メールもおサイフケータイもワンセグもないが、RAMが3GB、CPUがオクタコア(2.0GHz×4+1.5GHz×4)なのでExperia Z5と全く同じ。更に、Huaweiは防水防塵でもなく、カメラの解像度も半分だ。

なので商品としては明らかにSONYのほうが満足度、というより設計仕様が高い。が、Huaweiの低付加価値とは即ち負荷が小さいということでもある。自動車でいえば、2500ccの高馬力エンジンに小型で粗末な軽量ボディを乗せて走るようなものだ。これはこれで別の満足度を与えるはずだ。

価格、機能をすべてそぎ落とした同等ハードウェアをとるか、付加価値を様々織り込んだ国内メーカー品をとるか、である。

このところ、小生も老眼が進んでタブレットの利用頻度の方が高い。何より手書きの計算用紙の代わりになる。カメラにもスキャナーにも使える。新聞を読むのも画面が大きくて楽だ。スマホは通話で手に取るときを除けばケースにしまいっぱなしだが、タブレットは常に手に持っていじっている。そんな風なので、いまはHuawei製の低価格スマホに転ぶ寸前なのだ。

日経の経済教室『家電、低価格帯でも勝負を』(長内厚)でも述べられている。
 小米は低価格端末を売りにしており、ソニーやサムスンのように高価格帯の先頭集団に入れるわけではないので、ソニーの高価格ラインと競合するわけではない。
 ソニーの業績悪化の要因は、小米と重なる低価格帯市場での失敗であって、高価格帯は日本や欧州などで好調である。
 確かにSONYの高価格帯商品には魅力がある。しかし、思い切ってシンプルな設計にした低価格帯商品にも魅力があるのも事実である。

2015年11月16日月曜日

ビッグデータビジネス ‐最近目立って元気のいい企業

一度本ブログにも書いたような記憶があるのだが「ビッグデータ・ビジネス」のことだ。

Googleアラートに「ビッグデータ」を登録している。毎日、10件前後の情報が届く。日によっては同じ分量の情報が2,3回届くこともある。

それだけ世間の関心を集めているわけで、関心だけにとどまらず、現実に進行中であるビジネスがビッグデータ・ビジネスであることを実感する。


ところが、集まってくる情報の中に何度も登場する企業名もあれば、頻繁に耳にする企業と同じ業界でありながら、ほとんど音なしの構えである企業もある。単なるめぐり合わせかもしれないが、やはりこのような違いは経営実態面での何らかの違いを反映しているような気もするのだな。

ズバリ、この最近で目だって元気がいいのはNECである。この1,2ヶ月だけでも何度もNECの名を目にしてきた。


他にもある。。

  • 顧客の怒りをAIが判別 NEC、コールセンター向け
  • NEC、自社基幹システムのプラットフォーム全面刷新で経営データの処理基盤に「SAP HANA」を採用

次の報道は小生が担当している授業でも引き合いに出した。


実に多様である。それに何をどうするかという内容が具体的だ。どうやら「人工知能」が将来の戦略的ベクトルだと認識している点が明瞭に伝わってくる。

日立もマアマアの頻度で目にする機会が多い。たとえば、ごく最近も次のような情報があった。

  • 自動運転市場2割占有狙う 日立が試作車 中堅メーカーに「心臓部」提供 車版インテルへ
  • 日立、ビッグデータの高速分析を可能にするオールフラッシュアレイを発売
  • 社会インフラの将来予測をビッグデータで--SAP、日立、ESRIの3社
  • 日立、人工知能で業務データを分析して業績改善案を作成するサービス。
ソーシャルな大所を押さえてしまおうという戦略がにじみ出ている。

ところが、「富士通」という企業名を聞くことはメッキリ少ない。最近届いた情報をさかのぼってみても以下のような項目があがるばかりだ。
  • ビッグデータ活用を目指す富士通のセンサーシューズ
  • デジタル革新に挑む富士通、新たなIoT基盤や人工知能も
  • 富士通、ビッグデータ分析サービスを従来比30倍に
  • 「京」の技術でビッグデータ解析
富士通といえばスーパーコンピューターの「京」であるのは、IT技術に関心のある人なら誰でも知っている。日本政府、理研も加わった国家プロジェクたる「日の丸スーパーコン」である。とところが政府内でもスーパーコンピューター技術をどうするかは議論が進行中であり、必ずしも追い風が吹いているわけではない。数年前の民主党政権下で実施した仕分け会議で『1位でなければいけないのですか?』と、あからさまに突っ込まれてしまったのは耳に新しい。この指摘は世評が悪いようだが、(実は)数値計算専門家ですら『京でなければ計算ができないという計算は想像しづらい』と言われている。サーバーに使うにも使いづらい。サーバー仕様の商品に転用してもいいが、えらく高コスト体質のネットワークになるのではないか。Googleが「京」を使っているとは聞いたことがない。よくいえば「演算サーバー」、先端的に形容すれば「画像等ビッグデータ分析処理サーバー」辺りの役割を担うのだろうが、本当に「京」をサーバー運用しても大丈夫なのだろうか。もし(万が一)見栄と面子で継続しているならその戦略的目的を再定義するべき時機にさしかかっている…、そう思われるのだな。

その「京」を除くと、センサーシューズとIoTに関する一般論である。

同社はこれから何を作って勝負していくのだろうか?

Googleが研究開発中の自動運転技術は決して侮れない。地図情報+機械学習+人工知能は近々立ち上がるだろう無人配車サービスのソフト・インフラになるだろうといわれている。今回トヨタがシリコンバレーに人工知能研究所を設置する決定をしたのもその辺りに着目してのことだろう。

日本のIT企業の経営戦略が現実の結果として現れてくるのもそう遠い先ではあるまい。

2015年11月13日金曜日

汚職の臨界点というのはあるのか?

小生が暮らす北海道では、冬の降雪を間近にして飲酒運転根絶に道警など関係機関が力コブを入れようとしたその矢先、砂川警察署員が二日酔いによる酒気帯び運転で書類送検されることになったよし。同警察署ではこの6月にも署員が飲酒運転事故を起こしており、大変な衝撃を受けているらしい。

もちろんマスメディアは『とんでもない失態であり、警察に対する信頼性が地に堕ちたと言っても過言ではない』と、まあこんな風な話しぶり、書きぶりであった。

思うのだが、こういう警察官による不祥事は、どんな理想社会でもゼロにはならないと思うのだが、何か臨界点、というかこれ以上の公務員不祥事が継続的に発生すれば、政府に対する信頼性が致命的に毀損され、社会が無法状態へとシフトしていく。そんなクリティカル・ポイントのような水準はあるのだろうか?

少し考えれば、警察官の不祥事がまったく報道されない社会は、不祥事がない社会を意味するわけではなく、政府が不祥事を隠蔽できる国であることを意味する。そのくらいは誰でも理解できることである。

戦前の帝国陸海軍でも不祥事は山のようにあったときく。参謀本部の高級課員の子弟がちょっとした犯罪に手を染めてしまったこともあったときく。しかし、それらは基本的に軍部の意向で報道されることはまずなかったと聞いたことがあった。

そこで<汚職 信頼性 臨界値>をキーワードにしてググると、いやあ、出てきました。出てくるものだネエ……。とっくに総務省の官房企画課がワーキンググループを設けて研究し、レポートを平成22年3月に公表していたのだな。タイトルは『行政の信頼性確保、向上方策に関する調査研究報告書』という。

その中にこういう下りがある。
この文脈で、行政には「適度の不信が必要」で、その方が民主主義には望ましい、とい う主張(Newton, 2008)にも注目しておこう。この主張の視線は安心部分を指しており、適 度の不信が監視を動機づけることを意味していると解釈すべきだろう。一方で狭義の信頼 部分で不信が増大することは、広義の信頼の全体像にとって大きな打撃となる。プロフェ ッショナルとしての倫理性を疑われる行政官というのはその例である。(資料21ページから引用)
フ~ム、行政には適度の不信が必要である…、正しく、かつありうべき洞察だ。最後の方にある「行政官」とは、「官僚集団」と言い換えても可であるし、「警察組織」に置き換えても意味はとおる。

汚職の臨界点を直接的・実証的に研究しているレポートではないが、こういう問題意識がとっくの昔に政府部内で議論されていることは評価しても良いのではないか。そう感じた次第。



2015年11月12日木曜日

確かに合理的だが本質を外しているビジネスプラン?

日経に報道されている除染のためのビッグデータビジネス。これはどうなのだろう?

奥村組と伊藤忠テクノソリューションズ(東京都千代田区)は、膨大な数の除染土のうを、安全に効率良く運搬するために有効な「輸送統合管理システム」を共同で開発した。物流や施工、原価、作業員の被ばく線量などの大量のデータを一元管理して、活用する。例えば、最適な運搬の順序や最短ルートの選定が可能になる。 
 同システムの特徴は大きく三つに分かれる。 
一つが、土のうの数量や放射線量の管理だ。土のうごとに、その中身や詰め込んだ場所、発する放射線量などの情報を記録したタグを貼り付ける。搬出時にリーダーで読み取ればデータを自動収集できる。土のうの正確な数量や放射線量を把握して、トレーサビリティーを確実にする。 
 二つめが、被ばく線量の管理だ。作業員全員にGPS(全地球測位システム)機能付きの線量計を携帯させる。作業員の被ばく線量が上限を超えないように、位置情報や作業時間を常時監視する。 
 最後が最適な輸送計画の提案だ。搬出場所や搬出する時間帯、運行ルート、車両の必要台数などの最適解を算出。工期短縮につながる。
(出所)日経コンストラクション、2015年11月12日

ヤレヤレ、結局は生産側の都合で提案されるビジネスプランか、と。

まずは生活空間にそうした除染作業合理化を必要とするほどの放射性物質がある。この問題解決のためのビジネスプランが先にあって、そのサブプランとして上の発案があるべきなのではないか。

まあ、自然に考えて、そういう最適化されたグランド・ストラテジーが先に確立されているのに違いない、と。小生は勝手にそう憶測するのだが、それならば報道の中でも『推進中の▲▲計画を更に合理的に進めるために民間サイドで提案されているものである』と、たとえばこんな風に述べるべきだったろう。

実は、こんな感覚にたった指摘が欧州でも為されている。Financial Timesだ。日経を通して邦訳されているので引用しておきたい。ドイツ発のVWスキャンダルに関連する。

フォルクスワーゲン(VW)のスキャンダルにおいて最もおぞましい振る舞いは、同社ではなくドイツやその他欧州諸国の政府のそれかもしれない。各国政府はVWや他の自動車メーカーが目標を達成するためにもう不正を働かなくて済むよう、規則の緩和を追求しているのだ。 
(中略) 
 EUの原型となった欧州石炭鉄鋼共同体は生産者のカルテルとして創設され、そのカルテルは今なお現代のEUの遺伝子に組み込まれている。今回のエピソードが我々に教えてくれるのは、欧州単一市場で特定産業の狭い利益がその他すべてに勝る度合いだ。

 欧州経済の他の分野でも同じ傾向が作用している。EUが金融の単一市場を創設したとき、人々が国境を越えて銀行に預金できる、あるいはEU内に拠点を置くどの金融機関からも住宅ローンや消費者金融を受けることができる市場を作ったわけではない。創設したのは、銀行がホールセール業務を集中させられる市場だ。 
 単一市場がもたらしたマクロ経済的な影響――例えば域内全体の生産性や国内総生産(GDP)に与えるインパクト――が事実上ゼロだったのは、このためではないかと筆者は考えている。EUの閣僚や政府関係者が各国の規則を調和させるために集まるとき、彼らは経済が究極的にその利益に資するはずの市民――そして、公害のせいで死ぬ危険にさらされる人たち――のことをあまり考えていない。問題は経済でもない。

 唯一重視されるのは、生産者の利益だけだ。VWの一件のように問題の企業が繰り返し不正を働いたことが分かった場合でさえ、そうなのだ。
(出所)日本経済新聞、2015年11月10日


偽装や欺瞞は、そうせざるをえない程の締め付けがあったわけだから、その締め付けを緩めてやれば、企業も不正を働く動機をもたなくなる……。ま、こういうロジックであるな。それがいかんというわけだ。

★ ★ ★

提案される「ビジネスプラン」は、すべて企業利益に貢献するからこそ発案されるわけであって、「生産者の利益」が唯一重視されているとしても、理屈から考えれば当たり前すぎるほど当然のことである。

だからこそ、ソーシャル・ビジネスが有望な分野として成長しなければならないのであるし、小生が勤務しているところでも、ごくごく例外的な科目ながら「パブリック・マネジメント」などという授業があったりする。

ビジネススクールとともに行政学院が専門教育機関として確立されなければならない所以なのだが、不幸にして日本国内の専門職大学院としての「公共政策大学院」は、そのほとんどが『何故そこにあるのか?』、『何をどう教育しているのか?』、『官公庁エリート職員に対するエグゼクティブセミナーはどの程度の頻度で実施されているのか?』等々、小生からみれば対岸のことながら、いまだ姿が見えない、実にミステリアスな教育機関にとどまっているのだ。


2015年11月10日火曜日

議長が市長ではまずいのか

小生が暮らしている北海道では、特に日本海側では、冬の雪をどう問題解決するかが最大の鍵である。

拙宅のある区域では今冬の除雪業者がまだ決まっていない。というのは、市の除雪請負入札に応じるための条件が変更されたことに業者サイドの準備が間に合わなかったためである。そして、その応札条件の厳格化は現市長の急な意向だと伝えられているのだな。

雪が降ればスポット契約で除雪を依頼するようだ。大混乱に陥ることはない。とはいえ、いかなる問題を解決しようとして、今回の一時的混乱を覚悟したのか。その辺の思いがさっぱり伝わってこない。

組織、業務のマネジメントとしては失敗しているし、理念を示したいのであれば、コミュニケーション力が不十分である。

× × ×

時々、大学の授業を担当するのと、市の行政トップになるのと、いずれが難しい仕事だろうか。こんな下らない問題を頭の体操とするときがある。

大学の授業には学習指導要領はない。各自自分で考えて自由にシラバスを書いているはずだ。学部や学科による制約もそれほど強くはない。

自由ではあるが、しかし、責任は(基本的に)一人で負う。

担当する以上、体調不良で授業が困難になっても、そうそう交代要員がいるわけではない。以前在籍していた同僚は、授業の合間に大病の手術をして ― 1、2回の授業は補講期間にシフトしたという記憶もあるが ― 退院してから授業に穴をあけることもなく全回を全うしたものである。そんなリスクもあるのだが、それでも大学という職場は組織への同調圧力がそれほど厳しくもなく、自らの仕事の品質を向上させたいと思えば、自分の努力さえ惜しまなければ可能である。故に、やりがいもあると言える。

こんな業態であっても、任用は公募が原則であり、応募には学位、論文等の実績が求められ、最終段階では選考委員会による面談、模擬授業の評価などもある。単に『いい人らしいから』といって選挙で選ばれているわけではない。着任後の研究計画も大事な材料だが、それまでの実績も能力を証明するものとして同じく重要なのだ。

× × ×

あれもしたい、これもしたいというのでは、地方行政は無理であろう。それは誰でもわかっていることだ。

誠実な人物であれば、やりたいことがあれば、地位に就いてからも着実に努力を重ねていくであろう。しかし、組織、住民を相手にする仕事を推進するためには、自分の意見は別として、他者と協力しなければ、実行できないことが多い。

トップは確かに理念を示す立場にある。新しい戦略を実行できる立場にある。しかし、新しい戦略は、新たな組織に裏付けられなければ実行できないものだ。そして組織は人に支えられる。やはり『ヒトは城、ヒトは石垣、ヒトは堀』なのである。理解の共有がなければ、トップの理想も全てが絵に描いた餅で終わる。

すべて、言うは易く、行うは難し、なのだ。

小生が暮らす町の現状をみていると、いわゆる「首相公選制」。本当に大丈夫なのかと感じるのだ、な。

多数の国会議員の目で評価されることで、はじめて内閣を率いる総理大臣を目指すことが可能になる。いまの議院内閣制は、時に「四分の一の国民の支持で首相になれる」などと揶揄されることもあるが ― 統計理論的には全くの勘違いなのであるが ― それでも以前の▲▲都知事のようなトンデモナイ問題物件を間違ってトップに据える。そんな事態だけは防止できる。

地方行政はそれでなくとも人材が空洞化している。

自治体などは議会の議長がそのまま自治体の長を兼ねる。それでもいいじゃあないか。そうすれば、成り行きによっては自分が選んだ人が市長になるかもしれない、そう思えば市議会選挙も真面目に投票するだろう。そんな風にもしきりと思われる今日この頃でござんす。

ま、こうなれば議会開催時の座席配置やら何やらを一新しなければならないだろうが。その時は市役所トップが事務方の責任者になるのか…、部長クラスに議員がなるのか…、民選以外の議員枠を市役所OBに割り当てるか……。いや全く面倒だ、今日はこの辺で。

2015年11月8日日曜日

十数年ぶりのミュージカル"CATS"

知り合いの娘さんが泥棒猫の役で出演しているというので隣町までミュージカル『キャッツ』を見にカミさんと二人で出かけた。チケットは知人にとってもらったので7列目でかなり良い席であった。

小生が初めてキャッツをみたのは、その昔、まだ小役人で円借款の仕事をしていた時分、向かいの席に座っていた同年配の銀行マンと二人でいったときである。上の愚息が生まれた前後であったので、多分もう30年も前になるか・・・。当時はフィリピンのマルコス大統領が亡命して、長期政権が崩壊した直後であったので、仕事らしい仕事はなく多分モヤモヤした気分をリフレッシュしたいという雰囲気があったのだろうが、それにしてもキャッツをいい年をした男が二人きりでねえ…、『おかしいですよ』とさんざん笑われたものだった。

筋も何も知らずに、ただ評判であったので行きましょうと急に思い立って行ったものだから、休憩までの前半は訳が分からなかったよなあ。『なんだか踊って歌ってるだけみたいですね』、『多分、最後に出てきた乞食猫がカギになるんでしょうね』などと言いつつ、それでも終わると大変満足したから不思議なものだ。

マジシャン猫のミストフェリーズを演じたのは、(まだ)飯野おさみだったと思う。乞食猫のグリザベラが誰であったか、思い出せない。久野綾希子ではなかったことは覚えているのだが。カミさんは野村怜子だったのじゃないのと聞くのだが、美声すぎる彼女は確か白猫のビクトリアではなかったかなあと記憶しているのだな。

まあ、何にしても昔のことである。日生劇場だったかねえ、観たのは。いや待てよ…、浜松町の近くにキャッツシアターがあったかな、ウ~ン、思い出せない。あれから、マジシャン猫は市村正親が踊るようになって、その頃には二人の愚息もしっかりしてきたので、家族四人で何度か見に行った。が、子どもたちが成長するにつれて一緒に家族で、ということはなくなっていた。昨日は久方ぶりにカミさんと二人で行ったわけだ。

初めて観たときから数えると何代目の猫になるのかなあ・・・と。ウタタ感慨を催した次第。
僧朝顔 幾死に返る 法の松
状況は違うが、芭蕉が大和・当麻寺で詠んだ名句を思い出す。

それにしても四季の「キャッツ」は海賊猫Growltigerが歌う不滅の名曲"Ballad of Billy McCaw"を入れていない。この点だけは変わっていない。「ラストスタンド」だけじゃあキャラクターが伝わってこないのがとても残念。

帰り、ビックカメラに寄ってアイラモルトのラフロイグ(Laphroaig)のセレクトカスクを買い求める - ウィスキーを買うのにカメラ屋に寄るのも珍妙だが、これが当地の事情のようである。

2015年11月5日木曜日

進化する海外の無料データベースサービス

米国のFED, St.Louisが運営しているマクロ経済データベースサービス"FRED"は頻繁に愛用しているサイトの内の一つである。

今度、FREDで描画してくれるグラフ -このグラフ作成機能が半端でないくらい優れているのだが- が、ダイレクトにパワーポイントの1スライドとしてダウンロード可能になった。説明はここにある。大変わかりやすい。

これは授業の教材を作成している時など、非常に楽である。

スクリーンショットをとって、ペイントでトリミングして、画像解像度のサイズ合わせをして・・・などという手順が省けるので時間効率的である。

アメリカ人が「効率化」というものにかける情熱は本当に本気なのだなあ、と感じる一例である。日本の風土になれた人たちは、「手間暇を惜しむことのない真面目な」姿勢に、過剰に高い評価を与えているような気もする。自然に高コスト体質なのだ、な。

ま、こんなことを言うと『丁寧に手間暇をかけることが間違っていると言うのですか?』と、にらみつけられて叱られそうであるが……。ま、クワバラ,クワバラというところかな。




こんなグラフが一発で挿入可能になる。アメリカの実質GDPの前年比である。そして、すべてフリー(無料)である。運営コストはアメリカの先方負担だ。その恩恵は日本在住の一介の研究者が受けているのに、である。

日本の民間企業、諸機関はこれほど太っ腹ではない。そもそもサービス向上と裏腹に増すはずのセキュリティ上のリスクに多くの人は敏感である。

ずっと昔から小生にとっての七不思議は、これほど日本人はリスクに敏感であるにもかかわらず、なぜ情報がすぐにリークしてしまうのか、である。セキュリティ意識が低いためであるとしか言えないのだが、ならばユーザー側の便宜を向上させることにもっと多くの時間と資源を投入してもいいではないか。少々のセキュリティ低下が見込まれても、サービスが高まり、使い勝手がよくなり、不特定ユーザー数が増えるのは、それ自体良いことだろう。

「日常業務」で忙殺されているのだろうか……。ならば、早く人工知能を活用したITサービスに置き換えることだ。日常のルーティンワークは人よりも機械の方が速くて正確である。そして安いはずだ。

2015年11月3日火曜日

メモ: 「ゼノンの逆説」と同値な命題とそもそもの矛盾

ジョーダン・エレンバーグの『データを正しく見るための数学的思考』(日経BP社)の第2章ではゼノンの逆説が話題になっている。ゼノンの逆説は色々な語られ方があるのだが、この本では以下のようである。
アイスクリーム屋に歩いて行くことにする。アイスクリーム屋に行こうとすれば、その中間点まで行かなければならない。そして、その中間点まで行ったとしても、残りの中間点まで行かなければならない。それができたとしても、また残りの距離の半分を進まなければならない。以下同様となる。アイスクリーム屋にどんどん近づいていくかもしれないが、どれだけこの手順を踏んでも、アイスクリーム屋に達することはない。
ゼノンの逆説自体はずっと昔から知っているが読んでいるうちに面白い話ができることに気がついた。ありきたりだがメモしておく。


この命題を時間軸で言い換えると次のようになる。

上の命題では、アイスクリーム屋までの中間点までは行けると認めているように読みとれる。しかしこれは誤りである。仮に、中間点までの到達時間をT秒とする。すると、着いた中間点から残りの中間点につくまでの時間はT秒の$1/2$である。さらに、残りの中間点までの時間はT秒の$1/4$である。これらの時間を合計すると
$$
\left( 1 + \frac{1}{2} + \frac{1}{4} + \cdots \right) \times T
$$
になる。上の式の分数部分は、ちょうど一本のテープの半分を切り捨て、次に残りの半分を切り捨て、さらに残りの半分を切り捨てていったときに、合計ではどれだけのテープを捨てるのかを求める式である。捨てるテープの量が一本を超えることはないのは明らかである。故に、上の式の答えがT秒の2倍を超えることはない。だからアイスクリーム屋には必ず到着する。こういう結論になる。

しかし、この結論は最初の命題と矛盾する。だから最初の命題が真であるには、「最初の中間点に着くことはない」と前提しなければならない。では、道のりの半分の地点までの中間点につくかといえば、それを認めるわけにもいかない。着くならT秒で着くと言わなければならないからだ。すると最初の中間点には$2 \times T$秒で着くことになるので結局アイスクリーム屋に到着する。だから中間点までの中間点にも到着しない。以下同様に続けると、いかなる中間点にも到着しない。故に、現地点から別の場所に移動することは不可能であると前提しなければならない。


故に、ゼノンの逆説『アイスクリーム屋には達しない』という命題には、『ある場所から別の場所に移動することは不可能である』という運動不可能の公理が含まれている。

にもかかわらず、ゼノンの逆説はアイスクリーム屋に行くという論題を考えている。この問題提起そのものが既に論理的な矛盾である。


2015年11月2日月曜日

天候データ → マネーの時代か

こんな記事がある。
IBM confirmed today that it will acquire the digital assets of the Weather Company, the corporate parent of the Weather Channel and Weather.com. Terms of the acquisition were not disclosed, but the deal includes essentially all of the Weather Company’s assets other than the Weather Channel television station, including Weather.com, the Weather Channel mobile apps, the Weather Underground website and, perhaps most importantly, Weather Services International , a division that sells weather data to companies such as airlines and the insurance industry.
One possibility IBM has floated in the past is the correlation of retail sales trends with weather patterns to help companies make decisions.
The Weather Company and IBM may seem like an odd pairing at first, but IBM already has a partnership with the Weather Company to jointly sell its weather data services and incorporate that data into its cloud-based (no pun intended) Watson services. The acquisition will allow IBM the ability to take fuller advantage of the Weather Company’s data, plus control of a mobile app that’s installed on tens of millions of smart phones around the world.
Source:Wired, 2015-10-28, "IBM Is About to Become the Best Weather Forecaster Ever"

要するに、IBMの戦略商品である人工知能”Watson”を天候予測に応用して価値を創造していこうと。それほど天候予測が企業経営に大きな影響を与えているわけだ。

日本でも同じような取組がもう始まっている。

一般財団法人日本気象協会(本社:東京都豊島区、会長:繩野 克彦、以下「日本気象協会」)は、
天気予報で物流を変える「需要予測の精度向上・共有化による省エネ物流プロジェクト」(以下「本事業」)を実施しています。事業初年度である平成26年度の成果を用いて、参加企業の「冷やし中華つゆ」を事例に生産量を調整したところ、今年8月末時点で2割弱の在庫圧縮が確認できました。

 2年目となる平成27年度は、本事業に参加する民間企業が初年度から13社増え、22社となりました。また「人工知能」の研究機関の協力なども得て、幅広い品目でさらなる需要予測の精度向上に取り組むことで、廃棄や返品に伴って不要に発生している二酸化炭素(以下「二酸化炭素ロス」)の5%削減を目指します。なお、本事業は経済産業省の平成26、27年度の「次世代物流システム構築事業費補助金」(※1)の採択事業です。
(出所)PR TIMES-日本気象協会のプレスリリース、2015年10月26日

先週末には卒業年次生のワークショップがあったのだが、でるべくして出てきたのがビッグデータビジネスである。

それは上に引用したような天候ビッグデータの活用ではなかったが、それに近いものではあった。

小生はGoogle Alertに「ビッグデータ」を登録して最新情報を送信してもらっているが、それが毎日1回以上の頻度で届き、しかも一回当たりのアラートメールに含まれる情報件数が半端ではない。それほどにまで花開きつつある分野であるのだろうし、とにかくビッグデータ・ビジネスに遅れてはならないという日本政府の前のめりぶりが顕著でもあるのだ。

医療保健、流通、防災はビッグデータの三大応用分野であったのだが、最近、四つ目、五つ目の主戦場として観光産業、更には大学、予備校、職業訓練など教育産業が加わってきたようだ。

天候情報は流通にも防災にも観光にも関連する。データからカネを生み出すには花形分野であることは確かだ。

もうフリーの天気予報をTVで見ているだけじゃあ駄目だ。カネを払ってもっと高度の情報を入手しないとダメだ。そんな時代だということか……。修学旅行を企画している全国の高等学校もそのうち顧客になることだろう。

★ ★ ★

実は上の引用記事二本ともEvernoteに放り込んでおいたのを検索したものだ。Evernoteは、小生、とても気に入っていて、NASDAQに上場されれば早速にでも投資しようと思案してきたのである。

ところがCEOのフィル・リービン氏がこの7月に辞任して会長に祭り上げられてしまった。日経にはこんな風に書かれている。
【シリコンバレー=小川義也】クラウドサービス大手の米エバーノートは20日、米グーグル出身のクリス・オニール氏が27日付で最高経営責任者(CEO)に就任する人事を発表した。現CEOのフィル・リービン氏は会長に就任する。グーグルで10年近く営業畑を歩んできたオニール氏をトップに迎えて事業基盤を強化。将来の株式上場に備える。
(出所)日本経済新聞、2015年7月21日

ベンチャー企業も成功すれば営業プロフェッショナルに席を譲るか……。いまTBSで放映中の『下町ロケット』でも同じような話が進行中である。

モノづくりのプロと組織管理のプロは違うのだと言ってしまえばそれだけのことだが淋しいねえ。ちょうどあれか…、画家と画商の関係か。それにしても、またグーグルですか。


2015年10月29日木曜日

就活をめぐる「大学 vs 企業百年戦争」に決着をつける最終兵器とは?

本日の日経報道『私たちはお試しだったの?』はよく書けている。

一部を引用するだけでも結構面白い。
一方、学業優先を旗印にする文部科学省や大学からは今回の経団連の判断に疑心を募らせている。馳浩文科相は27日の記者会見で、「これまでの経緯があって1つのラインができたのに朝令暮改はいかがなものか」と批判した。文科省としては、今年の就活を検証すべく大学側に調査をしているただなかにある。同省の事務方も「正式には何も聞いていなかった。6月といえば学期中のまっただなかだ。学生のことを本当に配慮した上でいってくれているのか」と嘆く。 
早稲田大学キャリアセンターの担当者は、「少なくとも本学には事前の擦り合わせなどなかった。このように外堀を埋めて既成事実化していくようなやり方に不信感を覚える」と、憤りを隠せない。いくつかのキャリアセンターでは今年、例年以上に出席率の悪い4年生に対するクレームが教授陣から相次いだという。6月は学期のさなかだ。「前期に授業をするな、といっているようなものだ。企業からは、学生はどうせ勉強なんてしていないと思われているのだろう」と悔しそうだ。
(出所)日本経済新聞、2015年10月29日

小生も学部の授業を担当することがあるが、前期開講科目の場合、四年生(もしくは過年度生)の欠席の扱いには本当にいつも困らされる。

学則、というか建前としては『三分の一を越える授業を欠席したものは評価対象外とする』わけだから、多くの四年生は就活期間中に授業を履修しても、本来は出席数が足りないという理由だけで単位は修得できないはずである。

出席数に加えて、授業では小テストやレポート提出もある。小テストを受けなければ(本来は)ゼロ点でなければならない。ところが、四年生はそんな時に欠席届を提出し、欠席理由を「就職活動」としている。大学当局からは、なるべく四年生に不利益が及ばないよう特段の配慮を求める連絡をしている大学が多いのではなかろうか。

小生は今ではビジネススクールで授業をやっているが、ちょっとした統計の初歩すら忘れている比較的年齢の若い学生が案外多くいることに驚く時がある。テーマを問わず、初歩的理解を欠いていれば読書を通じた自己啓発も不可能であり、実践的研修も上滑りで身にはつかないまま終わるに違いない。これでは知的能力において日本人ビジネスマンは外国人に勝てない、というより知的劣位におかれてしまう。外国語も苦手であるのに、更に知的水準で劣ってしまえば何とするのだ、いまのような時代に。「地頭(ジアタマ)」だけで、常に何とかなるわけでもあるまい。

確かに日本の大学は国際化も不十分であるし、日本人学生は消極的であるし、授業のレベルもアメリカのアイビーリーグに比べれば知的レベルが劣っているかもしれない。ではあるものの、毎回の授業に出て、真面目にテキストを熟読して勉強しさえすれば、相当の学力には到達可能である。その程度の教育はしていると100%の自信をもって言えるのだ、な。

そもそも大学の勉強は武道と似たようなものだ。頭脳を酷使すること自体に目的がある。ビジネス業務に直接に役立つものではない。水辺にいるにもかかわらず水はまずいと飲まないだけである。

そして、情報をあつめ何かを探しているうちに四年生になる。頭脳は肥満体ならぬ回転の悪い肥満型頭脳になっている。避けるべきパターンである。

現実は、大学生の就職先である民間企業が大学での勉強にそもそも期待していないのであるが、実は大きな矛盾があることに企業の側が気づいていない。ここが最もこわいところなのだ。だってそうでしょう。日本の大学の教育水準に不安を感じると言っているのは企業の方であると同時に、なぜ大学生の多くが低学力のまま卒業しているかといえば、低学力にするような就活システムを続けているのだ。そんな風にシステムは動いている。

☓ ☓ ☓

日本の大学と大学生の水準は、カネをかけずに上げることが可能だ。その方法は、就活を理由とする欠席を大学側が容認しない。これだけでよい。

もう少し敷衍したほうがいいか……。

要するに、4年間真面目に大学生に勉強してもらう。これに尽きる。それは、成績評価を厳格にするだけで達成できるであろう。真の意味合いで成績を「成績」としてつけるだけで、日本の大学は大学らしくなるはずだ。これが最終兵器だ。妥協なき「成績厳格化」(副作用として、卒業所要単位を修得できず、授業料負担ない最長在学期間の制約から除籍になる学生が増加するであろう)は、まず確実に、日本の大学をあるべき状態に誘導するためのバズーカ砲になるはずだ。

そんな「蛮行」を敢えてすれば、就活をしながら単位を修得できる四年生はいなくなるだろう。故に、三年までに卒業所要単位をとり終えられるよう一生懸命に勉強すればよい。というより、「卒業論文」をまとめるよう厳格に指導すれば、講義を1科目もとらなくとも就活と勉強を両立させることは至難のことになるだろう。

それでもよいのではないか。というか、(本来は)そうあるべきであり、これが単にアメリカの事情にとどまらず、広く国際標準にそった当たり前の大学生活であると思われるのだ、な。

日本の大学が様々に批判されているのは、標準的な学生生活を大学生に求めていないことによる。ここを修正するだけで、かなりの程度まで日本の大学は復活するはずである。

☓ ☓ ☓

大学生は3月に卒業してから就職活動をすればよい。

カネがない?カネの問題は必ず解決策がある。

たとえば、奨学金を卒業後一定期間内であれば支給できるようにすればよい。学生支援機構にとっても損なビジネスではないはずだ。そして入社は10月とすればよい。いずれにしても半年程度は新入社員研修があるのだ。

システム変更前後の端境期には多少のゴタゴタはあるだろうが、一度定着すれば毎年のルーティンになるはずだ。

カネをかけずして、より良質の大学生がリクルートできるとすれば、日本の民間企業にとっても得なはずである。

2015年10月27日火曜日

品格のある「れば・たら」議論

相当前になってしまったが、市内の某イタメシ食堂にて同じ大学のOBが集まり夕食会をしたことがあった。

年齢は様々。北海道での生活歴についても、二人は新人、一人は2年超、小生は20年以上ありと様々であった。そして専攻分野も、統計分析を駆使する社会学が専門でいまは英語を教えている人もいれば、商学部で数学を教えながら整数論を研究している人もいたし、ビジネススクールに所属しながらROEを批判する本をこのたび出版した御仁もいた。小生は統計学が専門であるので英語を教えている社会学者には何がなし親近感をもったものである。

その女性社会学者曰く『イギリス英語は仮定法が多いんですよね』。そうしたら、元は自動車会社のビジネスマンでいまは反ROEの経営学者が『仮定法過去っていうのがありましたね』、『過去完了もあった・・・』、『Could you please ...というヤツですね?』とまあ、意外にこの手の話題は盛り上がるものだ。

その内に数学では『・・・が満たされるなら・・・・が成り立つ』と、そんな議論となり、その条件部分を仮定法で書くとどんな感じになりますかね、と。何かそんな風に茶化した記憶があるのだが、ひょっとすると小生の記憶違いかもしれない。

ただ、あれであるな、理論経済学でいう完全競争均衡のパレート最適性を主張する定理。あれは仮定法過去で書いた方がいいかもしれない。条件が満たされるなどと言う可能性はないに等しいからね・・・。

If the next conditions were satisfied, the competitive equililbrium would be optimal in the sense of Pareto.  ...

いいねえ、仮定法は。下の例文は有名だ。
If I were a bird, I could fly to you.

経済学の教科書でもこんな文章になるか・・・。『もしも・・・もしもです、以下の諸条件がひょっとして満たされますならば、完全競争均衡はパレートの意味で最適となることを論理的に証明することができるのでございます』。仮定法を用いた言語表現はとても上品なのである。

コナン・ドイルがものしたホームズで使われている英語もどこか古めかしく仮定法が至る所で駆使されている。『ワトソン君、僕がいま鉄道に乗るとして、モリアーティ教授がどう対応するか考えたことがあるかね?』、『そうさね、君がいまロンドンを離れる可能性があるとは当然想定しているだろうから、彼は君を追うだろう』、『そしてどこで降りる?』、『もし君がA駅で降りないとしたら、B駅まで行くと予想するだろう』、『ではモリアーティ教授はB駅まで乗るだろうか?そうすれば僕はA駅で降りればよい』、『いやいや、モリアーティもそう考えるだろうから、A駅で降りるだろう。』、『では僕はA駅でおりない方がよい』、『そもそも君はここにいるという選択肢もある』、『では愛すべきモリアーティ教授は鉄道には乗らないだろう、だとすれば僕は鉄道に乗る方がよい』・・・・・・。ウィンナワルツにある「常動曲」よろしく、この会話は永遠に続く。もちろんこの会話は仮定の上でのものだ。

話題はいつしか歴史の話しとなった。歴史とは過去に生じた状況の― 成功もしくは失敗の― 分析であるので言語表現としては仮定法過去完了が使われるべき分野である。

しかしながら、小生が七不思議だといつも思っているのだが、日韓歴史問題論争において仮定法過去完了が使われた論争が展開されたとは聞いたことがない。

もしも1876年の日朝修好条規が不平等条約ではなく、双方の平等性を規定した未来性のある条約であったとしますなら、その後はどうなっていたでございましょう。そしてその時、ロシアはそのことによって利益を得たでありましょうか?損失を受けたでありましょうか?
実に上品である。

小生は中国語にはうといのでよくは知らないが、「論語」の文章で仮定法は使われておらず、すべて「である・でない」の直説法であり、せいぜいが「であろうか?」という修辞的疑問文である。「孟子」も、というより四書五経はすべて「である・でない」の直説法の文学ではないかと思われるのだがどうだろう?

そうであるからこそ、東アジアの儒教文化圏で展開されている歴史分析は、「れば・たら」が一切なく、可能性の考察が一つも混じらない、野暮なやりとりになってしまうのだろう、と。そう憶測しているのだ。 どうもこの背景には、2千年以上も前の単純素朴な人間社会を前提に著された古典を「科挙」という不毛の国家試験に合格するためずっと一所懸命に勉強してきた人たちの仮定法なき思考パターンを継承した文化があるような気がするのだ、な。




2015年10月24日土曜日

D3.jsのテストページ


これはd3.jsのテストページである。
・・・アレッ、うまくいかんな。ローカルではいくのに。

2015年10月22日木曜日

アメリカの対中ディレンマ状態

先日もふれたが中国市場はアメリカにとっては100年の宿願であり、と同時にこれまでは見果てぬ夢であった。

「門戸開放」を叫びあれほどの犠牲を投じて肩入れした中国であるにもかかわらず、第二次大戦後は共産党に支配され中国は敵対国の側に回ってしまった。中国共産党がアメリカに歩み寄ったのは対ソ関係が悪化した時を待たねばならなかった。中国の危機意識がそこにはあった。

いま再び中国の経済大国化を迎え、加えて米ロ関係が悪化する中で、米中関係が緊張を強いられている。
 オバマ米政権が、中国が南シナ海で埋め立てた人工島から、国際法で領海とされる12カイリ(約22キロ)内に、米軍の艦船または航空機を近く派遣する決断をしたことがわかった。複数の米政府関係筋が明らかにした。自国の領海という中国の主張を認めず、航行の自由を行動で示す狙いがある。派遣の時期や場所などを最終調整しているが、中国政府が反発するのは必至で、中国側の対応次第では米中関係が緊張する可能性がある。(出所)Yahoo!ニュース、(配信元)朝日新聞デジタル、10月22日
 【北京・石原聖】中国軍制服組トップの范長竜・中央軍事委員会副主席は17日、北京で同日始まった安全保障に関する国際フォーラムで講演し、南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島での埋め立てや建設について「民間利用が主な目的で航行の自由には影響を及ぼさない」と強調、中国が造成した人工島の12カイリ(約22キロ)内への艦船派遣を検討している米国をけん制した。国営新華社通信(英語版)が伝えた。(出所) Yahoo!ニュース、(配信元)毎日新聞、10月17日21時6分

『民間利用が主目的で自由な航行に影響は及ぼさない』と中国は主張しているようだが、仮に同じ南沙諸島でフィリピンが領有権を主張して、埋め立て工事を進め、そこに灯台を建設したうえで、同じ主張をしても中国は容認しないだろう。その行動には、係争中の土地を先手を打って実効支配しようとする意志が込められているからだ。

なので、これは中国・フィリピンの領有権紛争であって、言語表現とは関係ない。

その紛争に米国が半ば軍事的に関係していこうと言うのだから、紛争当事国が増えることになる。アメリカの観点から対比関係と対中関係を天秤にかけた判断なのだろうが、そもそもアメリカからみたフィリピンは、戦前期に日本海軍への警戒感をもつに至る主因でもあったし、さらに対日関係の悪化を招いてもどうしても死守しなければならないほどの戦略的重みをもっていた。

中国共産党はその辺を甘く見ているのではないか……と。ひょっとすると「21世紀のキューバ危機」になるかもしれない。

アメリカはソ連市場に関心を持ってはいなかったが、中国は元来はアメリカの顧客である、というか最大の顧客であれかしと(アメリカの方は)願っている ― その管理拠点を設営する適当な土地を日本は賃貸しして生活水準を維持するのだろうが。

米中100年のすれ違いはまだまだ続くのか・・・

いずれにしてもアメリカの拙劣な(?)外交戦略の一つの帰結である。



2015年10月19日月曜日

業務用メガネを新調

「予測の技術」は実習中心にしないと意味がない。定常性や自己相関、偏自己相関についてレクチャーすることも大事だが、実際のデータを図に描いて、たとえばホルトウィンタース法やボックス・ジェンキンズ法で予測計算をやってみないと使えるようにはならない。統計的予測は必要なときに使うための技術だから、理論自体に大した意味はないのである。それで授業ではPC持参にしている。

毎回事後課題を出しているので、Rの"forecast"を使っている。となると、コマンド操作になる。

いやはや、最近みんなが使っているノートPCの小さいこと、小さいこと。大体、使っている自分自身で画面が見えているのかなあ……?Rではコンマとピリオドの使い分けが決定的だ。間違えるとエラーになる。エラーメッセージを読むことも大事だ。学生から手が挙がると見に行く。字が小さすぎて読めんのだね。手を挙げた人からして、『コンマか、ピリオドか、分かんないんだよね』と言ったりするから、かなわない。

昨日は北大の近くにあるグラスタイム・シバタで「業務用メガネ」を作ってきた。


単式の跳ね上げ式になっている。あげれば裸眼、下げれば中近レンズになる。

これまでは、メガネを鼻にずらし落として手元の資料をみて、メガネをあげては3メートル先の学生の顔を認識していた。質問で手を挙げた学生のPC画面は裸眼でも、レンズでも読み取れない。老眼鏡がないとダメ、だからメガネを換えないといかん。さすがに煩わしく実行可能ではない。

いま探しているのは、ほどほどのサイズで携帯しやすく、十分な倍率があるルーペである。商品ラベルや本に掲載されている図中の文字を読む時、いちいち直径10センチもある大型ルーペを取り出すのは不便だ。そうかと言って、1センチほどの昆虫観察用ルーペでは話しにならない。どこかにないものかなあ……。

2015年10月18日日曜日

徹頭徹尾一貫してせられたし: 従軍慰安婦、強制徴用問題

戦後70年を経たにもかかわらず、もはや最大の外交問題となってしまった「歴史問題」。

現在においてさえ、日韓間に存在した、というか存在している標記の歴史問題を生きたテーマとして研究し、議論する専門家は多数いる。
西洋史学者の林志弦(イム・ジヒョン)西江大学教授(56)は最近、自己紹介するとき、歴史学者ではなく「記憶の運動家(memory activist)」という表現を使う。民族や国家を前に出して隣国と衝突を起こす自国史中心の限界を超え、地球的観点から歴史または記憶を普遍化してみ ようという趣旨だ。ここ数年、執拗(しつよう)に追跡した「犠牲者意識の民族主義」も、国史パラダイムを超えてこそ歴史をきちんと見ることができるという 問題意識から出発した。

 例えば、ユダヤ人がナチスによる大虐殺の犠牲者という事実を押し立て、イスラエルによるパレスチナ 人抑圧を正当化したり、第2次大戦当時ポーランドがナチスから大きな被害を受けたという理由で、ユダヤ人虐殺を助けた加害者としての責任を認めなかったり することを批判している。

(中略)

 今年の1学期に漢陽大学から西江大学へとポストを移した林教授は、少し前、大学内にトランスナショナル人文学研究所を設立した。来年8月、ベルリンの 「テロのトポグラフィー」と共同で、ナチス占領期および日本の植民地時代における強制徴用を比較するワークショップをベルリンで開催し、翌年はソウルで、 交互開催方式を用いて比較研究していく予定だ。林教授は「強制徴用や従軍慰安婦問題は、韓日間の民族的対立という観点を超え、反人道的人権侵害という普遍的問題としてアプローチする方が、世界の人々の共感を得やすい」と語った。 
(出所)朝鮮日報 Chosun Online、2015年10月18日

要するに、下線部に述べられているように民族間の「歴史問題」としてではなく、人類社会にとってより普遍的な「人権問題」として提起し、解決していく方向がより望ましい。要旨はこれに尽きる。

もし普遍的な人権問題として問題を提起するなら、「戦争」という政策をとる以上必然的に発生する敵国の国民殺害という行動自体を最大の人権問題にするべきである。また、同国人の生命をそのまま兵器に使った日本の特攻作戦、というよりそもそも戦争を準備する法制度である徴兵制も窮極の強制徴用であり、これもまた普遍的な人権問題として同列で議論するべきだと言う結論になる。

つまり「戦争」という政策を政府がとるということ自体が最大の人権問題である。

故にロジックとしては、あらゆる「戦争」を否定する「非戦」を主張するのでなければ論理一貫しないのが上の議論である。がしかし、では人権をまったく顧みないテロ集団にどう向き合ったらよいか? 反人道的人権侵害を繰り返すテロ集団と認定されれば、その集団には人権はないのだから反人道的に抹殺してもよいというロジックになるのか?おそらく残虐な人間集団に対する怒りは、これまた普遍的な集団感情であるので、つまるところ「どちらが正しいか、正しいのはこちらだ」という議論になるのではないか。つまり、「それが正しければ戦争を実行しても良い」。そうなるのではないか。

そう考えるなら、二つ以上の国家が戦争状態に至る可能性を防ぐことはできない。これは明らかだ。

一度「正しい戦争」を認めるなら、「それほどでもない人権蹂躙行為」はすべて許されてしまうだろう。

そう考えない、つまり「どちらが正しい」という議論自体をもう止めよう。 そう考えるなら、歴史問題をモラルとして議論する見方は消え去り、すべては紛争と調停、損害賠償と慰謝料の話しになる。小生は、これが望ましいと思う立場にあるのだが、そう割り切るのは「国民感情・民族感情」がある以上、現実には無理だろう。歴史とは、つまりプライド、結局は感情の話しなのだ。感情が未整理のままある限り、歴史を話さずにいられるはずがない。

なので、日韓間の歴史問題を「人権問題」として抽象化・普遍化するのは、(一応)解決するための一つの方法かもしれないが、だからといって「歴史問題」が消えてなくなるわけではなく、いずれまた再燃するかもしれず、人権が尊重される時代が来るとも限らず、人権が踏みにじられる同じような事態が繰り返される可能性もあるだろう。

★ ★ ★

それにしても、この秋に日本に参入したNetflix、更に来年には韓国、台湾、シンガポール、香港に進出するようだが、中国本土への上陸はかないそうにない。そこはアリババの天下である。思えば、中国市場でのビジネス展開はアメリカの国家的宿願であった。遠くさかのぼり、戦前期にアメリカが日本に加えた外交圧力と太平洋戦争開戦に至るまでのアメリカの根本的動機はアメリカ企業の顧客確保であった。 アメリカは日本に戦争では勝ったが、中国市場は共産革命によって閉ざされ、アメリカは戦略的には失敗した。そして今なおアメリカ企業は中国市場で自由に事業を展開できてはいない。

国民感情は移ろいやすい。リアリティは心の中には存在しない。感情に基づいた意思決定を行うべきでないのは、個人も国家も同じことである。

2015年10月17日土曜日

20年前、30年、40年前からの読書予定

読むつもりで買いいれ、しばらくはツンドク状態であったものの、その時その時の仕事に追われいつの間にか書棚に飾られるばかりの存在になってきた本は誰でも持っているのではなかろうか。

大学に戻ってからまずは数学を勉強し直そうと思って、学生時代からいつかは全部読破しようと思っていたスミルノフの『高等数学教程』全12巻を買い揃えたのは、隣町S市のどの書店だったか…。旭屋書店はもうないし、紀伊国屋書店も丸善も移転してしまった。

それとウィリアム・フェラーの『確率論とその応用』だ。これはⅠ、Ⅱに分かれていて、それぞれが上巻・下巻からなる。これも大変な古典であるが、この本を読んで何かの仕事に役立てようと言う人はいまはいないだろう。

まあ、いうなればどちらもクラシックカー、というかLPレコードのような存在で、実用上の価値はもうないと言えるかもしれない。ではあるが、頭脳がフォローできる間に読んでおきたいものだ。

なので、知的能力が衰退するまでの読書リストの第1位と第2位は

  1. スミルノフ『高等数学教程』(共立出版)
  2. フェラー『確率論とその応用Ⅰ、及びⅡ』(紀伊國屋書店)

であるが、これは学生時代からの古証文を返したいという気持ちに近いのだな。

加えるに、純文学から挙げるとすれば第3位に

  • 源氏物語

が入る。紫式部の平安朝古典原文を谷崎潤一郎の現代語訳と対比しながら読み進める時間を持ちたい思いがずっとあり、趣味の側ではそれがずっと課題の常連であった。これまた40年以上たな晒しである。

小生は読むのがとても遅い。速読は苦手だ。だから借財が残ってしまう。

が今も目の前には、Provost, et.al.『戦略的データサイエンス入門』と平井有三『はじめてのパターン認識』がある。

自転車操業の仕事ップリの象徴である。面白いとは思うが、小生のビジネスであり、もうそろそろいいんじゃないか、と。

本当にやりたいことは、ビジネスにはならないものだ。


2015年10月14日水曜日

印象派的な反・経済学スタンスの迷妄

今年のノーベル経済学賞はProf. Angus Deatonが受賞した。小生が若いころは(といっても小役人を辞めてから後のことだが)、一心に消費分析にすべてのエネルギーを投入していて、特にDeaton & Muellbauerが著した"Economics and Consumer Behaviou"(Cambridge UP)はスタンダードな教科書として隅から隅まで読みつくしたものであった。実に面白く、切れ味の良いテキストで、知的刺激という点でこの上をいく本にはまだ出会ったことがない。研究テーマの選択においても極めて大きな影響を受けた。なので、今年の受賞をきくと何だか青春時代が蘇るかのような心持になって大層感慨深いものがあるのだ。ご本人に会う機会をいまだ持っていないのが残念だ。

さて……、

とはいえ、経済学は最近ずっと分が悪い。世間では特に影が薄いというか、経済学と言う学問分野に対してあまり良いイメージを持たれていないのじゃないか。そんな雰囲気を感じたりするのは、小生が齢のせいで偏屈になってきているのだろうか。

先日、文科省が提唱した国立大学の人文・社会部門統廃合論。そうでなくとも、『経済学部に入って何ができるようになるのか』という揶揄的な目線は確かに昔からある。

『すぐに役立つことを学んでも、すぐに役に立たなくなりますよ』と話したりするのだが、一般に世の中には反・経済学感覚というのがある。

経済学を一度でも活用した人と、ずっと縁がなかった人とでは、話しをするにも時に大きなコミュニケーション・ギャップを感じることが多いのだ。

物理学や化学が分からなくとも『この分野は素人なものですから』というところを、経済学に対しては『世の中、経済云々では割り切れないと思いますしねえ・・・』などと、謙虚さとは反対に、お金の話で割り切る経済学者というイメージを藁人形にしたてるような攻勢をかけてきたりする。

× × ×

お金の話しに帰着させるのは良い態度ではない。そんな感情が根底にあるのだと思う。

「特に日本社会では」というつもりはないが、カネの話しは品が悪い。何か頼みごとをしたときに「いくらくれるんですか?」と応じられれば、誰でも鼻白むものだ。カネに転ぶ人だと思われること自体が損失である。

金銭よりは大義名分。ズバリいうならそういうことだ。

そんな貴穀賤金の思想は程度の違いはあれ、どの国にもあろうと思う。カネよりは、中身が社会を豊かにする。これは当たり前の事実だ。

それ故、カネがなければ病気も治せない。学校にだって行けない。そう言うと、それはカネ万能の世の中の仕組みが悪い。そういう議論になる。

しかし、この議論はカネが表している中身と、カネ自体、つまり紙幣とを混同している。

× × ×

経済学ではカネの話しをする。特に、マクロ経済学ではそうだ。GDPも通貨単位で測られている。

モノやサービスの裏づけがないカネは誰も使わないし、持とうともしない。持っていても意味がないからだ。

カネが増えるのは、カネで買えるもの、つまり豊かな生活をもたらすものが、それだけ増えているからだ - 「幸福」の増減とは違う。

経済学はカネの議論をするが、紙幣というモノの材質を分析することはしない。使われ方や社会的作用を分析する。

何事もそうだが、よく話しをするからといって、それが一番大事であると言っているわけではない。

音楽を仕事にしている人は、音楽の話をすることが多い。だからといって、音楽が人類社会で最も大事だとは思っていないだろう。音楽よりは食糧、いやもっと広く衣食住に欠かせない必需品のほうがはるかに不可欠だ。

× × ×

貧しい状態から豊かな社会になることで自然に解決される問題がある限り、経済学は必要である。そして、経済学はずっとカネの話しをするだろう。

カネの話しをすることによって、その国が成長軌道に乗り、乳幼児死亡率が低下していくなら、エコノミストは喜んでカネの話をするはずだ。貧困と悲惨、そして内戦や邪教の蔓延までも、豊かさを追求することで解決される問題は多い。

豊かさを通して貧困を解決することの副作用は、長寿を目指してきた医学が、長寿なるが故に独居老人の孤独を増やしてきたことと似た問題である。それはそれで解決への道筋を考えればよい。

2015年10月11日日曜日

愚息の急な帰郷

札幌で友人の結婚式があるとかで、いま新潟にいる下の愚息が昨晩拙宅に帰ってきた。

話しを聞くと小生の教育が過剰だったようであり、いまMacAllanの15年を飲んでいるという。MacAllanか…、ちょっと贅沢じゃないかねえ。そう思ってもいたのだが、15年ってあったかなあ?12年は家にもある。その上は…、シェリーオークだと18年だね。ファインオークでも17年である。15年はないぞな。なになに17年で1万円。シェリーオークの18年になると2万2千円か。結構高うござるなあ。まったく高コスト体質にはまりこんでおるのか。それにしても15年ってないぞな。愚息の勘違いか…。

そんなことであったので、今回は厳しく対応しておいた。

小生: 人生を生きていくうえで、これが大事だと言うのを挙げてみな。 
下の愚息: う~ん、友人かな。 
小生: そりゃ、材料だろ。友人をつくるのが人生の目的じゃないだろが。 
下の愚息: だとすると、仕事。 
小生: いいかい。大事なことは三つある。一つは『仕事のミスをしない』、二つは『家族をもち、大切にして、次の世代をしっかりと育てること』、三つ目は『これらが自分のやりたいことであるようにしておけ』だ。 
カミさん: 最後のは分かりにくいね。 
小生: 60歳という年齢になってから、20歳の原点に一度たち戻って、同じ状況にたったときには、やっぱりその後は同じように生きていたはずだ。後悔はない。もし完全にそうなら、それが自分のやりたいことだった。そう言えるだろ。なら満点ってわけさ。満点じゃないなら、どこかで後悔している。悔いが残る。幸福には影がある。 
カミさん: 難しいと思うけどね。 
小生: 豊かになりたいなら、そのための戦略がある。楽しくありたいなら、そのための計画を立てられる。しかし、上の三つのいずれかで落第すれば、決して幸福にはなれないのさ。
そう…、三番目の条件はとても難しい。人が幸福になるのはとても難しい。だから、人は楽しいことを求める。豊かさを求める。それは幸福の代わりなのだ。

今朝はスマートフォンの充電器を忘れてきたというので、高速バス停留所まで送っていきがてら、途中でセブンイレブンによったら『売っていた』といって店内から出てきた。ヤレヤレ、しまらねえなあ…。それにしても、宅を出る少し前、『おまえ、風呂敷は持っているか』ときくと、勤務先にあるという。しかし、来年からはマイ風呂敷がいりそうだという。『じゃあ、俺が使ってきたのを見てみるか』ときく。『これ持って行っていい?』という。まあ、いいだろう。丹後縮緬で織った上品な利休でいい物だ。恩師に縁のある懐かしいものだが、小生の仕事机の抽斗の中でずっとクスぶっているよりは、倅の職場で使わせた方が風呂敷冥利というものだろう。早速自分の鞄に入れて持って行ってしまった。

小生はもう使わぬ。
風呂敷も さげ渡す代ぞ 木の実落つ 
昼まで秋晴れであったが、夕方にかけて強風が吹く。

2015年10月9日金曜日

FBのメッセージ入力と日本語変換速度

このブログの投稿数がちょうど千を超えてきたところだ。その位を目安にして、あとはボツボツとしたペースにして、毎日の覚え書はフェースブックに移していくかなと思案してきた。とりとめのない短い話しはやっぱりSNSに向いている。

そのフェースブックのメッセージはメールの代わりにもなるが、昨晩、返信を書こうとしたところ、日本語入力速度が極端に遅くて、1文字に1〜2秒がかかる雨だれ型になってしまった。たまたま飲み会の日程に関する内容で長めの文章を返すところだったので、これはイライラとさせられました。

原因は不明で分からぬ。ちなみに昨晩の出来事は、MacBook ProのFirefoxでコトエリを使っていた。

それにしても、うっかり改行すると送信されてしまう。シフトリターンで改行は可能。

変換でリターン、うっかりリターンキーを二度押してしまうと、文の途中でハイ、送信と。やりづらかった…。なるほど、欧文なら、こんなことはない。編集ウィンドウは数センチ程度。ポツッ・・ポツッ・・と1文字ずつ変換されて、日本語になる、すると画面下が消えて最後が読めない。スクロール…、ゆっくりと出てくる……・

まとまった機能を付けるにしても、中途半端な仕様だなあ、と思うねえ。

2015年10月8日木曜日

足元の景気後退はかなり確率が高い

景気動向指数の6月分速報が公表され、それが意外に良い数字であったので『今後の景気は末吉』とこのブログに記したのは8月8日のことだった。

ところが、その直後に上海市場が暴落して、世界的な株価不安が高まり、景気の見方は一変した。

昨日には景気動向指数の8月分速報が内閣府から公表された。NHKでは以下のように解説している ― というか、公表元である内閣府が記者レクでそう説明しているのだと推測される。

ことし8月の景気動向指数は、中国向けの金属工作機械の生産が落ち込んだことなどから、指数は2か月連続で悪化しましたが、内閣府は景気の動向に大きな変化は見られないとして、「足踏みを示している」としたこれまでの基調判断を据え置きました。

(出所)NHK News WEB, 2015-10-07 16:26配信

5月までの数字に基づいた事前予測と、6月から8月までの実際の値を比べると以下のようになる。
黒い実線は本年8月までの実績値、赤い点線が5月までの実績値に基づいた6月以降半年間の事前予測値である。

先行系列では実績が事前予測を大きく下回ったのに対して、一致系列では(弱含みではあるものの)なだらかな低下と予測されていた経路よりはむしろ上振れ気味に推移したことがわかる。このことは、現時点においてさえも、企業経営者の景気観が意外に明るいこととも符合している。

しかしながら、株価や商品市況、長短金利スプレッドなど10以上の経済データを総合した先行系列が継続的に低下すれば、やがて生産・販売にも影響が現れるというのが経験則である。先行系列の急低下は今後の景気を占ううえでの懸念材料になる。

昨日、公表された8月分速報も含めて、今後の国内景気はどう変化していくのだろうか?
あまり良くない。


確かに今夏の世界的な株価波乱は想定外であった。とはいえ、想定外のノイズだったから、世界経済は元の回復軌道に早晩復帰するだろうとは、言えなくなったようである。

足元の景気は決して良い方向には向かっていない。その確率が高くなってきた。ま、株を買うなら良いチャンスがめぐってきそうである。

内閣府の見方は少し甘い。政治的脚色が混じっているのではないか。




2015年10月5日月曜日

米豪間の「玉虫色」の決着

TPPは、どたん場で共同声明まで出せる雰囲気になってきた。というより、相互の妥協がなければまとまるはずもないし、早々の妥協をする権限などはどの国の交渉者にも与えられておらず、全ての交渉者にとってしなければならないことは、時間的デッドラインが来るまで、ギリギリまで、体力のもつ限り、徹夜の連続で交渉を続ける姿勢を見せることであった。

結論として、TPP決裂で幕を閉じ、今後は数年間のオーダーで漂流を続けるなどという選択は、国連ではあるまいし、アメリカ、その他のアングロサクソン諸国が主導する国際交渉において、とれるはずもない結果である。

ま、言ってしまえば「出来レース」であったのだな、当然のこと。

ただ、義務としてまとめにゃならんとなれば、最後は「玉虫色の決着」にはならざるを得ないわけであり、こんなツイートが届いている。Wall Street Journalからである。


日本的村社会の十八番であるのだが、共同利益を求める同調ゲーム的集団においては、「同調への圧力」が働く以上、とにかくまとめるための技術、つまりは「玉虫色の決着」が大事な調整スキルとなるのだ。

論理的な必要から生まれる決着のさせ方であるのだから、それは普遍的であり、正に戦術なのであり、どこにでも応用できる技術である。そういうことである。

ただ言語の特性として、日本語は曖昧模糊として、どうにでも解釈できる文章表現が自然に書けるのだが、英語にそんなモヤモヤした文章が書けるだろうか・・・・・・。まあ、書けるか、・・・少なくとも多民族を包括していたイギリス人ならその辺はうまいそうだ。いないけどね、イギリス人は。

2015年10月4日日曜日

人手不足 ― いよいよ日本経済も進歩の時代を迎えたか

OECDのTweetが届いた。
Sorry, robots - growth is greatest in jobs that require strong skills



昨日は、ビジネススクールの卒年次生が取り組むビジネスプランニングの一環でグループワークがあったので、モニターしてきた。

以前はWEBビジネスが流行り、この数年はシルバービジネスが多かったものだが、昨日聞いた範囲では人材トレーニング、それもコミュニケーション能力やリーダーシップに重点をおいた人材研修サービスの企画に関心が集まっているようだ。

社会的スキルが今後のビジネスマンには求められる。そういう仕事が増えるということだ。つまりロボットでは難しい仕事をヒトがする。そういう潮流がある。

専門的業務でもルーティンワークは既に人工知能やロボットによって代替されつつあるのが現実である。OECDのツイートもそれを裏書きするような報告だった。

機械で代替できる仕事なら、ヒトを充てる必要はない。現代社会において、相対的に高価な生産要素とは、ヒトである。育成コストがかかる。今後、高価な生産要素であるヒトを節約するための技術進歩が大いに進むだろう。仕事の数は減るかもしれないが、これは実に合理的な企業努力である。

☓ ☓ ☓

旧聞に属するが、日本国内の労働市場でも有効求人倍率が歴史的な高水準に高止まりしそうな状況になっている。
厚生労働省が28日発表した7月の有効求人倍率(季節調整値)は前月比0.02ポイント上昇の1.21倍と、1992年2月(1.22倍)以来、23年5カ月ぶりの高い水準だった。改善は2カ月ぶり。QUICKがまとめた民間予測の中央値(1.19倍)を上回った。医療や宿泊・飲食業などを中心に求人数の増加傾向が続いている。厚労省は「求人数が高止まりし、求職者数が減少していく状況は続きそうだ」としている。
(出所)日本経済新聞、2015年8月28日

労働市場の需要超過は、実質賃金の高止まりとして帰結する。その結果として、今後の日本社会では労働節約的な技術進歩が加速される。

ロボット産業の拡大と低コスト化、価格低下が進み、それが結果として社会をより豊かにしていくだろう。

古いタイプの仕事を探している人はますます見つからなくなるだろう。仕事は、その社会の、その時代に合ったものを探すしかない。政府は、時代に逆行するのでなく、多くの人が時代に追いつけるように支援をするのでなければ、うまく行かない。

経済のサービス化が進みながら、サービス業に従事する雇用者の賃金が非正規労働者への代替によって、あるいは一部の分野では政策的に、低めに抑えられてきた。それが長いデフレーションの背景にもなってきたのだな。

人件費の圧力を緩和する方法が企業に与えられてきたわけであり、それが生産現場、販売現場において最先端技術を活用した効率化がいま一つ進まない原因にもなっていた ― ビッグデータの活用に国内企業がいま一つ疑がわしい眼差しを向けているのも一例だ。そんな惰性が、賃金上昇によって一掃されることが、進歩のためには望ましい。

どうやら、日本経済の新たな「転型期」、というか変化の局面にさしかかっている。





2015年10月2日金曜日

想定外=ノイズとは限らない

将来予測の世界では、半世紀も前にBox-Jenkinsによって提案されたARIMAモデルが未だに現役で常用されている。

最初にボックス・ジェンキンズ流の「予測術」を勉強した時、予測誤差はホワイトノイズであらねばならないし、それ故に推定した結果として残る予測誤差がランダムになっていなければ、モデルを改善する余地がある。そんな発想がどうにもピンと来なかったものである。

何しろ、その頃は大規模マクロ計量経済モデルが「大鑑巨砲主義」よろしく全盛を極めていて、そのマクロモデルを構成する一本一本の構造方程式を立てるにあたっては、残差項のダイナミックな特性、つまりは系列相関をどう想定するかが大きなカギだったのである。

そんな作業プリンシプルに慣れ親しんだ身としては、残差項が予測誤差になるわけであるし、これは当然にホワイトノイズのはずである。そう来られると、思わず「違うでしょう」となったわけだ。

もちろん今では「当たり前のことである」という位には理解ができている。とはいえ、予測誤差、つまりノイズはつまらない一過性の要因に基づくものと決めつけるわけにはいかない。

ドイツのIFOからメールマガジンが届いた。


概要説明は以下のようになっている。
Der ifo Geschäftsklimaindex für die gewerbliche Wirtschaft Deutschlands ist im August auf 108,3 Punkte gestiegen, von 108,0 im Vormonat. Die Zufriedenheit mit der aktuellen Lage hat nochmals deutlich zugenommen. Die Unternehmen äußerten sich jedoch etwas weniger optimistisch mit Blick auf den weiteren Geschäftsverlauf. Die deutsche Wirtschaft bleibt ein Fels in der weltwirtschaftlichen Brandung.
(出所)上と同じ

ドイツ経済の回復基調は極めて堅調である。そうみている。但し、8月までの数字では・・・

実は、日本経済についても初夏の時点で景気動向指数の6月速報が内閣府から公表され、特に先行指数が事前予測を上回った数字であったことから、「停滞なるも先行き改善の気配ありで末吉」と書いた記憶がある。

しかしその後、中国株式市場を襲った突然の波乱で日本もパニックとはいかないまでも、秋が深まるにつれて、やはり景気は当面停滞かという状況になってきた。

上のドイツのデータはあくまでも8月時点の判断だ。突然降ってわいたような「VWスキャンダル」がドイツ経済にどの程度までネガティブな影響を与えるかはまだ誰も知らない。

予想もしなかった要因は「ブラックスワン」と呼ばれている。確かにそれはノイズであり、予測誤差をもたらす要因であるのだが、だからと言って一過性の雑音であるとは限らない。

経済の進展にはあらかじめ決まった発展経路がある。そんな(ある意味で)定常的な性質などはないと考えるのが、最近の経済観である。

だとすれば、歴史は経済から決まってくる側面が強く、その経済は白い白鳥ではなく、予想もしない悪役のブラックスワンが決めるということになるので、結局は時折天から舞い降りるブラックスワンが歴史を決めてきた。舞い降りるブラックスワンが多い時代は荒れた時代であり、比較的少ない時代は平穏な時代である。何事もめぐり合わせだネエ・・・そんな風にも言えることになるか・・・・・・。

こんな歴史観は何という名の見方でありましょう?

2015年10月1日木曜日

昨日のニッカ余市蒸溜所

先日は、四国・松山で暮らす年下の義理の姉と東京で合流したことを記した。昨日は、その義姉の息子が小生の住む町にやってきたので、ニッカ余市蒸溜所に行ってきた。簡単にいえば、甥になるのだが、いまのところ松山市内の某総合病院の「研修一年目」に在籍し、医師の修業をやっている。義姉にとっては自慢の息子だ。

昼前にきたので、まず漁港近くにある青塚食堂に行った。名物はニシンの焼き魚定食であるのだが、遠方から来てニシンをつつくことはあるまい。旬でもない。で、ウニイクラ丼を注文し、併せて焼きホタテ、焼き北寄、刺身盛り合わせを頼む。八角は品切れ、タラバ蟹はないとのことだ

マア、旨かったのだがウニは旬をすぎ、イクラはこれから美味になる端境期にあたるためか、それとも余りの客数で上質の食材が整わないためなのか、決して90点以上の出来栄えではないと感じた。

× × ×

余市蒸溜所のホームページをみると、こう書いている。
本日は通常通り営業しております。 余市蒸溜所の駐車場は大変混雑しております。ご来場の際は公共交通機関のご利用にご協力下さい。 工場内のロッカーの数に限りがありますので大きいお荷物のお持込はご遠慮ください。 【年末年始休業日】 2015年12月25日~2016年1月7日
駐車できるかどうか心配だったので、正面玄関近くの町営駐車場に停めることにする。が、着くと意外に空いている。『これならニッカの駐車場にも停めれたなあ・・・』と、そんな話をしながら構内をブラブラと歩く。昨年の初夏にも訪れたことがあるが、その時はマッサンの放映直前でかなりの話題になっていた。放映が終わってからも、観光客の勢いは衰えていないと聞いていたが、さほどではないようだ。

試飲室の混み具合もそれ程ではない。

外国人観光客が明らかに増えている。ツアー客である。ツアー旅行の目的地にニッカ蒸溜所が組み込まれてきたと推測される。

昨年度の予測計算では、放映終了ともにプラス効果は消失すると前提する低位予測、これまでの増加テンポが放映終了後も継続するという高位予測、放映中のプラス効果を固定的なものと考え、1年程度はその効果が持続すると考える中位予測の3通りの計算をした。聞けば、春先いらいの観光客数は中位予測を超え、むしろ高位予測に近い数字が出ていたそうだが、昨日再訪した状況を観察するに、これから勢いは鈍るのではないか、ただ札幌から旭川に回る観光客が減って、余市方面に回るツアー客が増えているという情報もあり、最終的にどうなっていくかまだ分からない。

ま、どちらにしてもドラマにせよ、映画にせよ、舞台になったことのプラス効果は一過的なものだと思っている。

× × ×

帰ってきて町の背後にある山に登ってから、拙宅に帰り、あとはワインやウイスキーを飲み比べる。

甥は、一人で飲むことはなく、ウイスキーは水割りしか飲んだことがなく、まずい酒だと思っていたとは話していたが、いざストレートグラスについで飲ませてみると、「竹鶴17年」のほうが「余市シングルモルト」よりは美味いと言い、ビート臭がきつくて正露丸のようにも感じられるスコッチの "Bowmore" のほうが「余市シングルモルト」以上だという。

フ~ム、余市シングルモルトはそれほどでもないか・・・。

「竹鶴17年」と「竹鶴21年」は、文字通り、ニッカの二枚看板だが、最近は手に入りづらい。余市蒸溜所の試飲室でも、出しているのは「竹鶴ピュアモルト」と「スーパーニッカ」になってしまっていた。Amazonではまだ品切れになっていないようだが、いずれ近いうちに在庫切れになるだろう。

それで小生の暮らす街でも、外観を新たにした「余市シングルモルト」や「宮城峡シングルモルト」が並び始めているのだが、あの匂いのきついボウモアのほうが美味いと言われては、ニッカにとって一寸厄介かもしれない。

ウイスキーが売れるのは嬉しいに違いないだろうが、継続的に良い商品は供給できるのだろうか。美味い酒は直ぐには増産できない。これから何を売るのだろう。

× × ×

夕食は町中のCafe P亭にてとる。

「北インド風カレー」はスープカレーではないが、相変わらず美味である。コーヒーの味もまったく落ちてはいない。

ウイスキーという酒が、食事中、食前、食後を問わない、一緒に何を食べているかにも影響されない、それでいて満腹にならず、少量でいい気分になり、しかも後に残らない、そんな酒であることはよく分かったそうで、松山に帰ってからの研究テーマが一つできた様子である。


小生の腹の調子は今一つだったが、甥は満足して、宿泊先のホテルで友人と待ち合わせているというのでJRで帰って行った。