2015年1月25日日曜日

歴史の表裏: 災い転じて福となるものか

昨日は卒年次生による最終発表会があり、小生も一部のセッションで司会をやったり、あとは最後部に座って採点員を勤めたりした。毎年の行事とはいえ、午前から夕刻までずっとやっていると、甚だ疲れる。帰途、カミさんに頼まれたので、サフのドライイースト赤ラベル、それから道内産100%の強力粉5Kgを買う。重い。イーストは3g×50で千円。安い。

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何日か前、仕事の帰りに同僚と地下街でベルギー麦酒を飲んだ時に話したのだが、日本が犯した愚行の代表例「神風特別攻撃」も、70年後の今日では日本の資源になって働いている。もちろん客観的には、これ以上ない程の愚かな戦術であったのは確かだが、愚かであるのは戦術理論から言えばである。暴動も革命も起こさずに窮極の愚行を整然と実行できる国民であることを立証できたこと自体、世界が日本をみる見方を決める素材になっている。ある面、有意味な愚行だった。そういう議論もあるという話しだった。

ゲーム論でいう限定合理性の議論になるのだが、ま、要するに常に理性的かつ賢明な行動をとる人は創業者にはなれない。そんな話しである。

「特攻」が日本の資源になっているというなら、アメリカが日本に投下した二発の「原爆」も(ある意味で)アメリカの政治資源になっているだろう。また「戦後」になって日本の社会改造にコミットした事実もアメリカの資源であるだろう。もしもアメリカが、戦後になって連合国相互の合意を重視しながら対敵国政策を実行していれば、現在に生きる日本人の対米意識はまったく別であったに違いない。

もしも朝鮮戦争で米軍5万の血の犠牲がなければ、ベトナム戦争で韓国が数万の援軍を派遣し、その10%の損耗を甘受することはなかったはずである。

戦争は国家間の紛争を解決する政治手段としては、やはり愚かな選択であり、第一次世界大戦はそれを証明した。この認識はまだ現時点でも有効で、これ以外にほかのどんな事実が人類にとって大切な知識であるのだろうか。

とはいえ、戦争が愚かであるにしても、というか愚かであるが故に、武力の行使をためらわない人間集団は自分の主張を認めさせる力を持ちうる。いま抑圧されるにしても、やらないよりは、やる方が正しい。旧幕・日本の一揆の論理はこれなのだが、これまた真理であって、福沢諭吉が『学問のすすめ』でいうマルチルドムも同じである。『一粒の麦もし死なずば』の論理でもあって、これは洋の東西を問わない。
 このように世を憂えて身を苦しめ命を落とす者を、西洋の言葉で「マルチルドム(martyrdom:殉教者)」と言う。この第三策で失うのはただ一人の身であるのだけど、その効能は、千万人を殺し千万両を費やすような内乱の戦よりも、はるかに優れている。
(出所)「学問のすすめ」現代語訳

もちろん福沢は、こういう行動原理もまた窮極的には馬鹿な考えであると一刀両断している。
 古来から日本では、討ち死にする者も多く切腹する者も多い、それらの人は皆忠臣や義士であるとして評判は高いのであるけれども、その身を棄てた理由を尋ねてみると、多くは政権争いの戦に関係しているか、または主人のかたき討ちをすることで華々しく一命を投げ打つものである。その形は確かに美しいのであるけれども、実益が世の中にあるかと言えばそうではない。

 自分の主人のためと言い、自分の主人に申し訳ないとして、ただ一命を投げ捨てればそれで良いと思うのは、不文不明の世の常ではあるけど、今の文明の大義でこれを論ずるならば、これらの人はいまだに命の棄てどころを知らない者と言うべきである。
(出所)上と同じ

要するに、自分限り、仲間限りの永年の鬱憤は晴れるかもしれないが、ただそれだけのこと、世界の進歩、人類の幸福とは関係のない勝手な行動だ。論ずるに足りないことである。そう言っている。

まあ、福沢はモラル、モラルで世界がどうなるものではあるまい、と。そんな観点から議論をする傾向があるので、上のような意見は自然なのであるが、やはり人間はソーシャル・メカニズムの支配下にあるにしても、個々の場においてはモラルに従った美しい行動をしたい。そう願うのが普通の人間だろう。たとえ仲間限りの意地だとしても、武門の名誉にかけて立ち上がる人を、親しい人はそれなりに喝采するものである。ヒーローになりたい人、目立つことが好きな人間は、喝采は常に心地よいものである。

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