2015年1月8日木曜日

「教育機会の平等」が最重要とは分かっているが

本日の地元紙の社説は「教育格差」の拡大への懸念である。

具体的には「小中一貫校」の制度化で、これ自体について反対することは難しいものの、財政が潤沢な大都市に偏って設立される、その結果、教育の機会均等が損なわれるのではないか。そんな心配である。これは実にもっともな指摘だと思う。義務教育は、機会均等の基盤であり、この理念と矛盾した教育政策はそれこそ「違憲状態」にあたると思うのだ、な。

ただ、こんなことも書かれてある。

制度化が、学習内容の前倒しや学習速度による子供の選別に拍車をかけないか、心配だ。
授業についていけない子を増やす結果を招かぬよう、文科省には細やかな対応を求めたい。
小生の本務である統計教育では、「ゼロから学ぶ」が基本原則なのだが、履修者の間には相当の知識格差がある。そもそも理系の頭脳は文系の頭脳よりも統計分析を速やかに理解するものだ。この点は、どんな方式で授業を展開しても同じだろう。ボトムに合わせて授業を進めると、理解の速い履修者は必ず不満をもつ。『お互いに教えあって、同じスピードで同じ知識を吸収していくように努力するべきだ」という理念は、授業の現場では中々実行困難なのだ。小中学校の初等教育と専門教育とは違うと反論されそうだが、多人数のクラスを相手に授業をするなら同じである。

それ故、「授業についていけない子」が増えている現実を心配するのなら、学習速度によって子供たちを区別しなければならない。これが当たり前のロジックだろうと思うのだ。

もちろん(当然のことだが)、クラスの全員がよく授業を理解して、みんなが一定の知識・技能を習得することの方を重要視するか、それとは別に授業に参加した履修者一人一人が高い満足をもって自己の知識能力の向上を自覚する、こちらのほうが重要だと考えるか。この二つのいずれが大切か。それは、その教育システムの中で何を目的にしているのか。教育の目的に依存する。

個人的には、初等教育の目的は子供一人一人が「自己表現」を知る。自分の「居場所」を知る。これ以外に他に何がある、と。そう思っている。ま、あくまで個人的な考えだ。

本日の道新の社説を読んでいて、違和感というか「どうも解せん」という感覚を覚えたのは、『何のために日本の初等教育をするべきだと言うつもりですか?』と、そこが分からなかったからだ。「いろいろな目的がありますよね」では、いかんと思うのだね。最も大事な目的が公教育にはあるはずだ。『あなた、それ、どう考えるねん?』、そういう問いかけである。

授業についていけないのは理解不十分な子を選別しないからである。選別するというのは、違ったことをやるということだ。同じように理解せよと求めておいて、その結果が悪いと差別するなら、非人間的である。等しく扱うという原則を守るあまり、理解不十分なまま放置され、その状態で進級していくという現状は、極めてアンフェア、というか偽善的・不誠実であり、現場の教員のモラルを甚だしく傷つけている。小生はそう思っている。

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