2015年1月9日金曜日

「報道の自由」は揶揄・からかい・侮蔑の自由とは違うはずだ

事件が起きてから時間が経過しているが、TVのワイドショーではイスラム過激派によるパリ"Charlie Hebdo"編集部銃撃事件が話題になっている。

実に無慈悲でおぞましい事件だ。そして犯行者達には「報道の自由」、「表現の自由」を踏みにじる暴力であるとの非難が集中している。

しかし、これを以て世界の十数億人のイスラム信徒への憎悪が高まるとすれば、とんでもない過ちだと思われる。

いわゆる「報道」をめぐるこの種の事件が起きるたびに感じることは、「報道」とは社会が必要としている情報を提供する行為なのか、結局はパチンコや雀荘のようなエンターテインメントを提供する行為なのか、どちらに近い行為なのかという疑問である。すべてを「報道」という単一の名詞にくくって良いのだろうか。個人的には、小生、「報道の自由」は自国であれ他国であれ国家権力に立ち向かう時にこそ口に出来る言葉であると思っている。

報道をつぶさに観察すると、要するに多数が何人かの人を話題にすることが多い。時には、面白く、また可笑しく、その時の話しのネタにする。そもそもそんな側面がなければ、ビジネスとしての報道は成立しないのじゃあないか。こんな感想を頻繁にもっている。だとすれば、多人数の人間が少数の人間を揶揄したり、からかったりする言動も、時に「表現の自由」という美名の下で何ら問題とされない。こんな状態もありうるわけである。

ま、今回のパリ銃撃事件がこんな例に該当すると言うつもりはないが、たとえば権力をバックにして仕事をする公務員には「公務員倫理規定」がある。同じようにジャーナリストにも「報道倫理」がある。たとえばボルドー宣言が具体例である。そこでは、論評の自由とともに中傷・名誉毀損の排除が挙げられている。社会的な力を有する者が絶対的な自由を得れば必ず堕落する。故に倫理規定が不可欠で、規定に反する者は懲戒することが求められるのである。その懲戒は確かに担保されているのだろうか。

「イワシの頭も信心から」という格言がある。原始宗教が現代医学の活用を妨げている社会があれば、遅れた社会を啓蒙する行為も必要であろう。人の生命を救うからである。命を救いたいという意志は結局はその遅れた社会にも理解されるだろう。しかし、そこで口にする言葉に侮蔑やからかいが混じれば、相手は憤激するであろうし、自分たちが攻撃されていると認識すれば反撃もするであろう。そう考えたりもするのだな。

『表現の自由』、『報道の自由』には、極めて高いモラルと博愛の精神が裏付けとしてなければ全ては偽善になる。そう思っているのだ。




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