2015年2月26日木曜日

こんな会話もある: 理想とリスク

こんど東京へ墓参にいく。カミさんも(珍しく)一緒に行く。これから、二人とも元気なうちは、こんなことが増えてくるだろう。

東京で愚息にあって食事をする予定だ。「食事」というと「空いてるよ」という、そうカミさんは言っていた。

こんな会話もあるかもしれない。
小生: 最初に自分に課した原理原則は「間違いのないようにやっていきたい」、そうだったな。これは正しいと俺も思うぞ。で、次だ。どんな風になっていきたいんだ?
愚息: 地位があがっていくのは結果なんだろうね。そうだなあ…
小生: ほしいのは名誉か、富か?普通はそう答える。
愚息: それは、どちらも違うと思う。
小生: 西郷隆盛は「カネもいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ、そんな人間は始末に困る」と語っていたらしいな。
カミさん: じゃあ何を求めていたの?
小生: その時点では「倒幕」なんだろうねえ・・・。なぜそれが目的だったのかは、本人に聞かないと分からんけどね。「なぜ」はともかく、カネもいらん、命もいらん、ただ目的を達成したいというのは、そりゃあ危険人物だろうよ。
カミさん: テロリストじゃないの?
小生: (愚息に向かって)なぜそんな人物が怖いのか?その本質的理由はなんだと思う。
愚息: どんな犠牲を払ってでも目的を達するという生き方なんじゃない。
小生: だいぶ分かってきたようだなあ。犠牲を考えないということは、損得計算をしない。目的を絶対の正義と見る。そういうことなんだよな。経済学ではナ、うまくいかないかもしれない、損になるかもしれないというリスクを避けようと言う人を「危険回避者(Risk Averter)」、リスクがあるからこそ楽しいという人を「危険愛好者(Risk Seeker)」と言ってるんだ。どちらでもなければ、その人は危険中立的(Risk Neutral)で、これはリスクの大小によって判断を変えない人たちだね。西郷隆盛は、危険のあるなしで自分の志を変えないわけだから、危険中立的である理屈になるのだけれど、そもそも命もいらないと言ってるから、その立場は「リスク無視者(Risk Negator)」。合理的な「経済人(Homo Economicus)」というより、吉田松陰のいう「ついに人間、狂に至る」の「狂人(Mad Activist)」であろうとする態度とも言えるわけだね。
カミさん: 危険な人物というなら、危険愛好者がもっと怖いんじゃないの?
小生: 『人生意気に感ず、功名誰かまた論ぜん』というのは、危険を伴う高邁な理想に共感したら、危険であれば危険であるほどヤル気が出てくる。そんな心境を言ったのだろうね。秦の始皇帝の暗殺を引き受けた燕の荊軻はそんな境地だったかもしれないな。ま、これこそテロリズムと言えば、そうなんだけどね。利益計算をする人は、必ずリスク評価をするものだし、となると危険の大小によっては目的を諦めて断念するからね。そんなキョロマには大事は託せん、と。昔はこんな議論が多かったのだろうな。
愚息: 出発点が正しくて、選ぶ目的が正しければ、どんな危険があっても危険を顧みるな。そういうこと?
小生: 『任重くして、道遠し』って前に言ったのはそれさ。お前のお祖父ちゃんが好きだった『敵百万人ありとても我行かん』も同じだな。西郷隆盛もそういう人間だったってことだよ。ま、維新、創業とか、革命というのは、そんな姿勢が大事かもしれんね。
まったく非合理的な会話である。学会であった時になされるような会話ではない。理詰めの会話ではない。しかしながら、話していて面白いだろうなあと思う、そんなやりとりでもあると思う。ロジックに魅力を感じるのでないとすれば、どこに魅力、というかプラスの要素を含んだ会話なのだろう?この答えは意外と明らかではないのではないか。そう思う。

いわゆる「論理」だけから社会にとって重要な結論が得られるわけではない。 科学が事実と論理から構成されるのだとすれば、社会科学のみから社会にとって重要な命題が得られるわけではない。そう言っても可であろう。


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