2015年2月3日火曜日

勝手気ままな「解釈改憲」論争 ― これもありなのか?

憲法は国会が決めるものではない。国会は発議権を持つだけであり、是非を決めるのは国民である。そう規定されている。

国会が決めることが出来るのは法律である。法律は憲法と矛盾していてはならないし、もし違憲の可能性がある場合は、裁判所が違憲判決を下すことができる。

この位は三権分立を勉強した人なら誰でも知っている常識だろう。

行政府も法案を国会に提案することが多い。その法案が憲法ならびに法体系全体と矛盾していないかどうか。その審査は内閣法制局が行う。故に、法制局もまた憲法をどう解釈するか、あらかじめ統一しておく必要がある。解釈を変更すれば、昨日までは通らなかった法案が、今日は通るということになる。これが世情を賑わせている「解釈改憲」である。

あたかも憲法が改正されたかのような外観を見せるのだが、法制局は「内閣法制局」であり、内閣の一部局である。政権交代があれば、内閣の方針が変わる以上、法制局の基本見解も変更される可能性は理屈上ある。というより、そんな事態があらかじめ制度の中に織り込まれていると考えるほうが理に適っている。ともかく、法制局は内閣にあり、最高裁の一部局ではないのだ。

選挙を通じて、その時点、時点の国民の意志が反映されやすい内閣の一部局に憲法の解釈機能を与えてきたのは、憲法の文言は同じままで、変化する現実に対応するため最大の裁量範囲を行政府に与える。法案を裁判所が審査するより、法制局に審査権を与えているのは、そのほうが良いと制度設立時に考えたからであろう。

調べてないので本当のところは知らない。想像しているだけである。

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だから「解釈改憲」は、表現としていいか悪いか言葉の問題はさておき、内閣がなしうる行為である。他方、一般国民は法に従う義務があり、その法律は既存の憲法に従うのであるから、国民投票で改憲が実施されない限り、勝手気ままに憲法を解釈する権利は存在しない。

本日の道新にこんな社説がある。
過激派「イスラム国」による邦人人質事件を受け、安倍晋三首相が自衛隊による邦人救出を含む安全保障法制に前のめりな姿勢を強めている。
 きのうの参院予算委員会で、集団的自衛権の行使を容認した昨年7月の閣議決定に基づく法整備にあらためて意欲を示した。
 だが政府が目指す安保法制は、いずれも海外での武力行使を禁じた憲法9条に抵触する恐れが極めて強く、到底認められない。
(出所)北海道新聞、2015年2月3日

「海外での武力行使を禁じた憲法9条」とあるが、憲法9条の文言は以下のようである。
  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
主語と述語を反対にすれば、放棄されているのは国権に基づいて「戦争」、「武力による威嚇、行使」によって国際紛争を解決しようとする行為である。

そもそも「国際紛争」というのは、"Conflicts between nations"だから、自称"国家"でしかない犯罪者集団「イスラム国」と周辺治安部隊との衝突が「国際紛争」になるのかどうか怪しいものである。「国際紛争」でないとすれば別に9条で禁じられているわけでもあるまい。と、まあ山勘としては感じたりするのだが、今日の話題はそれとは違う。

上の文章は正しくない。海外での武力行使は禁ずるなどとは規定されていない……。もしそう規定されているなら、国内では行使しても良いことになる―それこそ自衛活動にもなる。であれば、北方4島は今もって日本の領土と認識しているし、尖閣諸島、竹島もまた日本領土のはずである。そこでなら、武力を行使しても良いという理屈になる。

危ないねえ・・・。そう思いました。

確かに安倍内閣は憲法解釈を変更した。その変更によって内閣法制局の審査方針は変わるはずだ。従来の内閣であれば提案されないはずの法案が提案されることにもなろう。しかし、それは内閣に与えられた権限だと小生は思うのだな―というより、事実そうなっているはずだ。

であるからと言って、「私だって思うんだけど、憲法の意味はこうなんだよね」と。これはあくまで私見である。マスメディアや有識者が自由気ままに発言する。まあ、表現や思想は自由ではあるが、私案が何か一定の信認までも獲得して社会で承認されたりするのは、法治国家である日本社会の液状化現象と見るべきだ。そう思っているのだな。

それより、小生が気になるのは第2項の方。「戦力」を保持することによって「交戦」することができる。これが論理である。ところが、現に「戦力」は持たないと言っておいて、自衛隊は存在するのだから、自衛隊は憲法のいう「戦力」ではないというロジックになる。だから自衛隊の活動は「交戦」ではない。日本防衛に必要ある場合、「交戦」をするのは同盟国・米国の軍隊である。これが論理ってものではないのかねえ・・・。
ひとり言: そもそも「交戦」とはどんな状態か?「鎮圧」とは「交戦」なのか?「鎮圧」と「戦闘」とは違うのじゃないか、等々。経済政策にも神学論争があるように、武器の使用を伴う公務一般にも神学論争があるだろう。

だから、上の道新の社説は二重の意味で極めてノー天気な文章だと。そう思うのだな。大体、海外で行使しうる-行使すれば違憲にもなるような-武力を日本が保持していると認識する以上、その武力は最初から憲法9条2項に違反していると認識するべきだ。なぜそう考えて、自衛隊という存在そのものを違憲と糾弾しないのか?

ひとり言: 自衛権のために保持する武力は9条2項でいう「戦力」には該当しないのだ、と。多分、そんな考え方が大方なのだろうと思うのだが、「戦力」ではないと認識する以上、「交戦」を考えるのは矛盾である。日本国籍の船舶を自衛隊が護衛するとしても、それは自衛権であって、「交戦」にはなりえない。こんな神学論争が、「パンドラの箱」にならないことを祈る。
良識派であると自己認識するなら、理路一貫して堂々と論陣を張ってほしいものである。グダグダはいかんと思う。

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