2015年3月30日月曜日

私感: 大塚家具騒動

事業継承の困難を示す象徴になったのが大塚家具のお家騒動である。

おそらく家族・親子・兄弟間で複雑な葛藤がこれまでにもあったのだろうが、調べる気もないし、そもそも当人でないと分からない感情があるものだ。

ただ再建は難しいだろうなあと思う。

今後は中価格帯市場に参入するというから、価格はほどほどにボリュームを出すスタイルに移行しようと考えているのだろう。しかし、この市場はニトリが強化しようとしているターゲット市場であり、IKEAとの競争激化がますます進むであろう市場でもある。競争回避がビジネスの原則であるのに、わざわざそこに飛び込むのは愚策である。

もともと高価格を維持できる商品を値下げして販売するのなら、これは自殺行為にほかならないから、実質的にはブランド価値のある高品質商品を(実質)値下げして販売する戦略なのであろう。そうとも思われるのだな。

もしそうならば、確かに客は大塚家具の高品質商品を買うかもしれないが、高コスト商品を低価格で販売する戦術は収益が犠牲になるので持続可能ではない。約束した高配当は不可能となり、株主は離れるだろう。

創業以来のビジネススタイルは、確かに顧客の高齢化、若年層世代取り込みの弱さという問題があった。このままでは確かに持続困難であった。であれば、解決するべき経営上の問題を解決していけばよかった。良い物を高価格で売る店は今後将来もあってよい。おそらく大塚家具という企業が生き残る有望な戦略はここにあったと小生は思うが、今はどうなるかは分からない。

戦略変更は予想以上によほど至難の技である。それは説得性のある新たな理念に裏打ちされていなければならず、社内の価値観を変えなければ決して定着しない。「利益を出す」だけでは人はついてこない。実績があるならまだしも、世襲でトップの座を継承した親族に伝統的な価値基準を革新するのは土台無理なのではないか。

同社の将来は明るくはないと予想しておく。

2015年3月29日日曜日

「データ分析」の境界はどこなのか?

「データ分析」と言えば、普通は統計学を教えればよい。そう思ってずっとやってきた。ところが、(特に)ビジネススクールにおいては、それでは駄目なのだ。

たとえばQC(=品質管理)と言えば、戦後アメリカが世界に輸出した技術の中で最も成功したものの一つだ。「QC七つ道具」を基礎づけるために戦後の統計教育の骨格が定まった。そういってもよいくらいだ。その要点は、一言でいえば「標本誤差」と「有意性」にある。この点は、単純な一変量の母平均検定でも二標本問題でも、回帰分析でも変わらない。

しかし、QC七つ道具の中で最も大事な道具は、実は統計学とは関係がない「特性要因図」である。統計分析サイクルはいまでもPPDAC。つまりProblem→Plan→Data→Analysis→Conclusionだが、最初にどんな問題発見からスタートするかが、実は一番大事なのだ、な。これは現にやっていることの実態から定まってくる話しだから、(普通の解釈では)統計学プロパーには属さないし、問題発見の方法を解説する統計学の授業はないはずだ。しかし、意味のある統計分析を行うのに、何を知りたいかを自覚するのは当然の前提だ。問題を明確化するステップ。それが特性要因図である。

ま、QCはこんな風に成功し、組織に浸透し、社会でも制度化されてきた。

データマイニング、ビッグデータ分析が進みつつある現在、QCにはおさまらない統計技術が進化している。ここでもPPDACは大事だ。

一体、ビッグデータから何を知りたいのか。これまでは本質的に分からなかったことが分かるのがビッグデータなのか?これまでも分かっていたことが、より安く、効率的に分かるようになったのがビッグデータなのか?

最近の流行に従って、主成分分析から樹形モデルまでをやるつもりだが、どんな問題を解決するツールとして修得するのか?ツールとして最も効率的な方法を提供していることになるのか?

まだよく分からない。

テキストごとに内容がひどく違っているのは、分からない専門家が多い証拠だろう。「統計学」のテキストはどれも同じだ。しかし、データ分析は統計学だけでは知識不足になる。統計学ではないことも統計分析の授業で解説する。それが非常に重要になってきている。そんな時代なのだろう。

2015年3月27日金曜日

株価のアノマリー健在?それとも成長率の鈍化?

『節分天井、彼岸底』と言えば兜町の格言だ。ところが、下がって当然のはずの日経平均が春彼岸を迎えても下がる気配がなかったので今年は特別か、と。そんな風に首をかしげる向きも多かった。ところが、この二、三日、調子が悪くなった。やはり彼岸底というアノマリーは健在であったか・・・。ま、日経平均は相当の高値圏にあったので下がるタイミングだったともいえる — 小生がそう思うくらいだから、やはり売る人も増えるのだな。


 Source: Yahoo! ファイナンス

下がる背景としては、例によって米株の低下が挙げられているようだ。確かに、AmazonもFacebookも最近小さいピークを作った後、冴えない動きが続いている—それでも一年前と比べれば両方とも2割程度の上昇となっているのだが。

★ ★ ★

久しぶりにOECDの先行指標(Composite Leading Indicator)を見てみると、日本はまだしも、特にアメリカ、中国の景況悪化が明瞭である。



アメリカは2014-Q4の実質GDP成長率が堅調だった前2四半期のあとやや鈍化した。その反映かねえ・・・いやいや、消費者物価指数も前年比で1月はマイナス、2月もマイナスとなり、これが続けばデフレである。10年もの国債利回りも2%未満の低レベルにある。ただ完全失業率は2月は5.5%で、リーマン危機直後の2009年秋からずっと改善傾向にある。非農業雇用者数の増加ペースにも大きな変化はない。遅行性があるものの雇用状態が悪化しているわけではない。



根本的にはやはり石油価格だろう。エネルギー価格低下は、これまでアメリカ経済全体にとってプラスに働いてきたが、低下速度が速すぎれば、価格体系に歪みが生じ、それが生産再調整を引き起こして、生産全体にとってマイナス要因になりうる。今回の成長率低下は、1970年代のOPECによる政治的な石油価格支配、21世紀初頭の中東政治不安に由来する石油価格高止まりとは一味違って、シェールオイル革命とロシア経済制裁、これにサウジアラビアなど中東産油国による価格戦略ミスが加わった石油価格のミスアラインメント。つまりは市場の価格調整メカニズム不全症。その状態が持続すると予想した各主体の行動変化。一昔前によくあった主要通貨のミスアラインメントと相通じる価格問題なのだとみる。

価格のミスアラインメントであれば、いずれ再調整される可能性が高い。近いうちに石油価格の再上昇があると予想しておく。


2015年3月26日木曜日

今期のドラマ:エンターテインメントは何のためにあるか?

こんな文章を見つけた。前半分は省略している。
○「視聴者を裏切りたい」脚本家心理 
しかし、脚本家にしてみれば、「そういうわけにはいかない」というのが本音だ。基本的に脚本家が書いているのは「人間ドラマ」であり、その軸となるのは人間の業や本質。『○○妻』の脚本家・遊川和彦のような「オリジナルにこだわる」脚本家は、なおさらそこにこだわっている。 
遊川に限らず作家性の強い脚本家は、「先の読めるドラマは書きたくない」「今の世の中、単純なハッピーエンドの方がウソくさい」と思っている。例えば、冬ドラマで『問題のあるレストラン』を手がけた坂元裕二もその一人。同作もバッドエンドとまではいかないものの、最終回は「ささいなクレームで店を閉める」という厳しい展開だった。また、『デート~恋とはどんなものかしら~』を手がけた古沢良太もハッピーエンドにしたものの、最後まで普通の恋愛を描かず、視聴者の裏をかこうとしていた。 
これらの展開や結末は、いわば"ドラマに強い思い入れを持つ脚本家のアイデンティティ"。『○○妻』の遊川と『ウロボロス』の古家和尚が、「これはただのバッドエンドではないから、よく考えてみて」と言っている声が聞こえてきそうだ。
(出所)Yahoo! ニュース :: 毎ナビニュース 3月26日10時30分配信

「今の世の中、単純なハッピーエンドの方がウソくさい」というのは、確かにその通りだ。

その通りなのだが、連想ゲーム的に考えると、やはりちょっとおかしい。それで覚え書きにしておく。

× × ×

大体、古今を問わず、ハッピーエンドで終わる人間より、バッドエンドで最後を迎える人間の方がずっと多いものだ。『一将功なりて、万骨枯る』という格言は、ビジネスでも勉学でも、スポーツでも、どこでも当てはまる事実だろう。

故に、作品にリアリティをもたせたいのであれば、リッチよりはプアを、成功よりは失敗を、出世よりは没落を描くべきである。

この事情は、一人の人生でも、どこの家庭もそうであるし、企業経営も同じである。ほとんど全ての会社は一定時間が過ぎ去れば、経営が悪化して消え去る運命にある。これが統計的な事実である。長命な企業は稀なのだ。

しかし、どの国のビジネススクールでもケーススタディの授業で、失敗例を研究することは少なく、成功例を一生懸命に学ぶものだ。

夢を見たいためではない。夢とビジネスは無関係ではないが、夢をもてば成功するわけではない。とはいえ、成功を求めずして、成功はしないものだ。どれほど確率が小さくとも、誰でも成功は可能である。チャンスがある。だから成功について知りたいし、幸福になる方法を知りたいと思う。これまた現実の世界そのものだ。

ハッピーエンドよりバッドエンドの方が現実的なのですよというのは、ヒットを打つより、凡打に終わる方がいかにもあり得るのだよ。その発想と同じである。統計的事実とは合致しているが、こんな意識は人を楽しませるエンターテインメントとは正反対だ、な。人は「単なる事実」を示されても、何も楽しくはないし、感動することもない。そんなものを視ようとは思わないものだ。『人はいずれ死ぬものですよね』と、そんな当たり前の事実を教えられても、つまらないのだ。

人間何でも「にもかかわらず・・・」、この言葉の後に創造力が出て来るのではないか。ドラマの語源に一度戻った方がいい。

2015年3月25日水曜日

これは一体、なんという……報道ステーション

中国が設立計画を進めている「アジアインフラ投資銀行」(AIIB)の話しだ。今晩の「報道ステーション」によれば日本の参加は先送りにするということだ。

これ自体は自然な決定だ。

その時のやりとりなのだが、『透明性がないのであれば、やはり慎重に行った方がいいんでしょうね。アジア開発銀行(ADB)には日本の税金が入っているわけで、そこと一緒になって、あっちでも借りて、こっちでも借りて、それで立ち行かなくなったら・・・私たちの税金ですからね』。こんな風なやりとりだった。

いやまあ、吃驚仰天しました。

× × ×

いま中央政府の毎年の予算は赤字財政なのである。国民が納める税金では足りないから、カネをもっている機関、個人から国債という形で政府がカネを借りているのである。

日本政府が「税金」を原資に投資する。どこにそんな余った税金があるのか。というより、国民の税金を日本人ではない外国企業のために手渡す・・・そんなことがあるかもしれない、と。さっぱり思考回路が見えませぬ.

× × ×

……それでも日本政府が海外(国内でもいいが)に出資や投資をすることはある。それは税金の使途を定める「予算」ではない。いわゆる「財政投融資」である。その原資は、確かに民間の資金だが、余った金を政府機関に預け、そのカネの運用を主に財務省が担当して出資したり、投資したりしている。ま、国営金融機関の一面があるわけだ。

余ったカネを預かって、それを運用するのだから、民間は政府に債権をもっている。戻って来るわけだ。取られてしまうわけではない。そこが税金とは違う。

政府が権力をもって民間から税金をとりあげ、その税金を行政サービスに使うことなく、そのまま外国人に貸して、その利子を政府が受け取る ー とった税金が政府の資産であればそうなる。もうけた利子を公務員が給料としてもらう。こりゃあ「ブラック政府」だ。本当にこんなことをすれば、日本でも「暴力革命」がおこりますぜ。

分かっているのか・・・この番組のキャスターは。そう思いました。


2015年3月24日火曜日

エネルギー市場と市場介入政策: 普遍的なロジック

政府が市場に介入して「望ましい」成果を人為的に求めると、必ず経済的ロスが生じる。この点は、学部レベルの経済学テキストでも必ずとりあげられる実に基本的な結論である。

ドイツは東日本大震災と直後の福島第一原発の事故をみて早々に脱原発宣言をした。再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度がその基盤になっているのだが、どうやらこのドイツのエネルギー政策もその行く末が懸念されるようになってきたようだ。

★ ★ ★

GEPRが資料『二兎を追った悲劇 — ドイツの電力自由化と再生可能エネ促進』を公表している。2013年3月だからもう大分日数が経っている。その中に次の下りがある。

現行のドイツの仕組みでは、再生可能エネルギーが増加するほど、卸電力市場の顕著な価格低下につながるため、在来のガスや石炭火力発電所の収益性は圧迫される。「エネルギー転換」という国策の一環として、火力発電よりも再生可能エネルギーを優遇しているのだから当然の結果でもある。しかし、その帰結として火力発電所が電力市場から駆逐されてしまうとどうなるのだろうか。
経常補助金を支給することで会計上の利益が確保され、低価格で市場に供給できる事業形態があるとすれば、そこに競争優位が生まれるので、その他の事業形態を駆逐するのは当たり前の結果である。

最終的に、再生可能エネルギーだけで国内の電力需要が賄われるか、それでは不十分で限界的な事業が生き残るか、それはドイツ経済の成長率に依存するのだが、一言でいえばドイツはいま火力から再生可能エネルギーへエネルギー転換を実現するため、補助金を通じた産業政策を展開しつつあるわけだ。そして、発電コストは発電企業が負担するのではなく、国民が税という形で負担する形になる。

税でエネルギー部門を支えるとなれば、実質的には「ドイツ電力公社」をインフォーマルに運営するようなものであり、この点を上の資料は指摘しているのだな。

★ ★ ★

自由経済と市場メカニズムを標榜するドイツが、なぜエネルギー部門という基幹産業で正反対の理念に立った政策を展開するのか。

『危ないものはあぶない』という感情によるものか、原発を肯定するEU他国をGivenとした最適戦略として受け取れるのか、まあ何かの根拠はあるのだろうが、即断はできない。

ただ、南欧諸国の財政不安によってユーロは構造的不安定にある。その通貨不安からドイツ製造業が「恩恵」を享けているのも一つの事実であり、再エネ政策という贅沢なエネルギー政策も実は苦難にあえぐギリシアがEU域内にあってこそ実行できることだ-本来なら、マルク高になっているか、あるいは経済的劣位にある南欧諸国にはEU理事会を通じた財政移転を行い、ドイツ・マネーがギリシア、フランス、スペインなどへ政策的に流れていかないといかんのじゃないか。その流れていくべきカネを、ドイツは自国のクリーンエネルギー・シンパの意に沿うように自国で使っている。そう思われても仕方がないのじゃないか。

先ごろメルケル首相が訪日していたが、その理念は理念として、どうもドイツという国柄は、戦前の日独伊三国軍事同盟締結の時から甘さとは正反対の位置にいる。現在のエネルギー政策においてもそんな身勝手なところがあるような気もする。僻みっぽいことにかけては人後に落ちない小生だが、この対独観は悪意にすぎるだろうか。

2015年3月22日日曜日

就職祝いの辞

四国松山で暮らしている甥が医師国家試験に合格して4月からは市内の総合病院で研修が始まることになった。その病院は、25年も前のことになるが、小生の亡くなった母が癌の治療をした所である。

その祝いに隣りのS市でハミルトンの腕時計を買って送ったところ、今日着いたと言って礼の電話がかかってきた。

家で梱包して送ったのだが、同封した手紙には「おめでとう」に併せて、愚息にも伝えた『任重くして道遠し』の一句を書き添えた。
曾子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後己(や)む。亦遠からずや。
出所は『論語』で、カミさんには「道遠シの後にネ、いいことが書かれているんだヨ」と言うと、「そのいい所も全部書いて上げたらいいんじゃないの」という。「また電話した時に、後の方にいいことが書いているらしいよと、そう言っといて」とかわしていたのだが、年下の義姉さんと話し込んでいたので聞いてみると、甥っ子は学校で教わったのか、『論語』のことはよく分かっているそうで、『お母さんには分からんやろ』と語っていたそうである。

『お母さん、分からんやろって言うくらい大きくなってくれたら、もういいよネ』、と。そういうと、カミさんも『そうだよねえ』と、こればかりはすぐに頷いた。

東京から戻ってから大荒れになったが、それ以降、春めいた日がずっと続いている。懇意にしている会津出身の元警察官は「あと一回は吹雪くんじゃないですか』と言っているが、また荒れるようにはちょっと思われない。

昨日は入学予定者に対する事前説明会があったが、宅を出る少し前に足の隅を箪笥の角に酷くぶつけて内出血してしまった。靴をはくと痛くて、ビッコをひく。それでも個別履修面談があるので大学に行ったものの、我慢して歩いている内に頭痛も起こり、終了後の懇親会には出ずに帰宅した。

明日は月参りなのでカミさんは仏壇に備える煮物を作っている。

2015年3月20日金曜日

芸術作品の限りのない低コスト化

レコードやCD、ネット配信以降の音楽はともかくとして、名画は本物が唯一つしかなく、その作品が提供する美を享受するためには、その絵がある所まで赴く必要があった。だからこそ、限りなく高い価格が名画にはつけられてきたわけだ。

しかし、似て非なるものが、それも無料で誰でも観ることができるなら、どんな結果になるだろう。多分、大部分の芸術愛好者は素人だから、本物とはこのようなものだという感覚が手軽に得られるなら、カネをかけずに無料のサービスで間に合わせる場合が多くなるだろう。

先日、Googleからのお薦めもあってGoogle Chromeで新規ページを開くと、そこにはGoogle Artが無作為に提供する古今の名画が表示されるようにしたー拡張機能をインストールしたわけだ。

その結果、たとえば以下のようなページが無題のページを開くたびに表示されるようになった。



Google Art, 2015-03-20 18:50

少なくとも芸術サービスを楽しむ顧客の立場からみれば、その生産効率性はこの20年間で飛躍的に高まっているのは確かだ。

ま、今の時代でも古楽器を用いてモーツアルトやバッハを演奏する機会はゼロにはなっていない。なぜならそんな演奏を求める人がいるからだ。しかし、世間でバッハのG線上のアリアが演奏される機会は、もはやCDでもネット配信音楽でもなく、YouTubeの中でだろう。

小生は、素人で画作をたまに楽しむ程度だが、絵画の制作技術をみても、絵具、支持体などの側面で次々に革新的な製品が生まれてきている。というより、油彩や水彩など伝統的な顔料をはるかに超えたタブレット状のIT製品がこれからの主流になってくるのだろう、と。これだけは確実に予想されることだ。

絵画の世界でも革新が進むだろうし、3Dプリンター技術が日進月歩であるいま、彫刻の世界でも同様の事態が進むだろう。チューブ入り油彩絵具の商品化が戸外で制作するのを旨とするフランス印象派絵画を支えたのと同じように、デジタル化された画面と筆は制作から搬入、保管、配布、褪色防止を飛躍的に改善するに違いなく、そこからどんな新しいモノが生まれてくるのか、実は期待して待っているのだな。

話は変わるが、上の画像ファイルを保存していたディレクトリーには、まったく偶然で下の写真映像が同時に保存されていた。戦前の芝増上寺にあった七代将軍家継の霊廟である。永井荷風が愛した風景とGoogle Artが提供している名画が、不思議に同居していたのがそれ自体として大変面白い話題であると思った。


将軍家霊廟は今は焼亡して、この世にはない建築物である。どちらかと言えば過ぎ去った時間の中にのみあって、その意味では実態としては存在していない音楽の方に類似しているかもしれない。



2015年3月18日水曜日

シャープ: この賃金戦略はないだろうに……

黒田日銀総裁がデフレ脱却間近しと語り、大企業では久方ぶりの、それもかなりの賃上げが確実視されている。

労働市場の需給関係を示す有効求人倍率は下図のように本年1月時点で1.2に迫り、この10年間のピークを迎えている。


賃金引き上げは、何も安倍内閣が財界に要請したから実現したのではない。労働市場の逼迫化がもたらした経済的帰結であり、誰が総理大臣でも現在の労働市場では自然に生ずる結果である―このような状況に導いた功績は現在の政府と日銀にあると当局は力説するだろうが。

その中で、シャープは賃下げを選んだ。
シャープは18日、社員の賃金を減らす方向で本格検討に入った。テレビや太陽電池事業などの不振で2015年3月期連結決算で2500億円に迫る最終(当期)赤字を計上する見通しとなったためで、削減幅は数%になるとみられる。5月中旬に発表する中期経営計画で明示し、できる限り早期に実行する。
 同社は18日午前、15年春闘で労働組合に対し、定期昇給を凍結せず、賃金体系を維持すると回答。夏のボーナスについては、14年夏・冬の2カ月分から1カ月分に半減するとした。だが、賃金削減を中期経営計画に盛り込むことは避けられない状況で、今後、構造改革とセットで賃金の削減幅を詰め、改めて労組に提案する。
(出所)毎日新聞、3月18日

経営上の失策は利益の減少になって現れる、というかそうあるべきであって、賃下げで利益を確保するのは自傷行為に等しい。それでも間に合わなければ業務の縮小と人員削減が採るべき道であり、現時点の労働市場の下で人員を維持したまま、賃下げでコスト節減を求めるのは避けるべき自殺行為に等しい。

有能な人材から社外に流出するだろう。人員削減によるスリム化を行えば株価は上がっただろうが、今後のシャープには反対の結末がまっていると小生は見る。

2015年3月17日火曜日

正義の感覚と歴史不感症はシンクロしがちである

地元紙・道新は、小生にとっては格好の話題を提供してくれることが多い—そういえば、ずっと昔にまだ小役人をやっている頃、朝日新聞の記事を毎日罵倒することを趣味にしていた御仁がいたものだ。

本日の地元紙・道新のトップ記事は『障害年金−公務員優遇』である。とはいうものの、それほど大仰な内容ではなく、要するに初診日が自己申告で済むか、証明が必要かという手続き面での「官民格差」であり、公務員が不当に優遇されている、と。こんな状況が半世紀も続いているという記事である。

★ ★ ★

確かに年金、その他全般において、官民格差が存在することは事実だ。

『それは怪しからん』と憤るのも大事なことであるが、その前に『なぜそうなっているか?』という経緯を知識として知っておくのは、解決するべき問題をチャンと解決する道筋をつけるのに大変大事なことである。

その制度の歴史は、その制度がいかに深く根を張っているか、それとも案外容易に改正することが可能なのか、この辺りの見極めには不可欠の知識だ。

大体、官僚の年金と民間ビジネス界の年金、その他福祉制度を統一的に運営するなど、問題意識として全然なかったことである。

そもそも公務員の年金は、恩給を源としているが、その初めは軍人恩給であり、西南戦争に先立つ明治8年(1875年)に発足している。その後、文官恩給令が明治16年(1883年)に定められた。官僚組織全体の恩給制度を統一することですら、それが出来たのは大正12年(1923年)になってのことだ。これだけで48年かかっている。

これに対して、民間ビジネス界に実施される労働者年金保険と厚生年金保険制度が導入されたのはそれぞれ昭和17年(1932年)、昭和19年(1944年)である。既に戦時であり、導入の目的は出征する軍人に後顧の憂いをなくさせるためというより(軍人や遺族には恩給が支給されたから)、単純に保険料を集めるという「戦費調達」にあったとしか考えられない。戦後になって、厚生年金の節目は国民年金の開始(昭和36年)、基礎年金制度の開始(昭和61年以降)に見ることができるが、その後も小改正を重ねつつ今日の状況に至っている。

そもそも年金制度は、社会保障政策として統一的に導入され、実施されてきた制度ではない。導入した目的も社会保障などとは遠い所にあったことを忘れてはならない。社会保障政策の柱としてこれからも実施していこうと議論しているのは後付けの議論であり、事後的な意味付けなのである。問題が至る所に存在するのは当たり前である。故に、問題があれば、どうすれば解決できるか。それを考えればよい。それだけのことだ。

そして、既に本年10月には公務員の共済年金と厚生年金は完全に一元化されることが決まっている。

旧制度が適用されている場合は、確かに「不公平」な外観を呈するが、早晩その世代は世を去っていく。

問題は自ずから解決されていくことは確定している。

★ ★ ★

批判精神は社会の進歩のために不可欠だが、歴史的な経緯を見ることなく、現時点の状況だけを見て、「どうあるべきか」と徹底的に突き詰めて考えていくと、結局は歴史不感症になっていくものだ。

話題は変わるが、北海道内の小学校では運動会で入場門も退場門もつくらず、出場する生徒達も整列行進などはしない。しかし、四国松山に在住している親戚によれば、内地の小学校では今なお歩調をそろえて整列行進をやっているという。

これって軍事パレードみたいだね、と。いつも「統一」したがるんだよね、と。そんなの止めるべきだよね、と。

こう言って、内地の運動会の非を訴える。例外的なケースもあるので、一概にいえないが、いまこの町で暮らしている者の感覚では、そんな感想もあるのだな。

★ ★ ★

別々の経緯からスタートした制度では、その制度が適用されている人たちの立場に立てば、当たり前の現実が存在しているものだ。

その当たり前の現実は、広い観点に立てば、間違っているということになるのだが、そもそもそんな始まりではなかったのだ。そんな歴史があり、こんな現実がある。故に、制度的統一には多くの人的・時間的コストを投入した。

年金制度について官民格差という問題は既に解決している。そう見るべきではないだろうか。



2015年3月14日土曜日

意外に使えるRコマンダー

来年度の授業ではRを基本ツールにする予定だが、実は統計授業の基本ツールをエクセル「分析ツール」からRに変更すること自体は、今年度前期に実行済みなのだ。

ただ完全な空振り、というか失敗に終わった。授業評価がガクッと下がってしまったのだな。

授業内容は推測統計学を柱とする旧態依然の内容。標準誤差も有意性もガンガンでてくる。それにコマンド操作によるRが入ってきたのだから、学生から見れば『統計…この、遠すぎた橋』になったのは無理もない。

☓ ☓ ☓

その反省もあって、来年度は内容を完全リニューアルして、Rを対話式で使うことにした。知人からは自治医科大学で配布している"EZR"(Easy R)を薦められもしたが、どうもやっぱり医学教育向けの統計技術が主になっている。患者に直面する医学の現場と、顧客に直面するビジネスの現場とは、互いに似ているところがないでもないのだが、一方が治療効果を追求するのに対して、他方は顧客心理という漠然としたものを把握したい。そんな違いがある以上、データ分析技術も違ってくるのは当然だと思うのだ。

Rコマンダーは意外に使える。以前はデータファイルを配置するフォルダーに2バイト文字を使うと文句を言っていたが、その辺も含めて大分完成度が上がってきた印象だ。

ただ、主成分分析は七つ道具に入れようと思うのだが、因子分析は無理だ。因子分析をやるなら共分散構造分析(→確証的因子分析)までやってしまわないと意味がない。

ここは方向を変えて、主成分分析からデータ視覚化へ、データ視覚化からクラスタリングへと進んで、顧客のセグメンテーション、各セグメントの特徴付け、さらにマーケティングの方向付けについて考える。こんな進み方も自然であるし、ビジネスで使うならここまでは確かな道だと思われる。

☓ ☓ ☓

となると、量的データでは主成分分析から入るのだから、質的データを数量化し、その主成分をおさえる対応(コレスポンデンス)分析が次の話題となるのは非常に論理的だ。ここでもクラスタリングへと進む。データが数量であるか、因子であるかで手法が分かれるが、やることは同じだ。これは極めて自然である。

しかし、Rコマンダーのメニューにはまだ対応分析がない。二つの次元の相互関連を分析するという対応分析の本来の目的に忠実だからだろう。ま、最新のFactoMineRを対話式で使うパッケージがあるのでインストールしてはいる。が、まだ研究中で授業に使えるかどうか分からないのだ — 統計とはいっても、この分野、本業領域でもないし。

とはいうものの、行属性を回答者、列属性を回答とすれば、回答状況を踏まえて数値化した得点を回答者に付値できるのだから、対応分析を主成分分析の質的変量版と認識するのが自然な流れじゃないかなと感じる次第。

なので対応分析ではコマンドを使って計算させることになるのが、とてもアンバランスで不満なのだ。素材にする予定にしているデータが、「朝ドラ『マッサン』の放映と地元観光客の意識」をアンケート調査したものなので、なおさらのことである。

2015年3月12日木曜日

ビジネスと統計: そのイノベーション

以前にも書いたが統計学の教科書は(大げさに言えば)戦後50年間ずっと同じだった。小生の亡父が生産管理に使ったはずの統計学と小生が勉強した統計学は基本的には同じ理論的枠組みに立っていて、その発想も同じだった。

具体的に言えば、記述統計学から確率論を学び、その後は推測統計学を勉強していくというその構成のことである。統計的推測が推定と検定の二つの柱からなるのも変わらない。基本が一巡したあとは回帰分析に進む点も同じだった。そして回帰係数の推定値が「有意」であるかどうかを議論する。それが統計学で勉強するべきことだった。ずっと……。

そんな統計学をビジネスで活用した成功例がQC(=品質管理)であることも周知のことだ。「QC七つ道具」とは以下の七つを指す(細谷克也『QC七つ道具』(日科技連)より)。

  1. パレート図
  2. 特性要因図(石川図)
  3. 各種グラフ(=目的に適したグラフ作り)
  4. チェックシート
  5. 散布図
  6. ヒストグラム
  7. 管理図

このうち、特性要因図は統計技術というより何についてデータ分析を行うかを見定めるための議論のツールである。チェックシートはデータの品質を守るための標準化に使う。

この七つ道具を順番に使っていくことで、ターゲットにするべき問題点が容易にわかり、誰でも科学的な品質管理を実行することが可能になった。マニュアル的でいかにもアメリカ的な香りがする勝利の方程式。これがQCであったのだね。

アメリカで生まれたこの手法をマスターした最優秀な弟子が、実は日本企業であったことも周知のことである。

★ ★ ★

統計学の授業は、一言でいえば、QCを基礎づける統計理論が主題だった。最も重要な概念は、したがって、無作為標本と統計量の標本分布、そして標準誤差である。標本分布を理解するのは、序盤のうちは至難の業であるはずだが、それが分からなければ「不偏性」も「標準誤差」も「信頼区間」も「有意性」も「検出力」も、その他諸々を含めすべての重要なキーワードが理解不能となる。そんな体系だったのだな。

QCとは無作為サンプルから得られた結果が『工程は正常な管理状態にある』を帰無仮説としたとき有意であるか否かを判定することにつきる。つまり統計的仮説検定である。

そんな精緻かつ厳密な概念理解を前提とせずとも、一定の順序で一定の手法をデータに適用していけば、異常も見つかるし、解決への手順、次のアクションも決まる。問題が、現場の担当者レベルのものか、企業経営に直結するものかも判別できる。QCというのはワンセットのデータ・オリエンテッドな問題発見・解決システムであったわけだ。

これが流行らないはずがない。

★ ★ ★

ずっとこの流儀で小生も授業をやってきた。しかし、もう限界なのだな。「つまらぬ」、「営業の役にはたたない」と、そう感じているのがヒシヒシと分かるのだ。

来年度から授業を一新する。新しい七つ道具は次のように再編成した。

-違いに気付く-
1.クロス表
-セグメンテーションとポジショニング-
2.主成分分析(←次元の縮約)
3.クラスタリング(←顧客細分化)
4.対応(コレスポンデンス)分析(←質的データの主成分分析)
5.自己組織化マップ(←対応分析で十分だとは思うが)
-意思決定とアクション-
6.相関と回帰分析(←量的データのクロス表)
7.重回帰分析
8.ロジスティック回帰分析(一般線形モデル)
9.意思決定木

最近は、「データマイニング」、「データサイエンス」という名称の方が通りがいいが、ビジネス現場で役立つ統計手法というテーマについては、大体、意見がまとまりつつあるようだ。

「七つ道具」ならぬ「九つ道具」になってしまったが、6から8を一般線形モデルで括れば、やはり「七つ道具」になりそうだ。

★ ★ ★

ツールは<R>を使う。

『もはや戦後ではない』をパクれば、『もはやエクセルではない』。

大学の学部統計教育のツールが<R>に置き換わった現状が決定的である。ずっと使い続ける統計ツールが<R>になってきたのは、それがフリーであるからではない-ま、フリーという点が最も重要だが。授業で使った<R>に慣れているからだ。何でもそうだが、人は同じ目的に道具を変えることを嫌がるものである。<R>でできない問題に直面しない限り、データ関係の仕事では<R>を使いたいと思うだろう。そんな現実があるから、新しい提案も<R>を前提にする。

だから(少なくとも統計分析という分野において)Rが主たるツールであるのは、もはや他の選択はなく、昔の状態に後戻りはできない所まで来た。そう思っている。

この線でいま授業ノートを作っている。教材も、以前なら読み下して分かりやすいベタ書きのテキストにしていた。が、今回はパワーポイントで作っている。統計は数学ではない。パワーポイントのほうが読みやすい・使いやすいと思うからだ。そもそも紙にプリントアウトして、本文を精読するという勉強法は、そうするより外に方法がないからそうしたわけで、色々な方法を選択できる現時点では時代遅れになりつつあるのかもしれない。資料はタブレットで読む。タブレットというメディアに向いたテキスト作りがいま始まりつつある。そんな風にも感じるのだな。

タブレットにAndoroidを選択したのは失敗だったか…"Surface Pro 3"ならWindows8.1だからRも走るはずだ。早まったかなあ……。

2015年3月9日月曜日

雑感-年齢と旅行

カミさんとは『前期高齢者になったら旅行を楽しみたいねエ」とよく話している。

ところが2年ほど前に「魔女の一撃」と称される腰痛に襲われて以来、常習的にコルセットを装着し、鎮痛剤を貼り、そのうえロキソニンを服用することもしばしばとなった。

これでは、たとえばイタリア一周ツアーに出かけたとしても、どこでいつ動けなくなるかもしれない。そんな恐怖があるらしく、どうも年齢を重ねてからの旅行三昧という選択肢は、健康上の急変から無理らしくなってきたのだ。

一般に『▲▲になったら、〇〇をしたいよねえ』という夢約束は壊れるものであると昔から決まっている。詩人・三好達治も詠っている。
約束はみんな壊れたね
Enfence finie

そんな調子だが、先週末から三泊四日で伊豆の三島と東京に泊してきた。目的は、この4月に新潟に転勤する愚息もまじえて、三人で墓参りをして食事をすることだったが、併せて小生が小学校高学年を過ごした三島の町で食う鰻重というものの旨さをカミさんに教えてやりたかったこともある。

ところが町の中心部にある白滝公園周辺にあれだけ数多あったウナギ屋が一軒もない。繁盛した「うなよし」が見つからないのにも絶句しながら、「すみの坊」という馴染みのない店に入ると、そこは昔の「うなよし」そっくりだった。ホテルに戻って調べると、なんと商号使用をめぐって係争があり、店の名を変えたのだという。

驚いたのは値段でありました……噂には聞いていたが、うな丼(並)が3500円もするとは、だ。それでも美味であることには間違いない。間違いないが、テッチリもマル鍋もある中で、うなぎ2切れ+肝吸いを二人前で7000円となれば、やっぱり売れないであろう。そもそも「鰻重」という献立はもうない。いや、あったかな?あったとしても支出可能な範囲になかったのは確かだ。

父や母が三島の名物をなぜそこに住んでいる時に食わしてくれなかったのか。今となっては理由は分からぬ。当時はそれほど高い食材ではなかったはずなのに。何度もそう思ったが、いまとなっては『約束はみんな壊れたね』 じゃな。泊まったホテルは、その昔、亡父が四国の田舎から三島工場に転勤になった折、家族で泊まった旅館が前身である。その同じ地点に、50年以上も経ってから、息子夫婦が再び旅行に来て泊まることになるとは、父も母も想像もしていなかったに違いない。

カミさんと愚息と三人で墓参をすませてから、北総開発・都営地下鉄と乗継ぎ、浅草の三定で江戸風天ぷらを食する。カラッと淡泊が主流になった天ぷら料理が全盛のいま、新潟に行く前に東京風ではない、元祖・江戸風の天ぷらを食っていけと。そういうわけだったが、カミさんも愚息も意外や気に入った様子だった。何しろこんなコメントもネットにはある。
待つこと5~10分。
しっかりと蓋がされた丼が出てきました。
蓋で衣が蒸されてべっちょり。
う~ん・・・私はカラッと派なのでちょっとがっかり・・・
(出所)食べログ「三定」

ただ聞けば、三定の天ぷらも全国、というか世界から集まる観光客を相手にしている内に、万人受けのする江戸風天ぷらになってしまっているということだ。

三ノ輪にある「土手の伊勢屋」は旧吉原が全盛の時分とそれほど違わない、まるで衣を食べるような本当の江戸前天ぷらを出しているようだ。ただ、口コミ情報を検索すると、むしろカラッとしているというコメントが多く、小生の記憶違いかもしれず、食べ物に関しては自ら食べてみないと分からない。

もっと若かったら小生も行ったけどねえ……、胃の調子がついてくるか。

そういえば、三島に泊まった翌日の午前中、東京へ戻る前に時間があったので沼津でシラス丼を食おうというので魚市場ヨコの食堂街まで行った。そこに丼物のテレビチャンピオンになったという店があり、行列ができているので、カミさんと小生の二人も参入して、並んだ末に桜エビと生シラス丼を食べてみたのだが、どうも何年か前に旧友と鎌倉腰越で食ったシラス丼のほうがずっと旨かったなあ。あれは旬だったからか。いや季節ばかりとも言えんような気がする。『約束は壊れたね』、ここでもそんな失望感が胸に残ったのである。

やれやれ、今日は戻った途端に食べ物の覚え書きか…、レベル落ちたなあ。

2015年3月4日水曜日

ドイツの反省と日本の反省

ドイツで今なお愛唱されている名曲に"Die Alte Kameraden"がある。日本語に訳すと「旧き戦友」とでも言えるだろうか。

実はこの歌は軍歌である。作曲したタイケはドイツ陸軍付きの音楽家であり、作ったのはドイツ帝国のウルムの部隊に勤務していた1889年であるとWikipediaでは説明されている。

第二次大戦前のナチス政権下でも大変人気のある愛唱歌であったはずであり、YouTubeにも幾つかが(作成は最近のものが大半だが)アップされている。

たとえば"Music of the Third Reich - Alte Kameraden"を視聴すれば、戦前期・ドイツの軍国主義の雰囲気を多少でも感じられる。日本の例をあげれば、さしずめ『軍艦マーチ』、というより『戦友』あたりがドイツの"Die Alte Kameraden"と同じポジションを占めていた。そう言えるのかもしれない。

小生の少年時代は、まだまだマンガ雑誌でもゼロ戦や隼が人気の的であり、少年飛行兵を主人公にしたアニメも多数あったのだ。しかし、現代日本においては、もやは旧・軍歌を聴くことはない。たまに『永遠のゼロ』が大ヒットすれば、そのことが右傾化する日本の証拠だと中・韓両国から批判されたりする。戦後日本は、戦争を放棄し、武力を行使しないと憲法で定めている。それは戦争への反省の結果である。それ故、安倍政権が誕生してにわかに集団的自衛権を行使可能とするなど、非常な急展開が進むことで、なにか重要な方向転換が日本で行われていて、それに反発する近隣諸国が『反省しているドイツ・反省しない日本』というシンプルなキャッチフレーズで非難する。そんな状況に立ち至っているわけだ。

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ドイツでは今もなお"Die Alte Kameraden"は人気のある愛唱歌であるらしく、また色々な場所でオープンに演奏されてもいる。

大変に人気のある指揮者アンドレ・リュウ(Andre Rieu)とドイツの国民的・大衆的歌手ハイノ(Heino)がコラボした"Rosamude"は小生の好きな一品であるが、同じHeinoが渋い調子でリアル感を出して詠っている"Alte Kemeraden - Heino - Lyrics"は更なる逸品である。日本でいえば森進一が軍歌を一般公衆に向かって聴かせているようなものだろう。
長年会っていない戦友が再会した。昔はみんな若かった。あれから色々なことがあった。生きている間は短く、死んでからの時間は永い。苦しい日々は過ぎた。時代は移り変わった。だから、いまこの時こそ、杯をほそう。乾杯しよう。我々は戦友なのだから。
こういう感情は万国普遍であろう。というより、戦後ヨーロッパという世界で進んだ「和解」には心底驚かされる。

想像しようとしてみたのだが、日本で旧軍の戦友が再会し、それがマスメディアでも放送され、若い世代から祝福される。そんな光景がありえるだろうか。無理だろうねえ……、『日本は戦後ずっと反省してきた。それを無にする催しである』と、きっとそういう批判が起きるのではないか。まして戦友ではない老若男女が多数集い、「軍艦マーチ」や「海ゆかば」をみんなで合唱して盛り上がるなどという光景は、今となってはまず成立しがたい。

だとすると、戦争をめぐって日本とドイツの状況は違っているのであり、戦後ヨーロッパと戦後アジア世界、戦後日米関係の中で、どこの何が違うのか、と。問題意識をどうしても持ってしまうのだな。

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陸海空のドイツ連邦軍が戦後創建されたのは1955年のことだ。日本では『もはや戦後ではない』というキャッチフレーズが『経済白書』をかざり、復興から高度経済成長へと歩み始めた頃である。

それから日本は帝国陸海軍のことは記憶の彼方に忘れ去ってずっと過ごしてきた。

実はドイツは徴兵制度を続けてきた。第二次大戦後早々のドイツでは反軍感情が強く、志願制にすれば兵が集まらないと懸念されたからであるという。Wikepediaには、この間の事情が以下のように解説されている。
ドイツは長年徴兵制度があり、満18歳以上の男子には兵役義務があった。連邦軍発足当初は、志願兵制を導入していたが、第二次大戦の後遺症で国民の反軍感情、反戦意識は根強く、志願制に頼っていては人員を確保できなかったからである。徴兵制の施行にあたっては、第二次世界大戦の歴史的経緯を踏まえて、良心的兵役拒否も申請することが認められた。この場合には、代替義務 (Zivildienst)として病院、老人介護施設等の社会福祉施設で兵役義務と同じ期間だけ社会貢献することになっていた。
2011年7月4日、ドイツは正式に徴兵制の「中止」を発表し、2014年までに職業軍人と志願兵による部隊に再編する予定となっている。今後の安全保障環境の変化によっては復活させる可能性にも含みを残しているが、事実上の廃止と考えられている。しかし、徴兵制が廃止されると、徴兵の代替義務も無くなることになり、これまで若者の代替義務によって成り立ってきたドイツの社会福祉政策は大きな転換を迫られることになる可能性がある。
 兵役の義務、良心的兵役拒否と代替的な社会奉仕活動、これらを前提とした社会福祉制度の在り方まで含めて、ドイツはいま改革の時期にあるというわけだ。

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日本で兵役の義務が復活することは、現行憲法ではありえないし、現行憲法の改正手続きを踏んで公布される新しい憲法においても徴兵制度が復活することはないだろう。故に、日本で国民皆兵が再び出現するのは、正しい手続きによらずに憲法が改廃される異常な事態によってでしか論理上まずありえないことである。

これも戦争の反省から結論される結果であるが、ドイツの反省の形と日本の反省の形には、確かに言われている以上の大変大きな違いがある。

武力の行使を自らに禁止したことは、日本の厳しい反省であり、それは平和へのコミットメントとして他国にも良い事であったに違いない。しかし、兵役の義務から解放され、軍事予算の重荷からも解放された日本人が、「自らの反省」から多くの果実-ひょっとすると最大の果実-を得たことも事実である。

「反省」という言葉を使う以上、何をどう反省したか、自他を含めた当事者の間の違いについて考える時間を日本人がもつことは、今後の方向を定める上でも、非常に意味があると思われるのだな。

2015年3月3日火曜日

「道徳」で成績がつくとな!?

小学校の道徳が「特別な授業」になり、成績評価も行われることになったとニュースでとりあげられている。

たとえば、いま観ているニュース解説では『赤色の絵具を隣の●●君が貸してという。しかし、もう3回も貸してあげている。課題の締切は今日である。それでも貸したほうがいいのだろうか?』、こんな問いかけにクラスの児童たちが色々な意見を述べる。

貸さないという児童もいるし、貸すという児童もいる。ま、当たり前である。むしろ貸す人もいるし、貸さない人もいるのが世間の常態である。どちらもありうる。理屈で導く「正解」はない。正解はあり得ないのに、成績をつけろと言われて苦闘している現場の教師達の姿がよく伝わっていた。

道徳を特別の授業にした背景は、一つには「いじめ問題」。もう一つは「愛国心の涵養」という安倍政権の抱負がある。そんな解説をしていた。

いじめ問題の深刻化は道徳の授業がないためではないだろう。また、愛国心は常に絶対に正しいか。大体、「愛国心」があるとしても、とる行動が正反対になることもあるのじゃないか。愛国心は行動の指針にはならないものだ。

小生の叔父は今年80歳になるかと思うが、某金属メーカーの経営陣を引退して今は悠々自適である。その叔父は旧学制の最後の世代である。小学校にいた頃はまだ「修身」の授業があり、聞けばある年の通信簿には『明朗活発ナレドモ時ニ粗暴ノ目立ツコトアリ』と記されていたそうな。その叔父のすぐ下の叔父は、優等生タイプであったが、時に草群らに隠れて「恨みのある大人に」馬糞を投げつけるという誠に独創的な悪戯が得意であったという。この叔父は長じて金融マンになり、融資業務で活躍した。道徳教育の優等生は何かの役に立つのか・・・と憎まれ口は、まあ、やめておこう。

ただし事実として、明治期の自由思想が明治20年代以降から次第に反動化し、儒教道徳思想に裏打ちされた教育勅語が教育全般の柱となった時期を境にして、日本は対外戦争を繰り返すようになった。この事実は記憶しておいてもいいのではないか。人をいたわるモラルを学校で教えても、軍事力の行使を控える動機にはならないことがわかる。おそらく自社利益を求めてアグレッシブな略奪的経営を押し通す行為も学校で教える道徳で抑止することはできまい。大企業が零細企業に対して強欲な支配力を行使する誘因を小学校時代に習った道徳で抑えることも可能性としてはゼロに近いであろう。

福沢諭吉が『学問のすすめ』で展開しているのは、道徳が人間行動の指針として全く役に立たないという点であった。正にその点こそ、同時代の人々の胸に響く考え方であったに違いのだ、な。

正しい目的を得れば、人間の行動は自然と目的合理的になるものだ。アクティブラーニングであれ、旧式の対面授業であれ、道徳を行動規範として学ぶより、自分からそうしたいと思わせる方がずっとやる気がでるであろう。目的のない道徳それ自体が、ストレスを蓄積させるだけの結果に終わらないことを祈るだけだ。

道徳の根本には絶対的な価値の源泉が必要だが、無宗教の政府にできることは、素直な気持ちで協調性を重んじながら誠実に仕事に取り組むのを善しとする意識統一くらいだろう。

そのことが日本人にとって良いことなのか、悪いことなのか、小生には定かではない。


2015年3月1日日曜日

雑感: 競争とは弱肉強食?最近の弱者攻撃をなんと見る

高齢者、若年者など弱い人たちに対する殺傷事件が続発して暗澹とした心理が広がっている。

強者が弱者を力で押さえつければ、弱者はより弱い人たちを同じように攻撃するのだと。その心理的根幹には、理不尽な力を行使される恐怖がPTSDとなって、今度はもっと弱い他者への攻撃衝動となって現れる。心理学的にはそんな解釈があるのだという。

その背景には、ギスギスした社会。細々と人間を管理する社会があるのだという。となると、「最強の強者」とは●●さん、▲▲君ではなく、この国の「社会」そのもの。こんな結論になるのかもしれない。『長い物には巻かれる』習慣で生きるとしても、従属の裏には引火性ストレスの蓄積が進んでいる。

いかにも分かりやすい話しだ。印象として大変怖い話しでもある。

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ただ、どうなのだろうなあ……。警察庁が公表している資料によれば、刑法犯総数は減少トレンドが続いている。凶悪犯も減っているし、窃盗犯も減っている − 数字を見ると粗暴犯や知能犯が増えてはいるが。

愚息達が成長する過程をずっと見てきた。「平穏な学校時代でありました」とは決して言わないが、喧嘩や殴り合いがあったとは、あまり聞いたことがない。小生も、小学生のころ廊下で騎馬戦に興じていた時、バランスを崩してガラス窓に頭をつっこんで、かなりの出血をともなう大怪我をして両親を吃驚させたことがある。いやまあ…、病院に急行して縫合したのだが、麻酔がきくのを待っている時間がないというので、野戦病院さながらそのまま縫ったのだね。あれほど痛かった経験はその後一度もない。

話題がそれてしまった。本日みたバラエティ番組では、ベトナム戦争、イラク戦争から帰還した元米軍兵士がPTSDに苦しんでいる。そこから話しが始まったのだった。

カミさんの父は太平洋戦争終戦時に中国戦線にいた。満州ではなく華中(華南だったかな?)であったので、比較的早期に帰国できたそうだが、戦時のことは家庭では一度も話さなかったそうである。カミさんと結婚した時には、もう義父は亡くなっていたので親しく会話をする機会は持てなかったのだが、色々な重荷をずっと持ち続けていたのだろうと思っている。(追記:カミさんに確認すると満州にいたらしい)

幸いにして、戦後日本で兵役の義務はない。この国はもう「戦争機械」のような国家ではない。戦前期・日本においては、一人の国民の心の痛みなどは、塵ほどの重みもなかったはずである。戦後の国民的大災害といえば、伊勢湾台風、関西大震災、東日本大震災などの天災である。何十万人という桁数で心に傷を負った人たちが日常的に生まれ続けるメカニズムは、現在の日本には(幸いにして)ないのである。この一点だけは、小生、文字どおり「幸いにして」と書いておきたいのだ、な。

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とはいえ、マクロ的には平和で豊かな社会を実現していると言えるにはしても、屈従感や劣等感が日常化した社会的グループが生まれつつあれば、やはりそこには心理的障害をこうむる人たちが生まれつつあると認識するべきだろう。なにしろ日本は少し前までは「一億総中流社会」であったのだ。

平和であるからといって、繁栄しているからといって、みな一人残らず和気靄々と満足している状態などは理想にすぎず、いわば「社会的戦傷者」とでも言うべき人たちには常に配慮するべきである。

戦後日本は、武力による戦争を放棄する代わりに経済で戦争をしてきたという意識であったのだろう。でなければ、父のような「滅私奉公」精神があるはずがなかった。だとすれば『一将功なりて万骨枯る』という結末であってはならないわけで、成功の報酬のかなりの部分は、競争に敗れた人たち(及びその子弟達)の尊厳を守る活動に充てるべきだ。これも一つのロジックだろうと思うのだね。

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日本は、戦後第一世代から第二世代を経て、第三世代へ代替わりする時期である。戦後の果実はもう十分に実っていると見るべきだ。

競争と原始の弱肉強食は違う。勝敗は必ずしも人の才能と努力だけでは決まらない。だからこそ、社会の底辺に沈んだ人たちに対する「武士の情け」が大事である。

社会の進歩には競争と勝敗が避けられぬものならば、せめて敗者への労りを惜しまないのが文明というものだろう。古代の文明社会に生きた孟子は、真偽の二値を判別する「智」を最下位におき、より上位には相手に譲る「礼」、悪を羞じる「義」、不憫を感じる「仁」の感情をおいた。先進的な文明を維持・運営する経験は、中国の側に長い蓄積がある。文明社会のマネジメントは、合理的戦略による競争だけでは、十分ではない。

ここでもまた、合理的議論の限界を認めるべきなのじゃないか。最近はそう思うことが増えた。

集団的自衛権の解釈改憲や自衛隊の派遣範囲拡大、さらには徴兵制復活や預金封鎖など原発汚染水さながらメディアに漏れ出ている色々な話題はすべて本日は割愛した。そもそも現行憲法と明らかに矛盾する法律はたとえ国会を通っても憲法で規定している最高裁による違憲訴訟に耐えられない。杞憂による議論は空理空論と変わらない。