2015年4月22日水曜日

『国家の責任としてやるべきだ』と、世論がまとまる時こそ歴史の分岐点だ

人は誰でも自分は間違っていない、そう考えるところから怒りを発したり、相手を攻撃したりするものである。間違っていると認めた瞬間に気分は萎えるものである。
過ちて改めざる、是を過ちと謂う
わが過ちを認識しながらも改めないのは、主観にとらわれているためで、煩悩だ。

しかし、自分が間違っていることを事実として容認するためには、明確なエビデンスがいる。たとえば、数理関係なら計算をして合わないのですぐに分かる。道徳的なことは世間からバッシングされることで、痛い目にあい、それでかたがつく。戦争に負けることで痛切に反省することもある。

ここには、正しいことをしていれば結果が悪いはずはなく、結果が悪いのはどこかが悪かったからだ、と。そんな単純で功利主義的な同義反復がある。

戦前期・日本の「誤り」だが、日露戦争のあと相対的に平和な時代を30年近くの間ずっと続けていながら、突如として1931年になって満州事変という攻撃的侵攻に打って出た背景には、ちょうどその頃、日本が満州に持っていた利権が中国の民族主義の高まりの中で危機に直面していた。そんな背景が本質だろう。『10万人の英霊と20億円の国費を投じた聖域』を国が守らずして誰が守るのか。当然、そんな議論になる。海外旅行にもいかなかった大多数の日本人が「外側からみた日本像」などを語れるはずはなかったろう。

この「許せぬ」という感情が広く国民に共有されていたからこそ、満州事変を企画した作戦参謀・石原莞爾達は何ら軍律違反で裁かれることもなく、逆にその後の栄達を得ることができた。

同じ感情は現代の日本にもあるのではないか。

  1. 高齢者を守る責任は国にある。彼らこそ高度成長を支えたのだ。
  2. 格差が拡大する中で貧困に悩む多数の人たちがいる。彼らを国は守らねばならない。国の政策で現在の境遇に至ったからだ。
  3. 高い福祉を実現することが、それ自体として正義に反するはずはない。後退は許さぬ。
  4. 一票の格差は許すべきではない。権利の平等に反するからだ。

戦前には、国民の正義が戦争を許し、求め、拡大し、戦後は社会保障を求め、拡大した。それが正しいという理念があるからだ。

ベクトルは正反対だが、正しいことを実現するためには犠牲をかえりみない。議論すら許さない。この哲学だけは共通している。この行動原理もまた日本病といえば日本病であろう。

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