2015年4月5日日曜日

子供の貧困を基本的にどう見ればいいのか


一昨日のNHKの夜のニュースだったか、今の日本に広がる子供達の貧困問題がとりあげられていた。視聴者からもTwitter経由でコメントが寄せられていた。

中でもショックだったのは
子供を資産ではなく負債と考えている。
大きくして大学を出ても、正規社員になれないなら、つくらないほうがマシ
一言一句まで正確ではないかもしれないが、上のコメントだった。まことに暗然とした気持ちになる。

今日もまた新年度が始まる中、非正規労働者の惨状がメディアで紹介されている。


たしかにねえ・・・今の世の中、大学を出ても「正規社員」になれる人は多くはない。小生の上の愚息も大学を出てからずっと非正規労働を続けて糊口をしのいでいる。親と同じ市内にいるから、緊急の時は行ったり来たりできるのが、せめてもの幸せだ。『才ある息子は遠く旅立ち、才なき息子は用なきが故に親元にとどまり孝をなす』。まったくその通りだ。

話しを戻す。

大体において、なるほど正規社員になれないというのは悲しい現状なのだが、では日本の普通の大学を出て、一体どんなスキルとスピリットが身に付くのか?どんな仕事を任せるに足る人間になれるのだろうか?こんな問題意識をもっても的外れではない。



特別のスキルがなくてもすぐ出来る、そんな業務であれば、必要になった時にスポットで人を調達するほうが理に適っている。仕事が終わればスポット契約を一度解消するほうが合理的だからだ。

その単純業務だが、昔の日雇い労働は肉体労働が主であった。しかし今はスキルを要しないホワイトカラーが最も楽な職種になってしまった。そんな現実がまずあるのだな。


すぐに覚えられることはすぐに真似をされる。「すぐに」というのは「安い費用で」と言い換えてもよい。

率直に言って、日本にある大多数の日常的な大学の文系学部で、日本語の教科書を通読し、情報処理センターで何時間かの実習を受けるとしても、高度なスキルは身につかない。真に重要な基礎概念を理解することも難しい。卒業後も日本語・外国語を問わずに良いテキストを読んで勉強を続け、知識を吸収し、持続的に知力を高めていけるのに十分な知的基盤を大学4年間で構築するのは、現在では至難、というより不可能であろう。

構築可能なのは先輩・後輩を通した人的コネクションだろう。しかし、知識とモラルに裏付けられ経済合理性が伴ったコネクションならともかく、いわゆる友達関係は頼むに値せず、結局は10年、20年という時間の中で風化し、裏切られるだけである。

教育は、教師の対面授業を柱とした労働集約的サービスから最新鋭の設備を必要とする資本集約的サービスへと変わった。もはや初等・中等教育の充実で底上げをして何とかなる状況ではなくなってきた。多くの若者が教育を受けても貧困に沈む根本的要因はこの点だと思う。

結局、支払う授業料に見合った教育しか期待できないものだ。当たり前の鉄則がここにある。

年額100万円を日本で4年間支払って高々400万円ほど。やや高級な自動車1台程度の授業料では、アメリカのトップクラスの大学に1年間在籍できるだけだ。医療産業と同じく、教育産業でも最先端高度サービスが手に届く範囲に入ってきた。人を育てるハイウェイが出来てきた。つまり教育イノベーションがいま進んでいる。その波に乗れない人(そして国)は相対的な知的劣位に追い込まれる。

世界には超富裕層が多数いる-というか、増えてきた。そんな富裕層が子弟に最高の教育を与えたいと思う。以前なら『唐様で書く三代目』という格言が当てはまったが、それは役に立たない「虚学」を頭に詰め込んでいたからだ。いま成長しつつある教育産業は上澄み価格戦略をとっている。その内容はアクセスしやすい安価な教育とは異質のものである。

技術革新が速いと陳腐化も速い。先端的な教育基盤を公的教育に大規模・画一的に導入するのは極めてリスキーだ。それ故、支払い能力が高度専門教育へのアクセシビリティを決める状況はここ当分の間は続くに違いない。それは高額かつ間口の狭い教育サービスとなる。

こういう現実が世界にあって、日本の現実に及んでいる。そう見る方がよいと思うのだ、な。


どんな風に生きていけばいいのか?いま稼げる職種は何なのか?こう考える方が自然で合理的な発想だ。

いま人が足りない職種は何か?「大学」や「正規社員」という学制上の学歴や従業上の地位に執着するよりは、実質を求める方がよほど自然である。

そんな「儲かる職種」が何一つなくなってしまえば日本はおしまいだ。しかし、そんな職種はちゃんとある。おしまいなのは「正規社員」という呼び名に執着する常識の方であろう。
建設職人の不足がいっこうに解消しない。建設不況が長引く間に多くの職人がやめた半面、景気が底入れしたあとも若者の建設への就業が進まないためだ。落ち込んでいた職人の待遇の改善は徐々に進み、一部には年収が1000万円を超す人も現れた。しかし、今のところ職人離れの流れが反転する動きは目立たない。構造的な職人不足は今後も続きそうな雲行きで、建設や不動産から流通の出店戦略まで関連企業は労務費高騰への対応の巧拙で業績や成長力が左右されそうだ。

■型枠職人、29歳で大台

 

高層建築の溶接は高い技術が求められる。 
 精密な平面図から建物の立体構造をイメージし、分厚い合板を切り分けてコンクリートを流し込む木の枠を組み上げる。型枠職人は作業の正確さが求められるだけでなく、重い資材を担いで高所で作業することも多い重労働だ。東京中心に仕事を請け負う独立自営の職人、羽鳥浩さん(仮名、29)は「抱えている工事の量からみて今年の年収は1000万円強になりそう」と淡々と語る。年配の職人が不況時に次々とやめていく一方で、自分と同世代の職人がほとんどいない。景気の回復で工事量あたりの単価が上昇し、年収はこの2年間で6割増えた。
(出所)日本経済新聞、2015年3月7日

『大学を出ても……』などと、もはや言うべき時代ではないのだろう。そもそも入れる大学がこれほど多く今だに残存していることのほうが、不思議であり、ガラパゴス的である。

戦後ずっと教育の品質を顧みることなく増えてきた低コスト志向の大学が今は過剰になっている。過剰投資であったのだ。その大学が適正水準にまで淘汰され切ってしまえば、若い世代が「大学=安定した生活=高い収入」という迷信に迷い、進路を誤ることもなくなるに違いない。

その意味では、大学という最後に残った護送船団の一隊を今もなおコストをかけて死守し続ける文科省こそ、「大学を出ても非正規労働の仕事にしかありつけない」時代を、ある面で演出しているのかもしれない。

教育市場の対外開放が、遅きに失するかもしれないが、ほとんど唯一のとるべき道であろう。

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