2015年7月30日木曜日

昨日の補足: 憲法学はガラパゴス化していないか?

小生はビジネス教育でメシをくっているから、法学にかけては素人である。とはいえ、近現代の学問分野に携わる場合、領域をとわず共通の原理原則はあるものだ。その一つは、独断を排す、という姿勢である。思い込みを避けると言ってもよい。それには、事実認識を共有したうえで、与えられた問題を確認し、ロジックによって一定の結論を得る。その論理が命である。

感情や心情は、その時議論した参加者では共有できるが、歳月を経てしまえば理解可能な要素は論理のみ。そうなるものである。心の中の微妙な働きは、時間を共有した人たちでなければ、分かりあえないものである。故に、結論を導いた前提と論理は学問では何よりも大事な要素である。

この点に異論はまず出てこないと思うのだ、な。


法学部は、大きく分けて法律学科と政治学科に分かれている。経済学部出身の小生は、その学部編成が最初は不思議で仕方がなかったが、商学部も会計学科と経営学科から構成されている所が多い。まあ、似たようなものかと今ではみている。

その会計学だが、国際会計学部門のニーズが最近非常に高まっている。そんな時代の流れの中で、小生の勤務先でも当該分野の重要性がよりハッキリと認識されている。そんな雰囲気がある。

法律学でも時代の潮流から無縁ではいられないのではないか?そんな風な思いはあるのだが、こと純文系である法学部に限っては、最も縁遠い分野なので、ほとんど何も知らないとしか言いようがない ― まだ文学部のほうが、計量心理学や形態素分析、テキストマイニングも発達してきているだけに、小生にとっては親近感を覚える。

国際法学はいま最も求められているはずである。経済の実態としてTPPなどという国際的経済共同体の構築が現実になされつつある以上、法律面における国際的相互調整は避けられないからだ。ということは、様々な法的概念についても相互理解、更には一体化が求められているはずだ。

そして、法律を支える国内憲法についても、普段の国際的目配りは欠かせないはずなのだな。

一体、どんな議論が日本側の憲法学界では繰り広げられつつあるのだろうか?


戦争放棄や武力保持については、何も日本の憲法規定が世界でも稀なケースではないようだ。

参考資料にリンクをはっておく。

戦争を放棄している国としては日本の他にイタリアなどもある。ドイツは「侵略戦争」を放棄している。永世中立への道を選んだ国もある。イギリス辺りになると、憲法という形になった法典がない。「守るべき条文」がなくとも別に戦争機械になるわけではない。要は、国民の考え方だ。

日本国内の憲法学界がどの程度国際化されているのか、小生は全く知らない。しかし、現代と言う時代において、日本人だけが日本語で日本の憲法論議をしてみても、国際社会の中ではあまり大きな意味はなく、一言でいえば『コップの中の口げんか』。まあ、『ガラパゴス的論争』にしかならないのではないか?それを危惧する。

まあ、何も知らないので無責任なことは言えないが、戦後70年、一度として改憲を行ったことはない以上、日本の専門的憲法学者は学問から実践の場に踏み出した経験は一度もない。どうもそうなのじゃないか。まさか学問的に堕落してないよね……。

そんな心配もあるので、ちょっと補足までに、書き足しておいた。


2015年7月29日水曜日

メモ ― 世論調査より、委員会審議の優勢評価ポイントのほうが効果的ではないか

政府が提案している安保法案は、条文だけを読んでみても素人にはまず理解不能である。というより、一般に法律というものは、関係法条が入り組んでいるので、官僚にとっても難物である。それ故に、担当官の机上には必ず『▲▲法逐条解説』というアンチョコが置いてあるものだ。

国の行方を決めるような重要法案をいきなり出してきて、解説資料はほとんどなし。

そんな風だから、<安保法案=戦争法案>というようなレッテルを張り付けられてしまうのだ。野党にも格好の攻め口を与えてしまう。まあ、いわば、現在の与党の苦境は、現・安倍政権のDNAともいえる傲慢に由来するものである、な。

とはいえ、集団的自衛権=戦争という捉え方も、その愚かさ、無教養、低能ぶりには絶句する。だから民主党はアンポならぬアホなのだ、と。

大体、集団的自衛権の行使が、戦争を引き起こすのなら、国連に加盟している以上、必然的に戦争リスクに直面しているという結論になる。なぜなら国連憲章によれば、国連加盟国はすべて(安全保障理事会が所要の決定を行うまでは)集団的自衛権をもつと規定されているからだ。

日本は、集団的自衛権は使わないと言明してきたが、日本以外の加盟国はすべて(日本に対しても)集団的自衛権を持っている。集団的自衛権を行使できるか否かで憲法判断上の大問題が日本国内で発生していることを知って驚く国は多いだろう。

なぜ当たり前の事実をまず言わないのか?
なぜそんな危ない国際機関に日本は加盟しているのか?加盟しようと考えたのか?

日本が、1956(昭和31)年に国連に加盟する時、日本国憲法との整合性を真剣に議論しなかったから、いま混迷するのだ。

解決されていない混迷はいま解決すればよい。

なぜこういう本質的質問を出してこないのだろう。こんな議論なら、最近のTVドラマよりも、いや池●氏の歴史解説番組よりずっと面白いはずだ。


国会の委員会審議はTV中継されることが多い。しかし、ずっとみている人はごくごく限られるだろう。たまに床屋で散髪する時、店のテレビが国会中継をやっていることがあるから、日本人が政治に寄せる関心は決して低くはないのだ。

ところが、実際のやりとりを自分の耳で聞いておきながら、その全体的印象はというと翌朝の大手新聞社の報道記事で形成されているところが大きい。そして、大手新聞社が掲載する文章は右翼、左翼を問わず、つまり産経、朝日を問わず、片言隻句をクローズアップすることが主であって、報道伝達としては主観的にすぎる、誇張しすぎであると感じることが多い。読者に考えることを促しているというより、プロパガンダに近いと思うことが非常に増えてきている。

党派的行動は、その国を活性化する効果をもつが、度を越えて感情的になるとやっていることが支離滅裂になり、最後の結果は悲惨なものになる。日本人が歴史から学ぶべきことは、こういうことであったろう。


世論調査もいいが、これだけメディアとネットが発展してきたのだ。世論調査や視聴率調査に千人、何百人(何百台)ものサンプルをとって調べるなら、毎日の国会審議を視聴して、一般国民の常識から『本日は△△党側が●●ポイント』。多数の人に依頼して、そんな傍聴ログをネットで公表すれば、大変有用な情報を提供することになるのではないか?

ただただパフォーマンスをしたいかのような議員には厳しい態度をとる人もいるだろうし、反対を連呼すること自体がいま必要なのだと考える人もいるだろう。

評価員は、まあ数十人もいればよい。数十人の人が付ける評価ポイントは、たかだか数十人ではあるが、審議からうける印象は人によってそんなに違わないものである。

小生は、毎年度末に卒業生が行うワークショップの審査員を同僚とともにつとめている。個々の学生の評点は複数の審査員がつけた評点を平均して決まるのであるが、それぞれの評価要素ごとにわけてみても、驚くほど審査員どうしの評点には高い相関がある。

人がうける印象と言うのは、意外なほど似ているものである。要するに、良いものは良いし、悪いものは悪い。そういうことだ。

故に、<国民による与野党別・国会審議評価スコア>は、十分、意味のある結果を出しうる。評価システムとして機能する可能性が高い。

そして、その評価状況は、日本人にとってはゲーム論でいうところの<フォーカルポイント>として機能する。悪い均衡を避けて、高い均衡を実現するツールとなりうる。そう思うのだ、な。

直接民主主義そのものではないが、その機能をシミュレートする。そんな役割を果たしうる。

もちろん評価員となるサンプルは無作為サンプルでなければならない。政党交付金を支給されている政党が5党あるからと言って、各政党支持層から同じ5分の1ずつを選ぶなどと、まるでNHKの座談会のような抽出方法をとってはいけない。国民全体の構成を反映するサンプルは無作為にとることで保証される。


そんなデータ、みたいねえ……。いま集団的自衛権で論争しているが、どちらが逃げているのか、はぐらかしているのか?どちらの議論が優勢だと国民は感じているか?どちらが国民の共感を得つつあるのか?

毎日ネットで公開される審議勝敗ポイントは、その日一日の話題をしばらく独占するだろう。

メディア各社ごとに異なるサンプルをとって、公表してもよい。その中で、外れ値となったサンプルがあれば、統計的検定によって、無作為サンプルの結果とは判断しがたい、と。そんな数値が混じることもあるだろう。すべてメディア各社の良心にまかされるが、偽りがあればその事実を確率的に指摘できるのだ。その指摘がメディア各社へのペナルティになる。

日本社会の政治談議は大いにレベルアップするはずである。

2015年7月27日月曜日

国会対応・・・とな??

首都機能移転は随分以前から日本でも検討されている。

首都機能移転ほどではなくとも、副都心の構想、それから関東近県への政府機関移転なども関連した話題だと記憶している。

本日の道新には、「中々難しい・・・特に省庁本体が東京を離れるのは不適切ではないか」という声が上がっているらしい。主要閣僚I氏は、国会対応を考えると難しい、と発言している由。

国会対応ねえ・・・そう感じました。

確かに国会議員から質問予定が出ると、担当課の役人(多分、課長補佐クラス乃至その下)が答弁を書いて、それを大臣が読むか、担当局(相手のレベルによっては課)長がご進講に赴いたりしなければならないからねえ……。

悪しき風習だ。資源と時間の無駄でもあると思う。自分で勉強すればよいし、必要なら大臣や副大臣から説明をきけばよい。役人とあって事情を聴取するなら、秘書を出張させて面談させれば良い話しである。

何事につけて日本と比較されるドイツでは、ボンからベルリンに首都機能を移すという節目があったが、いまでも国防省はボンにあるようだ―というか、ドイツの中央官庁・政府機関はドイツ全土に散在している(Wikipedia)。日本銀行にあたるドイツ連銀はフランクフルトにある。最高裁である連邦憲法裁判所はカールスルーエに所在している。連銀総裁と財務相がすぐに会って話ができないのはいかんじゃないかとか、防衛省が首都にないのは話しにならんとか、そんな批判がドイツ紙に載ったことはない。

イギリスの気象庁はロンドンにはなく、ニュージーランドの統計庁は南島の鄙びた町クライストチャーチにある。

行政機能は行政効率上の配慮から決めるのが理にかなっている。国会議員は国会の設立理念どおり立法のために時間を使うべきであろう。やり方はいくらでも工夫できるものだ。

国会議員は官庁に物申す「公選・市民オンブズマン」であると認識している御仁が多すぎるのじゃあないかネエ…。日本は議院内閣制なので、対案を提出できる野党はいるが、オンブズマンまで選挙する必要はない。もったいない。日常の感想である。

★ ★ ★

まったく違う話し。

いじめによる自殺が、この近年、続いている。誠に傷ましく、悲惨な状況に、いま学校という制度が置かれている。これだけは分かる。

先日、躾⇔厳しさ⇔ハラスメントをタイトルにして投稿した。子供同士のやりとりでは、遊び⇔ケンカ⇔イジメ。子供本人の感覚では、これらの間がしばしばグレーゾーンである。

子どもはすべて純真であり、染まりやすく、そして無知である。面白がって、遊んでいるつもりが、いじめになっていた、と。そうと知った子供が、ずっと永く心的障害に苦しみ続ける。こんなケースも大いにありうる。一緒に育った兄弟、姉妹ですらありうることだ。

悪い結果に至ったとき、アウト・セーフのシロクロ的裁決をすることは、子供が成長する過程においては、やってみても意味など見出しがたいと思うのだ、な。子どもにとっては、シロクロを伝えるより、自分が経験したことの意味を理解し、成長することが大事である。結果に対してシロクロをつけるなら、親権者たる親世代に対して行うべきだろう。それならば、社会が良くなる可能性がある。

将来世代の卵は、育てることが最優先であって、親権者をさておいた上で子供を裁いていては、まさに「お先真っ暗」なのである。

その昔(というほど以前でもないが)、『喧嘩にまけて帰って来るんじゃない!泣いて帰ってくるなど男子の恥だ!』。そう叱責された男の子は多かったと思う。今にして思うと粗野であったが、粗ニシテ野ダガ卑デハナイ、そんな意味では、自尊心を自覚させて、折れない心をつくるうえで、案外必要なやり方であったのかもしれない。

2015年7月26日日曜日

父の人柄

35年も前に亡くなった父のことだ。

というのは、最近、火野正平の心旅がお気に入りであったのだが、春の旅最終回では50歳を過ぎた女性が父のことを思い出している手紙から話が始まった。海で興じていた自分たちの前に父がやってきて、ひとしきり泳いでから岩の上でぼんやりと周囲の風景を眺めていた姿を覚えている。そんな文面だった。その父君はそれから数年を経ずして比較的若い人生を終えたということだが、父のことをほとんど知らないままでいることがとても淋しい、と。

小生も父を早くに亡くした。早いとはいえ青年になっていたので、何も覚えていないというわけではないが、本気で会話をしたことは一度もなかった。文字通り『樹静かならんと欲すれども風やまず、子孝ならんと欲すれども親またず』である。父には不孝ばかりをしていたように思う。

祖父はとても聡明な人であったが、家計の困難から高等教育をうけることがかなわなかった。それでも地元の銀行に雇ってもらい随分出世したから、小生などは畏敬の眼差しで眺めていた。成功した祖父の家庭で成長し、これ以上はない高い教育に恵まれた父は、現在でも主力製品が世界市場でトップシェアを占め、「技術の△△」として知られている某・旧財閥系メーカーで25年余りエンジニアとして勤務した。

聡明かつ生真面目、責任感が強く、毎日の読書と勉強を欠かさない人柄であった。そんな人柄に最高の教育が加わったのだから正に鬼に金棒のはずであったが、社運をかけて取り組んだプロジェクトがうまくいかず、それがきっかけで心身の健康を損ない、出世競争からは脱落した。

『脱落した』と書いたが、小生もこの齢になると、いろいろと当時の父の胸中を想像してみたりすることがある。しかし、父ほどの責任感はなく、父ほどの実行力もなく、父ほど聡明でもない小生が、仕事に失敗した時にどんなことを想うだろうかなど、所詮分かるはずはないのである。

父の肖像というと高村光太郎の『父の顔』を連想する。
父の顔を粘土(どろ)にてつくれば
かはたれ時の窓の下に
父の顔の悲しくさびしや
どこか似てゐるわが顔のおもかげは
うす気味わろきまでに理法のおそろしく
わが魂の老いさき、まざまざと
姿に出でし思ひもかけぬおどろき
わがこころは怖いもの見たさに
その眼を見、その額の皺を見る
つくられし父の顔は
魚類のごとくふかく黙すれど
あはれ痛ましき過ぎし日を語る
そは鋼鉄の暗き叫びにして
又西の国にて見たる「ハムレット」の亡霊の声か
怨嗟(ゑんさ)なけれど身をきるひびきは
爪にしみ入りて?疽(ひやうそう)の如くうづく
父の顔を粘土にて作れば
かはたれ時の窓の下に
あやしき血すぢのささやく声……
(出所)高村光太郎 朗読 「父の顔」

小生の画技は拙ないので、とても父の肖像を描くことはできそうもない。が、もし描くとすれば、下のルオーの作品のように描くのだろうなあ…とは思っている。



Rouault, Le vieux clown au chien, 1925

タイトルに"au chien"とあるので、犬を探すと、道化師にまとわりついているのにすぐに気がつく。が、はじめにみる時には打ちひしがれて頭を垂れている孤独な道化師にしかみえないだろう。

犬を可愛がっているのだと気がついたとき、何がなし気が楽になったものである。



2015年7月23日木曜日

メモ: FT買収

日本経済新聞社が英紙Financial Timesを買収するとの報道だ。

最近、日経紙上にFT記事を和訳した文章が掲載されていたので、かなり親密な関係を築いているらしいとは思っていたが、それにしても競合していたトムソン・ロイター(←これは小生の勘違い)をおさえて傘下におくとは、侮れない資金力だ。ま、日経ニーズやテレコムで儲けているからねえ…。

FTのクウォリティに近づけるかどうかは分からないが、願わくば、連載コラム記事を一週間遅れで載せてほしいものである。
LONDON— Pearson PLC on Thursday said it would sell FT Group, which includes the Financial Times newspaper, to Nikkei Inc. of Japan for £844 million ($1.32 billion).
The cash sale means Pearson is jettisoning one of its flagship media assets to sharpen its focus on its key education businesses.
For years, the London-based company—which generates about 60% of its sales in North America and three-quarters of its revenue from education—has rejected talk it would sell its salmon-colored, business-focused title.
However, on Thursday the company said that after 60 years of ownership it was best for the FT to be part of a “global, digital news company.”
Shares in Pearson traded about 2.7% higher after the announcement.
The agreement doesn’t include FT Group’s London property at One Southwark Bridge and Pearson’s 50% stake in the Economist Group. The transaction is subject to a number of regulatory approvals and is expected to close during the fourth quarter of 2015.
Source: Wall Street Journal, 2015-7-23, 10:25 a.m. ET

上のように、旧オーナーのPearson社にはこの売却がプラスだと受け取られているようだ。多分、日経の株価も明日の東京で騰がるだろうと予想する。

【追記7-24】
上のように思っていた所、考えてみれば新聞社の株は公開されていないことに思い至った。故に、朝日新聞の株価というのはないし、読売、毎日、日経、すべて東京市場で株が取引されているわけではない。ただ、日経系のテレビ局である「テレビ東京ホールディングス」は、本日10:40現在で1983円、前日比5.93%高となっている。

新聞社株については、世間のブログで以下のような指摘もされている。
日経新聞は、世界一の経済新聞だが、株主は社員株主会だ。子会社が35億円の不正経理を行い主犯格3人を東京地検特捜部に刑事告発していたが、今回その3人が逮捕されて昨日の新聞に載った。日経新聞も一面を裂いて報道しているが、すっきりした報道ではない。誰が何のために誰を追及しているのかが分からない。会社が誰のものだかはっきりしていないからだ。 
株式が公開されていないのは、日本の新聞社だけではない。世界的な傾向だ。理由は中立な報道を続けるために、偏った株主に左右されることを恐れるためだ。朝日新聞の株をビル・ゲイツが全株買収したら、ウィンドウズをめぐる報道は、朝日一紙では納得できなくなるだろう。アメリカをめぐる報道も圧力がかかっているのではないかと思いたくなる。報道の客観性は確かに失われる可能性が大きい。 
しかし、それより悪いのは誰がその会社を所有しているかが分からないことだ。仮にビル・ゲイツが朝日新聞の大株主になったら、読者はそのつもりで朝日の記事を読めばいい。いくら中立公正な報道姿勢をうたっても、記事は人間が書くものだ。書く人の立場で物事は違って見える。一番重要なことは、その記事がどういう立場で書かれているかが明らかになっていることだ。 
新聞社は誰のものだと聞けば、新聞社の人は読者のものだと言うだろう。読者が読者に記事を書くはずがない。みんなのものと言えば聞こえはいいが、みんなのものなんていうものはこの世の中にはない。結局誰のものかはっきりしないと無責任な行動が横行し、私物化する人が出てくるのだ。
(出所)「誰のものだか分からない新聞社」より一部を引用

2015年7月20日月曜日

野党の存在価値: まともな審議⇄審議拒否の二択ではないだろう

立法権、行政権、司法権が厳格に区別されているアメリカでは、連邦議会における全ての法案は議員立法であって、大統領は法案提出権すら認められていない。

議院内閣制をとっている日本と国情が異なっていてもいいのだが、それでも議会は議論をしなければならない。これが有権者の立場からみれば、当たり前の期待だろう。


民主党の長妻議員だったと記憶しているのだが、少数野党が淡々と審議に応じているだけでは、巨大与党の横暴を抑えることができない、と。大体、こんな意味の発言をしていたように思う。

確かに、数で劣勢にある自党が国会という場で優勢な敵とどう切り結ぶか。与党が出してくる審議日程に乗ってただ質問するだけでは、いてもいなくてもよい存在に成り果てるだろう。これは間違いなく愚策である。

しかしね。

審議拒否は、議論をしないという宣言をすることによって与党の強引な議事運営を強要し、その情況が広く国民に報道されることを通じて、自党に有利な世論を作り出そうとする戦術であり、いわば少数者に与えられた(時に有効な)プロモーション戦術なのである。「商品」がそこで生産されているわけではない。「商品」あってのプロモーションなのである。

自らの対案を提出するわけではないので、目的は政府提出法案を葬ることを唯一の目的とする。プラスの価値を生み出すのではなく、(自党が)マイナスと判断する法律を阻止する。それがひいては国民にとってはプラスになる。こんな理屈があるのであるが、もし政府提出法案がマイナスになると考えるのであれば、プラスだと考える対案は作りやすいのではないか。なぜ法案をつくって提案しないのか?ずっとそう思っている。


日本の国会で議員立法は少なくはない。国会議員としての仕事はしている。これに間違いはないが、それでも内閣法制局資料をみれば、最近の国会において内閣提出法律案は議員立法を数の平均において凌駕している。

行政府の方が一生懸命に立法の仕事をしている。これでいいの?ちょっと試しにきいてみたいのだねえ。

ま、もちろん、法案提出だけが唯一の職務形態ではない。

特に安保法案は、国家として「やりたいこと」、「やるべきこと」が背景としてあって、政府が提案してきた法案である。野党は、国際政治的環境をどう考えているのか、新法案として何かの立法をするべきなのか否か、この辺までを含めて法案ないし見解をちゃんと提出するべきなのではないか。提出された法案や見解は、必ず新聞等メディアでも報道されるし、与野党双方の見解が四方八方から比較され、批判されるだろう。

学会でも一本の論文が発表されれば、(普通)複数の討論者が発表された論文の意義、内容について意見を述べるのである。もちろん文章にする。それを会場の参加者が聴くし、読むのである。そしてプロシーディングス(Proceedings)としてまとめられ一般の目にふれて保存されるのだ。

学会ですらそうである。国会では国の重要事項を議論するのだ。

まっとうにやってみてはどうか。そもそも委員会・公聴会・本会議という旧来の審議システムは機能的なのか。

与野党双方の見解に対する国民の声は、衆参両議院に付属している事務局がフィードバックとして編集・集計し、閲覧に供するべきではないのか。いかに代議制民主主義であっても、それが国民の認識の深まり、国会の審議の深まりにつながるのではないだろうか。

要するに、与野党双方に議論を強制するようなシステムがいると思う。

もちろん、公開の場における議論が得意な人もいれば、水面下の折衝、根回しが得意な人も役回りとして不可欠だろう。多数の利害調整に能力を発揮する人もいれば、大衆の支持をとりつけて突破するキャラクターの人もいる。色々な役柄がいるのだが、やはり現代という時代に、国会は議論の場として機能する、その姿を伝えることは主たる業務ではないだろうか。


こんな展開を多くの日本人が待っているはずである。にもかかわらず、マスメディアは何ら求めないし、指摘もしないし、批判もせず、現状をただ記事に書くだけのことをしている。

どこが低脳だから、国会が期待された機能を果たせないのか?一概に『ここがバカだよね』という指摘は難しいのだが、どこかが機能していない。それは確実だ。そう思うのだな。

2015年7月19日日曜日

景気の先行きに迷う

安倍現政権の先行きは、(予想通り)取り巻きのチョンボと首相ご本人の「不徳」をきっかけにして、どうやら峠を越してきた感がある。

参議院で安保法案を修正して求心力を弱まらせるか。それとも、修正を拒否、衆議院再可決で押し通して、自滅をするか。まさに崖っぷちになってきた。

加えるに、原発再稼働承認とTPP妥結で政治的エネルギーは枯渇してしまうのではあるまいか。

いまはそう予測しておく。

しばくら政治のほうが面白くて、経済の方は放置してきた思いがするが、景気の方は一段と先行きが読みにくくなっている。

ギリシアは、何とかEUと折れ合って、EURO離脱という事態を避けた。これから季節は夏のバカンスで、小康状態となってきた。

株価は元の上昇トレンドに戻ったような気配すらある。

ところが。


ドイツのIFOから届いたメールマガジンによれば、ドイツ国内の景気は6月に入って拡大一服を迎えている。


Source: IFO

Der ifo Geschäftsklimaindex für die gewerbliche Wirtschaft Deutschlands ist im Juni auf 107,4 Punkte gesunken, von 108,5 im Vormonat. Der Indikator der Geschäftslage ging zurück nach drei Anstiegen in Folge. Die Erwartungen trübten sich zum dritten Mal ein und waren mehrheitlich nur noch leicht optimistisch. Die Aussichten für die deutsche Wirtschaft sind gedämpft.
要するに、先行き不透明である。

アメリカは、たとえばConference Boardの先行指数では順調に拡大している。



“The U.S. LEI increased sharply again in May, confirming the outlook for more economic expansion in the second half of the year after what looks to be a much weaker first half,” said Ataman Ozyildirim, Director, Business Cycles and Growth Research, at The Conference Board. “While residential construction and consumer expectations support the more positive outlook, industrial production and new orders in manufacturing are painting a somewhat more mixed picture.”
しかし、鉱工業生産指数の動きは6月になってもそれほど冴えたものではない。下図は季節調整済みではあるが、前年同月比をとっている。



アメリカの製造業は明らかに拡大テンポが鈍っている。

下図は、消費者物価指数の前年同期比である。物価は、1年前と比べて横ばい乃至低下という状態であることをみてとれる。


出所:上と同じ

CPIは、元々実態よりも高めの上昇率を示す傾向がある。一部の品目について修正されているとはいうが、それでも前年比がゼロ前後というのはこの1年間のデフレ的経済状況を伝えている。FRBが量的緩和の出口を探っていると何度も発言してきたのに、である。

ただ、物価については、個人消費支出の連鎖型価格指数でみることもできる。下図は季節調整済み前月比で5月までの数字を示している。


出所:上と同じ

前月比でみると、足元では上がっている。

一時のデフレ的兆候からは脱してきている。とはいうものの、生産はそれほど底堅いものではない。


ドイツを代表とする欧州、アメリカをみると、秋以降に景気はどうなっていくのか、弱気にも強気にもなれるところで、文字通り不透明である。







2015年7月17日金曜日

上がダメだから下が頑張る??

昨日は夏季休暇前最後の部内会議があり、その後細かい打ち合わせをしてから、同僚とキャンパス裏下にある瀟洒な料理屋で食事をした。

齢を重ねてくると、これからの夢のようなプランや戦略を語ることから、だんだんと現状評価ややり方の改善のような話しになってくる。歴史全般の話しが増えて来るのも、自然の成り行きだ。歴史は『これからの話し』ではないからだ、な。
小生: 明治維新というのはネ、いわば「成功した2.26事件」だと、そう思ってるんだよね。大体、薩摩藩にしても、幕府の与党だったでしょ。実権を握っていた島津久光は倒幕なんて、とんでもない。そう固く思い込んでる保守的な人であったわけよ。それを上をだまして、西郷や大久保が下級公家や長州と組んで、官軍を編成して戊辰戦争を始めてしまって、あげくのはて藩という組織を廃止してしまった。これって、完全なクーデター、宮廷クーデターなわけだよね。
同僚: ウ〜ン・・・、普通の教科書とは大分違いますね。 
小生: 坂本龍馬の志を諒とするするアナタには承服しがたいかもしれないねえ・・・でも、僕もね龍馬は好きなんだけど、龍馬の戦略とも違ってしまったんですよ。龍馬は大政奉還の立役者みたいなもんだから、サ。こう見るとネ、指揮ラインを無視した中堅層の独断暴走が、新しい世を切り開いたという、そんな歴史観になるでしょ。その成功体験が決定的にその後の社会から倫理感覚を奪ってしまった。その延長に、今度は満州で関東軍が暴走するとか、昭和維新とか、青年将校の崛起とか、あるわけね。1936年の2.26事件は「失敗した2.26事件」、その69年前にあった明治維新は「成功した2.26事件」。最初に成功したから、あとで繰り返されたと。そう思うようになったんだよねえ・・・。

その後、ルールを守ることとは、法とは、善とは、倫理的に正しい選択をすることと幸福な生活をおくれることとの関係に話しは進み、その間で安倍龍太郎の『維新の肖像』が話題となり、時に愚息が最近買ったインサイトのことも話して、1時半頃にお開きとなった。


日本とドイツは国民性が似ているとよく言われる。しかし、全く違う点もある。ドイツ軍に2.26事件のような組織の弛みは、プロシア陸軍以来、発生していない。シャルンホルスト、グナイゼナウ、ルーデンドルフ、マンシュタイン、ロンメル等々、すべて指揮権をもち、有能かつカリスマ性のあった軍司令官、もしくは司令官を支えた参謀長である。機甲部隊を育てたグデリアンは、新戦略思想を上に理解してもらうまで苦労をしたが、その苦労を厭うことはなかった。
勇将の下に弱卒なし。
ドイツはこれを地でやってきたが、日本は上が愚将だから下が頑張るなどと言っている。「ドイツに学んだ」といいながら、である。それは明治維新という本来学ぶべきではなかった「成功例」ーいまでいう「レジェンド」であるなーがあったからだ。そう思うようになった。

下が仲間をつのって自ママに頑張っても、組織が堕落するだけで、集団としての力は弱まり、最後の結果は無惨なものになる。これが日本の歴史で最大の教訓ではないだろうか。

組織戦略は、深い知恵に基づく一貫したルールに裏付けられるべきで、やさしいことではない。

2015年7月16日木曜日

覚え書: 安保法案可決に思う

安保法案が特別委員会で可決された。与党のみによる強行採決である。政府はこんな状況を回避しようと色々と(特に維新の会と)手は打ってきたようだが、ついに見切りをつけたと見える。今日か、明日の内には本会議で衆議院を通過するだろう。

参議院の審議は停滞する可能性がある。だから、あらかじめ60日ルールを活用して、衆議院で再可決する道を残す。そのためにはタイムリミットがある。だから、というわけだ。

国会周辺では、新聞によってマチマチだが、数百人が反対のデモを繰り広げたらしい ― 主催者発表では1万人だったか、2万人だったか・・・。ともかく、何万人という大群衆が国会を包囲してという画像はない。そんな状況ではなかったのだろう。

新聞の論調とは違って、今朝のTVのワイドショーでも、安保はスルーという扱いに近い。そんなものかねえ・・・。

現政権の強気の背景は三点ある。

  • 大半の国民は、日本は危うくなっている、安全保障の強化が必要だ。そんな潜在意識をもっている。
  • 支持率が低下し、選挙に追い込まれても、いまの野党には負けない。
  • 野党と真っ向から対立しているわけではない --- 野党のうち、維新の会は目指す方向ベクトルとして重なっている部分がある。民主党も左翼は違憲だといっているが、野田、前原など右翼は特段何も語っていない。本音では、自分がやりたかったと思っているような節さえある。

こんな現状認識があるのだろう。


あてにならない世論調査とは別にある、全国民の潜在意識について与党なりにイメージをつかもうと努力していることは確かだと思う。

先日、TVでインタビューされていたのだが、『心配なことは心配ですけど、外国からなめられるのはもっと心配ですね』と。そんな若者がいた。ハッキリいえば、『中国からなめられるわけにはいかんだろう』。詰まる所は、ここに行きつくのではないか。巨大中国への警戒は、それこそ聖徳太子の時代から日本人の意識にはある。この意識は国際政治哲学の言葉ではどうにもならない。

日本の側のこの潜在意識とアメリカの財政状況、世界戦略上の必要性が互いにマッチした。そういうことだろう。


これで今国会において安保法案は確実に成立する見通しになった。

もし仮に、数万人の人数が本当に国会議事堂前にくりだして、国会周辺はおろか、桜田門から霞が関官庁街、虎の門辺りまでの街路を埋め尽くしてしまえばどうなるか?その大群衆が発する声は大音響となって首相官邸からも聞こえるであろう。

その場合には機動隊が投入され、散水、放水、催涙弾が飛び交い、群衆は投石、火炎瓶で応じる。そんな情景が撮影され、TV画面にもYouTubeにも流れるだろう。怪我人も出るに違いない。

こんな状況に立ち至って、なおも衆議院再可決で押し通すかといえば、(おそらく岸元首相なら覚悟はできていただろうし、党内から噴出する異論を押さえる力も持っていただろうが)、生死の関頭を乗り越えた祖父の世代とは違い、現政権にはそんな捨て身の勇気などはないに違いない。来年は参院選があり、参院選大敗は政権交代の序章にもなる。与党は分裂するであろう。

が、こうはならないだろう。

反政府デモはいま一つ勢いがない。それにそもそも、若くて、時間のある大学生であるが、安保法案に抗議するための学生集会は一体開かれているのか、いないのか。小生の勤務する大学では横断幕はおろか、抗議ポスターすら目にすることはない。まして全学ストで校舎を封鎖するなど、そんな雰囲気は皆無である。


そもそも「戦争法案」などという批判はあたらないのだな。

だってそうでしょ。たかがTPP交渉で、ごくごく少数の既得権益層が実損をこうむるというだけでも、「岩盤規制」などと言いつつ、圧力に屈して二の足を踏んできたのだ。

本当に「戦争」になれば、どんなことが起きるか?野党があおっている「徴兵」は実効のない愚策であって考えられないが、それでも下手をすれば契約の自由、財産権は制限される、移動、居住など基本的な自由が制限される。このくらいの可能性はある。更には、資金調達のため資本課税強化、その果てには国債の段階的紙幣化(=償還取消+利払い停止)もありうるのである。

そんなことまでありうると考える政府なら、ハラも座っているわけだから、とっくの昔に<TPP>で合意をしてみせてアメリカを喜ばせていたはずである。TPPが発効すれば、日本国内の食品の値下がりによって、大多数の国民には減税と同じ効果がある。いま各地で発行されている<プレミアム商品券>と同程度の恩恵を提供できる。どう少なく見積もっても、だ。だったら強行できるでしょう。

故に、今度の法案が、戦争法案であるはずはないし、そんなことは全く考えてもいない。それは明らかなのだ。


今後懸念されるのは以下の二点だろう。

  • 成立後、違憲判断が最高裁から出る可能性がある。
  • (国連ではなく)アメリカから軍事協力要請があったときに、憲法9条を根拠に断ることが難しくなる。

1941年に真珠湾を奇襲した理由もアメリカによる石油禁輸であった。日本はこれによって音をあげて、中国から全面撤退する道を選ぶだろうと、日本も陸軍サイドの本音は日中和平にあったのだから、アメリカはそう予想していたはずだが、日本は<自存自衛>のために南方を攻めることにした。そのとき、心配される米海軍を先に攻撃することにした。故に対米戦を選んだのである。

戦争は常に自国防衛を目的に、他に選択肢がないことを理由に、選ばれてきたのである。

しかしながら、こうはならない。なぜなら、現憲法では「交戦」を認めていない。ハッキリ『交戦権はこれを認めない』と明言している。だから、国際紛争時に戦争以外の選択肢を政府に強制している点は変わらないのである。この与件の下で集団的自衛権自体が違憲であると論証するとなると、憲法と国連憲章が論理的に矛盾することになり、『それでよく国連に加盟したね』と。そんなロジックは裁判所はとらないだろうとも思われる。では、何が契機となって違憲判断が出てくるか・・・、予想がつかないねえ。

いずれにせよ、現行憲法9条には安易な外交を避ける、不戦に向けた最大限の努力を政府に強制するというプラス効果がある。やはり憲法で不戦を定めておくことは国民の宝ではないか。そう思ったりもする。

どう書くか?そろそろありうべき条文を考えてもよいのではないだろうか。


懸念にもかかわらず、国際政治、国際ビジネス分野で仕事をしている人は概して日本の安全保障強化は必要だと語る傾向がある。

他方、法学者、ジャーナリスト、評論家など国内マーケットで仕事をしている人は今回の安保法案は違憲だという傾向がみられる。

戦前期に陸軍は主戦的で、海軍は非戦的であった。それは陸軍は外国事情を知らず、海軍は世界を知っていたからだと亡くなった父がよく語っていた。現在の状況と必ずしも対応をとりにくいのだが、国際経験の大小で反応がクッキリと分かれる、こういうことはどこかで共通した要因によるものかもしれない。

2015年7月14日火曜日

断想 − しつけ・厳しさ・ハラスメント

人間は後天的な動物だ。成長環境によって人は作られる。

人が育つためには愛情を必要とするし、躾けや教育もいる。しかし、躾けや教育の果実は、その子供の自発的な意志で裏付けられていないと、詰まる所は空ッポのままになる。

言われる方が自発的に守っていこうと思わなければ、言ったり教えたりしたことも、結局はなかったことになるものだ。

× × ×

その昔、古代ギリシアのアテネ陣営とスパルタ陣営が30年間も続くペロポネソス戦争を始めるに際して、軍事的には劣勢であるとされるアテネの指導者ペリクレスが有名な演説を行った。その要旨はツキディデス『戦史』にもある。スパルタの若者は日頃の厳しい訓練で武技と敢闘精神を叩き込まれている。そのような軍事訓練をアテネの若者は受けているわけではない。しかし、わがポリスの危機に際して、アテネの人間は自らの意志で戦いに参加し、自発的な創意工夫で勝てる作戦を実行してきた。単に命令されたからそうするという集団より、アテネのほうが優位にあるのだ、と。

なかなか聞かせる名演説を披露したのである。

結果としては、想定外の疫病が流行したり、無謀な遠征をやってみたり、得意の海戦で計算外の大敗を喫したりしてアテネは敗北するのだが、その責任はうえのペリクレスにはない。ペリクレスは疫病流行時に落命したからだ。

戦争には負けるが、スパルタは戦勝後のバブルで堕落し、短期間の内に没落するのである。アテネは指導力を失いながらも、都市としては生き続ける。ソクラテスやプラトン、アリストテレスが哲学を語るのは敗戦後の混乱したアテネである。そこで高度の古典文化がなおも育っていったのだ。そして今に至っている。

× × ×

体罰は躾や教育には即効的である。

小生も、正直な所、愚息達が幼い頃、話してもわからないときには体罰によったことがある。が、『言われたとおりにする、マナーを守れ』というだけでは、その人の一部になり、本当の力にはならないものである。個々人が自由に行動しながら、結果としては相互に協力し、集団としての力を発揮できる社会が真に強力な社会である。

そう思うのだな。

しつけ⇄厳しさ⇄ハラスメント。目上の立場にある人間には、これらの中間がグレーゾーンなのであるが、ゴールは外面的な行動ではなく、あくまでココロにある。言うことをきかせて満足するのでは、親や教師や上役の自己満足でしかない。これだけはハッキリしているわけだ。

教えられる側と教える側の両方があるのが常なのだが、勝利の方程式など便利なツールはなく、まずは信じ合って、ひたすら相手とつきあう、勘所はこれしかないのだろう。いまの世の中で、こんな社会機能が維持されているのか、弱まりつつあるのか、正直よく分からない。

2015年7月12日日曜日

反グローバリズムの中の歴史問題

こんな報道がある。Wall Street Journalである。
 フランスの著名経済学者トマ・ピケティ氏は、ギリシャの債務減免の検討を拒否しているドイツを激しく非難した。
 同氏は独週刊紙ディー・ツァイトとのインタビューで、ドイツは第1次世界大戦後の対外債務も、第2次世界大戦後の債務も返済しなかったと指摘、「他の国に説教できるような立場にはない」と述べた。
 また、戦後のドイツ経済の奇跡的復活は少なくとも過去に債務免除を受けたことが一助になったとの見方を示し、ギリシャに対しても同様の措置が取られるべきだと主張した。ドイツは1953年の「ロンドン債務協定」で対外債務の60%が免除された。
 ピケティ氏は、「ギリシャが大きな過ちを犯してきたことは間違いない。2009年(に財政危機に陥る)まで、ギリシャ政府が財政をごまかしてきた。しかし、そうだとしても、ギリシャの若い世代には責任はない。将来に目を向けることが必要だ。欧州は債務免除と将来への投資の上に築かれた」と述べた。
 その上で、第2次世界大戦後と同じような、欧州の債務全体について議論する国際会議の開催を求め、「ギリシャだけでなく、複数の欧州諸国の債務再編は避けられない」と述べた。
 また、債務が再び膨らむ事態を回避するため、ユーロ圏諸国の財政赤字の規模を決定する新たな欧州機関の設置が必要だと主張。ギリシャにユーロ圏離脱を迫る政治家は「歴史のゴミの山に行きつくことになるだろう」とコメントした。
(出所)Wall Street Journal Japan, 2015-7-7

ドイツの歴史問題について過激なことを言っているようだが、英原文ではそれほど攻撃的でもないようだ。
In an interview with German newspaper Die Zeit, Piketty said Germany didn't repay its external debt after World War I nor did it repay debts after World War II and thus “has no standing to lecture other nations.”
Source: Market Watch, 2015-7-6


 とはいえ、独紙の中では比較的穏健、中道右派とも言われているDie Zeitに言うにしてはズケズケ言ったものだ。

同紙の記述を念のために引用しておく。

ZEIT: Aber die Schulden zurückzahlen sollten sie doch? 
Piketty: Mein Buch erzählt von der Geschichte der Einkommen und Vermögen, inklusive der öffentlichen. Was mir beim Schreiben auffiel: Deutschland ist wirklich das Vorzeigebeispiel für ein Land, das in der Geschichte nie seine öffentlichen Schulden zurückgezahlt hat. Weder nach dem Ersten noch nach dem Zweiten Weltkrieg. Dafür ließ es andere zahlen, etwa nach dem deutsch-französischen Krieg von 1870, als es eine hohe Zahlung von Frankreich forderte und sie auch bekam. Dafür litt der französische Staat anschließend jahrzehntelang unter den Schulden. Tatsächlich ist die Geschichte der öffentlichen Verschuldung voller Ironie. Sie folgt selten unseren Vorstellungen von Ordnung und Gerechtigkeit. 
ZEIT: Aber daraus kann man doch nicht den Schluss ziehen, dass wir es heute nicht besser machen können? 
Piketty: Wenn ich die Deutschen heute sagen höre, dass sie einen sehr moralischen Umgang mit Schulden pflegen und fest daran glauben, dass Schulden zurückgezahlt werden müssen, dann denke ich: Das ist doch ein großer Witz! Deutschland ist das Land, das nie seine Schulden bezahlt hat. Es kann darin anderen Ländern keine Lektionen erteilen.
Source: Die Zeit, 2015-6-27

債務というものについてモラルを説き、借金というのは返済されるべきなのだと言うドイツ人に耳を傾けていると、それは冗句だろうと思うのだ。ドイツこそ、債務を一度も弁済しなかった国なのだから。

これはキツイね。が、フランス人ならこう言いたくなるところなのだろう。

☆ ☆ ☆

ドイツは戦争中にギリシアで行った蛮行についてまだ賠償、というか戦後処理を終えていないと聞いている。それでギリシア・チプラス政権は巨額の賠償支払い要求を行うかもしれない。
 「法的に有効だ」。ギリシャのパブロプロス大統領は4月末、戦時中の占領に伴う損害の賠償請求について独メディアで語り、国際司法の場を含めた対応の必要性を強調した。ギリシャのチプラス政権は1月の発足後、「道徳的義務」として賠償請求の検討を表明しており、賠償額を約2787億ユーロ(約36兆円)と試算する。

(出所)産経ニュース、2015年5月6日

☆ ☆ ☆

1990年から2008年までの20年のグローバリズムの後、いまは反グローバル化に向かう反動期にあるのだろう。

反グローバル化を支える理念に、ローカリズムがあり、それが時にナショナリズムになるのは、言葉の定義からも容易に憶測できる。

そしてローカリズムの台頭の背後には、実体的要因として世界的所得・資産分布の不平等、更に自由な国際経済システムがもってきた正当性の後退が挙げられる。これまた自明の事実でありそうだ。

更に、ローカリズムやそれが先鋭化したナショナリズムが社会心理として浸透する時、歴史問題が蒸し返されることも、よくあることである。


☆ ☆ ☆

もし歴史ビッグデータが、整備されているとすれば、ここにいま挙げた幾つかのキーワードが、一定のコンフィデンスをもった有効な連関規則として結び付けられている。小生はそう思っているところだ。

歴史は、相互の異質性を際立たせ、グローバリズムやそれがもたらす普遍性という価値を崩し去る力をもつものだ。

だとすれば、歴史というのはいま生きている人間にとって、単なる一つの文化作品という以上のどんな意義があるというのだろう?

歴史とは、合意の上に成り立つ作り話以外の何物でもない。

近代市民社会は軍事力によってもたらされたというが、その主役の一人であったナポレオンの名言として知られている。

革命を新しい社会の建設と達観すれば、歴史もまた作り話であると割り切ってしまう視点が必要かもしれない。少なくとも、それは科学ではない。また、ありえないし、あるべきでもない。そう思ったりもするのだな。

必要な歴史は合意と妥協によって、その時代の人間がつくればよいのだ。そう思うねえ。

2015年7月9日木曜日

歴史に対する合理的姿勢とは?

こんな文章を読んでどう考える?
その中で日本は、―日本だけが、敗戦とともに国家意識を喪失した。大日本帝国の崩壊とともに、大日本帝国のもっていたすべてが悪いことになった。一億総懺悔で、一時は明治いらいの歴史がすべて悪いことにさえ、されそうな形勢だった。
まるで作家・三島由紀夫が発言しそうな内容ではないか。実は、評論家・村松剛が記した文章である。

林房雄『大東亜戦争肯定論』という、一時、世間に衝撃を与えた大部の本があるのだが、その本を手に取ってパラパラとめくれば、すぐに見つかる。夏目書房版の17頁である。

明治維新以来の全てが悪いという観点には、現在の日本にも多数いるはずの保守派でなくとも、日本人のほぼすべては納得できないに違いない。

小生の考え方は、こうである。
明治維新から太平洋戦争敗戦時までの日本の歴史を振り返って、その功罪は功が6割、罪が4割と考えるのが伝統重視的な一つの立場。功が4割、罪が6割と考えるのがリベラルなもう一つの立場。この二つの立場の間で様々な意見が混在するとすれば、それは仕方がなく、社会としては正常だと思う ー というか、そうあってほしいわけだ。
歴史問題について後世の研究を待つと言うのは、功罪いずれが勝っていたか真実は現時点では明らかでないので、今は『功が半分、罪が半分』とみる。それが敗戦までの日本の歴史ではなかったか。
こう考えるのが、いま歴史を語るとき、合理的な立場だと思うのだ。

功が10割、罪は無し…、この見方から大脳皮質の存在は推測されない。反対に、罪が10割で功は無し…、この見方がいわゆる「自虐史観」というものであろう。

最後に、小生自身の立場を記しておくと、明治維新から敗戦までは、結果をみれば崩壊に至った以上、どうみても功が4割、罪が6割がせいぜい。戦後については、いま現在、世界でも有数な経済規模をもつ国となった事実を観察すれば、少なくとも功が6割、罪が4割。加えて、その間に少数の殉職者をのぞき、国家が国民の生命を奪わなかった点をみれば功が8割、罪が2割という評価もするべきである。ま、あらましはこうだ。

それほど偏った感覚ではないと思うのだ、な。

☆ ☆ ☆

だから、いま現内閣の基本方針が総理個人の執着を反映して国家改悪につながる変更を加えようとしている、どうしてもそんな風に多数の国民の目には映ってしまう・・・それで地方議会が反対、慎重審議の意見書・要望を国会に提出していると。そんな状況に立ち至っている。そう思ったりもするわけだ。

『決してそうではない。世界の状況は・・・やるべきことは・・・政府の考えは・・・』という具合に、具体的に率直に語らなければ、9月末までに現政権は自滅する。

現内閣支持率40%は、いざとなれば、霧のように消えるだろう。世論調査は空気のようなものだ。

今日は悲観的予測を記しておこう。株価が心配だ。ギリシア、中国もあるが、日本の国内事情も不確定要因に入ってきてしまった。危うい、危うい。

☆ ☆ ☆

そう語るときの説得力向上の特効薬は、敗戦までの日本の歩みについて功は功、罪は罪と率直に語ることだ。言及した罪は詫びることである。

集団的自衛権くらいで「戦争法案」と形容されるのは、明治維新から戦前まで、戦争機械であった日本の歩みを不当に高く評価したいという行政トップの意識があるから、というかそんな印象を与えているからだ。分からないのかねえ…、こんな当たり前のことが。

数日前に「トップが大事な理由」を投稿したが、ホント、文字通りトップというのは大事なものである。




2015年7月8日水曜日

「善意」は、民間にあり、政府にはない

大分県で暮らす現職自衛官の大家族家庭で信じられない悲劇が起こってしまった。今後次第に色々な事情が報道されると思うが、基本的な背景として、8人の子供を養育していたことから苦しい家計事情や家計を支える両親二人の精神的な苦境を挙げる向きもあると聞いている。

振り返ってみると、拙宅でも二人の子供を育てたが、たった二人であっても上の息子が中学校を終える辺りから、非常に教育費がかかるようになり、まして下の愚息が高校に入ってからは、ホント、大変だった記憶がある。上の愚息が地元の私立大学にいる間に、下の愚息が大学を受験したのだが、幸い地元の国立大学に合格してくれたときには、これほどの親孝行があろうかと感謝すらしたものである。それでも家計はギリギリで、ずっと掛けていた学資保険ではとても足りなかった。小生も(広い意味では)公務員だから安定はしているが、それほど収入が高いわけではない。毎日、カネの工面を考えていた頃は、今では懐かしいが、もう戻りたくはない。

子供を育てることは、本来は楽しいし、自分も成長できるのであるが、今の世の中では非常にカネがかかってしまうのだ。

★ ★ ★

手厚い児童手当を子育て世帯に給付する政策に『これはバラマキだ』と言って反対する人がどれほどいるだろう?

案外、多数の人が「それはムダである」と批判するかもしれない。子育て援助は、中々、みんな賛成というわけにはいかない、そんな気もするのだ、な。

そんな場合は、志のある人が支援できる道を開く方が、社会は良くなるだろう。

多数の日本人が反対するなら、政府ではなく富裕層の養育ファンドへの出資を無課税、というか100%控除するのが最も効果的である。

養育ファンドは家計基準を優先して児童手当の給付先を選別する。給付には返済型と無返済型の両方があってもよいが、返済するとしても色々な方式を幅広く設けておくべきだろう。児童手当に支援されて成長した本人が、ずっと後年に寄付する方法でもよいし、亡くなった後の遺贈でもよい。もちろん無課税である。

国から科研費を支給されたときにも、研究結果を発表する際には、必ず『この研究は科研費▲▲番により助成された』等々の謝辞をつけることが求められる。国の公的資金による科研費でもそうであるから、民間資金による養育支援でもやはり多くの場で謝辞を述べることは求められるであろう。また、それによって有志の人がその養育ファンドの存在を知って、自らの資産を世の役に立てたいと考える材料にもなろう。

★ ★ ★

国の政策は、利己主義的な少数の人によってしばしば妨害されたりするものである。真に望まれることであり、民間でも実行できることは、政府が(所詮できるわけでもないのに)善意を独占しようとするのではなく、民間による善意が形になるような環境を整える。それが政府に求められていることだ。

善意を政府の政策に期待しても無理である。善意は民間にあるのだから、政府は税制やら監査などと言って邪魔をしないことが為すべきことといえるだろう。

2015年7月7日火曜日

司馬遼太郎をいまどう思うか

いま司馬遼太郎の歴史小説はどのくらい読まれているのだろう。

小生が若いころは、まるで『経営者の教科書』というか、司馬遼太郎を読んでいなけりゃ日本式経営の極意などは分からぬ。そんな「空気」が世を蓋っていたが、最近はトンと聞かない。おそらくブームは去ったのだろう。

学者や作家の出来具合は、ブームが去って、静かになってからジックリと検証するものだ。

知恵は静寂の中で、力は激流の中で 
Es bildet ein Talent sich in der Stille,
Sich ein Charakter in dem Strom der Welt.
Source: Göthe"Torquat Tasso", Erster Aufzug, Zweiter Auftritt

まさにゲーテがいうとおりだ。 世間の喧騒は智慧を育てるには不向きである。

誰が司馬遼太郎ものを批判し始めただろうか…、いまとなっては中々思い出せないのだが、多分、佐高信あたりではなかったかと記憶しているが、藤沢周平の世界との比較論から司馬文学全体への疑問が提出されていたような気がする。もちろん、小生自身、世の中に遅れずに着いて行くのは極めて苦手な方だから、もっと早い時点で司馬歴史観には多くの批判があったのだろう。


★ ~ ★ ~ ★

小生も時代の流行から影響を受けて司馬遼太郎はほとんど全て読んだ口である。一通り読んだあと、批判も多いことを知って、そんなに鼻につくかねえ・・・、そう思ったこともあるのだな。

最近、久しぶりに書店の文庫コーナーで司馬遼太郎『幕末維新のこと』と『明治国家のこと』の二冊を買う気になって読んでみた。両方とも『ちくま文庫』にある。

『司馬歴史観は浅い』という批判が多かったと記憶している。久しぶりに司馬節を聴くような思いであったが、「そんなに浅いかねえ」というのが正直な感想だ。

たしかに、マア、常識的である、というか肯定的、それも権力肯定的である。故に、英雄主義的であると感じる部分はある。歴史ってそんなものじゃないでしょう、と。その辺は、トルストイの『戦争と平和』とは反対の歴史哲学にたっている。とはいえ、そんな小説世界の構築法をとったのは、氏が新聞記者出身であったからであろうと推測する。ドキュメンタリ―では特定の個人の視点に立った時に、大きな時代の流れがどのように見えたか。そんな編集技術を用いることが多い。司馬遼太郎が語る人物や事件、歴史から、そんな現場レポートのような―良い意味でも、悪い意味でも、ヤラセや独断という虚構性までを混じえて―香りは確かに濃厚にあると思う。ただ、小生の感覚も正確ではない。

★ ~ ★ ~ ★

要するに、浅かろうが、薄っぺらでもよい。というか、逆に薄っぺらであるほうが、ある意味合いで本筋であることも多かろう。

歴史を筆でつむぐのは大変である。窮極的に正確に記録しようと思えば、何十億という人間が毎日何をして、何を語り、何を実行したかを、全て記述する必要がある。が、そんなことに挑戦する愚か者はいない。

が、仮に思考実験として"World Historical Database"という情報源があり、そこには全ての人間の肉声(Oral Data)、全ての文章(Text Data)、その他あらゆるモノとカネ(Economic Data)、自然条件(Natural Data)が長期間にわたって保存され、検索できる。そんな超巨大データベースがあるとしよう。こんな窮極の理想状態においては、誰しもが同じ歴史的認識をもつだろうか?

いや、それは不可能だ。

こんな巨大な歴史ビッグデータが果たす役割は極めて限定的であろう。それは明らかだ。

そもそも隣同士で、何があったか全て分かりあっている中であっても、時に紛争は起こるものである。そんなとき、なぜ隣人が自分たちに敵意を抱くに至ったのか。何回聞いても分からないことはあるものだ。

データは起こったことを記録するものであり、起こそうと思ったこと、為そうと思ったこと、欲したことなど、心の中の状態はデータにはならない。「書かれたものがある」と反論するだろうが、それは皮相的だ。書かれたことを、なぜ書いたのか、なぜそう書いたのか、そんな人の心は書かれていないのだ。そして、人間社会の物事の進展は、それぞれの人の心の中による部分が大きい。だから、超巨大・歴史データベースが自由に利用できたとしても、一つの事件、一つの戦争、一つの時代を真に理解するという目的にはそれほど役に立たないはずである。

全てのデータが完備されさえすれば、歴史認識は統一されるだろう、と。そう思うのは幻想だ。

★ 〜 ★ 〜 ★

司馬遼太郎を、時代小説ではなく、歴史小説として読む。そんな意識はなかったが、改めてこの辺の感覚を自分で整理して書いておこう。

大体、裸の王様もそうである、王様のロバの耳もそうである、世の中で真に大事なことは人は知っているものだ。歴史は誰でも知っている当たり前のことで動かされるものではないだろうか?

いやあ、違うね。世の中ってのは、誰も知らない秘密の原因で動いていくものさ…、そりゃあいわゆる「陰謀史観」ってヤツだ。受け入れられないねえ……だから、歴史のビッグデータなんぞはいらないンでござんすよ。ま、あっても邪魔じゃあないけどね。

だから普通の目線でいい。その方がよい。普通の人間なら、こんな場合に普通はこんな風に考えるはずである、人並みの目線で人物を再構成して、作中で生きているかのように行動させる、そんな風につくられる歴史小説は、案外、本筋をついているものである。精緻に深読みをして、芸術作品を作り込むような歴史小説は、その本質から既に歴史小説ではなく、時代小説にしかなりえない。こんなバランスにたっているのが、司馬遼太郎の歴史小説だ、と。ある意味で普遍的かつ大衆的だ。

とまあ、なぜ司馬遼太郎の歴史小説が一世を風靡し、その一方で批判にもさらされたか。その辺に思いを致したわけなのだが、改めて司馬氏の対談からも伝わってくるのは、『もう戦争はあるはずもないし、しようという気になるはずもない』。そんな見方である。

これまた司馬節だが、いま読んでも、やはり同感だ。

古代ギリシア世界を襲ったペロポネソス戦争は紛争ではなく「戦争」であった。日常的に繰り広げられていた武力紛争は単なる「事件」であった。そのペロポネソス戦争を現代社会にまで時空をこえて転送してくれば、それはとても「戦争」と呼べるようなものではない。ちっちゃな地域紛争である。

もはや世界は「戦争」ができる時代ではない。徴兵制?・・・意味が全然ないですよ、現代の戦争には。そもそも生の人間の密集部隊など投入すれば敗因になるだけだ。それほど戦闘技術は進化している。もう軍刀も拳銃も飾りになったと、小生は思っているのだ。第一、カネがかかるので軍事的技術革新を予算的に圧迫する。愚策だ。

しかし危険な職業は…、それは将来ともあるでしょう。

司馬遼太郎という人は、どうもこの点はしっかりと分かっている。そんな感想をもつ。

★ ~ ★ ~ ★


民主党の新しいポスターが話題になっている。まだ(幸いにして)目にしたことはないが、世の母親たちに『徴兵制』への警戒を説くという文面らしいのだ。

まあ、徴兵制を心配させるより、トータルとしての軍事費拡大と社会保障費削減がセットになって進行しそうだ、と。そうアピールする方がずっと良いには決まっている。とはいえ『それでも内容は良い…』と言うような人が党を動かしているからねえ・・・。もはや論評は不必要だ。

国会で繰り広げられている「神学論争」も、論争としての出来栄えも本当に低品質だと思うのだが、それはともかくとして、一つ確認したいこともあるのだ、な。

君主制を定めた大日本帝国憲法から民主制を定めた主権在民の日本国憲法が出てくるはずはない。故に、本当は日本国憲法は明治憲法の改正ではなく、ゴチャゴチャした混乱のあと、日本が新しく選んで公布・施行したものである。ここは非論理的であるのだが、実際に行われた明治憲法の憲法改正による日本国憲法公布のほうが、ずっと非論理的である。

実際にあった事実は、旧憲法を否定し、廃棄して、新憲法を採ったのに決まっている。自明の事実だ。それが分からないの?この問いかけに、どう答えるかで現代の日本人は二つに分かれる。

一方のグループは旧憲法下の政府が行った(たとえば)対朝鮮強制労働をアッサリと認めるわけである ― というより、旧政府を擁護する立場に立つことを自ら問題と考える。他方のグループはそんなことはないと旧憲法下の政府を擁護するのである。そして非論理的であるのは、後者のグループである。

基本的認識の違いに由来する対立をアウフヘーベンしたいなら、改めてどちらが多数であるかを確認するしかない。それには憲法改正の発議と国民投票が最良の手続きである。それも分かりきったことである。分かりきったことを避けているから内閣支持率は下がるのだ。

しかし、いずれにしても旧憲法で実施されていた徴兵制などは再現しようがない。100年後の日本でも無理だろう。というより100年たつ間に徴兵制など無意味であることを、いくら低品質の政治家であっても理解するであろう。

戦前から戦後への日本の歩みをどう思うとるネン?

本当はこの一点で大きな認識ギャップがある。複雑骨折を経たあと、何とか国家として歩いてきた日本の後遺症がある。その古傷をなおす。そんな意識に立つなら同じ神学論争でも確かに国民の利益にかなうだろう。

2015年7月6日月曜日

仮説:「吉田松陰=わが懐かしのカフェのマスター」論

ホンネは反対である韓国とのスッタモンダのすえ、ようやく世界遺産委員会で「九州・山口の近代化産業遺産群」が正式登録されることになった。

その中には一見、明治の産業革命とは関係がないように思われる松下村塾も含まれているので、今日はその記念に覚え書を記しておきたい。

☆ ☆ ☆

今年のNHK大河ドラマでも半・主人公として登場したのが幕末の長州人・吉田松陰である。全国レベルでも相当な有名人であるが、特に地元・山口県においては大変に慕われている人物であって、この辺の心情は他の地で育った人間には中々わからないものである。

ただ吉田松陰という人物が生前に為した仕事ぶりをみると、実際には学者としてはほとんど実績がなく、政治家でもなく、文筆家としてまとまった作品を遺したわけでもない。

確かに『講孟余話』という本はある。それは松陰が法を犯して謹慎の身となってから講じた「孟子」に関する講義録のようなものである。勉強不足もあって、小生、松陰が孟子研究者としてどの程度評価されて来たのか、聞いたことはない。ないのだが、事実は大したことはなかったのだろうと憶測している。さらに、『留魂録』がある。こちらのほうが松下村塾の塾生にとっては松陰の肉声をそのまま文章にしたものに近く、故に福音書に似た書物であったろう。

大体、50名前後がいたらしい。いたといっても現在の学校とは違うので、始業時間、終業時間が決まっていたわけでもなかったろうし、在籍している全塾生が常に顔を合わせ、話をしていたのでもなかったと想像している(この辺、詳しい研究者がいるだろう)。

☆ ☆ ☆

とにかく楽しかったと元塾生達が明治の世になってから語っていたそうだ。談論風発、熱くて遠慮のない議論が延々と続き、若者たちはそうやって自己を認識し、志を磨き、青春を謳歌したのだろう。福沢諭吉が『福翁自伝』で語っている緒方洪庵の適塾の雰囲気ともあい通じるものがあったに違いない。

青春群像というのは時間や国を超えてどこか似ているものだ。そして年老いてから懐かしくなる点も同じである。

毎日時間を過ごした大学近くのカフェの方が授業を受けた教室より懐かしいものである。まして、そこには話せる親父、いやマスターがいて、無鉄砲な冒険や風狂ぶり、新しい思想、それに諸々の雑学を生き生きと話してくれたりすれば、尚更忘れられない。失敗した元エリート哲学者が自宅の裏庭に作る喫茶店は自然に若者達のたまり場になるものだ。マスターの話しの半分はホラであったかもしれない。煽り立てるのが上手だったのかもしれない。そんなマスターとは別れてからもまた話がしたくなる。まして早くに亡くなっていれば、懐かしさもひとしおだ。悪くもないのにしょっ引かれて、バカ正直なことを言って、非業にも処刑されてしまえば、横暴な権力を許せないと感じるだろう。

☆ ☆ ☆

決してマスターが革命に炎を灯したわけではない(と思う)。若いやつらの話し相手になってやっただけだ(と思う)。明治産業革命の基礎を築くようなことを為したわけでも(本当は)なかった。そこは旧幕臣・高島秋帆や江川太郎左衛門とは全く違うし、まして明治財界の建設者ともいえる旧幕臣・渋沢栄一が残した実績と比べるわけにはいかないのだ。

追憶の世界にいた人である。長州出身の政治家たちがなぜ吉田松陰をこれほどまで愛したか。要するに「わが青春のカフェ」。その店のマスター。いい親父、というか兄貴だった。『カネはある時においときな』、『ちょっとこれ、読んでみな』・・・、だからであろうと推測しているのだ。

もちろん『おれも仲間だったんだよな』という打算的郷愁も一部にはあったであろう。

最上段にふりかぶった「歴史」と関連付けられると、吉田松陰ご本人は「チョッポシ、ちごうちょうよ」と言っているような気がする。ま、何にせよ松陰神社で神様になっているからゴッド・マスターにはちげえねえ。


2015年7月5日日曜日

歴史の断層: 東京の断層、日本の断層

東京という街は都市の発展の歴史に三つの断層があり、元々の江戸の風趣に思いを致すのは大変難しいと語っていたのは司馬遼太郎である(←『街道を行く ― 赤坂散歩』)。

その三つとは、明治維新、関東大震災、太平洋戦争である。明治維新では、東京の山の手に居住する幕臣が一斉に退去して住人が入れ替わり、関東大震災と東京空襲では特に下町区域が焼け野原になってしまった。三つを併せれば、江戸と東京は全く違う都市になってしまっていて、昔の町の佇まいを蘇らせるのは日本の他の都市に比べると難しい、それが東京という町であると言う。

日本という国の歴史の断層はどこに置かれるのだろうか?そう考えるのは、新井白石『読史余論』と同じ問題意識になるのだが、近現代史に視野を限れば、ほぼ全員が明治維新の前と後、その次に太平洋戦争の前と後。そう観るのが、確立された歴史観だろうと思われる、というか思ってきた。


しかし、実態は違う感じがする。

まず太平洋戦争の敗戦が最大の断層。次が、嘉永7(1854)年3月3日の日米和親条約締結で行った開国、というより再開国。この二つが実際の断層だとみる。

明治維新の前と後は、法制的な面はともかく、国民生活には連続している面も多い。暮らし向きの変化はそう断絶的なものではなかった。幕末の経済変化は開国によるものだ。そう見るのが実態に近い。たとえば島崎藤村の『夜明け前』、尾崎紅葉や樋口一葉の作品を読んでみたまえ。他方、太平洋戦争後の日本社会の変化は周知のとおりだ。

ところが、オーソドクシーというか、正統歴史観という超保守的な立場から言えば、やはり王政復古と明治維新が近代日本の出発点になるわけである。この立場に立てば、最大の歴史の分岐点は明治維新である。そして、戦前日本と戦後日本との連続性を強調するのである。

いまでは、小生、それはフィクション、というか願望に近いのだと思っている。旧幕臣・福沢諭吉は『二世を生きた』と語っているが、小生の祖父の世代もまた別の世を生きた感覚をもっていた。

実態と意識にずれがあるのは、フィクシャスな理念がまだなお日本人の意識下で生きているからだ。

その理念とは水戸学的な正統歴史観である。この見方があるから、明治維新は正しい。太平洋戦争敗戦時に「国体」は守られた。故に、連続していると意識してしまう。つまり清算をしていないのだな。


19世紀後半の世界史的背景を考えれば、日本と欧米との通商が拡大する方向は最初から決まっていたことである。その時点で権力が幕府から新政府へ移動したのは、宮廷クーデターによるもので、それ以上でも以下でもない。

カビの生えた水戸学的な日本史からはそろそろ卒業すればいい。そんな風に、小生、今後に期待、いや多分そうなっていくと予想しているのだな。

同主旨の投稿を数日前にしているが、メモ代わりとして、書き留めておきたい。

2015年7月3日金曜日

メモ: ▲▲の自由について勘違いが共有されていないか

表現の自由、職業選択(就業/非就業も含めて?)の自由、居住の自由などなど、戦後日本では非常に多くの自由が基本的人権として認められている。


最近、思うこと。たとえば「表現の自由」がある、自由である以上、言葉をとやかく言われるのはおかしい、と。

この種の言論が余りにも多すぎて、またまたその極限的な単細胞化・低能化現象に涙コボルル有様なのだ、な。

このくらい、なんで分からないの?


憲法が保証している自由というのは、これは常識かとこれまで思っていたが、言ったこと、語ったこと、書いたことの内容がそれ自体で法に違反し、それを理由に身体を拘束されたり、捜査を受けたり、罪を問われたりすることはない。そういう趣旨である。
ものいえば 唇さむし 秋の風
革命などを語ろうものなら自分の身が危ない。それが常識であったのだから、戦前とは息苦しい社会だった。「特高」(特攻ではない)という言葉を学校の歴史で教わって、まだ健在だった両親に話したとき、父も母も何とも言えない暗い、嫌な表情をしたのをまだ記憶している。


表現の自由とは、故に、あくまでも個人の思想と公権力との関係をいう。公権力にある人間が何を語ってもよいという規定ではない。

公権力にある人間が、不適切な表現を口にすれば資質を疑われるし、不適切な思想をもっていることが明らかになれば、職を失うだろう。自由などはない。これは当たり前である。


さらに言えば、政治家や官僚ばかりではない。表現の自由が保証されているが故に、結果としては表現には気をつけるべきだという帰結になる。

ある集団なり個人が、他の個人に嫌な思いをさせて、それが原因でその人が体調を崩す、家族が自殺をするなどという結果になれば、自由が保証されていたが故に、言ったことの責任もまた言った人が負うべきだ。これがロジックになる。セクハラ、パワハラが不当行為になりうるのは、言う側に自由があってこそだ。自由ある所に意志があり、意志ある所に責任があるのだから。実に逆説的ではないか。

民事訴訟を起こされても仕方がない言葉の暴力を問題にしているとき、表現の自由を主張しても、『それ故に責任がある』わけなのだ、な。なので、その知的低レベルを見るのが大変情けないわけだ。

惻隠の情は仁のはじめなり。辞譲の心は礼のはじめなり。

ムチャクチャだった吉田松陰だと思うが、戦国社会における社会の運営哲学とみれば、孟子に共感を感じない人はおるまい。その人間観察には本当にうならされる。

政治とは社会を運営するための技術と知恵である。

表現の自由が保証されているにもかかわらず、なぜマナーというものがうるさく言われるのか?これも理解できない政治家は「政治家」の定義から外れている、というのが本日の結論だ。ま、「失格」、一発レッドカードである、な。


2015年7月1日水曜日

メモ: 現代の不良「旗本奴」、幹事長辞任で未来が開けるのではないか

IFOから届いたメールマガジンによれば、ドイツ経済も弱含みの景況にある。とはいうものの、いまは経済よりは政治が面白い。

ギリシアもどうなるかという瀬戸際だが、安定しているかにみえた安倍内閣も(予想どおり)周辺のチョンボからトップが苦境に陥る気配がしてきた。

こんな報道がある。 
自民党執行部の一人は2度目の大西氏の発言を聞き、「もう、笑うしかない」と肩を落としたが、党執行部が一議員を指導できない現状に、連立を組む公明党は危機感を強める。
 同党の大口善徳・国会対策委員長は30日、自民党の佐藤勉国会対策委員長に対し、「党のガバナンス(統治)にも関わることで、看過できない」と批判。谷垣氏に伝えるよう求めた。大口氏は記者団に「民主主義の根幹である報道の自由や表現の自由を否定するような発言は言語道断だ」と強調した。
「文化芸術懇話会」の参加議員は、宏池会の系譜をひく谷垣幹事長にではなく、右翼・安倍総理に忠誠心をもっていることは分かりきっている。

江戸時代初期に横行した不良「旗本奴」と同じである。

幡随院長兵衛のような人物がいないのなら、幹事長辞任をもって局面を変えるのが、この際日本国のためだろう。一気に政局へと進むかもしれないが、幹事長個人の政治理念にも沿っていると想像する。