2015年7月3日金曜日

メモ: ▲▲の自由について勘違いが共有されていないか

表現の自由、職業選択(就業/非就業も含めて?)の自由、居住の自由などなど、戦後日本では非常に多くの自由が基本的人権として認められている。


最近、思うこと。たとえば「表現の自由」がある、自由である以上、言葉をとやかく言われるのはおかしい、と。

この種の言論が余りにも多すぎて、またまたその極限的な単細胞化・低能化現象に涙コボルル有様なのだ、な。

このくらい、なんで分からないの?


憲法が保証している自由というのは、これは常識かとこれまで思っていたが、言ったこと、語ったこと、書いたことの内容がそれ自体で法に違反し、それを理由に身体を拘束されたり、捜査を受けたり、罪を問われたりすることはない。そういう趣旨である。
ものいえば 唇さむし 秋の風
革命などを語ろうものなら自分の身が危ない。それが常識であったのだから、戦前とは息苦しい社会だった。「特高」(特攻ではない)という言葉を学校の歴史で教わって、まだ健在だった両親に話したとき、父も母も何とも言えない暗い、嫌な表情をしたのをまだ記憶している。


表現の自由とは、故に、あくまでも個人の思想と公権力との関係をいう。公権力にある人間が何を語ってもよいという規定ではない。

公権力にある人間が、不適切な表現を口にすれば資質を疑われるし、不適切な思想をもっていることが明らかになれば、職を失うだろう。自由などはない。これは当たり前である。


さらに言えば、政治家や官僚ばかりではない。表現の自由が保証されているが故に、結果としては表現には気をつけるべきだという帰結になる。

ある集団なり個人が、他の個人に嫌な思いをさせて、それが原因でその人が体調を崩す、家族が自殺をするなどという結果になれば、自由が保証されていたが故に、言ったことの責任もまた言った人が負うべきだ。これがロジックになる。セクハラ、パワハラが不当行為になりうるのは、言う側に自由があってこそだ。自由ある所に意志があり、意志ある所に責任があるのだから。実に逆説的ではないか。

民事訴訟を起こされても仕方がない言葉の暴力を問題にしているとき、表現の自由を主張しても、『それ故に責任がある』わけなのだ、な。なので、その知的低レベルを見るのが大変情けないわけだ。

惻隠の情は仁のはじめなり。辞譲の心は礼のはじめなり。

ムチャクチャだった吉田松陰だと思うが、戦国社会における社会の運営哲学とみれば、孟子に共感を感じない人はおるまい。その人間観察には本当にうならされる。

政治とは社会を運営するための技術と知恵である。

表現の自由が保証されているにもかかわらず、なぜマナーというものがうるさく言われるのか?これも理解できない政治家は「政治家」の定義から外れている、というのが本日の結論だ。ま、「失格」、一発レッドカードである、な。


0 件のコメント: