2015年7月6日月曜日

仮説:「吉田松陰=わが懐かしのカフェのマスター」論

ホンネは反対である韓国とのスッタモンダのすえ、ようやく世界遺産委員会で「九州・山口の近代化産業遺産群」が正式登録されることになった。

その中には一見、明治の産業革命とは関係がないように思われる松下村塾も含まれているので、今日はその記念に覚え書を記しておきたい。

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今年のNHK大河ドラマでも半・主人公として登場したのが幕末の長州人・吉田松陰である。全国レベルでも相当な有名人であるが、特に地元・山口県においては大変に慕われている人物であって、この辺の心情は他の地で育った人間には中々わからないものである。

ただ吉田松陰という人物が生前に為した仕事ぶりをみると、実際には学者としてはほとんど実績がなく、政治家でもなく、文筆家としてまとまった作品を遺したわけでもない。

確かに『講孟余話』という本はある。それは松陰が法を犯して謹慎の身となってから講じた「孟子」に関する講義録のようなものである。勉強不足もあって、小生、松陰が孟子研究者としてどの程度評価されて来たのか、聞いたことはない。ないのだが、事実は大したことはなかったのだろうと憶測している。さらに、『留魂録』がある。こちらのほうが松下村塾の塾生にとっては松陰の肉声をそのまま文章にしたものに近く、故に福音書に似た書物であったろう。

大体、50名前後がいたらしい。いたといっても現在の学校とは違うので、始業時間、終業時間が決まっていたわけでもなかったろうし、在籍している全塾生が常に顔を合わせ、話をしていたのでもなかったと想像している(この辺、詳しい研究者がいるだろう)。

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とにかく楽しかったと元塾生達が明治の世になってから語っていたそうだ。談論風発、熱くて遠慮のない議論が延々と続き、若者たちはそうやって自己を認識し、志を磨き、青春を謳歌したのだろう。福沢諭吉が『福翁自伝』で語っている緒方洪庵の適塾の雰囲気ともあい通じるものがあったに違いない。

青春群像というのは時間や国を超えてどこか似ているものだ。そして年老いてから懐かしくなる点も同じである。

毎日時間を過ごした大学近くのカフェの方が授業を受けた教室より懐かしいものである。まして、そこには話せる親父、いやマスターがいて、無鉄砲な冒険や風狂ぶり、新しい思想、それに諸々の雑学を生き生きと話してくれたりすれば、尚更忘れられない。失敗した元エリート哲学者が自宅の裏庭に作る喫茶店は自然に若者達のたまり場になるものだ。マスターの話しの半分はホラであったかもしれない。煽り立てるのが上手だったのかもしれない。そんなマスターとは別れてからもまた話がしたくなる。まして早くに亡くなっていれば、懐かしさもひとしおだ。悪くもないのにしょっ引かれて、バカ正直なことを言って、非業にも処刑されてしまえば、横暴な権力を許せないと感じるだろう。

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決してマスターが革命に炎を灯したわけではない(と思う)。若いやつらの話し相手になってやっただけだ(と思う)。明治産業革命の基礎を築くようなことを為したわけでも(本当は)なかった。そこは旧幕臣・高島秋帆や江川太郎左衛門とは全く違うし、まして明治財界の建設者ともいえる旧幕臣・渋沢栄一が残した実績と比べるわけにはいかないのだ。

追憶の世界にいた人である。長州出身の政治家たちがなぜ吉田松陰をこれほどまで愛したか。要するに「わが青春のカフェ」。その店のマスター。いい親父、というか兄貴だった。『カネはある時においときな』、『ちょっとこれ、読んでみな』・・・、だからであろうと推測しているのだ。

もちろん『おれも仲間だったんだよな』という打算的郷愁も一部にはあったであろう。

最上段にふりかぶった「歴史」と関連付けられると、吉田松陰ご本人は「チョッポシ、ちごうちょうよ」と言っているような気がする。ま、何にせよ松陰神社で神様になっているからゴッド・マスターにはちげえねえ。


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