2015年8月1日土曜日

東電経営陣・強制起訴について思う

自動車を運転することに未必の故意による殺人罪を行う意図が含まれているか?

交通事故で人身事故を起こす確率は無視できない。人を死に至らしめるような重大事故の加害者になってしまうリスクはゼロではない。だからこそ、人は自動車保険で対人支払い限度を無制限にすることが多い。その可能性を認めているわけだ。

自分がひき起こす交通事故で人を死に至らしめることはありうると知って、なお自動車を運転し、そして一人の人を死に至らしめた。これは未必の故意による殺人罪に相当する。

この議論は、理屈は通っているかもしれないが、ムチャクチャである。誰しもがそう思うはずだ。

こんなことを言い出せば、包丁を製造するメーカーの経営者も多数の殺人罪の共犯に問われてしまうかもしれない。

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東電・旧経営陣が<十分な注意>を払っていれば、小生も福島第一の原発事故は回避できたと思う。安全対策は不十分であると判断できる情報は確かにあった。つまり原発事故の原因は不可抗力ではなかったと思う。

そもそも、2011年の大震災で過酷事故を起こした原発施設は福島第一だけであり、それ以外の施設は重大な事故には至っていないのだ。何らかの<見落とし>があったことは事実において明らかである。

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文脈は異なるが、1990年代のバブル崩壊の果ての金融パニックの中、経営責任を追及された銀行経営者のうち、何人かは有罪となり、ある人は命を失った。原発事故は、勝るとも劣らないほどの苦痛を多数の人に与えている。責任のとり方の均衡という観点も欠かせないだろう。

にもかかわらず、刑を課するに相当するほどの重大な責任を東電・旧経営陣が負うべきだとは、小生にはどうしても感じられない。上の自動車事故と同じ論理だ。

<行うべき注意>とは、世の中が慎重な配慮として求めている常識的かつ合理的な範囲の注意であると思われるのだ、な。

大多数の関係者が「そこまでしなくとも大丈夫でしょう」といえば、経営トップといえども『いや、それでも気になる』と主張して、独断的に自らの懸念を押し通すことは、現実の問題として不可能であったろう。

そして、その「常識的かつ合理的な範囲の注意」とは、結局は科学の発展、予測精度等々、学問的な知見に依存するのであって、地震学会、土木学会などで認識されていた危険はどうであったか。結局はこの点に帰着する、と。そう思う。

福島第一原発の安全対策には危険があるという学問的判断が大方の勢力を占めていなかったという事実がある限り― その事実をどう解釈しようとも ―経営トップ個々人に刑罰を課すべき程の重大な間違いがあったとは、小生、どうしても思えないのだ。

事故発生時の法律に適合していたという事実も、もちろんのこと、無視するべきではない。

結果として重大な事故に至ったからといって、結果に基づいて、刑事責任を負わせるという論理は常に成り立つわけではない。

行うべきことは、国家による刑罰ではなく、補償であろうと思うのだ。

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東電・旧経営陣に、刑事罰が課されないとしても、実質的な制裁は行われている。強制的に起訴され、裁判が行われ、最高裁までいって無罪となるとしても、また再び再審請求が行われる可能性がある。生涯を通して、世間の指弾を浴び続けるであろう。名誉はすべて奪われている。文字どおりの「針の筵」であろう。加えるに、自らの胸中をさいなむはずの後悔と罪悪感が消えることもないであろう。経営判断を誤った当事者として<十分重い制裁>であると小生には感じられる。

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