2015年10月29日木曜日

就活をめぐる「大学 vs 企業百年戦争」に決着をつける最終兵器とは?

本日の日経報道『私たちはお試しだったの?』はよく書けている。

一部を引用するだけでも結構面白い。
一方、学業優先を旗印にする文部科学省や大学からは今回の経団連の判断に疑心を募らせている。馳浩文科相は27日の記者会見で、「これまでの経緯があって1つのラインができたのに朝令暮改はいかがなものか」と批判した。文科省としては、今年の就活を検証すべく大学側に調査をしているただなかにある。同省の事務方も「正式には何も聞いていなかった。6月といえば学期中のまっただなかだ。学生のことを本当に配慮した上でいってくれているのか」と嘆く。 
早稲田大学キャリアセンターの担当者は、「少なくとも本学には事前の擦り合わせなどなかった。このように外堀を埋めて既成事実化していくようなやり方に不信感を覚える」と、憤りを隠せない。いくつかのキャリアセンターでは今年、例年以上に出席率の悪い4年生に対するクレームが教授陣から相次いだという。6月は学期のさなかだ。「前期に授業をするな、といっているようなものだ。企業からは、学生はどうせ勉強なんてしていないと思われているのだろう」と悔しそうだ。
(出所)日本経済新聞、2015年10月29日

小生も学部の授業を担当することがあるが、前期開講科目の場合、四年生(もしくは過年度生)の欠席の扱いには本当にいつも困らされる。

学則、というか建前としては『三分の一を越える授業を欠席したものは評価対象外とする』わけだから、多くの四年生は就活期間中に授業を履修しても、本来は出席数が足りないという理由だけで単位は修得できないはずである。

出席数に加えて、授業では小テストやレポート提出もある。小テストを受けなければ(本来は)ゼロ点でなければならない。ところが、四年生はそんな時に欠席届を提出し、欠席理由を「就職活動」としている。大学当局からは、なるべく四年生に不利益が及ばないよう特段の配慮を求める連絡をしている大学が多いのではなかろうか。

小生は今ではビジネススクールで授業をやっているが、ちょっとした統計の初歩すら忘れている比較的年齢の若い学生が案外多くいることに驚く時がある。テーマを問わず、初歩的理解を欠いていれば読書を通じた自己啓発も不可能であり、実践的研修も上滑りで身にはつかないまま終わるに違いない。これでは知的能力において日本人ビジネスマンは外国人に勝てない、というより知的劣位におかれてしまう。外国語も苦手であるのに、更に知的水準で劣ってしまえば何とするのだ、いまのような時代に。「地頭(ジアタマ)」だけで、常に何とかなるわけでもあるまい。

確かに日本の大学は国際化も不十分であるし、日本人学生は消極的であるし、授業のレベルもアメリカのアイビーリーグに比べれば知的レベルが劣っているかもしれない。ではあるものの、毎回の授業に出て、真面目にテキストを熟読して勉強しさえすれば、相当の学力には到達可能である。その程度の教育はしていると100%の自信をもって言えるのだ、な。

そもそも大学の勉強は武道と似たようなものだ。頭脳を酷使すること自体に目的がある。ビジネス業務に直接に役立つものではない。水辺にいるにもかかわらず水はまずいと飲まないだけである。

そして、情報をあつめ何かを探しているうちに四年生になる。頭脳は肥満体ならぬ回転の悪い肥満型頭脳になっている。避けるべきパターンである。

現実は、大学生の就職先である民間企業が大学での勉強にそもそも期待していないのであるが、実は大きな矛盾があることに企業の側が気づいていない。ここが最もこわいところなのだ。だってそうでしょう。日本の大学の教育水準に不安を感じると言っているのは企業の方であると同時に、なぜ大学生の多くが低学力のまま卒業しているかといえば、低学力にするような就活システムを続けているのだ。そんな風にシステムは動いている。

☓ ☓ ☓

日本の大学と大学生の水準は、カネをかけずに上げることが可能だ。その方法は、就活を理由とする欠席を大学側が容認しない。これだけでよい。

もう少し敷衍したほうがいいか……。

要するに、4年間真面目に大学生に勉強してもらう。これに尽きる。それは、成績評価を厳格にするだけで達成できるであろう。真の意味合いで成績を「成績」としてつけるだけで、日本の大学は大学らしくなるはずだ。これが最終兵器だ。妥協なき「成績厳格化」(副作用として、卒業所要単位を修得できず、授業料負担ない最長在学期間の制約から除籍になる学生が増加するであろう)は、まず確実に、日本の大学をあるべき状態に誘導するためのバズーカ砲になるはずだ。

そんな「蛮行」を敢えてすれば、就活をしながら単位を修得できる四年生はいなくなるだろう。故に、三年までに卒業所要単位をとり終えられるよう一生懸命に勉強すればよい。というより、「卒業論文」をまとめるよう厳格に指導すれば、講義を1科目もとらなくとも就活と勉強を両立させることは至難のことになるだろう。

それでもよいのではないか。というか、(本来は)そうあるべきであり、これが単にアメリカの事情にとどまらず、広く国際標準にそった当たり前の大学生活であると思われるのだ、な。

日本の大学が様々に批判されているのは、標準的な学生生活を大学生に求めていないことによる。ここを修正するだけで、かなりの程度まで日本の大学は復活するはずである。

☓ ☓ ☓

大学生は3月に卒業してから就職活動をすればよい。

カネがない?カネの問題は必ず解決策がある。

たとえば、奨学金を卒業後一定期間内であれば支給できるようにすればよい。学生支援機構にとっても損なビジネスではないはずだ。そして入社は10月とすればよい。いずれにしても半年程度は新入社員研修があるのだ。

システム変更前後の端境期には多少のゴタゴタはあるだろうが、一度定着すれば毎年のルーティンになるはずだ。

カネをかけずして、より良質の大学生がリクルートできるとすれば、日本の民間企業にとっても得なはずである。

2015年10月27日火曜日

品格のある「れば・たら」議論

相当前になってしまったが、市内の某イタメシ食堂にて同じ大学のOBが集まり夕食会をしたことがあった。

年齢は様々。北海道での生活歴についても、二人は新人、一人は2年超、小生は20年以上ありと様々であった。そして専攻分野も、統計分析を駆使する社会学が専門でいまは英語を教えている人もいれば、商学部で数学を教えながら整数論を研究している人もいたし、ビジネススクールに所属しながらROEを批判する本をこのたび出版した御仁もいた。小生は統計学が専門であるので英語を教えている社会学者には何がなし親近感をもったものである。

その女性社会学者曰く『イギリス英語は仮定法が多いんですよね』。そうしたら、元は自動車会社のビジネスマンでいまは反ROEの経営学者が『仮定法過去っていうのがありましたね』、『過去完了もあった・・・』、『Could you please ...というヤツですね?』とまあ、意外にこの手の話題は盛り上がるものだ。

その内に数学では『・・・が満たされるなら・・・・が成り立つ』と、そんな議論となり、その条件部分を仮定法で書くとどんな感じになりますかね、と。何かそんな風に茶化した記憶があるのだが、ひょっとすると小生の記憶違いかもしれない。

ただ、あれであるな、理論経済学でいう完全競争均衡のパレート最適性を主張する定理。あれは仮定法過去で書いた方がいいかもしれない。条件が満たされるなどと言う可能性はないに等しいからね・・・。

If the next conditions were satisfied, the competitive equililbrium would be optimal in the sense of Pareto.  ...

いいねえ、仮定法は。下の例文は有名だ。
If I were a bird, I could fly to you.

経済学の教科書でもこんな文章になるか・・・。『もしも・・・もしもです、以下の諸条件がひょっとして満たされますならば、完全競争均衡はパレートの意味で最適となることを論理的に証明することができるのでございます』。仮定法を用いた言語表現はとても上品なのである。

コナン・ドイルがものしたホームズで使われている英語もどこか古めかしく仮定法が至る所で駆使されている。『ワトソン君、僕がいま鉄道に乗るとして、モリアーティ教授がどう対応するか考えたことがあるかね?』、『そうさね、君がいまロンドンを離れる可能性があるとは当然想定しているだろうから、彼は君を追うだろう』、『そしてどこで降りる?』、『もし君がA駅で降りないとしたら、B駅まで行くと予想するだろう』、『ではモリアーティ教授はB駅まで乗るだろうか?そうすれば僕はA駅で降りればよい』、『いやいや、モリアーティもそう考えるだろうから、A駅で降りるだろう。』、『では僕はA駅でおりない方がよい』、『そもそも君はここにいるという選択肢もある』、『では愛すべきモリアーティ教授は鉄道には乗らないだろう、だとすれば僕は鉄道に乗る方がよい』・・・・・・。ウィンナワルツにある「常動曲」よろしく、この会話は永遠に続く。もちろんこの会話は仮定の上でのものだ。

話題はいつしか歴史の話しとなった。歴史とは過去に生じた状況の― 成功もしくは失敗の― 分析であるので言語表現としては仮定法過去完了が使われるべき分野である。

しかしながら、小生が七不思議だといつも思っているのだが、日韓歴史問題論争において仮定法過去完了が使われた論争が展開されたとは聞いたことがない。

もしも1876年の日朝修好条規が不平等条約ではなく、双方の平等性を規定した未来性のある条約であったとしますなら、その後はどうなっていたでございましょう。そしてその時、ロシアはそのことによって利益を得たでありましょうか?損失を受けたでありましょうか?
実に上品である。

小生は中国語にはうといのでよくは知らないが、「論語」の文章で仮定法は使われておらず、すべて「である・でない」の直説法であり、せいぜいが「であろうか?」という修辞的疑問文である。「孟子」も、というより四書五経はすべて「である・でない」の直説法の文学ではないかと思われるのだがどうだろう?

そうであるからこそ、東アジアの儒教文化圏で展開されている歴史分析は、「れば・たら」が一切なく、可能性の考察が一つも混じらない、野暮なやりとりになってしまうのだろう、と。そう憶測しているのだ。 どうもこの背景には、2千年以上も前の単純素朴な人間社会を前提に著された古典を「科挙」という不毛の国家試験に合格するためずっと一所懸命に勉強してきた人たちの仮定法なき思考パターンを継承した文化があるような気がするのだ、な。




2015年10月24日土曜日

D3.jsのテストページ


これはd3.jsのテストページである。
・・・アレッ、うまくいかんな。ローカルではいくのに。

2015年10月22日木曜日

アメリカの対中ディレンマ状態

先日もふれたが中国市場はアメリカにとっては100年の宿願であり、と同時にこれまでは見果てぬ夢であった。

「門戸開放」を叫びあれほどの犠牲を投じて肩入れした中国であるにもかかわらず、第二次大戦後は共産党に支配され中国は敵対国の側に回ってしまった。中国共産党がアメリカに歩み寄ったのは対ソ関係が悪化した時を待たねばならなかった。中国の危機意識がそこにはあった。

いま再び中国の経済大国化を迎え、加えて米ロ関係が悪化する中で、米中関係が緊張を強いられている。
 オバマ米政権が、中国が南シナ海で埋め立てた人工島から、国際法で領海とされる12カイリ(約22キロ)内に、米軍の艦船または航空機を近く派遣する決断をしたことがわかった。複数の米政府関係筋が明らかにした。自国の領海という中国の主張を認めず、航行の自由を行動で示す狙いがある。派遣の時期や場所などを最終調整しているが、中国政府が反発するのは必至で、中国側の対応次第では米中関係が緊張する可能性がある。(出所)Yahoo!ニュース、(配信元)朝日新聞デジタル、10月22日
 【北京・石原聖】中国軍制服組トップの范長竜・中央軍事委員会副主席は17日、北京で同日始まった安全保障に関する国際フォーラムで講演し、南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)諸島での埋め立てや建設について「民間利用が主な目的で航行の自由には影響を及ぼさない」と強調、中国が造成した人工島の12カイリ(約22キロ)内への艦船派遣を検討している米国をけん制した。国営新華社通信(英語版)が伝えた。(出所) Yahoo!ニュース、(配信元)毎日新聞、10月17日21時6分

『民間利用が主目的で自由な航行に影響は及ぼさない』と中国は主張しているようだが、仮に同じ南沙諸島でフィリピンが領有権を主張して、埋め立て工事を進め、そこに灯台を建設したうえで、同じ主張をしても中国は容認しないだろう。その行動には、係争中の土地を先手を打って実効支配しようとする意志が込められているからだ。

なので、これは中国・フィリピンの領有権紛争であって、言語表現とは関係ない。

その紛争に米国が半ば軍事的に関係していこうと言うのだから、紛争当事国が増えることになる。アメリカの観点から対比関係と対中関係を天秤にかけた判断なのだろうが、そもそもアメリカからみたフィリピンは、戦前期に日本海軍への警戒感をもつに至る主因でもあったし、さらに対日関係の悪化を招いてもどうしても死守しなければならないほどの戦略的重みをもっていた。

中国共産党はその辺を甘く見ているのではないか……と。ひょっとすると「21世紀のキューバ危機」になるかもしれない。

アメリカはソ連市場に関心を持ってはいなかったが、中国は元来はアメリカの顧客である、というか最大の顧客であれかしと(アメリカの方は)願っている ― その管理拠点を設営する適当な土地を日本は賃貸しして生活水準を維持するのだろうが。

米中100年のすれ違いはまだまだ続くのか・・・

いずれにしてもアメリカの拙劣な(?)外交戦略の一つの帰結である。



2015年10月19日月曜日

業務用メガネを新調

「予測の技術」は実習中心にしないと意味がない。定常性や自己相関、偏自己相関についてレクチャーすることも大事だが、実際のデータを図に描いて、たとえばホルトウィンタース法やボックス・ジェンキンズ法で予測計算をやってみないと使えるようにはならない。統計的予測は必要なときに使うための技術だから、理論自体に大した意味はないのである。それで授業ではPC持参にしている。

毎回事後課題を出しているので、Rの"forecast"を使っている。となると、コマンド操作になる。

いやはや、最近みんなが使っているノートPCの小さいこと、小さいこと。大体、使っている自分自身で画面が見えているのかなあ……?Rではコンマとピリオドの使い分けが決定的だ。間違えるとエラーになる。エラーメッセージを読むことも大事だ。学生から手が挙がると見に行く。字が小さすぎて読めんのだね。手を挙げた人からして、『コンマか、ピリオドか、分かんないんだよね』と言ったりするから、かなわない。

昨日は北大の近くにあるグラスタイム・シバタで「業務用メガネ」を作ってきた。


単式の跳ね上げ式になっている。あげれば裸眼、下げれば中近レンズになる。

これまでは、メガネを鼻にずらし落として手元の資料をみて、メガネをあげては3メートル先の学生の顔を認識していた。質問で手を挙げた学生のPC画面は裸眼でも、レンズでも読み取れない。老眼鏡がないとダメ、だからメガネを換えないといかん。さすがに煩わしく実行可能ではない。

いま探しているのは、ほどほどのサイズで携帯しやすく、十分な倍率があるルーペである。商品ラベルや本に掲載されている図中の文字を読む時、いちいち直径10センチもある大型ルーペを取り出すのは不便だ。そうかと言って、1センチほどの昆虫観察用ルーペでは話しにならない。どこかにないものかなあ……。

2015年10月18日日曜日

徹頭徹尾一貫してせられたし: 従軍慰安婦、強制徴用問題

戦後70年を経たにもかかわらず、もはや最大の外交問題となってしまった「歴史問題」。

現在においてさえ、日韓間に存在した、というか存在している標記の歴史問題を生きたテーマとして研究し、議論する専門家は多数いる。
西洋史学者の林志弦(イム・ジヒョン)西江大学教授(56)は最近、自己紹介するとき、歴史学者ではなく「記憶の運動家(memory activist)」という表現を使う。民族や国家を前に出して隣国と衝突を起こす自国史中心の限界を超え、地球的観点から歴史または記憶を普遍化してみ ようという趣旨だ。ここ数年、執拗(しつよう)に追跡した「犠牲者意識の民族主義」も、国史パラダイムを超えてこそ歴史をきちんと見ることができるという 問題意識から出発した。

 例えば、ユダヤ人がナチスによる大虐殺の犠牲者という事実を押し立て、イスラエルによるパレスチナ 人抑圧を正当化したり、第2次大戦当時ポーランドがナチスから大きな被害を受けたという理由で、ユダヤ人虐殺を助けた加害者としての責任を認めなかったり することを批判している。

(中略)

 今年の1学期に漢陽大学から西江大学へとポストを移した林教授は、少し前、大学内にトランスナショナル人文学研究所を設立した。来年8月、ベルリンの 「テロのトポグラフィー」と共同で、ナチス占領期および日本の植民地時代における強制徴用を比較するワークショップをベルリンで開催し、翌年はソウルで、 交互開催方式を用いて比較研究していく予定だ。林教授は「強制徴用や従軍慰安婦問題は、韓日間の民族的対立という観点を超え、反人道的人権侵害という普遍的問題としてアプローチする方が、世界の人々の共感を得やすい」と語った。 
(出所)朝鮮日報 Chosun Online、2015年10月18日

要するに、下線部に述べられているように民族間の「歴史問題」としてではなく、人類社会にとってより普遍的な「人権問題」として提起し、解決していく方向がより望ましい。要旨はこれに尽きる。

もし普遍的な人権問題として問題を提起するなら、「戦争」という政策をとる以上必然的に発生する敵国の国民殺害という行動自体を最大の人権問題にするべきである。また、同国人の生命をそのまま兵器に使った日本の特攻作戦、というよりそもそも戦争を準備する法制度である徴兵制も窮極の強制徴用であり、これもまた普遍的な人権問題として同列で議論するべきだと言う結論になる。

つまり「戦争」という政策を政府がとるということ自体が最大の人権問題である。

故にロジックとしては、あらゆる「戦争」を否定する「非戦」を主張するのでなければ論理一貫しないのが上の議論である。がしかし、では人権をまったく顧みないテロ集団にどう向き合ったらよいか? 反人道的人権侵害を繰り返すテロ集団と認定されれば、その集団には人権はないのだから反人道的に抹殺してもよいというロジックになるのか?おそらく残虐な人間集団に対する怒りは、これまた普遍的な集団感情であるので、つまるところ「どちらが正しいか、正しいのはこちらだ」という議論になるのではないか。つまり、「それが正しければ戦争を実行しても良い」。そうなるのではないか。

そう考えるなら、二つ以上の国家が戦争状態に至る可能性を防ぐことはできない。これは明らかだ。

一度「正しい戦争」を認めるなら、「それほどでもない人権蹂躙行為」はすべて許されてしまうだろう。

そう考えない、つまり「どちらが正しい」という議論自体をもう止めよう。 そう考えるなら、歴史問題をモラルとして議論する見方は消え去り、すべては紛争と調停、損害賠償と慰謝料の話しになる。小生は、これが望ましいと思う立場にあるのだが、そう割り切るのは「国民感情・民族感情」がある以上、現実には無理だろう。歴史とは、つまりプライド、結局は感情の話しなのだ。感情が未整理のままある限り、歴史を話さずにいられるはずがない。

なので、日韓間の歴史問題を「人権問題」として抽象化・普遍化するのは、(一応)解決するための一つの方法かもしれないが、だからといって「歴史問題」が消えてなくなるわけではなく、いずれまた再燃するかもしれず、人権が尊重される時代が来るとも限らず、人権が踏みにじられる同じような事態が繰り返される可能性もあるだろう。

★ ★ ★

それにしても、この秋に日本に参入したNetflix、更に来年には韓国、台湾、シンガポール、香港に進出するようだが、中国本土への上陸はかないそうにない。そこはアリババの天下である。思えば、中国市場でのビジネス展開はアメリカの国家的宿願であった。遠くさかのぼり、戦前期にアメリカが日本に加えた外交圧力と太平洋戦争開戦に至るまでのアメリカの根本的動機はアメリカ企業の顧客確保であった。 アメリカは日本に戦争では勝ったが、中国市場は共産革命によって閉ざされ、アメリカは戦略的には失敗した。そして今なおアメリカ企業は中国市場で自由に事業を展開できてはいない。

国民感情は移ろいやすい。リアリティは心の中には存在しない。感情に基づいた意思決定を行うべきでないのは、個人も国家も同じことである。

2015年10月17日土曜日

20年前、30年、40年前からの読書予定

読むつもりで買いいれ、しばらくはツンドク状態であったものの、その時その時の仕事に追われいつの間にか書棚に飾られるばかりの存在になってきた本は誰でも持っているのではなかろうか。

大学に戻ってからまずは数学を勉強し直そうと思って、学生時代からいつかは全部読破しようと思っていたスミルノフの『高等数学教程』全12巻を買い揃えたのは、隣町S市のどの書店だったか…。旭屋書店はもうないし、紀伊国屋書店も丸善も移転してしまった。

それとウィリアム・フェラーの『確率論とその応用』だ。これはⅠ、Ⅱに分かれていて、それぞれが上巻・下巻からなる。これも大変な古典であるが、この本を読んで何かの仕事に役立てようと言う人はいまはいないだろう。

まあ、いうなればどちらもクラシックカー、というかLPレコードのような存在で、実用上の価値はもうないと言えるかもしれない。ではあるが、頭脳がフォローできる間に読んでおきたいものだ。

なので、知的能力が衰退するまでの読書リストの第1位と第2位は

  1. スミルノフ『高等数学教程』(共立出版)
  2. フェラー『確率論とその応用Ⅰ、及びⅡ』(紀伊國屋書店)

であるが、これは学生時代からの古証文を返したいという気持ちに近いのだな。

加えるに、純文学から挙げるとすれば第3位に

  • 源氏物語

が入る。紫式部の平安朝古典原文を谷崎潤一郎の現代語訳と対比しながら読み進める時間を持ちたい思いがずっとあり、趣味の側ではそれがずっと課題の常連であった。これまた40年以上たな晒しである。

小生は読むのがとても遅い。速読は苦手だ。だから借財が残ってしまう。

が今も目の前には、Provost, et.al.『戦略的データサイエンス入門』と平井有三『はじめてのパターン認識』がある。

自転車操業の仕事ップリの象徴である。面白いとは思うが、小生のビジネスであり、もうそろそろいいんじゃないか、と。

本当にやりたいことは、ビジネスにはならないものだ。


2015年10月14日水曜日

印象派的な反・経済学スタンスの迷妄

今年のノーベル経済学賞はProf. Angus Deatonが受賞した。小生が若いころは(といっても小役人を辞めてから後のことだが)、一心に消費分析にすべてのエネルギーを投入していて、特にDeaton & Muellbauerが著した"Economics and Consumer Behaviou"(Cambridge UP)はスタンダードな教科書として隅から隅まで読みつくしたものであった。実に面白く、切れ味の良いテキストで、知的刺激という点でこの上をいく本にはまだ出会ったことがない。研究テーマの選択においても極めて大きな影響を受けた。なので、今年の受賞をきくと何だか青春時代が蘇るかのような心持になって大層感慨深いものがあるのだ。ご本人に会う機会をいまだ持っていないのが残念だ。

さて……、

とはいえ、経済学は最近ずっと分が悪い。世間では特に影が薄いというか、経済学と言う学問分野に対してあまり良いイメージを持たれていないのじゃないか。そんな雰囲気を感じたりするのは、小生が齢のせいで偏屈になってきているのだろうか。

先日、文科省が提唱した国立大学の人文・社会部門統廃合論。そうでなくとも、『経済学部に入って何ができるようになるのか』という揶揄的な目線は確かに昔からある。

『すぐに役立つことを学んでも、すぐに役に立たなくなりますよ』と話したりするのだが、一般に世の中には反・経済学感覚というのがある。

経済学を一度でも活用した人と、ずっと縁がなかった人とでは、話しをするにも時に大きなコミュニケーション・ギャップを感じることが多いのだ。

物理学や化学が分からなくとも『この分野は素人なものですから』というところを、経済学に対しては『世の中、経済云々では割り切れないと思いますしねえ・・・』などと、謙虚さとは反対に、お金の話で割り切る経済学者というイメージを藁人形にしたてるような攻勢をかけてきたりする。

× × ×

お金の話しに帰着させるのは良い態度ではない。そんな感情が根底にあるのだと思う。

「特に日本社会では」というつもりはないが、カネの話しは品が悪い。何か頼みごとをしたときに「いくらくれるんですか?」と応じられれば、誰でも鼻白むものだ。カネに転ぶ人だと思われること自体が損失である。

金銭よりは大義名分。ズバリいうならそういうことだ。

そんな貴穀賤金の思想は程度の違いはあれ、どの国にもあろうと思う。カネよりは、中身が社会を豊かにする。これは当たり前の事実だ。

それ故、カネがなければ病気も治せない。学校にだって行けない。そう言うと、それはカネ万能の世の中の仕組みが悪い。そういう議論になる。

しかし、この議論はカネが表している中身と、カネ自体、つまり紙幣とを混同している。

× × ×

経済学ではカネの話しをする。特に、マクロ経済学ではそうだ。GDPも通貨単位で測られている。

モノやサービスの裏づけがないカネは誰も使わないし、持とうともしない。持っていても意味がないからだ。

カネが増えるのは、カネで買えるもの、つまり豊かな生活をもたらすものが、それだけ増えているからだ - 「幸福」の増減とは違う。

経済学はカネの議論をするが、紙幣というモノの材質を分析することはしない。使われ方や社会的作用を分析する。

何事もそうだが、よく話しをするからといって、それが一番大事であると言っているわけではない。

音楽を仕事にしている人は、音楽の話をすることが多い。だからといって、音楽が人類社会で最も大事だとは思っていないだろう。音楽よりは食糧、いやもっと広く衣食住に欠かせない必需品のほうがはるかに不可欠だ。

× × ×

貧しい状態から豊かな社会になることで自然に解決される問題がある限り、経済学は必要である。そして、経済学はずっとカネの話しをするだろう。

カネの話しをすることによって、その国が成長軌道に乗り、乳幼児死亡率が低下していくなら、エコノミストは喜んでカネの話をするはずだ。貧困と悲惨、そして内戦や邪教の蔓延までも、豊かさを追求することで解決される問題は多い。

豊かさを通して貧困を解決することの副作用は、長寿を目指してきた医学が、長寿なるが故に独居老人の孤独を増やしてきたことと似た問題である。それはそれで解決への道筋を考えればよい。

2015年10月11日日曜日

愚息の急な帰郷

札幌で友人の結婚式があるとかで、いま新潟にいる下の愚息が昨晩拙宅に帰ってきた。

話しを聞くと小生の教育が過剰だったようであり、いまMacAllanの15年を飲んでいるという。MacAllanか…、ちょっと贅沢じゃないかねえ。そう思ってもいたのだが、15年ってあったかなあ?12年は家にもある。その上は…、シェリーオークだと18年だね。ファインオークでも17年である。15年はないぞな。なになに17年で1万円。シェリーオークの18年になると2万2千円か。結構高うござるなあ。まったく高コスト体質にはまりこんでおるのか。それにしても15年ってないぞな。愚息の勘違いか…。

そんなことであったので、今回は厳しく対応しておいた。

小生: 人生を生きていくうえで、これが大事だと言うのを挙げてみな。 
下の愚息: う~ん、友人かな。 
小生: そりゃ、材料だろ。友人をつくるのが人生の目的じゃないだろが。 
下の愚息: だとすると、仕事。 
小生: いいかい。大事なことは三つある。一つは『仕事のミスをしない』、二つは『家族をもち、大切にして、次の世代をしっかりと育てること』、三つ目は『これらが自分のやりたいことであるようにしておけ』だ。 
カミさん: 最後のは分かりにくいね。 
小生: 60歳という年齢になってから、20歳の原点に一度たち戻って、同じ状況にたったときには、やっぱりその後は同じように生きていたはずだ。後悔はない。もし完全にそうなら、それが自分のやりたいことだった。そう言えるだろ。なら満点ってわけさ。満点じゃないなら、どこかで後悔している。悔いが残る。幸福には影がある。 
カミさん: 難しいと思うけどね。 
小生: 豊かになりたいなら、そのための戦略がある。楽しくありたいなら、そのための計画を立てられる。しかし、上の三つのいずれかで落第すれば、決して幸福にはなれないのさ。
そう…、三番目の条件はとても難しい。人が幸福になるのはとても難しい。だから、人は楽しいことを求める。豊かさを求める。それは幸福の代わりなのだ。

今朝はスマートフォンの充電器を忘れてきたというので、高速バス停留所まで送っていきがてら、途中でセブンイレブンによったら『売っていた』といって店内から出てきた。ヤレヤレ、しまらねえなあ…。それにしても、宅を出る少し前、『おまえ、風呂敷は持っているか』ときくと、勤務先にあるという。しかし、来年からはマイ風呂敷がいりそうだという。『じゃあ、俺が使ってきたのを見てみるか』ときく。『これ持って行っていい?』という。まあ、いいだろう。丹後縮緬で織った上品な利休でいい物だ。恩師に縁のある懐かしいものだが、小生の仕事机の抽斗の中でずっとクスぶっているよりは、倅の職場で使わせた方が風呂敷冥利というものだろう。早速自分の鞄に入れて持って行ってしまった。

小生はもう使わぬ。
風呂敷も さげ渡す代ぞ 木の実落つ 
昼まで秋晴れであったが、夕方にかけて強風が吹く。

2015年10月9日金曜日

FBのメッセージ入力と日本語変換速度

このブログの投稿数がちょうど千を超えてきたところだ。その位を目安にして、あとはボツボツとしたペースにして、毎日の覚え書はフェースブックに移していくかなと思案してきた。とりとめのない短い話しはやっぱりSNSに向いている。

そのフェースブックのメッセージはメールの代わりにもなるが、昨晩、返信を書こうとしたところ、日本語入力速度が極端に遅くて、1文字に1〜2秒がかかる雨だれ型になってしまった。たまたま飲み会の日程に関する内容で長めの文章を返すところだったので、これはイライラとさせられました。

原因は不明で分からぬ。ちなみに昨晩の出来事は、MacBook ProのFirefoxでコトエリを使っていた。

それにしても、うっかり改行すると送信されてしまう。シフトリターンで改行は可能。

変換でリターン、うっかりリターンキーを二度押してしまうと、文の途中でハイ、送信と。やりづらかった…。なるほど、欧文なら、こんなことはない。編集ウィンドウは数センチ程度。ポツッ・・ポツッ・・と1文字ずつ変換されて、日本語になる、すると画面下が消えて最後が読めない。スクロール…、ゆっくりと出てくる……・

まとまった機能を付けるにしても、中途半端な仕様だなあ、と思うねえ。

2015年10月8日木曜日

足元の景気後退はかなり確率が高い

景気動向指数の6月分速報が公表され、それが意外に良い数字であったので『今後の景気は末吉』とこのブログに記したのは8月8日のことだった。

ところが、その直後に上海市場が暴落して、世界的な株価不安が高まり、景気の見方は一変した。

昨日には景気動向指数の8月分速報が内閣府から公表された。NHKでは以下のように解説している ― というか、公表元である内閣府が記者レクでそう説明しているのだと推測される。

ことし8月の景気動向指数は、中国向けの金属工作機械の生産が落ち込んだことなどから、指数は2か月連続で悪化しましたが、内閣府は景気の動向に大きな変化は見られないとして、「足踏みを示している」としたこれまでの基調判断を据え置きました。

(出所)NHK News WEB, 2015-10-07 16:26配信

5月までの数字に基づいた事前予測と、6月から8月までの実際の値を比べると以下のようになる。
黒い実線は本年8月までの実績値、赤い点線が5月までの実績値に基づいた6月以降半年間の事前予測値である。

先行系列では実績が事前予測を大きく下回ったのに対して、一致系列では(弱含みではあるものの)なだらかな低下と予測されていた経路よりはむしろ上振れ気味に推移したことがわかる。このことは、現時点においてさえも、企業経営者の景気観が意外に明るいこととも符合している。

しかしながら、株価や商品市況、長短金利スプレッドなど10以上の経済データを総合した先行系列が継続的に低下すれば、やがて生産・販売にも影響が現れるというのが経験則である。先行系列の急低下は今後の景気を占ううえでの懸念材料になる。

昨日、公表された8月分速報も含めて、今後の国内景気はどう変化していくのだろうか?
あまり良くない。


確かに今夏の世界的な株価波乱は想定外であった。とはいえ、想定外のノイズだったから、世界経済は元の回復軌道に早晩復帰するだろうとは、言えなくなったようである。

足元の景気は決して良い方向には向かっていない。その確率が高くなってきた。ま、株を買うなら良いチャンスがめぐってきそうである。

内閣府の見方は少し甘い。政治的脚色が混じっているのではないか。




2015年10月5日月曜日

米豪間の「玉虫色」の決着

TPPは、どたん場で共同声明まで出せる雰囲気になってきた。というより、相互の妥協がなければまとまるはずもないし、早々の妥協をする権限などはどの国の交渉者にも与えられておらず、全ての交渉者にとってしなければならないことは、時間的デッドラインが来るまで、ギリギリまで、体力のもつ限り、徹夜の連続で交渉を続ける姿勢を見せることであった。

結論として、TPP決裂で幕を閉じ、今後は数年間のオーダーで漂流を続けるなどという選択は、国連ではあるまいし、アメリカ、その他のアングロサクソン諸国が主導する国際交渉において、とれるはずもない結果である。

ま、言ってしまえば「出来レース」であったのだな、当然のこと。

ただ、義務としてまとめにゃならんとなれば、最後は「玉虫色の決着」にはならざるを得ないわけであり、こんなツイートが届いている。Wall Street Journalからである。


日本的村社会の十八番であるのだが、共同利益を求める同調ゲーム的集団においては、「同調への圧力」が働く以上、とにかくまとめるための技術、つまりは「玉虫色の決着」が大事な調整スキルとなるのだ。

論理的な必要から生まれる決着のさせ方であるのだから、それは普遍的であり、正に戦術なのであり、どこにでも応用できる技術である。そういうことである。

ただ言語の特性として、日本語は曖昧模糊として、どうにでも解釈できる文章表現が自然に書けるのだが、英語にそんなモヤモヤした文章が書けるだろうか・・・・・・。まあ、書けるか、・・・少なくとも多民族を包括していたイギリス人ならその辺はうまいそうだ。いないけどね、イギリス人は。

2015年10月4日日曜日

人手不足 ― いよいよ日本経済も進歩の時代を迎えたか

OECDのTweetが届いた。
Sorry, robots - growth is greatest in jobs that require strong skills



昨日は、ビジネススクールの卒年次生が取り組むビジネスプランニングの一環でグループワークがあったので、モニターしてきた。

以前はWEBビジネスが流行り、この数年はシルバービジネスが多かったものだが、昨日聞いた範囲では人材トレーニング、それもコミュニケーション能力やリーダーシップに重点をおいた人材研修サービスの企画に関心が集まっているようだ。

社会的スキルが今後のビジネスマンには求められる。そういう仕事が増えるということだ。つまりロボットでは難しい仕事をヒトがする。そういう潮流がある。

専門的業務でもルーティンワークは既に人工知能やロボットによって代替されつつあるのが現実である。OECDのツイートもそれを裏書きするような報告だった。

機械で代替できる仕事なら、ヒトを充てる必要はない。現代社会において、相対的に高価な生産要素とは、ヒトである。育成コストがかかる。今後、高価な生産要素であるヒトを節約するための技術進歩が大いに進むだろう。仕事の数は減るかもしれないが、これは実に合理的な企業努力である。

☓ ☓ ☓

旧聞に属するが、日本国内の労働市場でも有効求人倍率が歴史的な高水準に高止まりしそうな状況になっている。
厚生労働省が28日発表した7月の有効求人倍率(季節調整値)は前月比0.02ポイント上昇の1.21倍と、1992年2月(1.22倍)以来、23年5カ月ぶりの高い水準だった。改善は2カ月ぶり。QUICKがまとめた民間予測の中央値(1.19倍)を上回った。医療や宿泊・飲食業などを中心に求人数の増加傾向が続いている。厚労省は「求人数が高止まりし、求職者数が減少していく状況は続きそうだ」としている。
(出所)日本経済新聞、2015年8月28日

労働市場の需要超過は、実質賃金の高止まりとして帰結する。その結果として、今後の日本社会では労働節約的な技術進歩が加速される。

ロボット産業の拡大と低コスト化、価格低下が進み、それが結果として社会をより豊かにしていくだろう。

古いタイプの仕事を探している人はますます見つからなくなるだろう。仕事は、その社会の、その時代に合ったものを探すしかない。政府は、時代に逆行するのでなく、多くの人が時代に追いつけるように支援をするのでなければ、うまく行かない。

経済のサービス化が進みながら、サービス業に従事する雇用者の賃金が非正規労働者への代替によって、あるいは一部の分野では政策的に、低めに抑えられてきた。それが長いデフレーションの背景にもなってきたのだな。

人件費の圧力を緩和する方法が企業に与えられてきたわけであり、それが生産現場、販売現場において最先端技術を活用した効率化がいま一つ進まない原因にもなっていた ― ビッグデータの活用に国内企業がいま一つ疑がわしい眼差しを向けているのも一例だ。そんな惰性が、賃金上昇によって一掃されることが、進歩のためには望ましい。

どうやら、日本経済の新たな「転型期」、というか変化の局面にさしかかっている。





2015年10月2日金曜日

想定外=ノイズとは限らない

将来予測の世界では、半世紀も前にBox-Jenkinsによって提案されたARIMAモデルが未だに現役で常用されている。

最初にボックス・ジェンキンズ流の「予測術」を勉強した時、予測誤差はホワイトノイズであらねばならないし、それ故に推定した結果として残る予測誤差がランダムになっていなければ、モデルを改善する余地がある。そんな発想がどうにもピンと来なかったものである。

何しろ、その頃は大規模マクロ計量経済モデルが「大鑑巨砲主義」よろしく全盛を極めていて、そのマクロモデルを構成する一本一本の構造方程式を立てるにあたっては、残差項のダイナミックな特性、つまりは系列相関をどう想定するかが大きなカギだったのである。

そんな作業プリンシプルに慣れ親しんだ身としては、残差項が予測誤差になるわけであるし、これは当然にホワイトノイズのはずである。そう来られると、思わず「違うでしょう」となったわけだ。

もちろん今では「当たり前のことである」という位には理解ができている。とはいえ、予測誤差、つまりノイズはつまらない一過性の要因に基づくものと決めつけるわけにはいかない。

ドイツのIFOからメールマガジンが届いた。


概要説明は以下のようになっている。
Der ifo Geschäftsklimaindex für die gewerbliche Wirtschaft Deutschlands ist im August auf 108,3 Punkte gestiegen, von 108,0 im Vormonat. Die Zufriedenheit mit der aktuellen Lage hat nochmals deutlich zugenommen. Die Unternehmen äußerten sich jedoch etwas weniger optimistisch mit Blick auf den weiteren Geschäftsverlauf. Die deutsche Wirtschaft bleibt ein Fels in der weltwirtschaftlichen Brandung.
(出所)上と同じ

ドイツ経済の回復基調は極めて堅調である。そうみている。但し、8月までの数字では・・・

実は、日本経済についても初夏の時点で景気動向指数の6月速報が内閣府から公表され、特に先行指数が事前予測を上回った数字であったことから、「停滞なるも先行き改善の気配ありで末吉」と書いた記憶がある。

しかしその後、中国株式市場を襲った突然の波乱で日本もパニックとはいかないまでも、秋が深まるにつれて、やはり景気は当面停滞かという状況になってきた。

上のドイツのデータはあくまでも8月時点の判断だ。突然降ってわいたような「VWスキャンダル」がドイツ経済にどの程度までネガティブな影響を与えるかはまだ誰も知らない。

予想もしなかった要因は「ブラックスワン」と呼ばれている。確かにそれはノイズであり、予測誤差をもたらす要因であるのだが、だからと言って一過性の雑音であるとは限らない。

経済の進展にはあらかじめ決まった発展経路がある。そんな(ある意味で)定常的な性質などはないと考えるのが、最近の経済観である。

だとすれば、歴史は経済から決まってくる側面が強く、その経済は白い白鳥ではなく、予想もしない悪役のブラックスワンが決めるということになるので、結局は時折天から舞い降りるブラックスワンが歴史を決めてきた。舞い降りるブラックスワンが多い時代は荒れた時代であり、比較的少ない時代は平穏な時代である。何事もめぐり合わせだネエ・・・そんな風にも言えることになるか・・・・・・。

こんな歴史観は何という名の見方でありましょう?

2015年10月1日木曜日

昨日のニッカ余市蒸溜所

先日は、四国・松山で暮らす年下の義理の姉と東京で合流したことを記した。昨日は、その義姉の息子が小生の住む町にやってきたので、ニッカ余市蒸溜所に行ってきた。簡単にいえば、甥になるのだが、いまのところ松山市内の某総合病院の「研修一年目」に在籍し、医師の修業をやっている。義姉にとっては自慢の息子だ。

昼前にきたので、まず漁港近くにある青塚食堂に行った。名物はニシンの焼き魚定食であるのだが、遠方から来てニシンをつつくことはあるまい。旬でもない。で、ウニイクラ丼を注文し、併せて焼きホタテ、焼き北寄、刺身盛り合わせを頼む。八角は品切れ、タラバ蟹はないとのことだ

マア、旨かったのだがウニは旬をすぎ、イクラはこれから美味になる端境期にあたるためか、それとも余りの客数で上質の食材が整わないためなのか、決して90点以上の出来栄えではないと感じた。

× × ×

余市蒸溜所のホームページをみると、こう書いている。
本日は通常通り営業しております。 余市蒸溜所の駐車場は大変混雑しております。ご来場の際は公共交通機関のご利用にご協力下さい。 工場内のロッカーの数に限りがありますので大きいお荷物のお持込はご遠慮ください。 【年末年始休業日】 2015年12月25日~2016年1月7日
駐車できるかどうか心配だったので、正面玄関近くの町営駐車場に停めることにする。が、着くと意外に空いている。『これならニッカの駐車場にも停めれたなあ・・・』と、そんな話をしながら構内をブラブラと歩く。昨年の初夏にも訪れたことがあるが、その時はマッサンの放映直前でかなりの話題になっていた。放映が終わってからも、観光客の勢いは衰えていないと聞いていたが、さほどではないようだ。

試飲室の混み具合もそれ程ではない。

外国人観光客が明らかに増えている。ツアー客である。ツアー旅行の目的地にニッカ蒸溜所が組み込まれてきたと推測される。

昨年度の予測計算では、放映終了ともにプラス効果は消失すると前提する低位予測、これまでの増加テンポが放映終了後も継続するという高位予測、放映中のプラス効果を固定的なものと考え、1年程度はその効果が持続すると考える中位予測の3通りの計算をした。聞けば、春先いらいの観光客数は中位予測を超え、むしろ高位予測に近い数字が出ていたそうだが、昨日再訪した状況を観察するに、これから勢いは鈍るのではないか、ただ札幌から旭川に回る観光客が減って、余市方面に回るツアー客が増えているという情報もあり、最終的にどうなっていくかまだ分からない。

ま、どちらにしてもドラマにせよ、映画にせよ、舞台になったことのプラス効果は一過的なものだと思っている。

× × ×

帰ってきて町の背後にある山に登ってから、拙宅に帰り、あとはワインやウイスキーを飲み比べる。

甥は、一人で飲むことはなく、ウイスキーは水割りしか飲んだことがなく、まずい酒だと思っていたとは話していたが、いざストレートグラスについで飲ませてみると、「竹鶴17年」のほうが「余市シングルモルト」よりは美味いと言い、ビート臭がきつくて正露丸のようにも感じられるスコッチの "Bowmore" のほうが「余市シングルモルト」以上だという。

フ~ム、余市シングルモルトはそれほどでもないか・・・。

「竹鶴17年」と「竹鶴21年」は、文字通り、ニッカの二枚看板だが、最近は手に入りづらい。余市蒸溜所の試飲室でも、出しているのは「竹鶴ピュアモルト」と「スーパーニッカ」になってしまっていた。Amazonではまだ品切れになっていないようだが、いずれ近いうちに在庫切れになるだろう。

それで小生の暮らす街でも、外観を新たにした「余市シングルモルト」や「宮城峡シングルモルト」が並び始めているのだが、あの匂いのきついボウモアのほうが美味いと言われては、ニッカにとって一寸厄介かもしれない。

ウイスキーが売れるのは嬉しいに違いないだろうが、継続的に良い商品は供給できるのだろうか。美味い酒は直ぐには増産できない。これから何を売るのだろう。

× × ×

夕食は町中のCafe P亭にてとる。

「北インド風カレー」はスープカレーではないが、相変わらず美味である。コーヒーの味もまったく落ちてはいない。

ウイスキーという酒が、食事中、食前、食後を問わない、一緒に何を食べているかにも影響されない、それでいて満腹にならず、少量でいい気分になり、しかも後に残らない、そんな酒であることはよく分かったそうで、松山に帰ってからの研究テーマが一つできた様子である。


小生の腹の調子は今一つだったが、甥は満足して、宿泊先のホテルで友人と待ち合わせているというのでJRで帰って行った。