2015年11月22日日曜日

断想 ― 人生の支えとは、結局、何なのか?

人が生きていくのに何が支えになるか?

あまりに広い問いかけだ。正解があるはずはない。回答も無数にあるだろう。

カネだという人もいるだろう。カネは関係ないという人もいる。家族か?仕事か?友人か?どれもない人はどうする?

だから正解はない。
とはいえ、最近、小生にとって最もおさまりの良い答えを見つけたような気がする。

人は、老いる前には希望によって支えられ、老いてからは誇りによって支えられる。人が死を選ぶのは、希望を失うとき、あるいは誇りを失って老いたときである。


小生が「誇り」などという語句を公言すると、失笑する人も多いはずだ。笑われることは分かっている。しかし、失笑に対しては失笑で返すのが定石だ。冷やかしに対しては冷やかしで、批判に対しては批判で、異論に対しては異論で返すのが、人間社会の定石だろう。

だから、(どこまでもへそ曲がりの小生は)年老いてからの支えは、つまるところ「誇り」ではないかと、個人の立場としては断言する。


幸福は生きる目的ではあるが、生きていくときに支えになってくれるものではない。そもそも幸福は常に自覚されるものではない。

だから若い時分は希望がいる。



誇りは若者の自尊心とは本質的に違う。若い時分に経験する成功体験から生まれるのは陶酔である。それは時間とともに薄らぎ、失敗によって帳消しになる。二日酔いに似たものだ。その頃にもっていた自尊心は反抗心と表裏一体の心情であった。

誇りを持とうにも、若い時分はその実態がなかったのだ。

真の誇りは努力と失敗の何層もの堆積によって支えられるものだ。失敗や苦杯が多ければ、それだけ多くの傷を心身にうけ、だからこそそこに誇りが自然に芽生える。そういうものだと分かってきた。

ワインの熟成にも似ている長い時間がつくりだす心の香りである。その香りがなければ、老いてからの人生は殺伐としている。

誇りという香りがなければ、後悔という人生の苦みを消すことは出来ない。


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