2015年12月31日木曜日

使えぬ・・・Surface Pro 4

タブレット風ノートPCといえば、まずはAppleのIpad Pro、そしてMicrosoftのSurface Pro 4の評判がいいようだ。どちらもPCとしても使用できる仕様をもち、加えて高性能のデジタル・スタイラスが付属しており手書きのメモを残すことができる点では共通している。

小生は、極端な手書き機能重視派であって、今までの経験では(世間の評価が高くはないのが不思議だが)SONYのVAIO Duo 13を超える書き心地を味わったことはなかった。タブレットの中ではデジタルペンの書き味が良いと評価されている東芝のRegzaで使うTruNoteよりも明らかに上である。

それでも100%完璧であったかと言えば、それはやはり不満はあったわけであり、だからSurfaceを購入してみたわけである。

アップルのiPad Proにしなかったのは、これまでのiPadの手書き機能にもはや諦めの境地に達していたからである。

さて、Surfaceは使えるか……。

使えぬ。

手書き機能はマア、マアだ。メインのOne Noteで使うデジタルペンは、期待したほどではないが、SONYや東芝に劣っているわけでもない。小生は、OneNoteよりMetaMoji Noteが愛用のソフトなのであるが、純正ではないこのソフトウェアを使う時にも、ペンの書き味、追随性は悪くない。加えて、OSがWIndows 10である。早速、RSudioをインストールして「どこでもデータ解析」を実行している所だ。

しかし、結局は使えぬ。

それはスリープから復帰するまでの時間に難があるからだ。一拍遅れる。画面が暗いままで待たされるのは結構不安を感じさせるのだ。これが第一。そして、時に復帰できない現象が多すぎる。これが第二だが、これ自体ですでに致命的ではないだろうか。暗いままで待っていると、いつまでたってもスタートしないわけだ。あれっ・・・では済まない。こんな問題を残したまま出荷するべきではなかったとすら思う。

モバイルですぞ。外で使う機会が多いのだ。カバーを開いて、スイッチを押しても、戻らない。これだけでモバイル失格だ。

小生も色々なマシンを使ってきたが、スリープから復帰できない製品に出くわしたのは初めてだ。

Googleで調べると、色々と類似の現象を起こしているようだねえ。やはり購入がはやすぎたかもしれない。少なくとも授業では使えないねえ・・・・・・。いざ始めようと思ったら、「アレッ!・・・」というのでは話にならぬ。

2015年12月30日水曜日

今年一年の棚卸し

今年の投稿数も本日を含めて184稿。昨年とまったく同じになった。ま、一年365日。隔日ペースで180日とあと2〜3回。これが平常ペースなのだろう。

今年の投資は、米株は絶好調、日本株は微増という塩梅だった。

最初は、米株と日本株が半々のウェイトにしたのだが、今では米株が3、日本株が1の割合にまで格差ができてしまった。

とにかく日本株は株価が上がるとしても亀の歩みだ。東京市場の最大の問題である。

もちろん事後的にみれば、日本でも急成長した銘柄がなかったわけではない。が、そんな銘柄を発掘する面倒を普通の個人投資家のだれが容易にできるか。これがポイントだ。結局、日本株に投資した人で大成功したのは少数の幸運に恵まれた人たちだけでなかったのか。

東京市場は成長とは関係しない、もはや世界の仕手株市場。ごくごくマージナルな市場になってしまった。そう感じるのだな。

羊辛抱、申酉騒ぐ。せめて来年は少しは飛躍してほしいものだ。

★ ★ ★

歳末になってまで騒いでいるのはやはり日韓の歴史問題。

今度の日韓合意をめぐっては日本国内はまだしも韓国では大荒れのようである。

小生の勉強不足のせいだろうか、どうもよく分からぬ事がある。それは韓国側が頻繁に口にする日本の「法的責任」だ。

一体、どこの国の何という法に基づく責任を求めているのだろうか?こんな初歩的疑問を記すのは恥ずかしいのだが、小生は素人なので、仕方がない。

それは日本の法か、韓国の法か、国際法かのいずれかしかあるまい。それも、厳密に言えば、現在の法ではなく、当時(=戦争中)の法でなくてはならないと思われる。

もし日本の法に基づいて日本に不当行為があり賠償責任があるならば、とっくの昔に日本政府が実行するか、もしくは日本の裁判所が賠償を命じていたはずである。20年も紛糾するはずがないと思うが、一体、どないなったんのや。そう思うのは小生ばかりではあるまい。

では国際法に基づいた責任が日本にある可能性があるのだろうか。

もしそうなら、韓国側は国際司法裁判所で決着をつけようと主張するべきである。しかし、そんなことには一言もふれていないのではないか。というか、半世紀前に締結された日韓基本条約を素直によめば、国際法によるとしても、日本に「法的」な賠償責任はないという判断になるのではないか。 そんな見解をどこかで目にした記憶があるのだが・・・。

最後に、韓国の法が外国である日本国の政府に対して適用される事はないので、これは考えるだけ無駄であろう。

だとすると、韓国のいう日本の「法的責任」とは、どこの国の何という法に基づく責任なのだろう。朝鮮日報、中央日報など韓国紙の日本語版を読んでも、この辺の具体的な内容が書かれていない。だから、彼の国の言い分がストンと理解できないのだ。

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ま、法的責任がないのであれば、あるとすれば道義的責任ということになるが、法によらずして政府予算から(韓国側基金に出資する間接方式だとしても)韓国人女性に給付してもよいのか。いかなる受給権をそこに認めるのか。日本の国内法に照らして法的に妥当な支出なのか。

特別法でもつくるのだろうか。

会計検査でアウトになる心配は金輪際ないのか。

日本側でも法的にきちんとしてほしいと感じるのは、小生だけだろうか。

2015年12月28日月曜日

北海道の鉄道事業: 認めるべき大前提

再びJR北海道で鉄道事故が起きた。旭川・鷹栖間にある函館本線・嵐山トンネル内で発生した火災である。寒冷地域ではトンネル内で出来た氷柱が架線に接触しないよう水を脇に流す必要性がある。天井部分にウレタンでできた漏水防止板をはりつけるのはそのためだが、ウレタンに火花が散ると燃えやすい。列車が走行する際に架線から飛ぶ火花が原因となって火災事故が起きるのはそのためだ。今度もそうであったらしい。

JR北海道では最近数年間に重大事故があいつぎ、安全管理体制には疑問符がついている。JR東日本から技術的支援を仰ぎながら改善には努力していると聞いていたが、なかなか道のりは遠いようだ。

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「道のりは遠い」と書いたが、この道はどこかの出口に通じているのだろうか。JR北海道が歩んでいる道は、実は「迷路」なのではないか。単に「迷走」しているだけではないのか。そんな視点も必要だろう。小生はへそ曲がりなのだ。

安全管理とは要するに安全のための資金投入を惜しむなということである。マージナルに資金投入を増やしたときに、マージナルに増加する収入が支出を上回るなら、安全のための支出を増やすべきである。これが経営上の基本ロジックだ。

ロジックに反した経営をすれば、経営不安につながる。

しかし、JR北海道が置かれている経営環境を考えるべきだ。安全投資をして、それが主因となって乗客数が増えるだろうか。そうは思えないのだな。では、乗客数が増えないとして収入を増やすことができるだろうか。もしJRが暮らしの中の必需財であると思う人たちがいれば、料金を引き上げれば収入は必ず増える。というか、安全とは、JRを利用する人たちのための安全なのだから、JRを特に必要としている人たちが安全コストの多くを引き受ける。それが本来の理屈だろう。

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現実には、そんな理屈は通じない。世間も政治もそんな理屈を容認はしないだろう。

北海道は広い。そして住人の密度はうすく散らばって暮らしている。鉄道走行のための一人当たりコストは高い。加えてJRが自ら負担すべき鉄道維持補修コストも高い。北海道の気象は変えようがないのだ。

そもそも北海道には純粋の私鉄はない。JR以外の経営主体があっても公営である。 公営鉄道は私鉄とはいえない。

離島的特性のある四国ですら愛媛県には「伊予鉄」(=伊予鉄道株式会社)があり、香川県には「琴電」(=高松琴平電気鉄道)がある。松山市内には伊予鉄バスも伊予鉄タクシーも走っており、都心では「いよてつ高島屋」が人を集めている。その伊予鉄の鉄道事業も松山市周辺部に限定したものである。ところが北海道には私鉄がない。ないのには理由があると考えるべきだ。

鉄道事業は十分な人口密度がなければ経営できない。
要するに、北海道で鉄道事業を経営するのは至難である。というか、石炭も樺太等北方貿易もなくなった現在、そもそも不可能なのだろう。

JR北海道が安全のために十分な支出ができないのは、安全のために費用を負担しても収入につながらない「不採算路線」が多いからである。そのため、収入を期待できる都市型事業に資金を投入せざるをえない。そこで得る利益で鉄道事業を維持するためだ。その都市型事業も競合他社との競争を避けられない。故に、鉄道事業の安全が不十分になるのだ。このような経営をしている企業は最終的には必ず破綻する。

JR北海道の安全面での弱さは、努力不足ではなく、論理的な結果である。
逆に言えば、鉄道の安全を十分に確保する経営を行うなら、JR北海道は経営不安に陥る可能性がある。

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  1. 安全を重視したいなら、主要路線以外の路線を低コストのバスに切り替えるのがロジックだ。厳冬期にも安全な道路を整備するのは国と道である。
  2. 北海道全域の鉄道路線を死守するのであれば、料金を引き上げ増収をはかる。
  3. 料金引き上げによる増収が難しいなら、安全をその分犠牲にせざるをえない。
  4. JRの鉄道路線は北海道の公共財だと考えるなら、財政資金を投入するべきである。

選択肢はこの他には考えられないと思うのだ、な。

ただし、既存の発想をくつがえすようなイノベーションは考慮していない。

2015年12月27日日曜日

「経験していない=決してわからない」ことは多数ある

話をきくだけでわかることは多数ある。一般に知識・学問といわれるものはそうだ。

逆に、説明をきくだけでは、本当の意味で理解が不可能であることも多い。


母は戦争世代であり、都市に居住していたので空襲の経験者である。空襲警報が鳴った時の恐怖や、迎撃する日本の戦闘機のエンジン音が聞こえた来た時の気持ちは小生にはわかりようがないことだ。

迎撃する日本の戦闘機には日本の操縦士が乗っており、生還する確率は極めて低かった。

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日韓を悩ませてきた「従軍慰安婦問題」が「解決」するかどうかの瀬戸際にさしかかっている。そんな報道である。

しかし、この問題は「解決」という状態がそもそもありえないわけであり、何かをするといっても、それは両国の政府間で何かの措置に合意する文書を残すということである。

そんな文書が政府間で作成され、公表されたからと言って、当事者たちの経験はなかったことにはならないし、過ぎた時間が戻ってくるわけでもない。

個人や家族の問題としてとらえるとき、未解決・未対応の問題はいつまでも残ることだろう。それが外交問題にはもうならないとしても、だ。

これまた、当事者になってみないと所詮は経験したことではなく、本当にはわからないことだ。


一人の人間が生きるとき、自分の若かった時の心情は自分で記憶しているものである。しかし、自分が50歳になったときの自分、70歳になった時の自分、90歳まで長生きした時の自分が、何をどう思っているか、事前には全く分からないものである。

若いころに想像する齢をとった自分は、実際に齢をとった自分とは、想像を絶するほど違う。

齢もまた、とってみないとわからない。

いや、覚えているはずの記憶ですら、自分に都合のいいように上書きされるものである。カズオ・イシグロの作品『日の名残り』では、そんな風に述べられているそうだ。読んでみなければならない。

2015年12月24日木曜日

日本人ゴルファーの弱さ: ないものを探してもダメではないだろうか?

ゴルフ談義は面白い。スポーツは戦争とは違うが、人生と暮らしをかけたギリギリの勝負の場では人間の生の姿が露わに出てしまうからだ。

こんなコラム記事があった。韓国人ゴルファーの活躍ぶりを考えたものだ。

少し長くなるが抜粋しておきたい。

テレビ画面に引き込まれるほどのつばぜり合いは、正直あまり思い出せない。「日本の選手はトーナメント終盤で勝負弱い」と嘆くより、外国人選手、特に韓国選手の終盤で争い合ったときの、あの強さは何なのか。少し掘り下げてみる価値があると思う。 
 米大統領就任式で、新大統領の宣誓の最後に必ず口にする言葉がある。「So help me God」(神よ助けたまえ)。大統領としての執務に全身全霊をささげ、最後は神の力に委ねる。最後の孤独な、そして世界の情勢を左右しかねない決断をしなければならないときでも、神が存在する。不安や疑いを消すのが神の存在なのだろう。 
 今年のゴルフ中継を見ていて、イ・ボミのほか何人かの韓国選手が胸で十字を切るのを目にした。実は、韓国民の約3割が熱心なクリスチャンで、儒教や仏教を上回るといわれている。新宗教といわれる宗派もキリスト教が源流とされ、しかも相当熱心な信者の集まりであることは広く知られている。別に宗教の種別は何でもいい。強い信仰心が、不安や疑いを消す役目を果たしているのではないのかと思うのだ。 
 日本では戦後、信仰心が薄れたという見方がある。もちろん、正月は神社に初詣、お盆と葬式は仏教で、それにクリスマスと教会での結婚式など、宗教に関わるいろいろな行事が1年中続く。ただ、それらの行動が熱心な信仰心によるものかといわれると、考えてしまう。 
 とすると、優勝まで最後の数ホールを残して1ストロークの攻防を繰り広げている、あの日本選手たちはどうか。隣にキャディーがついているとはいえ、自分のショットや攻め方の不安や疑いを、結局1人で背負ってしまっているのではないか、と思えてならない。 
 韓国選手が強いのは、恵まれている日本選手と比べて「ハングリー精神」が強いからとよくいわれるが、それだけではないはず。日本選手も大事な場面での神に代わる存在を探さないと、ここぞの一打で不安や疑いはずっとつきまとう。強い心、すなわち自分を信じる強い気持ちで不安を消すことができるようになれるだろうか。新シーズンの日本選手の奮起を願ってやまない。
(出所)日本経済新聞、2015年12月24日

結局は、神という存在に着目したか……。なるほど。

西欧で神の首を切り落とした哲学者がいるとすればそれはカントであると詩人ハイネは書いている。

そのハイネの言は、カントの中の『純粋理性批判』によるものだろう。結局のところカントも『実践理性批判』において、人間の善悪というモラルが成立するには神という存在が必要であり、人間が人間たりうるには神の存在を前提しなければならない。故に(?)、神を肯定する。そんな論法をとった(と小生は解釈している)。

「こうしようと思うが、これでいいのだろうか……」と、そんなギリギリの根源的疑いの崖っぷちに立った人間一人が、最後に頼れるものはその人自身の理性であるというのは無理だろう、ということは、まず洋の東西を問わず誰でも認めるはずだ。ヒトは理屈で頑張るものではない。

だとすると、天の神にゆだねるか、他の人間に帰依するか。このいずれかしかない。

戦前期の日本人を支えたのは皇国日本というバックボーンであったろう。言い換えればこれは国家神道なのだから、やはり宗教的思想だったといってもよいのではないか。

上に引用した記事の最後に「神に代わる存在を探さないと」と書いているが、そんな存在は何もないし、あるとすれば『そうせよ』という上役、というかハッキリ言えば主君という存在だろう。

まあ、サムライといえば聞こえはいいが、サムライとは漢字で書けば侍。侍従という言葉があるくらいで、君命を待つのが本来のサムライである。

日本の誇るべき精神的主柱として武士道を無視することはできないが、仕えるべき主君、守るべき家をなくした日本人の弱さがここにはある……と感じるのは小生だけだろうか。

2015年12月23日水曜日

日記―男二人の焼肉パーティ

昨冬は11月から猛吹雪が毎週のように襲来し、それも爆弾低気圧とかで記録的猛吹雪になるでしょうという天気予報が繰り返し、繰り返し流されていたものだ。ま、結果としては、小生が暮らす道央地方はそれほどでもなかったが、それでもクリスマス前の今頃は雪が1メートルを超していたように覚えている。

今年はまだ積雪ゼロである。ホワイト・クリスマスどころではない。昨日も雨が降った。『長崎は今日も雨だった』ではなく、札幌は今日も雨だったの世界だ。

昨日、新しく着任したばかりのT准教授と市内の某レストランで年忘れ会をやった。氏は日曜日に大連から戻ったばかりである。雪見酒を期待して昨日に設けたのだが、まったく雰囲気がでない。食べたのは焼き肉だ。
炭の香や 牛肉あぶりて 夜深し
映画をみることがあるかと聞くとTさんは『ウォール・ストリートがいいですね。マイケル・ダグラスのあの映画はアメリカのピッツバーグで勉強していたとき、毎日のようにみて、それで英語を勉強してました』。

過ぎた時間を思い出す人に特有の表情と声でそんなことを話した。

そういえば、小生の旧友に金融専門家であるYS先生がいるのだが、彼もまた留学した当座は毎日のように映画『ブレードランナー』(=アンドロイドは電気羊の夢を見るか)をみて英語の勉強をしていたそうである。(ある意味)追いつめられるような状況に自らを追い詰め、将来への道を切り開く勉学の場をアメリカに求めたのであった。

作品は異なるが、似た状況におかれた日本人の若者がおなじようなことをして英語の勉強をしていたことに関心を刺激される。

小生の母方の曽祖父は、明治になってから旧幕期以来の老舗をつぶしてしまい、それでアメリカの桑港に渡航して、某ホテルの皿洗いを手始めに肉体労働に従事し、何年かのあと小金を蓄えて日本に帰国し、店と土地を取り戻したそうな。会ったこともない曽祖父であるが、小生と共有してはいない時間の中で、そんな人生を歩んでいたことが子供心に非常に面白かった。ただ、曽祖父の時代は、活動写真があったとしても無声映画だ。英語の勉強は行きの船の中でやったのだろう。

それもこれも今では茫々たる過去のことになった。

2015年12月20日日曜日

古い記憶: 叔父の講釈と詭弁

小生の従妹のご夫君が比較的若くして世を去った。叔父から届いた突然の訃報であった。

その叔父には、小生が社会に出るとき、いろいろと世話になったことがある。

たまたま受けた公務員試験に合格して小役人になろうとしていた小生に叔父は公務員の安給料をあげて『悪いことはいわない、止めとけ。必ず後悔する』と忠告したものだ。

小生: 社会のための仕事をして報酬をもらえるなら、それは金儲けとは別でヤリ甲斐を感じるんです(青臭いネエ……)。 
叔父: 民間だって仕事をすることで社会には貢献しているんだぞ。社会のために仕事をするなら、民間も公務員も同じだ!
恥ずかしながら、小生は叔父の意見を正面から論駁することができなかった。

民間企業が栄えてこそ、日本の繁栄がある。公務員は税金から給料をもらっている。だから『国のために仕事をしているのは、役人も会社員も同じだ』と言われると、グッとつまったのだな。

いやあ、無知蒙昧であった・・・。
いまなら、叔父の詭弁を認識することができる。

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会社とは「営利法人」である。当たり前のことだが、利益をあげられなくなれば会社は倒産する。

故に、目の前にローリスク・ハイリターンの投資機会がありながら、余裕資金を「地域社会に貢献できる」という単にそれだけの理由から、低収益が見込まれている廃棄物処理事業に資金を投入するならば、その経営陣は株主総会を乗り切れないはずである。

会社は投資家が満足できる利益を提供する必要がある。

利益を求めざるをえない経営陣の経営戦略を実現するために従業員を雇用する。取締役ではない会社員はすべて「部下」である。故に、会社員の目的とは自社利益である。公益ではないし、まして他社の利益ではない。他社の利益を図れば「背任」にあたる。

他方、いかに小役人であっても役人の仕事の目的は公僕であることであって、役所の利益ではない。

会社の利益のために行動する会社員はモラルにかなっているが、役所の利益(=定員・予算・天下り先)を主目的に行動する役人は非難される。

★ ★ ★


正しい結果が予測されるからと言って、その行動が正しいわけではない。

社会的な公益が予測されるからと言って、社会のために行動しているとはいえない。

自社利益の追求は、公益の追求に動機づけられているわけではないのだ。


2015年12月17日木曜日

夫婦別姓合憲判決に思う

表題の件で最高裁判決が出た。夫婦同姓は合憲という判断だ。

これに対して、(新聞紙上では)女性差別の現実を見ていないという反発がある。もちろん家族の伝統を守るものだという肯定論もある。

フ〜ム……、思うに夫婦同姓を法律が求めるからといって、女性を差別することにはならないのではないか。男性が女性の姓を名乗ってもいいのだから。

韓国(中国も)は夫婦別姓である。日本も江戸期以前は夫婦別姓が原則であったようだー北条政子は通称ではなく、源政子ではない、あくまで北条政子であったのだな。夫婦別姓だからと言って、韓国や中国、近代以前の日本が男女平等社会かといえば、決してそうではないだろう。

日本は、子供は父の姓を名乗るという父系社会できた。これは東アジア全域でそうだと思われる。父系社会といっても、財産相続その他で父系か母系かという実質的な伝統はもう残ってはいないが、父と母の姓が違ってもよいとした場合、子供はどちらの姓を名乗るのか。これは「通則」を決めておかないと、やはり混乱するかもしれない。

たとえば、先祖の祭祀権は『慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者』が相続すると民法で規定されている。そして、慣習的には祖先の祭祀を行うのは、その家の長男であろう。実際、位牌には『▲▲家先祖代々之霊位』と記されている家庭は多いと思う。墓石には『□□家之墓』と彫られているところが多いと思う。ならば、特に長男は父の姓を名乗ることが期待されるのだろうか。長男は差別されるということなのだろうか。確かに、夫婦同姓により女性が苦痛を感じるときがあるのだろうが、農耕社会となってから以降千年以上も日本が父系社会の歴史を歩んできた。そして、それ故の慣習もある。これも現実だろう。

社会とはそもそも同調ゲームだと言える。男女のデートゲームと言うともっと簡単だ。同調を強いるからには、意にそまぬ選択を強いられる人たちにはプレッシャを感じさせるであろう。それでも、プレッシャを感じつつ、結局は社会に同調して生きているのだな。この現実をありのままに見ることを小生は選びたい。

安定している暮らしの現実をお上が混乱させることは避けた方がよい。

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日本人の苗字は「どこの誰だ」という名乗りを上げる時の「どこ」に当たる部分だ。それに対して、昔の侍社会には氏があった。氏とは出自であり、社会階層と直結する。たとえば、源尊氏は氏+名、足利尊氏は苗字+名である。足利に住んでいる尊氏という意味だ。しかし、姓を支えるこうした親族・同族システムは社会的にはもう機能していない。というより、会社も店も同族集団の財産というより社会の公器である。日本人は日本で暮らしており、同族という傘のもとではもはや暮らしていない。

日本全体で考えればよいということになれば、氏名は、要するに個人が特定できればよいのだ、な。生活が混乱しないように慣習に従えばよいわけである。使いたければ「我こそは木曾冠者義仲なり」と、通称をつかえばよいわけだ。ただ、法律上の手続きを行うときは『正式の名前を記載されたし』と。この位は許容範囲なのではないか。忠臣蔵に出てくる吉良上野介の正式の氏名など誰が知っていよう。それでも(ジェリクル・キャッツではないが)本当の名前を求められる時はあったのだ。本当の名を誇りをもって名乗れるなら、そんなシステムが最上のシステムではないか。

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いまでも同族関係は空虚となり、親子関係すら希薄になっているが、このうえ相続税率を100%に引き上げ、親子関係からほぼ全ての経済的側面を奪ってしまえば、そもそも姓に実質的な意味合いなどなくなるであろう。

父と母、いや別姓であれば父方、母方の祖父と祖母、父方、母方それぞれの父方、母方の曽祖父と曽祖母・・・、みな姓が違うだろう。どれを名乗ってもいいんじゃないの?経済的にはどの苗字を名乗るかによって実質は何も変わらないよね。お好きにどうぞ、と。未来の社会はそんな名前=記号である社会になっていくかもしれないのだ。となれば、マイナンバーだけあればいいよね。番号で行きますか。公的文書に氏名は書かなくともよろしい。マイナンバーを記載してください、と。

番号1924562238の方、窓口までお越しくださあい・・・(ディスプレイニモ番号ガ点滅スル)

名前はすべて通称となる。

ええぞなもし。いいねえ。これまたクールな社会ではないか。現在はそれまでの過渡期であろう。


それよりはもう一つの判決。女性の再婚禁止期間だ。

すでに以下の報道がある。
政府は16日、女性の再婚禁止期間の100日超部分を憲法違反とした最高裁判決を受け、民法の規定を見直し、禁止期間を現行の6カ月(約180日)から100日に短縮する方針を決めた。(時事通信)
これよりは、女性が妊娠の事実に気がつかないままに結婚し、結婚後に妊娠の事実を知った時に、その子の権利はどう守られるのか。男性の権利は?女性の権利は?某タレントの騒動もあったが、今という時代、むしろこちらのほうが実態とより密接に関係するのではないだろうか。

なぜかって・・・?
だって、結婚とはそもそも子弟養育システム。いろいろな見方があるだろうが、9割方、ほぼ全面的に、「結婚」とは子供を育てるためにあった方が安心で便利だから存在するに過ぎない。「家」を捨象した現代社会では、とどのつまり、そうだろうと思われるのだがどうだろう?

2015年12月15日火曜日

メモ ‐ チャイナリスク

『テロより恐いチャイナリスク』。

これは読みますねえ…。うまいタイトルだ。

コマツの建機は中国ビジネスの成功の代名詞だったが……〔PHOTO〕gettyimages
開発ラッシュに沸き、都市のあちらこちらで建機が砂埃を巻き上げていた光景は、ほんの少し前まで各地で見られた。が、経済が失速を始めると、開発案件は軒並みストップ。中国ビジネスで「わが世の春」を謳歌した大手企業を一転、奈落の底へ突き落としている。
コマツに次ぐ国内2位の建機メーカーの日立建機も惨状は同じ。同社の主力商品である油圧ショベルの中国における需要データを示す資料によれば、直近の10月は前年同月比で▲43%と目も当てられない。さらに見ると、9月は▲49%、8月は▲51%、7月は▲52%、6月は▲54%と、コマツ同様に「需要半減ショック」に襲われていることがわかる。

(出所)現代ビジネス「経済の死角」、2015年12月14日、以下の引用部分も同じ。

建設機械、工作機械の需要半減ショックといえば、2008年9月に勃発したリーマン危機後の景気崩壊と同じスピードである。

同じことが、現在中国で進行中なのか?

「今年度は、自動車各社の中国工場稼働率が5割まで落ちると言われるほどです。現代自動車はあまりの不振で、販売台数の開示を一時見送っていた。日本勢は過剰な値引き競争には参戦していませんが、利幅は薄くなってきた。
トヨタはこの半期で中国での販売数を伸ばしたのに、中国分の利益は100億円弱の減益。会社全体で慎重な業績見通しを立てているのも、チャイナリスクを意識すれば慎重にならざるを得ないからです」
自動車市場も同様。

すべり落ちる中国経済が、日本企業を、日本経済をむしばむ。それはいま始まったばかりで、本格化するのはまさにこれから。2016年はテロよりチャイナリスクの猛威が日本全体を巻き込んでいくことになる。
クレディ・スイス証券チーフエコノミストの白川浩道氏が言う。
「中国経済が悪化する流れは当面変わりません。実は中国の不動産バブルはすでに崩壊している。が、それを表面化させないために、不動産投資をしている大企業などに金融機関が追い貸しをしているのが実態です。
これは時間稼ぎをしているだけでいずれ限界を迎える。そのとき、不動産投資をしている大企業が破綻する可能性もあり、そのショックは日本の輸出企業を中心に波及し、日本の株価を引き下げる」
日本総研副理事長の湯元健治氏も言う。
「中国の株式市場はいま落ち着きを見せていますが、安心はできません。中国企業の債務残高は莫大で、GDPに占める割合が約157%。日本企業が'80年代のバブル時にGDP比で約132%の債務を抱えていたことを思えば、これが不良債権化したときのインパクトははかりしれない。

まあ、日本と違って不良債権穴埋めに公的資金を入れることくらいは共産党政権にとっては造作もないことであろうし、いざとなれば土地公有制が建前のところを例外的な土地払い下げを行えば、国有企業も救われるし、民間企業も債務超過に陥らずに済むというものだ ― 中国の国家資産が減少するが全体に比べれば微々たるものであろう。

それ故、中国バブルが崩壊しても(いや、もやはしつつあるという判断であるが)、共産党政権に打てる手はあると小生はみているのだ、な。

ただ、まあ、対中投資を盛んに行ってきた欧州。思わぬ(いや米国発のサブプライムについで二度目の)不覚になって、またもや富を失う事態になるかもしれない。

2015年12月11日金曜日

敵対勢力には強いが内部対立には脆いものだ

強大な勢力や組織は敵対勢力との覇権闘争には強いが、最大の陥穽は自らの意思決定でつまづくミスである。

戦前期・日本の帝国海軍は1920年代の世界的な海軍軍縮の流れに組織内部の意識がついていけなかった。執行部(=海軍省などの軍政派)は、新しい外交思想をよく理解していたが、現場は対外的協調姿勢を単なる弱腰としか見なかった。

強力な海軍が混迷し、太平洋戦争に至ってもなお内部がゴタゴタしていたのは、それ以前に生じた亀裂が原因である。

陸軍も同じである。

宇垣一成による軍縮断行は世界的な潮流に従うものであったが、組織内部に生まれた反発が若手将校をまとめ、それが最終的には皇道派・統制派の派閥対立を生み、対外戦略よりも部内の人事バランスにエネルギーを使うという状況になってしまった。

巨大組織は、外部勢力との戦いには強いが、内部に生じる派閥対立には脆いものだ。


自公両党による軽減税率協議も首相官邸の少々強引な介入により一応の結論は見えてきた。そんな報道である。

しかし、消費税の軽減税率には経済学者、財政学者を含めほぼ大半の専門家が反対していると伝えられている。この反対は理論的にも筋が通っているのだ。

衆議院において自民党は292議席、公明党は35議席でしかない。なぜ自民党が自らの基本方針を曲げてでも公明党の言い分を尊重しなければならないのか。連立政権は欧州にも多いが、ドイツにおいて与党の一角を占めていた自由民主党(FDP)が巨大なキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)を振り回していたなど聞いたことがない。

おかしい、と。そんな観点は当然あるわけだな。


一部の食品について消費税率を8%の軽減税率にする。10%か、8%か。そんな細かい点でもめることに何か実質的な意味があるのか?

10%一律のほうがシンプルで混乱がない。なるほど理論的にも正当である。

大体、税率10%など欧州の20%、25%に比べると微々たるものだ。そのくらいの税金を納めずして、社会保障がどうとかこうとか、求めることばかりをいう資格はない……。

こんな言い分もあるのであって、財務省もこれに近いと思われる。


ただ、欧州で実施されている付加価値税率を見てみると、食品に10%の税率を課している国は(あることはあるが)多くはない。

たとえばドイツ、フランス、イギリスの例をみると、それぞれ標準税率が19%、20%、20%(いずれも2015年1月1日現在)だが、食品には7%、5.5%、(何と)0%の軽減税率を課している(出所)。

消費税で徴収した歳入増加を社会保障の充実に充当するのであれば、たとえ消費税率を30%に引き上げても、その分社会保障が充実され、医療や年金、介護サービスの水準が上がるわけであるから、(ロジックでいえば)国民は何も痛税感を感じないはずだ。実際、デンマークでは本年1月1日現在で付加価値税率が25%でありながら、軽減税率は一切設けていない、食品も医療も書籍も25%の税率。これはこれで大変だろうと思う。しかし、国民は高福祉・高負担の原理原則を理解しているのだろう、ついてきているわけである。

デンマークは大したものだが、同じ北欧のスウェーデンは標準税率25%に対して、食品は12%と税率を低くしている。フィンランドもそうだ。


社会保障に充当するのだから、消費税率は必要な分だけ税率をあげ、そしてシステムはシンプルなものとして、理解しやすいものにしよう。これは正論である。

しかし、世界の現実をみると、どうやら正論(であるはずの政策)が機能しないようだ。正しいはずの理論を基準にして、多くの国が間違っているのだと理解するよりは、そうする方が何らかの意味で合理的なのだと考える方が理にかなっている。

ここから分かることは、
本来、正しい理論というものはない。現実がとるべき方策を教えている。
こんな発想なのだろう。
とるべき方策を決めたあと、それを正当化する理論モデルを造るのが学者の仕事だ。
ま、こうなるのだろう。

著名な統計学者であるボックス(George E. P. Box)がある本の中で書いている言葉だが
...  all models are wrong, but some are useful
こんな認識がある。帰納的な経験主義に基づけば、こんな考え方になる。

だとすれば、政治的嗅覚から、来年の参院選を考えると、いまは食品全体を軽課するべきだと。こんな没理論的な選択をする政権幹部(?)がいるとしても、これはこれで正論である。
専門家は政治家に従うべきである。
先の敗戦から日本が学んだとすれば、この一点だろう。


ま、いずれにしても現政権は高支持率を維持し、反対勢力も弱体で長期政権必至の情勢だが、唯一つ挫折するとすれば、内部の足並みが乱れる、内部の意識が執行部についていけない。

そんな時であろう。

【加筆】

夕方になってから『酒類を除き外食を含む食品全体を軽減税率対象とする』ことで自公幹事長が合意したとの報道あり。これによる歳入減少は1兆3千億円に達するという。これで予定されていた社会保障充実、浮上していた低所得層への一律給付などもボツになるであろう。自民党内部でのイメージ悪化があり、また支持基盤への実質的利益の規模等々を考えると、本当にプラスの成果があるのかという点も疑わしい。

今回の公明党は、戦闘では勝利したが、戦略的には失敗であったかもしれない。

【加筆第2弾】

本日(12月12日)になって自公両党がやっと合意したということだ。先刻、谷垣自民・井上公明党幹事長が公式に語っていた。外食をはずし食品全体を軽減税率対象に含めるという結論に落ち着いた由。「不足する財源はこれから探します」ということだ。人事院勧告に基づく給与引き上げが先日閣議で決定されたが、あれは大丈夫か?刑事裁判には一事不再理の原則があるが、閣議ってヤツはどうなんでしょう。「公務員諸君、すまぬ、あれはなかったことにさせてくれ」と。これが可能なら問題は一挙に解決されるのではござんせんかねえ。公明党のほうが「それはちょっと止めてくれませんか」というと思うが。




2015年12月8日火曜日

積極的平和主義もいいが積極的民主主義をも言うべきかもしれない

日本のマスメディアは、大雑把に分類するとすれば、朝日、東京新聞あたりは明確に左におり、産経、読売は右にいる。毎日は、まあ、少し左か。日経はビジネス情報が主体だが、であるが故に政治外交などの話題では相当右寄りだ。

産経ニュースも、小生はよく見ているのだが、頻繁に挿入されている右翼系の宣伝には辟易させられることが多い。

今日も『日本を戦争に引きずり込んだ犯人』なる言葉が目に入ってきた。この宣伝、頻繁に目に入るのだ、な。『・・・その答えは明治維新にありました』ということだ。・・・、これは右翼系か?左翼ってこともありうるが。スタンフォード・フーバー研究所にいるN氏って、何者なんでござんしょう。この人を知らない人はモグリってことだそうだが。知らんなあ・・・吾輩は。

それにしても、言うに事欠いて『日本を戦争に引きずり込んだ犯人』という言い草はないだろうに。これでは日本人全体が被害者である、と。だまされた、と。流石にこれは言っちゃあいかんのじゃないか。

それはどうやら違うようですぜ。やったことはやったと頭を垂れるのがサムライってものじゃあないんですかい。普通の日本人もずいぶん威勢のいいことを言っては舞い上がっていたじゃあござんせんか、日露戦争で賠償金をとれないってんで、腹をたてた群衆が都内のあちこちに火をつけて暴れたり(=日比谷焼きうち事件)、和平を結んで帰国した小村外相を非国民だといって非難したり、そんなこともありましたぜ。日清戦争だって、あれの大義名分て何です?総理大臣の伊藤博文さんはやりたくないって言ってたそうじゃないですかい。勝海舟さんも反対してたってねえ。天皇陛下も、これは朕が戦にあらずっておっしゃってた。そう聞いていますがねえ。みんなで勢いでやっちまったんじゃないですかい。反対してた人もいたようなんですけどね、多勢に無勢、みんな聞く耳持たなかったそうじゃないですか。朝鮮、台湾、満州、南洋、みんな日本のものだったって、うちのオヤジはそう自慢してましたぜ。だまされて引きずり込まれたってねえ、アンタ、よくそんなこと言うネエ。

ま、太宰治ほどの文才があればもっと痛烈に書いているだろう。

表現の自由は確かに重要だ。しかし、日本が戦争をしたのはそうしむけた犯人が引きずり込んだからで、日本人は被害者なのだという認識。これは見たくはないねえ…、規制してほしいねえ……。責任逃れにもほどがあるってものだ。

2015年12月6日日曜日

メモ-倉本氏の見方と感想

今年の初めになるが脚本家にして舞台演出家である倉本聰氏が日経ビジネスの連載企画『日本の未来へ』に登場した。

そこで述べられている同氏の意見や見方。以前からファンの一人であった小生としては賛成できる点もあったし、できない点もあった。

覚え書きにしておきたい。

 100万円のクルマを買って1年間使うと、価値が50万円に下がるというのが今の考え方ですよ ね。 
でも僕たちが子供だった時代は違った。100円の靴下を1年間使うと、かかととつま先に穴が 開きます。そうすると、お袋やばあさんが夜なべで靴下を繕ってくれる。だから1年間履いた靴下 は、かかととつま先が分厚くなってごろごろするものだったんですね。   
じゃあ、その分厚くなった靴下の価値が50円に落ちているかというと、逆なんです。お袋やば あさんが夜なべしている後ろ姿が焼き付いているから、200円、300円の価値に上がっちゃって、 捨てるどころか宝物になっていくわけです。そういうものだったんですよ。
 (出所)日経ビジネス・オンライン、2015年1月16日、【倉本聰】『日本はリッチだけど幸せじゃない』

価値を創るのは、人間の汗と涙である、と。いわば労働価値説ともいえるだろう。

小生は賛成である。

数学者・エッセイストである藤原正彦氏が若いころにアメリカに留学したとき、かの国が織りなす美しい自然美に接しても決して感動を覚えることはなかった。その理由は、自分の同胞の汗と涙がそこにはないからであると悟ったことを書いていた所がある。感性としては重なっている。

買うものは使われているうちに消耗し、価値を減じる。カネを使ってモノをいくら揃えても、どんどん消費するばかりで何も豊かにならない。貧乏なままだという感覚は、小生には同感できるのだな。

 「足るを知る」ことが僕の座標軸なんです。それをこれまでずっと伝えてきましたし、これから も伝えて行くべきことです。前年比一辺倒から離れること。そこに本当の豊かさがあるはずです。
(出所)同上

小生の祖父は、法曹の仕事を一生続けて判決ばかりをかいて人生を送った人だが、『起きて半畳、寝て一畳、 人間本来無一物』を座右の銘にしていた。

豊かさと幸福は全く関係しないかといえばそうではない。大いに関係している。これについては既に投稿した。今年のノーベル経済学賞を受賞したディートンが著した『大脱出(The Great Escape)』も同じ、大半の経済学者も同じ見解だ。とはいえ、幸福の本質、というか幸福そのものとは何かと問われれば、それはやはり物的生活とは関係のない純粋の幸福をさすのであろう、とは思う。

 僕はよく大学時代や浪人時代に勉強したことって何だったんだろうと思います。大化の改新が何 年だとか、微分積分、サイン、コサインって、皆さん社会に出てどのぐらい役立っています?  僕は因数分解の簡単なのが税金の計算の時にちょっと役に立つぐらいです。それよりも、「この 草は食べられる」「この動物は危険か」とか、そういうことを知った方が、数段暮らしには役に立 つでしょう。

(出所)同上

これは同意できない。サイン、コサインも、微分積分もデータ解析や将来予測では不可欠の道具であり、これらがなくては飯の食い上げだ。小生の暮らしにはなくてはならないものである。

倉本氏が日常的に活用していると思われる携帯電話やインターネットを支える技術にも<最適化>の技術は応用されているはずであり、であれば微分積分やより一般的な関数解析が基礎になっている。

天気予報を可能にする技術にはサインやコサインが応用されているはずだ。

ここには、理系・文系の違いはあれ、人間の汗と涙が注がれている。故に、価値があると言うべきだろう。

2015年12月5日土曜日

「不敬罪」は報道規制にはあたらず

今朝の道新をみていると『NYタイムズ、一部空白で発行』という文字が目に入った。下には『「タイ王室記事不適切」印刷会社削除』とサブタイトルがついている。何々?天下のニューヨーク・タイムズが一部空白のまま発行してしまったのか、と。

本文を読むと、どうも「タイ王室の財産」と題したフリージャーナリストの記事の印刷を印刷会社が拒否したとのことだ。最後には『タイには、王室の名誉をおとしめたものを罰する不敬罪が今も存在する』と記して道新のコラムは終わっている。

ふ〜む、不敬罪か・・・。「今も存在する」というのは、「まだあるのか、そんな遅れた制度が」と言いたげでもあるなあ。小生はそんな見方には同意しないけれどネ。

以前にも何度か投稿したが、考えたことを言葉に表現する自由、つまり「表現の自由」は近代社会であれば当然認められている制度的要件として合意されている。

しかし、JR電車の中で向かいの席に座った客が奇妙な服を着ているからといって、『変な服着てるよなあ、センス疑うよ」とか何とか、高声でしゃべれば、最悪の場合、ぶん殴られるであろう。それは相手の感情を傷つけた以上、当然の反応として予測しておかなければならない。もちろん暴行罪として相手を訴えることはできる。しかし、経緯を知れば当局は暴行を加えた相手側に情状を認めるであろうことは確実だ。

時間と国を超えて、いつでもどこでも<礼>は<モラル>の核心である。そして礼の端緒が辞譲にあるのは孟子を待つまでもない。相手に譲るには相手の存在への尊重が先に来る話しだ。モラルを失った側が、相手に倫理や人道を訴えても、もやは無意味だろう。これがいわゆる<傲慢>である。

表現の自由とは、自分の言葉に責任をもつということと表裏一体である。デスクに「こう書け」と業務命令されて書く文章には責任はほとんどない(拒否する自由を行使しなかった責任はある)。が、自ら書く文章にはすべて責任がある。

王室に対する不敬罪を法から削除したとしても、そういう感情が国民に残っている国で、安易に王室の名誉を傷つける文章を書いて公衆の前に提供すれば、最悪の場合、何らかのテロ行為を被るとしても、それは当然ありうる可能性として考慮に入れておくべきであろう ― パリの事件を思い出したまえ。考慮に含め、覚悟をした上で行動するべきなのだ。

不敬罪を法で規定することの意味は、その国に広く共有されている感情を傷付けてはいけないというソフト・メッセージである。そして、特定の罪に対して一定の罰条を適用するという原則を通し、結果の合理的な予測を可能とするものである。

「表現の自由」とはいえ、それは現実の社会の中でマネージされる重要なことのうちの一つでしかない。これ自体が目的ではないと考えておくべきだろう。

2015年12月4日金曜日

「あれよ、あれよ……」というパターンで制御不能になるか

『堤も蟻の一穴』からという諺がある。軽く考えていると、事態が悪化し、気がついた時にはどんな人間にもコントロール不能の事態になっていた。そんな戒めだな。

第一次世界大戦もそうであったというのが定説だ ― それはそうだろう。オーストリアの皇太子夫妻が海外で過激派青年に殺害されたからといって、その事件が原因となりドイツ、トルコ、ロシア、フランス、イギリス、イタリア、果てにはアメリカ合衆国をも巻き込む世界大戦が勃発するなど、誰が想像できたろうか。戦争が終わった後になって、一体この戦争の原因は何であったのかと振り返り、なるほど帝国主義的対立、植民地争奪戦、経済的権益の衝突など色々事情はあったがそれらはずっとあったもので決め手ではない、結局はあの暗殺事件、原因はあれではなかったのか、と。まあ、そのくらいしか原因は思い当たらない。そんな情況であっただろうと想像する。

殲滅戦が支配的であった19世紀の戦争から一変して第一次大戦は持久戦となった。この新しい戦争の様相から衝撃をうけた日本の帝国陸軍が将来の国家総動員体制を構想するようになり、ひいてはこれが軍国主義日本を歴史に登場させたことを想えば、王族二人が殺害された「サラエボ事件」ほど、歴史に残る「小さな事件」はそうそうはない。

蟻の一穴である。

靖国神社公衆トイレ爆発事件の主犯として(案の定というか、心配されていたとおり)韓国人男性が浮上してきたと報道されている。

事件自体は全く小さな事であり、下らないとすら言える。

とはいえ、首脳同士の会話が再開され、外交的修復が期待されていた矢先にある中で、この小さな事件の落としどころは日韓双方にとって結構な難問になるかもしれない。産経新聞ソウル支局長の公判に世界遺産承認時のゴタゴタ、これに靖国神社問題が加わって、もとからある従軍慰安婦と竹島問題、それに元徴用工問題もあるか。だんだんと蟻の穴が増えて来た。そんな印象がある。


引き続くようならビザなし入国の一時停止が検討されるだろう。戦略的には補完関係が支配する同調ゲームになっているだろうから、良い均衡から悪い均衡へ双方が滑り落ちていく可能性はかなり高いとみる。
政府は6日、今月末まで暫定延長されていた韓国からの観光客などに対する90日以内の短期査証(ビザ)免除措置を3月1日から恒久化すると発表した。韓国は既に日本に対し査証免除を実施済み。今回の措置で日韓双方が査証免除で足並みをそろえることになる。
 今後、韓国からの観光客などの増加が見込まれ、政府が目標に掲げる「年間500万人交流時代」の実現に向け弾みがつく。日本側には、小泉純一郎首相の靖国神社参拝で冷却化した日韓関係を改善するための足掛かりにしたいとの思惑もありそうだ。
 政府は昨年の愛知万博に合わせ、同年3月から9月末まで、観光や商用目的など90日以内の短期滞在について査証を免除。その後も5カ月間暫定延長した。
 この間、入国した韓国人による不法滞在や刑事事件などの犯罪を調査したが、特に問題がなかったことが確認できたため恒久化に踏み切った。韓国からの入国者は、韓国経済の発展や、02年のサッカーW杯共催などで増加傾向にある。
(出所)日刊スポーツ、2006年2月6日

10年前にはスポーツ新聞でもビザなし入国恒久化が報道されていた。

ドラマ『冬のソナタ』がNHKで放送され、日本の韓流ブームがブレークするきっかけとなったのが2004年である。「このドラマ、日本と韓国の政治家と外交官の何人分の仕事をしたんだろうね」と、その当時、カミさんと話したものだ。

現在の日韓関係は、その後10年間の政治家と外交当局の無能に原因がある。蟻の一穴から堤が崩壊する悲劇はこれまでにもあるが、放置した責任が管理者にあることは最初から明らかなことだ。

油断と無責任は何時の時代も大失敗の原因となるものだ。

それにしても、「靖国神社」。

江戸時代には、あの一帯は広大な火除け地(広場)であり、そこに明治になって小さな招魂社ができてからも、祭りやイベント、時には競馬をみに庶民が集まってくる場所であったときく。


小林清親、九段馬駈け
(出所)靖国神社

戦前の軍国主義が、陸軍軍人の危機意識と国家神道思想の鬼っ子だとすれば、平和な九段坂はいまだその思想に占拠されている。それを放置する日本人も(ある意味)油断していると言われても仕方がない。

2015年12月3日木曜日

OneNote Clipper ― なかなか性能があがらないなあ・・・

マイクロソフトのOneNoteは(マイクロソフト製だから、という先入観とは逆に)案外なほど「使エル」ソフトである。

授業の進行には最近の流行にもれずパワーポイントを使っているが、それを手元の進行メモにするにはスライドという編集形態はやっぱり不便である。参考資料があればリンクボタンを貼ったりするが、接続には時間がかかりイライラする。

いまはOneNoteにパワーポイントをセクションとして入れている。スライドはページになるが、手書きのメモが書き込めるし、マーカーで囲むことができる。参考資料は別のセクションに立ててもいいし、関連スライドのページの次のページに印刷イメージを貼り付けてもよい。

無題の新しいページを開くと、それは全くの白紙であり、図をいれてもいい、手書きで計算をしてもいい、写真を貼ることもできる、写真にメモを書くことも可。しかも、この白紙ページ、巨大である。東芝のアンドロイド・タブレットについているTruNoteやMetaMoji(旧ジャストシステム)のMetaMoji Noteのように1枚のサイズに入らないということがない。どこまでも書ける。

要するに、なんでもできるのだな。しかも、マイクロソフトのクラウド・サービス"One Drive"に保存しておけるので、どの端末から見ることも可能だ。

だからタブレットでOneNoteをみながら、授業ではパワーポイントを投影して話をするようになった。

ところが不満がある。One Note Clipperである。Rによる実習は入力コマンド、グラフ描画を含め、すべてRmarkdownをタイプセットして、HTMLファイルに変換している。ところがHTMLファイルの印刷イメージは、OneNoteの標準メニューからは挿入できない…ようなのだ。そこでChromeやFirefoxから一度ファイルを開いて、それをクラウド上のOneNoteファイルにイメージを挿入するわけだが、うまく行かない。

うまく行かないケースを整理してみると、どうやらMathJaxで数式を編集しているときに起こるらしい。途中まで問題はないが、最後までクリップしてくれない。プツンと切れてしまう。「正常にクリップされましたか?」というメッセージが出るのは、ご愛敬というより、ブラックユーモアだろう。

クリップされたあと、テキストとイメージの別は継承されているようだ。が、すべてイメージとしてクリップしてもカマヘンのやけど……。領域を指定する方式もあるが、スクロールするといかんみたいね…。

というわけで、せっかくの便利なツールなのだが、肝心なところでユーザーに欲求不満を残す。いやはや、やっぱりマイクロソフト的なソフトだねえ、と。ま、フリーで提供してくれているわけだから、文句の言える筋ではないのだが、やっぱりネ。

【補足】

ブラウザからPDFファイルにしてしまえばイイわけではある。確かにイイのだが、とはいえやっぱりソフトはきちんと作り込んでほしい。そういうこと。