2015年12月24日木曜日

日本人ゴルファーの弱さ: ないものを探してもダメではないだろうか?

ゴルフ談義は面白い。スポーツは戦争とは違うが、人生と暮らしをかけたギリギリの勝負の場では人間の生の姿が露わに出てしまうからだ。

こんなコラム記事があった。韓国人ゴルファーの活躍ぶりを考えたものだ。

少し長くなるが抜粋しておきたい。

テレビ画面に引き込まれるほどのつばぜり合いは、正直あまり思い出せない。「日本の選手はトーナメント終盤で勝負弱い」と嘆くより、外国人選手、特に韓国選手の終盤で争い合ったときの、あの強さは何なのか。少し掘り下げてみる価値があると思う。 
 米大統領就任式で、新大統領の宣誓の最後に必ず口にする言葉がある。「So help me God」(神よ助けたまえ)。大統領としての執務に全身全霊をささげ、最後は神の力に委ねる。最後の孤独な、そして世界の情勢を左右しかねない決断をしなければならないときでも、神が存在する。不安や疑いを消すのが神の存在なのだろう。 
 今年のゴルフ中継を見ていて、イ・ボミのほか何人かの韓国選手が胸で十字を切るのを目にした。実は、韓国民の約3割が熱心なクリスチャンで、儒教や仏教を上回るといわれている。新宗教といわれる宗派もキリスト教が源流とされ、しかも相当熱心な信者の集まりであることは広く知られている。別に宗教の種別は何でもいい。強い信仰心が、不安や疑いを消す役目を果たしているのではないのかと思うのだ。 
 日本では戦後、信仰心が薄れたという見方がある。もちろん、正月は神社に初詣、お盆と葬式は仏教で、それにクリスマスと教会での結婚式など、宗教に関わるいろいろな行事が1年中続く。ただ、それらの行動が熱心な信仰心によるものかといわれると、考えてしまう。 
 とすると、優勝まで最後の数ホールを残して1ストロークの攻防を繰り広げている、あの日本選手たちはどうか。隣にキャディーがついているとはいえ、自分のショットや攻め方の不安や疑いを、結局1人で背負ってしまっているのではないか、と思えてならない。 
 韓国選手が強いのは、恵まれている日本選手と比べて「ハングリー精神」が強いからとよくいわれるが、それだけではないはず。日本選手も大事な場面での神に代わる存在を探さないと、ここぞの一打で不安や疑いはずっとつきまとう。強い心、すなわち自分を信じる強い気持ちで不安を消すことができるようになれるだろうか。新シーズンの日本選手の奮起を願ってやまない。
(出所)日本経済新聞、2015年12月24日

結局は、神という存在に着目したか……。なるほど。

西欧で神の首を切り落とした哲学者がいるとすればそれはカントであると詩人ハイネは書いている。

そのハイネの言は、カントの中の『純粋理性批判』によるものだろう。結局のところカントも『実践理性批判』において、人間の善悪というモラルが成立するには神という存在が必要であり、人間が人間たりうるには神の存在を前提しなければならない。故に(?)、神を肯定する。そんな論法をとった(と小生は解釈している)。

「こうしようと思うが、これでいいのだろうか……」と、そんなギリギリの根源的疑いの崖っぷちに立った人間一人が、最後に頼れるものはその人自身の理性であるというのは無理だろう、ということは、まず洋の東西を問わず誰でも認めるはずだ。ヒトは理屈で頑張るものではない。

だとすると、天の神にゆだねるか、他の人間に帰依するか。このいずれかしかない。

戦前期の日本人を支えたのは皇国日本というバックボーンであったろう。言い換えればこれは国家神道なのだから、やはり宗教的思想だったといってもよいのではないか。

上に引用した記事の最後に「神に代わる存在を探さないと」と書いているが、そんな存在は何もないし、あるとすれば『そうせよ』という上役、というかハッキリ言えば主君という存在だろう。

まあ、サムライといえば聞こえはいいが、サムライとは漢字で書けば侍。侍従という言葉があるくらいで、君命を待つのが本来のサムライである。

日本の誇るべき精神的主柱として武士道を無視することはできないが、仕えるべき主君、守るべき家をなくした日本人の弱さがここにはある……と感じるのは小生だけだろうか。

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