2016年1月31日日曜日

断想: IT大手企業のイメージ句

昨日は卒年生による最終発表会の2回目が開催されたのだが、今週いっぱい引きずってきた腹痛がどうやら風邪ではないということが分かってきたので、病院で診断を受けようということにする。

それで昨日は欠席のやむなきに至り、本日の入試も腹痛がようやく収まってきたのでどうにかこうにか終えてきた案配だ。

そんなこんなで書くこともない。
ないのだが、うなされながら朝方頭の中で何だか一生懸命考えていたことを珍しく記憶している。それを書き記しておく。


  • Facebookは、ビッグデータ時代の何たるかが分かっている。
  • Microsoftは、企業が何を求めているかが分かっている。
  • Googleには、天才的頭脳が集まっている。


これにAmazonを加えればアメリカのIT業界四天王に相成るのだが、Amazonについてはいい形容句を思いつかない。覚醒しないままウンウンうなって考えたのはこれだ。多分、ちょっと異質なのだろう・・・と思う。

少なくともAmazonは利益・儲けには余り関心がない不思議な企業だ。Amazon株に投資している人は創業者のジェフ・ベゾスが真の天才であると信じているに違いない。

何事によらず天才とは、普通の人が思いつかないような企てを平気で始めるものだ。いわゆる専門家には「バカ」に見えるだろう。また、天才の暴力性があまりに行き過ぎれば、サプライズが無理解に転じて、孤立と没落も速いのだろう。過ぎ去れば、天才とは時代を背にオーラを放ちながら、時代に使われる人形かもしれない。一つの時代が終わり、二つの時代を生き抜く天才は、したがって、これまで一人もいないはずである。

しぶとく生き抜く人間は、その時その時に自分に出来ることを選んでいく「秀才」である。

そんなことを病気で疲弊した頭のなかで反すうして考えていた。何なんでしょう、これは・・・と思う。

2016年1月28日木曜日

暴論: 贈収賄のロジックと規制策

月曜から俄かに胃腸が痛くなり、起きることができなくなった。寒気も感じるので、てっきりウィルスが腹に回ったかと思ったが、下痢も嘔吐もない。胃や腸がシクシクと痛むのだが、便秘になった。ガスが溜まって苦しいのだな。

月曜が火曜になり、火曜が水曜になるうち、痛みが続くようなら病院に行こうと思っていたが、痛みは日ごとにおさまり、昨日の水曜夜には痛みはほとんどなくなった。便通も正常になった。

『なんだったのかねえ・・・ウイルスっていうより毒性のある何かを食べたんじゃないのかなあ』、『日曜は私も食べたんだよ』・・そんな会話をカミさんとしているところだ。

今日はカミさんの買い物につきあったのだが、体力はまったく回復していない。一体、これは何だろう、そう思うこの頃である。


それはさておき、

甘利経財相が苦境に立たされており、いま疑惑に答える記者会見を開いているところだ。

与党では、録画をとったり録音をしたりと、明らかな罠であり、同情論も飛び交っているという。

確かに「悪意」のある部外者が政治家に依頼をするとして、期待通りの結果を示してもらえなければ報復として「贈賄」の事実を明らかにする。そんな動機があることはあるのかもしれない。しかし、いまの法制の下では、政治家はそれで終わりだが、金を贈った民間事業者も同じく処罰されるのである。まあ、民間事業者はそれで終わりというわけではなく、事業所も(従業員もいるのだ)お取り潰しにはならない。

なぜリスクを犯して、民間事業者は政治家に物事を依頼するのだろうか?そして、政治家は受け取ろうとするのだろうか?

なぜ人は渋滞している道路で大した効果もないはずなのに、無理な追い越しをかけたりするのだろうか?うまくいくケースを聞くことがあるからだ。

なぜ困難な手術が必要になった患者は、高額の金銭、高価な贈答品をカリスマ医師に贈ってまで、優先的に手術を受けようと考えるのだろうか?功を奏するケースが実際にあると聞いているからだ。

元々うまくいかないと決まっていることに人はコストを払わない。今回のようなことは、いつでも常に「最後のマージナルな一例」であったはずであり、文字通りのリスクの現実化というわけだ。

経済的利益の提供によって問題解決を図ろうとする発想は、どんな問題であれ、委託者と受託者にウィン・ウィンの関係があれば、必ず生まれてくるものだ。たとえ、その取引方式が法律的に禁止されている違法行為であっても、よほど上手に法的設計をしなければ、法は実効性をもたない。


もし金銭の授受において、金を受け取った政治家に対してのみ犯罪性を認めるなら、民間事業者はいくらでもノーリスクで依頼をしてもよいことになる。支出を差し引いた期待利益がプラスかどうかだけでカネを提供するかしないかを決めるだろう。これは、しかし、フェアな勝負ではない。 よほどの金権政治志向者でなければ政治家は自分に対してのみ危ないカネはもらわないはずだ。というか、委託に失敗した政治家は取引をリークされて身を滅ぼすが、民間事業者は無傷であるとなれば、よほどの自信がなければ話には乗らない。政治家にとって期待利益はほぼすべての場合マイナスである。

民間は常に自由とし、政治家に襟を正してもらいたいと。国民の大多数は上のような在り方を本当は望んでいるのかもしれない。これなら、というかこれでも、不純な金銭授受はほぼゼロになるだろう。

しかし、大物政治家ならば影響力を行使できるかもしれない。金銭を受け取った政治家は真剣に依頼に応えようと努力するはずだからだ(でなければ、相手ではなく自分が破滅するからだ)。大物政治家なら、依頼に答えることで、結果としてカネの取引は闇に葬られるだろう。

故に、この「清廉潔白なシステム」は完璧ではない。

現在の法制度は、贈賄、収賄双方にそれぞれ犯罪性を認めている。

論理としてはそうであるべきで、モラルとしても納得できるのだが、しかし「そもそも論」から言えば、人間社会の物事に絶対的な真理や正義はないものだ。

金銭を伴った依頼を無くする特効薬は、渡した民間事業者にのみ罪を認めて、事業所責任も認め、他方もらった政治家の方には罪はないとするものだ。協力依頼に応えても、応えなくとも、もらった方はまったく無罪。もしもばれたら自分も会社もパー。となれば、民間事業者はバカバカしいのでカネを贈るなどということはしない。民間事業者の側の期待利益は限りなくマイナスだからだ。大体、カネというのは払う側が払おうと決めなければ渡されることはない。


現在の法制は、カネを贈る側、もらう側、双方の責任を認めており、期待利益もリスクも大体イーブン。どちらかが決定的にマイナスならば取引は成立しないが、プラスなら双方ともプラスになる可能性がある。そこに動機がうまれる。

民間側が依頼する。政治家が応諾する。受託した事柄に政治家が真剣に努力をしなくとも、金銭を渡したこと自体で民間側は処罰の対象となる。だから政治家は努力をするだけでよい。また努力せざるをえない。なぜなら、政治家に金銭を提供して問題解決を目指す民間事業者は、最後の手段として危ない橋を渡っているのであって、失うものがないところが多い。故に、依頼に対して努力を怠る政治家は報復として事実をリークされる危険を負っている。そのことを政治家も自覚しているからだ。

要するに、現行法制では双方がリスクを負担し、期待利益も(ある意味で)バランスがとれている。決して、片方に不公平なアンバランスな責任負担システムではない。

重要なことは、片方にとって不公平であるインバランス・システムの下では、自由意志による取引は成立しないことだ。

もしある種の取引をゼロにしたいのであれば、当事者の片方のリスクを限りなく大きくする<意図的な不公平システム>を導入するのが有効だ。

前節の下線部を一般的にいえばこうなるか。

こんな発想もあってよいと思うようになった。


・・・ま、金銭授受をゼロに出来たとして、「いい政治」になるかどうかは別問題だ。 「いい政治」とはカネのやりとりがない状態をいうのではなく、社会の現実に沿った政治をしてくれているという状況をいうのだと、小生は個人的には思っている。

金銭の授受だけを政治の堕落ととらえるべきでもない。カネではない謝礼はいくらでもある。

国会議員、まして内閣の重要閣僚ともなれば、権力を日常的に行使する。権力を行使し得る者には富が集まるという現象は、時代を問わず、東西を問わず、普遍的である − 清廉潔白のはずの中国共産党の政治家をみたまえ、米国の大統領経験者は清貧なる人生を全うしているだろうか。もちろん、だからすべてを許せといっては堕落する一方だ。

がしかし、カネをやりとりさせないことに最大の関心があるなら、少なくとも現在の法制は効率的ではないと思われる。

*** *** ***

【以下加筆】経財相は辞任し、石原氏が後任となった。

いわゆる公的業務への「口利き」は違法とされている。ま、理屈でいえばそうなのだ。国会を通過した事業の執行は「公益」であり、そのプロセスで不利益を被る事業者が特定の政治家の力をたより、カネを提供し、裏側から「口利き」を依頼し、事業の執行を混乱させれば、すでに認められている「公益」の実現が不可能になる。故に、斡旋収賄=違法という結論にはロジックが通っている。

とはいえ、その事業はいかにして計画され、着手されたのか、と。経緯を遡れば、そこにはやはり利益の存在があるのであって、形式論理に沿っていること自体が、正しいことの証明にはならない。それが世間の現実だろう。民主主義社会の政治家というのは、正当性に隠れた矛盾を和らげることも仕事として担当しているのではないか、と。小生はへそ曲がりなものだから、そう思っているのだがねえ・・・。

2016年1月25日月曜日

30年目の『煙が目にしみる』

先日買った"Surface Pro 4"は、いくつか不満の点はあるものの、満足している。

週末の土曜には卒業年次生の最終発表会(1回目)があったが、さほど疲れていなかったので、日曜は昼までSurfaceをとりだして、"Cats - London Original Cast -"をWindows Media Playerでダビングした -- WEB版Amazon Musicを使えばダビングの必要はないケースが多いのだが、オリジナルCDがネットで販売されてなければ仕方がない。

そのついでに、最近ではすっかり埃まみれになっていたCDケースをパラパラめくっていくと、American Popsがあった。プラターズの『煙が目にしみる (Smoke gets in your eyes)』から始まる廉価版である。

懐かしかった。

このCDは、小生がまだ千葉・柏にある狭い官舎で暮らしていて、まだいうなれば新婚間もない頃、それまでのウォークマンに代わって世間ではCDプレーヤーの時代だという流れになっていたものだから、CDとはどんなものかと思いつつ、ちょうど新橋駅前の雑貨店に入ったときにポータブルタイプの1台と、とりあえず聴くための初めてのCDを買って帰ったのだが、そのCDがこのAmerican Popsだからだ。

帰ってからカミさんに『CDって知ってる?』と聞くと、『ああ、レコードの小さいようなあれ?』と、そんな間の抜けたような返事をしたような記憶がある。

カミさんは、その前後 ― 前だったろう、その夏の終わりの8月末には長男が生まれたのだから ― に小生が出向していた岡山県から官舎に転居してきたものだから、まだまだやることが多かった。CDどころではなかったのだろう。

小生は4畳半の仕事部屋に入り、ポータブルCDプレーヤーを電源につなぎ、最初のCDをかけた。スピーカーは・・・イヤホンだったか、それとも小型のBoseが手近にもうあったのか、覚えていない。

CDという媒体、カセットよりはハイカラな感じであったな。音質は、これまた覚えていないが、客観的にみて良いはずはなかったが、新しい音楽ライフの到来に大いに満足したものである。

その後、西日本の某国立大学に出向している間に母も亡くなり、小生はそれまでの人生の基盤をすべて新しく作り直したくなり、いま暮らしている北海道に移ってきたのだが、当地でもしばらくは車の中でこのAmerican Popsをよく聴いたものだ。『砂にかいたラブレター』、『オンリーユー』、『ラストダンスは私に』などなど、暖かくなった北国の春、若葉緑の中を、フォードのステーションワゴンにカミさんと二人の愚息を乗せてニセコ辺りまで走らせると、実にしっくりと気持ちが楽になり、再生というか"Reborn"の感覚が心の中に広がったのだった。

・・・そういえば、子供が小学校に上がって、ある年の夏にオロロン街道~宗谷岬~オホーツク街道~網走~層雲峡~美瑛・富良野を一周した時は、道中ずっとジブリ作品に流れる曲を集めたCDをかけていた。それを繰り返し聴きながら、その年の夏は、運転していた。いまでもジブリものの再放送をみると(DVDもあるのでいつでも観れるのだが)、稚内から網走まで雨のオホーツク街道を走っていたときの情景を思い出すのはそのためだ。いやあ、上の愚息も下の愚息もまだまだ幼かったネエ…。

子供たちが独立してからはほとんど聴かなくなっていた。存在することも忘れていたが、たまにこうしてまた聴くと、30年の歳月もほんの3日くらいの時間に感じられるから「時間」というのは不思議なものだ。

2016年1月24日日曜日

株価: 今回の急落劇はこれで終わるとは思えないが・・・

先週末に世界の株式市場はいささか落ち着いた、というか下げすぎを修正した感じだ。「えっ、もう終わり?」と感じる向きも多かろう。ただ、この先はまだ闇の中である。

金融当局の次の一手待ちという状況になっているので、サスペンディングな状態が続きそうだ。

小生は、ソロスをキーワードにしてGoogle Alertをかけている。バフェット師もなるほど投資の世界では尊敬されているが、この最近で(いわゆる)バフェット株は全く冴えていない。ソロスは文字通りのレジェンドだ。

そのソロス関連情報が届いたのだが:

【ニューヨーク 21日 ロイター】 米著名投資家のジョージ・ソロス氏は21日、中国経済がハードランディングし、世界的なデフレにつながる恐れがあるとの見通し示した。

ソロス氏は世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)が開催されているスイス・ダボスからブルームバーグTVに対し、「ハードランディングは不可避」と言明した。「これは予想ではなく、実際に目にしていることだ」と述べた。

同時に、中国が十分な資源や3兆ドル規模の外貨準備高を持っていることなどを踏まえ、同国がハードランディングを「乗り切ることは可能」との認識を示した。

中国経済減速の影響は世界全体に波及するとし、中国情勢に加え、原油や商品価格の急落がデフレの根本的な要因になるとも指摘した。

また、米S&P総合500種をショートに、米長期国債をロングにしていることを明らかにした。
 中国経済ハードランディングですか……。ちょっと怖い。

もしそうなれば、中国の金融機関のドミノ式経営破綻が現実のものになるだろうと思われ、そうなると韓国へと飛び火し、日本にも相当の打撃があるだろう。

おそらく、日経平均株価は15000円どころか、20000円をピークとして半分。10000円を割るかどうかという暴落劇になると予想している。

ただ、まあサブプライム不良債権が主因となったリーマン危機に比べれば、一党独裁下の中国国家がバックに控えているという事実は否定しがたいので、疑念が疑念を生んで、底なしになるという風には進展しない。そう思っているところだ。危機一服後の中国国内の構造変化では中央集権制特有のもたつきをみせるだろうが。

とはいえ、中国がそうなると、エネルギー、鉄鉱石、非鉄など資源価格は下がるだろうし、世界は真性のデフレに突入する可能性が高まり、そうなると今度はグローバル規模で「失われた20年」を再演することにもなりそうだ。

どうもソロス氏、そこまで(当然ではあるが)見ているようだ。

老いてますます盛んだねえ・・・、1930年生まれでもう85歳か。金を冥途に持っていけるわけでもないのに、どうしてここまで投資に情熱を持ち続けられるのだろう。

2016年1月21日木曜日

政治家の「疑惑」: このタイミングはありうるのか・・・

昨晩は、札幌周辺の道央地方は大いに雪が降る天気予報であったが、やはり空振りに終わったようだ。今朝はマンション管理人のYさんも除雪車を呼ぶ必要すらなかったとみえる。

それはともかく・・・、

甘利経済財政相に政治資金をめぐる疑惑が突如として浮上した。『直接金を渡したことがある」という人物が実際にいるというのだ。週刊誌が書くというのも基本的パターンのとおりだ。

今年は選挙の年である。衆参同時選挙もありうると噂されており、もしそうなれば両院とも与党が3分の2以上の多数を占めると予想する向きがあり、そうなれば安倍首相の悲願である憲法改正も現実味を帯びてくる。これは誰もが知っていることだ。

そのタイミングでTPP交渉の重要人物、安倍総理に最も近い政治家に矢が飛んでくるとは・・・、タイミングが良すぎて逆に奇妙だ。

その昔(というほどの昔ではないが)、麻生自民党内閣がリーマン危機後の経済混乱で支持を失い、かたや民主党には小沢一郎がおり民主党の勝利が確実視される中で、突如として東京地検は小沢一郎議員をターゲットにして捜査を開始したものだった。

当時の民主党代表である鳩山氏はこれを<国策捜査>と呼び猛烈に批判したが、実際にどうであったのか闇の中である。小沢氏は政と官の関係を根本的に見直すことを公約しており、そんな状況の中での、かつ選挙直前の捜査劇ではあったが、その後、結局は小沢氏本人に罪は認められることなく、うやむやのうちに事は収束してしまった模様である。あれはどうなってしまったのだろう。もういい、ということなのか・・・。

今回もまたどうなるかは分からないが、日本の政治体制の(右にせよ、左にせよ)根本的変革を志す政治勢力が排除されるかもしれないという状況は相似ている。

こんな偶然はありうるのか・・・・・・

2016年1月19日火曜日

相変わらずダメな「北海道」の天気予報

今朝はこの冬にしては珍しいほどの積雪だった。除雪車が来るので、朝食をすませるとすぐに小生は車を出して、近くにある喫茶店に避難したのである。そこで持参したSurface Pro 4を開き、明日の授業の準備を済ませてしまった。こんな時、ほとんどタブレット仕様とはいえWindows10で動いているので、非常に強力だ。

昼頃に戻ってからは雪は落ち着いている。が、明日また「北海道は大荒れ」という予報だ。

「北海道は・・・」ねえ、この表現に昨冬はどれほど振りまわされたか。マンション管理人のYさんも「天気予報、当たらないしネ」、こぼすこと、こぼすこと。

北海道は日本全体の22%を占める。四国・九州を併せた面積よりも広い。「四国・九州は明日大荒れになるでしょう」、時にはそんな言い方もあるだろうが、佐賀県と徳島県の天気はずれるのではないか。

根室は、釧路は、網走は・・・すべて同じ北海道の町である。しかし、小生のいる町と網走市は東京から名古屋までの距離よりもっと離れている。網走の天気を予報されても、小生の生活の役には立たない。

昨冬も書いたことだが、
東京の気象庁は日本全体の概況予報だけを行うべきである。北海道の天気は北海道庁が担当するべきだ。県の天気は県庁が行うのが適切だ。気象庁はベーシックな気象データを提供するだけでよい。予報技術は産官学連携で磨ける。競争原理も働きみるみる内にレベルが上がりきめ細かくなるだろう。
同じことを何度書けばよいか、予想もつかない。

2016年1月18日月曜日

「訪日観光客2000万人」から官僚的で古臭いカビの臭いがする

スキーバス転落の悲劇でTV報道は持ちきりである。

国土交通省が示している標準額を下回る金額で受注したバス会社もモラルを問われているし、そんな発注をした旅行会社のモラルも問われている。

TVのコメンテーターは「基準に反する発注をした側が、そのプラン自体を警告される。そんなシステムが必要です」、と。

同感だ。日本社会では<計画をしたことが最も悪い>という犯罪概念はない。しかし、現場で実行をした人たちは、組織ないし組織間の取引の中で業務としてその行動を(やむを得ず)とったに過ぎない、そんな場合が非常に多い。

時代は法制度をこえて先を行っている。

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旅行価格を安くしようとすればバス調達コストを安くするのが最良だ。そのためには価格引き下げを交渉するのが最良だ。故に、交渉した。これ自体は真っ当な商行為だ。

価格引き下げは低価格を求める客がいるからだ。低価格を求める客をターゲットにすれば、数量としてはその業界のビジネスは拡大する。

いま旅行ビジネスでは拡大戦略がとられている。かつ、日本国としても<訪日観光客2000万人>という大目標が掲げられている。


拡大戦略を実現する特効薬は低価格戦略である。そのためには低コストがよい。

悪循環であろう。これで本当にいいのか?日本として得するのか?


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人数ベースで観光客2000万人という目標を掲げるなど、愚かしいことである。

愚かと言うのが過激なら、経済音痴であると言っておこう。

そもそも外国から人が押し寄せてきたとき、ホテルは足りるのか、バスは足りるのか、運転手は足りるのか、道路状況はもつのか・・・?

だから物的施設を整備する必要があるのだというのは、愚かである。日本に住んでいる普通の人はそんな状態を望んでいないと思う。

生産要素に制約があるなら、要素価格が上がるべきである。それを販売価格に転嫁するべきである。賃金も上がるべきであり、ホテル料金も上がるべきであり、旅行価格が上がるべきである。そう考えるのが経済の理屈だ。

ロジックと反対のことをしようとすれば、どこかで社会的に容認できない現象が出てくるものだ。

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旅行価格を上げれば、訪日観光客は減るだろう。しかし、旅行に高い満足を感じる堅い顧客層はそもそも現行価格は安いと感じている。故に、高い価格を受け入れ、それと同時に混雑が緩和され、高いクオォリティが維持された日本旅行に満足を感じつづけるであろう。

日本がなすべきことは、多くの人数を日本に招くことではない。来日する人に高い満足を感じてもらい、堅いファンになってもらうことなのだ。カネは必然的についてくるだろう。

適切な人数にきてもらうとき、現場の疲弊は解消され、観光ビジネスは持続可能になるはずだ。

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人数を目的にしたがる心理は、台数や重量を誇ったり、領土面積のような物理的存在量を自慢する帝国主義時代の残りかすである。

客の人数を目的とするのではなく、利益と品質を目的とする。これがビジネスの根本だ。

2016年1月15日金曜日

さすがにサル年の株価だ

やはり『申酉さわぐ』の格言どおりの展開となっている年始相場である。

大発会から概ね10%下げたことになる。

ただ、中期的に見ると日経平均株価は2012年秋口からの上昇トレンドが既に3年余り続いてきており、景気循環の経験則に照らせば、一度後退局面に入ったとしても自然である。


実際、最近10年間の動きを上のグラフで達観すると昨年後半から天井感が認められるのは明瞭である。

実態経済は足元でそれほど悪くはない。ただ、中国経済のハードランディング、テロリズムの拡散、石油価格の暴落とオイルマネー逆回転と、マイナス材料は多々ある。

100年に一度の危機(Once in a century crisis)であったリーマン・ショックほどではないにしても、年始来の低下基調はこの春先を超えて夏場までジグザグしながら続くのではないか。

いまは10%の下落であるが、更に10%、もう更に5%程度は下がってもおかしくはない。とすると、日経平均で15000円を割るかどうか(割っても不思議ではないと思っているが)。時代はいつの間にか、金融工学からビッグデータ、そして人工知能、IoT、バーチャルリアリティへと次々に新しいキーワードが登場している。時代の流れは明らかだが、リスクに敏感な状況が続くには違いない。

さびしいのは、次の時代にチャレンジしている企業で名が聞こえてくるのは、大体が米企業、アメリカでないとすれば中国企業がほとんどであり、日本企業が登場する頻度がほとんどないことだ ー トヨタがシリコンバレーに開設した人工知能研究所にグーグルのトップ・サイエンティストを引き抜いたという例があるとはいえ、だ。”メディア・セレクション・バイアス”だろうか。

2016年1月13日水曜日

国会: 「枝葉末節」といえば確かに松葉のように細かく小さい枝葉である

国会論戦が繰り広げられている。

総理が「パートで月収25万円…」と述べたのは、確かに現実離れ、というか浮世離れした数字であった。庶民のことはよくご存知ないのだろうと、容易に察せられる。とはいえ、だから総理大臣として失格だとは、小生、思わないが・・・。

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それにしても委員会審議、低品質化したものである。

何ですかねえ、質問していたあの民主党議員は?女性議員だからどうだとかは、まったく考えていないが、あれじゃあパフォーマンス目的の井戸端会議ではないか。そう思わない人はいるだろうか。

大体、25万円云々という話であれば、せっかく経済財政担当相に甘利氏がいるのだから甘利大臣に質問して、正々堂々、数字に立脚した論争をしかけるべきである。数字に関することであれば、官僚が徹夜も辞さずに調査して、答弁資料を作成するはずだ。

数字の話を一方的に仕掛けるのは、中身の自信がない時の定番戦術である。

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待機児童、保育士の待遇をいうのであれば、厚生労働大臣に質問をすればよいのだ。

それをいきなり、それも官庁を所管していない内閣総理大臣に数字の話を振りますかねえ・・・、何かというと昔話をするのは年寄りの悪い癖だが、ありえないネ。質問時間が減るだけだ。これはここ、あれはどこの省庁が担当と、そんな初歩的事情もご存じないのだろうと、容易に推察がつく。

情けなきこと、涙こぼるる

であった。

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それにしても軽減税率については、財務大臣はまったく冷めた答弁である。まさか、公明党の石井国土交通相が税の答弁をするわけにいかんしねえ・・・。

イヤ、イヤ、「軽減税率は、全部、公明党に答えさせろ」、と。そんな声が自民党の中であがってくるのではないか。

もしもそうなれば、国会という場が一場の政治演劇と化して、視聴率は30%に達するのではないかと予想してみたり、想像してみたりしているのだ。


今日の午後のTVで、ソ連空軍のミグ25戦闘機が函館に亡命、不時着した時の真相が放映されていた。

事件はロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されるという騒動の真っ最中に発生したが、時の首相は三木武夫。その首相が「三木おろし」をどうしのぐかで、ミグ25はどうでもいいと。

陸上幕僚長は総理命令を仰がず、ソ連の攻撃があれば迎撃せよと密命を下したとのことであり、陸上自衛隊は対空ミサイルを装填して戦闘態勢にあったというから驚きではないか。

国会よりは行政の最前線にいる文官・武官のほうがよほど緊張しておりますぜ。TVカメラの向こうにいる視聴者をどの位に意識するか、その辺の違いからもたらされる違いであろう。

ま、民主主義といえばなるほどこれも民主主義には違いない。というより、民主主義にも色々な民主主義がある。優れた民主主義もあれば、愚かな民主主義もある。この当たり前の真理に気づく今日この頃である。

2016年1月11日月曜日

出来なかったことの棚卸し(2): 応用化学エンジニア

アメリカの化学大手二社が統合され、近いうちに素材・農業・特殊製品の三部門に分割、上場されることになったとの報道だ。その二社とは、何と、デュポンとダウケミカルである。

これは文字通りの驚天動地。日本でいえば、かつての製鉄業界の双璧、八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鉄になったことはあったが、あの時も独禁法をどうクリアするかで大騒動であった。とはいえ、あれは元々一つの会社であって、終戦後に分割されたものがまた一緒になるというケースだった。社風や歴史は両社で共有されていたのだな。

長い年月、ライバルとして張り合ってきた大手二社が、いくら業績が頭打ちになったからと言って、一組織に統合されシナジー効果を発揮できるものだろうか。ローカルでマイナーな例だが、日本航空と東亜国内航空の統合という失敗例もある。


デュポンといえば、何といってもナイロンである。「石油と水と空気から絹よりも軽くて丈夫な繊維ができるのです」。この世界に初めて化学繊維が登場した時の売り文句である。

ナイロンに原爆、ペニシリンを加えた三つは20世紀の三大発明と呼ばれている。それだけ世界を変えたわけである。

ジーザス・クライスト・スーパースターでは裏切り者になったイスカリオテのユダが
〽 ・・・ わたしは理解ができない~
大きな事さえしなければ~
こんなにならずにすんだの~に~
むかしのイスラエルにはテレビもないしさ
こんな風にロック調で歌い踊るのだが、宗教とは所詮は人の心と信仰の持ち方であり、物的生活とは関係なく、豊かさを実生活の中にもたらすものではない。昔のイスラエルにテレビがあったとしても、「神の子」が人々の暮らしを変えるには、おのずと限界があったはずだ。

ナイロンを発明したカロザーズは現実に世界を変えたわけであるし、その天才的エンジニアに憧れていた小生は同じく合成繊維エンジニアであった父の目にはうれしく映っていたに違いない。

最終的に、統計分析などというヤクザな、何事も作り出さない仕事で、それもまた自ら汗をかかずして教えるなどという怠惰な仕事で、世を過ごしてきた小生は、父の目から見ると落第点であろう。

これまた「出来なかったこと一覧」の有力候補だ。


それにしてもスンナリと合併してしまう海外の企業は大したものである ー と、感心していいのかという問題意識は片方であるのだが。
一方で、今回のメガ再編劇が日本の総合化学メーカーへ与える影響は、軽微にとどまりそうだ。 
SMBC日興証券の竹内忍シニアアナリストは「日本メーカーは買収対象として魅力に乏しい」と分析する。 
日本の化学メーカーも大手2強に集約が進むとはいえ、規模では海外の競合に遠く及ばない。さらに総合化学メーカーは事業内容が多岐にわたるため、M&Aでは不要な事業の切り放しが必須となるが、日本企業のリストラは簡単ではない。
(出所)東洋経済オンライン、1月11日

確かに、日本企業はちょっとした組織改編も大変だろう。

「現場のわからない本社の連中がこんなことをしていいのか!……」、とまあ、すぐにこんな風に組織が分裂状態になるのだ、な。

ただ、だからと言ってグローバル市場の僻地になってしまったかといえば、そうとは限らないかもしれない。

創業200年以上の寿命をもつ老舗企業は日本では4000社弱に達する数になるという。その大半は、規模が小さく、本業に専念し、自社技術を磨いてきた会社だ。中国はわずかに数十社であるという話をどこで聞いたか・・・、どの新聞でみたか。日本と同程度に老舗企業が多数存続している国はドイツである。どちらも偏屈で我を曲げない「職人の国」であり、ただ儲けるという提案には乗りたがらない傾向がある。

オンリーワンであれば、世界市場でも価値をもつわけだが、しかし、三菱、三井といった財閥系国内化学メーカーは、そろそろその存在価値を問われても仕方がない時機かもしれない。

2016年1月9日土曜日

現役時代の棚おろし(1…?)

棚卸しとは保有在庫の確認である。もう無いものは棚卸しで記録されることはない。

しかし、職業人生全体を振り返ってみると、出来たことも大事だが、出来なかったことをリストアップすることも大いに意義がある。そう思う今日この頃なのだ。


官庁エコノミストの草分けであるI.M.氏が亡くなったという報道だ。小生がまだ経済学を修行している時分、指導してくれた先輩は何度もI.M.氏の景気分析を素材にとりあげたものだ。何の責任もない脛かじりの学生の目にマクロ経済分析を的確に展開するI.M.局長は日本経済のプロデューサーのようにも見えたものだった。

小生は、結局、先輩の影響をうけてI.M.氏が勤務する役所を選んで職業人生を始めたのだが、一度だけ大阪(であったと思うが)出張に随行したことがある。小柄でありながら背が真っ直ぐで実際の寸法よりずっと大きく見えた人であった。声は、比較的小さく、穏やかで、 ゆっくりと話す人であった。

少し厳しい面がある別の先輩によれば『△△会なんてものがあるわけじゃないんだよ』ということであったが、小生が最初に書いたルーキー向けの文章で『行政官的エコノミストになるか、エコノミスト的行政官になるか、その選択は確かに必要だと思うし、どう選択するかは自分自身で選んでいくことだと思う』と。

いま思い出すと、訳のわからん、キザなことを書いたものだと思うが、こんな表現を思いついたきっかけは(その時点で次官であったはずの)I.M.氏である。その年の夏、小生は父を亡くしたのだが、真夏で猛暑が続く中、陽の高いうちは仕事をして、暗くなると先年やはり病気で他界された当時の課長補佐Y.O.氏の許しを得て、父に付き添っていた母の様子をみるため都下にある大学病院まで外出する。そんな毎日をおくったのだが − いや、まあ大した戦力でもなかったのだろうが、よく我がままを許してくれたものだ − その時期、努力をすれば彼の人のようになれるという目標感が支えといえば支えであったのだろう。

行政官的エコノミスト、エコノミスト的行政官・・・、そのどちらにも小生はならなかったが、ある一定の時期、(心の中の)師匠と思ったことがあったので、訃報をきくと平気ではいられなかった。

これもまた、最近は意識する事がなかったが「出来なかった事一覧」に入ることだ。

2016年1月8日金曜日

正当化・欺瞞の理屈付け=高視聴率の法則?

正月明け早々、カミさんはソファに寝転んで、先日Amazonで買った日めくり式数独をあれこれ鉛筆で記入しながら解いている。TVのワイドショーはつけっぱなしである。

平和といえば、平和である、な。

『親のケンカを見ながら子供って強くなるものだと思うんです・・・』。・・・ン?聞き逃せんなあ。

『正月帰省、実母はしんどい』。

現代家族事情のさまざま絵模様をワイドショーにしているわけですか。確かにうちのカミさんも一つのサンプルだが、こういう番組での語りは高視聴率をとれるだろうねえ。

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しかし、ネ。

親のケンカを見ながら子供が強くなるって、これは真っ赤な嘘である。

小生の両親は、今から思うと波長が合った夫婦であったのか、なるべくしてなった夫婦であったか、それは息子である小生にはわからない。

親の心の中は子供には結局わからないものである。わかっていると思っているだけである。

反対に、子供の心の中は、親には結局わからないものである。

ただ一つ言えることがある。

父と母がケンカをしている姿を目の前でみるのは、子供にとってとても悲しいのだ。子供に悲しい思いはさせたくないと感じるのが、親の愛情の普遍的な姿である。故に、子供が強くなるのだから、ケンカくらいは許されると考える親は、まあ、減点というか、失格である。そう思っている。

今の世の中、「助けあい」という言葉を借りて、ただ「もたれ合っている」だけのことが余りに多い。この二つ、根本的に違うと思うのだ、な。

人類は戦争することで鍛えられるのだ。何が平和主義だ。戦争を嫌がること、イコール弱さの表れである。

こんな政治家をあなたは正しいと思いますか?

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君子不重則不威、学則不固。
主忠信、無友不如己者。
過則勿憚改。
 
君子重かざれば則ち威あらず、学べば則ち固ならず。
忠信を主とせよ、己に如かざる者を友とすること無かれ。
過ちては則ち改めるに憚ること勿れ。


これは悪い、これは間違っているというサンプルを観察したとき、「これもありか」と反応するのを堕落という。腐敗でもある。退廃でもあり、衰退の証拠である ― 証拠であって、原因ではない。

過ちは正したい。この過ちは恥ずかしい。こう感じる心情は孟子によれば義のはじめである(参照:四端説)。まさに改めるに憚ることなかれ、だ。

なるほど坂口安吾に『堕落論』があるくらいだから、堕落の自由もあるのだが、そうであるなら北朝鮮の核実験も、イスラム国のテロも非難する資格はないってものだ。そうでござんしょう。間違っておりますか。

2016年1月7日木曜日

北朝鮮の瀬戸際戦略とな?

年末の日韓合意のあと、色々と「不規則報道」が続き、従軍慰安婦問題の手打ちがそうならないのではないかとヒヤヒヤした雰囲気もあったが、北朝鮮による核実験ですべてが吹っ飛んでしまった。

歴史問題どころではないわけだ。まずは安全保障である。

年頭には中国経済不安、4日はサウジがイランと断交、6日は北朝鮮の核実験。

日経平均株価は、大発会の高値19000円弱から本日の17700円余まで4日間で概ね7%の急低下である。週間では10%の暴落スピード・・・、恐怖を感じるかどうかの境目には違いない。

しかし、実体経済への自信からか、先行き不安を煽るような専門家はまだ現れていない。ま、いずれ誰かが国際経済崩壊を語るだろうし、そんなニュース価値のある人をメディアはいま探しているのだろうが。


国際政治戦略的には、今回の核実験は北朝鮮に何も利益をもたらさないはずだ、というのが専門家のコメントだ。

対中関係、対米関係、対韓関係、対日関係等々、外交関係はすべて悪化が必至。そんな国際的孤立のマイナスを超えるプラス効果が金正恩政権には期待出来る。こういうロジックを様々な専門家がTV画面で話している。う〜ん、理屈はその通りだろうが、どうも浅い、というか月並みだねえ。


2016年1月5日火曜日

スタジアムを何周すれば休憩できるのか・・・

明日はもう授業がある。とはいえ、世の中はもう仕事始めを終わり、オフィスはそろそろ平常モードで回っているだろう。

『明日はもう…』などという小生のほうが甘い、というか浮世離れしているのだ。

が、もうそろそろしんどいのですよ、ね。


いまの長寿社会、人生80年時代はかなり以前から到来していた。その後、定年が何度も延長され、最近は年金支給開始年齢がどんどん後ろにずれているところだ。

小生だけの経験で信頼性は落ちるが、いくら人生80年時代といっても、人生の最後に元気いっぱいの30台、40台が待っているわけではない。最後の10年が70台の10年間であり、その前は60台の10年である。月並みだが「年老いた」長い時間が付け足されたのが、いまの長寿社会なのである。

そして、その長い時間を過ごす自分は、今の自分より更に反射神経も耐久能力も低下しているに違いないのだ。

やれるかねえ・・・。この思いは長寿社会をいきる長寿の人たちに共通の思いだろう。

視力が落ちれば計算能力と読書力が落ちる。筋力が落ちれば、書く力はもとより、会議で座り続ける根気が衰えるのだ、な。おそらくまだ小生の知らない衰えが待っているのだろう。


大学院を出たのが25歳、それから65歳を定年として実働40年。ちょうど平均寿命を生きるとして、人生の半分を親に守られて、また年金システムという社会制度に守られて生きることになる。

人生の半分だけ働くというのは、過分な甘えなのだろうか?

小生の祖父が生きた時代は戦争をはさんでいて平均寿命という数字はあまり意味がなかった。しかし、まずは還暦の60歳まで生きれば、短命とは言われなかっただろう。そのころ、定年は50歳だったと聞いていた記憶がある。それとも55歳だったろうか・・・。祖父が裁判所を退いたのは、なぜだか祖父が小生を連れて赤煉瓦の旧最高裁まで行き、祖父は建物の中に入っていき、しばらくしてから玄関で待っていた小生に祖父が声をかけながら出てきた日、その日ではなかったかと思うので、だとするとその時の小生の年齢から逆算して、祖父は55歳ではなかったか、そう考えている。

ま、どちらにしても55歳か50歳で定年として、昭和30年代の日本人男性の平均寿命は65歳程度。10年程度は生きるわけだ。

そんな寿命ではあったが、戦前の高等教育は現在よりも分厚く、帝国大学を卒業するとき、ほとんどの学生は23歳になっていたはずだ。祖父は、高文に一度遅刻して小田原の中学で臨時教員をしていたというから、任官した歳は25歳であったろう。

であるとすると、祖父は25歳から55歳まで30年を仕事にささげたことになる。職を辞したときには10年間の隠居生活を予想していたはずだ。とすれば、人生の半分以上を勤労をせずに暮らす。そんな人生設計であったわけだ。これだけでも21世紀に生きている小生よりはよほど恵まれている。実際には祖父は80台まで長生きした。その長い時間、恵まれているのを通り越して、おそらくは退屈、ひょっとすると内心忸怩たる人生の苦みをかみしめていたのかもしれない。

いや、確かに長生きの苦みがあったはずだ。娘、つまり小生の母の婿(=小生の父)は祖父自身よりも早く他界したのだから。

が、まあ、いずれにせよ、人並みの寿命であの世にいって、尊敬する祖父とまた話をする機会に恵まれれば、人生の半分も仕事にささげたというこの事だけは、小生は誇りをもって、自慢げに祖父に伝える権利があると思っている。

もちろん職を退いても、自分の知識で役に立てることはあるだろうし、ラッキーなことに統計ブームである。ただ、報酬を得て、その見返りに働くというのは、もうそろそろおしまいにさせてくれないだろうか、と。勘弁してくれないだろうか、と。そんな心境になってきたのでござんす。

まだまだ大丈夫だ、というのは一見健気に見えるが、その実はハタ迷惑であることが多い。生涯現役というのは、伝説ではあるが、学者、職人、知識人を含め、いろいろ観察すると、気持ちはわかりますけどヤッパリ難しいでしょ、と。これが小生のいつわらざる感想でござります。


そろそろ一度ゴールしたいね。また走るかどうかは決めていないが、一度ゴールテープを切らせてくれよ。

そんな年始だから、さっぱり意気が上がらない。

2016年1月2日土曜日

2016年新春 - いつもながらの年始かな

新潟にいる下の愚息がが31日に帰ってきて本日二日昼ごろにはまた戻って行った。かと思うと、市内で暮らしている上の愚息が昨日午後になって熱があると言い出す。夜になると38度5分をこえてきたので、宅に来させてから夜間救急センターに駆けつける。節々が痛むなどの症状はないので、おそらくインフルエンザではないだろうなどと話す。抗生物質と咳止めを投与される。風邪は寝るしかない。

そんな風だったので、昨晩は下の愚息をいれて三人でカニ鍋にしたのだが、上の方が「カニ、駄目?」と恨めしそうに聞いていたそうだ。子どもなら可愛くもあるが、齢を考えると、情けなくもある。

下の愚息は、仕事のほうには大分慣れてきた様子だ。ただ、まだまだ熟成度が足らず、香気がない。そのことを小生の口から直接に伝えておいた。

小生: いいかい?仕事だけの毎日を続けているとナ、大体同じ仕事をしている限り、仕事の範囲より以上に成長はできなくなるんだよ。お前、一年前とあまり変わってないよ。つまり成長が鈍っている。そんな年齢ではないはずだよ。この先も、相手は変わっても大体同じ仕事をしていけば、熟練はしてくるだろうし、仲間内ではうまくなったなと言われるだろうが、外からみると『変わらないな』ってな、そんな感じにしかならないよ。いいのか、それで?

小生: 話は大体聞いたから、経験を積んできていることは分かった。ただネエ…、どう言えばいいのかなあ……、俺の叔父に銀行マンの人がいて、ずっと昔、いろいろな相談に乗ってもらったことがあるんだ。その叔父が俺の母、つまりお前のお祖母さんの実家に何度か行ったらしい。『△△さんと話していると、銀行の窓口で話しているみたいじゃねえ・・・』とな、まあそんな話を叔父が帰ったあと、みんなで話していたそうなんだ。行儀が悪いと言ってしまえば、そうなんだけどナ。だけど、俺も叔父と話をしていたときは、同じ感想だったんだよな(笑)。いい叔父なんだが、いかにも幅が狭いよ。仕事から離れた一人のヒトとしてサ、どんな個性をもっているのか。仕事をとったらどんなヒトなのか。それが感じられないのは、要するに仕事以外の自分がないってことさ。仕事で一生懸命なんだ。よく言えばそうなるんだろうが。程合いというのはある。お前の話しは昨日から仕事でこれをどうした、あれをどうしたって、それが多すぎるぞ。『お前はいかにも〇〇だねえ』と、家族で話をしても同じことを言われてしまう。商社マンなら、誰それがああ言ったから、こういい返してやった、そしたらあいつが裏切りをかけてきたから、俺は第三のあいつにこうささやいたんだ……。社内ならそんな話をしてもいいし、盛り上がりもするだろうけどナ。普通に話してみんなが関心を示すような話じゃないよ。所詮、下らなくて、つまらない話じゃないか。話しにはその人の志の高さが表れるものなんだよ。お前、一体何のために、誰のために、なぜ今の仕事をやっているんだ?それはなぜ大事なんだ?お前の仕事は、『自分の(たとえば幸福の)ためにやっています」と、そう言える性格のものではないだろう。じゃあ、なぜそれをやっているんだ?その原理・原則は何なんだ?何でなくちゃならないんだ?

ずっと昔、アイザック・アシモフのミステリー『黒後家蜘蛛の会』の愛読者であったが、毎回のバンクエットに招待されるゲストが食事のあとで最初に答えなければならない質問は、『あなたは、何をもってご自身の存在を正当となさいますか?』であった。いい質問だ。まあ、主旨は同じである。

そんな具合に、仕事に慣れてきたところで苦言をきかされる経験も若いころには必要なことだ。

小生も小役人のころ、いつも訪れては若造の小生につきあい何時間もつづく快飲の席を設けてくれた松山在住の叔父から厳しい一言を呈されたことがある。『〇〇クン、それはあれじゃ、虎の威を借る狐のような仕事じゃ』、それでハッとして我が勘違いと誤り・自己肥大心理に気がついたのだった。中学校の教頭先生であったその叔父は、亡くなった小生の父とは旧制中学で同級だったのだが、そんな事もあって今でも思い出すと温かい気持ちで一杯になる。

親など、子供が成長した後は絶対的に不可欠の存在ではない。気がついたときに記憶に残るほどの厳しい言葉を聞かせておく位が出来ることの最大限度であろう。


富士はなく 鷹もみかけず 茄子もなき
   あじなき里も 老いの初夢

未来を想像する夢と、過去を思い出す夢は、全然違う。齢を重ねるということは、必然的に追憶の夢が増えるということだ。

往々にして、その夢は戻せぬ悔いや償うことのできない反省がいり混じった夢である。そんな夢をみるのも、人生の塩気といえばそうなのだが、この正月は随分と塩辛い。