2016年4月11日月曜日

へそ曲がりの賭博論(続)

ストレス社会と言われる。

今遅い朝食をとりながらカミさんと見ているTVワイドショーのテーマは『きれる高齢者』だ。車掌に暴行を働く高齢者、近所の子供に殴りかかる高齢者・・・、昔もガミガミ親父はいたが、自分が気に入らないからといって手をあげるというのは、あまりなかったような気もする。怒られたのは、(たとえば)野球をやっていて、ガミガミ親父の家の庭に打ち込んだ時、明らかにこちらが悪い時だった。

かと思うと、無職の30代が家族に暴行を加えたりする。引きこもりの若者が自分よりも弱い幼少の子供を拉致したり、暴力を加えたりする。

ストレス社会=>ストレス発散社会。これは生物自然の理屈である。

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ストレス発散のためのツールを求める欲求がすでにそこにある。

酒はその一つだ。が、悲しいかな酒の飲めない人もいる。タバコもそうだ。が、世はますます「嫌煙=善、喫煙=悪」の雰囲気を醸し出している。肩身が狭い。やめられる人はタバコはもうやらないだろう。それ以外だと、パチンコ、というかギャンブル。が、これまた肩身が狭い。先日も、違法賭博をするのは「コンプライアンスの欠如」であり、日本には競馬や競輪といった「合法的賭博」があるのだから、それをやればいい、と。浅草演芸場のネタになりそうなやり取りがTVであった。

もちろんギャンブルでもおさまらない人はいるかもしれない。そんな人が薬物にのめり込んでいくのかもしれないし、別の人は盗撮、痴漢など直接的行動を試してみたくなるのかもしれない。

スリルはストレス発散の特効薬の一つであろう。これは実証的論点であり、規範的な論点にはならない。

もちろんスリルだけが、ストレスを解消するわけではない。他にも効能のあるツールはある。

ツールであると達観すれば、そこには技術革新(イノベーション)もあるし、コストパフォーマンス、顧客評価という視点もある。法的規定云々は、通常商品に対する安全基準と同じ視点から議論できる、というか倫理ではなく、まずは需要と供給の観点からストレス発散については議論するべきだろう。そう思うのだ、な。


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需要として一定量がそこにあるなら、禁止や規制をしても、ダメであろう。その欲求は、そこに存在しているのであって、食欲があるのと同じである。

日本では良質のサービスが供給されていないから、海外から輸入する(=外国のカジノに行く、etc.)のだ。ギャンブルは一例にすぎない。もっと広くみて、ストレス発散サービスについては日本の国際収支は赤字である(はずだ)。それでも外国にいける人はまだいい。こんな状況が日本の働く人の毎日を息苦しくしているのじゃあないか。

現在の社会状況の下で求められているボリュームが臨界水準を超えるようなサービスは、たとえ「違法です」と指摘して、それを規制しても、禁止しても、ブラック・マーケットが形成されるだけである。その方が非合法組織には好都合であろう。この辺のロジックは、戦後・昭和20年代に食材が流通した闇市場と同じである。

許容される状態に誘導するしか選択肢はない。政治とモラルは関係があるようで、実は互いに無縁のものである。カジノ開設と違法カジノ取り締まりを並行して実施するのは一つの選択肢だ。米国・カリフォルニア州では大麻が合法化されようとしている。これまた、公認と制御を通じて、結果としてブラックマーケットを消滅させられるのなら、優れた戦略と言える。

『ダメなものはダメだ』と叱責しても、折檻しても、家族や互いの顔が見える近所付き合いの範囲でしか、効力はないものだ。

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