2016年4月22日金曜日

メモ: 震災で見えてくるモラルが将来を決めうるか

簡単にメモを書いておきたい:

熊本地震に対応する政府現地対策本部の本部長を務めていた松本内閣府副大臣が、政府とのテレビ会議で『食べるものがない』と言って、周りの国会議員に差し入れするよう伝えてくれと。嘘か本当か知らないが、大臣は『まっちゃん、まかせてくれ』と応答したそうだ。

食べるものに困るどころか、家族を失った人もいる。自宅崩壊が怖くて車中泊を続ける中、エコノミー症候群を心配する多数の人もいる。多くの被災者をしり目に、まずは自分の胃袋の心配をするとは何事か、と。それで更迭(交代?)とあいなったよし。

まあ、確かに腹が空いては戦はできぬ。日本人は元々十分な補給を確保するという考え方に対して、同情の念が薄いというか、腹がすくくらいがなんだという、理不尽なところもある。しかし、救助に当たっている自衛隊員が食事に事欠いているとは聞いていない。現地に派遣された国会議員だって、関係機関が動いて十分な食事を提供する必要はあるというものだ。それがいい仕事に結びつけば安いものではないか、と。そんな風にも思われる。

ともかくも、格好のよいやりとりではなかった。

そうかと思うと、現地では小学生たちが自衛官たちに感謝の手紙を出しているという。



政治家が何を言うか、何をするか、目先の目的としては次の選挙に勝つ要素をつくれるかを考える。つまり、政治家は政治的利益を求めて、行動するものだ。互いに競争しているのだ・・・。

身分や学閥、職業規制などで閉鎖的な領域が形成されるのではなく、誰でも政治の世界に入っていって、競争できる。有権者の投票を獲得するための闘争が許されてさえいるならば、結果として、その社会には<民主主義>の過程が作用する。・・・であるので、民主主義が出す政治的決定は、常に国民にとって良い結果であるとは限らない。このように観たのはシュンペーターである。『資本主義・社会主義・民主主義』の第4部は全体が民主主義の理論である。シュンペーターが上のように考えたのは、いわゆる「古典的民主主義」は、巨大化した現代社会においては、机上の空論となっているからだ。

政治家はそもそも利益を求めるものである。そんな外観を呈するのは、十分、想定内なのだ。それはわかっている。

しかしながら、震災現場で救助に当たっている個々の自衛官たちは、もちろん、自らの利益を求めてそうしているわけではない。自衛官たちは、利益ではなく、義務を全うしているにすぎない。

大体、公務員の職務はすべてそうだが、仕事をすればするほど儲かるというものではない。企業のように成長することもなければ、商品がヒットして賞与が増えることもない。職務だからやっている。それだけである。

それが、外観としては、見返りを求めることなく救助に尽力している。そう見える。

もちろん組織としての陸上自衛隊からみれば、救助で職務を全うする姿を国民に視てもらうことが、組織の利益にはかなっている。しかし、こんな斜にかまえた指摘をしてみても、大勢に影響はあるまい。

図式としては、常に自分の利益を考えている政治家と、自分の利益ではなく義務によって活動している自衛官。


どぢらが道徳的に優位をしめるだろうか?モラルにかなっているだろうか?

どちらが(子供たちの目に)「立派な人間」に見えるだろうか?

誰が自民党本部に感謝の手紙を書こうと思うだろうか?

このような状況を10年ないし15年間見続けたあとの社会心理は、現時点のそれとは様変わりになっているだろう。

人々の考え方が変わるにともなって、世の中は変化し、法律が改正され、制度が変更されていくものだ。

戦前期の軍国主義日本が誕生するまでには、長期間の政党政治と派閥抗争が国民の前で繰り広げられていた。

政治的資産を食いつぶす民主主義社会の議員には厳しい姿勢で臨むほうがよいのかもしれない。

民間社会は市場によって規律づけられている。官僚は公僕の自覚をもつことが結果的に官僚の権威を高めるだろう。政治家は何によって規律づけられるだろう。規律なき集団が崩壊するのはいわば<定理>のようなものだろう。

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