2016年4月6日水曜日

父への詫び状

作家・向田邦子の名作に『父の詫び状』というのがある。TV化もされたような記憶がある。向田ドラマと言えば、小林薫と田中裕子であると思うが、『父の詫び状』には二人とも出演はしてなかったような気がする・・・。

小生の心の底にあるのは「父への詫び状」である。

子、孝ならんと欲すれども親またず
というが、小生はその典型の愚物であって、小生が26歳になる年の夏に父は53歳で他界した。

他界するまでに自分なりに出来ることは色々とやったと思うし、父を喜ばせもしたと思うが、父の歩んだ人生に比較的多くの不幸が混じっていたとすれば、その原因の一つに小生の言動があったように思うのだ。

父は、最初は四国・松山市近郊にある勤務先の工場で生産管理を担当するエンジニアであったのだが、ある年、転勤話がもちあがった。10年以上も田舎の事業所でくすぶっていた父にすれば、外界に進出したくもあったろうし、自分の力が通じるかどうかの心配もあったのではなかろうか。

何も知らない無頓着な小生は『都会に住みたい』と主張して、何度も東京の近くに行きたいと駄々をこねた記憶がある。長男の話すことなど、一家の父親が下す意思決定にどれほどの影響力をもつのだろうか。自分もまた子供と接してきたのでその辺の気分はわかるようになったのだが、父という人は息子の言葉に背中を押されるような人でもあったような気がする。

伊豆半島の付け根にある小都市に移り住んだのは小学4年の夏であった。転校をした小生だが、友人はすぐにでき、いま思い出してもその町に暮らした何年かは最も楽しい日々となった。

父が新規事業調査のために欧州主要国からアメリカへと海外出張をしてきたのはその頃である。まだ為替規制があり、自由に外国から土産物を買って帰れる時代ではなかった。宝物のようにして持ち帰ったジョニーウォーカーの黒ラベルをみる父の満足そうな表情を思い出すと、当時の貨幣価値で1万円もしたジョニーウォーカーは何であったのかと・・・そう思う。

欧州では仕事の合間にベルサイユ、ローマを訪れ、スイスではユングフラウに登った。ドイツではライン下りに興じ、米国に渡ればニューヨークではエンパイアステートに上がり、そして偶々開催中の万国博覧会を見て回った。ワシントンではリンカーン記念館、ホワイトハウスなど主だった所は全部見て回った。航空会社でストがあり大陸横断バスでサンフランシスコまで行ったかと思うと、その前にはナイアガラをきちんと見ておく。そんな「出張」を何度かしてきたのは、現代の世で仕事をしている小生だって経験していない。

東横線沿線にある元住吉に移り住み父は本社から事業提携先企業に派遣される責任者になった。いまでも新規事業のスタートアップは最も苦心するところであり、ビジネススクールでも主たる課題を形成している。事業提携先の現場では大企業に飲み込まれるという懸念からか、労働争議が頻発し、事業が停滞するようになったころ、目黒駅近くの屋敷町にある借り上げ社宅が空いたからどうかという話があった。父にすれば通勤時間が短くなるというより、むしろそんな古くからある閑静な住宅街に住んでみたくもあったのだろうか。小生を連れてその家を見に行ったものである。東京風に深い軒を備えた古い日本家屋の持ち主は、東大工学部の某教授であったが、海外で仕事をしているというので父の会社に貸していたわけである。

庭には大きな団栗の樹があった。苔むした大きな石の後ろには灯篭が置かれていた。その頃、小生は高校一年であり、通学には電車一駅でよかったのだが、広い庭のある静かな日本家屋と有名な住宅街に住むことに魅力を感じ、父には是非この家に移ろうと、熱心に頼み、その日は同行しなかった母にも東京の都心に住むことの便利さを大いに説いたものであった。小生が通っている高校は比較的に都心に暮らす家庭の子弟が多くおり、自分もまたそんな環境に移りたいという根拠のない心情に影響されていたのかもしれない。妹や弟はまだ小学生であったが、転校を余儀なくされるということになど、小生の関心はまったく向けられなかった。

父は既にストレス性の神経性胃炎を患っていたが、移り住んだ目黒の家から板橋区にあった工場に通勤するうちに、次第に物事が解決されない状況に焦りを募らせたのだろう、元気をなくし、憔悴し、憂鬱症になってしまった。そして、症状が悪化し、精神内科の医師に診察を請い、毎日薬を服用し、そのうち離れの日本間にずっと籠るようにまでなってしまった。庭に多くの石を配置するのは家相としては良くはないのだとずっと後になってから母は聞いたそうだ。

父が再び家族と食事をともにできるようになるまで大体3年かかったろうか。また日常生活を人並みに送れるようになった父は、回復したとはいえ、以前の父とは同じ人柄ではなく、覇気や志、何かのために毎日を努力する人ではもうなかった。それでも父は、小生と夕飯を食しながら話をするのが、それなりに楽しかったようである。その頃になると、父は大学の先輩が工場長をつとめる名古屋に呼ばれ、大事な仕事からは外された窓際族として通勤するようになっていたが、そんな数年間は父が最後に胃癌を発症するまで、家族としては大変に平和で穏やかであり、小生もたまの休みに「帰郷」できるのを心待ちにしていたのであった。妹も既に下宿をして東京にある女子大学に通い、名古屋の家には8歳下の弟がいるだけであった。そんなときに小生が帰ると、気分が盛り上がるのか、父は大変歓迎してくれたものである。その頃、父が愛読していた江藤淳の『海は蘇える』は、いまでも背後の書棚に所蔵されている。

愉快なひと時を提供したという一点をとれば小生は父に孝行をしていたのかもしれないが、しかしながら、満たされることが少なかったと思われる父の人生をそのような人生にした遠因の一つに小生という存在があったことは否定できないように思われる。であれば、『父への詫び状』を書かなければならない。

いかなる言葉を書き連ねれば詫び状になるかはわからないし、父親が息子から詫び状をもらおうという気持ちにはそもそもならないものであるのは、小生自身もわかってはいるのだが。

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