2016年5月19日木曜日

つれづれに: 夢見が悪くて

最近、どうも夢見が悪い。もともとカミさんに比べると夢をみることが多いので『また見たの』とよく言われる。

朝起きて ああよかったと きく雀

今日は何だか「六道輪廻」とか、そんな言葉を考えていた。かと思うと、勤務先の大学がロシア軍、と思うのだが外国の部隊に占領されていて、最初は留置場らしき所に拘束されているのだ。すると、話したことのある女性が近づいてきて言う。
無用の信念なんて持たないほうがいいですよ
無用の理想なんて持たないほうがいいですよ
それより儲けなさい
あなたの商売がうまくいけば、働く人も、お客さんも、あなた自身も助かるのです
気がつくと大学キャンパスの中を若い同僚と歩き回っている。周囲はロシア軍兵士で一杯だ。そのうち野原に出た。向こうに川の流れが見えるーいまの勤務先は高台にあって川の畔りには出ない。あくまで夢の情景である。

すると二、三十人の集団が連れてこられて右の方に並べられる。正面には銃を構えた兵が整列する。この光景をみて恐怖にかられ、小生と同僚は逃げるように蹌踉と元いた場所に引き返していった。逃げ帰る途中で事務官と遭遇した。『それでもう処刑されたのですか?』と質問される。『いや、銃声は聞こえなかった・・・いや、それらしき音はしたかな』、しどろもどろに答える。

ここで今朝は目覚めたのだが、夢であったとしても、本当の銃弾が飛び交う戦場に向き合う勇気など、小生には空ッキシ備わっていないことがよくわかる。威勢のいい会話と本当の性格は別である。


それにしても、「占領」というのは「される」方にとっては悲しいことだねえ。それも感覚的にわかるような気がする。たとえ夢であっても。

この世で人間がいきる世界には六道がある。最初はそれを考えていたのだ。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・極楽の六つである。

地獄と極楽はいま生きている世界の外にあるが、残りの4つはまさにこの世界に現出していると、小生は昔から勝手に思っている。人間だから「人間」の生き方をしているわけではない。六道の中の「人間」とは、『こんな状況、人間には耐えられないだろ』、『人間らしく暮らしたいじゃねえか』、『人間の暮らす街じゃねえよ』というときの「人間」のニュアンスに近い。

勝負の世界は修羅に属する。ゆえに、競争をしかけたり、拡大を目指したりするのは「人間」ではなく、「修羅」の生き方である。現代の経済理論は「競争」を本質的に肯定し、競争促進政策が正しい政策であると理論づけをしているのだが、仏教的哲学からいえば、修羅に生きよと主張していることになる。極楽に逝って至福を得たい、生きている間は人間らしくありたい、と。そんな願望から政治哲学を構築する観点もあってよいと小生には思われるが、現代の経済政策は本質的に異なる理念に立っていて、何が<理論的に>正しいかについては一本道の単純構造をしている。確かに「競争」を徹底すれば、それだけ社会の進化は加速される。社会の進化をもたらすためならば一人一人の人間が修羅に生きることは仕方がない。そう考えるなら、思想全体が全体主義−社会主義ではない–であるとも言えるだろう。


まあ、そもそも仏教的世界観と現代経済理論をゴッチャにする議論はゲテモノであるというのが正統的学者の判断だろう。

現代社会は専門化を徹底することで進化しつつある。専門化とは細分化のことでもある。ゆえに、一つの学問を研究することで理解出来る世界はますます狭くなってきている。

しかし、たまには仏教と現代経済理論を横に並べて考えるのも楽しいではないか。いまの勤務先はそんな姿勢を放っておいてくれるので精神衛生によい。



仕事場を撮影しておいた。Nexus 6Pでパノラマ写真を選択して撮った。そのうち、思い出になるだろう。



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