2016年7月27日水曜日

宗教論: 浄土思想・他力本願

本日はこのブログでも毛色の変わった主題についてメモしておきたい。

日本の仏教信仰の中でも自力本願と他力本願は信仰上の原理の大きな違いとして意識されてきた。禅宗は自力を、浄土系思想は他力によっている。

子供が独立して仕事のほうでもある到達感というか、この辺でまとめの段階に入るかという意識が芽生えると、にわかに残りの人生をいかに生き抜くのがよいかという、そんな問題を考えるようになる。まあ、一言でいえば「晩節」を美しく生きたいわけである、な。

せっかくここまで大過なくやってきたのに、何を欲をかいて、意地汚くと。そんなところだ。

我が家には両親の仏壇があり、毎月親しくしている寺の住職が来て読経をして帰ることになっている。日常の時間の一部になっていたそんな習慣に加えて、最近では自ら仏前に座り、南無六字の名号を口ずさむことが増えてきた。

小生の家は先祖代々ずっと他力信仰でやってきた。

他力本願の最大のハードルは『阿弥陀如来はどこにいるのか?存在していないことは歴然としているではないか』、そんな疑問をどう解決するかだろう ― もちろん仏教思想を大学で専攻すれば、この辺は、当然のこと、講義も聴き、自分でも勉強して消化しているに違いない。が、そんな時間は持ってこなかったし、統計学が専門の小生にはこれからも持てない時間である。

他方、自力本願の最大の難点は『自分の努力で阿弥陀如来の救済に相当するほどの悟りに到達できるなら人間は信じられないほどの力をもっていることになるが、それは本当だろうか?』、ま、そんな疑問であろう。

最近になって、だんだん理解できて来たので覚書にしておきたいのは、心の救済を願う阿弥陀如来は自分の心の中に潜在している特定の意識を指すのだろうという点である。

意識の中に存在すると考えれば、他力本願という思想は理路一貫する。要するに、救いとは病気を治してもらうという外面的な治療ではなく、悩みや不安からいかに解放されて平穏な心の状態にいられるかというそんな問題なのだろう。とすれば、特定の心の働きが救済をもたらすという考え方はそのとおりであるし、人間なら誰でも救いに至る心的要素をもっているようにも思われる。

所詮、「世界」というのは我々の意識であるわけで、その意識の中に「阿弥陀如来」というべき存在が認められるとすれば、他力本願による魂の救済の可能性は実に論理的であることになる。

この解釈の最大の難点は、心の救済を議論する場合は有効でも、人間の意識の外には、つまり客観的実在を対象として、阿弥陀如来やら観世音菩薩、勢至菩薩を思い浮かべても、もともとそれは自然科学的には無意味なことである。意味があるのは人間の意識の中においてのみである。そういう結論になってしまうことだ。

しかし、どうやらそうでないのかもしれない、と。

人間の意識をいまある状態に進化させたのは、他ならぬ客観的に存在する「世界」そのものである。だとすれば、人間の意識という一つの内定世界に存在するものは、すべて外側に源をもっていると考えるのがロジカルであろう。

こう考えると、阿弥陀信仰に基づく他力本願思想は、一つの救済思想として「人間の勝手なほら話」どころか、一貫した論理によって構築されている宗教論である、と。

こんな風に考えたりしているわけだ。

何日もすればまた忘れそうなので、メモっておく次第。

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