2016年8月9日火曜日

時間のみが解決できる問題なのか

毎年の夏、8月6日の広島・原爆記念日から盆明けの8月16日まで幾つかの祭りや慰霊祭ががあい続き、日本は鎮魂週間に入るかのようである。

ケネディ米大使が新潟・長岡市の花火大会を訪れー長岡花火大会は非常に有名であるー長岡空襲の犠牲者への献花台にも献花したとの報道だ。

長岡まつりに合わせて2日から長岡入りしたアメリカのケネディ駐日大使がアオーレ長岡に設置された空襲犠牲者のための献花台に献花しました。長岡市によるとアメリカの駐日大使が長岡空襲の犠牲者に対して献花をしたのは初めてのこと。ケネディ大使は「ここで亡くなった方々を悼むとても意味のある機会でした。我々が長岡市民と共に平和へと手を取り合って行きたいと思いました。」と話しました。

(出所)UX新潟テレビ21、2016年8月3日

その契機となったことは新潟日報が本日伝えている。
 長岡花火には長岡空襲の犠牲者を慰霊するとともに、平和への願いが込められている。市が戦後70年の昨夏、日米開戦の舞台となった米ハワイ州の真珠湾で花火を打ち上げたことなどが縁になり、ケネディ大使を招待した。
 花火の前に、ケネディ大使は市主催のパーティーに出席。「長年、長岡の花火を見てみたいと思っていた。長岡の平和への思いについて学ばせていただければ、と思う」とあいさつした。
 森民夫市長は「花火に込められたメッセージをご理解いただけたと思う」と語った。
(出所)新潟日報、2016年8月9日

越後長岡は太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官・山本五十六の故郷である。戦時中、長岡市にはこれといった軍需産業もないはずであったし、大都市圏の中枢機能もなかったはずだが、 Wikipediaによれば1945年8月2日から3日にかけての空襲で市街地の8割が焼亡、1500人弱の犠牲者が出た。

Wikipediaに記載されている概説によれば、アメリカが事前に計画した攻撃でもなかったようであり、多分に偶然によるものと憶測されている。

小生は、真珠湾奇襲作戦の最高責任者の出身地に対するアメリカ側の報復であろうとずっと思っていた。

が、どちらでもいいことである。時間がたてば、上の報道のようなことも出来てくるのだなと思った次第。

日米は4年間戦争をしたにすぎない。1931年の満州事変から数えても日米関係が非常に悪化したのは15年ほどである。この時間は戦前期日本78年のごく一部でしかない。それでも大統領が広島を訪問し、大使が長岡市を訪れるのに71年がたっている。

日中戦争を1937年以降とすれば8年間、日清戦争以後はずっと敵対関係にあったとみれば51年間。韓国併合という路線をとって以降、終戦まで35年間。帝国日本が韓国への圧力を強める第一歩になった第一次日朝修好条規(1876年)から数えると69年間。これだけの時間を敵対的にすごしたとすれば、現時点においてもなお日中間、日韓間に悪感情が残るのはむしろ自然なことであるとも思われる。

「歴史」は人間が書き残したり、語ったりするにすぎないが、歴史をどう書くかに関係なく、起こった事実は現在の状況にもそのままつながって今に生きる人間を縛っている。それは人間社会の出来事なのだから、やはり「責任」というのがある。これを論じない限り、「和解」という節目はこれから以後もずっと訪れないのだろう。それまでに必要な時間は、日米間の71年よりはずっと長いはずである。

0 件のコメント: