2016年9月30日金曜日

配偶者控除撤廃 ー まず撤廃するのは次の展開に向けた戦略なのか?

配偶者控除が撤廃されれば、専業主婦は単なる無収入者もしくは少額所得者となり、専業主婦であるが故のメリットはなくなる。働けば働くほど、収入が増えるので専業主婦であり続けることの機会費用は大幅に上がることになる。

この件は前の投稿でも議論したのだが、ひょっとしてこれは政府の戦略かもしれんなあ、と。そんな気もするようになった。


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まず配偶者控除を撤廃してから、次に『育児控除/子育て支援控除』・・・名称はともかく、現在の児童手当を更に一層かさ上げした優遇措置を導入する可能性も否定できない、と。

子供が成人するまでは、現在の配偶者控除に相当するほどの額を「子育て控除」として認める。現に子供を育てている世帯は優遇する。そうでない夫婦は除外される。働けばいい。実に、身もふたもない。が、「ええぞなもし」、そんな評価をする夫婦も多いかもしれない。

今でも扶養控除はある。が、家計における老親、配偶者、子供のそれぞれのポジショニングはいま確かに変わりつつあるのだろう。税制上の取り扱いも整理したほうがいい。こんな思考も確かに可能だ。

子供がいない夫婦も多数いる中で、いきなり『来年度から配偶者控除を撤廃して、育児控除にリニューアルします』というわけにはいくまい。

結局、政府というのはいつも子供の数を数えている。一人一人の顔ではなく、数が大事なのだ。要するにそういうことかもしれないのだ、というよりそうであろう。

そのうち基礎年金額(税が投入されている)にも育てた子供の数が反映されるようになるかもしれない。

一応、覚書きにしておこう。

2016年9月27日火曜日

断想: 長生きについて

何度も引用する言葉だが、福沢諭吉は人間に関することで絶対的に善であることは一つもないと『学問のすすめ』の中で書いている。
たとえば銭を好んで飽くことを知らざるを貪吝と言う。されども銭を好むは人の天性なれば、その天性に従いて十分にこれを満足せしめんとするもけっして咎むべきにあらず。ただ理外の銭を得んとしてその場所を誤り、銭を好むの心に限度なくして理の外に出で、銭を求むるの方向に迷うて理に反するときは、これを貪吝の不徳と名づくるのみ。ゆえに銭を好む心の働きを見て、直ちに不徳の名をくだすべからず。その徳と不徳との分界には一片の道理なるものありて、この分界の内にあるものはすなわちこれを節倹と言い、また経済と称して、まさに人間の勉むべき美徳の一ヵ条なり。 
右のほか、驕傲と勇敢と、粗野と率直と、固陋と実着と、浮薄と穎敏と相対するがごとく、いずれもみな働きの場所と、強弱の度と、向かうところの方角とによりて、あるいは不徳ともなるべく、あるいは徳ともなるべきのみ。ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。 
怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。譬えば他人の幸と我の不幸とを比較して、我に不足するところあれば、わが有様を進めて満足するの法を求めずして、かえって他人を不幸に陥いれ、他人の有様を下して、もって彼我の平均をなさんと欲するがごとし。いわゆるこれを悪んでその死を欲するとはこのことなり。ゆえにこの輩の不平を満足せしむれば、世上一般の幸福をば損ずるのみにて少しも益するところあるべからず。
(出所)青空文庫『学問のすすめ』十三編

金儲けに専念する人は強欲であると人は言うが、確かに強欲そのものは不道徳ではあるが、筋道に沿った節約であれば人は褒めるわけである、と。明治維新直後であるにもかかわらず、というか維新直後で価値観が混乱している時であればこそ、偏見や先入観に染まらず当たり前の事実をズバリと言えたのだろう。

その福沢も嫉妬や妬み、やっかみは全く同情の余地がなしと断言している。自分が得をするわけでもなく、何かの価値を創造するわけではなく、ただ他人を自分と同じ水準にそろえようと画策するのが妬みの感情だ。妬みを肯定しては世は進歩しない。だから社会には害があると断言している。

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朝方、目覚める前のボンヤリとした状態で何かを一生懸命考えていた。

自分が100歳になるまで生きるとしたら・・・カミさんと結婚してから過ごしてきたと同じ位の時間をこれから生きなければならない。

とんでもない話しだ。真っ平御免だ。

いま生きている、マアマア幸福な現在という時が、40年も、50年も昔のことに過ぎ去ってしまうなど、耐え難い未来である。

前に引用したことがある。吉田兼好の『徒然草』では次のように平均寿命未満の人生を好ましいとしている。
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を待ち得て、何かはせん。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
(出所)吉田兼好『徒然草』第七段

親が長命している人が羨ましいわけではない。長寿を楽しんでいる人が羨ましいわけではない。

ただ、小生は個人的には、人生八十年がバランスがとれ、やりたいことは概ね全てやり終え、具合もよく、子供も寿命を納得し、自分も過ごした人生を納得できる丁度良い長さの人生である。そう思う。

いや八十年という時間がそもそも長すぎるのだと思う。

ほぼすべての人が八十年、九十年、百年と・・・ますます長い人生を生きることで、それ自体は確かに善いことには違いないが、失われる幸福も増えることを何故人は語らないのだろう、と。そう思う。

人生五十年時代に四十にたらぬ寿命をよしとした兼好の伝でいえば、小生が希望する人生は古希。八十に満たぬ七十歳で、「もう十年生きていれば・・・」と言われつつ、浄土に参るのが最もきれいな人生ではないか、と。そう思ったりしながら、今朝は目覚めたのだ。

いやあ、根暗な夢だ。

結局、我が家は曽祖父も父もそうであったが、長寿社会には順応できない家系かもしれない。

2016年9月24日土曜日

当然の真理は将来にも必ず貫かれる

日本国内にも社会・経済系で優れたブログは多くある。

最近注意をひいた文章を二つ引用する。
よく日本の政府債務は1100兆円といわれるが、これは政府のバランスシートに載っているオンバランスの債務だけだ。純債務はこれより少ないが、財務省の推計では約670兆円で、GDPの1.35倍だ。
これとは別に、社会保障特別会計で向こう30年に払う約束をしているオフバランスの債務は、次の表のように純債務ベースで約1600兆円ある(鈴木氏の推計)。これは毎年約50兆円の財政赤字として一般会計から穴埋めされる。それが社会保障関係費である。したがって日本政府の借金は、合計で2200兆円以上あるのだ。
(中略) 
もはや財政赤字の要因として、社会保障以外は取るに足りないといってもよい。事業仕分けで「無駄の削減」なんてやっても、焼け石に水にもならないのだ。安倍首相がこの問題に手をつけないで「高齢化はチャンス」などと意味不明の話をしているのは理解できない。社会保障危機=財政危機は国を滅ぼす、憲法改正よりはるかに重大な問題だ。
(出所)池田信夫「財政危機とは社会保障の危機である」 << Agora 、2016年9月24日

指摘されている問題の本質はまさにその通りだ。家族に高齢者がいて、私的な資産運用収入か公的な年金収入で生計費が賄わなければ、資産を取りくずすか、負債を増やすしか方法はないのである。これは常に当てはまるロジックだ。

負債は、その時点では資産の減少としては認識されないが、返済の義務が生じている以上、資産は既に減っている。もちろん純資産の意味である。

実支出が実収入を超えれば、必ず純資産としては減っている。

もし高齢者が自分の名義で借金することができなければ、現役世代が借りる。家庭ならこの時点で現役世代が借金増加を拒否するので、高齢者は自分の資産を取り崩すか、資産がなければ生計費を削るか、いずれかを選ぶしかない。

しかし、日本社会全体で高齢者を支える「社会保障」では、政府が負債を増やしている。が、負債が増えたその時点で日本全体の純資産が減っていることにはなかなか気が付かない。

いや、もう少し厳密にいう必要がある。

なるほど国債の大半を外国人が買っているわけではない。つまり外国から金を借りているわけではない。ただ、財政赤字の原因は主に高齢者に対する社会保障給付である。政府がカネを持っている人からカネを借りている。政府名義で借りているわけだ。

一見、カネを持っている人の資産は減ってはいない。しかし、歴史上、膨張した公債が問題なく償還された例はない。日本の国債も正常に返済されることはないであろう。

ということは、日本で究極の資産保有者である家計の純資産がこの時点ですでに取り崩されている。こう見るのが理屈である。

消費税率の引き上げ、あるいはインフレの進行は、いま進行中の経済取引と一対一に対応してはいない。いま進んでいることは、資産保有者から社会保障受給者への富の移転なのである。

要するに、私有財産不可侵を原則とする資本主義はすでに風前の灯、あえていうなら既に名目上の体制と化しており、日本社会の実質は社会主義であると言っても過言ではなかろう、と。小生はそう思うのだ、な。

前に投降したように、資本課税か、相続税強化が最もロジカルである。まず十中八九そうなるであろうと敢えて予言しておく ― 海外移住、資産の海外移転等による節税・脱税については別にとりあげる。すでに世界共通の政策課題であり、日本政府からみれば大した問題ではない。

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注意を引いたもう一つのブログがある。

こに来て元官僚の高橋洋一氏が、日本政府の徴税権を資産計上しろと言い出した(J-CASTニュース)。

こういうと、まだ債務超過であるという批判もある。しかし、政府の場合、強制的に税金を徴収できる徴税権がある。どんなに少なく見積もっても毎年30兆円以上の税金徴収ができるのだから、その資産価値は数百兆円以上だろう。というわけで、政府バランスシートでみても、統合政府バランスシートで見ても債務超過ではない。
(中略) 
東インド会社のように営利企業であれば、利潤最大を目指して徴税や歳出ができるので、徴税権から利益を得ることはできるであろうが、日本政府は営利企業では無い。徴税権を生かして、国民資産を無闇に接収することは許されない。いつかはプライマリー・バランスの赤字を解消するのであろうが、大きな黒字にはならないであろう。それを割り引いて現在価値を出しても、ゼロと見なせる数字にしかならない。つまり、日本政府の徴税権の資産価値はゼロである。
(出所)ニュースの社会学的な裏側 、2016年8月14日


論争的な文章の外見とは異なり、指摘している点は正にシンプルこの上ない一点である。

政府は"Ponzi Game"を行えない。借金は必ず最後には返す。無期限であれ、収支は必ずバランスする。この公理である。ゆえに、政府の徴税権の資産価値はゼロとなる。

同じ理屈は実は家計にも当てはまっている。なぜなら、家計は生産主体ではないからだ。付加価値を産むのは企業部門であり、家計は効用を最大化しようとする消費主体である。故に、最終的には必ず収支バランスする。

この理屈で社会保障を考えれば、いま進んでいるのは政府の債務増加というよりは、家計の資産減少であるとみるのが正しい。政府の負債であるから、家計の資産減少という真の姿が見えにくいだけである。

将来的には、資産を奪われたあとの家計部門、内部留保を蓄積した民間企業、そして民主主義勢力によっては倒されえない民主的政府の純資産ゼロという状態。この三つが日本を構成するだろう。なんといっても、日本は資本主義社会であり、オンゴーイングの企業から資産を接収することはなしえないはずだ。

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実は、政府はサービス生産者である。さらに、国営企業を独占的に経営すれば、利益追求主体になりうる。この点は、家計も個人企業を経営できることと変わらない ― というか、持ち家の住宅賃貸サービスは帰属処理された個人企業としてとらえるのが理屈だ。

なので、政府や家計に当てはまる"No Ponzi Game"という前提は、あくまでも教科書の中のことである。だから、政府や家計の今後の行動によっては、うえで述べたとおりのことが起こるとは断言できない。

上に書いているのは、普通に考えればという前提付きのあくまでも形式的な論理である。


2016年9月20日火曜日

政治は必然的に劇場になる

最近はTVドラマ不毛の時代である。なので、バラエティだかニュースだか分からないようなワイドショーが花盛りになっている。

我が家もカミさんが友人(=四国に居住する年下の義理の姉)から送ってもらっている韓流ドラマの録画をみないときは大体はワイドショーを観ている。

ワイドショーというのは、同じテーマで何日もずっと話し続けるという傾向がある。登場するコメンテーターの顔ぶれもほぼ一定である。同じ配役のドラマに相通じるところもあるし、それは同じ面子の井戸端会議でいつも同じ話をし続けるのと大変似ている。これ即ちFacebookでも提供しているTrendingというものなのだろう。

この一週間、いやもう二週間になるか、このところずっと築地と豊洲の話を続けている。どのチャンネルをみても、ワイドショーであれば全局そうである。午前も午後もだ。

一つの地方自治体の流通卸センター移転の問題でこうである。もし万が一、尖閣諸島に中国の武力集団が(あくまでも民間の過激派グループであるとして)上陸したとしたなら、日本の全放送局は狂ったようにそればかりを一日24時間ずっと放送し続けるであろう、と。

いやいや杞憂に終わってほしいものだ。

いずれにしても、いま民間のTV放送局の経営理念では限定的であるにせよ突然勃発する武力衝突について日本社会を啓蒙するようなバランスのとれた番組を放送する能力はどこも有していない。これだけは言えると。そう感じるのだ、な。


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築地と豊洲。一体どうするのだろうか。

いまこのくらい面白いトピックがあるだろうか。

単なる「移転延期」から「誰も知らない地下空間の存在」へ話が進み、そして工事契約時点ですでに地下空間が工事内容に含まれていた、それを石原元都知事も承認していた。

安全性に根本的疑問がついてしまった以上、食品流通センターが豊洲に移転すること全体の適否が改めて検討課題になってしまった。

小池都知事は築地移転の問題に世間の目を集めることには成功した。「旧勢力」の弱点を突くことには成功した。しかし、自分の手でボールを握ってしまった。今後、都知事が下す判断にはすべて政治リスクが伴う。

粛々と築地から豊洲への移転をするなら安全面で発生する全てのリスクはこの時点で移転を決定する小池都知事が負担する。

移転を中止するという決定も可能である。豊洲に建設した建物は、スポーツアリーナ、衣料・雑貨などのショッピングセンターなどであれば使用に問題はないという。用途変更のうえ、どこか民間企業に売却し、改めて築地の今後について議論する。こんな方向転換も可能だ。

しかし方向転換をするとすれば、その後の進展については100パーセント、小池知事が責任を負担する。そもそも2020年のオリンピック道路はどうするのだ。築地移転をまっているはずだ。

どんな判断をするかによらず、小池都知事は大きな政治リスクを負担してしまったことになる。

責任回避のスキルにたけた官僚出身政治家であれば、いまは粛々として当初のプラン通りに進め、(確実に発生するであろう)具体的な問題が(現実に)発生した時点で調査委員会を立ち上げ、後手の先をとるような戦略をとったに違いない。

小池都知事の戦略は、後手の先ではなく、先手必勝の一手である。が、その一手に含まれているそもそもの意図、そして次の二手が見えているわけではない(と思われる)。

これからどうするつもりなのか。戦闘は華々しいが、戦略が見えないところは、豊洲移転を推進してきた旧勢力も小池都知事をとりまく新勢力も同じである。

シナリオなき政治ドラマがいま進行中なのだろう。一人の脚本家の脳みそにうかぶ架空のドラマより余程面白いのは当たり前である。

2016年9月16日金曜日

メモ ― アホな(=愚かな)意見の典型

民進党代表に蓮舫女史が当選した。前原氏にダブルスコアをつけたというのは(個人的には)予想外であった。

幹事長に野田前首相をあてたいというので調整中だと報道されている。

ところが野田氏は民進党(当時の民主党)が選挙に大敗して野に下ったことの「戦犯」だというので党内には反発が強いという・・・。


この発想でいうと、日本が戦争を始めた責任は開戦時の総理である東條英機にあり(これはそう解釈されているのがいわゆる「正統派歴史観」になっているが)、戦争に負けたのは負けた時の首相である鈴木貫太郎に責任がある。

同じ発想、同じ議論であるのには、吃驚した次第。

なぜ旧・民主党が政権から転落したのか、その真の理由を支持者たちは議員に話してはいないのだろうか・・・分からん人などいないと思うのだが。

日本人が政治をするとなると進歩しないものだねえ。

『そういうことにしておきたい』という邪念が混じると、その人間集団は限りなくアホに、愚かになるようだ。

2016年9月10日土曜日

断想―人工知能と正義に関する実験

人工知能で動作するロボットに「感情」を与えることが可能かどうか。この点が大きな問題になっているそうだ。

もちろん、現時点では疑似感情、感情をもっているかのように機能する、そのくらいは可能だということは色々な報告から把握している(つもりだ)。

とすれば、将来は感情機能を有したロボットと、感情機能をオフにしたロボットと、二つの異なった仕様のロボットに同じデータを与えて、何らかの司法判断を出させてみる。

この二つの司法ロボットが下す判決が大きく違う点に対して、生きた人間がどちらの判決が<正義>により適っているのかを判断する。

その結果、人間が持っている正義の観念は、ロジック、つまり純粋理性から生まれるものか、単なる感情に由来するものか、それとも(二つのロボットが同じ判決を常に出すのであれば)、過去に蓄積された経験、いうなれば「伝統」とか「慣習」が正義として意識されるものなのか。

人工知能が進化することでこんな実験も可能になるだろう。

2016年9月6日火曜日

老兵の目

時代の潮目というテーマを先日の企業向けゼミで話した。

たとえば規格化大量販売から「匠の技」への変化がまずあって、それがいままた逆転しつつあるという話だ。

日本の高度成長は昭和30(1955)年から45(1965)年までの15年間を指すというのが「標準的見解」だが、この時代にあった個別企業の立場からみれば、シェア獲得とそれを目的とした拡大投資戦略が正しい戦略だった。当たり前のことである。拡大投資は予想が外れれば財務悪化と倒産のリスクがあるとはいうものの、守りの姿勢をとればシェアを奪われ、コスト優位を失いー時代は規格化・大量生産が花形の時代だったー事業継続が難しい。守りのリスクはあまりにも大きかったのだ。

石油危機を間に挟んで日本は多品種少量販売へと戦略を変更し、その完成形が「匠の技」である。20世紀早々のアメリカでフォードが展開したT型単品販売が新興企業GMの差別化マルチライン戦略を前にして敗れ去ったと同様、高度成長時代の終わりにさしかかって拡大戦略から差別化戦略への転換が日本の「進化」だと思われていたのだ ー 実は、進化ではなく、単なる戦略変更にすぎなかったのだが。

日本企業が陥った硬直化は、危機の時代のGMが陥った硬直化と似ている面がある。もともと多様化戦略にはマネジメントコストがかさむという弱みがあるが、一度その戦略が成功すると確立された組織文化となってしまう。目的を達成するための単なる組織戦略であったものが、組織文化になってしまうと、よほどの英雄的経営者をもってしても、変更が不可となるものだ。そして、失敗する。

最近話題になることが増えてきたブルーオーシャン戦略は、匠の技とは正反対であり、むしろ先手をとって参入し、標準化を経てから拡大を目指す点では、昔の規格化大量販売と実質は同じである。すでに政府もとっくに方向転換していて、『ものづくり白書2012年版』では、過少投資を繰り返す日本企業と大規模投資を怖れない韓国企業が対比されている。

「時代」というのは変わるものである。そしてその潮目の変化は、先日当地を訪れた某企業グループの課長級参加者たちも日常ヒシヒシと感じているように思われた。そしていまはそれが正しい方向だと信じているようでもあった。

文字どおり「今までが間違いであり、これからは正しい方向を目指す」と、そんなメンタリティがビジネス現場で浸透しつつある。この変化は大きい。ちょうど、戦前の昔、第一次大戦後の、というより日露戦争以後の日本が徹底してとってきた大国との「共存共栄・協調戦略」を間違いとして、対立紛争を覚悟してでも国益のため拡大戦略をとる。方向転換するべきだ。そんな意識が中堅層に形成されてきた1920年代に通ずる雰囲気がある。

いま「時代」は一回転しつつあるードイツ人の好きな"Die Welt dreht sich"である。


数日前にみたTVのワイドショーで辻村深月の『東京会館と私』が紹介されていた。

古建築の保存を第一に考える、街の旧観をとりもどす。そんなメンタリティがいま浸透しつつある。作り変えることが進歩であると考えていた旧世代とは哲学が違うと言ってしまえば簡単だ。

近いうちに江戸の昔を懐かしむ思いが、趣味の域を超えて、江戸の昔が正しいと誰もが考える時代がやってこよう。

そうなれば、明治政府は本当に日本人にとって正しい政治をやってくれたのか。もう一度考える。そんな時代がやってこよう。

一言で言えば、それが「歴史」である。

いま行動している人間たちには、自分たちが歴史の中でどう評価されるか全くわからないものだ。

なぜなら「時代」というのは必ず変わるからである。



2016年9月2日金曜日

老兵は死なずただ消えゆくのみ

終戦記念日から三週間続いていた某企業グループ向け研修が本日終了した。小生は一昨年の第1回から参加し「戦略的思考のためのツール」を担当してきたが、今年限りで引退することを申し入れてある。

今回の参加者は13名。全国から選抜された課長クラスである。いわばビジネス戦争の前線で部隊長として勤務している13名が当地に集結したわけだ。そんな13名を特訓せよと委嘱された我々こそ、特訓されているという感覚を覚えるのは、今年も同じであった。

昨日、今日の派遣元企業役員向け最終発表会で配られた資料は記念に保存しておこう。

ただ、もうやることはないのかと思うと、いささか寂しくもある。

Old soldiers never die, they just fade away ...

老兵は死なず、ただ消えゆくのみ

小生なら最後に "with no remarks" をつけるだろう。『老兵は死なず、語らず、ただ消えゆくのみ』。

そして、本来ずっとやりたかったことをする。

歸去來兮     歸去來兮(かへりなん いざ) 
田園將蕪胡不歸  田園 將に蕪れなんとす 胡(なん)ぞ歸らざる 
既自以心爲形役  既に自ら心を以て形の役と爲す 
奚惆悵而獨悲   奚(なん)ぞ惆悵して獨り悲しむ
實迷途其未遠   實に途に迷ふこと 其れ未だ遠からずして

覺今是而昨非    覺る 今は是にして 昨は非なるを

(出所) 陶淵明「帰去来」


生活のために報酬をもらうためにする仕事はすべて面白くはないものだ。これまでが間違っていたのであり、これから正しいことをするのだ。

若いころから詩人の心境をうらやましく思っていた。