2016年10月21日金曜日

誰でも誰かに似ているものだ

この人だけは空前絶後にして、独立自尊。そんな人は一人もいない。人はバラバラで、人それぞれだがよく見ると云っていることや、行っていることは、これまでの誰かに似ている。そう感じる時はたしかにある。

その人と似ている誰かとは誰か。この問いを考えることによって、目の前のその人を一層よく理解できるようになる。これも日常よく経験することだ。


いまの政権を担う安倍首相はほかのどの総理と似ているだろうか。

ズバリ、小生は(個人的にはリアルタイムで同じ時間を共有してはいないが)近衛文麿元首相をあげる。

小生自身は本や資料(それに父の思い出話し)を通してしか知ることはできない戦前期の首相であるが、時代の主流に反抗した反骨精神、国民からの高い支持と一部勢力の熱狂的支持、熱い説得力と裏腹のどこか淡白で弱気な突破力。悪く言えば鈍感というか傍観者的な冷淡。それと表裏をなす洗練された感性。何よりもいかにも育ちの良さそうなキャラクターが醸し出されているところなど、亡くなった小生の父なら今の安倍総理をみて、同じことをいうに違いない、と。そう思ったりしている。

近衛文麿は当時の主流派に対抗して様々の独自の戦略を提唱したのだが、結局は第一次大戦終結後のベルサイユ体制への批判に根ざすものだった − それ自体は極めて正当であり、感覚の良さを窺わせる。その反・ベルサイユ体制の精神は、悪名高いヒトラーのみならず、イギリスの経済学者ケインズも同じであり、その激しい批判は『平和の経済的帰結』にこめられている。

近衛元首相は、軍部を取り込む形で明治憲法体制を実質的に改革しようと志したものの、支持者を得たと豆殻のように跳ね返る軍部の革新勢力を抑えることに失敗した。


為すべきことを為すのは天才である。秀才は為しうることを為す。

為すべきことを為そうとしつつ、所詮は為すことのできないことを為そうとした以上、近衛文麿は天才では絶対になく、秀才でもなく、さらに言えば志そのものは凡才でなかった以上、結局は一人の愚才であった。そんな評価もやむをえないだろう(と、個人的には思っている)。

孫である細川元首相が、祖父・近衛文麿とは違った思想をもっていたように、安倍首相もよく見ると祖父・岸信介とは本質的人柄は全く別であるようだ。

よく似ているかどうかと血縁関係とはまったく別物らしい。

イヤ、イヤ、もう書くのを止めておこう・・・日本という国にはなるほど憲法上は「表現の自由」があるが、「現に迷惑を被っている人がいる」と、そんな理由があるのであれば、このブログコーナーを管理しているGoogle本社もクレームに応じて、著者に同意を求めることなく投稿は削除される。それが現実であることを以前経験しているから。

この文章も別に保存しておくか、な。

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