2016年10月25日火曜日

学者の人生がドラマになるのか

世間では結構評判になっているようなのでニコラス・ワプショットの『ケインズとハイエク』(久保恵美子訳; 新潮文庫)を読んでみた。

二人の経済学者はともに歴史的人物であるのだが、あくまでも経済学者として著者はどう見ているのかという点に絞れば、著者ワプショットは明らかに、歴然としてケインズをより高く評価しているので、学者ハイエクのシンパは本書を読みながら慨嘆するのではないかと思われる。

学者としてばかりではなく、人間ハイエクをどう描写しているかという点についてみても、どこか哀感の漂うハイエクというイメージには共感できないところがある。もちろん、ハイエクは1974年のノーベル経済学賞受賞者であり、十分成功した人生を歩んだと、そういえば言えるのだが、本人のハイエク自身は必ずしもそう思ってはいなかったという印象も伝わってくる。

にもかかわらず、人間描写という点に限れば、ケインズよりもハイエクの人物表現のほうが遥かに精彩があり、やはりそれだけケインズは昔の人である。名前のみが残っているが、本人の息づかいは歴史の彼方に消え去りつつある。そういうことだと思う。何といってもケインズは1946年に62歳で世を去っているが、ハイエクは92歳まで長命し1992年に他界した。その時間差が作品の中の表現の違いになっているのだろう。

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そもそも学者の人生など、単調で平坦で、栄枯盛衰とも無縁であり、とうていドラマになるはずがない。そう思うのが常識だ。

ハイエクが「シクジリ先生」であったとまでは言わないが、そうなりかかった人生を、実に長い間、歩んだことは事実だ。

そんな学者が、なぜ最終的にノーベル経済学賞を受賞するまでに復活したのか。確かにそれはドラマにはなっているようだ―『ケインズとハイエク』には詳細にわたる事も書かれているので。が、相当つらい人生でありましたでしょうなあ・・・そんな慰めを言いたくもなるというものだ。


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それにしても、だ。

江戸時代の学者・新井白石はなぜNHKの大河ドラマの主人公にならないのか、小生はずっと不思議でしようがない、そんな人物なのだが、もし徳川家宣が長命し、新井白石がずっと政権を担当し、やり残すことなく存分に腕をふるっていれば、どう評価されていただろうか。

将軍家宣が長生きすれば、徳川吉宗が八代将軍になることもなかったろうし、そうすれば前政権の寵臣であると冷遇されることもなかったろう。しかし、そうなればそうなったで、政務や政策的な協議に忙殺され、傑作『折りたく柴の記』を書く時間的な暇もなかったに違いない。

今生きている我々としては、冷遇された新井白石に多くを負っている。

もし冷遇されていなければ・・・何より学者・新井白石の実行した経済政策は、現実を踏まえたものではなく、学問的な理想に基づくものであったので、おそらくはよい結果は出ず、政治家・白石は失望したことだろう。

権力に冷遇されていなければ、自分の理想を追求できた代わりに、それが効果的ではなかったことを悟り、人生というものの苦みを味わっていたに違いない。政権を追われ、長く冷遇された晩年をおくったからこそ、今に残る学問的な仕事にとりくめた・・・浮世というのは情け容赦がないものだ。

いま歴史に残る新井白石は、失脚した悲運の学者政治家であると同時に、その人柄は独特の薫りをはなっていて実に魅力的な人物であるのだが、成功した政治家・白石がいたとすれば、いま伝わっている「新井白石」は存在していなかったはずなのだ。少しさびしくなっていただろう。

まあ、そうなればそうなったで、「白石先生のしくじり人生」がドラマの素材になっていたには違いない。

とにかく・・・・・・ 歴史を舞台に想像をめぐらせるのは楽しい。後世の人に最も有益なのは、先達の成功より、むしろ失敗の経験である。

成功には幸運という神様の意図が混じり、再現可能性は(実は)ないものだが、失敗には合理的な理由があるもので、後になって敗因分析をすれば実に豊かなメッセージをくみ取ることができる。

それ故に、ビジネススクールでは主流になっている「ケーススタディ」だが、いくら成功した企業を研究しても、そこから「勝利の方程式」は決して見えてくるものではない、と。本当はそう思っているのだ。

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