2016年12月25日日曜日

「社説」とは何を語る場所なのか?

今年の業務も昨日のワークショップで終わりとなり、あとは年明け後の再開に向けて資料準備をするだけとなった。それをネットにアップロードして学生に提供すれば、目出度く御用納めとなる。

一昨日は天皇誕生日で記録的なドカ雪。昨日のクリスマスイブは雪晴れ、夜はホワイトクリスマスとなったが、JRは昼まで運休、高速道路では事故があった。交通は終日混乱した。

いやあ、まったくボロボロですわ・・・。それでも万難を排して大学までくるから、ずっと北海道で暮らしている学生たちは慣れているのだろうか、実にたくましいものである。

それで、今日は久しぶりに長閑な気持ちになって道新をパラパラとめくる。

と、社説の「給付型奨学金 さらなる拡充が必要だ」が目にはいる。普段は「社説」を読むことはないが、テーマがテーマだから目をとおす。

早速、「これはあかんなあ」と。教師をしている小生の悪い癖である、ついダメ出しをしてしまうのだ、な。

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まず「これって、もらう側の願望を述べているだけじゃないですか。もらえるなら、少しでも多くもらいたい。これは当たり前のことで、わざわざ書くまでもないですよね?支給する側の論理はどうなっているんですか?」、まずこう言うだろうねえ。

それから「重要な事実を指摘するときはデータを示さないといけませんね。最近の用語を使うとエビデンスはあるのか、ということです」。こんな指摘もするだろう。たとえば、支給型奨学金がないのはOECD加盟国の中では日本とアイスランドだけである(ウン、ウン)。しかも「日本は他国より学費が高めである」、そうかなあ、どこの数字を見ているの?こんなコメントは当然出す。

学生のレポートでも数字の出所は必ず入れるように言っているし、もし出所を明らかにしない場合、その数字が正しければ所謂「盗作」、正しくなければ「捏造」。そう非難されても仕方がないのですよ、と。

最近では、私的なブログでもデータの出所は明示し、何かを指摘するならエビデンスをつけるものである。それが出来なければエッセーとして書くべきだ。「これではブログ未満ですよ!」、ここまで言えば学生はしょげ返るので、多分言わないと思うけれど。

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ある家で父親の会社が経営不振に陥り、家計が苦しくなった。子供の小遣いを削るしかないと言い聞かせる。すると「△君は今月からお小遣いが増えるんだって、なぜうちはダメなの?」。いるだけのカネはないのが常態である以上、資金管理、家計管理、つまり「お金を工面すること」の重要性は、幼い頃からよく語りきかせ、理解させていくことが最も大事である。ここが欠けていると、単に「いるんだから仕方がない」となり自己破産一直線とあいなる。

単に「困っている人を助ける」という風なヤワヤワで甘口の言葉ではなく、「なぜ公金を使って困っている人に授業料を払ってあげる」ことが重要であるのか。もっと価値ある使い方はないのか。読者に伝える意見があるとすれば、この点を伝え、理解してもらう。これでこそ「社説」になろうというものだ。マスメディアの存在価値はここにあるのではないだろうか。

国から金をもらえるとなれば、そりゃあもらった方がいいわな、と。そう思う人は多い。年金、奨学金、児童手当。揺りかごから墓場までそうだ。で、費用を調達する必要があるからと「増税」をいうと「負担」が暮らしを圧迫すると言う。「国債」を増発すると言うと将来が心配だと言う。「どうするの?」と聞かれると「無駄を省けば」という。

非論理的である。それならそれで、財務省(と地方自治体)は無駄なところばかりに予算をつけている、彼らの目は節穴か、と。そういう具体論を語るべきだ。

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メディアの「社説」は色々な目的が込められているに違いない。大きな問題に対してロジカルに実証的な議論を展開する場所ではない。それには文字数が少なすぎる。とはいえ、エッセーではない。何かの主張をしたいに違いない。主張をするとしても、販売部数が減るような、顧客が離れるような主張はやめておく(のだろう)。

「社説」とは、論文にしては短く、レポートにしてはエビデンスがなく、エッセーにしては主張的であり、マーケティングのツールにしては営業臭がしない。

最近とみに鵺(ヌエ)的に感じてきているのが、メディアの「社説」なる記事である。

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