2017年4月26日水曜日

情報ビジネスとのつきあい方

このところマスメディア、というよりマスコミを超えて発展しつつある情報ビジネス全体を考えているのだが、情報とのつきあい方こそ豊かで賢明な暮らしを実現するのに最も重要になってきた。

昨日の東京市場では株価が三日連騰して1万9千円台を回復した。その説明はこうだ:
東京株式市場で日経平均は3日続伸。終値で3月30日以来、約4週間ぶりに1万9000円台を回復した。為替がドル安/円高方向に振れたことが重荷となり、朝方は小安く始まったものの、懸念された北朝鮮による核実験やミサイル発射などの挑発行為がなく、地政学リスクへの懸念が後退した。
(出所)2017年4月25日、ロイター

北朝鮮問題が一つ山を超えたから株も上がったんですヨネ、ですか。

実際には、地政学リスクの後退で三日連騰というのはタイミングが合っていないのだが、まあ、こんな言い方もあるのかもしれない。何しろ業界現場の心理というのは無視できないから。

ところが、こんな下りもある:
市場では「目先のリバウンドは一巡した感もある。日米の景気はそれほど楽観できない。米GDP成長率の鈍化などを考えると、米国株の高いPERがいつまで維持できるのか疑問もある」・・・
(出所)同上

景気はこの先どうなるか分からん、と。

これに対して、まったく異なる判断もある。

 黒田東彦総裁の率いる日銀がわが世の春を迎えている。2%インフレの達成にはまだまだ距離があるものの、日本経済の体温が着実に温まっているからだ。金融政策のカジ取りを今のまま保つだけで、緩和効果は着実に高まっていく。(中略)
 
日本経済については、すでに経済協力開発機構(OECD)や国際通貨基金(IMF)が、実質成長率の見通しを上方修正している。IMFは17年の日本の実質成長率見通しを1.2%へと、前回1月時点に比べ0.4ポイント上方修正した。この修正幅は英国の0.5ポイントに次ぐ。

 シリア、北朝鮮をはじめ地政学リスクに事欠かず、フランス大統領選など欧州政治の行方にも気をもむ。こうした政治の不透明性に比べて、どっこい世界経済はしっかりしている。
(出所)日本経済新聞、2017年4月25日

実際に、日本国内の設備投資は足元では急テンポで上向いてきている。広く将来不安が残っているならこんなことはない。

ある人は『日米の景気は楽観できない』と語り、別の人は『どっこい世界経済はしっかりしている』と言う。

同じ現実を見ているのだが、「正反対」ともいえる意見が同時に出てくる。こんな状況は社内の会議でも日常にごく自然にあることではなかろうか。

これが現実だ。

だからこそ、情報ビジネスとのつきあい方が最も大事である。自分にしっくりくる意見を探すのでは本末転倒だ。逆である。広くバラバラの意見をきく。バラバラがよい。自らも考えて最も客観性をもった見方を探す努力が欠かせない。これは自らの責任でやるべきことだ。

データを「批判的に」分析する仕事をビッグデータ分析で実現するのは非常に難しいはずだ。しばらくは人間がやるべきことだろう。

2017年4月24日月曜日

メモ: 世界と日本社会の実態とワイドショー的噂話との隔たり

相変わらずTVワイドショーを代表例に、世間の井戸端会議は北朝鮮問題で一色である。このところの東京市場株価の低迷も地政学的リスクの表れであると説明されてきた。

いよいよ原子力空母カールビンソンが海上自衛隊との共同訓練を始めたというので、テレビ画面のキャスターたちの語りにも熱が入ってきた。

ところが本日の東京市場では株価が急騰した。
理屈に合わぬ!

専門家の解説は「昨日のフランス大統領選挙で極右のルペン候補が終盤に失速し、中道のマクロン候補との決選投票になったが、まずはマクロン候補が勝利する、フランスのEU離脱はない、そんな見通しになったので金融市場は安堵しリスクオンになっている」、と。そんな説明である。

フランス大統領選挙など日本のテレビはまったくのスルー状態であった。国内新聞も概ねそんな扱いだったと感じている。

とはいえ、東京市場の株価急騰はフランス大統領選挙からうかがわれる世界的懸念の払拭の表れであるという説明は、きいてみれば成程と納得できることである。韓国市場は、本日、というよりこの一週間株価は上がっている ― 上海市場の下落基調が一寸気になるが(香港市場はそんなことはない)。

確かにアメリカのビジネス界でも米国・北朝鮮の緊張関係の行方が意識されるようになってきているとの報道が一部にある。

とはいえ、日本国内の井戸端会議と日本国外の現実やら、世界スケールのセンチメントとは相当食い違いがあるようだ。なんだか文字通りの「井戸端会議」、というか「井戸の中のおしゃべり」に見える。

まして本日の道新が社説で力説しているような「国民の疑念を忘れたかー森友学園問題」などと言われてしまうと、本当にこれは日本国を揺るがす大問題であるのかどうか、正直なところピンとこない。ま、眉をひそめるような経緯があったのはそうなのだろうなあとは印象的に感じているが・・・。でも、結局は「会計検査」の話になるのではないか。違いますかねえ。

世界と日本社会の進展の本筋を客観的にとらえている(=とらえられる立場にある)人たちと、情報バブル的な井戸端会議を聴くことで世界を誤解しつつある情報弱者といえる人たちと。いわゆる「デジタル・デバイド」という言葉がアメリカで流行したことがあったが、日本にも同じような情報格差・意識格差なる病理が広まりつつある。そんな印象をうける。何とかしないといけないのじゃあないか。情報格差をうむメカニズムは何か?情報の提供側の経営戦略に問題があるのか?情報の受け手側の知的レベルに問題があるのか?いずれにせよ、既存の新聞、テレビといったメディアは現実には大して役に立っていませんぜ。

いっそのこと、明治時代のように国家・社会・世界を論じる「大新聞」と身の回りの世間話を書く「小新聞」と、そんな風にセグメントを切って、情報商品としても差別化、専門化するべきではないか。戦後一貫して変わらない情報ビジネスは、テレビの民放と新聞だ。江戸の瓦版を新聞に進化させた明治という時代は大したものであった。

そんな風に感じる今日この頃である。

もう少しでゴールデンウィークだ。
この春は、さすがに政府関係者は外遊を最小限に抑えるという報道だ。そうだろうねえ、さすがに。
得てして、桜散る季節に変事というのは起きるものだそうだが。

2017年4月22日土曜日

わけが分からぬ: 言葉の混乱

このところマスメディアと言いつつ、実際にはTVのワイドショーがいかに酷いかを書いてきたように思うので、書かれたメディアである新聞も酷いということをメモに記してバランス(?)をとっておこう。

共謀罪の捜査範囲に「一般人」も含まれないことはないと法務副大臣が国会で答弁したというので、「これは許せぬ」と野党がいきり立っているとの報道がある。

やれやれ・・・この半年で意味不明な区分が幾つ出てきたのかネエ?

公人、私人、一般人(とそうでない人)。「民間人」は以前から使っている。小生が若い時分には公務員と「みなし公務員」というのもあった。「みなし」だから民間人ではあるが、「純粋の民間人」ではないという風に理解していたが、いま思い出してみるとサッパリわからない。

本日の報道でいう「一般人」とはどうも「民間人」とも違うようだ。おそらく公安上の捜査対象組織に含まれていない人達のことをいうのだろうが、捜査対象などいくらでも変わるだろう、と。「捜査対象=非・一般人」ではないかとも思われるのだが、こう言うとまあトートロジーになるねえ。

書いている小生もわからなくなってくるくらいだ。

真剣に議論し、真剣に報道するなら、言葉の定義、概念の定義を問い直すのは不可欠の準備だと思うのだが、ホント、最近の新聞は新しい言葉を不用意に使うのでわかりにくい文章がますます分かりにくくなっている。

2017年4月21日金曜日

朝の瞑想: 色即是空

朝方目が醒める前に何となく特定のテーマについて考えることがある。そして、目が覚めてしまうと、何かを考えていたことは覚えているのだが、その内容はまったく記憶に残っていない。そんなことが割とあるのだな。

今朝もそうだったのだが、今回ははっきりと覚えているので、記しておこう。

テーマは「存在」ということだったので、先日の投稿の続編ともいえる。

***

人間の認識は全て変化をとらえる、というか変化や運動をとらえるしか人間は認識しようがない(と思う)。

そもそも五感は、光や空気の振動をとらえるものだ。光や音に対して感覚器官が反応(=化学的変化)するので人間の脳が外界を感知(=化学的変化)するわけだ。

大体からして、デカルトの『我思う、故に我あり』という出発点。思考は脳の特定のプロセスである以上、時間の中にのみありうることだ。故に、自己という存在も時間の中でのみ定義できることだ。

人間にとって「存在する」という時の存在とは、原理上、「時点Tにおいて〇〇が在る」という存在・非存在とは別種の事柄だというのは、そういう意味だ。しかし、存在、つまり「在る」というのは「時点Tという一時点において、そこに在る」と。そういう意味だ。そんな本来的な意味で、何かがそこに存在しているとしても、人間がその何かを時点Tにおいて認識することはない。その何かが、何かを放射し、どんな形態でか変化したり移動したりする。そんな場合でしか認知することはない。厳密な意味で、静止している何かを「そこに何かがある」と認識することはロジックからして不可能である。

とすれば、もしも仏性をもった、あるいは神的な存在があるとすれば、阿弥陀如来や神なる存在は永遠であり、変わることのない存在であるので、人間がその存在を知ることはない。そんな理屈になる。

とすれば、阿弥陀如来や観自在菩薩のような仏性をもった存在があるとすれば、人間にとっては何もない「無」として存在する。そして、人間が在ると思っている物は、すべて移ろい行く変化の相にある。

まさに万物流転。神は無として永遠に在る。

ふ〜む、これって『色即是空、空即是色』が意味することではないか。

ここで目が覚めた。


2017年4月15日土曜日

戦争とマスコミ: この巨大な現象を理解できるのか

アジアが「世界の火薬庫」になりつつある。

色々な見方が出ている:


  • 北朝鮮の次回核実験が米国による単独軍事行動の引き金になる。
  • ミサイル発射基地を初回の攻撃で全て破壊することは不可能であるから、北朝鮮は反撃可能である。日本にもミサイルが飛来すると思われる。それを全て迎撃できるのか。
  • ソウルは通常砲撃で破壊できる。ソウルは火の海になろう。
  • 犠牲者は100万人に上るだろう。
  • すべて朝鮮半島で米韓合同の作戦を実行する際は事前協議が必要である。事前協議なくして、一方的に米軍が半島内で活動すれば、条約違反になる。同じことは、日本国内の米軍基地使用と後方支援を認める日本政府との間にも言える。軍事作戦にはやはり日米事前協議が必要である。
  • 北朝鮮押さえ込み手段は中国が保有している。たとえば石油パイプラインを停めれば北朝鮮経済は半年ともたない。しかし、その場合、中国が難民、暴発などのリスクに対応する必要がある。
  • 中国が北朝鮮押さえ込みに誠意を見せなければ、アメリカは北朝鮮と関係する中国企業に経済制裁を加えることができる。さらに、為替操作国認定に踏み込み、輸入課徴金を課することができる。万が一、そうなれば中国経済は大混乱になるだろう。外交的失敗の責めを負い習近平国家主席は今年の党大会を乗り切れない。

とにかく、あるある。百家争鳴の状況だ。

そんな中で、東京市場の株価はかなり下げている。不思議なのは、上海市場は昨日現在で3246.07、香港ハンセン市場が24261.66と、依然として底堅いことだ。中国による北朝鮮外交不調、アメリカによる経済制裁、中国経済への大打撃と、そんな展開を心配する人は中国大陸にはほとんどいないということか。

それに対して、日本は。株価が下がっている。国内経済をみればいま株価が低迷するのはおかしい。地政学的不安という人も多いが、だとすれば韓国株価の方がもっと影響を受けるはずだ。

韓国総合株価指数をみると、確かに3月下旬の2180程度から直近では2130程度まで下がっている。下落率2%余り、だ。一方、日経平均は3月上旬の19600辺りから直近では18335。下落率は6%。韓国は東京よりむしろ堅調だ。

TVのワイドショーでは、森友が消えて北朝鮮問題を扱うようになった。またもやそれ一色になっている。が、これほど騒いでいるのは日本のテレビだけではないのか・・・?実際、海外の新聞で北朝鮮問題を扱っている扱い方は、それほど大きなものではない。ネットでオープンにしている紙面から明らかであるし、SNSでフォローしておけば自然にそんなバランス感が得られる。

そもそも3月下旬から、バランスよくフォローしておくべき複数の話題であったのだ。まあ、最近の若い世代は(就活生を除いて)日本の大手新聞は読まないというし、テレビはほとんど見ないようだ。故に、世間を見る目は意外と健全かもしれない。

日本のマスメディアは大丈夫なのか?

森友騒動でもそう思いましたが、つくづくと北朝鮮への不安というより、それを報道する日本のマスコミなるものに対して、より大きい不安を感じるのでござります。

2017年4月9日日曜日

「未来志向」は過去とは無関係になるのか?

"Korea Fatigue"(韓国疲れ)という言葉がアメリカで頻用されているかと思いきや、最近は日本でも使われるようになったという。

過去にばかりこだわり、サッパリ未来に向けての協議を受け付けてくれない、そんな苛立ちがあってのことだろう。

それはそれで(実務担当者の立場に身をおけば)理解できる。仕事が捗らない、これはやはり困る。仕事というのは「これからどうする」が基本姿勢であるからだ。

仕事には、確かに時間軸というものがあり、過去・現在・未来という順序で管理されている。

しかし、それは物理的な見方だろう。

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「未来志向」という言葉には過去への目線は含まれないのだろうか?

そうではない。

未来志向の未来を検討するというのは、どんな未来を望むかという問題である。

未来志向だからといって、実際の役には立たない親の墓は廃棄して、毎日の暮らしのためだけに資金を使いたいとは、多くの人は望まないだろう。未来志向とは、未来をどうするかであり、過去をどう見るかと裏腹の関係にある。これがロジックだ。

過去をブランクと前提して、純粋の未来だけを考えれば、過去は一切なく、それ故にその時生存している世代が自己利益だけを考えて最適なプランを実行すればよい。しかし、親や祖父母の世代を現実には記憶している以上、過去をブランクであると仮定するのは不可能である。歴史をすべて忘れ去るような未来を語るのは実際にはできないのだ。

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というより、過去の記憶が存在するのは現在という時点であり、未来を意識するのも同じ現在である。

記憶の中には、失われた町や世を去った人たちが変わることなく呼吸している。そもそも人間の意識に時間軸というものはない。意識されている世界は時間なき世界だ。

人間が外部世界を理解する能力をもっているのは生存に有利だったからだ。ただそれだけである。カントは、時間と空間という枠組みの中で外部世界を人間が理解するのは、そうすることしか出来ない、つまり時間も空間も人間が元々もっている理解の仕方(先験的範疇)でしかない。現実に時間や空間というものが外部世界に存在していることにはならない、と。そう考えた。

確かに意識の中に時間はない。過去と未来の間にどんな本質的な違いがあるのだろうか。

こちらが「未来志向でいきましょう」と言ったところで、異なった記憶をもった人間は、異なった未来を望むものだ。どんな未来を求めるか。異なった過去の記憶をもつ人間が同じ現在に立つことで理解しあうしかないだろう。

2017年4月5日水曜日

自主避難=自己責任? これは暴言なのか?

稲田防衛相、金田法相の次は今村復興相ということか?

今村雅弘復興相が4月4日午前の閣議後会見で、東京電力福島第1原発事故による自主避難者への対応をめぐるフリーランスの男性記者の質問に激高し、「出て行きなさい」「うるさい」と声を荒らげる場面があった。産経ニュースなどが報じた。(中略)
今村復興相は、自主避難者の支援に国の責任がないか問われ「福島県が対応し、国は県のサポートをする。この図式でこれからもやっていく」と説明。自主避難者が帰れないのは自己責任と思うかとの質問には「基本的にはそうだ。国はできるだけのことはやった」とも答えた。
自主避難者は、国の避難指示を受けなかった地域から、被曝を心配し遠方に避難した母子ら。福島県に取材した朝日新聞デジタルによると、2016年10月時点で全国に約3万人いるといい、同紙は「強制避難者に比べて東電の賠償や国の支援が薄く、福島県民の『分断』につながると指摘されてきた」と伝えている。
今村復興相は4日夕、報道陣に「感情的になった。今後こうしたことがないよう対応したい」と自身の発言を謝罪。会見で自主避難から帰還できない人への対応を問われた際に「本人の責任、判断だ」と述べたことについては「避難命令を受けた人との違いということで言った。自主避難の方にもいろいろやってはきている」と語った。
(出所) The Huffington Post, 2017年4月5日

カミさんは話している。
そりゃ政府から避難指示は出てないと言ってもサ、線で引くわけでしょ?道路の向こうまでは避難しなさいといわれたら、うちは区域外だから安心だって、そうはならないヨ。やっぱり子供がいれば心配だし、避難しようかなってなるのが当たり前だよ。
う~~ん、これほど単純な決め方でもなかったと思うが、避難区域を定める以上、「避難区域内」と「避難区域外」に明確に二分されるのであって、グレーゾーンに対する斟酌というのはなかったのだろう―とはいえ、これまで自主避難者にも公的な支援はあったわけだから、全くの自己責任で勝手におやりなさいというわけでもなかった。

***

識別、つまり"Classification"は、ビッグデータ分析でも現在最も急速に発展しつつある領域である。事実・データに基づいて適否・完治・合否などを判断する技術はますます精密になってきている。

そんな状況からみると、原発事故被災地の取り組みはいかにもアナログ的で、もう少し客観的で科学的な方法というのは工夫できないか。そんな風にも感じられる。

***

ただ、自主判断で避難した人が「もう戻りません」といった場合、それはもう「避難」ではなくて「転居」になるのではないかなあ、と。小生がそう話すと、カミさんは「そりゃそうかもしれないけど、それだって仕方なくそうなったわけでしょ、自分の判断だったわけでもないんだよ、関係ない人があれこれ言うのは可哀想だよ」。

確かにカミさんがいうとおりでもある。しかし、国なり福島県が支援するとなれば税金から支出するわけで、関係ない人たちの財布であるわけだ。となれば、口を出す権利は誰にでもあるという理屈でもある。

一度避難すれば、時間軸にそって永遠にその人は「避難」していることになるのか?やはり「避難している状態」と、「避難先に定住して、生活基盤が整った状態」と。ちょうど重傷を負ったあとの傷口が開いている状態と、傷口が閉じて心配がなくなった状態と、公的な支援が必要だとすれば、まだ「避難状態」にあるのかどうか。「定住」するのか、「復帰」するのか。そんな審査のステージは必要である。小生はそう思うのだがなあ・・・。

ま、自主避難者はこれ以上支援の必要はないというのは、いささか一律かつ機械的で、乱暴な措置であると。大半の人はそう感じるはずだ。

2017年4月1日土曜日

流行語大賞候補: 忖度(ソンタク)

森友事件のコアは、いうまでもなく「国有地売買価格が適正であったか」である。さらに学校開設認可手続きの適正さも問われている。そしていずれにおいても、財務省や大阪府の側に安倍政権の意向を忖度(ソンタク)した可能性がある。それが違法(?)なのだ、と。違法でないとしても政治責任(?)がある、と。

忖度という単語は外国語にはなりにくい言葉であると報道されている。とはいえ、忖度という言葉は和製漢語ではない。四書五経の一つである『孟子』に遡る言葉であるようだ。

ネットで検索してみると、以下のような解説が見つかったーこの辺が(100%の信頼性があるかどうかはともかく)ネットの素晴らしいところだ:
〔孟子、梁恵王上〕詩に云う、他人に心あり、われはこれを忖度す、と
忖度の「忖(ソン)」は、「立身偏(りっしんべん)に「寸」だから、他人の脈をはかり、心臓の動悸や不整脈のあらわれを診る」ことを意味する。
(出所)和・漢・洋・才! 語源のブログ

だからというわけでもなかったろうが、小生が若い時分、まだ小役人をやっている時は「忖度」は当然するべきことであり、下にいる者は上にいる人の胸の内を忖度して判断をしなければならないと、常にそう指導されていた。

組織というのは、本来はバラバラの個々人が協働して一つの目的を追求する以上、目的意識の共有は不可欠である。目的の共有は「忖度」となって現れる。これがロジックだ。


しかし、忖度が大事であると言われてはいたが、小生が自ら(例えば)閣僚や、まして総理大臣や官房長官の胸中を忖度しようなどとは一度も発想すらしなかった。必要なかったのだ。忖度する対象は、まあ自分が所属する課の課長、せいぜいが局長どまりであって、事務次官の心の内すら忖度しようと考えたことはない。さらに言えば、局長クラス、事務次官クラスであっても、時の大臣、時の総理大臣の心を忖度することがあったのだろうか・・・、まあ無視することはなかったと想像するが、忖度したかとなると、雰囲気的には極めて疑問だと思っている。

当たり前であった。

官僚は官僚内部の慣行によって人事はすべて決まっており、大臣、というか「政治家」が官僚の人事権をもつと法的には規定されていたはずであったが、実際に政治家が官僚の人事に介入するなどということは、まず考えられなかった。そんな時代であったのだから、総理大臣や政治家が何を本当は望んでいるか、下々の小役人にはどうでもよいことであった。


官僚国家ではなく、政治が主導する国家にしたいと思ったのは、日本人自身である。そもそも民主党政権が自民党から政権を奪ったのは「政治主導」を旗印にしたからではなかったか。

高級官僚の人事を霞ヶ関に割拠する中央省庁から内閣で一元管理する方向へ、日本のマスメディアはどれほど熱望し、支援し、一体何年をかけてそれを実現したのであったか。

いま官僚は内閣に服従している。内閣が人事権を把握しているからだ。服従するのであれば、トップつまり「政権」の意向を忖度するのは当たり前のことである。その政権は民主的手続きによって構成され「正当性」を有し、「支持率」も高いのだから、尚更だ。

だからこそ、「たかが」というのは小生がへそ曲がりであるせいだが、森友クラスのゴタゴタでこれほどまで長期間国会が紛糾するのは、官僚集団の意図せぬサボタージュがあるのではないか。そんな風にも思われるのだな。

かなり読者数がいるはずのニュースサイトには「忖度」をネガティブにとらえる意見すら公表されている。

政治家が恣意的に官僚統制をするべきではない。官僚の行政は「公平に」、「民主的プロセスによって定められた法規に沿って自動的に」、「文書として」進められるべきであって、政治家のいかなる意向も混じるとすれば不適切である。これこそ、かつての官僚国家・日本の特質(の一側面)であった。

政治家の意向を忖度する必要がないのであれば官僚主義がよいというロジックになるのではないか。デモクラシーというより、むしろビューロクラシーを良しとすることになるのではないか。

事件の黒幕を知りたいならば、それによって得をするものを探せ、だ。

そう邪推しているところである。

2017年3月29日水曜日

社会科学は技術革新をもたらしうるものなのか?

半月前に鼠径ヘルニアの手術をした。術後診断でOKが出たので先週末から東京に滞在し、姪の初リサイタルやら、大学入学祝いやらで動き回った。そうしたら、傷跡に貼られてあったテープがいつの間にか剥がれてしまい、夜になってみるとジュクジュクとしている。

翌朝、ホテル付近の外科にいった。感染したという診断だ。応急処置をしてもらい抗生物質を4日分投与された。「飲みきってくださいね」、「戻ったら元の病院に行って診てもらってください」。深いところまで感染が進んでいれば厄介だと脅かされる。

それで昨晩北海道に戻ったので本日再び地元の外科にいったのだが、感染は拡大していないものの、傷口が閉じるのは日数がかかるらしい。どうやらこの辺の回復スピードにも年齢が影響すると見える。

ヤレヤレ、である。


それにしても、医学の技術進歩は甚だしいものがある。知人や先輩には癌にかかった人も多くいるが、手術のあとは抗癌剤を服用しながら、(確かに当初は大変だったと思うが)元の日常に復帰して、もう長い時間がたつ。

癌や心臓発作、イコール寿命という見方は大きく変わっている。これが医学的な技術進歩の賜物であるのは言うまでもない。

工学的な技術進歩が製造業のイノベーションをもたらしてきたことも明らかだ。疑う人などはいない。

では、経済学や経営学のような社会科学の展開が、何か政府の経済政策や、企業の経営戦略において技術進歩をもたらしてきただろうか?社会科学の対象は人間集団のあり方だが、何かが精密な尺度において「真理」であると確認された瞬間はあるのだろうか。

経済学では常に何らかの「論争」が展開されており、学問上の競争は激しく、主流派の考え方も明白に確立されている。では、それだけの論争をしてきた歴史に見合うだけの社会の進歩があったかと問われれば、どうも自信がない ― まあ「市場メカニズム」のメリットを理論的に証明していることが経済理論の土台でもあるのだが、「市場」が最善の状態をもたらしえないという認識から例えば医療制度や育児制度、師業・士業サービスのあり方などが設計されていることも事実だ。

新興国の発展は経済学上の進歩の賜物なのか?経済学が進歩することで、経済の実態がより安定したり、より速く成長したり、より豊かな社会を実現したことがあるだろうか ― 経済学者はもちろん「ある」と考えているはずで、「歴史をみよ」と語るはずではあるが。

こんな疑問に対して、小生の若い時分であれば、「ケインズ革命を見よ」、「新古典派総合をみよ」という受け答えになっていたのだが、これもせいぜいが3、40年の賞味期限しかないような自己満足であったといわれれば、どこまでが経済学の進歩によるものかどうかわからなくなるのだ。


本当に進歩しているのかどうか分からない。のであれば、実際には退化しているとしても、人々はそのことに気がつかないだろう。

戦後日本の高度成長は、戦後になって導入された新しい技術がもたらした果実であった。高度成長は、誰の目にも明らかな技術進歩の証しであったが、それと同時に自然破壊や水俣病など様々な公害・外部不経済をも生み出した。そんな負の側面を解決することなくして一層豊かな社会を実現することはできなかった。

もしいまも、隅田川の水が真っ黒で悪臭を放ち、光化学スモッグで目が痛む毎日が続いているとすれば、本当に高度成長によって日本社会は進歩したのだろうかと疑わしくなっていただろう。

いまICT技術の進歩によって社会が生み出す情報が飛躍的に拡大してきている。確かに便利になるというのは進歩である。しかし、情報化の進展が何かを破壊しているのは、高度成長を支えた重化学工業が自然や生活環境を破壊したのと同じロジックで、疑いのないところだろう。情報産業の大手企業であるマスメディアが、高度成長時代の石油化学業界、金属産業と同様に、何らかの負の外部経済を生み出していることもほぼ確実である。何もフェースブックがインフラとなって拡散した「フェークニュース」を挙げるまでもない。他にも無数の例があることは誰でも認めるはずである。

いわば「情報公害」という表現になるだろうが、もしこんな問題が本当に存在するなら、まずは「情報産業による公害」という概念定義が必要である。モノであろうが、サービスであろうが、情報であろうが、生産にはやはり一定の品質管理、品質向上を目指した自己検証システムの確立が不可欠であるのは当然の理屈だ。コストは内部化されることで初めて規制なき自由経済は正当化されうるのだ。

確かに「知は力である」。だからといって、「情報」なるものが全てプラスの価値をもつとは限らない。こんなことは遥かな昔から分かっていたはずではないか。


2017年3月24日金曜日

つけたし: この1か月

依然として「森友騒動」が続いている。これが相当バカバカしいことは、もう本ブログで書き尽くし、あとは「水掛け論」が残るのみ、とりあげるのも時間の無駄である。「水掛け論」ではなく、少しでも内容があるとすれば籠池理事長側の公文書偽造。こちらは近日うちに刑事訴追されるだろうと推測する。さらにいえば、土地売買価格値引きの算定根拠があるくらいか・・・。

それにしても、大阪地方の小学校認可が1か月以上も日本中の電波、並びに国会審議をハイジャックするとは・・・。

このこと自体があまりにも可笑しいし、奇妙である。

ここに来て、駆け引きに疎い小生にもだんだんと分かってきた。これは真っ当な審議を回避したいと願う野党の国会戦術である、と。いや、与党側にとっても、議論を避けたい事柄がある。森友級のゴタゴタで会期を消化することは、国民にとっても言い訳がつくし、関心に応えることにもなる。

共謀罪法案が上程されれば、野党は反対しなければならない。しかし、世論調査によれば共謀罪に賛同する国民は50%を超える。
 時事通信が10~13日に実施した3月の世論調査によると、安倍内閣の支持率は前月比2.1ポイント減の51.3%だった。不支持率は1.8ポイント増の26.0%。学校法人「森友学園」が国有地を格安で取得していた問題が影響したとみられる。

共謀罪「必要性に疑念」=学者ら、法案に反対-東京
 「共謀罪」の構成要件を改め「テロ等準備罪」を創設する組織犯罪処罰法改正案を今国会に提出する政府方針について尋ねたところ、賛成が63.1%で、反対の20.0%を大きく上回った。ただ、同様の質問をした2月の調査と比べると、賛成は3.7ポイント低下した。
(出所)時事ドットコムニュース、2017年3月17日

 野党はここでも戦況不利である。まともに審議に応ずれば、野党の支持率は下がることはあっても、上がることはあるまい。

他方、南スーダンへのPKO派遣と戦闘行為の日報記載、その隠蔽については、国会でまともに審議すれば、こちらが本筋であるべきであるし、与党にはかなり痛いはずだ。稲田防衛相も辞任の可能性が高い。が、そうなればそうなったで、4月に閣僚の一部交代に踏み切るかもしれない。そして、それがそのまま衆議院解散の大義名分を与えることになるかもしれない。今の民進党はこれが怖いだろう。

野党が昭恵夫人に嚙みついて離さないのは、離せば与党ペースで押し切られ、そのまま解散。その場合は、民進党の蓮舫代表の二重国籍問題が再浮上するのは必至であり、そのまま大敗北と、そんな最悪の展開を阻止するための最後の機会であるからであろう。共産党は民進党の支持基盤を侵略したいのだろう。

あまりに長い間、もめ続ける問題でもないので、奇妙だと思い始める今日この頃である。

ま、それにしても仮にも首相夫人が表向きのことで国会証人喚問要求されるなど、戦後初めて、というより明治維新以来初めての珍事ではなかろうか。

2017年3月23日木曜日

感想: 制御不能の「水掛け論」もあるのだねえ・・・

本日は、WBC決勝、大相撲大阪場所、それから降ってわいたような森友騒動にかかわる籠池理事長の国会証人喚問の三つが重なり、どれもTV中継で視聴率が見込めるとあってマスコミ「現場」は「嬉しい悲鳴」をあげているという噂だ。

WBCと大相撲は(職業スポーツではあるが)純粋エンターテインメントに属すると言えるが、籠池理事長の証人喚問はエンターテインメント性とリアルな事件性と、それぞれどの位の割合の混合物であるのだろう。そんな風にも思われる特別番組ではあった。

ただ、密室で二人になった時をねらって渡された100万円の現金と、口外しないようにとの電話があとで夫人からあった、という証言。録音やら手跡やら何も残ってないなら、この話は典型的な「水掛け論」ではあるねえ。
「あなたくれたじゃないですか」、「何を言っているんですか、そんなことなかったでしょ」、「いいや、私は鮮明に記憶している」、「嘘を言わないでくださいヨ」。

さてさて、昭恵夫人まで証人喚問して第二幕を提供してくれるかどうか。やったって、まあ、上のやりとりがそのまま再現されるだけではあろうが。WBCも終わった。大阪場所も終わる。高校野球の春の選抜は今一つ盛り上がらない。TV局はこの話題をできるだけ引っ張りたいところだろう。

それに国会がどの程度まで答えるかだ。

***

小生の上の愚息は熱烈な相撲ファンである。

NHKは証人喚問を終わりまで、Eテレは高校野球、その余波で大相撲が5時からの中継開始になってしまったと、嘆いていた。

国会・予算委員会という劇場で上演されているドタバタ劇よりは、ここ最近の大相撲の方がもっと緊迫感があり、かつ幅広い視聴者から希望されている番組であったのではなかろうか。少なくとも、小生は甚だバカバカしく、とても最後まで観る気にはならない内容であった。

もしも森友事件の登場人物に首相夫人の名前がなければ、大相撲を押しのけて中継されるようなイベントにはならなかったはずだ。

今回の騒動の(ある意味で)主役は「昭恵夫人」であると見る。

***

ずっと以前の投稿から一貫して書いてきたことだが、安倍政権は(どことなく世間離れした印象のある)首相ご本人はともかく、取り巻きたちの偏向した思想・信条、低レベルな失言などが相次ぐことで、首相のイメージが毀損され、最終的な崩壊に(比較的短期間で)立ち至るであろう、と。そもそもの最初からそう予測していた。

それが案に相違して長期政権になっているのだが、ここに来て稲田朋美防衛大臣、それから何とご自身の細君までが、右翼がらみの失態を演じるとは。加えて、小池百合子現都知事もちょっと頭痛の種になっているでありましょう。どうやら首相ご本人は、「女性活躍推進」の旗手をつとめているにもかかわらず、よほど女性が鬼門である御仁のようである。

ま、最近のメディア好みのドタバタ劇が安倍現政権にとってどの程度までリアルな損害になってくるのか。まだ分かりませんが。

***

まあ、これらすべて、トランプ米新政権がいまだ機能不全であるためだ。

何もリアルな衝撃となって、日本に投げかけられるものが出てきていない。

中国は党大会の年であり「内向き姿勢」。韓国もまた政治的に機能不全状態。ヨーロッパもまた選挙の年であり「内向き姿勢」。英国はEU離脱でそれどころではない。

加えて、世界経済は2015年~16年に進んだ石油等の国際商品価格暴落から回復し、明るい見通し。心配される状況ではない。

国際政治経済をみると、日本はいま何をしてもよい、というか宇宙遊泳に似た状態なのである。

このチャンスを生かしてロシア外交を大いに進めればいいのにと思うのだが、所詮、択捉や国後は日本国民の関心外と思われる。ロシアは共同経済活動にロシアの法律を適用すると主張しているが、このことを大きく報道したマスメディアは皆無である。瞬時のうちに話題から消え去った。

北海道で暮らしている人間の目からみると、いま日本は「鬼のいぬ間の 昼寝かな」、というより「嵐こぬ間の 鬼ごっこ」を楽しんでいるように見える、天下泰平の世の中でござります。

まこと目出度きことでござる。「小人閑居して不善を為す」の一例にならなければいいが。


2017年3月20日月曜日

感想: 「制御不能の勢い」というのはあるんだねえ・・・

先週、ちょっとしたヘルニアで腹腔鏡下手術をやって週末に退院して宅に戻った。

現代の医療は本当に素晴らしくなってきている。ずっと昔、父が亡くなった時にもこんな手術や薬剤が利用可能であったなら、と。そう思う。

で、日常が戻る中で、いつものように朝食をとりながら、カミさんが贔屓のTVワイドショーをみる。と、やっぱりやっているのですね。「森友事件」と「百条委員会」。

驚きを通り越して、呆然・慄然・憮然の世界となる。

自衛隊の文官統制は機能しているのか。いわゆるPKOと「駆け付け警護容認」、憲法上の規定は矛盾していないのか。現状のまま、自衛隊の「海外派兵」、いやいや「海外派遣」に予算を認め続けるのか。国会のこんな姿勢こそ、満州事変以降の日本の内閣と議会そのものではなかったのか。なぜそれを議論しないのか。

以前の投稿で「ワイドショーの国会ジャック」が起きているのか、「国会がワイドショーを方向づけているのか」。そんなことを書いたが、いずれにせよTV中継の対象である予算委員会とワイドショーがシンクロしているのである。

他方、TVとはあまり縁のない例えば法務委員会では「共謀罪法案」の扱いが検討されている。厚生労働委員会では「保育所問題」や「育児休業」が審議されている。TV中継される予算委員会以外の委員会では、総じて真剣な審議が行われている。そのことをTVはまったく見ようとしていない。

以前に、日本陸上の特に男子長距離界の弱体化が進んだことと箱根駅伝の視聴率の上昇トレンドとの間には、有意な因果関係を統計的に検出できるのではないかと書いたことがある。

同じように、予算委員会に偏重したTV中継と無責任な毎年度の予算編成との間には統計的に有意な関係が認められるのではないか、と。

そんな憶測をしている。

こう書いてくると、「TV中継」なるものが日本国民に何らかの価値を提供しているとは全く思われない。あえて言えば、TV局の番組編成局に所属する無学・無教養なプロデューサーの「見識」などは排して、多くの常任委員会・特別委員会をローテーション方式で機械的に中継していく方が国民への情報提供としては一層適切であり、国会全体の活動状況を正しく伝えることが可能で、また個人個人の国会への関心を刺激することにもつながるだろうし、そのためのルール作りを国会との間で取り決めるのが優先事項であると思うようになった。

つくづくそう思いながら、情けなきこと、涙こぼるる、と。そんな心持ちなのでござります。

それにしても、この一ヶ月。予算委員会は何をしてきたのだろうねえ・・・、「勢い」というやつか。ちょうど陸上競技のレーンは見えているのだが、勢いがつきすぎて「曲がれない〜〜っ」と。まあ、そんな感じであるのかもなあ・・・。


2017年3月13日月曜日

古い慣習の効用?

ちょっとした手術で入院することになった。それで提出する書類に記入をしたのだが、そこには色々な質問事項が並んでいる。

まずは医療費の負担責任者と保証人。これは(当然だが)小生本人が責任者で、愚息の一人を保証人にした。愚息の名を小生の必要から何かに使ったのは、実は今回が初めてだ。まあ、それだけ歳月がたったわけだ。今後はこういうことが増えることだろう。

「身の回りをする人」。これはカミさんにお願いしよう・・・

「家族構成について」。フムフム。同居する家族。これは今はもうカミさん一人しかいない、と。次に・・・別居する家族。ウン?二人の愚息は既に独立して別居している。「生計」をともにはしていない。つまり愚息といえども「別世帯」である。その場合、二人の愚息は「家族」の範疇に入るのか?ここでいう「家族」の定義とは何なのだ。この書類には「家族」の定義は記されていない・・・。

しばらく考えてから分かった。同じ「戸籍」に属している者は同じ「家族」である、と。『そうか!これは戸籍上の確認を問うておるのじゃな』と悟った次第。それならそうと、きちんと定義を書くべきなのにネエ。となると、福島県に居住する弟一家は小生の家族ではなく、生計は独立して暮らしているがまだ小生の戸籍にいる愚息二人は小生の家族となる。まさに明解で誤判定の余地はない。

ただ、何のために上の質問をしているのかという理由は不明のままであった。というのは、緊急時の連絡先として第1連絡先から第3連絡先まで別に質問しているからだ。

+++

とはいえ、

もし戸籍なる慣行が廃止されれば、独立して暮らしている愚息たちはもはや「家族」とは認識されなくなるー主観的には家族と思うが、「制度」としてどうかということだ。まあ、独立して別居している息子は、独身であっても、もう「家族」からは離れた。むしろこれが今では常識かもしれない。

「家族」とは何のために存在するのか?以前にも投稿したことがあるが、小生の理解はシンプルである。地縁・親族・姻族を柱とする大家族制から核家族制に移った社会においては、「家族」の存在理由は「子の養育」が目的であるとしか考えられない・・・ロジカルに考える時、何がほかに挙げられるだろうか。夫婦の愛を育むことだけが目的であれば、結婚という制度は不必要だ。相続などは遺言をかいておけばよい。

愚息は結婚をして、戸籍を別に作る時点において、小生とは別の「家族」となる。つまり愚息が子の養育を開始する意思決定をして、自らの家族をつくり始める時点が小生の家族から離れる時である。それは「核家族」であり、伝統的な「大家族」ではない。「核家族」という言葉の意味合いを社会学的な観点からつくづくと実感したのは初めてである。

そもそも戸籍は中国において徴税・徴兵など国家の人的資源をミクロ単位で捕捉する必要性から始まった。現在でも相続手続きにおいて権利確定のための固い情報を提供する。が、なければないで、他の行政ツールはある。実際、戸籍制度をまだ残している国は日本、韓国、台湾など極めて少数である。

それでも日本人の人生に大体は当てはまっているライフサイクルと現在の戸籍制度は案外マッチしているようでもある。

もちろん家族、というか親子関係で繋がっている一族の履歴をお上がずっと保管するというのも怖い。そんな感情があってもよい。負の側面もある ー どんな制度も国民すべてに適用するとなるとそうだ。遠距離から戸籍謄本をとるのも面倒だ。とはいえ、貴重なデータであることも確かだ。個人番号カードがあれば証明書をとるのも簡単になる。戸籍制度は面倒なものだと速断して廃止して困ることのほうが多いかもしれない。

2017年3月10日金曜日

大手メディア: 情報ダイジェスト機能を果たせているか

「情報」。

21世紀を特徴付けるキーワードとして何年か前に同僚と議論したことがある。

その時は、(DAIGOの流儀で言えば)"RE"、つまり宗教(Religion)と民族性(Ethnicity)を挙げたことを覚えている。その後、イスラム国(IS)の暴虐ぶりが報道され、やっぱりなと思ってきたが、上の三つに加えて「情報」というものを真剣に考えておかないと、未来がさっぱり見えてこない、と。そう思う今日この頃である。

フェースブックは、(投資先の一つでもあるので)これからも頑張って欲しい。フェークニュース(≒流言飛語)批判にどう対応するかで今は苦労しているようだが、未来の社会インフラを構築したいというZuckerbergの抱負は是非実現してほしい、と。本当にそう思う。

トランプ米大統領が既存大手メディアを(ほぼ毎日)厳しく批判しているが、その批判は100%政治戦略であると受け取るのは現実にそぐわない(ような気がする)。小生がアメリカに在住していたとして、トランプ候補に同調したかと言えばそれは違うような気もするが、確かに今の新聞やテレビ、ちょっと編集ぶりが酷いよね、と。これでは「情報ダイジェスト」にならないよね、と。世間をゆがんだ方向に誘導しているみたいだね、と。そんな感覚を覚えることは実際にままあって、ある意味ではアメリカ国民一般にあると言われる「メディア不信感情」を共有できている(ような気もするのだ)。


小生も、時代の流れには抵抗できず、いつのまにかFBのページ・フィードでフォロー中の報道を毎日何度かチェックし、それと併せてフォロー中のグループの投稿状況、それから知人達の近況をニュースフィードからざっと見る。そんな習慣になった。フォローしている先には、WSJも日経もCGTNもあるし、英紙"The Telegraph"も独紙"FAZ.NET"もある。さらに、世界中の散在している何人かの美術家も趣味として見ている。

FBにGoogle+が加わると、World Economic Forumや日本のNHK、朝日新聞社、The Economist、Zeit Onlineなどが入ってきて、併せて仕事に必要な"R"や"Python"のコミュニティの動向が次々に画面に表示されてくる。

投稿には、詳細な情報が記載されている資料へのURLが含まれていて、そこに入ると、さらに関連情報が表示されてくる・・・。という具合に、FBでなくともいいがSNSを使うと効率良く、バランス良く、情報を整理することができるのだ、な。どんな時事的なテーマについて、でもだ。しかも、付加機能が加速度的に向上しつつあり、5年先にはどんなサービスを提供してくれているのか想像もつかない(想像もつかないという点では、分野は違うがAmazonもそうだ)。未来の社会インフラを目指すというFBの戦略軸は大げさではないと思うのだ。


さて、日本国内のテレビでは(NHKニュースではなく、「ニュースもどき」の方だが)、この時期、東日本大震災に関係した話題が増えている。が、それより優先しているのが、まだ「森友事件」だ。ちなみにFBやGoogle+の投稿を概観すると、「森友事件」関係の情報はゼロではないが、内容相応の比率を占めるのみである。今日のテレビでは韓国の大統領弾劾判決は関心外。北朝鮮のミサイル4連発は何日か前にちょっと触れただけ。昨日登場したキム・ハンソルは今日は消えている。まあねえ・・・、何をどうするかはプロデューサーが決めるのだろう。

なお書きで付け足しておきたいのは、(不思議なことに)テレビで放映される国会・予算委員会の審議内容がテレビのワイドショーとシンクロしているようなのだ。これって、テレビ・ワイドショーの「国会ジャック」というべきか、「国会の堕落」というべきか。言葉を知らない。

それはさておき、

テレビでも何度か紹介されている問題。福島県から避難した児童が避難先でいじめにあっているという状況である。放置している学校側と黙って我慢している児童本人、気がつかなかった両親。たまたま見つけた作文で真相を知る。「いじめ」一般をとりあげる時の共通のフレームワークを今回も使っている。

ただカミさんとも話した。(小生も経験したことがあるが)転校生というのは一般に友人ができにくいものである。特に、方言が残っていて周囲の児童との異質性が目立ち、年齢的にも小学校上級生から中学生にさしかかる時期は、仲間になかなか入れないものである。

避難してきた児童と、その他一般の転入生とを比較して、確かに福島県から避難してきた児童は「いじめ」に遭いやすいという事実がデータから確認できれば、やはり日本の学校に、というか日本人全般の側に問題が隠れている。弱者に同情するのではなく、反対に虐めてしまうような傾向がある、と。そう言えるのだと思うが、ただ「福島県から避難した人で虐められている児童がいる」という事実を感情的に訴えるだけでは説得力に乏しい。そんな話をするとカミさんは憤慨していたが・・・。

上の問題は統計的には有意性とか、「サンプルセレクション」という問題に関連するのだが、この関連で言えば、以前に一度話題にした風評。たとえば『福島県では突然鼻血を出す人が増えている』という『美味しんぼ』がとりあげた「伝説」。あるいは『福島県の児童は確かに甲状腺癌発症率が高まっている』という風評。これらの話題も「非常に重要」といえばそのとおりであり、是非とも定期的に報道番組やその他ワイドショーで近況報告してほしい事柄である。

ところが、不思議なことに森友事件にはこれほど集中するのに、『科学的データでみる福島県の復興』などという特番はこれまで見たことがない。もちろん、医学的見地から直ちに結論が出るというわけでもない(参考資料)。とはいえ、ビッグデータの時代である。いじめ問題にしても、除染問題にしても、鼻血問題・甲状腺癌問題にしても、かなりのことは資金を投入すれば多くのことが分かるはずであるし、そもそも必要な数値データ、文字データ、画像データ、その他非構造化データはデータベース化されていなければならず、また可能な限りオープンデータにしておくべきでもある(小生が寡聞にして知らないだけかもしれないが)。『被災地で知りたいことがほとんどわからない状況になっている』、『これは東電の不作為なのか、政府の不作為なのか?』。これだけでも十分ワイドショーの話題になるはずではないか。多数の関心もあるはずだ。それをしないのは、する意思が既存大手メディアには(ほとんど?)ないことを意味する。


ハッキリとは分かっていないが、日本にとって「重要な話題」に、多くの人が関心をもつ、問題意識を持つように、いま分かっている情報を提供していく。メディアに期待されているとすれば、これも役割の一つ、というか最も重要な役割ではないか。

制作側の戦略的意図は分からないが、このところの"ニュースもどき”、いや厳密に言い換えると「△△ステーション」や「ニュース○○」、その他ワイドショーのように「ニュース+付加価値」で構成される番組がすべて該当するのだが、これらは明らかにフィクションやフェークニュースではない。かといって隠れた事実を取材して紹介するドキュメンタリー番組でもなく、明らかにニュース関連番組なのだが、素材を加工して「楽しませる」、「興味を刺激する」というサービスがついたハイブリッドな編成になっている。批判ではない。ただ、観ているとそう思うのだ、な。こう書くと「それが悪いのですか?」と聞かれそうだが、ザックリといえば「フェーク・ドラマ」になっているような印象を受けてしまうのだ。

確かに近年の視聴者はメディアからリアリティを求める。たとえばスポーツ中継。特に国際試合が高視聴率をとるのはそれが先ずドラマではなく現実であり、その現実をリアルタイムで観ることができる。それが陶酔感をもたらすコアである。スポーツ中継番組は、生のゲーム展開に加えて、解説や関係映像をパッケージングすることで、リアリティにドラマ性を付加している。付加というより強調・拡大し精神興奮作用を高めている。だから一層成功する。このところ(特に民放で)隆盛を極める"ニュースもどき"を支えている番組制作戦略に、スポーツ中継番組の編成技術が活用されていないと誰が断言できるだろう。

(これは誰でも同意すると思うが)スポーツ中継番組は決してスタジアムでみる「生のゲーム」そのものではない。「フェークニュース」とは逆の「フェークドラマ」である。だから(それを求める人にとっては)ゲームそのものよりも面白いのだ。


スポーツは(特にプロスポーツは)元々エンターテインメント産業なのだから、放送側がいいように加工してもよいのだとも言えるが、社会経済のあらゆる事実を素材として切り取って、自由にドラマ性を付加して、ニュースとして放送するビジネスモデルは、小生は(自主?)規制するべきだと思うようになった。

なぜなら、ネット化社会の中で自然に形成される情報の淘汰(=真偽や社会的重要性のスクリーニング)プロセスの中で、エンターテインメント性を帯びたメディア発の「お話し」は無視できないほどの影響力をもった参加者になるからであるし、現にもうなっている。

視聴率上昇には効果的な戦略かもしれないが、「情報」の提供になっているかどうかという点では、正直なところ疑問符をつけたいのだ。週刊誌のように自由市場で自由に営業するなら何の問題もないが、放送法で法的に保護された下では事実と虚構との間の厳格な線引きは曖昧にしてはならないと思う。

2017年3月8日水曜日

豊洲問題: あと2、3ヶ月で流れが変わるかもしれない・・・

この3日ほど風邪気味で寝込んでいたが、その間も世の中は「森友騒動」で国会もテレビのワイドショーも(この二つを横並びに列挙するのが気持ち悪いのだが)、こればかりを論じていたのだろうか。風邪をひいた分、穏やかに過ごせたかもしれない。

それから「石原元都知事百条委員会騒動」。これもどのくらい井戸端会議の話題になっているのだろうか。

どちらも人気はあるが、内実はほとんどないという意味では、突然出てきた某芸能事務所のアイドルとさほど異質性がないような気もする。

パフォーマンスの次元の話といえば、豊洲問題。久しぶりにネットを色々と見てみると、徐々に潮の流れが変わりつつあるようでもある。

詳細を書く元気はまだないが、ざっくりと言えば

  • 社会経済的なことを考え慣れている「いわゆる知識層?」は、小池現都知事のパフォーマンスには当初の期待から辟易に変わりつつある。
  • 井戸端専科というか(失礼を敢えておかせば)ローレベルの「庶民層?」は、以前の指導者をつるし上げることに喝采の声を発している。
  • 豊洲と築地の二つをデータに基づいて客観的に比較したものを示してほしいと言う希望がだんだんと広まりつつある。


どうやらこんなトレンドが生まれつつあるのではないか。第3点の浸透速度が今後の進展を決めるだろう。

ただ一点だけ分かっている。もし現都知事が選挙を目的とし、そのための戦略を実行しているのであれば、人数的に圧倒しているのはローエンドの有権者 ー これこそ「都民?」であるのかもしれない ー であろうから、現時点の行動戦略を変更する動機はない。

しかし、安倍現政権の支持基盤が右翼であり、特に極右勢力が無視し得ない大きさを有していることを思い起こすと、支持基盤の願望が自らの行動を束縛するリスクを考えるべきだろう。

普段の不満(ルサンチマン)を解消させてくれることが支持理由であるような有権者セグメントを吸収することが本当に賢明な戦略であるのか。

というか、そんな政治戦略はありうるのか?もちろんこれは反語的疑問文だが、これだけ書いて、あとはまた書こう。

ただ、こうやって書いて見て気がつくのは、小池現都知事が「都版トランプ」であるという点だ。都知事選は実に「ミニ米大統領選」であった。外観こそ違うが、生まれてきたメカニズムは同じであり、いま世界の政治情勢に作用しつつある共通の社会的因子から派生している。そんな現象の一例であると思われる。

2017年3月6日月曜日

1ポイントメモ: 総理夫人は「私人」か「公人」か?

表題をめぐってバカバカしく無意味な論争がTV画面でまだ続いている。
私人に決まっているでしょ。公人なら辞令を交付されているはずだ。そこには担当職務が明記されている。権限も付随する。 
芸能人も広く世間に知られていて、その意味で「公人」とされています。であれば、首相夫人も公人であるとも言えますね・・・誰かが言っていたが、それを言うなら「有名人」だ。
この間はパネルに書かれていた「遡る(サカノボル)」の漢字を「タドル」と読んだ女子アナがいたが、今度は「有名人」と「公人」の区別もつかないのか・・・既存メディアのレベル低下は予想以上である。

2017年3月5日日曜日

メモ: ポピュリストとメディア・大衆の関係とは?

ドイツ・ナチス政権は大衆の支持により合法的に権力を奪取したことはよく知られているし、政治学・社会学分野においては永遠の研究テーマになっている。同政権がプロパガンダ、つまり「世論操作」を最重要視した。これも周知のことである。

同じ「永遠の研究テーマ」の中に、中国で吹き荒れた文化大革命と毛沢東の親衛隊であった紅衛兵が数えられるだろう。なぜあれほどまでに大衆の支持が毛沢東個人に集中できたのかという疑問は政治学の永遠の難問であるには違いなく、大衆の支持が紅衛兵運動に結実したのか、紅衛兵の活動が大衆の支持に結びついていったのか。小生はまだ10台で、いまも専門外のことは熟知しないが、いまだに不思議である。ただ『毛沢東語録』とその中の「造反有理」、「百家争鳴、百花斉放」が当時の若い世代が愛用したキーワードであったことは鮮明に覚えている。公式メディアまでも敵対勢力の側にある時、一つの小冊子であっても有効な宣伝ツールになりえると洞察できた点は流石である。

よく考えると、現中国政府の恥部である「(第二次)天安門事件」は指導部が共有していた文化大革命への恐怖の記憶から発生したのだろうとほぼ確実に推測できる。

権力を奪取したわけではないが、戦後アメリカのマッカーシズム(1950年代)も当時アメリカで生きていた人間のリアルな思考や感情を追体験するのが難しい、それでいて社会の構造を変えるほどの力を発揮した政治運動であったという点では、これまた大衆の爆発の一例だろう。日本の60年安保闘争はやはり本質的に学生運動でしかなかったと思う。

まだまだありそうだが、これら全てを総括する用語が、今はやりの「ポピュリズム」である。そして、ポピュリズムは大衆(=社会の圧倒的多数者)が共有する「怒り」や「恐怖」に支えられる。これも周知のことだ。

そんな大衆が共有している「怒り」や「恐怖」の本質をつかむことができる人間は、即ち「政治の天才」ということになるだろう。日本の第二次安倍政権は、失敗者にして、かつ必敗の候補者と見なされていた安倍氏が「あとはない」という気構えで自民党総裁選に立候補したことから始まるが、「アベノミクス」にせよ「憲法改正」にせよ、大失敗に終わった民主党政権への「怒り」が追い風になっていたのは確かだろう。ま、比較的分かりやすい例かもしれない。

アメリカでトランプ候補が当選した時、ポピュリズムの不合理性が多くの専門家によって(英国のEU離脱国民投票とともに)指摘されていたが、エマニュエル・トッドはあれもまた「民主主義」の表れであると語っている ― イコールの関係ではなく、民主主義(=デモクラシー)はポピュリズムを包含するという論理関係にあるという趣旨だと解している。つまり、ポピュリズムが支配する社会はすべて民主的であるが、民主主義だからといってポピュリズムであるとは限らない。

いまGoogle+ですすめてきたフルトヴェングラー指揮のブルックナー第7番第2楽章のアダージオを聴いている。1942年のベルリンフィルだ。これがまた実に素晴らしいのだ、な。ベストワンだと思ってきたマタチッチと並ぶか、それを超える。周知のようにフルトヴェングラーはナチス政権が支配したドイツに留まり続け、そのため戦後になって戦争協力者の疑惑をもたれた人である。帰国した友人の証言、戦時の言行をつぶさにみれば非難はあたらないとの判断から音楽活動を続けられたものの、大衆(=周囲の人々のほとんど全て)の攻撃によって自国が変容していく惨状にある種の絶望を感じたことは、同様の経験をまったくしたことのない小生も漠然と想像できるのだ、な。ひょっとすると、昭和初年の恐慌の時代、急速に右傾化し、国粋主義化する日本社会に漠然たる不安を感じた祖父の世代ならより切実に共感できるかもしれない。

こういう「想像」とは、つまるところ「天安門事件」を弾圧した共産党指導部の心理につながるものである、と。そうとも感じる。

最近の「トランプの100日」の下で、同氏の敵は大手マスメディアである。もしも今後、マスメディアがトランプを攻撃し、ほとんど大半のアメリカ国民がメディアに同調しトランプを非難するようになり、その潮流の中で大統領弾劾が発議され、新たな政治家(といっても規定上まずはペンス副大統領になるが)が次期大統領候補として現れるなら、そちらの方が真のポピュリストであることは、言葉の定義からして間違いのないところだろう。

が、既存メディアのメディア性は10年前に比べれば大きく低下している。ツイッター、フエースブックなどのSNSが台頭したためだ。

ミュージカル『ジーザスクライストスーパースター』の中でユダが熱唱する下りを思い出す。
そちらじゃ、みなさんどうですう~~
お釈迦様はお元気でえ~~
マホメットは、山をほんとうに~、動かしましたか、あれは宣伝かあ~~
いまなら世界を動かせえたあ、昔のイスラエルにはテレビもないしさ〜
まあ、確かにトランプ大統領は最新のメディアを愛用する(ゲッベルス宣伝相がラジオを愛用したように)イノバティブなポピュリストなのだろう。大統領から広く大衆にダイレクトにメッセージを届ける。いわば卸売・小売りをスキップして農家からダイレクトに消費者に新鮮な野菜を届ける。これと同じモデルでありいわば「産地直送型政治プロパガンダ」だ。"Facebook Live Trump"と検索すれば、選挙運動中に作成された多数のライブ資源(一例)を見ることができる。こういう場は10年前には存在しなかった。今後の職務遂行上のツールとしてフェースブックが活用されることは確実である(一例)。というか、今後はこちらがメインになるかもしれない。

このまま新しいプロパガンダ・モデルが成功し、拡大し、いつの間にか既存の大手マスメディアが信頼、いやメディア性を失い、いつしか年収1千万円程度の評論家が物言うご談義の場にシュリンクしていく運命にあるのかもしれない(存在感を失うことなくたとえ現状維持を続けてもメディアとしての競争には負ける)。あるいはトランプ大統領が大衆の支持を失い、新たなポピュリストが登場するかもしれない。いずれにせよ、その結果はメディア産業の競争優位性がどこにあるかという一つのエビデンスになると思われる。

2017年3月4日土曜日

豊洲問題: 石原元都知事は無責任なのか?

『群盲、象をなず』という格言がある。

なでるのは巨大な物体である必要はない。非常に長期間にわたるプロジェクトでもよいわけだ。多数の人間が組織的に関係し、どの一人も最初から最後までモニターすることができない。そんな場合も全体を一望した人は誰もいない。

★ ★ ★

昨日、石原元都知事の会見があったが、概して評判はよくない。要するに、築地移転は安全性の観点から緊急性を要する課題であり、豊洲移転は着任時には既定路線であったという。自分は最高責任者として部下を信じ印鑑を押した。要するにそんな骨子である。

この点は今朝の報道でも同じだ。
 「すべて任せていた」――。豊洲市場の移転をめぐる問題で3日に記者会見した元東京都知事、石原慎太郎氏は、重要な政策判断を部下や専門家の判断にほぼ委ねていたと強調した。小池百合子知事は「人の責任というのは簡単」として、石原氏の姿勢を疑問視。土壌汚染のある豊洲になぜ移転を決めたのか、真相解明は都議会百条委員会に持ち越された。
(出所)日本経済新聞、2017年3月4日

話しはまったく変わるが、「天皇機関説事件」というのが戦前期・日本においてあった。昭和10(1935)年のことだ。

日本の統治システムにおける天皇の地位は憲法(大日本帝国憲法)の規定によるものであり、その意味では「天皇」という地位は国家を構成する一つの機関である。俗な言葉で言えば「組織の中のコマの一つである」と、こう見るのが天皇機関説であり、明治から大正までを通して、日本の指導層の中で半ば常識とされていた。ところが、昭和初期、自党の利益を狙う政略から開始された国体明徴運動が世論をひきつけ、その流れの中で天皇陛下を「機関」であると考えるのは「不敬」である、と。天皇は神聖かつ絶対的であるという日本の「国体」と矛盾する。そんな非難の的となり、当時の憲法学の権威である美濃部達吉博士はこれにより社会的地位を失うに至った。これが天皇機関説事件であり、その後の軍国主義への一里塚となった。

時代は変わり、戦後になって天皇機関説が名誉を回復し、現在でも天皇の地位は日本国憲法で規定されているとおりであることはいうまでもない。

国家、中央政府ばかりではなく地方政府においても、トップの権限は法の規定によるというのは一貫した考え方である。

「知事」と言えば都道府県の行政における最高責任者ではあるが、自分自身の意見がそのまま実現できるはずはなく、全ては適法に、手続きに沿って進められなければならない。議会の承認も不可欠である。行政は100%すべて組織的に進められるのである。石原元都知事はつまりはこういう趣旨のことを言ったに過ぎない。

日本の政治体制を前提すれば、この認識はその通りである。「任せていた」という言い方は、それ自体としてはそれほど大きな間違いではなく、現都知事が「人の責任というのは簡単」と、人ごとのように批評するのは論理的でない。そういう問題ではないのだ ー まあ、「すべて任せていた」というのは言い過ぎで、知事に求められる権限・水準において確認するべき点を確認した、と。この点のみがポイントである。

★ ★ ★

結果として豊洲移転の安全性について疑問符がつき(この問題に点火したのは正に現都知事なのであるが)、現在の混迷に至っているのであるが、こうした「失敗」はまず全てがと言ってもよいと思うが、トップの失敗であるより、組織の失敗である。

築地市場移転プロジェクトは非常に長期にわたる懸案であって、関与した担当者はトップから末端まで含めて非常に多人数になる。「基本設計」、「基本方針」ですら、一人の人間の意思決定で決めたものではないに違いない。

これは何も無責任体制の温床ではない。非常に多数の関係者が四方八方から検証することの最終的な結果として、組織的に実行していくのが、行政というか巨大システムを運営管理する最善の方式である。これがビューロクラシー(≒近代官僚主義)のエッセンスであるからだ。故に、たとえそれが「宣戦布告」の意思決定であっても「誰が決定した」という「誰が」というのは常に曖昧であり、わかるのは「その時の決定権者」が誰であったかだけである。その決定権者は組織の長であるのだが、しかし、そのトップが能動的に決定を下したのかときけば、それは必ずしもそうではない、というのがほぼ全てのケースである。

このような組織管理方式は、なにも日本的意思決定に固有の問題ではない。統治システムが複雑に高度化した先進国であれば共通している特徴だ。ベトナム戦争の泥沼にはまった責任者はケネディ大統領であったか、ジョンソン大統領であったか、国防長官あるいは国務長官であったのか、それとも現地前線の総司令官に責任があったのか・・・。もし「責任者」が特定できるのであれば特定されているはずであり、何もハルバースタムが名著"The Best and The Brightest"を著すまでもなかった。2009年にゼネラル・モーターズ(GM)が倒産したが、誰がその「責任」を負うべきか?責任者を指折り数えれば、小生思うに数百人に上るでありましょう。まだある。BPのメキシコ湾原油流出事故(2010年)、VWのディーゼル排ガス不正事件(2015年)、これらは一体誰の責任であったのか、誰かの責任であったのは間違いないが、つまるところ非常に多人数の人間が少しずつ分担して責任を有していた。言えるのはそれだけである。「明確な責任の所在」などというよく聞くフレーズは一般公衆に向けた精神安定剤以上のものではない、というのが現実だろう。

今回の問題の本質は「組織戦略」にある。更に言えば組織は戦略に従う以上、とられていた戦略、さらにそれ以前の「目的」に不適切な点があった。「何をしたかったのか」。トップが影響力を行使できるとすれば、この「目的設定」という段階である。ここを見ないと問題の解は見つからないだろう。いわば学問の本道に沿って考察するしか、この種の「失敗」から有益なメッセージを引き出す方法はないと思っている。

巨大な失敗は、ぶら下がり取材や記者会見、議会の百条委員会等々で的確に把握し、評価できるような甘いテーマではなく、それこそ上下二巻を超えるような著作物になるべきものだ。登場する人物、証言する人物も千人を超えよう。

今後期待されるのは、こうした真摯な情報収集、整理、執筆作業であるのは確かだ。が、これは日常業務に忙殺されている公務員が担当することではなく、またそんな立場にあるわけでもない。それこそ日本のジャーナリストの力量が問われている主題であると思うのだ、な。

★ ★ ★

こう考えると、小池・現都知事のやるべきことは見えてくるではないか。

築地市場と豊洲新市場とどちらが安全であり、どちらが危険であるのか。そして、市場移転問題は明らかに行政上の問題であるから、どんな解決策を示すのか。

この一点である。というか、こういう基本的事項については既存資料があるはずであるし、なければ奇妙である。

『豊洲は危ない』と火をつけたのは現都知事である以上、それが適切な判断であったという証明もまた現都知事の責任の範囲内にあると小生は思うがどうだろうか。

行政プロセスにおいて生じてしまった「巨大な失敗」について分析する仕事は事故調査に似ているともいえ、どう繕おうが所詮は"Post Mortem Examination"である。

そこから得るべき知見を文書化する仕事は、都庁・知事部局から切り離し、外部に調査委員会を設け、複数の第三者的専門家がまとめるべき事柄である。もちろん、公式に編集される(かもしれない)文書のほかに、有能なジャーナリストがより掘り下げた有益な著作物を執筆するかもしれないし、またそうあるべきだ。

現職の職務は課題解決にある。その課題は行政の現実から与えられるものだ。自分自身に有利な流れをつくるために適した問題を課題とするべきではない。いずれにせよ、政治家は自らの意思で立候補したのであり、当選のあと直面する課題はそれが何であっても、自分自身の課題として誠実に取り組むべきだ。これこそ真の「不惜身命」、「任重くして道遠し、仁を以って我が任となす又重からずや、死してのち已む又遠からずや」ではないか。

★ ★ ★

ただ、なんでこうなったんヤ、と。憤懣やることなき有権者もいるのだろう。不正な談合があったのではないか。少数のグループが甘い汁を吸っていたのではないか…、そんな疑惑だ。

それは小生も同感だが、他方、経験から得られる統計的傾向も無視できまい。つまり、誰もが感じる「疑惑」があるときに、その疑惑を調査して、疑惑が事実であったと証明された「疑獄事件」がこれまでいくつあったろうか。ほとんどは空振りであったというのが小生の経験的印象である。

真の疑獄事件は、多数の人たちが感じるような疑惑などは全くない、そんな安全地帯の裏に隠れているものだ、と。これが従来の経験から得られる印象なのだ。

疑惑の証明は、長時間の情報の収集、整理を通した地道な作業から初めて可能であり、それこそハルバースタムの『ベスト・アンド・ブライティスト』を執筆したのと同等(もしくはそれ以上の)のエネルギーを投入しなければならない作業だと思うのだ、な。それに適合した調査(ないし捜査?)組織がある以上、その組織に委ねるべきだ。政治≠捜査、政治家≠捜査主任が原則であるのは当たり前だ。

「ちょっと聴いてみなければいけませんね』くらいの乗りで実行できる事柄は本当は多くはないのである。真の無責任はこんな姿勢の方である。



2017年3月3日金曜日

メモ的予想: 「金正男殺害事件」の今後の展開

標記事件の情報がそろそろ北朝鮮・平壌の市民にも伝わってきたようだ。
【ソウル聯合ニュース】北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男(キム・ジョンナム)氏がマレーシアで殺害された事件が北朝鮮の平壌でうわさになっているようだ。韓国で活動する北朝鮮脱出住民(脱北者)団体「NK知識人連帯」の金興光(キム・フングァン)代表が3日、聯合ニュースの電話取材に「海外駐在員を通じ平壌市内に事件が伝わり、市民が憤っている」と明らかにした。
(出所)朝鮮日報、2017年3月3日

他方、韓国のソウル市内はいま大変な状況になっているという。 大統領弾劾派と支持派がともに示威行動を展開し、決して退かない気構えだという。

 1919年3月1日に起こった日本からの独立運動「三・一運動」98周年を迎えた1日午後2時、ソウル・光化門広場に車両で巨大な「コ」の字型の壁が築かれた。警察はバス610台を動員、ソウルを象徴する光化門広場を取り囲んだ。この車の壁の外側では朴槿恵(パク・クネ)大統領弾劾に反対する団体の「太極旗デモ」が同時多発的に行われた。その一方で、車の壁の内側にある光化門広場では朴大統領弾劾・逮捕を求める「ろうそくデモ」が開催された。 
(中略) 
 この日は「三・一運動」98周年の記念日だったため、双方のデモ参加者たちとも太極旗を持ち、「大韓民国を守ろう」と叫んだが、その内容は正反対だった。手に持っていた太極旗を武器のように振り回して相手に向ける人もいた。社会的確執を解決しなければならない政治家たちも二つに分かれ、それぞれのデモに参加した。金鎮太(キム・ジンテ)議員、ユン・サンヒョン議員ら自由韓国党親朴派議員や金文洙(キム・ムンス)元京畿道知事などが弾劾に反対派デモに参加し、共に民主党の大統領選出場候補者・文在寅(ムン・ジェイン)前代表、李在明(イ・ジェミョン)城南市長、秋美愛(チュ・ミエ)代表らはろうそくデモに参加した。
(後略) 
 双方のデモが行われた午後2時から6時間、世宗路・太平路・鍾路・乙支路など光化門一帯の交通は全面規制された。週末のソウル中心部はこうした大規模デモで事実上、4カ月以上にわたりマヒ状態になっている。
(出所)朝鮮日報、2017年3月2日

バス600台で警備というのは相当なものではないか。隣国の首都の中心部がもう4か月以上もマヒ状態に陥っているというのは、日本人なら知っておいていい情報ではないのか―まあ、週末に限ったことであるそうだが。日本の安保法制成立時を超える規模になっているのは確かだろう。

南北ともに朝鮮半島の情勢は今後一挙に不安定化する可能性が高くなってきた。

***

一つの可能性、というか「流言飛語」:

韓国・憲法裁判所(最高裁)での大統領弾劾審理は終了した。来月上旬に判決が出るとの見通しだ。

その場合、現在の判事の構成をみると、かなり高い確率で弾劾は否決され、朴大統領は即日復職する。その直後、大統領は全土に戒厳令を布き、軍部主導の下で反対派を国家転覆罪容疑で一斉検挙する(のではないかという憶測があるそうな…、なるほど今回の韓国騒動はどこか国外勢力による陰謀めいているし、現在の日米両政権ともにこの選択を容認しそうでもある)。

弾劾派は当然これを予測しているので、そうなる前に大統領の自発的辞任を求めようとする。が、その場合、大半の国民が大統領弾劾、大統領逮捕に賛同することが鍵である。国民の支持が明らかに弾劾派に傾く状況になれば軍部は大統領を見放すだろうか。

そうはなるまいと読む。軍部の動向が事態の進展を左右するが、大統領が弾劾否決まで持ちこたえれば、反対派は「革命」の成功を断念し、国外脱出・亡命を企てるだろう。亡命先は中国以外にはありえず、反対派は中国に亡命後、中国の支持を得て「民主化のための臨時政権」を樹立する。

この事態を北朝鮮が歓迎するか、拒否するか、見当はつかない。が、疑心暗鬼に陥れば金正恩体制と中国の間が緊迫する。北朝鮮で変化が起きるとすればこの段階だ。

中国は、Thaad配置決定への報復から「亡命臨時政権」を支持し、また韓国に対する経済制裁を強化する方向を表明するが、これはアメリカにとっても黙過できない事態となる。が、朝鮮半島全域に安定を戻しうるのは、ただ一つ中国の戦略であることが徐々に明らかになる。

ここに至って、中国、ロシア、米国の了解のもとで朝鮮半島統一政権への道筋が中国主導の下で引かれることになる。中国が臨時政権の承認とThaad配置撤回、「半島非武装化」を条件に韓国への経済制裁を停止するのはもちろんだ。

***

単なる妄想であることを祈る。

TVのワイドショーは「金正男事件」と「森友学園」とを同列に並べて、両方とも同じ大事件であるかのように連日集中放送している。

まったく滑稽である。みそもくそも一緒とはこのことである、な。

議論するべきことを議論すると安倍政権と与党のペースにはまって埋没してしまうので、日本の野党はスキャンダルをとりあげることで国会の審議時間を消費し、与党の消耗を狙う戦術を選択したと言えそうだ。天皇退位問題の処理もあり、現政権は土俵際まで押し込まれているともいえそうだ。

安倍現政権のとりまきの一つに「極右」がある。失敗したはずの戦前期・日本を美化する愚かな人間集団であるという点は同感。しかし、だからといって森友学園事件は右翼の陰謀、右翼政治家が加担しているというのは(やはり)バカバカしいと思う。

確かに「森友事件」は面白い。しかし、半島情勢は「面白い」ことに加えて「重要」である。なぜ半島情勢をもっと掘り下げて話題にしないのだろうか。テレビ局の番組編成部という所は思考回路が違うのだろう……。

そういえば、以下の報道もあった。
 北朝鮮による核兵器の脅威に対応するため、トランプ米政権が武力行使や政権転覆などの選択肢を検討していることが分かった。政権内部の対北朝鮮戦略の見直し作業に詳しい関係者が明らかにした。東アジアの同盟諸国を緊張させかねない動きだ。
(出所)WSJ、2017年3月2日

本当に、このところの日本の民放テレビ局のニュースもどき、ありゃあ一体何なんでござんしょう。NHKは面白くないっていやあ、そりゃ詰まらねえんですけど、あんな風なことはござんせん。

2017年2月26日日曜日

米中対立? 世界史的転換期なのだろうか?

議論は<米中対立>図式に移ってきたようだ。トランプ政権とト大統領をとりまく側近の言動を観察しているうちに、話題が自然にシフトしてきたのだろう。

米中対立の潮流の中で戦略ベクトルを再検討しつつある国は韓国ばかりではない。
昨年、シンガポールのリー・シェンロン首相はジョン・マケイン米上院議員に対し、米国がTPPを離脱すれば「(米国は)アジアでは終わりだ」と述べた。
(出所)WSJ、2017-2-22

軍事戦略と経済戦略は整合的でなければ、利益があったとしても一過的である。


アジア圏に中国的秩序が浸透すれば、韓国の地に「地上配備型ミサイル迎撃システムTHAAD」が配置されるとしても、遠くない時期に"America First"ではなく、"Korea First"を唱える政治家が権力を得て、韓国の政策は転換されるであろう。そうすれば、北朝鮮のミサイルに対する防備なくして自国の軍隊が常駐するのは不合理であるという判断がアメリカにおいても正当となり米軍は韓国から撤退する可能性が高い。

フィリピンは現時点では輸出総額に占める中国の割合は10%程度であり、日本・米国に次ぐ第3位を占めるのみである(ここを参照)。しかし、台湾は付加価値ベースで中国依存率が10%と対米依存率を上回る。韓国は米中それぞれの依存率が拮抗しているが、対米依存率は低下しつつあり、中国への依存率は高まりつつある。

日本も最近時点において、米中それぞれ、経済的関係は依存率という数字で見ればほぼ同等であるのだ。

戦略的互恵システムとしてのTPPは、やはり米国の国家戦略として、一つの有力な選択肢であったことは否定できまい。


こんなことは近い将来において起こりそうもないが、フィリピンと中国の関係が深まり、安全保障面においてもアメリカとの関係が見直されることになれば、それは日米安保体制の終焉を意味するかもしれない。

そうなれば、中国の覇権はハワイまで東進し、仮にそうなれば、最終的にはアメリカの力は本土まで後退する―合衆国に含まれる州が50から49になる。

一つの可能性だろう。

いやいや、そんなことはないと言われそうだが、世界史をみると洋の東西を問わず、どんな大勢力も続いた所でせいぜい400年が一つの目安である。勢力圏の膨張や縮小は、これまでにも常にあったことだ。

英国にも「失地王・ジョン」がいた。ローマ帝国が最大版図を誇ったのは西ローマ帝国滅亡の350年も前、トラヤヌス帝の時代である。黄金時代である五賢帝時代は唐突に終了し、以後100年近くの混迷が続いた。

ま、こんな世界史的変化を小生が目にすることは絶対ない(と思う)。愚息が生きている時代にも起こらないだろう。

衰退は100年単位で進む現象だ。

衰退の時代の始まりは、ずっと後になってわかるものだ。しかし、衰退すればどうなるかは、実際に衰退する以前においてある程度予測はできているはずだ。

2017年2月23日木曜日

酒びんの美しさ: 多様性の中の統一感

居酒屋のカウンターに座って、背後に並んでいる清酒や焼酎の瓶の列をみると、呑み助には楽しいものであるし、と同時に並んだ酒瓶の列から美しさを感じることもある。「ああ、日本だねえ・・・」と、そんな感覚だ、な。外をみるとまた綿のような雪が斑々と降りはじめ、窓から漏れる灯が積もった雪を暖かく照らしている。そんな夜なら最高である。

フランス・ワインも瓶の形をみれば産地が憶測できることがあり、ラベルをみればどこの醸造元であるかが正確にわかる(ことになっている)。故に、保存状況がよければ、開けなくとも外から見るだけで、ある程度は中味の想像がつく(ようなシステムにしている)。


最近は肥満防止のため蒸留酒のほうがいいと思い、宅で飲む頻度も増えているのだが、いつの間にかウイスキーが自己増殖してしまった。

飲みたいときに直ぐに選べるようにキッチンのカウンターに並べ始めたのだが、これが案に相違して美しい。


ウイスキーは瓶の形、色、ラベルの形状とも、みなマチマチである。ラベルに漢字が混ざっていても異和感がない。しっくりと馴染んでいる。並べてみると全体に形容しがたい統一感が醸し出されて、観るのが楽しい……、開栓した後は早めに飲み切った方がいいので、あまり何本もは無理なのだが。ポールジローのブランデーを間に挟んでみると、これまた以外に仲間外れ感が出てくる。銘柄は違ってもウイスキー全体に共通している美の感性がある。

「文化」というものなのだろうねえ。ただ、カミさんが「ホームバーじゃあるまいし、これ以上は並べんといてね」とクレームをつけているのが残念だ。

清酒や焼酎をグローバル・ブランドにするなら、日本文化に共通している美の意識が瓶の形やラベルのデザインに表れていることが大事じゃあないか。と同時に、蔵元それぞれが自由にデザインできるようにもしておくべきだろう。産地証明とトレーサビリティ、食の安全から規制するお上の指導と、「日本文化のマーケティング戦略」が矛盾しているなら、直した方がいい。


2017年2月22日水曜日

「人工知能」知財の意外な事実

間違った思い込みを修正してくれるデータは最も有難いものだ。文字通り『知識は力なり』。この格言は担当している統計分析の授業でも何度口にしたかわからない。

意外な事実:

Top Holders of Artificial Intelligence Patents

フェースブックの投稿をそのまま引用したのだが、それにしても"FNDtek"という会社はどの位の実力を持っているのか・・・ホームページを見ると、どうやらレンタルサーバー+コンサルタントサービス+ソフトウェア開発でやっているようにみえるが、料金表もそれほど高額ではなく、ちょっと得体がしれない。業界事情には精通していないので、ひょっとすると知られている会社かもしれないし、そうでないかもしれない。

それにしても、「人工知能」とくれば戦略商品"Watson"を有しているIBMの一人勝ち、もしくはGoogleかFacebook辺りが上位を占めると思い込んでいたが、何とトップが日本の富士通とはねえ・・・そして、NECが三位ですか。

確かにNECは大型集客施設の群衆画像解析システムが海外で評価されているとか、最近はこの分野で聞くときもあるが、富士通がこれほどAI分野で知財を保有していたとは知らなんだ。これから何を売るのだろうと思っていたが、結構リソースはあるらしい。20代の頃からずっとFACOMを使ってきたユーザーとしては、というより小生の父が初めて「電子計算機研修」を受けた機種がFACOMだったので、富士通の名をこうしたところで見るのはやはり嬉しい。

GoogleもFBも見当たらんねえ…Microsoftは"Cortana"のことか…、いやいやもっと巨大なスケールでやっているらしい。日本でもMS-Japanが色々と活動している報道はある。
人工知能をFX取引のカスタマーサービスに 日本MSなど
「カード不正利用」の検知精度、深層学習で劇的向上

ただ、どうなのだろう。ビジネス現場ではとにかく「できる人」が足らないらしい。
(前略)
文部科学省の科学技術白書(2016年版)によると、統計学や機械学習などのデータ分析の訓練を受けた大学卒業生の数は、1年間に米国が2万4730人(世界第1位)なのに対し、日本は3400人(同11位)で大きく水をあけられている。 
 日本の7倍の卒業生を誇る米国だが、米コンサルタント会社マッキンゼー・アンド・カンパニーは、18年までに14万~19万人が不足すると試算している。

(出所)日本経済新聞、2017年2月17日

人工知能、データサイエンス分野の人材面におけるトップ3はアメリカ・中国・インドである。時代の潮流に沿った研究に従事している人間が多いということなのだろう。その分、競争は激しく、学界の進歩も速いが、人を驚かせるような抜きんでた結果を得るのは至難のはずだ。

人工知能を今さら研究してもノーベル賞にはつながらないかもしれないが、それは1903年にレシプロ・エンジンを搭載した飛行機を最初に飛ばした米人・ライト兄弟、自動車大衆化の時代を切り開いたヘンリー・フォード、最初の合成繊維ナイロンを開発したカロザース、レーダーの基礎技術となった「八木アンテナ」を発明した八木秀次・宇田新太郎、どの人物もノーベル賞を受賞しなかったことと同じ意味合いに思われる。

ノーベル賞にはつながらず学者最高の名誉とは無縁かもしれないが、豊かな社会を実現するために欠かせない研究もあるというものだ。

2017年2月14日火曜日

徒然なるままに: 宗教・反日・契約

中近東地域で過激化しているイスラム教内スンニ派とシーア派の抗争は、もしマルクスならば、その根底に経済問題があると喝破したのだろう。

そうではなく歴史的・民族的敵対関係が根本にあると見る立場もあるかもしれない。純粋に宗教上の原理における敵対関係が現代にまで継承されているのかもしれない。

いずれにしても「経済問題」だけで、つまりカネや仕事の問題だけで、人は自分の行動を決めるわけではない。

★ ★ ★

話題はまったく違うが、韓国の"Anti-Japanism"のことだ。

日本側の報道でもそうだが、現地に赴任する第三国出身者も反日の熱には時に驚くそうである。

が、これは当然の論理だろう。第二次大戦後の「ポスト日帝体制」を基準にすれば、1910年から45年までの旧体制は、李朝朝鮮から高麗王朝を見る立場と相似の関係にある。高麗残党を粛清した動機と「親日派」を抹殺した動機は本質的には同じであるだろう。だとすれば、現代韓国社会・主流派の「反日」は「親日=旧体制の残党=反逆分子」という方程式を使うための大前提となる。その時々において人は変わるものの、攻撃する側が相手を「親日」と呼び、自らを「反日」と位置づけるのは、徳川幕府草創期に社会不安をもたらす反逆者(=単なる不平分子)を「豊臣の残党」と呼んで、有無を言わせず抹殺したことと、どこが本質的に違うだろう。

が、振り返るとずっと昔、日本も同じような状況だった。

80年代バブルの前までは日本にも「戦前は悪・戦後は善」という大括りにした観念があったように思う。この点だけをみれば、朝鮮半島にいる人たちと理念的立場が大きく違うようなことはなかったように記憶している。

90年代のバブル崩壊と金融パニック、中央官庁の相次ぐ不祥事と護送船団行政の崩壊、中央省庁再編成、その後の「保守本流」の退潮などを経て、社会的な心理や理念が大きく変化してきたのは、(中国も韓国も大きな社会的変化を遂げたのは同じだろうが)むしろ日本の側である、と。そう思うようになった。

ある意味で「戦後政治の総決算」は成し遂げられたのだろう。

この大きな変化を日本の「ポスト戦後体制への進化」と呼べばいいのか、「保守化」と呼べばいいのか、まだ明らかではないような気がするが、近隣諸国からみると日本の「保守反動」のようにも見える。そんな気がしないではない。

が、どちらにしても「戦前は悪」という理念が、現在の日本社会でどの程度まで共有され、潜在意識として織り込まれているか、定かではなくなっているのは確かだろう。

★ ★ ★

某若手女性タレントが「幸福の科学」に入信するというので世間を騒がせている。ある人は、積み重ねてきた人間関係や契約関係をすべて無視して、自分一人の「信仰」を押し通すのは無責任で勝手だと、怒りの気持ちを否定できないようだ。いや、まったく合理的で常識的な意見である。

宗教は、しかし、激発すれば戦争をも辞さないほどのエネルギーをもつ。たかがカネの絡んだ契約なら尚更だ。

徳川家康の謀臣・本多正信は、若い頃の一時期、浄土真宗の信仰心から家康に反旗を翻し、一向一揆の衆徒の群れに混じり、主君・家康を崖っぷちまで追い詰めたそうである。その後の流浪の果てに、家康の下に帰参が許されたのは、事後的には実に合理的な判断だった。

イスラム教の誕生はビザンチン帝国による不適切な宗教政策が招いたのは事実である(とされている)。

現代社会においても、依然として「宗教」が人間社会の大きなテーマであることに変わりはない。日本でそうなっていないのは、徳川幕府の対仏教政策が稀なほどの成功をおさめたからだ。それでも「信仰」がマグマのような熱をもっていることは常に念頭に置かなければならない。そう思うのだ、な。

2017年2月12日日曜日

メモ: 偽善・フェイクニュース・民主主義のいま

日本の安倍首相と米国のトランプ大統領との泊りがけの交流もどうやら大過なく済んだようで(特に日本側では)安堵したような社会的雰囲気があるようだ。

そんな雰囲気はマスメディアから伝わってくるしか一般国民は知る由もないのだが、ではマスメディアはどうやって確定性の高い情報を入手しているのだろうか?この点を聞かれれば、小生だって「さあなあ・・・」と言わざるを得ない。おそらく『公式』の文書なり、陪席していた人と接触可能な人物から直接聞いた言葉がさらに伝わってくるとか、そんなあたりだろう。

★ ★ ★

話は変わるが、文部科学省による「組織ぐるみ天下り斡旋事件」。ついに出てくるべき論評が世間に出てきている。
文部科学省での組織ぐるみの天下りの「発覚」を大きく報じる大手メディアにも違和感がある。今さら新事実のように書かれても、私には「そんなこと以前から知っていたではないか」と、感じられて仕方がないからである。
 今回の事件の発端は、高等教育局長が退任2カ月後、早稲田大の教授に再就職したことにあるという。しかし私のまわりをみても数年前、同じポストにいた人物が私立大の学長になって定年前に退職したし、このような類いの再就職は特に隠れてなされているわけでもない。文科省の記者クラブに所属して幹部職員と日頃接している記者たちが、こうした情報を知らなかったはずはないだろう。
 それを「在職中の求職活動が横行していた可能性がある」(1月23日付産経)などと、まるで初めて知る事実のように報ずるのはどうかと思うのだ。同20日付産経の「主張」は「教育をつかさどる官庁として恥を知るべきだ」と書いているが、この「官庁」に実質上は記者クラブも含まれているのではないかとまで思う。結局のところ、取材する側と取材される役人側とのなれ合いを強く感じるのである。記事は空々しく、今さらの一方的な批判も偽善めいていて心に響かないのだが、一般読者の方々はどう感じているのであろうか。
(出所)産経ニュース、2017年2月12日『新聞に喝!』 

「偽善」という言葉は本ブログにも頻出する言葉だ。そして偽善の増加は民主主義の退廃と表裏一体であると、小生は信じ込んでいるのだ、な。その偽善は、嫉妬が混じった正義の感情からにじみ出るものだとも考えている。

先日も投稿したように、「正しい」という規範を小生はあまり信じられないのだ。

★ ★ ★

それにしても、昨今のマスメディア従事者の学力の衰えは実に目に余るものがある。

先日は、誰でも名前を知っている某ニュースキャスターが『プラザ合意で一転して円安になりましたね』とか(小生の聞き間違いかと思ったくらいだが)、「遡る」を「たどる」と読んだり、まあ特にTVというニュースメディアは時間との勝負なので間違っていたら後で謝ればいいと思っているのだろうが、とにかく基礎学力に不安を感じさせるような場面が増えてきた。現場で仕事をしている人たちは、毎月何冊くらいの本を読んで最新知識を補充しているのだろうか。

新聞社の方は大丈夫なのだろうか。考えてみれば、4年制大学の文系学部を出ただけで、あとは現場で勉強しながら記事を書いているのだろうと思われる。そもそも技術革新が加速し、国際関係も複雑化している政治・ビジネス・産業について何かの洞察を持てているのだろうか。報道対象をまともに理解できているのだろうかと不安に感じることは多い。

マスメディアにしろSNSにしろ、入手できる情報の半分はノイズで、全く内容空虚な伝聞、悪く言えば流言飛語であると思っておけば自分は安全なのだろうが、社会的にはエンプティな情報が実質的な影響を与えることがある。昨秋の米大統領選挙はその典型であった。

情報のフィルタリング・サービスを高精度で実行できる"Social Artificial Intelligence"が導入され、それらがネットワーク経由で統合され、接続される時代が到来するまでは、フェイク情報は容易に踊らされ、影響されやすい人間が判定せざるをえない。

国民の大半が無気力で政治に無関心な国なら何の問題もないだろうが、多くの国にとっては極めて危険な時代がやってきたものだ。

2017年2月9日木曜日

成功とは志・不誠実・勝負の3元素からなるようだ

石原元都知事が豊洲問題で聴聞に応じるというので、現時点で主役を演じている小池都知事を相手に、またまた劇場型政治が盛り上がることになりそうだ。

ま、どちらが優勢となるにせよ、国政では大した結果を残せなかった志も野心もある政治家が、「これではジリ貧だ」と、そう思って地方行政を舞台に選んで、何か大向こうを唸らせるようなテーマを探し出して勝負をかける、と。そんな風に歩んできた/歩もうとしている二人の勝負師の立ち回りだ、と。そうみれば、小池・佐々木小次郎が石原・伊藤一刀斎に勝負を挑んでいるのと大した違いはないねえ。

★ ★ ★

小生の父親は、前にも投稿したことだが、ビジネス戦争の中で鬱病を患い寿命を縮めた人である。そんな父を約10年の間看病した母は(一言で言えば)傷痍軍人の妻のような人生を歩んだのだと今にして思うことがある。

カミさんの父は法学部在学中に学徒動員で中国戦線に送られたが、奇跡的に生還した人だった。戦後は、しかし、隠れ住むように四国・松山で家庭を守り、比較的若い年齢で職場の庭球試合をプレー中に発作を起こして急逝した。戦死を免れたものの、やはりビジネスの中で討ち死を遂げたとみれば、カミさんの母は戦争未亡人と似た立場にあったことになろうか。

どちらの女性も夫を見送って間もなく自らの人生を閉じることになったのは今なお不憫の念に耐えない。

しかし、多分、不幸ではなかったのだろうなあ、と。なんとなくそんな想像もするのだ。自分を実体よりも大きく見せたいと願う誇大妄想もなく、浮かれた世間の中で実に誠実に生きた。そんな人であれば、外観はどうであれ、内実は幸福に恵まれていたに違いない。そう思うのだな。

★ ★ ★

南スーダンでいわゆる「武力衝突」があったそうだ。現地の自衛隊は日誌に「戦闘」と記載してあったという。

戦闘といえば憲法違反になる可能性が高い。だから、起こったことは武力衝突である。稲田防衛相は国会でそう答弁しているという報道だ。

多分、こんなやりとりが増えるだろうとは最初から分かっていたことだ。この件については何度も投稿しているが、いま最も当てはまるのはこれか。

現役の軍人がそう丸め込もうと苦心しているならまだ理解できるが、文官の(だからどうというわけではないが)女性の担当大臣が屁理屈のような言葉の遊戯を立法府で述べるとは、これ「不誠実」の典型だろう。

野心と志をもっているが故に高潔に生きているというロジックはない。不誠実と欺瞞を繰り広げるモチベーションもまた志と野心である。

やはり「仕事」の場にあるのは「勝ち」と「負け」であって、幸福はそこにはないようだ。




2017年2月5日日曜日

メモ:「正しいかどうか」は無意味な話題ではないか

トランプ大統領が酉年の酉(トリ)よろしく相次いで繰り出す大統領令にも司法の判断が下されつつあって、状況は混迷の様相を呈してきた。

そこで議論されている、というか報道されている文章を読むと「この大統領令は正しくない」という意見が多い。

そもそも「正しい」とはどういうことなのだろうか、と。小生、昔から「正しい」という言葉が人の口から出ると、どことなく反発を感じていたものだ。何しろ極端なへそ曲りであることは、何度も断っている。

***

世の中で意見が分かれることは多々あるが、それが真理であるか否かという判断は比較的易しい。

数学的定理はロジカルに証明されているし、まだ証明されていないなら「予想」と呼ばれ、真偽が定まっていないー多分、真理だろうというので「予想」なのであるが。

実験や治験でエビデンスを挙げてもよい。もちろん反証が出てくれば真理ではない。

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美しいかどうかは真理かどうかより明らかではない。が、観れば(聴けば)分かるという点では、(人によって判定は分かれるが)むしろシンプルな問題だ。

それが善いことであるかも判断の観点さえ明らかにされていればそれほど難しい問題ではないのではないか。

カントは、最高の善は「善意志」にあると考えた。善を求める人の意志こそ最高の善なのだというわけだ。そして、何が善であるかどうかは、社会的な慣習ではなく、人間が生まれながらに持っている「実践理性」にきけば分かると議論した。文字通りに超越的・形而上学的だが、『曲がりなりにも人であれば、善いことかどうかは分かっているはずだ』というのは、限りなく孟子の人間性善説に近いとも思う。まあ、現代では既に古くなっている思想でもあるだろう。

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そういえば、数日前のTVで報じられていたが、生後半年の乳児にも既に何が正義であるかかが分かっている。そんな結果が実験心理学で得られたという。その実験は、動画でイジメを見て逃げる人と、いじめられている人を助ける人と、どちらを好むかという選択をさせるものだった。結果は英誌"Nature"に掲載されるらしい。

TVでは「正しいかどうかは乳児もわかっている」と話していたが、正しいかどうかではなく、善い行動かどうかであろうと思う。

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小生がいつも感じるのは、「それは正しい」と人がいうとき、単に「私はそれが好きだ」とその人は言っているだけだということだ。

大体、人というのは自分が好きなことをやりたいものであって、やりたいことは正しいことだと考えたいものだ。

それが好きだと感じる人が社会の半分以上を占めるとき、その社会では「それが正しい」になる。要するに、それだけのことではないか。

好きか嫌いかに意味がないなら、正しいか正しくないかにも意味はない。

それは正しいというとき、理にかなっていると言いたいのか、善いことであるのか、それとも「美談」というか行動として美しいと言いたいのか、何を主張したいのかを明らかに述べることが必要だ。

「それは正しくない」というときも、「自分はそれが嫌いだ」、「そんなことはしたくない」という主張を超える実質を話すべきだろう。

2017年2月4日土曜日

メモ: アメリカの「尖閣諸島は安保対象」をきく本筋

昨日のTVワイドショーでも今回初来日したマティス米国防長官と安倍首相がどんな会談をするかが話題になっていた。

なにしろ「ワイドショー」である ー だからどうとか言うつもりはないのだが。

そこに登場していた(何という名前の人だったか失念したが若手の専門家であった)こう話していた(個人的に考えているという断りを入れていた)。

「尖閣諸島を守る」というのは(著者追加:万が一そんな事態になれば戦略的意味合いからも)結果として守られない約束だと思います。守られるはずのない約束を引き出すために、本当に重要なところでアメリカに譲歩するのは日本の国益に反していると思います。
いやあ、この人は頭のいい人だなあと感心した次第。ワイドショーも侮れない。意見にはまったく同感だ。

ま、中国にも賢い人はいるに違いない。「尖閣諸島」を獲ることのプラス価値は、その行為によって予想されるマイナスの戦略効果を計算に含めると、それほど高いとは思われない。故に、中国が「尖閣諸島」を力で獲りにくるとは予想し難い。むしろ、そんなアホな行動をとるなら与し易いのである。

アメリカとの関係で「守られるはずのない約束」を引き出すために、内実のある譲歩を自らするというのが国益に反するなら、「獲りに来るはずのない無人島」を仮想敵から守るために現実のコストを支払うのも、日本にとっては愚かなことであろう。

感心したので、メモに書いておこうとおもった。

2017年1月31日火曜日

アメリカ: 『申酉騒ぐ』の酉の震源地

この週末は卒業生による最終発表会の2回目、それから入試関係と連チャンであった。齢からくるヘルニアが気になる小生としては、乗り越えるべき高い壁であったが、無事過ぎていったのは冥加に尽きる。明日はまた担当科目で最終プレゼンがある。とにもかくにも2月第1週であらかたケリはつく。

◆ ◆ ◆

昨年は『申酉騒ぐ』の申(サル)だった。一つは英国のEU離脱、もう一つはトランプ候補の当選。酉年の今年も騒ぎは続くはずだ。何か騒動になりそうなことが直ぐにあるかな、と。景気は上向きのはずだがと思っていたところ、昨年の申(サル)が年を越して酉(トリ)に化けたようだ。「アメリカの新大統領がここまで世間を騒がせるとは想定外であった」というのが世間の最大公約数だろう。

やはり酉の元凶は米国の大統領であったな、と。いやあ、さえずる、さえずる・・・

ここまでやっちまったら、今更方向転換は難しいし、何もしなければ国際的政治不安・統治不安で株式市場も暴落するだろうー実態は変わらないので投資には好機と言えるかもしれない。

長官人事が議会で承認されない限り、政権は稼働しない。与党である共和党が見限れば、選挙で票を投じた支持基盤もあからさまに支援もできず、多分2年は愚か、1年たたずに実質レイムダック化するというアメリカ政治史上稀に見る、というより新記録となる失敗に至る可能性も出てきた。

100年前のアメリカではウッドロー・ウィルソンという実に人格高潔な人物が大統領に在職していた。民主党政権である。そのウィルソン大統領が創設しようとした国際連盟への加入が議会で認められず同氏は失意のまま職を去った。その後をついだのが共和党のハーディングである。この政権はスキャンダルが相次ぎ、ハーディング大統領本人も2年余りののち病死してしまった。歴代大統領の中では、常にワースト1を争っている人物という --- 近年は再評価の声もあるらしいが。なんとなく歴史は繰り返すような錯覚に陥るではないか。

まあ、ブッシュ政権をハイジャックしたかのようであった”ネオ・コン”とは違って、独断独走、いきなりドンパチやるよりは、余程平和なお人じゃあござんせんか、ともいえそうだ。

今はまだまだ世間の目も余裕があるが、これからはどうだろう。

それにしても、日本の安倍政権はトランプ新政権(?)との距離のとり方にはいま頭を悩ませているに違いない。何度もあって話をして大丈夫なんでござんしょうか。

2017年1月25日水曜日

公私の公と育休との関係

幾人かの知人の宅にこの春出産の慶事が続く見込みである。生まれると忙しくなるからと、カミさんと友人たちは今のうちにランチなど、やりたいことはやっておこうと相談している様子だ。

ところが、忙しくなるねと話を向けると、お祖母ちゃんになるはずの知人は「旦那さんが育休をとってくれるから、案外、行かなくてもいいのよ」と話しているよし。と同時に、育休を一週間申請したのだけれど、中々認めてくれなかったのよ、それで4日間とるの、と。そんな話をしたそうな。

ずっと昔になるが、小生のカミさんが上の息子を出産した時は、ちょうど小生が異動した直後にあたっていたのだが、前任者がすでに早い夏休みをとってしまったからということで、小生は休みをとれず、カミさんは一人で産み、一人で官舎に戻る、そんな夏を過ごしたものである。今思い出しても、酷い話だと思う。カミさんは両親を早くに亡くし、誰も手伝ってくれる人がいなかったのだ。

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多忙な時に育児休暇をとるのは日本人は苦手である。今でもそうではないだろうか。

囁かれる言葉は同じだろう。
出産といっても所詮は私事じゃないか、私ごとを職場に持ち込むとはなあ・・・
よく聞いたものだ。この言葉は。

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いま政府が旗をふっている「働き方改革」。この辺の意識を根本的に逆転させることが目的なら、小生も大賛成である。

小生の職業経験を総括して思うこと。
公私の「公」などというものは、本来、存在しない。あるとすれば、それは公私の公を自称している特定の人間集団がいるだけである。存在しているのは、公私の私だけである。
「働き方改革」を進める上で仮想敵を置くとすれば、公私の公は私ごとの上にある、こんな無意識にある支配関係であるに違いない。

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明治以前においては、多分に日本社会は家門や一族が「公」よりも優先される社会であった。公私の「公」とは、社会を構成する私的集団の利益を守るためのツールであり、私的利害の調整システムが、すなわち「公」と呼ばれる仕組みであった。

明治になって徴兵制が始まり、国民皆兵となり、陸海軍が組織され、利益よりは国防、個人よりは国家、こんな風に私ごとよりも「公」が優先される社会になり、それが意識としても共有されるようになった --- これこそが「軍国主義」であると誰かから批判されれば、そうですねと言ってしまうかもしれない。

「育休」、というか「忌引き」、「法事」などなど、類似の公休制度を迷惑視する企業文化は、明治以後の中央集権文化の名残りなのだろう。

2017年1月22日日曜日

組織と仕事、働き方

昨日は卒業年次生による発表会で審査員(とある時間帯の司会)を務めるため朝から夕刻まで缶詰状態になった。

それでも昼がくれば昼休みはとる。小生は、同僚と連れ立って隣のビルの地階にある行きつけのカフェに移動し、日替わり定食を注文した。昨日の献立は生姜焼きだ。腹にもたれそうだが、まあ、いいだろう。

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こないだ後輩から年賀状が届いたのですけどネ、その後輩は何十年か前には英気溌剌、文字通り青雲の志が外からもアリアリと見えるような、ある意味で野心のある人物でもありましたが、年賀状にはね、退職してから3年、毎日毎日が淡々として過ぎていきます、と。 
なんだか暗いですねえ・・・ 
まあ、不幸というわけではないのでしょうが、その人だけではなくて、私と一緒に仕事を始めた人は、みんな「ああ、この仕事を続けていけばいいんだ、この道を歩いていくのが自分の人生なんだとね」、△△先生も会社に入った時、そんな風に思いませんでしたか? 
尊敬する先輩が一人いましてね、仕事に没頭して家庭を顧みなかったんですね、お子さんの一人が自閉症というんですかね、で奥さんが大変苦労されて、そのうち「別れたい」という状態になって実家のお父さんに相談したんですよ。それで義父からその先輩に話したそうです。人生で一番幸せなことは何だと思う、と。それは自分のベターハーフと出会うことだ、と。人生で一番高いコストにつくことはなんだと思う、と。それは離婚することだ、と。その先輩は、ハッと気がついたそうなんです。 
そう、人の話をきいてハッと気がつくのは知性の証拠なんですよ。凡人は、そこで反発します。 
その先輩は、理解して、自分のライフスタイルを変えることから始めたんですよ。まず会社をやめて、別の仕事を始めたんです。働き方を変えて、家庭を二人で育てるために仕事をするんだという方向に自分を変えたんですよね。 
いやあ、いい話ですねえ。理解し、その理解に基づいて自分自身を変えて、そして実際に行動にうつす。これが出来るというのは、その方は本来的な意味で知性をお持ちだ。私が仕事を始めてから、漫談じゃありませんが「あれから40年」、いまや死屍累々ですよ。後輩で若死にした人もいます、先輩で自殺をした方もいます、海外へ赴任したあと奥さんが現地で自殺した方もいます、鬱病で一生を台無しにした方もいます。 
それ、母数はいくらなんですか? 
それほど大所帯でもありませんでしたから、そうですね同じクラスの先輩、後輩を合わせても、せいぜいが100人、まあ100人ちょっとというくらいでしょう。どうです、かなりの確率でしょう? 
先生は、幸福そうですよ、少なくともそう見えますが・・・ 
長い歳月の果てに明暗が別れてくる、そういう意味ではそうなんでしょうが、まあ私はタンポポのようなものですよ、独りだけ離れて風に吹かれてきてそこで自生してきたわけですからね。ただ、ハッキリ間違っているのは「仕事が生きがい」とか、「仕事にかける」という目標感ですね。仕事の場には幸福はない。これだけは真実です。職場というのは、というか組織になれば尚更ですが、目的というのがあって、その目的を追求するのが組織ですよ。組織の幸福なんてありません。その中で働いている人の幸福をもたらすための会社などありませんよ。激烈に勝負をかける組織には勝てませんから。原理に忠実な組織のほうが強いんですよ。幸福は個人に訪れるもので、パートナーである家庭で実現するべきものですよ。それは職場では決してありません。 
仕事が生きがいだっていうのは、確かにビジネススクールに通う面々はよく言いますよねえ・・・私、思うんですけど、幸福の条件って何だろうと。病に悩んでなく健康である、良きパートナーと人生をともに歩んでいること、そして安定した収入があること。この三つがあれば・・・
それは「幸せの姿」そのものですね。私のカミさんはミュージカルの「キャッツ」が好きなんですが、聴かせどころがグリザベラという零落した娼婦猫の歌う「メモリー」でしょ、独り月明かりの小道をたどっていくと、思い出が蘇る、それは幸せの姿だ、と。
孟子も『恒産あって、恒心あり』っていうじゃないですか。
落語にもあります『食う寝るところ、住むところ』ってね。国家レベルでもそうですよ。確かに、経済政策は大事です、しかし安全保障はもっと大事でしょ。個人レベルからみても、確かに収入を増やすことが出来るのは大事です、でも生活保障はもっと大事なんですよね。 未来に幸福が見えなければ人は生きていけませんよ。その場は職場でなく、家庭なんですが、最近の制度は方向がずれてきていると思いますね。

残念ながら、ここまで話した時に昼休みはそろそろ終わりになったので、茶飲み話はそこそこに店を出て、元の発表会場に戻っていった。


2017年1月16日月曜日

豪雪の入試センター試験: これはマスト(MUST)なのか

入試センター試験は監督者にとってもハードワークである。それでも10分間の休憩時間には色々な雑談をして気を紛らわせる。

ずっと昔は「共通一次試験」と言ってましたナ。懐かしいですよ、あの頃はもっとホンワカした雰囲気でやってました。 
これががいいんだという確信がありましたね。 励みがありました。
センター試験に名前が変わってからも暫くはそんな雰囲気でしたよ。何人かが入るんですが、交代で休憩時間をとって研究室で体を伸ばしたりね、そんなこともありました。 
だいたい、その頃の監督要領、薄かったですよね・・・いまの半分くらいじゃなかったですかね。 
(若い人が)それ、ホントですか? 
何かあるたびに、分厚くなって、監督者は休憩してはいかん、書いてある文言のとおり一字一句そのとおりに読めとかね、・・・ 
いまのようなセンター試験を続けたいと思っている人は、どこにいますかね?少なくとも大学関係者でいまのまま続けたいと思っている人はいないでしょう。 
高校でやるって話がありましたが・・・ 
高校も断っているんでしょ・・・
受験生も、いまのようなやり方がいいとは感じてないと思いますよ。だいたい、インフルエンザは流行る、寒い、豪雪になるかもしれない、行けなくなるかもしれない、時期も時期だ。
 そもそも最初の「共通一次試験」。フランスの大学入学資格試験(バカロレア)、ドイツのアビトゥーアを模範にしていたことは歴然としている。

確かに、個々の大学が独自の試験問題を課し、大学ごとに難問珍問を競い合うように出していたとすれば、何とかしたいという問題意識は出てくるものだ。なんとなくそんな記憶は残っている。

しかし、理想と現実はあまりにかけ離れてしまった。

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大体からしてフランスのバカロレアは、毎年6月中旬の一年でもっとも気候のよい時期に行われる。ドイツのアビトゥーアも厳冬期は避けて実施されている。

なにより欧州の大学入学資格試験と日本の入試センター試験が質的に異なるのは、試験合格によって若者にいかなる資格を与えるかという、その社会的役割である。

日本のセンター試験は、せいぜいが国公立大学の(その年の)二次試験受験資格を得るくらいのものである。しかも、一流大学の合否はその大学が実施する二次試験の得点でほぼ決まってしまうのである。

いやあ、この程度のことをするなら、歯を食いしばって根性でやらずとも、もっと合理的な方法があるだろうにねえ・・・

これもまた、「惰性」の一例じゃないか、そんな雑談をして、「まあ、いまは仕方がないですよね」と。

受験生も「仕方がないよね」と言いながらやっている。

仕方がないとぼやきつつも、マアつきあってくれるので、文部科学省は「分かっているが、もう少し頑張ってくれ」と。この辺りが本音ではないかと推測している(裏はとっていない)。

とにかくも、この悪しき共生システムは、もはや持続可能ではないと見るべきだろう。


2017年1月15日日曜日

「イバショ(居場所)」の話から共生関係、更には公私の公について

昨日は1年ぶりの(当たり前だ)センター試験監督をやって疲労困憊した。あれは受けるのも若者、監督をするのも若者、どちらにしても若者が取り組むべき、というか取り組める課題である。体がついていかない。

今回から壇上でシナリオを語る主任からは解放された。それでも一人また一人と手が挙がり、細かいトラブルが何度かある。そのたびごとに事務から参加したKさんに助けられた。Kさんは、まだ若い女性職員だが、対応準則に精通していて(=事前によく勉強していて)テキパキと応じることができた。感謝にあまりある。


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これが契機になった、というわけではないが、人が生きる上で最も必要とするものはなにか?椅子に腰を下ろして、そんな瞑想にふける・・・・・・



カネか?経済学者なら労働報酬と余暇の最適な組み合わせを分析するに違いない。それともモラルか?哲学者なら幸福に至る道としてのモラルを議論するだろう。

「やはり自分の居場所ではないかなあ・・・相手が自分に感謝し、自分も相手に感謝するような人間関係、単に雇ってもらいカネを毎月支給してくれる、それだけでは人間、やっていることを続ける気にはなれないものさ・・・」、と。まずこんな風に「居場所」が見つかったのかどうかが大事だと考える。


「居場所か、そういえば女性の人生というのも現代社会ではかなりリスキーになっているねえ、結婚をすると、子供ができると、それで仕事をやめて専業主婦になるとする。夫となる男性が自分のために生きてくれるか、自分は夫となる男性のために生きることができるか?この点がリスキーであればあるほど、自分のカネを確保しておきたいと、そう考えるかもなあ、・・・で、仕事が大事だ、仕事が大事となれば、自己表現になっているかと、議論は広がるねえ・・・」、まあ、確かに男性は働いて自分の食い扶持は自分で稼ぐことを当然だと考えている(人が多い)。女性は、そこが選択肢になっているのではないか。

これは「男女間の意思決定非対称性」かもしれないねえ(こんな用語はないと思う)。


「どちらも相手を必要としている、そんな共生関係が確立されているとすれば、というか家庭というのは本来はそういうものだったのだろう、夫のカネは夫のカネとは限らない、自分のカネも自分のものとは限らない、こういう共生の場が法制度に織り込まれていた時代も確かにあったのだけどねえ・・・この20年間、社会は進化してきたと言えるのかねええ・・・」

こんな風に思案をめぐらしていると、また一人、受験者の手が挙がる・・・ヤレヤレ


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徳川幕府は、自らを「公儀」などと名乗っていたが、本質的には単に「巨大な私的存在」でしかなかった。私的な存在が公的な存在であると自称することができたのは、それ以外の民(=国民)にとって平和をもたらす幕府という存在が望ましかったからだ。幕府は私的な勢力にすぎないが、収入源となる民が必要であった。

幕府は、競合し敵対的な勢力と競争をして勝った私的な勢力にすぎなかったが、一度、無数の民との共生関係ができてしまうと、他の私的存在にとっても幕府を「公儀」として受け入れるほうが得であり、こうして日本社会全体が共生システムとして完成されることになった。

要するに、大小さまざまな私的存在がそれぞれの居場所を得たわけである、な。だから、平和が続いた。

ゲーム論的には「ナッシュ均衡」に該当するが、これもまた「公なるものの本質暴露」であろう、といえば社会学になってくるか。


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本来的には私的な存在であった幕府を倒したのも、私的勢力であった薩摩・長州といった反幕勢力であった。その勢力が、天皇を中心とする明治維新という名で「公」を名乗った。

本来的には「巨大な私的勢力」である存在が、大多数の国民との共生関係を築こうとするとき、必ずモラル的な根拠を模索する。「正しい」という根拠だな。それが天皇という存在であった。

ここで、すべてが居場所を見つけたことになる。

明治政権は、本当は私的な勢力そのものであったが、それが公的な政府になりえたのは、その時代の日本人全体にとって明治政権を認めることが利益にかなっていたからだ。共生関係が(短期間であるにもせよ)再構築されたわけだ。

★ ★ ★

その時の「政府」も本質的には私的存在である。

国民にとって本来の公的存在とは、互いに必要としている共有の資産でなければならない。これがコモンウェルス(common wealth)だ。具体的には、文化や慣習、伝統、家族制度、祭事、宗教、その他もろもろの要素がある。

政府や法制度も、国民の側からみれば本当はコモンウェルスであるはずだが、権力とは本当は「巨大な私的存在」であって、実際には他国(と国内の他勢力)と競争しているネーション(nation)として機能しているのであって、「国」といっても、本質的には私的な存在であるとみるのが真相だと、最近思うようになった。

本質的には国民の利益とは別の自己利益を自由に求める私的な存在であるのが「国」である。本当はこうだろう。そう思うようになった。まあ、そうは言っても私たち国民との共生を国は認識している、と。その仕掛けが民主主義である、と。確かに、理屈は通っているが、理屈は理屈である。マスメディアがよくご高説として述べる「民意=国家」など、欺瞞である。これはフィクションである。日本人なら誰でも知っている。

この点では、サッチャー元英首相の次の名言にますます与する者である。

 ... there is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families
Source:  http://briandeer.com/social/thatcher-society.htm


よくいう「国益」とは、安定した共生関係が形成されていれば「国民の利益」だが、単に私的勢力としての「国の利益」でしかないケースは無数にあったし、これからもあるだろう。

本当は私的な存在である「政府」が、公私の「公」を名乗るのは、幕府が公儀と自称し、明治政権が国家を名乗ったのと同じであるとみるべきだろう。

とはいえ、政府や国が本質的には「巨大な私的存在」であるとは、特に民主主義社会では、憲法、法律、さらには「民意」と呼ばれるものに隠蔽されて、見えなくなっているものだ。共産主義社会であれば、もっと露わであるのだが。

★ ★ ★

日本人が生きていくときに、人生そのものは私的なものである。

公私混同がよく社会的に批判されるが、公私混同を批判する社会的な勢力もまた本来的には巨大な私的勢力にすぎないことは、普段からよく見ておかねばならない。

真の意味での「公」、つまりコモンウェルスなり、真にパブリックなものの実体といってもいいのだが、それは厳密に私的な存在である一人ひとりの日本人の感性によるものだ。



・・・まあ、昨日はこんなことを瞑想させうる程度まで、じっと忍耐の丸一日であったわけだ。もう二度としないとなれば、それでも少しは寂しいかもしれないが。

2017年1月12日木曜日

「もういいかな」という時機は確かに転機になる

「そろそろ潮目か」という言葉は、命をかけて戦った侍たちにとっては慣れた言葉であったそうだ。

何事も好機というのがある。正しいことなら常に正しいのであるという理屈は現実には機能しないのだな。「潮をみる」、イメージの悪い言葉を使えば「風を読む」というのは、実際の問題を解決する職業人集団であった武士という階層の経験知・集合知であったのだろう。「結果責任」とはそういうことを言うのだろう。

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カミさんにいつもいうことがある。『必要最小限の親孝行ってなんだと思う?』と先に聞いておいて『それは親より先に死なないことさ。俺のオヤジはすごかったけれど、親より先に逝っちまった。最小限の親孝行ができなかった』、こんな風に語っておいて『次はなんだと思う?』ときく。「??」、で続けるのだ。『還暦まで大病をせず、一度も入院せず、曲がりなりにも無事是名馬を貫くことさ』と、そう締めくくる。

オヤジができなかったことを長い時間をかけてやり遂げたってのは褒めてくれてもいいんじゃないのかなあ

言いたいことはこれなのだ、な。

もういいんじゃないのかな。最近になって、色々、体のパーツの耐用年数がきている。手術を受けてメンテしたり、入院したりするのは、もう「親不孝」には当たらんだろう。

それで市内の総合病院の外科で診察を受けたら「やっぱり鼠蹊部ヘルニアですね、手術をしないといけませんが、急ぐことはありません。いま忙しいのであれば、2月にこられた時に予定について相談しましょう」。

吉田松陰が言ったように人生四時あり。生涯は、春・夏・秋・冬という四つの季節に分かたれる。
十歳ニシテ死スル者ハ、 十歳中自ラ四時アリ
二十ハ、 自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ、 自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ、 自ラ五十 百ノ四時アリ
春には春の過ごし方があり、冬になれば冬の過ごし方をすればよい。齢をとってから出来ることは齢をいかにしてとればいいかという姿を後継世代に見せることだろう。

まあ、やりがいのあることでもある。だから、もういいかな。そう思うことにした。ヘルニアくらいでこう書くのなら、癌になったら何を書こうか。そちらが難しいか、と。そんな気もする。

2017年1月8日日曜日

これもへそ曲がりの「暴露戦術」か

へそ曲がりとは、イコール偏屈という意味である。

そういえば、永井荷風は何度かの転居のあと、麻布区市兵衛町に洋風の寓居を建て、昭和20年の東京大空襲で焼け出され、岡山に疎開するまではそこで暮らした。場所は、市兵衛町一丁目六番地というから、いまの町割りで言えば六本木界隈になる。その家の名は「偏奇館」と呼ばれた。ペンキ塗りであったからと説明されているが、字の当て方に永井荷風の人柄がよく表れている。

★ ★ ★

小生も偏屈である。そんな捻じ曲がった目から見た感想を二つ。

ワイドショーでは芸能人の結婚話し、離婚話しが今年も話題だ。

思うのだが、あれは芸能人のマーケティングではないだろうか。世の注目を集めるには、それなりの戦略がいる。ビジネススクールでは、そんな専門用語は使っていないが、芸能業界という市場では「結婚戦略」とか、「離婚戦略」という行動には明らかに利益効果がある。巧みなプロモーションとシンクロさせれば、立派な戦略的行動である。

まあ、いくらなんでも「不倫戦略」というのはない(と思う)。観察していると、やはりイメージ悪化によるマイナスが歴然としているからだ。関係者には愛嬌をふりまくソフトコミットメントをしつつ、実は戦略効果がマイナスであるような行動をとることを「ヤセ犬戦略」と呼んでいるが、ひょっとするとこんなカテゴリーに分類されるかもしれない。

★ ★ ★

個人的に不思議に思っていること。

韓国で流行している「少女像(=いわゆる従軍慰安婦像)」。あれはレプリカであろう(と推測している)。

なんと言う名の彫刻家が制作したものか、うかつなことに名を思い出せない。まだ知らないのかもしれない。

が、一つ言えることは韓国内で、さらに世界の各地で、同じ(マスター作品から複製されたとしか見えない)彫像レプリカが設置されるとすれば、製造している芸術家(?)、というよりメーカーかもしれぬが、相当の売上増加効果を享受できる。

あれは「反日」という共有意識に名を借りたマーケティングと観るなら、カネが絡んでいるだけに掛け声だけでは沈静化しないであろう。

メディアは韓国の国内政治になっていると解説している向きが多いが、もう一つ「従軍慰安婦はもはやビジネスになりつつある」と。これも無視できんなあ。

もし従軍慰安婦像が韓国内の反日感情の表われと見るなら、同じ彫像が毎回登場するのはあまりにも不自然であり、他にも多くの彫刻家が同じテーマで作品を発表するはずである。また彫刻ばかりではなく、絵画や壁画という別の形式でもやはり同じテーマの作品が続々と出て来ているはずである。

同じ彫像のレプリカが毎回出てくるのは、なんらかの理由で参入が妨げられているか、あるいは「ビジネス」としてはリスクが高すぎる。そんな思惑が韓国側にあるためではないか。

小生は興味津々でそんな風にみている。

★ ★ ★

いやはや、身もふたもない話だ。

「身も蓋もない」というのは、結局はカネですよね、という観点から(一見)高尚な理念を相対化してしまう議論であり、ディベートではこの戦術を「暴露戦術」というようだ。

2017-1-9加筆:
作者は確かめた。やはり知らなかった -- 見たことはあったのかもしれないが。また、他の作者による像も出てきているとのことだ。とはいえ、TV画面を通して見る画像はレプリカに見える。

美術を通して政治的主張を行ってはいけないという理屈はない。ピカソの「ゲルニカ」は有名な一例だ。真の美術作品は人を立場によらず感動させるものだ。

いわゆる「少女像」がどう受け止められていくか、観られていくのか。それは世界の多数の人たちが自ら決めていくことである。普遍的価値がもしそこにあれば、(歴史や事実はともかくとして)日本もその理念を尊重するべきだろう。これも戦略の一つの類型である。

それにしても、古代ギリシアやルネサンスの古典、はたまた阿修羅や十一面観世音像とまではいかないにしても、同じ具象的作品であれば大悲とも言えるような愛と許しを表現している見事な塑像をつくれなかったのか、と。そうすれば、右翼を代表する現政権を飲み込む津波のような謝罪が日本の側から湧き起こっていたはずだ。故に、あくまで政治ではなく、美術的力量の問題なのである。(ここに書いても仕方がないが)残念な心持ちを個人的に感じる。

2017年1月5日木曜日

『世の中の役に立てればと思います』への深い疑問

若い人の抱負が(いつ誰がとまでは思い出せないが)よく新聞、TVなどのマスメディアで語られることがある。『人の役にたつことをしたい』と言う。よく知られた著名人でなくとも、普通の若い人が『だれかの役に立てる人になれれば」というのを聞いたこともある。

小生、相当のへそ曲がりであることは何度も断っている。

深い疑問をもつ。

★ ★ ★

別に自慢することではないが、小生の両親は『たくさんの人の役にたつ人になりなさい』という風な意味のことを小生に云ったことは一度もない(と記憶している)。

何度も聞いて耳にタコができてしまったのは『いい人が早くみつかるといいわね』とか、『何になりたいのかね』とか、要するに一言で言えば『幸福ならそれでいいんだ』ということが趣旨ではなかったのかな、と。そう思っている。

結局、人は「いい人」を見つけて、「やりたいこと」をやって、子供を「いい人間」に育てれば、生まれた時に負っていた義務は100パーセント果したと言えるのだ、というのがいまの考えだ。それ以外に何がありますかね・・・あったらご高説をきいてみたいものでござんす。まさか「仕事が」なんておっしゃるんじゃござんせんよね。

親になった立場から顧みてもまず絶対にそうであって、何を子供に願うかといって『人の役に立ってほしい』とか、『社会に貢献できる人になってほしい』とか、そんなことを考えたことはない。あえていえば『人に迷惑をかけるような人にはなってほしくない』。これは普通の人の最大公約数的な共通意識だろう。

富国強兵、軍国主義ではあるまいし『国家有意の人材』であれなど、本気でそんなことを語る人が今時まだいるとは考えられないのだな。

それでも、よくそういうセリフを口にする。

★ ★ ★

それほど昔ではないある一時期、『楽しんで来たいと思います』という風な発言が流行したことがある。

(不思議なことに)決して評判のよい言い方ではなかったと記憶している。

まあ、確かに(たとえば)税金で世界大会に派遣されておきながら、「楽しんできます」と選手当人がいえば、「お前の楽しみのためにカネを出しているわけじゃない」と、そんなクレームをつける人もいるのだろう。だから(というわけじゃないと思うが)「楽しんできます」というのは下火になって来た。

小生も下の愚息に『お前の仕事は楽しんでやる仕事ではないだろ』と話したことはある。が、だからといって滅私奉公が第一だというつもりは毛頭ない。最高に善なるものは「幸福であること」。これはソクラテス、プラトン以来の西欧哲学の源流で、この出発点から幸福へ至る道としてのモラルが議論されるわけなのだがj、日本では人の役に立てることが幸福で、無用の人であるのは最大の不幸である。これが実際に多い見方ではないだろうか。

逆である(と思う)。

人の役にたつかどうかなどは結果論ではないだろうか。人の役にたてなくとも良いではないか(貧乏ではあると思うが)。足るをしれば心は平穏になり、人にも優しくなれるものだ。いまやっていることに満足すれば、幸福への第一歩をきざめる。そして、これはそう難しいことではないのだ。

真の意味で人の役にたつことこそ難しい。「役にたつ」というのは、「役にたつ=カネをもらう」であるから、限りなく「金持ちになりたい」という意味にもなるのが資本主義社会であると云ってしまうと、身も蓋もないか・・・。それとも、実際「役にたつ仕事をどんどんやって、どんどんカネをもらいたいです」と。これが趣旨なのだろうか。

人の役にたつことを目標にすれば、イライラし、疲れ果て、蔓延するのは偽善ばかりになるものだ。そこに幸福はないのではないか、と。そう思う今日この頃である。

またまたへそ曲がりの感想を書いてしまったなあ・・・

2017年1月4日水曜日

断想 ー 正月三が日にしては重い話ではないか

昨晩、どこの局かは知らないが、いかにも正月風のバラエティにカミさんがチャンネルを合わせているので何気に見ていると、いじめの加害者の実名を公開するべきかどうかという話をしていた。

いちいち、ここで話の内容を紹介する必要はないと思う。実際、TV画面でも喧々諤々、丁々発止であって、大体からして結論の出る話ではない。

一つの疑問:

ある出演者が「加害者が更生するためには実名報道は障害になる」、「実名が公開されると、加害者の人生はもう終わってしまう」と、こんな意見を述べていた。

ふ〜〜〜む、なるほどネ、合理的な意見だと思った。戦後日本の常識にも適っている。

と同時に、何気にこの意見をきいた瞬間に感じたのが、以下の疑問だ。それは「更生」という日常生活では使われていない(はずの)用語の意味である。

被害者の生命を奪った加害者は、「更生する(≒ やり直す)権利」を持っているのか、それとも「更生する(≒ 社会に貢献できる人間になること?)義務」を負ったのか?

どちらの観点に基づいて現代社会の法なるものはあるのかという点だ。

+++

別に「いじめ」に限る話ではない。

『加害者も更生しなければならないので・・・』とよく言われるが、この「・・・なければならない」というのは、いかなる意味でそう言っているのか。なぜ更生しなければならないのか。人間にはそもそも生まれ持った宿命や業というのはないのか。ありのままではいけないのか。更生しなければならないのかどうか決して自明ではないと小生には思われる。

更生する必要はない。その時の事実とその時の状況に応じ、社会がなすべきことを道理に基づいて決めるのが加害者に対する正しい姿勢である。こんな意見をいう人がいるとすれば、これまた自然だと(小生には)思われる。

加害者が更生するための措置、環境づくりをなぜ社会はとらなければならないのか。それは社会の義務なのか。であれば、加害者は「更生する権利」をもつわけだ。本当にそうなのか。そういうことにしているだけではないか。これまた決して自明ではないだろう。

そもそも「更生する」とはどう定義されるのか。

あらゆる罪は、「償う」ことで加害者は「更生可能」なのか。いかなる犯罪もその後の社会的貢献により埋め合わせることができるのか。

埋め合わせるとはどういうことか。一人の人間の命の喪失とその後の社会的貢献の度合いをそれぞれ量的に比較して、「埋め合わせた」と判定できる瞬間がやってくるのか。これに回答できなければ「更生」という言葉は使えまい。これもやはり自明ではあるまい。

自明ではない大前提にたって現代社会の法は構築されている。

★ ★ ★

自明ではないことを前提するには、社会的な合意が要る。議論が紛糾し、判断が分かれるなら、それは合意が困難であることを示唆する。

法には理念が込められるのが常だが、これにも自ずから限界がある。合意困難な理念は法の前提とするべきではない。法に納得できない人が多数発生するからだ。

・・・

こんな考察を述べたレポートがもし提出されたなら、ロジカルである点を高く評価しようと思うが、(小生なら)「秀」にはしないなあ。

この議論には大事な要素が抜け落ちている(ような気がする)。


2017年1月2日月曜日

雑話: 宗教としてのイスラム教、その存在感について

謹賀新年。

歳末は猛吹雪に毎週三連発で見舞われたが、年があけると文字通りの雪晴れ。今日は気温も上がり実に過ごしやすい。ただ、10日間予報をみると当面は雪が降らないとのことだ。そうなると、14、15日の入試センター当日頃に暴風雪がくるのではないかと、また心配になる。

どちらにしても、厳冬期に大学入試をやるなどと、北海道型天候を標準にすればありえない制度だ。

大体、新学期といえば9月が世界の主流だ。欧米もそうであるし、中国、台湾もそうだという。フィリピンは確か6月だ。

政府の会計年度とは関係ない。米国の会計年度は1月から12月だ(もっとも連邦政府は10月から9月まで)。中国、韓国もそうである、な。

もし世界の大勢に沿って9月新学期をとれば、センター試験は初夏の頃、各大学の二次試験は盆明けになろう。いいではないか。正月明けの厳冬期にセンター試験をするよりよほどいい。日本の各地とも最適の季節になるのではないだろうか。

★ ★ ★

トルコ、モロッコなどイスラム文化圏ではどうなのだろう・・・と思って調べてみたが、やはり9月新学期であるようだ。

そのイスラム教国はどこも政治的混乱のさなかにある。

★ ★ ★

20世紀の初め第一次世界大戦停戦までは中近東全域はオスマントルコ帝国が支配していた。トルコ帝国は、15世紀にギリシア人による最後の帝国であるビザンチン帝国を滅亡させ、16世紀にはスレイマン一世の治下、(ペルシア全体を支配することはなかったが)輝かしい黄金時代を迎えた。その後、ロシア帝国の南下から圧迫を受けたものの、スルタンカリフ制の下でイスラム教徒はほぼ統一的に支配され、ヨーロッパの列国とも十分に張り合えるだけの力と文化を有していたものである。イスラム教は一つの世界宗教であったわけだ。

その当時、一体、21世紀の現代という時代の到来を予想できただろうか。あまりにも違う。経済は愚か、文化的発信力の衰えが酷い。文化的膨らみを失った宗教的原理はもはや精神的な骸骨にしか映らぬ。

今日の中東、というかイスラム教圏の混迷と没落は、トルコ帝国の消滅に端を発する民族レベルの構造変化プロセスであるのだろう。

100年後にイスラム教という宗教がまだ「宗教」として実存しているかどうか定かではない。

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そんなことを言えば、宗教としてのキリスト教はどうだ?今日なお「宗教」として機能していると言えるのだろうか?こんな疑問もある。まあ、カトリックには確かにバチカンという存在がある。

確かにバチカンは存在し、教会はあり、人々は集まり、積極的活動もしている。しかし、エネルギーの噴出である宗教的対立、さらには宗教戦争がキリスト教社会から消え去って久しい。

アジアにおける仏教もそうである。いま浮世の世話をする儀式以上の意味を仏教はもっているだろうか。

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思いついたのは、「時間」という単純な数字である。

イエスキリストの死後、既に概ね2000年が経っているのに対し、マホメットの没後はまだ1400年弱である。釈迦に至っては2500年以上が経過している。

かつては、キリスト教国でも「魔女狩り」があったし、30年戦争もあった。宗教的エネルギーというのは、血で血をあらうような抗争をもたらすものなのだ。

シリア内戦などをみるとなるほど外国勢力の介入という要素がある。しかし、内部で対立しているから内戦状態が継続すると見るべきだ。信徒が統一されていれば、内戦ではなく、抵抗戦争なり、独立戦争になる。

宗教的エネルギーが宗派の対立を生み、外国勢力が拡大戦略をとる余地をもたらし、それがイスラム側に聖戦を宣言させる動機をつくると見るならば、それはそれだけ宗教としてのイスラム教がまだ「若い」せいかもしれない。

なので、平和が訪れるまであと幾世代かは必要かもしれず、その混乱に一般信徒が耐えきれず宗教的勢力としては消え去ってしまう可能性もある。そんな風に感じたりもするのだ。

どうもフリードマンの「100年予測』に感化されたらしい。