2017年10月23日月曜日

まとめ: 選挙のあとに

衆院選2017の結果は、各社の事前予測をほぼなぞるようであったので、実際の開票結果は予測の確認といったような塩梅だった。投票率が53.7%というのは関係ない。投票率が仮に95%であったとしても結果に大差はなかったであろう。基礎的な統計学でわかることだ。

やはり与党の圧勝、希望の党の自滅につきる。

これまでの投稿から抜粋するだけでも、総括としては十分なような気がする。

一つは9月29日付けの投稿から以下の下り。
マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。
見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。
やはり選挙の勝敗は経済や外交など各面のファンダメンタルズが最も決め手になることが再確認できたと結論してもいい。

北朝鮮、中国ファクターもそうだが、景気、雇用状況、株価動向、物価動向、対米関係、対アジア関係、対露関係等々、どれをみても政権交代を望むような情勢はなかった。森友騒動、加計学園問題が、選挙期間中に結局は大きな論点として議論が広がることがなかったのは、国民の目がゆがんでいるのではなく、それが現実のリアリティそのものであるからだ。実際、与党が大勝したあとの本日、日経平均株価は岩戸景気時の14連騰を57年振りに更新する15連騰となった。安心感である。このような情況で野党が与党に勝てる理屈はないのだ。

もしも民進党の左から右まで全てを小池代表が受け入れて、共産党とも協力して、日本新党ブームの再来を目指したとすればどうだったろうか?小生思うに、それでもダメだったと推量する。そもそも統一的政策提言がない以上、野合批判には耐えられないのだ。日本新党が成功した要素として、小沢一郎の『日本改造計画』があり、その小沢本人がバブル崩壊後の日本の政治で様々な仕掛けを進めていたことを忘れてはならない。

一言で言えば、今回の与党大勝は民進党が自ら蒔いたタネによるものであった。マイナーな森友・加計問題であっても、内閣支持率に執拗な打撃を与え続ける蓮舫・野田執行部の戦術はそれなりの効果をあげていた。少し見っともない戦術であったにしてもだ。そのまま不動の体制でいけば、安倍政権は支持率の低下から解散を怖れざるをえず、ジリ貧だったであろう。その体制が都議選の敗退の責任をとるという理由で覆ってしまった。そこに隙と混乱が生じた。安倍政権は当然の選択をした。そもそも、いつか好機がくれば総理が解散をしたがっていることは誰もが知っていた。それを民進党は自らが最も不利な状態でさせた。まさに「敗北の方程式」である。勝負はここで決まっていたのである。要するに、そういう事であった。前原・小池会談は、つじつま合わせで瓢箪から出たコマに過ぎない。後始末の茶番劇である。

リアリティを無視して、シナリオだけを書いても、うまく行くはずはなかったのである。

さて、もう一つは10月2日付けから。
頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。
キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。
今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。
世間では希望の党の小池百合子代表が、不評を通り越していまや嫌悪の対象にすらなった印象で落ちも落ちたりという感が拭えないが、そもそも上に引用したように、小池代表がやろうとしたことは、前原民進党代表が自らの手を汚してやらなければならなかった事である。前原代表をすら使い捨てにしなかったところに小池代表の甘さがあったといえば言えるだろう。かつ、そこに小池女史が政治家としての老獪さ、狡猾さがいま一つであることの証明をも見てとれるだろう。そもそも同女史が政治家として築いてきた実績はそう大きくはない。同女史が現にもっている政治家としての真の力量に限界があることはこの点からも明らかだ。

本当は冷静にそう見ておくべきだったのではないだろうか。「小池劇場」のプロデューサーは、ご本人というより、視聴率が欲しかった(と同時にアンチ安倍闘争を盛り上げたかった)マスメディア大手企業である。そうみれば、小池百合子といえども、マスコミに使い捨てられようとしている<政治女優>の一人に過ぎない。

2017年10月21日土曜日

メモ: 能力を構成する複数の次元

人生のかなりの割合を<仕事>というものが占めている。職業人生がうまく終わるか、失敗して終わるかは、その人の幸福を大きく左右すると言ってもよい ー もちろん仕事で失敗しても、家庭生活で埋め合わせられている人も多いし、この逆のパターンもある。ま、職業も家庭生活も両方ともうまくまとめたい。幸福へ至ることは西洋哲学では最高善とされている。善でありたいというのは、極めて論理的な願いなのだ。

幸福かどうかを結果、幸福を求めているその人の人間的要素を原因として大ぐくりに整理すると、瞬間的時間において考えるか、少し時間をおいた短い期間で考えるか・・・という具合に、能力にも複数の側面、というか次元がある。

いま現時点でどう話すか、何をするかを選ぶのは<感情>によることが多いような気がする。少し長めの時間をとった時に、是非や優劣の順序を決めるのは、やはり<理性>である。しかし、もっと長い期間をとったとき、方向軸がぶれず、一貫した努力を続けていけるかどうかは、理性というより<意欲>が大事だ。<意志>とも言える。そして、意欲や意志が適切であるかどうかは、最後にはその人の心の中にある<理念>が大事になる。では、その理念を形成するのは・・・。キリがないが、多分、その社会の慣習や伝統・美意識、宗教や哲学・世界観が軸になるわけで、マクロ的には<国民性>とか<民度>というものになって現れるのかもしれない。

この中で、いわゆる「頭がいい」というのは、理性の働きが速い、的確である、記憶力と論理的思考力が卓越している。大体、そんな意味をこめることが多い。頭だけではダメだというのは、感情の美しさや意欲、理念が高邁であるかどうかも同程度、というか一層重要であるからだろう。

ここまで書いてきて語呂合わせのように気がついたが、意欲といえば欲、意志といえば志だ。志(ココロザシ)といえばイメージが良いが、実は欲(ヨク)と一体のもの、実は同じものかもしれないねえ。そんなことだ。

2017年10月18日水曜日

メモ: 経済問題、最近の七不思議にまた二つ

今日時点で疑問に感じている点が少なくとも二つはある。なぜ本筋の議論をしようとしないのか、小生にとっての七不思議にリストアップした(もう七つは超えてしまったが)。

疑問1: 給付型奨学金の拡大
とりあえず簡単のため大学・大学院に議論の対象を限定しておきたい。「貸すのではなく、お金をあげるのだ」とすれば、どんな学生にお金をあげるのか、給付型奨学金の支給対象者の選別方法で紛糾するのは必至だ(授業料免除などは予算枠があるので学内で適否が審査されている)。 万が一、税金をドブに捨てるようなケースが発生するならば、どんな理想があれ、それ自体が悪(というより、退廃?堕落?)であろうから、支給による効果を最初にチェックするのは当然であろう。規模が小さいなら、世間の関心を呼ばずに「なんとなく支給」という方式もありえるだろうが、拡大するなら合理的に説明可能な方式を決める必要がある。これは非常な難問であるに違いない。
給付型の「学費支援」は日本は既に実質的に広範にやっている。 
公費で運営する国公立大学の授業料を一律的にさらに引き下げればよい。 
授業料をゼロにするセグメントがあってもよい。必要なら、国公立大学、学部・学科を新設したり、定員を増やせばよい。 
大学への合否判定で自動的にスクリーニングできるので来年度からでも実施可能だ。特に地方圏の子弟にとっては「希望の道」になる。経営の拙い割には不透明で国民の目が届きにくい私立大学を淘汰できるというプラスの効果も期待できるだろう。
戦前期は、陸海軍の士官学校、兵学校(現代の防大も同じ)、教員など教育指導者を育成する師範学校は授業料がゼロであった。ただ公費支給範囲がいかにも狭かった。が、経済的に恵まれない子弟が学問を志し、才能を開花させる道は提供されていた ー このことは日本が貧しさからスタートしたことの現れでもある。危機感の現れと言ってもよい。同じ危機感をもてば同じ選択につながるのではないか。
引き下げようと思えば簡単に引き下げられる国公立大学の授業料をまったく検討することなく、はるかに難しい制度設計が伴う給付型奨学金を議論するのは、やっぱり七不思議だネエ。そう感じてしまう。 

疑問2: 企業の内部留保課税
同じことは配当に対する分離課税税率を20%から(たとえば)30%に引き上げればよい。しかし、こうすると株主は配当で受け取るのではなく、内部留保による株価上昇という形でもらう方を選ぶはずだ。だから配当課税を重くしても税収は増えない理屈だ。 
故に、内部留保課税。目的は資本所得課税の強化である ー 資本課税にまで踏み込んでくると財産権不可侵とぶつかり社会主義に近くなる。同じことは所得税の累進度強化でも達成できる。アメリカなら共和党ではなく民主党政権がやりそうな政策である。 
配当・内部留保など資本所得に対する税率を引き上げるなら、日本企業に資金を投じる魅力が外国企業に比べて下がる。いまでも日本人にとってイギリス株を買うのは魅力的だ。というのは、配当の源泉税率はイギリス側でゼロである。加えて、イギリスでは法人実効税率が20%で日本の30%弱より随分低い(資料はここ、イギリスはもっと引き下げようと言っている)。それもあって英企業の配当利回りは非常に高い。だから日本株を買うより英株の方が有利だ ー アメリカ株ならいわゆる「配当の二重課税問題」があり複雑になるが、概して米企業の配当利回りは高く、米株有利の状況がある。今でも日本企業は資本調達で不利なのだ。 にも関わらず、もっと日本企業を不利にしようとしている。これは不思議である。
日本で新規事業が減れば、優良な就業機会が減る。収入は伸びず、低劣な仕事ばかりが増える。アメリカならこんな反対論が必ず共和党支持者から噴出して、与野党が伯仲するだろう。が、日本では「実は財務省も腹のなかでは考えていたのだ」などと、あたかも内部留保課税が正しい道であるかのような流れが出来かかる。これ、実に不思議だ。どちらが正しいなどと簡単に結論が出るような問題ではないのだ。
まあ、自民党政権では所得税の累進度強化は言い出せないだろう。分離課税廃止などは絶対無理ともいえる。これは自明だ。資本所得課税も言えない。だから消費税の税率引き上げを提案している。消費税率の引き上げは<党派的>と言えばたしかに党派的ではある。自民党の党益からみれば仕方のない選択だ ー 大衆福祉国家の理念が強かったヨーロッパは、それでも付加価値税20%の世界を築いているのだが。資本所得課税強化より穏やかな選択、たとえば所得税の累進度強化(さらには配当・譲渡益の分離課税廃止)を正面から訴えている政党が日本にないのは、やや不思議だ。低所得層から中の下までを減税、中所得層の上からは増税。人口でいえば利益を得る人が多いはずなのだが誰も言わない。近年の格差拡大は株式運用益の大小でほとんど説明できるはずだ。これを言う政党が一つもない。不思議だ。七不思議にリストアップしてもよいのだが、多分、ブレーンらしいブレーンがいないだけの話なのかもしれない。でなければ、自分の所得にとってマイナスだからかもしれない。

ついでにいうと、今度の選挙でどこかの党が口にしているベーシック・インカム。『私たちも言葉は耳にしています、良さそうネ、公約に入れておきましょうカ』という感覚で、まるで『サンタクロースが住んでいるお伽の国があるのヨ、そこではネ、・・・』という母の寝物語にも似ていて、どう考えておけばよいのか分からない。

2017年10月16日月曜日

一言メモ: これは本当に公選法違反にはならないのか?

2年ほど前に作った読書用メガネをなくしてしまった。ずっと昔の単焦点メガネはあるが、度が合っていないせいか、かけていると頭が痛くなる。「そろそろPCを使った統計分析実習は限界か」と感じてきたが、来年2月迄はやらなければならない。そんな事情で今日は隣町のS市にあるビックカメラまで出かけ、近くのテキストが読みやすい眼鏡を作ってきた。節約路線である。

選挙期間中というので駅構内のテレビでも選挙テーマのワイドショーを流している。と、KIOSKをみるとこんな広告がある。


余りの露骨さに呆れたので、帰宅してからネットの「週刊文春WEB」(本日現在)からコピーしたものである。

これは「希望の党」という政党の代表を誹謗している以上、特定政党に対するあからさまなネガティブ・キャンペーンである。発売は12日だから公示日より後である。

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個人としてブログを投稿している小生ですら、選挙公示日の10月10日以降は特定の候補を貶める、あるいは逆に特定の候補をもちあげるような文章を書くのは、なんとなく気が引けて遠慮している。一般有権者の中のたった一人でも、やっぱりネ、そんな感覚だ。もちろん一般有権者はブログやツイッターで特定候補者を応援することができる。落選運動も可である ー 但し、メールによる依頼は駄目だとされている(参考資料はここ)。

いま疑問に思っているのは、個人による落選運動は可能なのだから、法人であるマスメディア大手にも可能であるという法理はあるのかという点だ。

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市場において、消費者は商品を売っている商店主に対して売値を値切ることは自由にやってよい。むしろ対等の立場にある経済主体が競争し、かつ交渉しあうことで全体としてはより善い結果がもたらされるものである。しかし、大企業が中小零細企業に対して、同じ値引き交渉をすれば「独占的支配力の行使」、「優越的地位による交渉力の濫用」と判定されることが多い。だからこそ、独占禁止法がある。経済活動には過大な影響力が行使されないよう規制しているのだ。

同じ問題意識は、世論形成における影響力の大小にも向けられなければならないと思うのだが、どうだろうか。経済プロセスだけではなく、政治プロセスでも、個々人の集合体である国民の政治的意思が、少数者の影響を受けることなく、選挙結果に反映されることが重要になる。そのための環境作りは放っておいてもできるものではない。だからこそ公職選挙法がある。

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選挙期間中に新たな事実/功績/スキャンダルが明らかになるなら、報道としての価値もマアあるのだろう ― それが報道に値するという判断が少数の編集部幹部によって行われるのはやはり不適切だと思うが。しかし、上の週刊文春の批判記事はざっとみて、古い話ばかりであり、あえてこの時機に出版するのは何か同社が政治的意図をもっているからではないかとすら感じる。

そもそも営利法人である出版社に投票権はないのだ。ない以上、選挙という社会活動に参入し、選挙結果を左右する影響力を行使してはならないと思うのだがどうだろう。

というのは、有権者である個々人は投票権を持っていることを判定可能であるが、法人はそもそも国内で法人格を有しているだけの擬制的存在であって、その法人が有権者のある集合を代表しているのか、投票権を有しない外国人の意志を代行しているのか、まったく分からないからである。後者の可能性が理論的にもせよ否定できないのであるから、投票権がない営利法人が結果を左右するかもしれない政治的意見を公開することは、不適切だと小生は思うがどうだろうか。

営利法人である出版社が特定の政党を批判したり、支持したりする活動を是認するなら、たとえば経団連(→自民党を支持しているはずだ)が自民党を支持するコマーシャルを流したり、医師会(→やはり自民党だろう)やその他業界団体が同じことをするのもOK、全国の商工会議所(→ここもまず自民党だろう)が特定の政党を支持するコマーシャルをテレビで流すのもOK、その他の株式会社が特定の政党を支持するCMを流すのも、印刷物をホームページに掲載するのもOKになるのではないか。

しかし、上に挙げたどの団体も個人ではない。投票権は持たない。投票権を持たない法人が選挙に影響するかもしれない意見をあえて述べる動機はない、というか持ってはならない理屈だと思うがいかに。出版社についてもまた同様なロジックがあてはまる。





2017年10月15日日曜日

「無党派」というマイ・イデオロギーは何を意味するのか

選挙の結果を決めるのは「無党派」である。選挙がやってくると、例外なくマスコミはそう言っている。大体、有権者全体の確か4割ほどが無党派に属しているのだろうか。

が、よく考えてみると、「無党派」なる政治的立場というものは、一考に値する、というかそもそも最大集団が無党派だという状況になるというのは一体どういうことなのか。そんな疑問もわいてくるのだな。

「無党派」が最大の政治集団であるような先進国はほかにあるのだろうか?

こんな文章がネットにある。
希望の党はおそらく50議席も取れない結果に終わるだろう。そうなれば、小池氏の責任問題に直結し、人々は彼女から急速に距離を置き始めるに違いない。政治は結局、その時々の風や勢いだけで突っ走ると、失速したときに自らを支える軸がないので、新たな風や勢いに吹き飛ばされて終わる。安倍晋三氏が、一度は権力を失墜しながら復活できたのは、勢いを失った彼を支える人々が側から離れず、再起のチャンスを皆でお膳立てしたからだ。 
それでも世論調査では、比例での投票先に希望の党を入れるという人が根強くあるが、そうした人々の多くが、おそらくは無党派層であり、政治的関心の薄い人々だろう。他党に入れるという人に対して、希望に入れるという人は話題に飛びつきやすい「なんとなく層」が多く、彼らの多くは、投票日が晴れていれば遊びに行き、雨が降れば外出を控えるだけのことである。
(出所)植村吉弘「希望の党は大敗北に終わるだろう」、2017年10月14日

非常に冷めた目で「無党派」集団の行動パターンを見通している。大体、そんなところだというのが真相だろう。

ただ、小生自身も若い時は子供も二人いて小さく、平日は仕事があり、カミさんも家事に忙しく 、たまの週末はどこに買い物に行こう、どこに遊びに行こう、と。そんな話しばかりで、わざわざ寄り道をして「投票しとこうか」と現実に投票所まで足を向けたのは稀ではなかったかと。そう記憶している。まあ、5回に1回くらいは投票したろうか。それも国政であって、地方選挙などほとんど行ったことがない。40歳になるまでは、正直、そんな感じであったなあと記憶をたどっている。

で、政治的関心となると、やはり必ずしも一貫していなかった。つまり「薄い」といえた。北海道に移住してからも、地元選挙区で民主党候補にいれたりしたこともあったし、カミさんの知人(おそらく創価学会の会員なのだろう)に薦められて、カミさんと二人して公明党候補に票を投じたこともある。まあ「なんとなく」であるな。

自民党に一貫して投票するようになったのは、40代も後半になってから、それとももっと後になってからだろうか。職業人生の後半が明瞭に見えてきて、自分の年金生活も時間の地平線の向こうに見えるようになった頃だ。その頃になると、何か新しい風が吹いてほしいというより、積み重ねた実績や資産や生涯設計を安定的にキープしたいと。そう願うようになった。多くの人もそうではないかと思う。まして「リセット」などはとんでもない発想で、恐怖をすら感じさせる用語である。ほんと、小池百合子という人物は言葉のセンスがない御仁だ。

小生一人をとっても政治的姿勢はこんな変遷をたどっていることを思うと、「無党派」集団を年齢、職業などで層別化するなど、より詳しい分析をすると、面白い結果が出てくるような気がする。

◆ ◆ ◆

これ以降、マクロ的にざっくりとした観点から要点をまとめてみたい。

いま日本はシルバー世代に重心が移ってきている。また、日本国民は世界でも有数の資産を形成している。政府はすでに債務超過だなどと指摘されているが、日本国全体でみるとバランスシートは極めて強固であり、だからこそ経済的危機においてはしばしば円高となる。

日本の有権者はマクロでみると「金持ち」なのだ。日本という国は世界の中では「富裕層」に属している。これはデータに基づく事実だ ー 著名なリッチマンが目立って多いという意味ではない。

日本に金融らしい金融産業はないのが実情だが、カネは持っている。だから、持っているカネを海外に運用して、どう儲けようかと。これが近年の日本国民の関心事項である。政府はイノベーションであるとか、国家戦略であるとか、さかんに旗を振っているが、カネを実際に持っている人は「お上」を信用して国内でチマチマ運用するよりも、米株とか英株に投資する方がもっと儲かることを知っている。政治家は邪魔をしないでくれと願っている。だから、「改革」などはホンネでは欲していないのである。

年金制度自体、支給のための主な財源は支払保険料の積立金残高である。その積立金の運用に株式が組み込まれてからもうかなりな年数がたった。いま運用先の4割(今でもそうだと思うが)は外国株式・外国債券になった。日本国は、家計も年金機構もどこもかしこも丸ごと、国内外に資産を運用して儲けては、やり繰りしているのだ。こんな時代であることが政治の大前提になっている。「リセット」されるなどはとんでもないことなのだ。

■ ■ ■

日本が豊かである間は、本気で「改革」や「リセット」を望む有権者はいない。というより、正しくいうと、数が減りつつある。加速度的に減っている。

なので、正直に「改革」を本気で連呼する政治家は嫌われるだけである。まして改革より過激な「リセット」などを言えば、その時点で「あれはいかんね」と。これが現時点の日本社会の現実だと思うがどうだろうか。ついでに言えば、安倍現総理が憲法改正を言い始めて高齢層に受けが悪い理由は上に述べた点と同じである。

高齢層から既得権益(=財産権として保証されている富)を奪って、若年層にシフトさせても、国民の資産が増えるわけではない ー 高齢者の富はいずれ若年者にも継承される、あるいは高齢者が生存中にすでに継承されつつある、であるので高齢者の財産権の消失は、若年層が富を失うことでもあるのだ。そのことを若年の人たちは本能的に察知している。

資産の配分を移し替えるだけではダメなのだ。あちらが燃えているからといって、かける水を此方から彼方に変えるだけではダメである。此方がまた燃えるだけなのだ。かける水量全体を増やさなければ課題は解決できないのだ。

■ ■ ■

高齢者はなるほど恵まれた年金生活を送っている。しかし、年金の過半の部分は既にもっている資産の取り崩しである。自ら形成した資産をそのまま後世代に継承する義務はない。自らの生計にあてるために公的制度によって貯蓄してきたわけだ。当然、資産を取り崩せば、金持ちではなくなる。これは若年層には損失かもしれない。しかし、若年層は高齢層が形成した豊かな社会を生まれながらに享受できている。小生の上の愚息は非正規社員としてカツカツの暮らしであるが、それでも発展途上国の同世代よりはのんびりと豊かな生活をおくっている。この経済状況は比較的最近になって日本に生まれたことによる世代的な利得である。

要するに、先に貧乏を経験して後に豊かさを享受するか。先に豊かさを享受して、後に貧乏になるか。違いはここにある。これが基本ロジックだ。それでも技術の進歩、生産性の向上への努力があれば、団塊の世代が退場した後の時点において、現在の若年層が元の貧困に戻ることはない(はずだ)。そのための「国家戦略」、「人づくり」。だから、やはり、この方向はキープしておくのが理にかなっている。

有権者は政治家が想像するよりずっと頭がよい。政治家ほど言葉が上手でないだけである。

(とりあえず)本日の結論/予想:

  • 「無党派」に若年層が多く含まれているならそれはよく理解できる。イデオロギーというより、何を最優先するべき価値であると認識するかということ。
  • 「無党派」に高齢層が含まれているなら、与党支持/野党支持の意識がない、つまり自分自身の生活基盤がよく理解できていない人たちではないか。不満がある現状を「改革」したいという願望があるなら野党を支持する理屈だ ― それが自らにとって利益につながるかどうかは別の話題。生活基盤の自覚が弱いので、政治的立場が定まらず、故に言葉に騙される確率が高いのではないかと憶測する。

2017年10月13日金曜日

メモ: 東名高速事故

東名高速道路の追い越し車線で起きた夫婦死亡事故。大変傷ましい交通事故、というより事件であり、テレビのワイドショーでは選挙期間中の自粛ということもあるのか、いつもの政治ショーではなく、こちらが主役級の扱いになっている。

捜査当局から得た情報だろう。「危険運転致死傷」ではなく「過失運転致死傷」に問われるとの報道で、これはおかしいというコメントがテレビ画面ではあふれている。

そういえば、法曹出身のコメンテーターが言っていたのは『これは未必の故意による殺人ですよ』。

まあ、一つの事件をどういう角度からみて、いかなる法を適用するかは警察と検察が協議をしながら手続きが進められているはずだ。担当検察官の力量が非常に問われる事件でもあるだろう。現場で捜査をする警察の受け取り方が検察側にどのように反映されるかも興味のある視点である。

ただ専門外の立場からいまの感想をメモしておくなら『窓から植木鉢を落とす行為であっても未必の故意による殺人罪が成立することがある。まして駐停車厳禁である高速道路の追い越し車線に意図的に停車するよう仕向け、現実に被害者が死に至っている点をみれば、未必の故意による殺人が成立するのは当たり前である』、このようにも思うのだな。

「過失」というのは、もっと注意をしていれば回避できていたはずの致死傷行為をさす。今回のケースでは「過失」というのは当たらないであろうとも感じる。

この事件を担当する検察官、そして任命されるはずの弁護側。やりがいのある、「面白い」というと誤解を招きそうだが、公判の審理には非常に興味がそそられるのが事実。

それにしても、この捜査経過情報。警察側から出たのだろうか。検察が過失でいくという線に不満でもあったのか・・・よう分からぬ、いささか奇妙な雲行きである、な。テレビと世論に押されて、というか迎合して、検察側が罪名を途中で変更するというのもカッコ悪い。信頼にも傷がつく。どうするのだろう。この点は「面白くなってきた」と言っても問題はないだろう。

2017年10月12日木曜日

憲法論議七不思議の一つ

選挙期間ということもあって憲法論議が盛んである。

何かと言うと9条ばかりについて議論をしている。

昨日など、投票権が18歳以上に引き下げられていることもあって、ある高校の期日前投票所の風景が放映された。と同時に、憲法改正に関連した講演(講師は誰であったかな・・・)も挿入されていた。聴き手は高校生である。

エエ〜、みんな憲法というものの存在意義はなんだと思う?それはですネエ、憲法は国家権力を縛るもの、国民は自由、国民は憲法で縛られないんです、そうではなく権力を縛る。それが憲法なんですネ。憲法というものはそのためにあるんです・・・

イヤハヤ、マッタク、何だかそんなことをしゃべっていた ー とてもではないが、「話していました」などという礼儀を守った表現を付与する気にはなれませぬ。まあ、「公民」の授業がきちんと行われていれば、こういうアジ演説のような邪説の誤りは高校生もすぐに気づいていたとは思うが。

放送するテレビ局もテレビ局である。やはり『頭脳は新聞社にまかせ、テレビ局は肉体で稼ぐ』、今でもそんな風なのだろうか・・・。

◆ ◆ ◆

憲法30条の規定を引用しておく。
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
いわゆる納税義務の規定である。

憲法は国家が国民に提供する公共サービスのコストのうち、何パーセントを税として負担するべきであるとは定めていない。しかし、日本国憲法施行後、戦後日本ではずっと赤字国債はタブーとされ、昭和40年度までは均衡財政が守られていたことを思い出せば、憲法30条の規定する「納税の義務」とは、基本的には公共サービスの費用は国民が責任をもって税として納付する主旨である、と。そう解釈するのが自然だと思われるのだ。

まして国家財政のうち3分の1が税ではなく、必要な税率引き上げをしぶり、一部の富裕な国民、投資ファンドなど金融機関、外国人、あるいは日本銀行に国債を購入してもらう形で財政資金を調達している現状は、そもそも憲法30条に違反していると。小生はずっとそう考えている。

国民もまた義務を負い、憲法には縛られるのである。疑いの余地なし。納税の義務のほか、憲法はあと二つの義務をも定めている。憲法は権力だけを縛るものではない。

というか、<国民主権>である以上、権力を縛るイコール国民を縛る、こう言っても可であろう。いかに「国民の名において」ではあれ、やってはいけないことを定める。それが憲法である。こう言ってもよい。本当に主権者が国民で、日本国憲法が真に<民定憲法>であれば、こう考えるしか考えようがないであろう。

『憲法は、権力を縛るのであり、国民は縛られない』という意見が、なぜいつまでもテレビ界の「常識?」としてまかり通っているのだろう? これ、七不思議じゃ、ずっとそう思っているのである。不思議じゃ、ほんとに。

◆ ◆ ◆

で、9条の話題に戻る。いかに日本人が国民の名において「許せぬ」と思う場合でも、現行の9条ある場合は絶対に武力の行使は許されない。そう書いてある。自衛権云々は戦後日本で発達した屁理屈だ。国民の名における場合でもできないのだから、政府も理の当然として出来ないのだ。これが本筋のロジックではないか。

「できない」と憲法に書かれていることを「こういう場合ならできる」と政府が言っているのは、国民が本当はそう考えたいからである。結局のところ、政府は国民の写し絵にすぎない。なので、ロジックとしてはおかしいと感じることも、結局は通る。定着して、これで良かった、理にかなっている、と。

本当は縛られるべき国民が、縛られたくないと本当は思っている。だから『国民は縛られないのです』と堂々と語る人が出てくる。『縛られるのは国民ではなく政府です』という理屈を選ぶ。国民はフリーだと結論づける。実は最も危険なチョイスであるのだが、戦後日本社会の本質はこんな風に要約してもそれほど間違っていない。そんな気がしているのだ。

2017年10月11日水曜日

今後の課題メモ: 美人の社会学? 女性の社会進出の一側面

「女性が輝く時代」、「女性の社会進出」というキーワードには小生は心底から賛成だ。亡くなった母は『お母さんは何も仕事ができないのが残念だわ、戦争で諦めたけど本当は帝国女子医専ていう学校があってネ、高等女学校を出たら、そこに進学したかったのよ』と、何度小生に話したかわからない。母は専業主婦であったから、父と結婚して主婦となってからは、いわゆる<仕事>というものを持つことはなく、ひたすら家庭の中で家事を担当して人生を生きた。成長してから調べてみると、母が進学したかったと言う「帝国女子医専」は現在の東邦大学医学部であることがわかった。

それでも母はそんな仕方で社会で重要な役回りを果たして生きたことに違いはない、と。そう思っている。他人では代替できない役回りを担っていたからである。そんな社会システムであったのだ。カネをもらってやる仕事と、カネをもらわずにやる仕事と、どちらが立派な仕事ですかと問われれば、人は答えるのに迷うだろう。

なので、女性の社会進出は母が聞けば当然のこと「いい世の中になったわね」と、そういうに違いない。

◇ ◇ ◇

しかし、どうも疑問に思うときが増えてきたことも事実だ。

世の中、色々な仕事がある。しかも人間の半数は男性である。ずばり『美人の女性はそれだけでエラくなるのに有利になるのではないか』。この問題はキチンと調べる必要があるのではないか。そう思うようになってきたのだな。

日本人は美人好き。いつだったか、いい加減な言葉だが、目にしたことがある。もちろん、「日本だけでそうだ」ということなら王朝時代の中国で「傾国の美女」やら「傾城」などという単語が生まれるはずがない。「クレオパトラの鼻がもう1センチ低かったなら世界の歴史は変わっていたであろう」というパスカルの言葉も同じだ。「美人」が世の中で果たしてきた役回りはどうやら国を問わず普遍的なものであるようだ。

魔女は絵本ではお婆さんの姿をしている。が、これは本当は奇妙だ。老婆は力弱き人間の象徴である。おそらくメッセージとしては「本当の姿は年老いた老婆である」という設定、物語のプロットとしての定石が<魔女=老婆>なのだろう。そして、人の前に現れる時は必ず美人になっている。美人に扮している。人は一般に他人を疑うが、美人には騙されるからだ。振り込め詐欺の例を引くまでもなく、お婆ちゃんは騙される立場におりがちであって、騙す方ではあるまい。人を騙すなら、お婆ちゃんより美人のほうに競争優位性がある。

若い頃からの小生の疑問は、『本当は老婆であるが、人前には美人に化けて現れるという童話がこれほどまで多いのはなぜか?』という問いである。

□ □ □ □ □

これまでに述べたことと、政治家には世間全体の比率に比べて<美人>が相対的に多いような印象があることと、何か関連性はあるのだろうか?世界的大企業の取締役以上の女性経営者にも、やはり<美人>が相対的に多いような気がする。この点もまた調べてみると、何か面白い結果が得られるのではないだろうか。

特に社会の支配的地位につこうとする場合、多くの人の支持を得る必要がある。そんな時、特に女性が進出する場合には、美人であることが相当有利ではないのだろうか?

小生、今後のちょっとした「調査課題」として「美人の社会学」というものがあるのではないかと、そう思い始めているところだ。

『美人には気をつけよ』、古代から言い伝えられてきた言葉であるが、この格言と「女性の社会進出」という大きな目標と、どこか関連づけて考察する必要があるのではないかという問題意識だ。


2017年10月10日火曜日

一言メモ: 政党党首会見をきいて

今回の選挙には争点がないという評判だ。

しかし、ないわけでもないだろう。2019年秋の消費税率引き上げの是非が一つ。もう一つは憲法改正になるか。あとは夢物語に類する事柄で論じても無駄だ。

消費税率引き上げも保守野党を含め主張はバカバカしい。消費税率を引き上げないならどうするか。提案するべきこの点をハッキリと口で言わないのだから、最初から逃げ腰だ。有権者としてはスルーするしかない。

ただ聴いていて、この党首は正直だ、と。そう感じることもあった。まずは共産党。自衛隊と憲法は相容れない。ハッキリとそう言っている。だから憲法の規定どおり自衛隊は時間をかけて解散させると言う。自衛隊の存在自体が違憲であるという意見は小生もまったく同じだ。これを堂々と語るのは正直な証拠だろう。憲法学者は違憲ではないという複雑な論理を組み立ててきたが、複雑な解釈を必要とする憲法は善くない、この一言につきる。

自衛隊を必要とするなら改憲が必要であるという論理は、共産党と自民党と、この2党だけだ。真逆にあるこの2党だけが憲法の基本認識を共有している。面白い事実ではないか。

維新の党も、まあまあ率直である。党風なのだろうか。いつも同じことを話す。つまらない。が、政治家たるもの『昔の名前で出ています』という、この愚直さこそが最高のモラルではないか。話すたびに違ったことを話す人物は信用できない。政治家失格だ。

安倍総理には(やはり)キレの鈍さとデリカシーの欠如を感じる。なので長広舌になりがちで、その割には明晰でない。『意あって知なし』かもしれない。日本人は旗幟をハッキリさせ、白黒を明らかにする明晰な行き方を好む。なので自然と頭のいい人を選びがちだ。ただ、前にも投稿したが、特有の鈍感さはあるが、基本的には内心が表情に出る正直な人じゃないかとやはり感じるのだ。だから政治家として主張に共感できると、そこまで言ってしまうと嘘になるのだが。朝日・毎日が論陣を張っているほど悪い政治家かねえ・・・と、こんな疑問もあるのが事実だ。

あとは口から先に生まれてきたような人で、みな利口で賢い人。そんなイメージであったな。

2017年10月9日月曜日

個人に政見があるなら新聞社にもあって当然だ

選挙の公示日は明日だが、いまだに小池百合子都知事兼希望の党代表が出るのか出ないのか、世間の見方は分かれている。

まったくヤレヤレである。『お父様(=小泉純一郎元首相)とも約束しております。私は出馬はいたしません』とも言っているわけだ。にもかかわらず・・・、やっぱりこれまでの<虚言癖>がなせる情況なのだろう。

バカバカしいこと限りなし。

以下のような書き込みもある。
日本記者クラブでの党首討論後の報道各社の論説委員などからの質問を聞いていたが、一部の質問者はジャーナリストとして大丈夫かと疑問を感じるとともに、ジャーナリズム出身者として恐ろしくなった。
今回は衆院選にあたって、有権者に各党の主張やそれに対する疑問点を聞く場である。それに加え「問題」とされる部分についても聞く。
当然、厳しい質問もある。
しかし、今回の質問者は、自らが所属する新聞や自分の主張に基づき、やりこめてやろうという質問の仕方で、しかも答えている途中で答えをさえぎるという失礼なことをしていた。
質問相手が答えに窮するぐらいの詰将棋を見たかったが、自分の思い通りに進まないと質問をかぶせるなどしており、全くそのレベルに達していなかった。
(出所)BLOGOS、2017年10月8日

著者は和田正宗参議院議員である 。同氏はNHK出身の自民党所属議員であるから、まったく100パーセント中立的な意見であるとは言えない。と同時に、しかし、朝日新聞にせよ、毎日新聞にせよ、<社是>というか、会社の理念が反・安倍政権、反・改憲であるのは歴然としている。

個人個人にはその人の支持政党がある。無党派にも意識されないイデオロギーがある。人は何かの価値観、自分で大切にしているホンネがあるもので、だからこそ人は誰かの奴隷ではなく、自分でいられる。そうじゃあござんせんか。故に、人間集団であるマスコミ各社にも必ず<社是>、その会社の多数派の政見というものが事実としてあるはずなのだ。

朝日新聞社も毎日新聞社も、中立的な<社会の木鐸>とか、(何か客観的な真相についての)<知る権利>など、そういう綺麗事をいうのはもう止めて、自らの立場や政見をはっきりとさせるほうがフェアではないのだろうか。『これから総理には対立的/敵対的な立場から幾つか質問をさせていただく』と、はっきり言えばよいのだ。これもまた権利なのだから。『失礼なことも言うかもしれないが、お許しいただきたい』とまで言うかどうかは大事でないが、言えば礼儀にかない、紳士的であるとリスペクトされるだろう。

実際、産経新聞や東京新聞は自らのポジショニングを明確にしている。だから、社説や政治欄は<偏向>している。偏向しているが、これもまた新聞社の権利なのだから、あやまる必要はない。

政治的な意見は常に特定の価値観や社会観、世界観が大前提になっている。大前提そのものの是非を論争し始めると社会が分断される。故に大前提として持っているイデオロギーや世界観については多様性を認めて争わず、人の内面については権力を行使せず、社会の分断を避けながら、具体的な政治問題について言葉で意見を主張する。実行可能な妥協を探る。これが現実そのものである。そうである以上は、マスメディアもまた自分の立場を明らかにしておくべきだ ー 立場を明らかにすれば販売部数は当然ながら落ちるかもしれないが。

トランプ大統領の敵が"New York Times"であり、"CNN"であるのは明らかだ。味方が"Fox News"であるのも明らかだ。立場、価値観が明らかであれば、書かれている記事の目的も明らかになる。もちろん敵対的立場の人が持っている意見を知ることも意義がある。だから多くの立場から意見が主張されている状態が望ましい。それがマス・メディアだ、いやマス・コミュニケーションというともっと正確になる。

インターネットで高度に情報化された21世紀ではもう<全ての国民のための中立的報道機関>という存在はありえない。無理であるし、偽善である。また、必要でもない。

2017年10月8日日曜日

イシグロのノーベル文学賞受賞に思う

カズオ・イシグロが(小生の方では予想外の)ノーベル文学賞を受賞して、前に買って積んでいた『私を離さないで』を取り出して読み始めている。

イシグロの作品は、小生はどちらかというとマイナーな『浮世の画家』から入った。自分も画作が好きなので、戦前期に一世を風靡し、戦後はどことなく零落した感のある大家の日常と記憶を描いているところに興味を覚えたのだ。そう、確かにイシグロの作品のキーワードの一つに<記憶>があげられる。

多くの人が指摘しているように、イシグロの心理描写はきめ細かくて、ストーリーは緩やかに展開されていく。で、ある時点で光が射す、というか地面が割れるような感覚である事実が明るみに出てくるのだな。

『浮世の画家』を読んだ時には、次は『日の名残り』を読もうと思っていたが、『私を離さないで』を買っておいたのはドラマの原作であったからだ。ドラマは第1回を観たのだが、あまりに重く、放映時間も9時からではなかったか、10時ならまだ良かったのだが、途中で止めてしまった。

あれは確かにとんでもない<悲劇>だ。

村上春樹もこの歳になって読み始めたものだから、両者の比較もいつか書いておこう。ただ今日は、昨日ゴッホ展にいって大混雑に疲れてしまったのか、ちょっと長い文章を書く気になれない。

◇ ◇ ◇

イシグロが活躍している英国文学はまずはシェークスピアにまで遡れるが、その時代から悲劇と喜劇とがあった。この区分は、古代ギリシアの華であった戯曲でも設けられていた。悲劇には人間の死が、喜劇には死が出てこないというわけではない。誰だったか『悲劇を2倍速で再生すると喜劇になる』と、そんな意味のことを言っている。

思い起こせば、昨年の初夏、小池百合子女史が自民党内の圧力に昂然と反旗を翻し都知事選に立候補し、ジャンヌ・ダルクのように颯爽と登場した時にはまるで宝塚の歌劇をみるようであったし、最初は勝てる気がしなかった情勢の下で<悲劇>をみるような感覚を覚えたものである。人気のある某評論家が「私も去年は小池女史に投票してしまいました」と告白しているが、もし住民票を都内に置いていたら、小生だってそうしたに違いない。

史上の人物であるジャンヌダルクもそうであったように小池百合子は神がかった戦術で勝利をおさめた。ところが、勝ったあと既に何百日という時間が過ぎたが、その長い日常的な時間をおくるうちに人間の性というものが次第に露わになる。汚い側面も見えてくる・・・決して、聖女のような清浄無垢の正義の味方ではなかった事実がわかってくる。

小池百合子にとって<時間>は味方ではない。これは冷厳たる事実であり、かつ致命的な事実である。歴史に名を残したいなら時間を味方につけなければならない。これは論理的な真理である。

いま人がそう呼んでいる「小池劇場」はクライマックスに差し掛かっている。颯爽と再登場したジャンヌダルク。しかし、舞台途中でヒロインであるジャンヌダルクがスッテンコロリンと転んでしまって、65歳の老いた令嬢の馬脚が観衆の眼前でモロに見えてしまうと、『これは悲劇ではない・・・ほんとは喜劇であったのか』と、上演時間が1年余の常識外の長大な喜劇であったのかと、東京都内の観衆は最初はビックリ仰天するが、次の瞬間に腹を抱えて大笑いし、ジャンヌダルクの大転倒を拍手喝采し、お尻をさすりさすり舞台の下手に退場するヒロインの上出来に満足する。小生、こんな展開がひょっとするとありうるのではないか。こんな思いで今はいるのだ、な。

ともかくも『事実は小説よりも奇なり』、『芸術は自然を模倣する』だ。たとえイシグロの才能をもってしても、現実の深遠さをすべて描写し尽くすことはできないのだ。


2017年10月7日土曜日

ハロウィン: 魔女の風を一番吹かせたい人は誰か?

来週から始まるビジネス統計解析ではRを使うので、事前課題としてR及びRコマンダーのインストールを課している。R本体のインストールは失敗しようがないほど簡単なものだが、Rコマンダーの方は時にうまくいかないことがある。そんな事態も考慮して貸出用PCにRをインストールするよう依頼したので今日は様子を見に行ったのである。

動作確認すると貸出用4台のPCにRがちゃんと入っていた。

その帰り、多少の画材を大通りにある店で買って、高速バスで帰路に着いた。途中で石屋製菓が運営している「白い恋人パーク」の前をとおる。時節はもうそろそろハロウィンである。どうやら関連行事が開かれているらしい。

宅についてTVをみていると、ちょうど上のハロウィン行事の模様が中継放送されている。黒いコスチュームに身を包んだ美しい女性が「これから魔女の風を吹かせましょう」と話している。

小生: さっきこの前を通ってきたんだよ。面白そうだね。でもさあ、魔女の風を吹かせたい人、一番風を吹かせたい人、都知事の小池さんだろうねえ・・・ 
カミさん: ええっ? 
小生: 小池マジックって言うじゃん? つまり魔女だろ? いま風を吹かせようって必死じゃない? ハロウィンも近いしサ、みごと魔女の風を起こしましょうって言ってネ、呪文かなんか唱えてサ、ホ〜ラア〜、吹いてきたでしょ、風が! オッ、ホッ、ホッ、ホッ・・・これでまたみんなを騙せるウソがつけるってものネ! 見ていて御覧なさい! ホホホホ・・・なんてさ、魔女の高笑い。これ、面白いんじゃないかネエ(笑)。マイクじゃなくってホウキか、リンゴを手に持って、勝負服もサ、緑から黒に変えたらいいんだヨ、勝負の色、黒にかえませんかって誰か助言してあげたらいいのになあ。誰か芸人さん、こんな感じでパロディーやってくれないかなあ、たとえば大池桜子みたいな芸名でサ・・・
 カミさん: ほんとにそんなバカなこと言って、可哀想じゃないの。
小生: サラリーマンわあ~、気楽な稼業と来たもんだあ~、っていう植木等の歌を子供の時に真似したんだけどネ、この伝で行くと ・・・『都の知事なんて~、気楽な稼業ときたもんだあ~』、こんな感じでどう思う? 
 カミさん: 駄目、駄目!! 
まあ、こんな冗談というか、バカな話題を提供してくれる分、今度の選挙は実に面白くなってきた。そんなところが今のところいい要約かもしれない。それにしても仮にも日本国の首都である東京の都知事ともあろう御人がねえ、何と言えばよいのでござろうか。形容のしようもござらぬ。


2017年10月6日金曜日

与党の弱気は与党の罠か?

小池都知事兼希望の党代表が、希望の党の選挙公約を発表しそれを「ユリノミクス」と命名した。

しかし、同人は「今回の衆院選に出馬せず」と断言しつつも、それでも「やはり出るのではないか」と(これまでの行動パターンの記憶もあるのか)周囲から疑われ、発言がまったく信用されていない人物である。ま、このあたり「日本のフーシェ」の面目躍如。

その人物が公約する言葉が信用されないのはロジックというものだ。

◇ ◇ ◇ 

守るつもりのない綺麗なことを現時点で発言しておくというのは、小生の感覚からみれば「ほとんど嘘」に該当する。

憤慨の念を感じたので、メモっておこう。

もしも「やっぱり出ることにいたしました」と言葉を翻して立候補すれば、与党は昨秋のヒラリー・クリントン候補がそれでやられた「(上品な)嘘つき」反復指摘戦術をとり、本気で落としにかかるのではないかと憶測しているところだ ー 現政権にも嘘が混じっているだろうが、「相手も嘘をついているんだから自分も嘘をついてもいいはずです」とはとても言えない。「ほとんど嘘」と「あからさまな嘘」はやはり違う。ということは、小池都知事の出馬に戦々恐々としているというのは、ひょっとすると漢の名将・韓信と同じ手口の罠ではないか、と。そんな気もしている。

◇ ◇ ◇

実際にそうなる可能性は、小池都知事の今時点の発言を信用する限りないのだが、もしも出馬・白兵戦になれば、意外な接戦となる可能性がある。そう予想しているところだ。

接戦にもっていける可能性が(意外にも)かなりある。「素人」の小生が予想しているくらいだ。プロにはとっくに周知のことだろう。接戦必至の方向を出すだけで戦術的には十分だ。それだけで小池都知事を自分の選挙区にはりつけられる。応援どころではなくなる。自分が落ちたら全てを失うからだ。代わりうる人材は党の中にまだいない。代表を狙い撃ちすれば他の新人候補は枕を並べて全滅の憂き目を喫するだろう。

(もしも今から)衆院選に出馬をするとすれば、見通しは暗い。しかし、このくらいは双方とも既知のことであるに違いない。どう出るだろうか。今のままでは希望の党は苦しい。これまた否定できない。小池女史は一度去った勝機を手に戻す妙手を思いつくだろうか。

2017年10月5日木曜日

日本政治史最大のアノマリーが起こるか?

アノマリーとは例外的事象のことである。特異値というのも可だ。

つまりアノマリーとは"anomaly"で"normal"ではないという意味だ。

どの国の政治でも同じだと思うが、政治家は国民に信用されなければならない。その理由は自明だろう。<信用≠期待>である点にも留意しておく必要はある。

希望の党を立ち上げた小池百合子都知事。今回の衆院選には立候補しないと断言している。断言もおろか「100パーセント出ない、それは最初から言っている」とも言っている。

ところが、小池女史の断言をまだなお疑っている人が多い。それでも出るのではないか。出るはずだ。そういうことだ。

これほど語る言葉が信用されていない政治家は初めてではないだろうか。

◇ ◇ ◇

信用されていないのは、「嘘」というと気の毒だろうが、極めて不誠実な行動を現にとっているからである。都知事の任期4年のうちまだ1年余しかたっていない時点で国政選挙にタッチするという行為を始めている。こんな計画は都知事立候補の際には小池女史は何も言っていない。ただ「都民ファースト」を連呼していた。故に、都知事の立場で政党の代表につき国政に関与すること自体、(多くの人が指摘するように)東京都内の有権者に対して極めて不誠実である。はじめから「嘘」をついてきた、嘘をついても平気なのだろうと、そう言われても仕方がない。嘘をつく政治家が信用されないのは当たり前のことである。

確かに政治には、特に選挙では権謀術数が当たり前だ。騙すことも許される。「死んだ振り解散」という事もあった。しかし、すべて<政治家同士の駆け引き>としては嘘も許されるということである。

もしも自身が衆院選に立候補すれば、「ほとんど嘘」ではなく、あからさまに嘘をついたことになる。

国民に対してあからさまな嘘をつき通して、成功する政治家が現れるとすれば、日本政治史の歴史的出来事にリストアップされるだろう。

まして(仮に都知事の任期を就任後1年余で放棄し、かつ前言を翻して衆院選に出馬し、加えて選挙でも多数を制し、最後に首班指名でも勝利して)女性初の総理大臣になるという野望が実現されるとすれば、日本の総理大臣の口から語られる言葉を日本の国民がハナから信用できない、その意味で日本政治史上最大のアノマリーになる。これは今の段階からハッキリと言えることだ。

いや、こう書いているだけで、こんな「非合理」を通り越して「非条理」とも言えることが、これから経済が上向いていこうという時に、なぜ起こらねばならないか?・・・ま、あってはならないことだって時には起こるのだな。つまり<非条理>、したがって"a great anomaly"なのである。

フランス革命期からナポレオン戦争後の王政復古期にかけて、その時その時の主流派を渡り歩きながら権力に寄り添い、仕事の上では警察組織の完成者、秘密警察の創始者として歴史に名を残した政治家ジョゼフ・フーシェ。その存在がフランス政治史においてアノマリーであるのと同じ意味で、小池百合子という女性政治家は日本政治史のアノマリーになる最有力候補である。

◇ ◇ ◇

安倍首相は鈍感であり、強引であり、傲慢である。しかし、基本的には正直なところもある。

<政権選択選挙>という観点からみれば、今度の選挙は乱暴な右翼政治家と嘘をつく右翼政治家との二択になるのかもしれない。

ウ〜〜ム、この二択のパターン。既視感があるなあ・・・。そうであった、昨秋の米国・大統領選挙。あれも確か、乱暴で正直な右翼政治家と上品で嘘つきな女性政治家の勝負であった。

アメリカでは乱暴なトランプ候補が勝った(アメリカ人はとにかく嘘つきを一番嫌うからネエ)。日本で嘘つきの女性政治家が成功するとすれば、この点でも日本の政治は、ある意味、創造的破壊を成し遂げたということになるのかもしれない。

とはいえ、都知事は辞めるのかとか、森友や加計にはフタをするのかとか、井の中のカワズ的でスケールが小さくて、田舎芝居のようでもあるなあ、と。そう思って見ている。

2017年10月4日水曜日

文科省: ひいきの引き倒しってヤツか

いまカミさんとこんな話をした。

カミさん: ノーベル賞、日本人はとれないみたいだね。 
小生: うん、まだ化学賞は残っているけどネ、もし今年はとれても長い目でみると、まったく取れなくなるだろうっていうのは確実。そう言われてるよ。特に国立大学のいまの状態をみるとね。 
カミさん: そうなの? 
小生: いまノーベル賞をとっている人たちは、ほとんどが昔の国立大学で仕事をした人たちなんだよね。その昔の国立大学はダメって言うんで国立大学を改革したんだけどね、それじゃあって改革した後の国立大学をみるとサ、これはノーベル賞なんてとても取れる状態じゃあないぞって。そうなっているわけサ。 で、その状態が放置されている。
カミさん: そうなの? 
小生: だからさ、文科省がやってきたこと、言ってきたことは、すべて嘘っていうと可哀想かな。ま、的外れ・・・歪んでいる、そんなところだよ。 いい仕事をしていた国立大学をダメだといって改革して、これでよくなったと自画自賛した今の大学は実はダメになっている。これが事実だからさ。
カミさん: 何かさあ「司法改革」?それを思い出すなあ・・・でもさあ、文科省の仕事が歪められたって言ってたよ。加計学園で。 
小生: 「ひいきの引き倒し」ってやつだね。マスコミが。たとえば二人が喧嘩をして一方が明らかに悪い。そのとき、いくら正しい方を普段から憎いと思ってても、悪い方の肩をもってサ、正しい方がいかに冷たい奴かってことを非難するとしたらサ、悪い方が正しいってことになって、おかしくなるよねえ。世の中、変なことをやっている側を「ダメだ」って指摘してさ、正しい方へ向けないといかんわけよ。いくら可愛くても間違ってたら間違っているとサ。それを言わないから、文科省のやっていることは正しいってことになって、何にも変わらない。そのうち、『日本人はこれで10年連続でノーベル賞を受賞しておりません』ってことになるよ、そうなってから大学をまた改革して、立ち直るまでに20年。あわせると30年間、受賞できなくなる時代がやってくるだろうねえ・・・
カミさんは学校の事情は知らない。まして大学のことは知らない。ただ、小生が若い時分に小役人をやっていたせいで、公務員というのは深夜まで真面目に残業していることは知っている。だから、国家戦略だ何とかという理屈で文科省の役人を内閣が権力的に押さえ込むと「役所の人たち、かわいそう」だと感じてしまう。

しかし、間違っていることは間違っていると認識することが将来のためには大切である。

2017年10月3日火曜日

筋書きのないドラマにも事後的なストーリーができる

政治は一寸先が闇である。しかし、まったく理解不能な政治は国民には耐えがたい。起こってしまっていることに物語を、ストーリーを付与して、納得したいのが人間の常というもの。マスコミもこの人間の普遍的願望に寄り添う必要がある。

なので、マスコミは現実を後追い的に取材をしては、なぜこうなるかを一生懸命に<解説>するのである。

どうやら小池劇場の開幕と小池百合子=ジャンヌダルクという役回りが再演されるかと思いきや、主役がやりすぎ一人芝居になっている間に、敵役・前原氏の長年の同志、枝野氏が敢然と政治家としての筋を通す行動に出た。世間が枝野氏に同情するのは確実である。おそらく枝野氏を最後に残った<正義の味方>として煽るのではないか。朝日はそうするだろう。衰えたりとはいえ、朝日、毎日の影響力は全国に及んでいる。

安倍首相よりも更に右翼に位置する政治家小池百合子氏の実像は既に浸透しつつある。いま現時点で日本国民が求めているのは右翼から着想される政策ではない。印象としては、中道保守的な発想ではないかと思う。そもそも小池女史が元来持ってきた政治思想はいま日本社会では需要されていない。逆向きである。これは確かな事実だろうと思うのだな。

枝野氏は左翼である。が、政治の振り子が振れる方向に立っているのは枝野氏のほうであろう。

ま、枝野氏はちょっと左過ぎるような気はするが、マスメディアの支持があれば大化けする可能性なしとはしない。

こうなるような気は前からしていたようにも思うが、しかし今回の寸劇もガラガラポンの結果の一つだろう。

2017年10月2日月曜日

「女性が輝く時代」?確かに今年はそうだ

今年は女性が「活躍」している。文字通り『女性が輝く21世紀』というキーフレーズが的中した第1年として歴史に残るだろう。


豊田真由子: 暴言暴行: 東大卒の元キャリアで頭がよい
稲田朋美: 極右・靖国神社・失言と隠蔽: 弁護士で頭がよい
山尾志桜里: 若手女性議員で敏腕: 元検察官で頭がよい
小池百合子: 都知事・外国語に堪能な元キャスター: 臨機応変で頭がよい

上のリストに上西小百合議員を入れても良いかもしれない。この人も一見ありのままのようでいながら、実は非常にクレバーなのだと思う。

いま世間で活躍している、輝いている女性はどの人も頭がよい人だ。

しかし、「頭がよい」という点については、これまでにも何度も投稿している。たとえば、これこれ。 

ずっと昔は頭がよいことを「賢しら(さかしら)」と呼んでいた。今では「賢い(かしこい)」という。「聡明」ともいう。サカシラは100パーセント負の印象を伝える形容詞である。現代のカシコイも「君は賢いねえ」と言われるのは、サカシラほどではないが喜ぶべき言葉ではないだろう。聡明な人と誠実な人と、あなたはどちらの人を信頼しますか?ま、趣旨はこれで伝わると思う。

小生の田舎で使っている「キョロマ」は、『またあの人が賢しら気に動き回っているわ』という言い方よりはよほど長閑な語感である。

頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。

キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。

今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。

ただしかし、時代は変わったなあ、と。そう思いますヨ。ずっと昔の共産党では「日和見主義者」や「オポチュニスト」、「敗北主義者」って言ってネ、同志を異端分子に指名して粛清するときの決まり文句だったものですヨ。理念は立派だケド、現実には非人間的な共産党の体質を表す恐い言葉でありやした。それがネエ・・・、好機をとらえるっていうか、そんな賢しらなやり方が今では立派な「戦略」に昇格しているってンだから、時代も変わったもンだって、そう痛感するってエものでござんすヨ。

2017年9月29日金曜日

「政権選択選挙」よりこう言うのがよい

マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。

見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。

民主党政権の失敗は東日本大震災・福島第一原発事故への対応が拙劣であったことが主因とされているが、副因として株価低迷、雇用悪化、デフレ深化という経済的ファンダメンタルズが足を引っ張っていたことは無視できない。尖閣諸島国有化にともなう日中関係の極端な悪化も大きなマイナスだった。衆議院議員選挙の投票は日本の政治に直結する。包装紙ではなくコンテンツ、ムードよりはファンダメンタルズが重要であるのは当たり前だと。これが常識だった。

現政権のファンダメンタルズは経済面では必ずしも悪くない。格差拡大は確かに改善されていないが、底上げはされているのは事実だ。株価は上がり、足元の景気をみると今後もっと上がっていくだろう。いわゆる「アベノミクス」の評価はまだ微妙だが、民主党政権時代の経済状況を思い出させるだけでも有効な反撃となるのは事実だ。希望の党から立候補する新人の力量はまったく不明。

こう考えると、突然参入した希望の党と化粧直しの後の民進党には勝機はないと考えるのが常識に合う。また合理的でもある。が、マスメディアを味方につけたイメージ先行・ムード醸成戦略は時に見事に奏功する。日本新党ブームもそうであった。が、日本新党ブームの時は、ブーム以前に消費税導入、リクルート事件、バブル崩壊の三連発があって反自民党ムードが蔓延していたという決定的背景がある。そこに日本新党は乗じることが出来た。無手勝流ではない。やはりファンダメンタルズの説明力が高いのだ、な。

森友や加計学園の問題。どうみるか?しかし、あれが経済社会のファンダメンタルだとは到底思われぬ。むしろ「不祥事」であろう ー そうは思わない人たちは不祥事ではなく、「汚職」だと思っているのかもしれないが。

そういう意味では、現在の日本社会におけるテレビ、新聞といった伝統的マスメディアの影響力、つまりはムード形成力、ブーム創出力を評価できるという点からも、今度の選挙は面白くなった。「面白くなった」ことだけは事実である、な。

それにしてもツイッターやフェースブックを駆使した選挙運動の名手が日本にも登場しないのでござんしょうかネエ・・・。これからはネットが主戦場になるってもんだと、そう思われて仕方ないんですがネエ。

ま、マスコミ大手は規制産業であり、電波市場の寡占が認められたり、あるいは価格競争の埒外に守られたりして、今なお政府の保護下にある。平時ならお目こぼしされるような偏向報道も選挙期間中は厳しくモニターされましょう。摘発など荒事にはしないでしょうが、第三者が問題視する発言をして、選挙後に何かの政策対応につながっていくかもしれません。この辺も「面白い」見どころかもしれない。

2017年9月28日木曜日

選挙戦: 政治の一寸先は闇だと思ったが・・・

政治の世界の一寸先は闇だと思ったが、安倍首相による唐突な解散宣言。その次の、民進党の事実上の解党と小池百合子氏が立ち上げた「希望の党」との合流方針―確かにまだ方針の段階ではあろう、代表の独走に終わる可能性もある以上は。いや、やっぱり出てくるものは出てくるネエ。そんな状況になってきた。

またか・・・というデジャブ感がつのる展開ではあるが、なるほど一寸先は闇であったには違いない。首相が奇襲を選ぶと、周囲の敵もまた夜襲で応じた、と。こんな感覚かな?

ただ、希望の党の代表になる方向の小池百合子氏は国会議員でない。なので、憲法の規定から首班指名の対象外となる。政権をねらうなら都知事を辞めて国会議員に戻らないといけない。戻ると決意すれば、都知事時代の実績を問われるのは確実だろう。そうなると、確かに話題は提供したが、『ちゃぶ台返しをしたまま後始末を付けていない』と批判される可能性が高い。特に地盤の東京都内で批判されるだろう。どうするのだろうか・・・?

それから希望の党は「消費税率引き上げ凍結」を公約に掲げるらしい。

保守的な「小さな政府」を志向するなら選択するであろう方向だが、そうなると前原氏、というか民進党の年来の主張である教育無償化は実行不能になるのではないか。

原発ゼロは良い方向かもしれないが、地球温暖化を考えれば再エネに舵を切るということだろう。となると、炭素税など環境課税を強化すると言わなければ電力料金が上がりすぎて、理屈が通るまい。まして電気自動車(EV)の普及など、電力需要は増加が見込まれている。電力料金は国家戦略レベルのキーポイントだ。しかし、このようなイシューを小池氏は今まで問題提起しては来なかったように思う。自分自身の<宿願>とは思っていないのではないか。



具体的に検討していくと、<どこの馬の骨じゃい>と言われかねない印象だが、しかしいかにも<劇場型>にふさわしい脚本である。エンターテインメント性を求めるマスコミは支持するだろうし、浮動層もそれに煽られて支持する可能性は高い。安倍内閣に辟易としている保守支持層は本当は多いはずだ。現在の強気一辺倒の北朝鮮外交にも疑問や批判、不安を感じている人も多かろう。

政治家として、それらしい実績を残してきたとは言えない小池氏ではあるが、あまりに乗り心地が悪く、代わりの船を探していた人たちには格好の選択肢になることは間違いない。投票日が迫っており、乗り換える船の行き先を確認するなど、考える時間があまりないのも幸いしている。

与党は党首による政策討論TV中継を提案してくるのではないだろうか。

お互い、楽な戦にならないのは間違いなくなってきたが、これだけは言えそうだ。小池氏が国会議員に打って出ない限り、風はこれ以上は強くならないだろうし、打って出るなら在職1年で中途で都政を放棄するという批判を免れない。気になるのは、劇場型政治の大家であった小泉純一郎氏は、郵政改革を長年主張した"Single-Issue Politician"であり、この一点に命をかけてもいいというフレーズが似合っている一面があったが、小池氏にはこれという宿願がないように見受けられることだ。

リスクの高さは小泉氏の郵政解散をはるかに上回っているというべきだろう。そのリスクは、選挙における勝敗のリスクを指すものであると同時に、仮に勝利して政権についた後の政権運営にまつわるリスクでもある。

今日の結論:

格言としては『信なくば立たず』というのは今だに有効だと思う。プロモーションはもちろん大事だ。しかし、トレンディーなイメージ戦略が、軍事リスクが現実に存在する今の日本の情勢の中で、それだけで単独に政権に近づくほどの大勝利をもたらすものだろうか?小生は疑問なしとしない。それから有権者との約束を1回でも破った政治家はそれが終生の傷となり大成はしないのではないか?政治は水物だが、一応、これを今後の予測としておく。

2017年9月27日水曜日

内部告発の正当性と森鴎外の見方


先日投稿した『ずっと昔の「文春砲」?』で永井荷風による「森先生の事」を引用した。その中で文学雑誌「新潮」が森鴎外の作品「大塩平八郎」に加えた批判が許せないほどに言葉汚く、卑劣なものであったという回想部分をも挿入した。

改めて『大塩平八郎』を読み返してみた。若いころに読んだ記憶はあるのだが、筋はほぼ完全に忘れているーこの辺りは古いドラマを視るのにも似ていて、考えようによっては節約につながる、というものだ。

そこで改めて確認できたのは古くて新しい問題であった。同じ問題を鴎外がずっと昔にもう考えていたことが分かったことには不思議な気持ちがした。第1回目に読んだ時になぜこの部分が記憶に残らなかったのかと、不思議な気もした。まったく、学校時代では鴎外や漱石がよく課題図書に挙げられているのだが、10代、20代のうちの読書力などはたかが知れている。つくづくとそう感じた次第だ。

以下、引用するのは最後のところだ。
個人 の 告発 は、 現に 諸国 の 法律 で 自由 行為 に なつ て ゐる。 昔 は 一歩 進ん で、 それ を 褒 むべ き 行為 に し て ゐ た。 秩序 を 維持 する 一(ひとつ) の 手段 として 奨励 し た ので ある。 中 にも 非行 の 同類 が 告発 を する のを 「返 忠」(かえり忠) と 称し て、 これ に 忠 と 云 ふ 名 を 許す に 至 つて は、 奨励 の 最 顕著 なる もの で ある。
平八郎 の 陰謀 を 告発 し た 四人 は 皆 其 門人 で、 中 で 単に 手先 に 使 はれ た 少年 二人 を 除け ば、 皆 其 与党 で ある。
(この間、平 山 助 次郎、吉見 九 郎 右衛門、吉見 英 太郎、河合 八十 次郎ら四名の密告の内容を叙述。)
評定 の 結果 として、 平山、 吉見 は 取高 の 儘 小普請 入 を 命ぜ られ、 英太郎、 八十 次郎 の 二 少年 は 賞 銀 を 賜 は つ た。 然るに 平山 は 評定 の 局 を 結ん だ 天保 九 年 閏 四月 八日 と、 それ が 発表 せら れ た 八月 二十 一日 との 中間、 六月 二十日 に 自分 の 預け られ て ゐ た 安房 勝山 の 城主 酒井 大和 守 忠 和 の 邸 で、 人間らしく 自殺 を 遂げ た。

(出所)森鴎外. 森 鴎外全集 決定版 全148作品 (インクナブラPD). innkunabula. Kindle 版.

言うまでもなく、「大塩平八郎」という作品は明治43年(1910年)の「大逆事件」に動機づけられ、江戸時代・天保8年(1837年)に大阪町奉行与力であった大塩平八郎が起こした乱を舞台にして鴎外自らの考えを述べたものである(と見なされている)。

明治43年の「大逆事件」は明治天皇暗殺未遂事件とされているが、現在では国家権力による「でっち上げ」であると見る研究者が多数派のようである。逮捕されたのは数百人にのぼり、うち起訴されたのが26人。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事他の検察当局により事件全貌のフレームアップ(=ストーリー化)が図られ、異例の速さで結審・判決となったのが特徴とされている。起訴された26名の内24名は死刑、2名が有期刑となった。処刑された中には著名なジャーナリスト幸徳秋水も含まれていた。現在では容疑の暗殺計画に少しでも同調、関与していたのは、氏名の特定されている数名のみであり、後はまったく無関係、完全な冤罪であったとされている。1960年代より「大逆事件の真実を明らかにする会」が中心となり再審請求が行われてきたものの、最高裁判所は請求棄却、免訴の判決を下している。

上の大逆事件で検察側の調書・求刑を支えたのは主として一味とされる容疑者の証言であるとされている。森鴎外が考察を加えたのはまさにこの点に関してであり、『大塩平八郎』は鴎外の考えが小説という形をとったものである。小説とはいえ、書かれている内容は考証文学とも言えるほどに綿密で、永井荷風は「科学と芸術」との融合と表現している。

◇ ◇ ◇

公益を目的とした内部告発者は保護されるべきであるという議論は現代の日本でもよく行われる。特にマスメディアにとって内部告発者は報道を支える材料提供者として大変貴重であり、新聞の販売部数拡大のためにも<匿名による密告>は実質的に奨励されるべきであるし、保護もされるべきである、と。当然、そう主張するはずである。

つい今年の春から夏にかけての事件が思い出されるだろう。前川文科省元事務次官が今治市の国家戦略特区と加計学園の内幕を暴露し「行政が歪められた」と非難し、一夜にして「時の人」になって以後、リークした文科省の役人は誰なのかという詮索が行われた。その時、マスメディア大手は一斉に「公益に基づく告発者は法的に保護されなければならない」と主張したものである。

内部告発者(=密告者)をどう観るか?どう処遇するのが正しいか?これは古い問題だが、現にいまだに問題であり続けている問題なのである。

公益に基づく内部告発は、すなわち鴎外の引用する<返り忠>であって、江戸時代の昔より、権力が秩序を維持するための倫理的ツールとして使ってきたものと本質は同じであろう。幕府は封建権力であるが、今では民主主義体制が権力そのものになっている。自分自身の権力を維持するために<公益による密告>を奨励していると考えれば筋が通る。

大逆事件をでっち上げた検察当局と加計問題をフレームアップ(したとすれば、だが)して、反政権闘争に利用したマスメディア各社は、本質的には同じ手を使ったことになるのではないか。どこに進歩があるか?

いずれが正当であるか結論が出るはずもないが、大塩平八郎一党の謀議を事前に密告した面々が事件後に優遇される中、うち一人は<人間らしく>自決を遂げた。そう述べているのは、森鴎外個人の<倫理観>というものであるのは間違いない。イエス・キリストを告発し、銀貨30枚を給されたイスカリオテのユダの自決を誰もが思い出すのではあるまいか。

途中まで関係、協力しながら、最後に密告をする行為をどう考えればよいのか?統治の論理と人間の倫理、美しさと醜さと、損得計算を理性とみるか物欲とみるか、そこには色々な要素が絡み、何が正しい考え方かという結論はそうそうすぐには得られない。敢えて言うなら、誰にせよ他人の不幸や破滅を意図的にもたらすという正にその事によって優遇を受けるとすれば、その行為は醜い。たとえ、公益に叶うとしても<醜い>と感じられるなら、同時に人間の倫理にも反している可能性が高い。とはいえ、こういう言い方もあくまでも一般論で、世知辛い浮世で人と争いながら生き抜くしか術をしらない凡人としては、<醜い>と言われても立場がないだけの話になるだろう。だからこそ、魂を救済する宗教というものが必要であったのだが。

2017年9月25日月曜日

選挙戦: スローガンではなく、具体的作戦がなければ問題外!

最近の不祥事の当事者になった国会議員たちがそれぞれ所属する政党を離党し、それでも無所属での立候補を選択し、支持者に説明会を開いたり、駅前で運動を始めているようだ。

ある候補は『子供が幼いときには手厚い児童手当、働いている間は安心して働ける社会、老いてからは安心のできる年金。これらが揃わなければ安心社会とは言えません!』、こんなアピールをしている。

反対する人間などはいないのはもちろんだ。

誰もがそうであってほしいという主張を繰り返しアピールするのは、「あなたいま幸福ですか?幸せになりたいと思いませんか?」と、誰しも本音としてもっている願望をついてくる宗教団体の布教活動と同じである。

宗教なら信じればそれで救われる。しかし、政治は宗教ではない。票を投じる有権者もバカではない。当たり前のスローガンではなく、どうすれば出来るのか?具体的作戦を語らないと票は増えないだろう。

◇ ◇ ◇ 

子育て支援、医療支援、手厚い年金を保障して安心社会を築くことは増税なしでは絶対に無理である。『増税なしで出来ます』と言う人は必ずいるし、現にいたこともある。しかし高齢化社会・低税率・高福祉を現に実現している国は一つもない。出来ないからである。『消費税率を20%まであげましょう。安心社会は夢であってはダメだ。おカネを出しましょうよ。それを財源に100年安心社会は必ずつくれるのです』、こんな構想を述べるのでなければ、手厚い社会保障は100パーセント嘘になる。ここまで有権者はわかっているのである。消費税を累進所得税率や法人税率引き上げ、環境税強化、資本課税強化に言い換えれば更に一層リベラル色が強くなる。語るべき構想を語らず、実現不可能な夢物語しか語らないので、政治に失望するのである。そういう悪循環がある。

その原因の一つとして、議員に当選することが、特に若年で議員を志す場合には議員であり続けること自体が生活設計の一部になる。こんな事実があるのかもしれない。国会議員の副業は禁止されてはいないものの、現実には兼業が相当困難である点もあるだろう。だから議員が職業になる。落選すると失業する。なので落選を極端におそれる。率直に語るべきことを語る勇気が出ない。そんな仕組みになっているのではないだろうか。

◇ ◇ ◇

そもそも国会議員は(特別)公務員であり、すべての国民に奉仕する公僕であると定義するのも問題が多い。国会では多数派が形成され、多数派の求める政策が実行されるのは当たり前である。<多数派の利益≒国民の利益>とみなして割り切るのが、任期のある国会議員による代議制民主主義の大前提ではないか、そう思うのでござんすが、誤りでありましょうや。

なにも「安心社会の建設」ばかりがスローガンたりうるわけでもない。「あなたには夢はないですか?富裕層に仲間入りしたくはないですか?もし事業の構想をお持ちなら、私たちは支援します。自由を保障します。活力のある社会、未来のある社会をつくりませんか?自由な経済圏を私たちはつくります。職業規制は廃止します。開業規制は廃止します。私たちは事業から得られる利益には課税しないことを約束します」、こんなアピールに魅力を感じる有権者も必ずいるはずである。配当課税は残すがキャピタルゲイン課税は撤廃すると言えばもっと新自由主義的になるだろう。誰もに安心は保証しないが、夢を追う人は応援する。夢を追う人を応援する人も応援する・・・。こんなアピールも十分魅力的であると(小生は)思うのだけどネエ・・・。

ビジネスには必ずターゲットがある。ターゲットを定めないマーケティングはない。自社製品は日本人全てのために提供しているのですなどと語る経営者がいれば、『あなたバカですか』と。必ずダメ出しをされる。政治もそうである。ある人達にとって嫌なことは他の人たちにとっては有難い。ある人達の希望は他の人達は邪魔をしたいものである。

政治団体(=政党)は、自党のターゲットをどう定めるか?ここが最も大事な出発点だ。ターゲットが定まれば、ターゲット外の人たちが忌避するような政策を訴えてもよいのである。ターゲットが支持すれば政党としては成功なのだ。というより、そうしなければ実行可能な政治戦略はつくれないはずだ。もちろん勝敗は数で決まる。決まったものが正しいのだ。なぜ正しいかは学者が考えるべき事柄である。これが民主主義の本質というものではござらぬか。

選挙区で選ばれた議員一人で出来ることは一人分の事である。党をつくり力をもたなければ大きな事は出来ない。「国としてこうする」と目標を決める「政党」は現代社会の政治的駆動力なのである。経済の場における「会社」と同じだ。

すべての人たちに平等公平に奉仕する会社はない。会社は顧客や支持者を喜ばせるために行動するのである。そうでござんしょう。政党だって、つまる所、おんなじでござんせんか。

代議制民主主義とは、つまるところ、私欲・支配欲をどうマネージして、社会制度にとりこみ、公益の向上へとつなげていくか。そのための工夫である。それ以外の見方がありましょうや。
◇ ◇ ◇


ところが、自民党は総合家電メーカーのような大規模政党である。「誰にでも何でもお役に立ちましょう」と言っているようなものである。トップ企業がこう出てくると、他企業は大事な側面で「尖がっている」項目を一つ設けて、あとは大体トレンドに合わせる。それが差別化のための理論的最適解でもある。実際、そうなっている ― もちろん共産党は別である。

本当の意味での対立軸がいつまでたっても与野党から出てこない。「これが国民のためになるのです」と、それしか言わないから、そもそもターゲット(=支持基盤)が真に求めていることを本当にやる気があるのか。そんな問いかけすら、するだけ無駄であるのが現在の小規模野党群である。民主党政権時には、あろうことか自民党の伝統的支持基盤を吸収しようとしているように見えたこともあった。『要するに自民党にとって変わりたいだけか』。小生はそう思ったものでござる。

与党と野党のコア・コンピタンスがぶつかりあう、「外面美人戦略」を放棄して、選択と集中に徹底して、支持基盤の本音を剥き出しにした衝突がいつ始まるのだろう?

現在の日本社会には確かに社会的な断層が形成されつつある。だから、やる気があれば、自民党への真っ向勝負もできるはずだ。自民党支持層は誰にでもわかっているのだから。  ー いや、無理かネエ、大体そもそも、マスメディア企業そのものからして、日本のエスタブリッシュメントだ。組織が固まっている共産党ならいざ知らず、自民党に真っ向から勝負するような(自民党になり変わるだけならば可)真のリベラルなど、巨大メディア大手につぶされるのではないか、と。それでもネット上で・・いや、それもダメか、それでもしかし、公職選挙法の穴がどこかにあるのではないかネエ、と。そんな風に思われるのである。

一体いつになったら日本の政治は面白くなるのだろう?

ま、ともかくも安倍政権の右翼的感覚には頻繁に拒否感情を感じるが、それでも自らのターゲットを喜ばせることを目標とし、と同時にターゲット外の人たちの怒りとの差し引き計算を常に忘れないところは、政治家としてあるべき模範である。そう思っているのは事実だ。

2017年9月23日土曜日

衆議院解散の大義名分はあるのかって?

にわかな解散風で本当に政治というのは一寸先は闇であると思いを新たにする。

日経にこんな解説がされている。

 ただ調査は野党の候補者一本化を前提としない数字だ。野党共闘が奏功すれば自民党の議席はさらに減る。逆に野党がしくじれば自民大勝の芽もないわけではない。「危険な賭けだ」と漏らす首相側近もいる。消費増税の使途見直しや憲法改正、北朝鮮への対応などが争点になる気配だ。

(出所)日本経済新聞、2017年9月23日

ただこれだけ大義名分を並べても反政権派マスメディアは解散の大義名分として説得力にかけるというだろう。

現政権は率直に語ってはどうだろうか。

臨時国会でも野党は再び森友事件、加計学園問題を追求する構えだと伝えられている。しかし、北朝鮮をとりまく国際環境は年末にかけて更に一層緊迫の度を増すという外交当局の予想である。

アメリカの方針、現行憲法の制約の中でどこまで日本が行動できるか等々、困難な政治が予想される。そんな中、予算委員会その他で(小生の目にはどうでもよいとしか思われないが)国会がテレビ中継される中、延々と森友・加計学園問題で首相以下の閣僚が出席を求められる事態は、日本の「国家」というものを考えれば、やはり大きな問題で、大げさにいえば戦後日本式・議会制民主主義の負の側面であると、思ってしまうのだ、な。

行政府の問題は会計検査院や検察庁など非政治的・中立的機関が設けられているのであるから、公的機関による検証を国会も信頼し、議会が本来果たすべき仕事にとりくむべきだろう。

実際、民進党は蓮舫代表が春先からの与党追求、内閣の支持率低下にもかかわらず辞任を余儀なくされ、離党者が相次ぎ党自体が崩壊寸前の危機に陥り、前原新代表への期待も薄いと伝えられている。戦術が成功しているならこうはなっていないはずだ。マスメディアが反政権闘争を展開し、内閣支持率を低下させても、それでもなお新しい政治への期待はさっぱり高まってはいないのだ。野党のとった戦術が広く国民に支持されるどころか、ある面では辟易とした感情を形成してきたという歴然たる事実がここにある。

春先以降のこれら全ての情勢を含め、<内閣の信任を問う>解散と選挙であると率直に語れば、それで十分ではないだろうか。

・・・こう述べると、『結局は、森友事件・加計学園問題の国会審議から逃げるのをよしとするのか』という指摘になってくるだろう。こういう見方は決して否定できないのだな。つまるところ、モリカケ事件を<些事を問題視した次元の低い政争>と見るか、それとも<現政権の腐敗>をそこに見て国会が行政府を問い詰めるべき大問題と解釈するのか。この二択である。こんな結論になるのではないか。

小生は(どちらかといえば)前者に近く、なので現政権の右翼的思想には拒絶感をときに感じるものの、同程度の辟易さは春先以来の民進党にも感じているので、この辺りで内閣の信任投票を国民に提案するやり方もあってよいと思っている。

信任が確認されたという状況になれば、集団的自衛権を認めた現・安保法制の運用にも自信が得られ、マスメディア攻勢や違憲訴訟の殺到にもメゲず堂々と反撃する、そんな覚悟もできる。こんな風な期待も(ひょっとすると)あるのかもしれない。もちろん「とらぬ狸の皮算用」という可能性もあるわけで、自民党の予想外の敗北、首相退陣という信じられない展開も絶対にないわけではない。「一寸先は闇」なのである。

というわけであり、激しく変化する時代、危機の時代には、前例のない解散の仕方があってもそれこそが歴史の進展であると思うわけで、前例が少なく好ましくないと言うそれ自体を問題視して学問的論議を重ねても神学論争に落ちていくだけである。社会を対象にする学問は現実の中から新たな概念を抽き出し理論を発展させ自己革新していくしか進む道はない ー 学界のバックアップがないことは現政権のウィークポイントには違いないが。

2017年9月20日水曜日

祖父のエピソード: これは奇縁だったかも

小生の母方の祖父は名を石丸友二郎という。裁判官をやって人生を送った人である。だが、色々と失敗をした人でもあったようだ。

たとえば祖父が旧制松山中学(小生の親は父方・母方とも四国松山地生えの家に生まれた)を卒業するときのことだ。その頃、成績第一位は熊本の旧制五高に推薦入学できたらしい。ところが祖父は2位であったようだ。2位は五高ではなく、岡山にあった旧制六高への推薦が可能だったと言う。小生なら大人しく六高に進んだと思うのだが、祖父は実力に自信があったのだろう、『試験を受けて五高に行きますから』と言い放ったそうなのだ。ところが受験してみると、祖父の言い分によれば得意の数学で勝負をするつもりだったところ、たまたまその年の問題は多量の計算を要する問題が出題されたらしい。小生も単純で面倒なばかりな計算は嫌いであったが、祖父も計算は苦手だったらしい。多分、計算ミスを途中でやって、キリの良い答えが出なかったのだろうか、時間が気になり焦ってしまい、あえなく不合格になった。さすがに見栄を切った手前恥ずかしく、表にでることもいやになり、鬱症になった祖父をみて、父親(=曽祖父)は海辺にある家の一室を借り、一夏のあいだそこに滞在させたと言う。いまでいう転地療養である。それで元気を取り戻した祖父は秋から受験勉強を再開する気持ちになったのだが、これが運勢というのか翌年の春に旧制松山高校が開設されることに決まった。それで、祖父は熊本にも岡山にも行かず、地元の松山高校にそのまま進むことになった。

そんなことで岡山の旧制六高に学ぶ機会はついになかったのだが、もし六高に進んでいれば有名な新島八重の娘婿である広津友信がまだ英語教師か生徒監として在職していたはずである。広津は六高に明治34年(1901年)から大正9年(1920年)まで勤務していた。もしそうなっていたら、祖父のことだから広津から聴いた新島八重や戊辰戦争前後の色々なエピソードを小生にも話してくれたに違いない。

石丸友二郎。妻は同郷の作道家から嫁した米代である。長女の名は静江。7歳下の弟が元一である。静江、即ち小生の母である。静江は夫・芳男が53歳であるときに死別し、その後11年を経た後61歳で他界した。元一。妻は和子である。二人とも松山市で暮らし健在である。

こんなことを調べる気になったのは、会津若松の特産である「ニシンの山椒漬け」が小生の好物なのだが、中々地元では手に入らず残念であったところ、ふるさと納税で寄付すれば送ってもらえるのではないかと思いつき、ネットを検索してみると、意外や会津若松市ではなく隣の会津坂下町でお礼の品の一品としてニシン山椒漬けがあるのを見つけた。ただ、会津坂下町には行ったことがなく馴染みがないので、調べてみると出身者の中に新島八重がいる。NHKの大河ドラマで八重は有名になったが、生まれた土地は若松ではなく、坂下であったのかと、再び八重のことを調べ直しているうちに、上の娘婿・広津友信に行き着いたのだ。

広津友信。福岡県出身で同志社英学校に学び創立者・新島襄の信頼厚かった人物である。新島の死後に米国・ハーバード大学に留学し帰国後は同志社の校長代理を勤めた。しかし明治34年に或る校内トラブルに巻き込まれ、同志社を辞任し、同年秋岡山の六高に移籍した。妻は新島八重の養女・初である。初は元・米沢藩士である甘粕三郎に育てられたが、実の親は父が元・米沢藩士甘粕鷲郎、母が元・会津藩士手代木勝任の娘・中枝である。両親が早く亡くなったため叔父・甘粕三郎が初を引き取って育てた。初の祖父・手代木勝任は会津戦争で敗勢が濃くなる中、秋月悌次郎とともに米沢まで陰行し降伏の仲介を依頼した。同藩の協力で会津藩は官軍・板垣退助らに降伏を申し入れることになり戊辰戦争は大きな山を越した。

・・・ついでにいうと、上にあげた祖父は東大には順調に進んだが、その後司法試験(当時の高文試験)を受験するときに遅刻するという大失敗をまた犯してしまった。ただ、この時はさすがに鬱症にはならず、小田原の中学校で臨時教員を一年勤めてしのぎ、翌年度に無事合格した。なので、祖父は10代においては駿馬であった(という)のだが、職業人生を始める時点においては既に人に遅れをとっており、裁判官とはいっても地味な支部勤めが多かったような気がするのは、若い頃のこんな失敗が尾を引いたのかもしれない、と。今になってから思ったりしているのだ。

2017年9月18日月曜日

暴言議員・豊田女史のインタビューで思う

暴言暴行で世を騒がせ自民党を離党した豊田真由子議員に民放のニュースキャスターMがインタビューしたというので注目されている。

今回は秘書への暴言暴行とはうって変わり、スッカリと萎たれた反省ぶりで、これが録音された人物かと思われるほど、声調はまったく別人である。

インタビューの内容自体については多くの意見が既にネット上にアップされている。改めて付け加えなくともいい。

ただ思わず考えてしまったことがあった。

◇ ◇ ◇

豊田議員は、繰り返すまでもなくエリートである。有名女子高校から東大法学部に進み、中央官庁の官僚となってから、米国・ハーバード大学に留学するなどを経て、衆議院議員に当選した。極めて聡明で、昔流の表現を使えば「目から鼻に抜ける」ような大秀才、いやいや超才媛であったからこそ可能だったキャリアである。そんな人だからこそ、暴行暴言が世間の一大テーマになったわけでもある。

悪い意味で『命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること』という孔子の言が当てはまってしまったわけだ。

しかし、よく考えてみると、オリンピックの金メダリストが不祥事を起こすのだから、勉強エリートがトラブルを起こしたくらいで驚くことはないのだ。理屈はそうでござんしょう。

T女史の場合、「頭がいい」というその点こそがどうにも好感を持てない大きな短所として働き始めている。これが厳しい現実として指摘できる。

◇ ◇ ◇

少し敷衍しよう。

下の愚息に何度も言っているのだが、人の長所は即ちその人の欠点であり、欠点は即ち長所である。たとえば<大胆>な人は同時に<鈍感>な人物でもあり、より大胆であればあるほど一層鈍感にもなりうる。鈍感であるという欠点を表面化させないためには繊細である必要があり、そうなるべく努力をすれば本来の長所である大胆さが消えてしまうのだな。理想は「大胆にして細心」だが、言うは易しだ。他の性格もすべて同じである。

聡明な人は変化や違いに敏く、状況変化に即応してとるべき対応が直ちに分かるものである。頭の回転が生まれつき速いのだ。かつそんな人は記憶力が抜群に良い。それが普通の人間集団におけるトラブルの中では最大の欠点となりうる。前にも投稿したことがあるのだが、小生の田舎でいうところの「キョロマ」になることが多いのだ、な。

大成功するための必要条件として大阪では三点が強調されている。誰でも知っているそれは<運・鈍・根>である。頭のよい人物は鈍な人物を演技できないものである。上手に演技しようとする努力そのものが、鈍な人物ではなく賢い人間である事実を浮かび上がらせてしまう。

故に、聡明な人は概して大成功には至らない。これが昔からの経験則のようなのだ ー 小生の亡くなった父もその轍を踏んでいたように(今にして)思ったりする。

江戸幕府の名老中であった松平伊豆守信綱は「知恵伊豆」と呼ばれるほどの秀才であったが、人望薄く、「才あれど、徳なし」と評されていたそうだ。小姓をつとめて以来ずっと仕えた将軍・家光が薨去したときに殉死はせず(4代家綱を託された故であるが)、そのため「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と庶民からは揶揄されている。

◇ ◇ ◇

非常に頭のいい人物というのは、使われる人物であってこそ輝くことが多い。尊敬や人望、器の大きさとは無縁になりがちだ。「頭の回転が速い」という素質単独ではせいぜい歯車一枚が担当できる範囲のことしかできない理屈だ。大成功に至るにはもっと必要な才質がある。

知恵伊豆や一休さんのように「頭の回転が速い」、「頭がいい」ということが真に求められる仕事とは一体なんだろうか、よく考えると分からないのだな。小生の身近には研究者が多数いるが、研究者としての成功は「頭より性格」、これが経験則だ。やはり、どう考えても人の手足になって指示された仕事を正確かつ速やかに進めるときではないか。それとも当意即妙が求められる芸能人だろうか・・・。頭の回転が速いことは、足が速いのと似ていて、あくまで個人の能力なのである。走るのは一人で走る競技もあるが、仕事は一人では中々できない。頭の良し悪しはその人個人の才能なのだ。そういえば東大生の芸能人化現象がさいきん顕著に進んでおるなあ・・・。ま、これは別の話題。

今日はどうも結論らしい結論はありそうもない。が、上で「考えてしまった」と書いたので一応全部書きとめておく。

一生懸命に受験勉強をすれば普通の人でも解答可能であるような特定のパターンの問題を<制限時間内>で解くような筆記試験は、頭の回転の速さを測定しているわけであり、まったく人材選別に無益とまでは言わないが、問題解決能力を問うものではなく、選別手段として高い精度をもっているとは言えない。

筆記試験では<真に解答困難>な問題を出題し、体力の限界を問うほどの長時間を与えて解答させる方式の方が選抜手段としては有効だと思う。評価は主観的にならざるを得ない。だからこそ、評価を担当する側にこそ一流の人間を配置するべきだ。中国伝統の科挙はその方式であった ー それでも出題パターンは無限にはないので受験勉強の巧拙で合否が決まるところがあったと何かで読んだことがある。

厳しい勝負の世界で生きているプロスポーツでは、練習を重ねいま身につけているスキルより、「基礎」と「伸びしろ」をみて選手を選び育てているはず。これはどの世界にも当てはまることだ。

こんなことを改めて考えてしまった。ま、月並みなことである、な。

2017年9月16日土曜日

ずっと昔の「文春砲」?

夏に読み返すなら永井荷風の『濹東綺譚』が最良だと思っている。この夏もまた読んだのだが、面白い下りがあったのでメモしておく。

主人公の大江(≒荷風自身)が遊興の巷・玉の井をなぜ歩き回るようになったのかを語る場面である。

此に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。・・・十余年前銀座の表通に頻りにカフェーが出来始めた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙ってわたくしを筆誅した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、「世に生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。

と、こんな下りがあるのに改めて気がついた(岩波書店『荷風全集』第9巻(昭和39年初版)、134頁)。

『濹東綺譚』が書かれたのは昭和11年(1936年)のことである。「う~む、81年も前から文藝春秋という会社はこんな「筆誅」なるものをやっていたんだネエ」と、改めてというか、つくづくと、会社の根性なるものに感嘆した次第。

とはいうものの、永井荷風はことさらに『文藝春秋』のみに辟易していたわけではない。

たとえばこんな下りもある。

文学雑誌『新潮』は森先生の小説に対していつも卑陋なる言辞を弄して悪罵するを常としていた。殊に先生が『大塩平八郎』の一編を中央公論に寄稿せられた時『新潮』記者のなしたる暴言の如きは全く許すべからざるものであった(岩波書店『荷風全集』第15巻(昭和38年初版)、232頁)。
荷風がいう「先生」というのは森鴎外のことである。上は大正11年(1922年)8月発行『明星』に掲載された『森先生の事」がオリジナルである。書かれたのは実に95年も前のことだ。

現在、「週刊文春」と「週刊新潮」が何かと言っては人の秘密を暴露しては人を非難し、販売部数を伸ばす競争をやっているが、「この性向、昔から何も変わっていなかったんだネエ」とつくづくと感嘆した。

同じ路線を100年近くも走り続けるのは、会社であるとしても、ある意味で偉大なことであろう。



2017年9月14日木曜日

北朝鮮問題: 間の抜けた記事、間の抜けた予測

新聞記事を書いている記者がどの程度まで書いている事柄について勉強しているかというと、疑問に感じられることが多いと。こんな指摘は以前からある。次の下りはどうなのだろうか。

 (前略) また、日米の運用が一体化すればするほど、自衛隊が米軍と同じ集団とみなされる恐れがある。もし北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、給油などをする自衛隊にも矛先が向きかねない。政府がどこまで情報を開示し、正確な実態を伝えるかも議論が必要になる。


北朝鮮が仮に日本海で米艦を攻撃すれば、直ちに安保法制上の「存立危機事態」及び「武力攻撃予測事態」が宣言され、集団的自衛権が発動されることは確実である。

その集団的自衛権について違憲訴訟が殺到することも予想される。

しかし、現に北朝鮮が米艦を軍事攻撃しつつある事態になれば、詳細を述べるまでもなく、集団的自衛権に基づき自衛を進める内閣を支持する世論は高まるであろう。違憲訴訟の結論がでる以前に、憲法改正が発議され、国民投票に付されることもまず確実ではないかと思う。国民投票では賛成多数となるであろう。

なので『北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、・・・自衛隊にも矛先が向きかねず』というのはかなり間の抜けた話しで、そんな<有事>においては自衛隊というより日本の国土が当然の理屈として北朝鮮の攻撃対象になる。これはもう当たり前のロジックだと思うのだが、「そうならないように出来ないか」と願うなら、上のような暢気な予測を述べるより、戦争を避ける戦略的外交の余地について特集記事を企画したり、世論を形成する努力を(もっと)するべきではないだろうか。

森友騒動や加計学園騒動ではそれができたのである。

2017年9月13日水曜日

主観におぼれては良い分析も、良い提案も、良いレポートも無理である

商売柄、レポートを添削したり、評価することは多い。

明確に言えることだが、優秀なレポートは読んでいて楽しい。書いている本人の知的な活動がイキイキと伝わってくるものだ。

よく起承転結を大事にせよとか、序論・本論・結論をハッキリ意識せよとか、良いレポートを書く鉄則について話したりするのだが、最も大事なことはロジックを通せという点に尽きる。なぜなら、感性や価値観、理念、主張は人さまざま、文字通り「人は色々」だからだ。感性や価値観はバラバラでも、論理は万人共通である。だから明確な論理で整理されたレポートを読むと、思わず『この人はホント頭がいいねえ』と感心するのだなーもちろん、どんな論理にも前提はあるので、結論に常に同意するとは限らない。これまた当たり前。

◇ ◇ ◇

さて、と。ある報道記事(というよりブログ記事)に次のような下りがあった。
今、野党は何を目指すべきか。 
「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから、すでに「失敗した」と見られている「民進党」という器にこだわらず、国政の転換のための野党勢力の大きな結集を実現し、一対一の構図を作り出すべき、というのは、前回の論考で書いた。 
で、こういう書き方をすると、「理念なき数合せでは駄目」みたいな評論が必ず出てくる。それはその通りだが、しかし私が見ている限り、バラバラで遠心力ばかりが働いているように見える野党勢力だけれども、当面の政権政策となりうる政策の一致は、本当のところ、十分に可能であるように思える。
(出所)BLOGOS、2017年9月13日

ご本人はレッキとした政治家だ。だから自派の立場を伝えようとする意欲はわかるのだが、わかるのは残念ながら『何か、強い思いがあるんだネエ』というところまでだ。

小生、最後まで読むことが出来なかった ー 教師としての立場上、こんなことをしてはいけないものの、最初の数行を読んだ段階で関心が萎えてしまうレポートもある。そんなタイプのレポート文と同じであった。

◇ ◇ ◇

「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから・・・というところでもうダメであった。

学生のレポートであれば「違うでしょ」と言うだろう。

政治というのは「お山の大将」になる陣取りゲームではない。現代は戦国時代ではないのだ。当人たちは勝負の意識が強いのだろうが、それは「当事者の主観」でしかない。国民とは共有されていない。

民間企業ならシェア第1位になりトップ企業として君臨するのが、経営目標といえば目標だ。しかし、ただトップ企業を倒すことを第一目標にしてはいけない。

トップ企業は、多くの顧客から評価されているからこそ、現時点のトップでありえている。この事実は大変厳粛である。それはトップ企業が有している価値であると同時に、そのトップ企業は顧客を含む社会全体にとってのリソースでもあるのだ。ただ「トップを倒したい」なら、虚実とりまぜた「ネガティブ・キャンペーン」を徹底してやればよいのである。トップ企業はボディブローのようなダメージを被るだろう。しかし、それは商慣習としてタブーになっている。その意味合いは政治家や政党にとっても非常に重要ではないだろうか。

「トヨタにとって変わることはトヨタ以外の国内自動車メーカー共通の大目標だと思うんですよね」という御仁が、たとえばゴーン社長の後継者になるとすれば(ありえないことだが)、『こいつバカか』と思うだろう。「よい自動車」を提案して新たな時代を切り開けば、結果としてトップになれるのだ。

◇ ◇ ◇

違った政党は、異なった提案をしている(はずである)。提案が異なるのは基本理念が異なり、目標が異なるからだ。そもそも「政党」っていうのはそういうモノでござんしょう。民進党と日本共産党は基本理念が異なる(のは明らかだ、民進党の理念は少しアイマイだが)。理念が異なり、目標が異なるなら、協力できるロジックはない。

であるのに、「大目標」とはよく言ったものである。薩摩と長州は「幕府を倒す」という目標で一致したわけではない。攘夷が困難であることにいち早く気づき、幕藩体制という現状が国の独立を危うくしているという認識を共有し、「倒幕」が必要であると認識し、「強い日本を建設する」という目標で一致したから、薩長反目の経緯を乗り越えて協力できたのだ。倒幕は「大目標」ではなく通過点であった。何より「行き先」が大事なのだ。幕府を倒すという大目標で協力したわけではない。それでも具体的政策レベルで違いが表面化したから西南戦争が起こってしまった。目的が違うなら、やっている先から内紛が起きるだけである。

小生の若い頃に「革命はまだ起こらねえのか!」と叫ぶ御仁がいたが、ただただリニューアルしたいだけで壁紙を剥がし、家具を撤去したら、漂流するだけでしょう。

夢をまず語るべきである。夢があったから志があり、「志士」と呼ばれたのだ。であるのにネエ、上のブログ記事はトテモじゃないが読めたもんじゃございませんでした。

◇ ◇ ◇

レポートの序論では、問題を提起し、その問題について全ての人が認めるに違いない合意事項や大前提を示す。そこで本論に入り、ロジカルに問題の解決策を浮かび上がらせていく。これがレポートの王道である。

奇をてらったレポートは「本心はどこにあるのか」とアラヌ腹を探られるだけである。政治家も奇をてらわず、王道でいくべきだ。勝つこと自体を目的とする詭道(鬼道?)は日本の政治の場において共有されている社会資源を損壊するだけである。

2017年9月10日日曜日

メモ: 「文春砲」についてどう思うか

「文春砲」という単語は小生が東京で小役人をやっていた時分にはなかった。ごくごく最近年になってから使われ始めた言葉だ。

とはいえ、こういう「社会的制裁」、いやいや憲法で「私刑」は禁止されている、そうではなくて「報道サービス」は自分たちが暮らしている社会の自浄機能を維持する上で必要である。これまた事実であるのだな。

人間ドックでこんな会話をしたことがある。
コレステロールが上がっていますね。チョコレートはお好き?そう、それは止めたほうがいいと思います。チーズは?
お節介な話だが、本当に悪い所があったときに、「悪い所がある」と正確に指摘してくれるためには厳しい判定基準が必要なのである。統計学では「第1種の誤り」と「第2種の誤り」のバランスをどうとるかという問題になる。前者はヌレギヌ。つまり「悪くはないのに悪い」と判定してしまう、後者は見逃シ。即ち「悪いのにそれに気がつかず放置してしまうことから問題が拡大する失敗」をさす。人間ドックに限らず、すべての検査、すべての判断行為には判断ミスの可能性がまじるものだ。

甘い捜査をすればヌレギヌをきせる回数は減るが、真犯人を見逃す誤りが増える。厳しい操作をすれば、容疑者は落とせるだろうが、冤罪をうむ可能性が高まる。一定の情報で判定するなら、二つの誤りはトレードオフである。

◇ ◇ ◇

「文春砲」のターゲットになった人物は、記事の内容がすべて事実なのか、一部分は事実なのか、まったくの虚偽なのか、その度合いや真相とはかかわりなく職業上の地位を(たとえ一時的にもせよ)失うという憂き目にあうのが現実だ。

社会にとって有用な人材が週刊文春編集部の私的な判定で葬られてしまうのは確かに社会的損失である。が、本当に悪辣で警察による捜査では立証し難い人物であっても「黒い噂」が週刊文春に掲載されれば、その時点で当該人物は大打撃を被るだろう。

理想はピンポイント砲撃であるが、そこには狙うターゲットはいないかもしれず、砲撃すればやはり無辜の市民も巻き添えをくう、無実の御仁もドカ〜ン1発で哀れなり、社会的生命は花と散る・・・犠牲をゼロにするのは実に難しいものである。同じ理屈じゃな。

◇ ◇ ◇

確かに「文春砲」のような存在は社会にとって必要なのである。が、犠牲者はやはりゼロではない。これまた払うべきコストということだ。悲しいけどねえ・・・。

今回の騒動は山尾議員の身の不運かもしれない。仮にそうだとすれば、それは日本社会が自浄機能を維持するために必要な犠牲ということになる。
お上が何もかもやるわけにゃあいけませんからネエ、火消しもそうなんですけどネ、この辺はもう町方の考えでやってもらってるんでござんすヨ。こりゃあいけねえヤって皆が思うなら消えていくでしょうし、何かのお役に立つってんなら使う人も出てきましょう。まあ、見ててごらんなせえ、落ち着くところに自然にネ、落ち着くってことじゃあござんせんか?
そういうことか。大火から江戸を救うには、燃えてない家を壊しても「致シ方ナシ」。不純異性交遊の蔓延をくい止め、世間の規律を保つには犠牲も時には「ヤムヲ得ヌ」。かなり危ないことを二人がやっていたことは確かだし、そうかもネエ・・・。

2017年9月9日土曜日

メモ: 憲法改正に関連するベーシックな論理

数日前、すっかり秋めいた北海道の晴れた昼下がり、部屋でゴロゴロしていると、不図こんなロジックもあるなあ、と気が付いた。

明治憲法の改正手続きに則して日本国憲法は公布・施行された。これが(一応手続き的にも)公式の見解になっている。が、そんなことは可能かという問題が学会にはあると耳にしている。

ここで一つの問題:
日本国憲法の改正手続きに則して明治憲法に戻すことは論理的に可能か。

結論:
論理的には、可能だ。

◆ ◆ ◆

なぜそうなるかを以下にメモしておく。

一見すると、国民主権を原理とする日本国憲法から天皇主権を基礎とする明治憲法が導かれるはずがないと思われる。


簡単のため次のように記号を定める。「明治憲法を是とする」を命題A、「日本国憲法を是とする」を命題Bとする。現在の公式解釈は(論理としては)「AならばB」である。

仮に日本国憲法から明治憲法は導かれえないのだすれば、その命題は「BならばAでない」になる。ところが、この対偶をとれば「AであればBでない」となる。これを言葉になおすと「明治憲法を是とすれば日本国憲法は是にならない」となる。しかし、現に明治憲法から日本国憲法が導かれたと公式には解釈されている。故に、上の命題は真ではない。ということは、その対偶もまた真ではないことになる。即ち、元の「日本国憲法から明治憲法は導かれえない」という命題は偽である。故に、「日本国憲法から明治憲法は導かれうる」。

要するに、明治憲法の改正手続きから日本国憲法が制定されたのだと考えれば、日本国憲法を改正して明治憲法に戻すことができる。もちろん、国民投票でどうなるか、それは分からない。しかし、そんな改正が行われたとしても、決して不合理ではないわけだ。

◆ ◆ ◆


上の議論は東大法学部の正統とされる「八月革命説」とは異なる。この学説に立てば、明治憲法から日本国憲法は得られない。昭和20年8月に(概念上の)革命が起きたと考える。もしそう考えるなら、日本国憲法から明治憲法は出てこない。実態としてはこちらが正しいのだろう。しかし、仮にそう考えるならば、今度は明治憲法を廃止して新たに日本国憲法を制定したのは誰か、という問題に解答する必要が出てくる。

この問題は、歴史的事実をどう認識するかという問題レベルを超えるものらしく、憲法学界でも一致した答えが未だにないようだ。このこと自体、一種、驚きでもある。が、まあ、それはそうかもしれない。まさか「アメリカ人が制定した」とは法理からして言えまい。なぜならアメリカ人には日本の憲法を制定する権利がないからだ。それとも連合軍が表明した意志として憲法改正が含まれていた。占領中であれば可能であった。実態はこれに近かったのかもしれない。が、そうであれば、日本国憲法は「民定憲法」とは言えないであろう。国民が制定したわけではないなら「国民主権」であるとも言えないかもしれない。これよりは明治憲法の改正手続きに則して日本国民が日本国憲法を定めたと解釈する方が収まりがよいかもしれない。どうもこれまたハッキリした統一見解がないようだ。

「戦後日本」の古くて、最も重要な出発点が、現・統治構造の下で今なお不明確である。ここは認めざるを得ないのではないだろうか。だから憲法の正当性に疑いをはさむ集団が存在する。ここから様々な問題が対処されないまま問題としてそこに現存するわけだ。


2017年9月8日金曜日

スーパー受難の時代: 「欠品1回」のこわさ

最近のヘルシーブームに乗っかって我が家も東洋ライス製「金芽ロウカット玄米(無洗米)」の優良顧客になった。

この商品、玄米の表層をのみカットしているので通常の玄米と栄養素は変わらないまま、炊き方は白米と同じである。かつ、食味も白米とほとんど同じで、特に茶漬け、チャーハンなどにすると白米よりも美味い(と小生宅では話している)。言うまでもなく、玄米は万能食と言われており、玄米では摂取できない栄養素をあげたほうがよいくらいだ。

最初、この食品を知ったのはCOOPのトドックである。ところがトドックは便利なものの配達は週一回で毎日食べている食品がなくなったときは不便。先日、いきつけのイオンで探してみるとあるではないか。『いま評判だからサ、置いているのは当然だよ』とカミさんと話したものだ。

本日は、隣町S市にあるイオンモールに買い物に出かけた。ついでに残り少なくなったロウカット玄米を買って帰ろうと思った。が、ないのだな。『扱ってないみたいだよ』、『でも近くのイオンにはあったんだから・・』、『売り切れかなあ?』、『もし売り切れなら、札があってそこが空になっているはずだしネエ』、『それもそうだなあ、ある期間だけ置いたりしているのか?』。

結局、今日は断念して帰宅したが、戻ってからアマゾンを検索すると、2Kg2袋が2480円で販売中だ。プライム会員なら通常配送料無料。『これは買いだヨネ!』、『そうだね』となる。

購入チャネルはこうして古い購入先から新しい購入先へとシフトする。新しい購入習慣が形成され、やがて定着する・・・。

◇ ◇ ◇

注文してから思った。これは確かに小売業界は危機だわ、と。

アメリカは、いまいかにしてAmazonとつきあっていくかが生き残るための大問題になっているようだ。ウォルマートは徹底的に戦うらしいが、その帰趨は予断を許さない。Amazon Echoの日本語版が発売されれば、日本国内の小売業界も一気に激変するに違いない ー まだ日本語対応品発売の予定はないそうだが。

スーパー、というか大規模小売店は売れ筋を大量販売・大量調達することで価格支配力を維持し、それによって利益を出してきた。しかし、品揃えを売れ筋に集中すれば、マージナルな商品を外すことがある。もともと消費者は、色々な多種多様なものを本来欲しているものである。そんな心理でいながらスーパーに並ぶ標準品をみると「これでイイか」と思って買ってきた。消費者がスーパーに合わせてきたのだ。

ところがAmazonを検索するとズバリ欲しいものがいつでも買える。住んでいる場所は問わない。「欠品1回」が「わざわざ行っても置いてないかもしれない」という憶測につながる。「じゃあ、いまAmazonに注文するか」となる。

今後も既存の大規模小売店は顧客の流出、販売チャンスの喪失に悩むことだろう。有効な対抗策はあまりない。売り方・買い方が激変しつつあるのだ。今後、日本人の買い物の基本スタイルは一変するだろう。その変化はスーパーなる業態が誕生した時を超える激しい変化になるに違いない。手にとって買いたいものは確かにある。が、それを買うスペースが既存のスーパーである可能性は低い。

面白い時代、と言うより怖い時代になった。そう思った今日一日である。

2017年9月7日木曜日

仕事のモラル、男女のモラルとも前近代的ですぜ

民進党の山尾議員が同党・幹事長につく見込みであると報道されたところ、結局は別の人になり、新代表早々の座礁とかアレコレ言われ、これいかにと思っているとやはり出てきました・・・W不倫。今度はにわかに離党か、議員辞職か、そんな話になってきた。このパターン、最近年になって非常に多いのだな。

フランスでは前のオ大統領が事実婚だったかどうか忘れたが「現夫人」と離婚して、「新夫人」を迎え入れたことがある。イタリアのベ首相は、不倫も汚職(疑惑?)もくぐりぬけてきた猛者だが、イタリアの首相該当職である閣僚評議会議長を合計9年間も勤めてきたときく。

私は彼女を愛している。彼女も私を愛している。妻には申し訳ないが、愛のない結婚生活をこれからも続けることが社会人の責任だと君たちは言うのか?妻も私との結婚生活にピリオドを打つことを受け入れてくれた。もちろん、生涯を通して妻への感謝の気持ちは変わらない。生活の保障もするつもりだ。愛は移ろい行くが、感謝の気持ちに変わりはない。

こんなキザなことを言ったかどうかは分からないが、公人・政治家とはつまり職業人、男女の愛とは私生活。この区別をどの程度の厳しさで社会が設け、一人一人が意識するかは、その国ごとの文明の度合い、というか価値観によるのだろう。

ただし、日本の場合、これ以前の問題があるかも。

小生が中学生だった頃に使われていた「不純異性交遊」という非日常的単語。最初は言葉の意味が分からなかった。男子と女子は言葉を交わしてはいけないのかとさえ思ったものだ。そうではないのだが。議会は上意下達で仕事をする場所ではなく、議員一人一人を大事にしてくれるという意味では、学校社会に似ているところがあるのかも。

まあ、今となっては<お笑い用語>だと思っていたのが、最近マスコミのゴシップを聞くにつけ、よく思い出してしまうのが「不純異性交遊」という言葉だ。「不倫」というのは渡辺淳一的な一途の愛を言うのじゃないの?ちょっと事実認識において、ピンと来ないことが多いのだな。仕事仲間なら二人で食事をすることもあるし、ホテルでおしゃべりをしたくなることもあるだろう。男同士、女同士、男女二人であっても、だ。それが疑わしいってんなら、女性が輝く社会などと大層なことを話すんじゃない。そう言いたくなりますぜ。

◇ ◇ ◇

それにしても、仕事の場に自然に醸し出されてくる男女の間の信頼感と、この信頼感がそのまま私生活を侵略しているのではないかと疑う周囲の視線。

疑うのはモラルに立脚して疑うわけだが、社会の実態が変わればモラルも進化した方がよい。そう思うのは小生だけだろうか。

その昔、ナポレオン戦争の頃、制海権を有していた英国は敵国オランダの国旗が日本の出島にまだ翻っていることを知った。そこで英海軍のフリゲート艦・フェートン号が長崎港に侵入しオランダ商館員を拉致した。幕府・長崎奉行所は大騒ぎになり、フェートン号を焼き討ちしようとの計画を進めたのだが、同艦は商館員を解放し、そのまま姿を消した。長崎奉行・松平康英は『世を騒がせしこと、誠に申し訳ござらぬ』と遺書をしたため、腹を切った。

文化5年8月15日(1808年10月4日)のことである。

フェートン号事件は、長崎奉行とはまったく関係のないことで、責任はゼロである。被害もない。にも関わらず、切腹をして幕府に(世間に)詫びる決意をした。それがまた悲劇と受け取られる風でもなく、その後の日本の異国船打払令へと日本の歴史は進んでいった。その意味では幕末の攘夷運動の契機をなした事件である。

まあ、いいんだけどね、という奴でもある。

この歴史、小生はよく「なんと言うことか」と感じていて、<世間と自己>をどう考えるかと言う日本的モラルの象徴のようにも思われてきたのだ。世間が個人に押し付けるこのモラルが、実は陰に陽に日本人を不幸にしている。その第一の原因である。そう思うことが多いのだ、な。

「モラル」とは世間が決めるものではない。もし世間が正邪善悪を決めるなら、『己信じて直ければ敵百万人ありとても我行かん(日蓮)』という名文句が出てくるはずがない。

「モラル」、いや「世間」と呼ぼう、ここにも進化が必要だと感じることは多い。仕事にも、家族にも、男女にも、だ。

2017年9月4日月曜日

多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け

北朝鮮は既に核保有国である。そう認識しなければ何も進まないだろう。

覇権闘争はゲーム論の枠組みを当てはめればタカ・ハトゲームである。通常、タカ・ハトゲームでは、一方がタカ(=リーダー)になり、他方がハト(=フォロワー)になる状態がナッシュ均衡である。タカ対タカ、つまり全面戦争を覚悟した強硬路線を双方がとると、双方とも利益がゼロないしマイナスになる。なので戦争は常に限定的であり、どちらがリーダーになりうるかを知るための(必ずしも必要でない)プロセスとなる。双方が融和的なハト・ハト状況は、ナッシュ均衡ではない。というのは、片方がタカ戦略(=アグレッシブな外交方針)をとって利益を拡大しようという誘因があるからだ。ナッシュ均衡ではないにも関わらず、合計利益が最大となるハト・ハト状態を実現するには、国際的共同体など何らかのメカニズム、利益配分システム、違反者に対する懲罰システムが必要である。

これが標準的な授業内容だ。

が、一方が核保有国となり、他方が非核保有国である場合、双方が激突するタカ・タカ状態は、片方のみにとってマイナス利益となる。なので、タカ・タカ状況はありうるが、非核保有国は核保有国に従属する方が利益にかなうと最初から明らかであるので、戦わない。つまり非核保有国は核保有国の恫喝に屈する。であるので、核保有国と非核保有国の間に限定戦争が生じることはない。非核保有国が必ずフォロワーに、核保有国がリーダーになる。これが安定的なゲームの解となる。これまた教科書的なゲーム論のロジックから得られる結論である。

故に、朝鮮戦争がいまだ休戦状態で、かつ敵対する北朝鮮、韓国(更にアメリカも含め)の双方とも朝鮮半島全体の領有権を主張している状態を前提とすれば、北朝鮮が核保有国となった以上、韓国も必ず核保有国を目指すはずである。アメリカが支援国として核再配備をしなければ、自国で核開発を志向する。

もし韓国が核武装を進めれば、日本も必ず核武装を志向する。これが日本の利益にかなうロジックになる。なので、今後、(高い可能性として)核武装ドミノが進展すると予想しておくべきである。

■ ■ ■

もし韓国が自力で核開発するのではなく、アメリカが韓国で核再配備を行うとすれば・・・、韓国への攻撃をアメリカへの攻撃だとアメリカ本土のアメリカ人が考えるかどうか。この度合いによる。つまりアメリカがどんなコミットメントをするかによる。核配備は即ち「張子の虎」かもしれないのだ。実際に攻撃を受けた場合、報復を控えることがアメリカの利益にかなう可能性もあるのだ。その不確実性がある分だけ、配備されているとはいえ自衛力は割り引かれて評価される。まあ、いずれにせよ、日本、韓国の意志がそこで別々に働く限り、日本にも核が配備されるはずである。日本だけには核が配備されない状態は(日米韓の軍事資源が統一的・一体的に運用されでもしない限り)日本にとってヴァルネラブル(vulnerable)である。

ここまでは簡単なロジックで予想可能である。しかし、アメリカが日韓両国に核配備を進めパワーバランスを維持するというこの状態も決して安定的ではない。というのは、中国、ロシアはアメリカの影響下にある日本、韓国が核武装する事態を歓迎するはずがないからだ。相手に従属することの損失が受け入れ不能なほど大きい場合、タカ・ハトゲームにおいては常にタカを志向する。なので、アメリカが核配備をしてパワーバランスを維持しようとすれば、戦略的劣位に立つことを怖れる中国、ロシアは新たな対応をするはずである。また北朝鮮も更に核技術を磨いてより優位に立とうとするだけである。

この無限ループは、本来は不安定なハト・ハト状態(=平和共存戦略)から得られる利益について理解が共有されない限り、必然的に継続される。

タカ・ハトゲームにおいては、いずれかが服従するまでは強硬なコミットメントを相互に繰り出すが、これは理論的に予想される事態だ。経済制裁とは限定戦争の一手段なのである。制裁強化は、限定戦争の強化であり、管理に失敗すれば全面戦争へと至るリスクがある。これが現在最も懸念されている可能性だ。

■ ■ ■

戦略的ゲーム構造を変えない限り、関係国の選択を変えることはできない。

タカ・ハトゲームにおけるハト・ハト状態、つまり平和共存による利益配分がタカ戦略を単独で選ぶよりもはるかに大きいという確証を示す必要がある。

ゲームの構造をタカ・ハトゲームから同調ゲームへと転換することが望ましい。そうすれば、協調的核削減も将来いずれかの時点で可能になろう。

その方向に向けて、ありうる状態それぞれに関する利得を関係国が共有し、ゲームの完備性を確保することが大事だ。そうすれば、各国の理性的検討を通じて、合理的な解に到達する道筋が見えてくる。

■ ■ ■

こう考えると、北朝鮮が既に核保有国となったいま、東北アジア内の核バランスをめぐって複雑な進展が予想される。これだけは確実になった。

標題の「多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け」は、核バランスという主旨なのだが、一定の均衡状態に至るまでの道筋はかなりリスクに満ちたものになるに違いない。変化する情勢の中で自らがフォロワーの役回りを選択し、後手に回るのは愚かであり、得られる利益も薄い。かといって「自存自衛」などと叫んで暴走すれば味方が誰もいなくなる可能性が高い。これは元来た道である。

外務省である、な。今後の要所は。

それから憲法改正も非常に重要になってきた。憲法は統治の原則を示すものだ。感性が異なる外国人もロジックを語れば理解する。いくら現状が厳しいからといって、憲法どころではないなどと平気で言う人間集団がいるとすれば、信頼はされんわネ。あの国は怖いヨネと思われるわな。これまた誰でも分かる理屈だ。

2017年9月3日日曜日

「政治的な期待」に何かの意味があるのだろうか?

民進党の新代表に前原氏が(事前の下馬評通りに)当選したあと、代表代行職にライバルの枝野氏が、党運営の実務を担当する幹事長には山尾氏が任命される模様となり、にわかに民進党の新体制に対して「華がある」とか、「変貌をとげたようだ」とか、「そこはかとない期待感」があるとか、案外評判はいいようだ。

ここで一言疑問:

この「期待」というのは「予測」とはどの程度違うのだろうか?

たとえば通過したばかりの台風15号。日本列島へ接近する途上では太平洋岸にかなり近い進路をたどるという予報もあった。しかし、実際には予報よりかなり東寄りの進路をとり、小生が暮らす道央では風がちょっと強いかなという程度で終わった。何よりのことだ。近く予定しているリュニューアルを依頼しているリフォーム業者は『前から予定している地鎮祭が今日はあって、ホント、台風がそれてホッとしてるんですよ』と話していた。

台風の進路予測では中位予測の周りに可能性のある範囲が地図上に示されている。予測と言っても、点予測ではなく区間予測を行うのが予測実務では鉄則である。

できるだけ東側にそれてほしいというのは「期待」というより「希望」であって、客観的な計算結果とは別のことである。通常、希望が現実になってくれる確率は、事前の計算段階では極めて低いことも多いのだ。

それで、話は戻るのだが、民進党の新体制に「期待」がもてるというのは、かなり高い確率でイイ線をいくだろうと言おうとしているのか、相当イイ線にまで行く確率もゼロではないと思うんですよね、と。そう言いたいのか。政治評論というのは情緒的に過ぎて、小生にはサッパリ分かりません。

戦時中の大本営陸海軍部は、戦況が悪化してあからさまな嘘をつき始める前段階において、期待ばかりを高めるような情報伝達を繰り返していたことがよく知られている ー 国民の期待形成を重要視した点では、何やら近年の日銀が展開している"Forward-Looking"な金融政策にも似ていて、大本営と金融当局と両者の相似性には目を見張るくらいだ。そのキーワードである「期待」は上のように政治的な議論でもよく使われている。が、使い方が難しいのも「期待」という用語である。

「期待」を伝えたところで情報価値はほとんどゼロである。高い確率で予想される帰趨を伝えるのが、専門家、というか「情報通」としての存在価値であろう。

2017年9月1日金曜日

「学校教育」それ自体の効果は多分ゼロである

10年ほど前に所属先が経済学科からビジネススクールに変わった。移籍当初はテンションが上がったが、最近の口癖は『私が説明しているのは、決して勝利の方程式ではありませんから。知っているだけ、勉強しただけ。ゼロですからネ、自信があるだけマイナスかもしれません』である。



暴言・暴行で有名になった豊田真由子衆議院議員は東大法学部を卒業後に厚生労働省に入省しハーバード大学に留学した。

アイスノン、ホッカイロ、パラゾールで有名な白元は、創業者の孫が社長を継承した。その社長は慶大経済学部を卒業後、大手メガ銀行に入り、ハーバード大学ビジネススクールに留学した。しかし、白元はこのたび経営破綻した。

いずれも一流の学校でエリート教育を受けた。にも関わらずというべきか、失敗の酷さかげんが半端でない。

戦前期・日本の学校エリートも酷い終わり方をした。

■ ■ ■

職業人生の成否と受けた学校教育とは関係はないものだ ー 全く関係がなく無相関かと言えば、相関はありそうだという印象はあるが、学校教育が成功を導いた主因であるという見方はウソであることにまず間違いはない。特に、学校時代の「成績」と仕事の「手腕」はまったく関係がない。これならば社会の合意が得られるだろう。

よく話すことだが『社会こそ最高の学校である』。ゲーテが「ウィルヘルム・マイスターの修行時代・遍歴時代」を書いた時代から全く同じだ。小生自身も振り返ると同感である。これからも変わらないだろう。

そもそも「学校教育」を重要視し過ぎれば「学閥」が形成される。閉鎖的な集団の中では低能力の人物が出世する機会を得て大きな間違いをおかす。また、学校時代の成績はあくまで個人の能力であり、社会で革新的事業を組織する能力とはほとんど無関係だ。この点は上に述べたとおり。この二つだけを挙げても、「学校」という機関に過大な期待を持つべきではないと分かる。本当に大事なのは「出会い」や「交流」。人との「出会い」や「交流」をうながす場を「学校」としてデザインする必然性はない。技術や知識の性質によっては学校は非効率であるとすら言える。ましてや国家が口を出すなどは、もともと出来る理屈もなく、失敗のもとである。

■ ■ ■

それにしても安倍首相が提言してにわかに注目されている「大学の教育無償化」。大学の現状を見ないアホらしい構想だ。事情を知っている人ならば、人生の糧となる活動に対して広く経済的支援をする方向で考え直すべきだ、と。そう言うはずである。そもそも現在の日本の大学の半分以上は「大学」という呼称にはそぐわない。

文科省の大学行政は1990年代の金融行政と同じである。

つまり、大学無償化構想は公的資金による私立大学救済構想である。バブル崩壊後に最初に紛糾した問題である「住専への公的資金注入」と何も変わらない。後者は美しい言葉で飾ってはいなかったのでまだマシである。前者は「人づくり」であると。マスメディアはなぜ欺瞞であると批判しないのだろう・・・。ここが最も不可解である。

2017年8月31日木曜日

一言メモ: 対北朝鮮外交に戦略的余地はあるのか?

北朝鮮を国家として承認していない国は世界でも少数である(Wikipedia)。日本は米・韓とともにその数少ない未承認国の一つである。つまり、朝鮮半島全体は韓国の領土であるという立場を日本はとっている。そう解釈せざるをえない ー 現に韓国はその立場にあることを憲法で明確にしている(と聞いている)。

朝鮮戦争はいまだに「休戦状態」にある。米・韓は北朝鮮の敵国である状態はまだ続いている。

故に、北朝鮮が現にとっている行動を「国際平和を破壊する行動」と直ちに断定するのはあまりに此方側の見方に偏っており一面的に過ぎる。こんな観点もあると言えばあるだろう ー だからこそ中露は北朝鮮を陰に陽に支援し続けている。「より有効な経済制裁に向けて中露の協力を日米は要請する」といっても、中露の国益にかなうわけでもないので、おそらく機能するまい。

ともかく現状は持続可能でない。しかし、現状を根本的に変更する試みも不可能に近かろう。

◇ ◇ ◇

日本が北朝鮮を承認することのプラスは何か?検討してもよい時機ではないのか(というか、もう検討はしていると思うが)。

東アジアのありうべき状態は「現状固定の相互承認」のみである(と思われる)。朝鮮半島の現状を固定し、平和共存を目指す方向は、日本にとっては確かにプラスである(どのようなプラスであるのかは多面的だが概ね自明である)。

朝鮮戦争開始と休戦までの期間、ずっと日本はアメリカの占領下にあった。朝鮮戦争の結果である半島分裂は日本の責任ではない。が、明治以来の外交史を振り返ると半島の現状に日本は相当の責任を負っている。日本は日本で選択すべき朝鮮半島外交があるだろう。

イギリスもドイツもカナダもオーストラリアも北朝鮮を国家として承認している。北朝鮮の存続を認めている。国家としての承認は平和を築く交渉の第一歩である。もちろん日本による北朝鮮承認となると、東アジアにおける波及効果は(特に韓国に対しては)かなり大きいに違いない。が、日本はまだ使っていない外交上のリソースを有していると考えるべきだ。

◇ ◇ ◇

外交を尽くしていないにもかかわらず、軍事行動を検討するのは、現行憲法の理念を真っ向から否定するものだ。統治のロジックが破綻している、と。そう言われても仕方がない。

2017年8月28日月曜日

この報道用語は「情緒主義」から生まれたのではないだろうか

知る権利と忘れられる権利との選択(?)という。これまた、いかにもマスコミ各紙の好みそうな表題だ。

教え子の小学生への強制わいせつ容疑で、愛知県警に逮捕された臨時講師の男の公判が名古屋地裁岡崎支部で進んでいる。男は4年前にも別の小学校で性犯罪を起こし、停職処分を受けていた。男が名前を変えたこともあり、情報が共有されなかったという。
(出所)朝日新聞 DIGITAL、2017年8月26日配信

そもそも「権利」というのは「憲法」や「法律」の明文があってはじめて担保されるものだ。法的根拠がなければ、それは「慣習」として定着している常識(=Common Sense)であるはずだ。これにも該当しないとすれば、これ大事ダヨネ、ソウソウというレベルの「日常用語」である。どうも小生、勉強不足で「知る権利」や「忘れられる権利」がどこで規定されているのか知識がない。そんな権利は、小生の少年期から青壮年期にかけて言葉もなかった。なので定着した慣習であるはずはなく、故にそんな権利が存在しているのだとすれば、いつの時点でか国会で規定されたか、でなければ誰かが使い始めて広まったファションに近いものだ、と。 どうしてもそう感じてしまうのだ。

要するに、「知る権利」にしても「忘れられる権利」にしても読者の情緒に訴える報道用語じゃあないのかと、そうも思われるのだ、な。

ただ、上の問題提起は意外となかなか深い。これも事実。結構入り組んでいる問題である。

***

ロジックとしては『公的機関が正式に決定した判断は、立法はもちろんのこと、行政にせよ、司法にせよ、すべて国民に公開されなければならない』という原則に従うべきだ。「だって公共機関の決定なのですから」というわけだ。ロジックはまずこうなると思う。

故に、いわゆる「前科」は公的情報の一部をなし、原理としては共有されるべき対象である。求められれば(よほどの理由がない限り)隠蔽するべきではない。その処分の結果そのものだけではなく、決定の際の責任者、経緯等々を確認できる文書も同様である。

中央官庁で日常的に作成されているメモや事務連絡でさえも「公文書」であると、隠蔽するのは怪しからんといって内閣支持率が急落するほど大きな騒動があったのだ。公的な処分は当然のこと、誰もがアクセスできるよう公開されなければ筋がとおらない。

こう考える以外に議論のしようはあるだろうか?・・・あることはあるのだな。

***

それでは、公的機関が関係しない私的処分はどうか。たとえば、ある人が何らかのトラブルで勤務している●●社人事担当部局から減給や停職処分を受けたとする。その人が、会社を退社し、別の会社に就職しようとしている時に、その別の会社が元の会社に当該人物について何らかの処分歴があるかどうかを照会することは可か?

さすがにこれは、小生、素人だ。法律では照会をうけた会社に何らの(伝えることも、秘匿することも)義務も課していないように(感覚的には)思う。処分は会社による行為であり、社内では周知のことであるから既に個人限りの情報ではなく、当該人物の「個人情報」には当たらないとは感じる。が、要確認だ。

それでもある程度は検討は可能だ。

もしも不祥事を起こされた元の会社が、その事実が広く共有されるよう積極的に情報を提供するとすれば、これまさに江戸時代以来の「奉公構」になってしまう。近代以前、「奉公構」は単なる追放(=懲戒免職)ではなく、類似の就職機会をも奪う重い刑罰として機能した。元の所属先から「回状」を出された人物は社会の最底辺に身を落として生きるしか道がなかった。これは個別の主家による刑罰である。これと同じことをいまやってしまうと、憲法で禁止されている「私刑」になる。免職でなく、停職であっても、その情報を広く提供すれば結果は同じだろう。同じ結果であるから、求めに応じて処分歴を提供しても、やはり民間関係者による「私刑」となる(そう思われる)。

上の問題がなかなか深いのは、公的機関による処分であっても、要求に応じて個人の処分歴を公開してしまうと、実質的に禁止しているはずの「私刑」(法律によらない刑罰を課す行為)を公共機関が行ってしまうからである。それとも公共機関なら許されるのか。

行政情報公開の原則と、私刑禁止の法理と。どちらを優先するかである、な。だから、意外と深い問題だ。

★ ★ ★

【29日午後加筆】

それにしても今朝の北朝鮮によるミサイル発射に対して政府やマスコミ各社がどう反応しているかをみると、実に面白い(と思う)。

安倍政権は(当然のこと)『わが国を飛び越えるミサイル発射という暴挙はこれまでにない深刻かつ重大な脅威だ』と非難の声明を出している。それで、トランプ大統領と電話会談をして『圧力強化で(日米は)一致』したと、そう報道されている。

実に、淡々とマスメディアはそれを伝えている。政権を支持するのか、日米一致一本道でいいのか、もっと強硬に対応せよと言いたいのか、どうやら意見らしい意見はマスメディアは持っていないようだ。

森友事件や加計騒動ではあれほど食い下がって反政権闘争を展開したのにネエ・・・。
怒ってみたってショウがねえべヤ。あっちは安倍さんじゃあなくってサ、国なんだわ。こっちが怒ったって、向こうは打つんだからサ、怒ったって何がどうなるってもんじゃないっショ!落っこってくるわけじゃあねえからサ、何発かうたれているうちにサ、だんだん 慣れていくっショ(笑。
メディアの人たち、実際こんな感覚なんですかねえ・・・恐ろしいといえば恐ろしゅうござんす。

状況としては、マスメディアはもっと怒らないといけない。強硬路線を支持するなら日本独自でもっと強化せよと主張するべきであるし、対話路線なら制裁オンリーの現政権の外交路線を非難しなければならない。融和路線を主張しなければならない。政権をもっと批判しないといけない。何が違法か判然としない加計問題では、それができたのだから、政権批判ができないはずがない。そうじゃあござんせんか?

どう見たって、この春先以来の報道姿勢といまのスタンスはつじつまがあっていない。

地方の一大学の一獣医学部、大阪の(どうでもよい)一小学校の設置問題には腹がたっても、隣々国によるミサイル実験にはあまり腹が立たない、と。やはり、論理というより、いまの「情緒」を大事にしているようでもあり、これまた情緒主義報道の和風ヴァージョンなのかもしれない。韓国のことを云々はできないねえ。まあ、日本では身の回りの細々としたことを書き綴る日記が日記文学として世に迎えられ、自分の感想を縷々とつづる私小説が高く評価されてきた。そんな感性にあった事実報道が覚えず情緒主義になるのは、ある意味、自然のことかもしれない。


2017年8月26日土曜日

「当選=有権者の代表」とリスペクトされない時代もやがて来る

1990年半ばから2010年代にかけて<官民の民>がずっと優勢である。もちろんその背景としてバブル発生とバブル崩壊に対処しようとした旧来の官僚主導体制の堕落と破綻があったのは言うまでもない。

その頃、官の言い分があるとしても選挙で当選した政治家が一喝すれば、有権者はそれに拍手喝采したものである。民主党政権における菅直人・元首相が『異論があったら君達も選挙で当選してから言いなさい』と(官僚幹部に対して)言い切ったのは、(本当かどうかは知らないが)時代を象徴する一例だろう。

そんな時代がもう25年近く、一世代ともいえるほど長い期間、ずっと続いて来た。思想の寿命としてはもう大分長くなったと言える。

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ところが・・・

少し以前になるがTVのワイドショーで飯塚市の市長・副市長が勤務時間内に庁舎を抜け出し、別の建物で賭け麻雀に興じていたという話をした。聞けば経営者出身の地方政治家だそうである。選挙で当選して3期目ということだった。

う〜ん、確かに(声高には言えぬが)「賭け麻雀」なるものは小生がその昔に勤務していた役所でも行われていたし、「賭けゴルフ」なることもやっていた。やっぱこれって「犯罪」だよネ。ダメだよね。

こんな風に「犯罪だよネ」と発言している人は多いのだが、普段から相当多くの人は実際に賭けをやっている。これは厳然たる事実だ(と思う)。事実であるとずっと前から知っておきながら、いざとなると「これは犯罪です」と指摘して追い落としへの口実に使うのは、簡単にいえば「罠」である。法律には合致しているが卑怯であろう。

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とはいうものの、地方議会議員の不祥事、東京オリンピックにまつわるゴタゴタ等々、色々とあがってくるスキャンダルや混乱を聞いていると、「選挙で当選した」ということそれ自体にどれほどの価値があるのだろうか、と。(安定しているかもしれないが)安い給料で黙々と勤務している公務員という集団は、時として「異分子」が混じるかもしれないが、全体としてはより高く信頼できるのではないか?機能的ではないか。少数の政治家に任せるのは危ないのではないか・・・

大体、宝くじの当選ではあるまいし、選挙の当選を振りかざすエリート意識も鼻持ちならない・・・。嘘が必ず混じっている選挙運動よりは、公務員試験の受験勉強のほうがずっと誠実な努力ではないだろうか、そこに嘘は混じっていない、と。

……もしこんな感覚が芽生えてくるとすれば、その時点から以降、選挙制度に基盤をもついわゆる「政党政治」は間違いなく機能不全をおこすだろう。そう思いながら「また出てきたか」とTVを視ている。

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ずっと昔の官僚集団は、同年齢層のわずか1パーセントを占めるにすぎない帝国大学卒業生しか高等文官試験を受験することはまずなかった時代の人々であり、その中でも東京帝大、京都帝大という少数の大学卒業生しか実際に採用されることはなかったと聞いている。そして最後に出世を遂げるのは、同じ東京帝大卒でも旧制一高を卒業した人物にまずは限られていた。そんな伝説もあったくらいだ。しかしながら、点数第一ということは、血縁・人脈・縁故はゼロの裏返しでもあったのだ、な。

試験の受験資格は全国民に(建前上は)あり、国公立学校の授業料は極めて低廉であった。戦後になってしまうが、小生のカミさんの兄は某国立大学の医学部を出たが、その当時の授業料は3万円だったという。貨幣価値を考慮するとしても安い。少年マガジン1冊が40円か60円くらいの時代であったから、今の価値に直せばざっと15万円である。月当たりで1万2千5百円/月。これなら親の仕送りがなくとも奨学金とバイトで自活できる。戦前はもっと授業料が安かったと亡くなった父親は語っていたーというか、教師になる師範学校、軍人になる陸軍士官学校、海軍兵学校は無料だった。

こう考えると、意欲(と頭脳・力量)さえあれば開かれた学業機会を活用して誰でもが高等教育をうけ「公職」につく道があった。そんな道を(努力して)歩んだ官僚集団は、それ自体が開かれた民主主義社会の成果であった。そうとも言えるのではないか。

少なくとも人脈や地盤、そして何よりも先祖に著名な人物を持っていると言う血統的優位が価値をもつ政治家集団よりは、世襲の困難な官僚集団のほうが、小生よっぽど民主主義に合致しているように思えますぜ。

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満ツレバ欠ケル。栄枯盛衰。ピークを迎えれば、あとは下り坂になる理屈だ。

規制緩和、民間主導。この理念にも自ずから賞味期限がある。経済理論としては、決して間違ってはいない。しかし、正論が通らない時代は反復的に交代的に現れるものだ。正論が常にとおるなら、大体、敗戦などあるものではない。

全ての時代を通じて一貫して合意され、支持されて来た社会科学的仮説は一つも存在しないのが現実だ。時代状況が変われば、正しいとされる政策も変わる。社会科学は正当化のためのツールとして利用されて来たのが現実だ。学問分野にも栄枯盛衰はある。

社会は正常状態に収束しつつあるのではなく、非エルゴード過程として収束点なき漂流を続けている。これが社会経済発展の実証的真相である。

近代日本において、最初は薩長藩閥、明治から大正にかけ発展を遂げてからは政党政治、その後政党が官界を侵食し、官界が政治の場と一体化し、そして政党が財閥と癒着してきた段階で政党不信が高まる。1929年の世界大恐慌で金融政策をしくじるに至り、それまで逆境にあった軍人集団への期待が高まる。軍部と相応じた異端派革新官僚が下克上のように台頭し、国家総動員体制の確立と軍国主義へと走る。その後は知ってのとおり、崩壊と占領、独立、戦後日本の再出発となる。

こう列挙すると、トレンド要素とともに循環要素が確かにあるようだ。単純な「振り子理論」では素朴すぎて話にならないが、(一つの切り口として)官と民との間の潮の満ち引きを振り返ると、次第に逆転しようとしている。そんな予感を覚えるのだ、な。

これら一連の事柄が、現行憲法そのものの賞味期限まで意味するものであるのかどうか。そこまで分かるはずはない。

2017年8月21日月曜日

覚え書: 政治参加機会は平等であるべきか、平等になっているか?

民主主義の下では、誰にでも選挙権が与えられる普通選挙が欠かせない。と同時に、誰もが公職(特に議員や知事、市長など)に立候補できる被選挙権をもつことも大事である、これは歴史や政治学、高校以下の授業「公民」でも強調されているので周知のことだろう。

ただ「公職」とはいっても、国公立大学長や中央官庁の事務次官や局長、あるいは地裁所長や地検・検事正、警察署長や税務署長などに誰もが自由に立候補できるわけではない。学位などが求められることがあるし、組織内現役であることが求められることも多い ― とはいえ、国立大学では原則的に公募が行われ出来る限り参加機会の平等が図られていることも付け加えてよいかもしれない。

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誰もが参政権をもち、誰もが公職に就く権利を有するとはいえ、まさか「非常識なバカ者」が当選するという事態はこれ自体歓迎されてはおるまい。まあ考え方によっては、権力者に「とんでもない愚か者」が当選してしまう事態もまた、民主主義のコストであって、民主主義を維持するためには耐えるべき不幸な事態であると、こんな見方もあるかもしれないが、おそらく少数派であろう。

合法的に選出されたヒトラーやマッカーシーなどのレベルに至らないまでも、ダメな国会議員、好戦的な大統領、常軌を逸した知事などは十分出現可能である。とはいえ、こんな種類の人物にも他と平等に当選する可能性を与えるべきであると本気で考えている有権者が多数いるとは(小生には)とうてい思われない。もし平等に当選する可能性を与えよというならクジを引くのが一番だが、とんでもない人物が紛れ込んでいるのにクジを引かせようとは誰も考えまい。つまりそんな「問題のある人物」には当選させたくないのである。

こう考えると、普通選挙と言い、民主主義とは言っても、誰もが平等に同じだけの政治参加機会を有するべきだと考えているわけではない。特に被選挙権についていうときは、「誰でも」と考えているわけではなく、「適任者」を選抜しようと考えているのであるから、問題は民主主義というより、「選挙」は最適な人材選抜方式であるのかどうかということになる。「選抜」という以上、言葉の定義上、望ましい人物と望ましくない人物を区別(≒差別)する意思がそこには含まれている。

投票する立場からは平等に参加できているように見えるが、実際に選ばれるのは誰かという側からみれば、平等では決してなく、選ばれやすい立候補者と選ばれにくい立候補者に分かたれる。「能力主義」なのだと言えば一見合理的だが、能力を測るのであれば選挙という方式を用いる必然性はない。能力評価を客観的に行う方がよいのだ。なので、立候補する立場に立とうとするとき、参政権の平等という言葉は(現在の日本社会は)多分に欺瞞であると思う。

もし選挙される側に存在する実質的な不平等を理にかなったことと認めるのであれば、選挙する(=投票する)側における望ましい区別(≒差別)を認めるまで、あと一歩しかない。有権者を限定したり投票権の数や内容に区別を設ける制限選挙である。目的が「選抜」であるなら、選抜精度・民主性・コストの側面から最も社会的合理性をもつ方式を採用するべきである、ということになる。実際、世の中は大きく変わってきた。激しく変わってきた。今後、どう変わっていくか誰にも分かるまい。

・・・このような考察が民主主義社会を根本的に変質させる危険な考え方であることは言うまでもない。政治参加機会の平等に努力することは民主主義社会であり続けるための必要条件である。

+++

もし最高裁が考えているように、住んでいる都道府県によって選挙における一票の重みが違うことが憲法上の平等規定に反すると考えるのであれば、被選挙権、いや被選挙権という言葉に含まれているはずの実質的な参政権が社会のあらゆる階層に現実として平等に与えられているかどうかにも目を向けるべきではないだろうか。これも合理的な問題だと思うのだ。

社会の行方を決めるのは、実際には立候補し、当選し、公職につく人物たちに限られるのだから。投票権はいくら平等でも、公職につく可能性が実質的に不平等であれば、政治参加の機会が平等に提供されているとは言えないのではないか。

とすれば、現に国会議員の少なからぬ割合が親から地盤を世襲した二世、三世議員である現状をみれば、裁判員決定方式と同じにして、たとえば市会議員、都道府県議会、国会議員の議席の何割かは、全住民に平等な参加機会を与えるため抽選で決め、議員歳費を支給し、議会開催時の出席は有給休暇消化に参入しない。論理からいえば、こんな措置も必要になるのではないか。

・・・もしこんな議席決定方式が国会の円滑な機能を阻害すると、「それは無理です」と反論するなら、選挙区ごとの定数配分もまた国会の円滑な機能のためには必要なのだ、と。それは国内政治が必要とすることなのだと。そんなロジックになるのではないか。

都道府県ごとの、というより選挙区ごとの一票の重みの違い云々は、参政権平等を考える問題群の中のたった一つの(恐らくあまり重要ではないが、数字で「見える化」されている)問題でしかない。そう思っているのだ、な。

多くの論点の中のたった一つに注意を集中することは、正しい判断を得るには有害であると思う。

2017年8月18日金曜日

一言メモ: 韓国の対日個人請求権を論理的に考えると

本日の報道によれば
文氏は日本の朝鮮半島統治時代の徴用工に絡む請求権について、「個人の権利は残っている」との韓国の司法判断を踏襲する考えを明言した。
(出所)産経ニュース、2017年8月18日配信

この状況は、1965年の日韓請求権協定にかかわらず元・従軍慰安婦の対日個人請求権は消滅していないという司法判断が2011年8月以降に韓国で下されるようになり、その後の紛争激化に至っていることから、当然予想されていたはずだ。

同協定に関するネット上の解説をそのまま引用すると次のような説明があり、小生の多くない予備知識ともだいたいは合致している。
この協定は、日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与することなどで、両国及びその国民の間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認する内容である。したがって、戦時中などに生じた事由に基づく請求権は、いかなる主張もすることができない。また、この協定に関する紛争があれば外交経路で解決するものとし、解決できない時は第三国を交えた仲裁委員会に付託することになる。
(出所)コトバンク

もちろんこの解説は日本語で書かれている日本人向けの説明である(に違いない)。

慰安婦問題をはじめ韓国の対日請求権問題は、これまでの経緯をざっと調べれば調べるほど、細密な論点が絡み合い、一刀両断にはいかないことがわかる。

そもそも「戦時中に生じた事由に基づく請求権はいかなる主張もすることができない」という明文があるなら、それと同時に「この協定に関する紛争があれば外交経路で解決する」ものと記述している趣旨をどう解するのか。戦時請求権が完全消滅しているなら戦時請求権に関する「紛争」は起こりうるはずがない。矛盾である。まあ、この辺りに日韓外交の積み重なりが象徴されているのだろう。

「すべての対日戦時請求権は消滅した」と日本が主張し、韓国政府(というより司法府)が個人請求権は消滅していないと、つまり個人の権利の有無がそこで判定されているなら、かつ請求権を有する元・従軍慰安婦は未だ戦時被害を弁済されていない事実が現にあるのなら、まず韓国政府が請求者に代理弁済し、請求権者の不便を解消するのが順番として本筋ではないか。そうすれば、少なくとも韓国内において問題はまず解決される(という理屈だ)。対日請求権が残っていると行政府が考えるなら、支払金額の払戻しを外交ルートで求めるのが協定に沿った最もロジカルな手順ではないか。残るのは純粋な外交問題だけとなる。しかし、そんな措置は勉強不足のためか聞いたことがない。実効ある問題解決をせず少女の彫刻作品を多数展示して記念碑群とするのはどうにも合点がいかない。ロジックが通らない。被害者本人たちより「関係者」がどこか宣伝じみていて美しくない。問題に取り組む韓国・行政府の姿勢全体が杜撰である。国家的名誉も毀損されるのではないだろうか。が、これまた外野席からみたときの美的感性の一例にすぎない。

ま、要するにゴールは最初から動く余地があった。そう考えるしかない。

2017年8月17日木曜日

「明治維新によって文明開化がもたらされた」という見方は科学的ではない

終戦記念日に靖国神社を訪れると、荘厳であるべき境内周辺は政治団体の勧誘(?)で騒然としており、そうかと思うと戦前どおりの帝国陸軍軍装を来た一団が闊歩していたりして、とてもじゃないが心をこめて参拝をするような雰囲気ではないそうだ。

それにしても戦前を懐かしむ人は案外に多い。増えているのかもしれない ― ひょっとすると、安倍総理その人もそうかもしれないと思わせるところが恐いといえば恐いのだが。

***

戦前期・日本は明治維新(王政復古)でスタートして1945年8月15日で終焉を迎えた。これに反対する人はまずおるまい。確かに明治憲法が施行されたのは、維新から20年以上もたった1890年であったが、フランス流に名前をつけるとすれば戦前期・日本は全体として「第一帝政」という名前に落ち着くのだろう。まあ、維新から明治憲法施行までが第一帝政、憲法施行から敗戦までを第二帝政と呼ぶ人もいるだろうが、本質に大した違いはない。この伝でいえば、戦後日本は国民主権となり「帝政」とはいえないので「第一共和制」ということになるのだろうか。いや「共和制」ではないなあ・・・「象徴天皇制」ではあるのだから。ま、この点は今日は置いておこう。

日本人で明治維新を非常に高く評価する人は多いはずである。義務教育でもそう教えられている。廃藩置県や文明開化はそのプラス評価の柱だ。が、そんな一時期の功績に注意を限定してプラスに評価してよいならば、戦後の日本についても昭和20年代の財閥解体、農地解放、そのあと昭和30年から45年に訪れた「高度成長」時代だけをとりあげて、非常に高い水準でプラスに評価してもよい理屈になる。これが片手落ちであるのは当然だ。

政治体制、というか一つの時代を形成した特定の社会システムの評価は、発足から終焉までの総決算によって評価するべきだ。つまり、戦前期・日本を評価するなら、大政奉還を天皇が勅許した1867年11月10日時点の日本と1945年8月15日時点の日本の国土と社会を比較して、双方のプラスとマイナスを評価するべきなのだ。総決算とはそういうことだ。

そして戦後日本の中間評価をいまするならば、1945年8月16日と2017年8月16日(今日の時点)を比較して評価する。そうでなければ全体を評価することにはならない。

確かに戦前期・日本の下で科学技術は向上し、資本蓄積は進み、人的資源もレベルアップした。それは事実だ。とはいえ、そもそも(客観的数値化などは不可能だが)旧幕時代最後の一日における国民の平均的幸福度と玉音放送があった一日の国民の平均的幸福度とどちらが高かったのだろうか?総決算とはそういうことである。1945年8月15日の日本が戦前期・日本の帰結である。これはもう自明のことである。

***

一般に、ある政策の効果を評価する場合は次のようにする。

  1. 政策を示す外生変数を定義する。
  2. 実際に実施された政策をデータに含めモデルを推定する。
  3. 政策の実施がなければどうなっていたかをシミュレートする。
  4. シミュレートされた計算値と実績値との差が政策の効果である。
  5. また、ほかに実施されえた政策を複数のケースに分けてシミュレートする。その中で最善の結果をとって、実績と比較する。実績がシミュレートされた最善値を下回れば政策による不利益があったと考える。
実際には、上のような経済実験はデータ的にも概念的にも実行が困難である。しかし、上のような考え方に沿えば、「もっとうまく出来たのに」という歴史上の「イフ(If)」はいつでも当然あるわけで、<明治維新のおかげで文明開化が出来たのだ>という歴史評価は決して科学的議論ではないことに思いが至る。

AのあとBがもたらされた時、Bという結果の原因がAであるとは限らない。AダッシュやAツーダッシュからもBはもたらされうる。因果関係の検証は慎重さを要するのだ。しかし、歴史評価ではAがあったからこそBがあったという議論をよくする。『先にあったことが後にあったことの原因である(post hoc ergo propter hoc)』(英訳:"after this, therefore because of this")と考えるのは昔からよく知られている誤謬"post hoc fallacy"である。「明治維新のあと文明開化があった」のは事実だが、明治維新なかりせば文明開化は決してなかったのだと、そうは推論できないだろう、と。そう考えるのはロジックに反するし、また実験で検証されているわけでもない。科学ならそのように議論する(はずだ)。

旧幕時代から維新後にかけて社会は大いに進歩したのだという福沢諭吉的観点に立つとしても、それは観察された事実がそうだったということだ。大政奉還がなかったと想定して、1867年11月10日以降をシミュレートすればその長期的な発展経路は、案外、実際の歴史経路よりもパフォーマンスが良かったかもしれない。少なくともその仮説的可能性を先に否定することは非科学的である。同じ意味で、もし明治維新後に実際に実行された政策は最善とはいえず(これが事実だと小生は考えているが)、ほかにもっと豊かで平和な日本を築くことが可能であった政策も存在した、と。そんな可能性についての議論が構築できるなら、そういう議論も決して無意味な議論ではない。

まあ、歴史学界ではどのような議論の仕方が普通であるのかは小生よくは知らない。

***

であるので、靖国神社境内を帝国陸軍軍装で闊歩する一団をみると、重大な交通事故を起こした運転者(ないしその家族)があとで何度もその事故地点を訪れ、訪れるたびに「間違ったところはなかった」と、「誠心誠意、注意をして運転をしていたのだ」と、「ほかに何ができただろう」と、そんな反・自虐的追憶に心を任せる人物(悪い人では決してないのだろう)を想像してしまうのだ、な。道を変えれば事故はなかった可能性があり、そもそも運転をしなければ事故は起こりえなかったのだ。



2017年8月16日水曜日

一筆メモ: これも国民性の違い?

カミさんと話していたとき、こんな話をした:

カミさん: 日本人の若い人がまた海外でボランティアをやるみたいヨ。
小生: ずっと昔、宴会か何かでこんな話をしたことがあったっけ。ええっとネ、アメリカ人は『みんなで協力して大儲けしようじゃないか、金持ちになろうぜ』って言う。日本人なら『みんなで力を合わせて我慢しよう。困った人がいれば助け合おう』って言う。で、中国では『お上の言うことをきけば金を儲けてもよい』ことになっている。
いま思い出しても、結構よくできたアネクドートであったわい、と。

ただまあ、何事にも表と裏がある。アメリカ人なら『山分けで一番たくさんもらうのは、やっぱり案をだした奴だな』というわけで分配面の問題が残る。不平等が進むことが多い。日本人はみんなが平等になるが、下手をするとみんな貧乏になる。一人儲けると心やましくなる、やっカミをこうむることが多い。中国では、言うことを聞いていれば国が助けてくれるが、聞かなければ蓄財疑惑で家財没収になることが多い。

小生:一長一短だなあ、やっぱり。
カミさん: 暮らしやすくても貧乏はいやだなあ・・・。
小生: 才あるものは徳が薄く、徳あるものは才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである。同じだよ、これと(笑)。

2017年8月15日火曜日

北朝鮮は誰の番犬なのか?

先日の投稿では、こう書いた。
中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
核開発技術はロシア経由かと憶測しているのだが、こんな見方もあるようだ。
 習国家主席は、北京より平壌と親しい「瀋陽軍区」によるクーデターを極度に恐れている。「瀋陽軍区」高官の一族らは、鴨緑江をはさみ隣接する北朝鮮に埋蔵されるレアメタルの採掘権を相当数保有する。「瀋陽軍区」が密輸支援する武器+エネルギー+食糧+生活必需品や脱北者摘発の見返りだ。北朝鮮の軍事パレードで登場するミサイルや戦車の一部も「瀋陽軍区」が貸している、と分析する関係者の話も聞いた。
(出所)産経ニュース「野口裕之の軍事情勢」、2017年8月15日

ロシアではなく、中国の地方軍閥の番犬が北朝鮮だという見方もあるわけか。やはり大企業マスメディアの取材力だねえと見るべきか、それとも単にこんな噂もあるという目で見るべきか。この両方が正しいということなのか。

いずれにせよ、こんな地下で根が繋がっているような複雑怪奇なパワーゲームに参入した戦前期・日本は、ウブな感覚のままで状況変化に振り回され、狡猾に立ち回るべきところを武断主義などと称してガラパゴス的な行動を選び、結局は米・ソ・英・中(←中国に対して戦術的には優勢であったものの戦略的敗北に追い込まれたと見る点では合意が得られているようだ)の力に踏み潰されてしまう、力を使えばもっと大きな力に敗けるという大失敗を演じたが、これまさに理の当然でもあったわな。と、そう思う今日・終戦記念日である。

思えば日清戦争ではやくも明治天皇は『これは朕が戦にあらず、臣下の戦争なり』(だったかな?)と語ったよし。戦前期の天皇制の意思決定の本質、そして何が可能であったか、不可能であったか、その問題の本質等々、まだまだ研究課題は多いに違いない。

もう一度、仕事のスタートラインにたつならビッグデータや人工知能も面白いが、近現代史もまだまだ未開拓の余地があって面白いだろうなあと思う。"Noch einmal"(もう一度!)ができない点が人生で残念なところだ。

2017年8月12日土曜日

気温予報の説明方式には改善の余地あり

「西日本の気温は本日も例年より3度高くなるものと予想されます」・・・天気予報ではよく耳にする伝え方である。

しかし、長期的な温暖化が本当に進行しているなら、「例年」より今年の気温が高めになるのは当たり前である。

たとえば『最近10年間の平均気温よりは3度ほど高い暑さになるでしょう』という説明であれば意味がより明確になる。更に『温暖化が続くなか、データから予想される気温よりもさらに1度高い暑さが予想されています』、こんな予報であれば最近の気温上昇トレンドを加味してももっと暑い、つまり非常に暑い、こんな説明方式も可能なはずだ。

最近の気温の動きを加味した予測値計算は、扱いの難しい時系列データであっても、多々、統計的な計算方法があるので選択に困ることはない。

古典的なボックス・ジェンキンズ法を勉強するときに何度も強調されるように、高め或いは低めの同一方向に予測ミスを一週間も続けるなら、予測方法自体がおかしい。温暖化は気温にトレンドが生じていることだから平年値に予測上の何かの意味をこめているなら既に適切ではないし、従来の目安として使っているだけなら単純に意味がない。

温暖化を後追いしながら「例年より高め」だと説明する言い方には意味がない。

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ただまあ化石燃料利用による「温暖化」は本当かという点も、正直なところ、マユツバであるとは思っている。足元では確かに上昇トレンドにあるのだろうけれど、これを「温暖化」というなら、これまでにも温暖化現象があらわれた期間はあった。「寒暖700年周期説」を唱えた学者もいたくらいだ。

厳密な意味で正確かどうかは検証していないが、まず正当だと思われる記述があるので引用しておく。
白亜紀には、年平均気温で、現在より10~15℃も高かったので、北極や南極近くにあった氷床はとけて、海水が増えました。そのために、海岸線が上がってきました。これを海進(かいしん)といいます。また、海進との関係はまだよくわかりませんが、白亜紀には3度にわたる海洋での酸欠の事件(1億1500万年前ころ、9300万年前ころ、8800万年前ころ)がおこりました。
 中生代には、あたたかく浅い海が広がっていたため、海の生物が増え、有機物が地層中にたくさんたまっていきました。これが、石油となりました。
(出所)http://www1.tecnet.or.jp/lecture/chapter4/4_13.html

「白亜紀」とは中生代白亜紀のことで今から1億年前後さかのぼった時代である。恐竜が生きて地球上を闊歩していた。初期哺乳類はもう誕生していたはずだ。もちろん前後というのはプラスマイナス4千万年程度で広くみなければいけないー人類の古代文明が誕生してからまだ5千年程度であることを思うと、「文明」といっても自然史の中ではほとんど瞬間的な出来事である。中生代にはもちろん自動車も火力発電所もなかったわけだ。

2017年8月11日金曜日

メモ: 対北朝鮮=軍事マターと決めているのはメディアではないか

実質が確かにスキャンダルであった森友騒動はともかく、「加計学園問題」に本当に問題である実質があったのか、未だによくわからない ー というより、加計学園騒動は反政権闘争であったとみれば理解できる。

またまた不審な状況になっている。それは現時点の北朝鮮ミサイル発射観測に関するメディア各社の報道姿勢である。

どのメディアも防衛省の対応方針、たとえば「北朝鮮がグアム周辺水域に着弾させるとして、それは日本の存立危機事態に該当するのか」とか「同時に4発発射するとして、その一部が日本に落下する場合、打ち落とせるか」とか、あれもこれも北朝鮮問題を軍事マターとしてとらえている。

そして政府もまた、言うまでもないが、同じ姿勢で、つまり北朝鮮の軍事挑発には軍事的対応で対処しようとしている(ように側からは見える)。

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軍事の前に、外交マターではないのかねえ?この分野の専門家でもないが。おかしな状況だ。

防衛大臣に意見を聴く前に、まずは外務大臣に対応の基本方針を確認するべきである。メディアは取材対象の選択を完全に間違えている。

防衛大臣の所掌マターに外交当局が口出しできない「雰囲気」があるなら、戦前期・日本と何も変わっていない。TV局は、有効な意見など出てくるはずがない軍事評論家にワイドショー出席を依頼するよりは、まずは本筋通りに外交評論家の意見を聴くべきだ。

そもそも日本国憲法は、原理的に読めば国際紛争を解決する手段として武力行使を明文で<放棄>しているのであって、何であれ外交によって解決することを明確に要請しているのだ。日本の政府は日本の憲法が要請している国務を誠実に履行する使命を負っている。安保法制は成立したが、憲法が改正されたわけではないのだ(=政府が閣議決定を変更したというだけで司法判断で正当性が確定したわけではない)。

北朝鮮のミサイルに対して「迎撃ミサイルで・・・」なんて言ってね、話しがありますが、あくまでも解釈で「自衛のために最小限なら持ってよし」とされているだけでござんしょう?憲法には『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』ってハッキリ書かれているんでござんすヨ。まあ、「絶対使わねえから」って誓うんなら、「これは戦力じゃあねえよ」って詭弁もあるんでしょうけど、迎撃ミサイルで撃ち落とすってんなら、こりゃあもうどうみたって「戦力」に決まってらあ。武力は使っちゃいけねえってサ、小学校でね憲法でそう決まってるって先生言ってましたぜ。そうじゃあないんですかい?土台おかしなことをやってるヨ。「こんなこと、本当に憲法でできるんですかい?」ってね、政府のお歴々は頭はいいはずだし、メディアのお方も学問をしていると思うんですけどね、なあぜ「専門家」に聞いてみねえのか、頭の悪いアッシにゃサッパリ分かりやせん。ミサイルはねえだろうってサ、おれっちには落とすなヨってね、外交に一生懸命になるってえのが義務ってやつじゃないんですかい?

違憲の疑いがある(というより、法学界では明らかな違憲であると判断する学者が多数派である)安保法制によって軍事的対応をとる場合、違憲訴訟が続出することになりますぜ。マスメディアもいまは憲法より軍事だと言わんばかりに片棒をかついでいる。支離滅裂である。このバイアスは意図的なのか?それとも編集部、デスクのメンタルは大丈夫か?

2017年8月10日木曜日

メモ: 社会的役割と微罪の関連性

「微罪」というのは、例えばスピード違反やシートベルト装着義務違反、あるいは最近の時代であれば組織内部における(自覚のない程度の)パワハラ、セクハラ、アカハラ等の加害者経験も該当するだろうが、要するに規則上罰則対象になっている細かな違反行為を総称するものである(と本稿ではしておこう)。これが万引きや痴漢にまで至ると、「微罪」という範疇には含まれず、言葉のイメージ通りの「犯罪」ということになるだろうが、罰則の軽重から順序づければやはり「重罪」ではなく「微罪」ということになるのかもしれない。

「微罪」とはいえ、責任ある地位にある人にとっては、致命的なウィークポイントでもあるのが、現代の先進国の特徴である。なぜなら爛熟したマスメディアによって「微罪歴」を公表され、社会的な物議になることによって、その当事者は社会的地位を失い、将来責任ある地位につく可能性も喪失する可能性が高い、というのが特に近年目につくようになった現象であるからだ。一部の人は、成功した人物に対して「ある境遇の」人たちが共有する嫉妬であると、言い切るのも特に最近になって増えているようだ。

やはり「格差拡大社会」の負の側面が顕在化しつつある、ということなのか。

政治家(の事務所)であれば(過失による、もしくは監査の不十分性による?)政治献金未記載、株式会社取締役であれば泥酔暴行やアダルトビデオ購入歴などは上で言うところの「微罪」の典型例だろう。少なくともこれらが「重罪」であるとはどうしても(小生には)思われない。

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これも以前の投稿でつかった記憶があるのだが、江戸幕府6代将軍である徳川家宣が家臣・新井白石から勘定奉行・萩原近江守重秀罷免の願いを数度にわたってきくもののその都度とりあげることはなかった。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである』と。確かに荻原重秀は世評が極めて悪く、その何割かは事実だったのであろうが、財政運営における重秀の技量は実績の示すところであり余人をもって代えがたい。ゆえに、もう少し待て、というのが将軍・家宣の判断だったという。

現代日本なら、瓦版が重秀汚職の非難を繰り広げ奉行辞任を強要していたであろう。

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内閣にせよ、官庁、民間企業、はたまた一般の個人商店、家庭に至るまで、非常に長い期間にわたって問題なく運営するには相当の技量、覚悟と修練の裏付けが必要だ。

組織の重要ポストにふさわしい力量は、その職務から決まってくるものであり、円満な家庭をつくり子弟を育て上げるにはまた独立した才徳が要る。

何十年の「実績」の積み重ねは、それ自体としては事実であり、あった事実をなかったとすることはできない。

何が新たに評価材料として付け加わるとしても、プラスとマイナスをあらいざらい汲み取って人をみる(将軍はいないわけだから)国民の度量をメディア企業は損なってはならない。バイアスを意図的に混入させてはならない。反対尋問にたえる準備はせねばならないし、また必要に応じて尋問の機会を設けるべきだ(「日本報道検証機構」はあるがこの機構のパフォーマンスを評価できるほどの知見はもっていない)。小生はそう思うネエ・・・。やはりジャスティスやフェアネスが社会には大事である。

まあ、特に日本を話題にすれば、この二、三年の「安倍政権」の傲慢も酷かったけれど、ネ。

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微罪を攻めて社会的地位を失わせる行為は、現代先進国で開発されたソフト・テロリズムの兵器と言っても言い過ぎではないような気がしている。

もしも政治的党派感情から特定の会社・結社が敵対者を筆を用いて攻撃するとすれば、まさにソフト・テロという言葉が当てはまるだろう。

創造的かつ生産的な社会の維持にとってこのような人的資源の浪費はマイナスであるとしか思えない。

しかしながら、「表現の自由」を考慮すれば、このような攻撃的報道も違法ではない。これまた社会の健全性の証でもある。しかし、あらゆる意見に対して公平な機会が提供されていなければならない。これも重要な命題だ。

大企業によるメディア市場の寡占、寡占企業による結託、アウトサイダー排除等々の弊害を防止する必要があるのは言うまでもない。

要するに、特定の大規模メディア企業の影響力は、その報道姿勢によらず、一定レベルを越えるべきではないということだ。これも経済学上の一般的要請の一例であり、行政上の課題になりうる。

今日の投稿で述べたことと、インターネットが普及した状況の下ではどのメディア企業も<党派的>にならざるを得ないと議論した先日の投稿と、どう関連づけるか、それはまた別の機会に。


2017年8月8日火曜日

メモ:公職の選抜方式について

先日の投稿でも政治家や官僚などの所謂「公職」に就く人物の選抜方式をとりあげている。政治家は選挙で選ばれ、官僚は筆記試験を受けて選抜されるのだが、選挙と試験という方式の違い自体には何の倫理的価値も含まれていない。選ぶ人材と選抜の効率性に基づいた方式の選択でしかない。そんなことを述べた。

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朝の連続テレビ小説『ひよっこ』の視聴率がこのところ上がっているそうだ。拙宅でもカミさんと二人で毎朝視ているのだが、ちょうど失踪した父親が記憶喪失の状態で見つかり、今後の進行が期待される段階にきている。

見つかった父親は、ちょうど小生の亡くなった父とも同世代と思われ、思わず見入ってしまうのだが、ともすると『あれだねえ、あの世代は少年から青年にかけては軍事教練、勤労奉仕、あげくに軍隊に召集されて最前線で生死の境をくぐり、戦争が終わると今度は仕事の最前線で無際限に働けと・・・忙しいまま年をとり、年をとったら介護が大変、介護費用がもったいない。若い者が気の毒だ。いつまで生きるんだと言われているかのようで、ホント、報われないねえ・・・あわれだよ』。そんなつぶやきも口から出てきたりする。

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終わってチャンネルを切り替える ー 小生、まだ仕事は続けているが、「隠居」待遇なので業務上の義務からはかなり解放されている。だからこんな毎日を続けられている。

すると山梨市長が職員の不正採用の疑惑で逮捕されたとの報道だ。

『役所の原稿を読むことに徹します』といった風の抱負をのべた安倍・再々改造内閣の某新大臣のほうがまだましであった。

それにしても所謂「政治家」のレベルダウンが甚だしい。

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そもそもある一日に有権者が投票をして、より多く票を集めたほうの立候補者を議員なり、知事なり、市長に採用するという現行の方式。実質的に適切な人材を選抜する方式でありうるのだろうか、というより現にそうなっているのだろうか。単なる人気投票ではなくそれが適切であることは論理的に証明できるのだろうか。証明できるなら、どんな証明になるのだろうか・・・?もちろんこれらは反語的疑問文である。外ヅラがいいとか、内面がいいとかがあるが、人柄もよく知らずに投票をして、その票数で決めるなど、クジで決めるのとどこが違うのだろう、と。小生ずっと若い頃からこんな反民主的な思いをもってきた。が、最近はこの思いに自信も加わってきたのだ、な。

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大学でよくやるように、政治課題に関するレポートを書かせ(もちろんゴーストライターがいるかもしれないが、それは想定上のことだ)、レポートの採点をするのと併せ、そのレポートを踏まえたプレゼンを公開の場でコンペティション方式で開催し、専門家と一般有権者から構成される審査委員による評価に基づいて第1位候補者、第2位候補者を提示する。その候補者に対して有権者が最終的に投票するーこの最終段階の投票は省いてもよい。小生なら、市長や知事はこうするねえ。ま、いま職にある多くの首長はこんな風な方式であったとしてもやはり第1位候補者に選出されると思う。

普通選挙よりは筆記試験の方が知識・教養のある人材は選抜できる理屈である。頭脳とコミュニケーション力を求めるなら、選挙より公開プレゼンが最良である。プレゼン終了後は審査員が質問する。フロアで観ている一般有権者の質問も幾つかは応答する。実際にやってみればすぐ分かる。驚くほどよく力量を判別できる。もしリーダーシップや協働への適性を見るなら特定課題に関するグループ討論をさせてみるのが一番だ。これらを視聴する一般有権者は誰がもっとも「公職」にふさわしいか容易に判断できるはずだ。

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普通選挙は民主的だが、民主的であるがゆえに縁故や地縁・人縁に影響される。人材選抜の精度と民主性、更には経済性(=低コスト)を同時に満たすには、選抜方式を選抜目的と整合させなければならない。これは学問的知見が活用できる領域である。

専門家は、こんな時に活用するべきだ。

いずれにせよ、封建的・身分制的社会から現代社会に至るまでの理想であった「普通選挙」は、もう一度、その役割と位置付けの再検証が必要になってきたのが21世紀という時代だと思われる。

2017年8月6日日曜日

科学・芸術と政治の埋められないギャップ

最近は多様な分野で仕事をしている人がマスメディアに登場し、自らの信条や哲学、政見を語ることが増えている。

政治評論家ばかりではなく、社会の出来事について科学者や芸術家のものの見方を視聴することは、確かに清涼感をもたらすもので、それが悪いというつもりは全然ない。

しかし、話題が政治になると学者や芸術家の発想の仕方と話題の性質とがまったく異質で、かみあっていないと感じることが非常に多い。なにも政治には素人だからというのではなく、切る刀と切られる肉がまったく合っていない、そんな感覚なのだな。

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学者にとって非常に重要なことは、細部における違いに注意することであって、そんな細かな違いを徹底的に考えることが新しい考え方や理解の仕方、新たな概念につながることが普通にある。細かな違いを発見すること自体が一本の論文になることも多い。大局に当てはまっている基本的な大枠は、大体は共通の理解として得られていて ー もちろん、そんな大枠がひっくり返ることも何百年に一度はあり、パラダイム転換と呼ばれている ー そんな基本的な観点を検証しても、まずは面白い結果は出てこないのだ。というか、巨大なパライダイム転換の始まりもまた、やはり理論と事実との細かく、小さな不一致が動機になることが多いのは、ケプラーによる楕円軌道の着想やアインシュタインによる特殊相対性理論の例を引くまでもなく、科学者であれば誰でも知っていることだと思う。だからこそ、多くの科学者は細部に執着する。それが第一歩であり、日常的な習慣になっているはずだ。

芸術家もそうではないのかな、と想像している。ささやかな、細やかな、ともすれば見逃しやすい事象に愛情を注いで見つめる姿勢から美の発見に至るものではないだろうか。大きなもの、普通にあるもの、頻繁にあるものは、これまでに何度も作品化され、テーマとしては陳腐で月並みなものになってしまっていると思う。

作家や哲学者、更には伝統芸能や医師、職人さんたちを含め、一般に高度に文化的知性的な活動に従事する人たちは、社会の出来事を語る際にも一人一人の人間の思いに目を向けることが多いのは、自分の仕事と取り組むときの精神がそこに現れているからだと思う。

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しかし、「政治」を語るとき、そういう細部、つまり少数例であったり、可能性であったり、ディーテイルであるような側面に執着する発想はまったく噛み合わないのではないかと。そう思ったりもするのだ。

そもそも「民主主義」を支える土台ともいえる「選挙」は、これ自体が100パーセント統計的な方式であり、一人一人に着目するというよりは社会全体の傾向を大雑把にとらえるのが目的だ。というより、民主主義という概念には最初から(国民を一個の政治的意思決定主体とみなせば)「国民」の大勢を統計的に把握しようとする意識が核心として含まれている。

まあ、上のような視点に立てば、「待機児童問題」や「いじめ問題」がいつまで経っても解決できないでいるのは、行政が民主的に進められていない証拠とも言える。が、解決できずにいるのは、予算制約など供給側の事情にもよる。

事情はいろいろある。が、ともかく正解があるのなら「政治」は要らない。行政機関が専門家に依頼すれば正解をみつけてくれる理屈だ。正解を探していては解決できず、解決に長い時間をかけていては、多数の人が困る、そんな場合に「政治」が必要になる。そうではないか。一口にいえば「政治」は全く科学的ではない。問題が政治的であるとは、(科学が利用される場がまったくないというわけではないにせよ)科学によっては結論は出ない問題であると言うこととほぼ同意義である。そうではないか。

しかし科学的でないというなら、史上初めての"Data-Driven-Management-System"の成功例といえるQC(=品質質理)のコアである「PDCAサイクル」と「重点指向」。まずは重点課題を選択し、ターゲットを定めて、解決への第1歩を実行せよというQC哲学も決して科学的とは言えないだろう。脚気患者が多くて困るなら、海軍がやったように「イギリス海軍では脚気患者がいないので、同じものを食することにしよう」というのが、正解ではないまでも有効な対応であったわけで、これを森鴎外のように『脚気の原因が不明であるのに食事で解決しようというのは科学的でない』と言っていては、解決には近づけなかったのだ。「政治」をマネジメントとみれば、「それは科学ではない」というのはそういう意味だ。

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小生が予測する未来の政治とはこんなものだ。「理想」ではなく、「夢」でもなく、こちらの方が選ばれる可能性が高いのではないかという単なる「予想」だ。

社会問題を政治的に解決するときは、関連するビッグデータをAI(=人工知能)に検証させて、ベスト・レコメンデーションを提案させる、その提案について人間が議論し、追加的条件を入力し、AIを学習させてレベルアップする、こんな方式が未来の政治システムになっていくのだと思っていて、そうなっていけば「政治の統計化」は目に見える形で進んでいくに違いない。これまた現れるべき技術革新ではないかと思う。

現代という時代に「面壁十年」や「即身成仏」を敢行する宗教家はもう滅多におるまい。巫女が託宣を下して政治を行なっている国はもう聞くことがない。時代が進歩したからだと言うのが正しいものの見方だ。あと百年もすれば、国会議員などのプロの政治家は職業としては二流・三流になっているかもしれず(今でもそうかもしれないが、これはまた別途)、もしそうなれば人類社会がそれだけ進歩したという証である。

が、今はまだそこまでは行っていない。なので、いずれにせよと言ってもいいが、政治的な解決が求められている時に「一人一人の気持ちに寄り添って・・・」という視線は結局は問題の性質と噛み合わないのであって、「普通の人は・・・」という冷淡な視線で問題を考えるのが実は本筋だろうと。どうしてもそう思うのだ、な。

「赤ひげ」のような人間的情愛も大事だ。しかし、高度医療を可能にする医療設備とそれを広く利用可能とする社会制度の設計が現実にはもっと大事である。どこかで何かを早く決めなければならないとすれば、QCのようにデータ・ドリブンで決めるしかないだろう、というのが本日の要点である。


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むしろ政治問題の解決を考える際にもっとも注意しなくてはならないのは、与えられた問題に対して<正解>を追求することではなく(正解などそもそもないのが通常である)、中でも正解だと思われるその解決策が生み出していく間接的影響(=戦略的効果)をあらかじめ、予測できる限り予測しておくことである。これは、何も対ソ戦略としてはベストの戦略と思われた満州事変が、結局のところ日中戦争への端緒となり、対米戦争を選択させ、国家崩壊につながっていったという、この歴史的事実を思い出すまでもないことだ。が、この面でも<政治的人工知能>のレベルアップによって人類の知的状況はずいぶん改善されるだろう。


2017年8月2日水曜日

国の問題・学校設置の問題: マスメディアによる「社会の消費」

思いつくことは幾つかあるが、どれも細かく、下らない。わざわざメモするまでもない。
と思っていると、世間の話はいつの間にか明日の内閣改造だ。

それにしてもあれだねえ。

いま最も客観的な意味で心配なのは、北朝鮮のミサイル開発の進捗度のはずだ。

アメリカは決して北朝鮮の敵ではないと言い始め、ひょっとすると制裁一点張りでは効果がないとみて、協議の場につく意思があるのかもしれないが、協議すればすればで今度は制裁とは真逆の「経済支援」を求めるのがまず確実だろう。そうなれば日本もどんなに嫌だろうとつきあわざるを得ないだろう。いやならまたミサイル開発・核開発を再開すればいい・・・失うことを恐れる、現にそのリスクがある先進国に対してこれほど効果的な戦術はない。

どうなっていくのだろう・・・日本の公益を考えれば、国際環境と安全保障がいまほど難しく問題化している時代はない。放置しておくと、いずれ経済面にも影響は出るだろう。いや、将来への投資という面ではもう出ている可能性はあるが。

リスクは一定限界を超えてはじめて社会レベルで共有されるものだ。が、一般の人が意識しないといっても、ないということではない。

★ ★ ★

ところが・・・

先日、北朝鮮が発射したミサイルの仰角が大きく、そのため奥尻島付近に落下したという報道を(例によって)ワイドショーがやっているのを視ていると、某メインキャスターが『なるほどねえ・・・そのように計算したんだ、距離が出ないようにネ』と、まるで野球の解説でも聴いているかのように感心することしきりの様子だった。

悲しかった。唖然を通り越して、絶句の念を禁じえずでありました。

「許せません!これほどの暴挙を何度見過ごせばいいのでしょうか!」くらいのことは言えないものだろうかネエ。それとも、北朝鮮はああいう国なんですから、と。そういうことだろうか。

森友学園と加計学園騒動には、確固たる証拠がないにもかかわらず、あれほどまで食い下がり、敢然として、政府という公権力を批判することができたのだ。疑惑という一点であそこまで批判を繰りかえし、もはや倒閣運動であるとも言える報道をしておきながら、それと同時に単なる疑惑ではなく、日本の公益を現に脅かしている「暴挙」を目前に見て、それでも「外務省は抗議をしました」と。前者に比べて、実に冷戦沈着、泰然自若としているのだな。

しかし、マスメディアがこれじゃあ、冷静を通り越して、足元を見られますぜ。北朝鮮が怖いんじゃないのか、と。冷静なら、徹頭徹尾、国内の区々たる不祥事にも冷静でいるべきだ。

★ ★ ★

エールフランス機がミサイル着水直前の時刻に同地点を通過していたという報道は、「いま考えると結構危なかったよな」と、まあこんな話しで終わるわけだが、マスメディアがこうなっちゃったらダメなんじゃないの?たかが学校一つ、学部一つの不祥事であれだけ怒れるなら、もっと怒れよ、話はミサイルだぜ、日本漁船にだって危険は及ぶんだヨ、生命に関わる話なんだゾ、と。小生の友人には幸いマスコミ勤務の人はいないが、もしいればこんな嫌味を言うと思う。

野球の解説はあったほうがいい。エラーや誤審を指摘してほしい。ゲームが面白くなるからだ。しかし、日本社会の現実はゲームではない。面白く伝える必要はないのだ。

まして、ある社はリベラル派を、ある他の社は右翼の応援団になってほしいと、そんな党派的報道を誰も頼んでないだろう。それぞれ会社の都合で自らの役回りを自らに振っているだけではないか。

面白くするために、誰かを、何かを、どこかを原材料としてダシに使っているなら「社会」そのものを消費していることになる。食料を消費すれば食料はなくなる。サービスを消費すれば、サービス生産で利用した資源はなくなる。社会を消費すれば、社会で共有される資源がなくなるのだ。なくなるその共有資源には、社会の相互信頼やマナーや落ち着き、物事の軽重、健全な常識といった日本人の文化全体が含まれるのだ。

井戸端会議も役に立つときと、地域社会の害になる時がある。それと同じだ。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件にまで拡大した「疑惑のデマ」の怖さを忘れるべきではない。表現の自由よりは生命の尊厳を優先するべきであるし、表現の自由が大切であれば、それが真理であるか、社会規範に適っているか、備えるべき表現上の品位を有しているかといった価値判断も同じく大事にするべきだ。いくつかの私企業の経営が安泰であるかどうかは、これらの社会的価値に比べればどうでもよいことである。




2017年7月25日火曜日

新聞: 社会の公器たりえず、元の私企業として存続をはかるのが自然か

極右から右派までをカバーする産経新聞、極左(→赤旗の購読者層だろう)とまでは言えないが左翼の代表的な拠点である朝日新聞と。その中間に読売、毎日、日経と、最近は目立って新聞各社の政治的ポジションが明瞭に表面化するようになっている。

それに伴って、新聞各社と安倍政権との親密度にも違いがハッキリと伝わってくるようになり、その周辺に集合する同志(?)集団がネット上で互いにぶつけあうネガティブ・キャンペーンももはや罵詈雑言としか言えない様相を呈してきた、というのが2017年の日本の政情、社会状況の特徴である。

端的に言えば、敵対的党派感情の高まりと社会的分断の進行。

このように激しい党派的感情は、2009年9月16日に発足した鳩山内閣から2012年12月16日の衆議院選大敗で終焉を迎えた民主党政権の時代においても、見られなかったように記憶している。

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そもそもインターネットの台頭の中で新聞社(及び放送局)の情報独占は崩壊し、新聞社が大衆啓蒙的・中立的情報メディアであろうとするビジネスモデルはもはや持続不可能になっている。この点は十数年も前から多くの人に指摘されているところで、いよいよ日本でもそんなリアルな潮流の変化が目に見えるようになったか、と。そうみるのが自然だろうと思う。それが善いか悪いかという、そんな価値判断の対象ではなく、そうなるのは何故かという分析対象であるということである。

亡くなった父は、朝日新聞の記事を毎朝読んではこきおろすのを趣味としていたが、「もうこれはダメだ」と言って購読を止めることは一度もしなかった。その頃、情報取得で頼りになるのはTVがあるとはいえ何と言っても毎日朝夕の新聞であったし、新聞を読むことが真っ当な社会人であるライフスタイルでもあったのだ。通勤電車の中で日本経済新聞を広げて読んでいる人がいれば、その人は背広にネクタイをしており、その多くは日本橋や銀座、霞が関辺りで降りて行ったものである。

とはいえ、新聞社はもともと私企業である以上は、利益を上げる必要があり、読者は顧客である。である以上、顧客満足度を高めることが求められるが(でなければ、代金を払ってまで買ってもらえない)、情報はインターネットからいくらでも入手できる状況の下では、新聞から得られる顧客満足は単なる情報提供によって形成されるのではなく、顧客の志向に合致した味付けが新聞社の提供できる付加価値となる。その味付けとは一定の観点に基づいた見方なり解釈であり、原理的には野球の解説や天気予報の解説とあまり変わるところはない。新聞社が述べる論調に対して志向を同じくするファンが集い共感し合うのであり、その様子は好きな評論家が語る多事争論をきいて溜飲をさげスッキリした気持ちになるのと本質は同じである。こんな「納得感」こそいま新聞社が読者に提供できる付加価値の中身になっていると思うのだ、な。

新聞の紙面が党派的になるのは時代の流れであり、ニュートラルなジャーナリズムというのは存在できないのが21世紀という時代であると言ってもよいだろう。新聞の個性をわける党派性は、今後ますますハッキリとしてくるであろう。というより、ハッキリさせるほうが読者が喜ぶので、そうせざるを得ない社会状況に新聞社は置かれてしまっている。

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こんな時代の潮流を悪いとか、情けないと評価するのは適切ではない。理解するしかないのだ。そう、理解するしかなく、また分かってくると思うのだが、ただ一つ、新聞はもはや「社会の公器」ではなく、<社会主義者の|リベラル派の|中道左派の|中道右派の|極右集団の>主張。その意味では、「メディア」と呼ぶよりは「パンフレット」と言うべき出版物になってきているのが21世紀の新聞である。元々創立当初から各社は社風として個性をもっていたのだが、こうやって原点の理念に戻り、新聞社は21世紀にも私企業として存続するであろう。批判ではない。予想なのである。

ずっと昔、1934年10月に戦前期の陸軍省は『国防の本義と其の強化の提唱』というパンフレットを発表した。会社も組織もどこも「主張」というものをもっており、俗に「陸パン」と呼ばれるこの印刷物が、その後10年余の軍国主義日本の魁(サキガケ)となったことは忘れるべきではない。パンフレットは、意見の表明であるから、もちろんその自由は保証されなければならない。しかしながら、データや事実の断片を素材に編集された内容全体は、あたかも客観的解説であるかのような外観を呈している。未来への方向を知らせているような文面になっている。この点は、「陸パン」も現代の新聞も同様だろうと。そう思うようになってきた。

とすれば、その点を弁えて読めばよいわけであり、新聞社の購読者獲得競争の消長がそのまま社会全体の世論の在りどころを伝えると言う意味では、普通の雑誌市場に近い競争市場にいよいよなってきた。それはそれで進化していると見ているのだ。これもインターネットの登場と普及と高速化がもたらした社会の変化の一端である。

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進化それ自体は良いに決まっている。心配なのは次の点だ。

公器、というより特定の政治的立場にたった組織として自社の主張を展開し、新聞社が互いに競争をするのは、必ずプラスの価値をもたらすと思う。しかし、競争が過当競争になり情報の品質向上(高コスト・ハイレベル知的側面)より、むしろ面白さ追求(低コスト・エンターテインメント的側面)に力が注がれてしまえば、社会進歩の動力にはなりえない根拠なき敵対的党派感情(負の熱狂=Negative Fanaticism)を日本社会の中にばらまくだけの結果になるやもしれず、その場合のマイナス効果は計り知れない。

さて、こうなってくるとダ・・・・・こんな時代状況においては、新聞の販売システムもいずれ再構築せざるを得なくなるだろう。1社の新聞のみをずっと購読しようとする強固な顧客は数が限られてくると思うからだ ー 実際、日本社会で最多数であるのは「無党派」集団であるし、無党派集団に対して党派的記事を掲載するのはマズイ戦略であろう。かといって、無党派集団を販売ターゲットにしようとすれば、政治色は脱色して身の回り中心の小新聞にリニューアルしなければなるまい。これはこれで、競争の激しい市場である。小生宅も仕事から引退して日経記事を教材に使うことがなくなれば、そろそろいいかな、と思っている。また、新聞社の収益源も改革を余儀なくされるだろう。党派性とCM媒体としての適性は両立し難いからだ。どうやら今後2、30年のうちにはどの新聞社も大規模な経営改革を迫られると思われるのだが、このテーマはまた別の機会にとっておきたい。