2017年8月17日木曜日

「明治維新によって文明開化がもたらされた」という見方は科学的ではない

終戦記念日に靖国神社を訪れると、荘厳であるべき境内周辺は政治団体の勧誘(?)で騒然としており、そうかと思うと戦前どおりの帝国陸軍軍装を来た一団が闊歩していたりして、とてもじゃないが心をこめて参拝をするような雰囲気ではないそうだ。

それにしても戦前を懐かしむ人は案外に多い。増えているのかもしれない ― ひょっとすると、安倍総理その人もそうかもしれないと思わせるところが恐いといえば恐いのだが。

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戦前期・日本は明治維新(王政復古)でスタートして1945年8月15日で終焉を迎えた。これに反対する人はまずおるまい。確かに明治憲法が施行されたのは、維新から20年以上もたった1890年であったが、フランス流に名前をつけるとすれば戦前期・日本は全体として「第一帝政」という名前に落ち着くのだろう。まあ、維新から明治憲法施行までが第一帝政、憲法施行から敗戦までを第二帝政と呼ぶ人もいるだろうが、本質に大した違いはない。この伝でいえば、戦後日本は国民主権となり「帝政」とはいえないので「第一共和制」ということになるのだろうか。いや「共和制」ではないなあ・・・「象徴天皇制」ではあるのだから。ま、この点は今日は置いておこう。

日本人で明治維新を非常に高く評価する人は多いはずである。義務教育でもそう教えられている。廃藩置県や文明開化はそのプラス評価の柱だ。が、そんな一時期の功績に注意を限定してプラスに評価してよいならば、戦後の日本についても昭和20年代の財閥解体、農地解放、そのあと昭和30年から45年に訪れた「高度成長」時代だけをとりあげて、非常に高い水準でプラスに評価してもよい理屈になる。これが片手落ちであるのは当然だ。

政治体制、というか一つの時代を形成した特定の社会システムの評価は、発足から終焉までの総決算によって評価するべきだ。つまり、戦前期・日本を評価するなら、大政奉還を天皇が勅許した1867年11月10日時点の日本と1945年8月15日時点の日本の国土と社会を比較して、双方のプラスとマイナスを評価するべきなのだ。総決算とはそういうことだ。

そして戦後日本の中間評価をいまするならば、1945年8月16日と2017年8月16日(今日の時点)を比較して評価する。そうでなければ全体を評価することにはならない。

確かに戦前期・日本の下で科学技術は向上し、資本蓄積は進み、人的資源もレベルアップした。それは事実だ。とはいえ、そもそも(客観的数値化などは不可能だが)旧幕時代最後の一日における国民の平均的幸福度と玉音放送があった一日の国民の平均的幸福度とどちらが高かったのだろうか?総決算とはそういうことである。1945年8月15日の日本が戦前期・日本の帰結である。これはもう自明のことである。

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一般に、ある政策の効果を評価する場合は次のようにする。

  1. 政策を示す外生変数を定義する。
  2. 実際に実施された政策をデータに含めモデルを推定する。
  3. 政策の実施がなければどうなっていたかをシミュレートする。
  4. シミュレートされた計算値と実績値との差が政策の効果である。
  5. また、ほかに実施されえた政策を複数のケースに分けてシミュレートする。その中で最善の結果をとって、実績と比較する。実績がシミュレートされた最善値を下回れば政策による不利益があったと考える。
実際には、上のような経済実験はデータ的にも概念的にも実行が困難である。しかし、上のような考え方に沿えば、「もっとうまく出来たのに」という歴史上の「イフ(If)」はいつでも当然あるわけで、<明治維新のおかげで文明開化が出来たのだ>という歴史評価は決して科学的議論ではないことに思いが至る。

AのあとBがもたらされた時、Bという結果の原因がAであるとは限らない。AダッシュやAツーダッシュからもBはもたらされうる。因果関係の検証は慎重さを要するのだ。しかし、歴史評価ではAがあったからこそBがあったという議論をよくする。『先にあったことが後にあったことの原因である(post hoc ergo propter hoc)』(英訳:"after this, therefore because of this")と考えるのは昔からよく知られている誤謬"post hoc fallacy"である。「明治維新のあと文明開化があった」のは事実だが、明治維新なかりせば文明開化は決してなかったのだと、そうは推論できないだろう、と。そう考えるのはロジックに反するし、また実験で検証されているわけでもない。科学ならそのように議論する(はずだ)。

旧幕時代から維新後にかけて社会は大いに進歩したのだという福沢諭吉的観点に立つとしても、それは観察された事実がそうだったということだ。大政奉還がなかったと想定して、1867年11月10日以降をシミュレートすればその長期的な発展経路は、案外、実際の歴史経路よりもパフォーマンスが良かったかもしれない。少なくともその仮説的可能性を先に否定することは非科学的である。同じ意味で、もし明治維新後に実際に実行された政策は最善とはいえず(これが事実だと小生は考えているが)、ほかにもっと豊かで平和な日本を築くことが可能であった政策も存在した、と。そんな可能性についての議論が構築できるなら、そういう議論も決して無意味な議論ではない。

まあ、歴史学界ではどのような議論の仕方が普通であるのかは小生よくは知らない。

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であるので、靖国神社境内を帝国陸軍軍装で闊歩する一団をみると、重大な交通事故を起こした運転者(ないしその家族)があとで何度もその事故地点を訪れ、訪れるたびに「間違ったところはなかった」と、「誠心誠意、注意をして運転をしていたのだ」と、「ほかに何ができただろう」と、そんな反・自虐的追憶に心を任せる人物(悪い人では決してないのだろう)を想像してしまうのだ、な。道を変えれば事故はなかった可能性があり、そもそも運転をしなければ事故は起こりえなかったのだ。



2017年8月16日水曜日

一筆メモ: これも国民性の違い?

カミさんと話していたとき、こんな話をした:

カミさん: 日本人の若い人がまた海外でボランティアをやるみたいヨ。
小生: ずっと昔、宴会か何かでこんな話をしたことがあったっけ。ええっとネ、アメリカ人は『みんなで協力して大儲けしようじゃないか、金持ちになろうぜ』って言う。日本人なら『みんなで力を合わせて我慢しよう。困った人がいれば助け合おう』って言う。で、中国では『お上の言うことをきけば金を儲けてもよい』ことになっている。
いま思い出しても、結構よくできたアネクドートであったわい、と。

ただまあ、何事にも表と裏がある。アメリカ人なら『山分けで一番たくさんもらうのは、やっぱり案をだした奴だな』というわけで分配面の問題が残る。不平等が進むことが多い。日本人はみんなが平等になるが、下手をするとみんな貧乏になる。一人儲けると心やましくなる、やっカミをこうむることが多い。中国では、言うことを聞いていれば国が助けてくれるが、聞かなければ蓄財疑惑で家財没収になることが多い。

小生:一長一短だなあ、やっぱり。
カミさん: 暮らしやすくても貧乏はいやだなあ・・・。
小生: 才あるものは徳が薄く、徳あるものは才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである。同じだよ、これと(笑)。

2017年8月15日火曜日

北朝鮮は誰の番犬なのか?

先日の投稿では、こう書いた。
中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
核開発技術はロシア経由かと憶測しているのだが、こんな見方もあるようだ。
 習国家主席は、北京より平壌と親しい「瀋陽軍区」によるクーデターを極度に恐れている。「瀋陽軍区」高官の一族らは、鴨緑江をはさみ隣接する北朝鮮に埋蔵されるレアメタルの採掘権を相当数保有する。「瀋陽軍区」が密輸支援する武器+エネルギー+食糧+生活必需品や脱北者摘発の見返りだ。北朝鮮の軍事パレードで登場するミサイルや戦車の一部も「瀋陽軍区」が貸している、と分析する関係者の話も聞いた。
(出所)産経ニュース「野口裕之の軍事情勢」、2017年8月15日

ロシアではなく、中国の地方軍閥の番犬が北朝鮮だという見方もあるわけか。やはり大企業マスメディアの取材力だねえと見るべきか、それとも単にこんな噂もあるという目で見るべきか。この両方が正しいということなのか。

いずれにせよ、こんな地下で根が繋がっているような複雑怪奇なパワーゲームに参入した戦前期・日本は、ウブな感覚のままで状況変化に振り回され、狡猾に立ち回るべきところを武断主義などと称してガラパゴス的な行動を選び、結局は米・ソ・英・中(←中国に対して戦術的には優勢であったものの戦略的敗北に追い込まれたと見る点では合意が得られているようだ)の力に踏み潰されてしまう、力を使えばもっと大きな力に敗けるという大失敗を演じたが、これまさに理の当然でもあったわな。と、そう思う今日・終戦記念日である。

思えば日清戦争ではやくも明治天皇は『これは朕が戦にあらず、臣下の戦争なり』(だったかな?)と語ったよし。戦前期の天皇制の意思決定の本質、そして何が可能であったか、不可能であったか、その問題の本質等々、まだまだ研究課題は多いに違いない。

もう一度、仕事のスタートラインにたつならビッグデータや人工知能も面白いが、近現代史もまだまだ未開拓の余地があって面白いだろうなあと思う。"Noch einmal"(もう一度!)ができない点が人生で残念なところだ。

2017年8月12日土曜日

気温予報の説明方式には改善の余地あり

「西日本の気温は本日も例年より3度高くなるものと予想されます」・・・天気予報ではよく耳にする伝え方である。

しかし、長期的な温暖化が本当に進行しているなら、「例年」より今年の気温が高めになるのは当たり前である。

たとえば『最近10年間の平均気温よりは3度ほど高い暑さになるでしょう』という説明であれば意味がより明確になる。更に『温暖化が続くなか、データから予想される気温よりもさらに1度高い暑さが予想されています』、こんな予報であれば最近の気温上昇トレンドを加味してももっと暑い、つまり非常に暑い、こんな説明方式も可能なはずだ。

最近の気温の動きを加味した予測値計算は、扱いの難しい時系列データであっても、多々、統計的な計算方法があるので選択に困ることはない。

古典的なボックス・ジェンキンズ法を勉強するときに何度も強調されるように、高め或いは低めの同一方向に予測ミスを一週間も続けるなら、予測方法自体がおかしい。温暖化は気温にトレンドが生じていることだから平年値に予測上の何かの意味をこめているなら既に適切ではないし、従来の目安として使っているだけなら単純に意味がない。

温暖化を後追いしながら「例年より高め」だと説明する言い方には意味がない。

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ただまあ化石燃料利用による「温暖化」は本当かという点も、正直なところ、マユツバであるとは思っている。足元では確かに上昇トレンドにあるのだろうけれど、これを「温暖化」というなら、これまでにも温暖化現象があらわれた期間はあった。「寒暖700年周期説」を唱えた学者もいたくらいだ。

厳密な意味で正確かどうかは検証していないが、まず正当だと思われる記述があるので引用しておく。
白亜紀には、年平均気温で、現在より10~15℃も高かったので、北極や南極近くにあった氷床はとけて、海水が増えました。そのために、海岸線が上がってきました。これを海進(かいしん)といいます。また、海進との関係はまだよくわかりませんが、白亜紀には3度にわたる海洋での酸欠の事件(1億1500万年前ころ、9300万年前ころ、8800万年前ころ)がおこりました。
 中生代には、あたたかく浅い海が広がっていたため、海の生物が増え、有機物が地層中にたくさんたまっていきました。これが、石油となりました。
(出所)http://www1.tecnet.or.jp/lecture/chapter4/4_13.html

「白亜紀」とは中生代白亜紀のことで今から1億年前後さかのぼった時代である。恐竜が生きて地球上を闊歩していた。初期哺乳類はもう誕生していたはずだ。もちろん前後というのはプラスマイナス4千万年程度で広くみなければいけないー人類の古代文明が誕生してからまだ5千年程度であることを思うと、「文明」といっても自然史の中ではほとんど瞬間的な出来事である。中生代にはもちろん自動車も火力発電所もなかったわけだ。

2017年8月11日金曜日

メモ: 対北朝鮮=軍事マターと決めているのはメディアではないか

実質が確かにスキャンダルであった森友騒動はともかく、「加計学園問題」に本当に問題である実質があったのか、未だによくわからない ー というより、加計学園騒動は反政権闘争であったとみれば理解できる。

またまた不審な状況になっている。それは現時点の北朝鮮ミサイル発射観測に関するメディア各社の報道姿勢である。

どのメディアも防衛省の対応方針、たとえば「北朝鮮がグアム周辺水域に着弾させるとして、それは日本の存立危機事態に該当するのか」とか「同時に4発発射するとして、その一部が日本に落下する場合、打ち落とせるか」とか、あれもこれも北朝鮮問題を軍事マターとしてとらえている。

そして政府もまた、言うまでもないが、同じ姿勢で、つまり北朝鮮の軍事挑発には軍事的対応で対処しようとしている(ように側からは見える)。

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軍事の前に、外交マターではないのかねえ?この分野の専門家でもないが。おかしな状況だ。

防衛大臣に意見を聴く前に、まずは外務大臣に対応の基本方針を確認するべきである。メディアは取材対象の選択を完全に間違えている。

防衛大臣の所掌マターに外交当局が口出しできない「雰囲気」があるなら、戦前期・日本と何も変わっていない。TV局は、有効な意見など出てくるはずがない軍事評論家にワイドショー出席を依頼するよりは、まずは本筋通りに外交評論家の意見を聴くべきだ。

そもそも日本国憲法は、原理的に読めば国際紛争を解決する手段として武力行使を明文で<放棄>しているのであって、何であれ外交によって解決することを明確に要請しているのだ。日本の政府は日本の憲法が要請している国務を誠実に履行する使命を負っている。安保法制は成立したが、憲法が改正されたわけではないのだ(=政府が閣議決定を変更したというだけで司法判断で正当性が確定したわけではない)。

北朝鮮のミサイルに対して「迎撃ミサイルで・・・」なんて言ってね、話しがありますが、あくまでも解釈で「自衛のために最小限なら持ってよし」とされているだけでござんしょう?憲法には『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』ってハッキリ書かれているんでござんすヨ。まあ、「絶対使わねえから」って誓うんなら、「これは戦力じゃあねえよ」って詭弁もあるんでしょうけど、迎撃ミサイルで撃ち落とすってんなら、こりゃあもうどうみたって「戦力」に決まってらあ。武力は使っちゃいけねえってサ、小学校でね憲法でそう決まってるって先生言ってましたぜ。そうじゃあないんですかい?土台おかしなことをやってるヨ。「こんなこと、本当に憲法でできるんですかい?」ってね、政府のお歴々は頭はいいはずだし、メディアのお方も学問をしていると思うんですけどね、なあぜ「専門家」に聞いてみねえのか、頭の悪いアッシにゃサッパリ分かりやせん。ミサイルはねえだろうってサ、おれっちには落とすなヨってね、外交に一生懸命になるってえのが義務ってやつじゃないんですかい?

違憲の疑いがある(というより、法学界では明らかな違憲であると判断する学者が多数派である)安保法制によって軍事的対応をとる場合、違憲訴訟が続出することになりますぜ。マスメディアもいまは憲法より軍事だと言わんばかりに片棒をかついでいる。支離滅裂である。このバイアスは意図的なのか?それとも編集部、デスクのメンタルは大丈夫か?

2017年8月10日木曜日

メモ: 社会的役割と微罪の関連性

「微罪」というのは、例えばスピード違反やシートベルト装着義務違反、あるいは最近の時代であれば組織内部における(自覚のない程度の)パワハラ、セクハラ、アカハラ等の加害者経験も該当するだろうが、要するに規則上罰則対象になっている細かな違反行為を総称するものである(と本稿ではしておこう)。これが万引きや痴漢にまで至ると、「微罪」という範疇には含まれず、言葉のイメージ通りの「犯罪」ということになるだろうが、罰則の軽重から順序づければやはり「重罪」ではなく「微罪」ということになるのかもしれない。

「微罪」とはいえ、責任ある地位にある人にとっては、致命的なウィークポイントでもあるのが、現代の先進国の特徴である。なぜなら爛熟したマスメディアによって「微罪歴」を公表され、社会的な物議になることによって、その当事者は社会的地位を失い、将来責任ある地位につく可能性も喪失する可能性が高い、というのが特に近年目につくようになった現象であるからだ。一部の人は、成功した人物に対して「ある境遇の」人たちが共有する嫉妬であると、言い切るのも特に最近になって増えているようだ。

やはり「格差拡大社会」の負の側面が顕在化しつつある、ということなのか。

政治家(の事務所)であれば(過失による、もしくは監査の不十分性による?)政治献金未記載、株式会社取締役であれば泥酔暴行やアダルトビデオ購入歴などは上で言うところの「微罪」の典型例だろう。少なくともこれらが「重罪」であるとはどうしても(小生には)思われない。

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これも以前の投稿でつかった記憶があるのだが、江戸幕府6代将軍である徳川家宣が家臣・新井白石から勘定奉行・萩原近江守重秀罷免の願いを数度にわたってきくもののその都度とりあげることはなかった。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである』と。確かに荻原重秀は世評が極めて悪く、その何割かは事実だったのであろうが、財政運営における重秀の技量は実績の示すところであり余人をもって代えがたい。ゆえに、もう少し待て、というのが将軍・家宣の判断だったという。

現代日本なら、瓦版が重秀汚職の非難を繰り広げ奉行辞任を強要していたであろう。

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内閣にせよ、官庁、民間企業、はたまた一般の個人商店、家庭に至るまで、非常に長い期間にわたって問題なく運営するには相当の技量、覚悟と修練の裏付けが必要だ。

組織の重要ポストにふさわしい力量は、その職務から決まってくるものであり、円満な家庭をつくり子弟を育て上げるにはまた独立した才徳が要る。

何十年の「実績」の積み重ねは、それ自体としては事実であり、あった事実をなかったとすることはできない。

何が新たに評価材料として付け加わるとしても、プラスとマイナスをあらいざらい汲み取って人をみる(将軍はいないわけだから)国民の度量をメディア企業は損なってはならない。バイアスを意図的に混入させてはならない。反対尋問にたえる準備はせねばならないし、また必要に応じて尋問の機会を設けるべきだ(「日本報道検証機構」はあるがこの機構のパフォーマンスを評価できるほどの知見はもっていない)。小生はそう思うネエ・・・。やはりジャスティスやフェアネスが社会には大事である。

まあ、特に日本を話題にすれば、この二、三年の「安倍政権」の傲慢も酷かったけれど、ネ。

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微罪を攻めて社会的地位を失わせる行為は、現代先進国で開発されたソフト・テロリズムの兵器と言っても言い過ぎではないような気がしている。

もしも政治的党派感情から特定の会社・結社が敵対者を筆を用いて攻撃するとすれば、まさにソフト・テロという言葉が当てはまるだろう。

創造的かつ生産的な社会の維持にとってこのような人的資源の浪費はマイナスであるとしか思えない。

しかしながら、「表現の自由」を考慮すれば、このような攻撃的報道も違法ではない。これまた社会の健全性の証でもある。しかし、あらゆる意見に対して公平な機会が提供されていなければならない。これも重要な命題だ。

大企業によるメディア市場の寡占、寡占企業による結託、アウトサイダー排除等々の弊害を防止する必要があるのは言うまでもない。

要するに、特定の大規模メディア企業の影響力は、その報道姿勢によらず、一定レベルを越えるべきではないということだ。これも経済学上の一般的要請の一例であり、行政上の課題になりうる。

今日の投稿で述べたことと、インターネットが普及した状況の下ではどのメディア企業も<党派的>にならざるを得ないと議論した先日の投稿と、どう関連づけるか、それはまた別の機会に。


2017年8月8日火曜日

メモ:公職の選抜方式について

先日の投稿でも政治家や官僚などの所謂「公職」に就く人物の選抜方式をとりあげている。政治家は選挙で選ばれ、官僚は筆記試験を受けて選抜されるのだが、選挙と試験という方式の違い自体には何の倫理的価値も含まれていない。選ぶ人材と選抜の効率性に基づいた方式の選択でしかない。そんなことを述べた。

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朝の連続テレビ小説『ひよっこ』の視聴率がこのところ上がっているそうだ。拙宅でもカミさんと二人で毎朝視ているのだが、ちょうど失踪した父親が記憶喪失の状態で見つかり、今後の進行が期待される段階にきている。

見つかった父親は、ちょうど小生の亡くなった父とも同世代と思われ、思わず見入ってしまうのだが、ともすると『あれだねえ、あの世代は少年から青年にかけては軍事教練、勤労奉仕、あげくに軍隊に召集されて最前線で生死の境をくぐり、戦争が終わると今度は仕事の最前線で無際限に働けと・・・忙しいまま年をとり、年をとったら介護が大変、介護費用がもったいない。若い者が気の毒だ。いつまで生きるんだと言われているかのようで、ホント、報われないねえ・・・あわれだよ』。そんなつぶやきも口から出てきたりする。

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終わってチャンネルを切り替える ー 小生、まだ仕事は続けているが、「隠居」待遇なので業務上の義務からはかなり解放されている。だからこんな毎日を続けられている。

すると山梨市長が職員の不正採用の疑惑で逮捕されたとの報道だ。

『役所の原稿を読むことに徹します』といった風の抱負をのべた安倍・再々改造内閣の某新大臣のほうがまだましであった。

それにしても所謂「政治家」のレベルダウンが甚だしい。

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そもそもある一日に有権者が投票をして、より多く票を集めたほうの立候補者を議員なり、知事なり、市長に採用するという現行の方式。実質的に適切な人材を選抜する方式でありうるのだろうか、というより現にそうなっているのだろうか。単なる人気投票ではなくそれが適切であることは論理的に証明できるのだろうか。証明できるなら、どんな証明になるのだろうか・・・?もちろんこれらは反語的疑問文である。外ヅラがいいとか、内面がいいとかがあるが、人柄もよく知らずに投票をして、その票数で決めるなど、クジで決めるのとどこが違うのだろう、と。小生ずっと若い頃からこんな反民主的な思いをもってきた。が、最近はこの思いに自信も加わってきたのだ、な。

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大学でよくやるように、政治課題に関するレポートを書かせ(もちろんゴーストライターがいるかもしれないが、それは想定上のことだ)、レポートの採点をするのと併せ、そのレポートを踏まえたプレゼンを公開の場でコンペティション方式で開催し、専門家と一般有権者から構成される審査委員による評価に基づいて第1位候補者、第2位候補者を提示する。その候補者に対して有権者が最終的に投票するーこの最終段階の投票は省いてもよい。小生なら、市長や知事はこうするねえ。ま、いま職にある多くの首長はこんな風な方式であったとしてもやはり第1位候補者に選出されると思う。

普通選挙よりは筆記試験の方が知識・教養のある人材は選抜できる理屈である。頭脳とコミュニケーション力を求めるなら、選挙より公開プレゼンが最良である。プレゼン終了後は審査員が質問する。フロアで観ている一般有権者の質問も幾つかは応答する。実際にやってみればすぐ分かる。驚くほどよく力量を判別できる。もしリーダーシップや協働への適性を見るなら特定課題に関するグループ討論をさせてみるのが一番だ。これらを視聴する一般有権者は誰がもっとも「公職」にふさわしいか容易に判断できるはずだ。

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普通選挙は民主的だが、民主的であるがゆえに縁故や地縁・人縁に影響される。人材選抜の精度と民主性、更には経済性(=低コスト)を同時に満たすには、選抜方式を選抜目的と整合させなければならない。これは学問的知見が活用できる領域である。

専門家は、こんな時に活用するべきだ。

いずれにせよ、封建的・身分制的社会から現代社会に至るまでの理想であった「普通選挙」は、もう一度、その役割と位置付けの再検証が必要になってきたのが21世紀という時代だと思われる。

2017年8月6日日曜日

科学・芸術と政治の埋められないギャップ

最近は多様な分野で仕事をしている人がマスメディアに登場し、自らの信条や哲学、政見を語ることが増えている。

政治評論家ばかりではなく、社会の出来事について科学者や芸術家のものの見方を視聴することは、確かに清涼感をもたらすもので、それが悪いというつもりは全然ない。

しかし、話題が政治になると学者や芸術家の発想の仕方と話題の性質とがまったく異質で、かみあっていないと感じることが非常に多い。なにも政治には素人だからというのではなく、切る刀と切られる肉がまったく合っていない、そんな感覚なのだな。

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学者にとって非常に重要なことは、細部における違いに注意することであって、そんな細かな違いを徹底的に考えることが新しい考え方や理解の仕方、新たな概念につながることが普通にある。細かな違いを発見すること自体が一本の論文になることも多い。大局に当てはまっている基本的な大枠は、大体は共通の理解として得られていて ー もちろん、そんな大枠がひっくり返ることも何百年に一度はあり、パラダイム転換と呼ばれている ー そんな基本的な観点を検証しても、まずは面白い結果は出てこないのだ。というか、巨大なパライダイム転換の始まりもまた、やはり理論と事実との細かく、小さな不一致が動機になることが多いのは、ケプラーによる楕円軌道の着想やアインシュタインによる特殊相対性理論の例を引くまでもなく、科学者であれば誰でも知っていることだと思う。だからこそ、多くの科学者は細部に執着する。それが第一歩であり、日常的な習慣になっているはずだ。

芸術家もそうではないのかな、と想像している。ささやかな、細やかな、ともすれば見逃しやすい事象に愛情を注いで見つめる姿勢から美の発見に至るものではないだろうか。大きなもの、普通にあるもの、頻繁にあるものは、これまでに何度も作品化され、テーマとしては陳腐で月並みなものになってしまっていると思う。

作家や哲学者、更には伝統芸能や医師、職人さんたちを含め、一般に高度に文化的知性的な活動に従事する人たちは、社会の出来事を語る際にも一人一人の人間の思いに目を向けることが多いのは、自分の仕事と取り組むときの精神がそこに現れているからだと思う。

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しかし、「政治」を語るとき、そういう細部、つまり少数例であったり、可能性であったり、ディーテイルであるような側面に執着する発想はまったく噛み合わないのではないかと。そう思ったりもするのだ。

そもそも「民主主義」を支える土台ともいえる「選挙」は、これ自体が100パーセント統計的な方式であり、一人一人に着目するというよりは社会全体の傾向を大雑把にとらえるのが目的だ。というより、民主主義という概念には最初から(国民を一個の政治的意思決定主体とみなせば)「国民」の大勢を統計的に把握しようとする意識が核心として含まれている。

まあ、上のような視点に立てば、「待機児童問題」や「いじめ問題」がいつまで経っても解決できないでいるのは、行政が民主的に進められていない証拠とも言える。が、解決できずにいるのは、予算制約など供給側の事情にもよる。

事情はいろいろある。が、ともかく正解があるのなら「政治」は要らない。行政機関が専門家に依頼すれば正解をみつけてくれる理屈だ。正解を探していては解決できず、解決に長い時間をかけていては、多数の人が困る、そんな場合に「政治」が必要になる。そうではないか。一口にいえば「政治」は全く科学的ではない。問題が政治的であるとは、(科学が利用される場がまったくないというわけではないにせよ)科学によっては結論は出ない問題であると言うこととほぼ同意義である。そうではないか。

しかし科学的でないというなら、史上初めての"Data-Driven-Management-System"の成功例といえるQC(=品質質理)のコアである「PDCAサイクル」と「重点指向」。まずは重点課題を選択し、ターゲットを定めて、解決への第1歩を実行せよというQC哲学も決して科学的とは言えないだろう。脚気患者が多くて困るなら、海軍がやったように「イギリス海軍では脚気患者がいないので、同じものを食することにしよう」というのが、正解ではないまでも有効な対応であったわけで、これを森鴎外のように『脚気の原因が不明であるのに食事で解決しようというのは科学的でない』と言っていては、解決には近づけなかったのだ。「政治」をマネジメントとみれば、「それは科学ではない」というのはそういう意味だ。

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小生が予測する未来の政治とはこんなものだ。「理想」ではなく、「夢」でもなく、こちらの方が選ばれる可能性が高いのではないかという単なる「予想」だ。

社会問題を政治的に解決するときは、関連するビッグデータをAI(=人工知能)に検証させて、ベスト・レコメンデーションを提案させる、その提案について人間が議論し、追加的条件を入力し、AIを学習させてレベルアップする、こんな方式が未来の政治システムになっていくのだと思っていて、そうなっていけば「政治の統計化」は目に見える形で進んでいくに違いない。これまた現れるべき技術革新ではないかと思う。

現代という時代に「面壁十年」や「即身成仏」を敢行する宗教家はもう滅多におるまい。巫女が託宣を下して政治を行なっている国はもう聞くことがない。時代が進歩したからだと言うのが正しいものの見方だ。あと百年もすれば、国会議員などのプロの政治家は職業としては二流・三流になっているかもしれず(今でもそうかもしれないが、これはまた別途)、もしそうなれば人類社会がそれだけ進歩したという証である。

が、今はまだそこまでは行っていない。なので、いずれにせよと言ってもいいが、政治的な解決が求められている時に「一人一人の気持ちに寄り添って・・・」という視線は結局は問題の性質と噛み合わないのであって、「普通の人は・・・」という冷淡な視線で問題を考えるのが実は本筋だろうと。どうしてもそう思うのだ、な。

「赤ひげ」のような人間的情愛も大事だ。しかし、高度医療を可能にする医療設備とそれを広く利用可能とする社会制度の設計が現実にはもっと大事である。どこかで何かを早く決めなければならないとすれば、QCのようにデータ・ドリブンで決めるしかないだろう、というのが本日の要点である。


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むしろ政治問題の解決を考える際にもっとも注意しなくてはならないのは、与えられた問題に対して<正解>を追求することではなく(正解などそもそもないのが通常である)、中でも正解だと思われるその解決策が生み出していく間接的影響(=戦略的効果)をあらかじめ、予測できる限り予測しておくことである。これは、何も対ソ戦略としてはベストの戦略と思われた満州事変が、結局のところ日中戦争への端緒となり、対米戦争を選択させ、国家崩壊につながっていったという、この歴史的事実を思い出すまでもないことだ。が、この面でも<政治的人工知能>のレベルアップによって人類の知的状況はずいぶん改善されるだろう。


2017年8月2日水曜日

国の問題・学校設置の問題: マスメディアによる「社会の消費」

思いつくことは幾つかあるが、どれも細かく、下らない。わざわざメモするまでもない。
と思っていると、世間の話はいつの間にか明日の内閣改造だ。

それにしてもあれだねえ。

いま最も客観的な意味で心配なのは、北朝鮮のミサイル開発の進捗度のはずだ。

アメリカは決して北朝鮮の敵ではないと言い始め、ひょっとすると制裁一点張りでは効果がないとみて、協議の場につく意思があるのかもしれないが、協議すればすればで今度は制裁とは真逆の「経済支援」を求めるのがまず確実だろう。そうなれば日本もどんなに嫌だろうとつきあわざるを得ないだろう。いやならまたミサイル開発・核開発を再開すればいい・・・失うことを恐れる、現にそのリスクがある先進国に対してこれほど効果的な戦術はない。

どうなっていくのだろう・・・日本の公益を考えれば、国際環境と安全保障がいまほど難しく問題化している時代はない。放置しておくと、いずれ経済面にも影響は出るだろう。いや、将来への投資という面ではもう出ている可能性はあるが。

リスクは一定限界を超えてはじめて社会レベルで共有されるものだ。が、一般の人が意識しないといっても、ないということではない。

★ ★ ★

ところが・・・

先日、北朝鮮が発射したミサイルの仰角が大きく、そのため奥尻島付近に落下したという報道を(例によって)ワイドショーがやっているのを視ていると、某メインキャスターが『なるほどねえ・・・そのように計算したんだ、距離が出ないようにネ』と、まるで野球の解説でも聴いているかのように感心することしきりの様子だった。

悲しかった。唖然を通り越して、絶句の念を禁じえずでありました。

「許せません!これほどの暴挙を何度見過ごせばいいのでしょうか!」くらいのことは言えないものだろうかネエ。それとも、北朝鮮はああいう国なんですから、と。そういうことだろうか。

森友学園と加計学園騒動には、確固たる証拠がないにもかかわらず、あれほどまで食い下がり、敢然として、政府という公権力を批判することができたのだ。疑惑という一点であそこまで批判を繰りかえし、もはや倒閣運動であるとも言える報道をしておきながら、それと同時に単なる疑惑ではなく、日本の公益を現に脅かしている「暴挙」を目前に見て、それでも「外務省は抗議をしました」と。前者に比べて、実に冷戦沈着、泰然自若としているのだな。

しかし、マスメディアがこれじゃあ、冷静を通り越して、足元を見られますぜ。北朝鮮が怖いんじゃないのか、と。冷静なら、徹頭徹尾、国内の区々たる不祥事にも冷静でいるべきだ。

★ ★ ★

エールフランス機がミサイル着水直前の時刻に同地点を通過していたという報道は、「いま考えると結構危なかったよな」と、まあこんな話しで終わるわけだが、マスメディアがこうなっちゃったらダメなんじゃないの?たかが学校一つ、学部一つの不祥事であれだけ怒れるなら、もっと怒れよ、話はミサイルだぜ、日本漁船にだって危険は及ぶんだヨ、生命に関わる話なんだゾ、と。小生の友人には幸いマスコミ勤務の人はいないが、もしいればこんな嫌味を言うと思う。

野球の解説はあったほうがいい。エラーや誤審を指摘してほしい。ゲームが面白くなるからだ。しかし、日本社会の現実はゲームではない。面白く伝える必要はないのだ。

まして、ある社はリベラル派を、ある他の社は右翼の応援団になってほしいと、そんな党派的報道を誰も頼んでないだろう。それぞれ会社の都合で自らの役回りを自らに振っているだけではないか。

面白くするために、誰かを、何かを、どこかを原材料としてダシに使っているなら「社会」そのものを消費していることになる。食料を消費すれば食料はなくなる。サービスを消費すれば、サービス生産で利用した資源はなくなる。社会を消費すれば、社会で共有される資源がなくなるのだ。なくなるその共有資源には、社会の相互信頼やマナーや落ち着き、物事の軽重、健全な常識といった日本人の文化全体が含まれるのだ。

井戸端会議も役に立つときと、地域社会の害になる時がある。それと同じだ。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件にまで拡大した「疑惑のデマ」の怖さを忘れるべきではない。表現の自由よりは生命の尊厳を優先するべきであるし、表現の自由が大切であれば、それが真理であるか、社会規範に適っているか、備えるべき表現上の品位を有しているかといった価値判断も同じく大事にするべきだ。いくつかの私企業の経営が安泰であるかどうかは、これらの社会的価値に比べればどうでもよいことである。




2017年7月25日火曜日

新聞: 社会の公器たりえず、元の私企業として存続をはかるのが自然か

極右から右派までをカバーする産経新聞、極左(→赤旗の購読者層だろう)とまでは言えないが左翼の代表的な拠点である朝日新聞と。その中間に読売、毎日、日経と、最近は目立って新聞各社の政治的ポジションが明瞭に表面化するようになっている。

それに伴って、新聞各社と安倍政権との親密度にも違いがハッキリと伝わってくるようになり、その周辺に集合する同志(?)集団がネット上で互いにぶつけあうネガティブ・キャンペーンももはや罵詈雑言としか言えない様相を呈してきた、というのが2017年の日本の政情、社会状況の特徴である。

端的に言えば、敵対的党派感情の高まりと社会的分断の進行。

このように激しい党派的感情は、2009年9月16日に発足した鳩山内閣から2012年12月16日の衆議院選大敗で終焉を迎えた民主党政権の時代においても、見られなかったように記憶している。

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そもそもインターネットの台頭の中で新聞社(及び放送局)の情報独占は崩壊し、新聞社が大衆啓蒙的・中立的情報メディアであろうとするビジネスモデルはもはや持続不可能になっている。この点は十数年も前から多くの人に指摘されているところで、いよいよ日本でもそんなリアルな潮流の変化が目に見えるようになったか、と。そうみるのが自然だろうと思う。それが善いか悪いかという、そんな価値判断の対象ではなく、そうなるのは何故かという分析対象であるということである。

亡くなった父は、朝日新聞の記事を毎朝読んではこきおろすのを趣味としていたが、「もうこれはダメだ」と言って購読を止めることは一度もしなかった。その頃、情報取得で頼りになるのはTVがあるとはいえ何と言っても毎日朝夕の新聞であったし、新聞を読むことが真っ当な社会人であるライフスタイルでもあったのだ。通勤電車の中で日本経済新聞を広げて読んでいる人がいれば、その人は背広にネクタイをしており、その多くは日本橋や銀座、霞が関辺りで降りて行ったものである。

とはいえ、新聞社はもともと私企業である以上は、利益を上げる必要があり、読者は顧客である。である以上、顧客満足度を高めることが求められるが(でなければ、代金を払ってまで買ってもらえない)、情報はインターネットからいくらでも入手できる状況の下では、新聞から得られる顧客満足は単なる情報提供によって形成されるのではなく、顧客の志向に合致した味付けが新聞社の提供できる付加価値となる。その味付けとは一定の観点に基づいた見方なり解釈であり、原理的には野球の解説や天気予報の解説とあまり変わるところはない。新聞社が述べる論調に対して志向を同じくするファンが集い共感し合うのであり、その様子は好きな評論家が語る多事争論をきいて溜飲をさげスッキリした気持ちになるのと本質は同じである。こんな「納得感」こそいま新聞社が読者に提供できる付加価値の中身になっていると思うのだ、な。

新聞の紙面が党派的になるのは時代の流れであり、ニュートラルなジャーナリズムというのは存在できないのが21世紀という時代であると言ってもよいだろう。新聞の個性をわける党派性は、今後ますますハッキリとしてくるであろう。というより、ハッキリさせるほうが読者が喜ぶので、そうせざるを得ない社会状況に新聞社は置かれてしまっている。

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こんな時代の潮流を悪いとか、情けないと評価するのは適切ではない。理解するしかないのだ。そう、理解するしかなく、また分かってくると思うのだが、ただ一つ、新聞はもはや「社会の公器」ではなく、<社会主義者の|リベラル派の|中道左派の|中道右派の|極右集団の>主張。その意味では、「メディア」と呼ぶよりは「パンフレット」と言うべき出版物になってきているのが21世紀の新聞である。元々創立当初から各社は社風として個性をもっていたのだが、こうやって原点の理念に戻り、新聞社は21世紀にも私企業として存続するであろう。批判ではない。予想なのである。

ずっと昔、1934年10月に戦前期の陸軍省は『国防の本義と其の強化の提唱』というパンフレットを発表した。会社も組織もどこも「主張」というものをもっており、俗に「陸パン」と呼ばれるこの印刷物が、その後10年余の軍国主義日本の魁(サキガケ)となったことは忘れるべきではない。パンフレットは、意見の表明であるから、もちろんその自由は保証されなければならない。しかしながら、データや事実の断片を素材に編集された内容全体は、あたかも客観的解説であるかのような外観を呈している。未来への方向を知らせているような文面になっている。この点は、「陸パン」も現代の新聞も同様だろうと。そう思うようになってきた。

とすれば、その点を弁えて読めばよいわけであり、新聞社の購読者獲得競争の消長がそのまま社会全体の世論の在りどころを伝えると言う意味では、普通の雑誌市場に近い競争市場にいよいよなってきた。それはそれで進化していると見ているのだ。これもインターネットの登場と普及と高速化がもたらした社会の変化の一端である。

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進化それ自体は良いに決まっている。心配なのは次の点だ。

公器、というより特定の政治的立場にたった組織として自社の主張を展開し、新聞社が互いに競争をするのは、必ずプラスの価値をもたらすと思う。しかし、競争が過当競争になり情報の品質向上(高コスト・ハイレベル知的側面)より、むしろ面白さ追求(低コスト・エンターテインメント的側面)に力が注がれてしまえば、社会進歩の動力にはなりえない根拠なき敵対的党派感情(負の熱狂=Negative Fanaticism)を日本社会の中にばらまくだけの結果になるやもしれず、その場合のマイナス効果は計り知れない。

さて、こうなってくるとダ・・・・・こんな時代状況においては、新聞の販売システムもいずれ再構築せざるを得なくなるだろう。1社の新聞のみをずっと購読しようとする強固な顧客は数が限られてくると思うからだ ー 実際、日本社会で最多数であるのは「無党派」集団であるし、無党派集団に対して党派的記事を掲載するのはマズイ戦略であろう。かといって、無党派集団を販売ターゲットにしようとすれば、政治色は脱色して身の回り中心の小新聞にリニューアルしなければなるまい。これはこれで、競争の激しい市場である。小生宅も仕事から引退して日経記事を教材に使うことがなくなれば、そろそろいいかな、と思っている。また、新聞社の収益源も改革を余儀なくされるだろう。党派性とCM媒体としての適性は両立し難いからだ。どうやら今後2、30年のうちにはどの新聞社も大規模な経営改革を迫られると思われるのだが、このテーマはまた別の機会にとっておきたい。


2017年7月22日土曜日

上西議員的間違いの本質は?

上西小百合・衆議院議員がツイッターで炎上している件は、騒がしい今年の世間にまた一つ話題を提供した形になっているのだが、中でも(大げさに言えば)哲学的関心をも集めているのが、熱狂的サッカーファンにあてた次のメッセージだ。

サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ。

このツイートに対してサッカー選手の立場から次のコメントがつけられたのは、上の言葉が予想以上のインパクトをもったからだろう。

J1・FC東京の石川直宏選手も自身のTwitterで、「自分の想いだけでなく、人生乗っけてくれる皆の想いを胸にピッチで戦える事がこの上なく幸せだと感じる選手がいる」と、サポーターや選手の心情に対する理解を求めた。その上で、「そんな雰囲気も是非味スタで感じて欲しいな」と実際の試合を観戦に来るよう願った。

× × × 

少し話は変わるが、昨晩、同僚のT准教授と寿司を食べ、その後近くにあるおでん屋にいって、4時間ほどを過ごして帰った。

話は、村上春樹から葉室麟が道新に連載している新作『影ぞ恋しき』へ進み、そして雨宮蔵人シリーズの第1作『いのちなりけり』の話となり、そうなると舞台は肥前佐賀藩になる以上、当然のことながら山本常朝の『葉隠』になったのは自然な流れである。

その『葉隠』は小生の非常な愛読書で、好きになったきっかけは(これも月並みだが)三島由紀夫の『葉隠入門』をずっと昔に読んだことだった。

記憶している下りは幾つかあるのだが、上西議員の考え方が根本的に「おかしい」、というか「非日本的」だと感じたのは、次の一節も手伝っているのかもしれない。ちょっと引用しておこう。
エロース(愛)とアガペー(神の愛)を峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕(レンケツ)の情」という名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊しているとはいえない。それは、もっとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に一直線につながるという確信である。(出所:新潮文庫『葉隠入門』、37頁)
サッカーと天皇制を横並びで比べるのは無茶ともいえるが、極端なこの二つのケースにも共通項が存在していることには、多くの人が賛同するのではないかと思うのだ、な。その共通している要素は歌舞伎『勧進帳』における九郎義経と武蔵坊弁慶の主従からも伝わってくるわけで、これは男女の愛ともどこか違っているかもしれず、女性には理解しがたい心情なのかもしれない。

要するに、好きな人、好きなチーム、好きな会社にとことん捧げるという非合理な心理であり、これを三島由紀夫は「恋愛感情」と言っているのだが、現代日本語で使われる「恋愛」とは実質的意味が違うかもしれない。つまり、外観としては『好きなチームをただ応援している』ように見えるのだろうが、つまりは好きで、好きで仕方がない。そこを実感として理解できないと、日本人というのが理解できんのじゃあないか。そう思うのだ、な。

葉隠はまた『人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり』と語り、また『一生忍んで思い死にする事こそ恋の本意なれ』と言っている。 忠義やら「信なくば立たず」とか、理屈っぽいことは書いていない。

上西議員の言うことは、個々人は主体的に最も意義(=私益でも公益でも文化的価値でもよい)のある生き方を計画し、それを実行するべきであるという個人主義的最適行動原理の観点から発したものかもしれず、もしそうならそれはそれでこの30年間非常に増えてきた考え方でもあるのだが、結局、非常に深いところにある日本人的心理に共感できてはいない。理解できていない。女性だからなのか、若いからなのか、分からない人だからなのか、それは分からない。が、少なくとも日本社会で政治家という仕事をやっていくには大事なことが欠けている。これだけは言えると感じた次第。

× × ×

実は、『葉隠入門』で太く赤線を引いている箇所がもう一つある。これも覚え書きとして引用しておこう。

「我人、生くる方が好きなり。多分すきな方に理が付くべし」、生きている人間にいつも理屈がつくのである。そして生きている人間は、自分が生きているということのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。(95頁)

要するに、死ぬか生きるかになれば、ほとんどの人は生きたいと願う以上、生き延びる方策のほうが正しく、死に急ぐほうは間違いだということになる。だから生き延びたほうが正しかったという理論がつくられ、事後的に死んだ方は間違っていたということになってしまうのだ。それは仕方がないことだが、真の意味でいずれが正しいかということは別にある。

反・学問的言説としてこれ以上に鋭い哲学はない。また、ストレートにズシンとくる思想もない。

注:
小一時間ほどして読み返すと本稿には公人とはいえ「個人名」が登場している、それに「女性は何トカ」の表現も混じっているネエ・・・変えようもないが。何年か前に通知なく投稿を削除されたことがあった。本稿のドラフトは別に保存しておこう。いざという時に無くさずにすむ。






2017年7月20日木曜日

一言メモ: 議院内閣制の下の国会議員と官僚(=部下?)

またまた稲田防衛大臣の失態がメディアを賑わせている。「戦闘」という二文字が記載された日報を隠蔽するという決定を大臣が了承していたか、了承はしていなかったか、という点でまたまた報道と否定の水掛け論になっている。

ホント、今年はこういう「水かけ論」があまりにも多い。

「水掛け論」にならざるを得ない段階で一般読者・視聴者に報道してしまうメディア各社にも大いに責任があると思われるのだが、これは別として、いまは以下の一言メモ。

本ブログで最近まで立ってきた観点とは別の方向からみたときの「見え方」である。これまた「水掛け論」になるかも。

***

行政府を構成する中央官庁のトップの多くは国会議員である。特に、その人事を司る総理大臣は国会が指名する。つまり、日本の統治形態は議院内閣制であるわけで、これは小学校から勉強する基本である。

立法府が行政府をしきるという議院内閣制で国会議員が行政府に入ってくるのは、当然の人的配置であるわけだが、議員はあくまでも国民が選出し立法府に雇用された公務員である。他方、行政府に雇用され、実働部隊となっているのは官僚であるー自衛官も定義上は官僚である。官僚とは行政府を構成する人的資源である。

戦前期には行政府が立法府、司法府に優越し(だからこそ軍部が独走できた)、戦後は立法府が「国権の最高機関」となっているが、戦前も戦後も原理としては三権分立制をとってきた。

つまり行政府に雇用されている人材は、立法府に雇用されている議員(及び職員等)の部下ではない。民間企業にはオーナーがいるが、国会議員も官僚もオーナーではない。どちらも国の使用人である。

官僚は試験に合格し、議員は選挙で当選して採用される。選抜方式が違うが、この違いは主として必要とされる能力や職務への適性の違いを反映するものだ。上級官僚を選挙で選んでも良いし、一部の国会議員を試験や推薦で選んでも良い。実際、戦前期には勅選議員がいた。採用区分の違いは選抜コスト最小化・公益最大化の論理によるもので、それぞれの方式自体に尊重するべき価値はない − ある日の選挙でより多くの票を獲得するということと、ある日の筆記試験でより多くの得点を獲得することと、どちらがより多くの努力を必要とし、どちらがより尊重されるべきかという問題に正解はおそらくないだろうと思うのだ、な。

事務次官以下の官僚集団が閣僚の部下である形になっているのは、(主に)国会議員が中央官庁に「出向して」上司の椅子に座るからである。民間出身者が同じ椅子に座るのと本質は変わるところはない。

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仮にだが、大臣に「政治家としての傷」をつけないために、事務当局のトップが責任をとって辞めるという形がとられるとすれば、議院内閣制、というか維新以来の三権分立の原則に反するだろう。

国民の多数派を代表する国会が内閣を構成し、内閣が行政府を指導するのが原理ではあるが、「非合理な行為」(≒国民に説明できない理由による行為)によって議員が行政府の資源を毀損するとすれば、憲法が国会に与えている権利を超えていると言うべきだ。

問題は、行政府を指導するべき「内閣の失敗」をどの機関がいかにして認定するかだ。社会システムの失敗には、「市場の失敗」、「官僚の失敗(=行政府の失敗)」、「国会の失敗(=選出制度の失敗?)」などが挙げられ、それぞれ日本は経験済みであり、曲がりにも失敗の可能性が認知され、対応策がとられてきた。しかし「内閣の失敗」はまだ議論されたことがないのではないか。

専門分野ではないが、このような問題については法学者の議論の積み重ねが既にあるのだろう。あとで勉強することにして、いまはここにメモを書いておく次第。

2017年7月16日日曜日

断想: 変わらない要素が歴史の一貫性をつくる

どうやら北朝鮮を相手に軍事行動を展開するのは危険すぎて不可能であるようだ・・・、当たり前のこの事実をアメリカ・トランプ政権も理解して来たようである。だから「戦略的忍耐」があったのにネエと、今更気がついても遅いワイ! と言っても仕方がないか。

中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
 ま、こんなところではないかと。

思うのだが、一人の人間であっても若い頃の夢はなんども思い出すものだ。そういえば『初恋はまひるの月のようなものだ、見えなくてもそこにはあって、暗くなるとまた姿を現す』、何かこんな文句を聞いたことがある。夢も初恋も似ているところがあるのだろう。

一人の人間でもそうだから、民族や国となれば、一度もった夢は100年も、200年も見続けるだろう。

アメリカの夢は周知のように20世紀初頭以来、中国という巨大マーケットでビジネスを展開して大儲けすることだ。日本はその前に障壁を築こうとしたのでアメリカの敵になった。いまは、当の中国政府から自由思想が警戒され、いまだ見果てぬ夢のままである。

ロシアの夢は満州と朝鮮の獲得である。日露戦争は、それを心配する日本が早手回しに行った予防戦争であった。ロシアは日露戦争で夢が一度は途絶え、その後のロシア革命によりロマノフ王朝は倒れ、ソ連が引き継いだが、そのソ連もすでに消え去った。が、ロシアとして同じ夢をまだ持っていてもおかしくはないし、夢は夢であってこそ夢であるというなら、同じ夢を確実にいまももっているだろう。

第2次世界大戦で、国際情勢はまったく様相を変えたようにみえるが、結局同じところに戻りつつあるのかもしれない。

中国が分裂するとすれば、南と北に別れると思っていたが、まずは満州(=東北3省)とモンゴルを包む辺りで不穏な空気が醸成されてくる。こんな進展もあるかもしれないと思い始めた。

GDPなどという数字は余り使える指標ではないのだな、こういう場合は。核兵器を持っていても機能しないだろう、こういう場合は。

東北部が中国であるのは清王朝の遺産で、その清王朝がなくなったいま、元々中国であったことはないのが満州という土地だ。

歴史は繰り返すと言われるが、そのままの形で繰り返されることはない。人間は歴史に学ぶことができるので、予想できる結果を避けようとするからだ。しかし、ずっと同じ夢をもち、同じ動機を持ち続けるのも人間の常だ。同じような出来事がなんども反復されるのはそのためだ。そして、最後に決定的(=final, absorptive)な結果がもたらされて、歴史は大きな曲がり角を迎える。そう思っている。

2017年7月14日金曜日

消費税率10%引き上げのリスクは?

内閣府の景気動向指数研究会が最近の景気変動状況について審議結果を公表している。
議論いただいた結果、2014 年の状況は景気の山を設定する要件を満たさず、研究会 としては、第 15 循環の景気の谷以降、景気の山はつかなかったとの結論について全委員の意見が一致した。これを踏まえて、経済社会総合研究所長が、第 15 循環の景気の谷以降、景気の山は設定されない旨、発言した。 また、研究会の意見を踏まえ、内閣府として、景気動向指数の採用指標についても、 一致指数の採用指標の拡充等、引き続き検討していくこととした。

小生は、以前にも投稿した通り世界景気は、2014年後半以降2015年にかけて景気後退局面に入り、2016年第一四半期に底入れしたと見ている。これは2007年末にピークをつけ2008年にはリーマン危機を招いた大きな景気の山から7年を経た後の設備投資循環のピークだったと認識していることでもある。世界景気としては、だ。日本は世界景気と100パーセント共時的にシンクロして変動しているわけではない。が、それでも日本の景気は世界経済の動向に敏感に感応しやすい特性を持っているので、世界経済とは関係なくずっと長期的に景気拡大局面が続いているという判断は非現実的だと思う。


さて、安倍首相が消費税率10%引き上げ再延期を表明したのは2016年6月1日のことだ。そもそも消費税率は、まず2014年4月に5%から8%へ、2015年10月に8%から10%へ引き上げると『社会保障と税一体改革』(2012年2月17日閣議決定)の中で決められていた。2014年4月の引き上げは実施したが、2015年10年の第2段階引き上げ実施を延期していたわけである。予定では、2017年4月つまり本年4月から消費税率は8%から10%に引き上げられることになっていた。それを2019年10月まで引き上げ時期を再び2年半延期したのだった。

しかし、内閣府の景気判断は先月の景気動向指数研究会でも議論があったように、日本経済は延期を表明した2016年6月には景気拡大局面にあった。そう認識していたはずだ。にもかかわらず、必要な財政需要を措置するための税源を放棄する決定をしたのはロジックが通らない。

なるほど、昨年6月時点の日本経済は、景気判断が微妙だったとは思う。しかしながら、昨年の5月14日という時点で予測計算を投稿しているように、その時点に入手できる簡単な景気動向指数系列を用いるだけで、間もなく景気は底入れするという可能性が明瞭に見通せていたはずだ。 既に、2016年初から原油をのぞいた国際商品市況は回復への動きを示していたことも考慮すれば、2016年6月という時点で景気の先行きを心配して、2017年4月に予定されていた税率引き上げを延期するという結論を下すのはロジックが通らない。

昨年5月頃に景気分析をしていたはずの内閣府はどこをどう見ていたのか?よくわからないのだ、な。

確かに熊本地震の発生という天災要因はあったが、これはこれで対応可能であり、復興需要もまたあったわけだ。

もし本年4月に消費税率を8%から10%に引き上げていれば、引き上げ延期で実施が見送られた年金機能強化、子育て支援、介護支援も実施できたはずであり、先日の都議選でも大いにアピールできたはずだ。

もちろん、2パーセントの税率引き上げでも3月中の駆け込み需要、4月以降の反動減があったとは思う。

このトラウマが自民党にはあったのだろうが、1997年4月に実施された3%から5%への消費税率引き上げは、同年夏の「アジア危機」と重なってしまった不運があった。というより、1996年が相当の蓋然性をもって景気の山であったにもかかわらず、97年4月から税率引き上げを強行した経済財政当局に判断の無理があった。

今回の引き上げと97年の引き上げを同一に見るべきではない。

また2014年4月の5%から8%への引き上げは、景気がピークアウトする直前で実施されている(この点、政府の公式の景気判断とは違う)。1997年4月ほどではないが、時期の選択が完全に正解というわけではなかった ー というより、消費税率引き上げという戦略的な構造改革を景気循環という足元の状況に関連づけて議論するのは政治の堕落ではないかと小生は思っている。どうしても契約最終年にあたる今シーズンに優勝したくてエースに連投を強いたり猫の目打線で奇道をとる監督の場当たり戦術と相通じている。ま、とにかくも

羹に懲りて膾を吹く

消費税率引き上げにまつわるトラウマが自民党にはあるのだろう。


さて、消費税率10%引き上げだが、このまま行くと、2019年10月だそうである。しかし、小生は予測しているのだが、2014年第2四半期あたりに直近の景気の山があったとすると、次の中期循環の山は2021年前後にやってくることになる。

小生は東京五輪まで景気が続いてくれることを期待しているが、五輪後の景気崩壊をもひそかに恐れている。五輪がある2020年までは株価の変動に一喜一憂せずにもっておこうと思うのだが、2019年の後半にはそろそろ売っておいたほうがいいか。早手回しにそう思ったりもしている。株式市場は実体経済よりも先に変動するものだ。

なので、2019年10月から消費税率を引き上げたとして、引き上げ後それほどの時間がたたない内に株価が急落し、その後実体経済も落ちて行く。そんな経過をたどる可能性はかなりあるのではないか、と。それこそ1997年4月の引き上げ劇の再現になるのではないかと予想したりしている。

次の設備投資循環の後退局面は、中国経済も成熟化を深めているので、これは厳しいですぜ。深い谷になりますぜ。日本で経済政策を失敗したりすると、またまた政権交代があるかも。そんな風に考えたりもする。

ま、昨年6月の時点では「中国景気はいまだ着実とは言えないので、アジア危機再来の可能性を考えれば、消費税率引き上げ延期もやむをえない」と、そんなことを書いてはいたのだが。

長期計画は着実に実行しておくべきだった。安倍首相自らが約束したことでもなく、理にかなった戦略でもあったのだから、引き上げ後に多少の経済的波乱があっても直接の責任にはならなかった(はずだ)。今後、こんな風な後悔の念が高まるとすれば、ちょうど太平洋戦争開戦直前を思い起こすのと似て、再び『あの時、こうしていれば』の歴史的好例になるかもしれない。

2017年7月10日月曜日

メモ: 憲法改正まで何歩進んでいるのか?

以前の投稿ではこんなことを書いている。安保関連法案が成立した直後の頃だ。

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どちらにしても、戦後体制は大きな曲がり角をユックリと曲がろうとしている所だ。これからの進展についていま予測していることをリストアップしておく。

  1. 反対デモが報道されたが、通常、デモは反対のためにするもので、賛成デモはあまりしないものだ。放映された反対デモの背後には、相当数の賛成派、というより「理解」派、「同感」派、「いいんじゃない」派等々の国民が多数いると推察される。大体、全国の主要大学のどこで学生集会が開かれ、どこの大学で「安保法案反対全学スト」が議決されたのか。小生の大学では、立て看板はおろか、ビラもポスターも全く、一枚も目にしない。食堂で学生達が安保関係の話しで議論している様子もない。マスメディアもまたコア層がどこにあるかに気がつき、報道の姿勢を変えていくだろう。それも「急速に」である。
  2. 政権批判は来春あたりまで続くと思うが、それと同時に戦後の憲法学界の潮流について様々な企画がなされ、憲法学界だけではなく各分野から色々な意見・指摘が掲載される。そんな中で、誰か、いずれかの憲法学者が自己批判的な文章を発表するのではないかと思われる。それをきっかけにして、憲法学界の中の旧世代と新世代の間で論争が始まる。そして新世代の中から台頭する「新立憲主義」が世間の喝采をあびる。概ね4、5年位の間には新しい潮の流れが目に見えてくる。
  3. そんな新しい立憲主義の展開、浸透から第9条だけではなく、複数の条文を対象に憲法改正案が(名誉回復、というかリベンジの意味からも)学界から提案され、次に与野党が合意する臨時憲法調査会が設置され、その答申を元にして改憲が発議される。今から8年ないし10年くらいはかかるのではないか。残念ながら安倍現総理が憲法改正にまで至るのは無理だろう。無理をすれば必ず制度的欠陥が混じる。
  4. この改憲発議までの8年乃至10年の間には、必ず今回の安保法制について違憲訴訟があり、最高裁はいずれかの時点で違憲判決を出す。それによる混乱と新立憲主義の浸透から憲法改正への動きが多くの国民から支持される。

大体、こんな風な予測をたてているところだ。

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2015年9月19日投稿だから、投稿時点から2年程が経過したことになる。

昨日、近くの書店に寄ったので、このところ評価の高い篠田英朗『集団的自衛権の思想史−憲法九条と日米安保』を購入しようとしたところ、やはり地元の町の書店ではダメだ。売れる見込みがないのだろうか、置いてないのだな。今年度の吉野作造賞を受賞しているはずなのだが。

仕方がないので、上の本を大衆向けにしたと言われる『ほんとうの憲法:戦後日本憲法学批判』を買った。ちくま新書だから、すぐ読める。

上の投稿で書いた2年前の予想図では、現時点はどの段階に相当するのだろう。

日本の閉鎖的な(=ガラパゴス化した)憲法学界に対して学問的見地から適切な批判がされ始めたことはそうなのだろうというか、そうあるべきだと思うが、ただ憲法学界内部から溢れ出て来た自己批判というわけではない。ではあるが、思うに上の段階2の前半部分までは来たということなのか。

前の投稿では改憲発議まで8年乃至10年かかるだろうと予想している。2015年から数えているので、2023年乃至2025年になる。国民投票、(賛成多数の場合に)公布、施行までを考えれば遅くて2027年までに施行というところか。発議までを早めて5年程度に出来ないだろうか、と。そんなことも前稿では書いている。となると発議が2020年。施行が2022年頃。どうしても施行は東京五輪の後になる。そんな改憲予想図を描いていたわけである。

安倍現政権が願望しているのは(確か)2020年新憲法施行であるそうだ。

今はやっとせいぜいが段階2の前半の最初である。まだまだ前途遼遠だ。ほとんど不可能だろうと予想する。

おそらく北朝鮮問題が深刻化でもしない限り、発議まで8年乃至10年はかかるという最初の予想通りだと思う。そもそも発議にすら至らないかもしれない(それもまた客観情勢を考えれば非現実的だとは思っているが)。

2017年7月5日水曜日

自民惨敗が今後に投げかける本当の意味合いとは

ワイドショーなど町の噂では、都議選の自民惨敗によって安倍政権の終わりが始まるとか、政界再編成が進むとか、誰が都民ファーストの会に合流するかとか、色々な話になっている。これはこれで面白いのは事実だが、一つ大事な着眼点があるとすれば2012年12月から始まった第2次安倍内閣のレガシーは何であったか、いや「現状から推測するに何がレガシーになりそうか」という問いかけの方だろう。


とにかくこの20年以上、何かと言えば「改革」という単語が口にされており、「改革」を目指さない政党は政党にあらず、あるのは「リベラルな改革」と「保守改革」、この二つのみである情けない状況が続いている。

が、真の意味で国の形を変える改革をこの20年間に求めるとすれば、元首相・橋本龍太郎が基礎付けた行革のみである(と小生は思っている)。いわゆる「小泉改革」は、橋本行革で実現した中央省庁再編成と内閣主導の体制が可能にしたもので、いうなれば「橋本行革の残り香」のようなものである(と小生は思っている)― 安倍官邸の力はその残り香を更に煎じ詰めて、人事で苦くしたようなものじゃなかろうか。

いま小泉改革は「橋本行革の残り香」であるとたとえたが、それでも郵政改革は元首相・小泉純一郎が真に有していた問題意識を解決しようとしたものであった(のだろう)し、前代から引き継いだ課題であるにせよ「司法改革」もそうである。また、経財相・竹中平蔵が主導したものであったにせよ1990年代から引きずってきた「不良債権問題」を根本的に解消したことも政治的成果として今後ますます評価されると思う(と小生は思っている)。

本当の意味で「改革」を目指した内閣であれば政治的遺産が残るものなのだ。


先日の都議選における自民党惨敗をきっかけにして、今後始まるであろうことは第2次安倍政権のレガシーは何であるだろうか。この問いかけであろう。つまり、「安倍政権はなにを成し遂げた政権であったのか?」という総括を多くの専門家や素人が話すようになる。そして常識化する。通念が形成される。

そうなると、候補としては三つの成果があげられることは確実である。

  1. 特定秘密の保護に関する法律(2014年12月10日施行)
  2. 集団的自衛権容認の閣議決定と平和安全法制整備法等の安保関連法(2016年3月29日施行)
  3. テロ等準備罪の新設(2017年6月成立)

主たる成果はこの位ではないか。そして、この三つとも安倍政権が本来目指していた志であるようにみえ、確かに極右を基盤とする政権の個性がよく表れていると言える。

一方、経済政策のほうは、規制緩和や自由化が強調されているが、実は具体的な成果はほとんどないのが現実だ。電力自由化などはあるけれど・・・、医療や雇用、教育でのコア領域では目玉になるような、「これが自由化だ、創造的破壊だ」と言えるほどの成果はまだない(はずだ)。日銀が担当する金融政策は黒田総裁が就任直後からそれまでの白川前総裁の路線とは正反対の方向がとられ、いわゆる「アベノミクス」がスタートしたが、その後具体的に緩和・撤廃された規制は細々としたものであったのが現実ではないかと見ている。掛け声の大きさほどには、日本経済に新たなイノベーションは進んではおらず、むしろ日本の美点や匠の技を自画自賛するような風潮が高まっている(と小生は感じている)。つまり保守化している。

確かに、マクロ経済的にみて日本の雇用状況は劇的に改善され、株価も上昇したが、2012年12月以降の株価上昇は世界で進行した国際マクロ的な現象であり、現在の人手不足も多分に団塊の世代の退職、若年者人口の減少からもたらされている部分が大きい。この数年を振り返る時、改めて気がつくのはかつて続々と登場した「楽天」や「ソフトバンク」、「アスクル」、「ライブドア」等々といった荒々しくともエネルギーにみちた日本新興企業群の後続がさっぱりとだえている現状のほうだ。

あえて言えば、米国でヒラリー・クリントンが当選し、TPPが発効していれば大きなレガシーになっていただろうし、この点はアンラッキーというしかない。欧州(そして英国)と現在交渉中のEPAも最終合意に至れば(まだ未確定ながら)高く評価できる。更にまた、消費税率引き上げの三党合意(2012年6月)を覆して、約束を破ったことをどう評価するかがある。が、この点はなお微妙なところだろう。

要約すると、アベノミクスの旗印の下で既存の枠組みと対決しようとして、現実には決定的対立を避けて来た面が(今までのところ)目立つ。「岩盤規制」とはいうが、実は「規制は岩盤のようなのです」という言い訳として(これまでは)使ってきた。どうもそんな現実がそろそろわかってきた。そういう段階に来ている。もともとアベノミクスは三本目の矢が欠けていると言われて来たが、考えていたのはTPPの一本槍だったのか。「外圧」の他にはヤル気がなかったのではないか。そんな疑いが生じて来たのがいまの段階だ(と小生は思う)。

つまり、安全保障・軍事・治安領域においては過激なほどの政策方針変更を断行しているのに対して、経済・国民生活領域においては変更することに甚だしく臆病で冒険を避けている。それが現政権4年半の特徴だと言える ー その典型が理論的には必要で、確実に望ましいといえる消費税率10%引き上げ、世界的には微小とさえ言えるたった2パーセントの引き上げ(軽減税率対象の拡大も含め、それでもなお)の延期であった。

もちろん、これら全てが政治戦略であり、最も実現したかったことを先ず実現したと言えばそのとおりなのだろう。確かに安全保障は経済と暮らしより前に担保されるべきものではある。が、とはいえ、とってきた選択が本当に必要で、真に国民が望んでいたものと一致していたのかどうか、まだ理解は不十分だというのが(小生の)印象だ。


誰もが支持するような、国民のニーズに合致するような政策が現に展開されているのであれば、少々の不祥事は乗り越えられるものである。

要するに、大学における授業評価に似たような政権評価が、安倍政権に対して、これから多くの専門家によって語られるようになるだろう。あるべき状況に戻る、ということか。

その意味で、安倍政権というより「安倍一強」は確実に終わる。これから増えてくるこうした評価の眼差しに耐えるほどの政治的遺産を現政権は残しつつあるのだろうか?

恐いとすれば、この問いかけが一番恐いかもしれない。

政権の本当の敵がいるとすれば、前川前次官でもないし、都民ファーストの会でもない。まして消滅寸前の民進党ではない。本当に恐いのはこのような総括的な評価の視線だろう。



2017年7月4日火曜日

この先1年間は政治のノイズが拡大しそうだ

予想通り都議選では自民党が惨敗、公明党、共産党は良好、民進党は(予想を超えたとはいえ)消滅寸前という結果になった。

安倍首相の総裁選三選にも黄信号が灯る、かと思うと北朝鮮はまたミサイルを発射する。この先、来年にかけては政治的変動の季節になりそうである。

これは自然現象だが、北海道と熊本では地震があった。

ま、実に面白くなってきそうである。経済的には、ランダムな凹凸はあるにせよ上り基調でそれほど心配ではない。キーポイントは2019年10月まで延期された消費税率の10%引き上げだが、その前に総裁選がやってくる。今後1年間程度は純粋な意味での政治の季節になりそうである ー もちろん中国の不動産バブルの制御に当局が失敗するなどの異変がなければだが。

決定的なファクターは、「都民ファーストの会」が登場した点で、これによって何も極右勢力を基盤とする安倍内閣でなくとも、保守層は自分の意識にあった政権を選べるようになってきた、そんな変化がまだ兆しの段階ではあるが、民主党政権の崩壊以来初めて出てきたことだろう。

(参考)

長期的にはよい方向に向かっている気がするが、それにしても騒がしい。経済的には、緩慢上昇が通常のパターンである上昇局面が2016年前半から続いていて、その認識に変わりはない中(注:小生としては。公式の景気判断とは別)、政治的には想定外のノイズが次々に発生して、もう<ノイズ慣れ>してきたくらいだ。あまり使わない言葉だが<政治的ボラティリティ>を考えたいところだ。

何を予想するにせよ、ノイズは予想形成に織り込んではならない。政治の将来は、政治的なファンダメンタルズで決まる。つまりマスコミや失言ではなく、国民のニーズや政策で最終的には決まってくる。

しばらくは騒々しい政治鳥の鳴き声に平穏を破られそうな酉年である。

2017年7月2日日曜日

いざというとき、念のための覚え書き

ストレスの多い仕事はどこにでもある。やり切れないが、やり切れなければやりきれないほど、社会には必要とされていて、誰かがしなくてはならない。そんな仕事も結構ある。まして自分が志願してやり始めたからには、音を上げることもできない。逃げることができない。悪循環だ。

将来必要があれば、下の愚息に言ってあげたい言葉がある。メモしておけるうちにメモしておこう。

にっちもさっちも行かなくなったら、三つのことからやれ。
まず自分の手をみろ。見続けろ。それから目をつぶって拳を胸にあてて自分の鼓動に耳をすませろ。そして目をあけて鏡か窓か水があれば自分の顔をじっと見ろ。これが三つだ。何をやればいいか分かるさ。分かるまでは三つのことだけをやればいいよ。
正直、こんなことしか言ってあげられない自分を再発見するような日は来てほしくない。念のための覚え書きである。

そういえば、亡くなった父は『雲を見ろ』と言っていた。最初に聞いたのは何歳の時だったかもう忘れた。いずれにせよ幼年の頃だ。これもいい。確かに役立った。好きな雲が出来たのはそのお蔭だ。

2017年6月30日金曜日

『好機即ち危機、勝利即ち敗北の契機也』を地でいく政治家たち

よく下の愚息を相手に口にする好きな言葉は、『長所即ち短所なり、好機即ち危機なり、勝利即ち敗北の始まり也』、『強みを生かして弱みを直すのは不可能な理屈だ、強み即ち弱みゆえ』、大体この二つである。

首相の足元・細田派に属する稲田朋美議員。防衛大臣は要職だ。政調会長から防衛大臣というのは自民党のエリートコースだ。しかしながら、抜擢即ち転落の契機となるー思い起こせば、亡くなった小生の父もそんなエンジニア人生を送った、いやこれは関係のない話だ。

首相が宣言したような「細田派四天王」の一角どころか、いまや豊田真由子議員、下村博文議員とともに「細田派ダーティスト三人衆」というブラックホールに向けて落下中のように見受けられる。

世の中分からないものだ、というより"Such is Life"というべきだろう。

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もちろん政治の世界にのみこんな格言が当てはまるわけではない。

Appleが初代iPhoneを発表して丁度10年。あれから世界は変わり、当然Appleという会社も変わった。そして、変わったことが今日のアップルの実質的停滞につながっている(と見ている)。同じことはMicrosoftについても言える。が、Microsoftはクラウドに乗り遅れAppleより以前に既に停滞の兆候を示してきた。それが逆に良かった。GoogleのAndroidに侵食されてきたことが、従来のゲームを見限る動機になってきた。

次に勝つためには、まず負けなければならない。勝ち続けている間は、次にやってくる停滞の時期に備えなければならない。停滞がやってきて初めて次の新しい発展に向けて全力で準備することができる。進む道が一本道となり迷いが消え覚悟ができる。

もちろん一度の敗北でノックアウトされる人、ダメになる会社もある。この辺の自然淘汰で世の中進歩すると考えれば、小生も結構、予定調和説の支持者なのかもしれない。

2017年6月29日木曜日

一言メモ: 来年秋までの予想(その1)

来年秋までの将来予想:

まず①だけを先行的に。
安倍首相は自民党総裁選挙で三選されない。
ブログでそんなことは書けないが、賭けてもよい位の自信がある。敢えて今日の時点でメモにしておけば、これからが面白くなる。今後1年余は、第1次安倍内閣と概ね同じような推移を辿ると予想する。もっと前に政変があるかも・・・17年前の「加藤の乱」と似たような騒動があるかも。


これで 今月は投稿回数が半分の15日を超えた。それだけ世間が騒然として、書きたいことが多かったのだろう、と。まとめにはならないが。

2017年6月28日水曜日

メモ: 行政における政治家の役割(?)と内閣人事局

またまた稲田防衛省の失言が世を騒がせている・・・これで何度目なのかねえ?靖国神社には皆勤賞ものだそうだし。選挙ではお力をいただきたく自衛隊からもお願いします(この通りの言葉ではなかったかも、念のため)とは、まさかね。

まこと現政権の首相は女難の相があるのだろうか、ますます剣呑になってきている。一度お祓いでもしてもらった方がいいのじゃないか。他人事なら心配になる今日この頃であります。

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政治主導とは何なのだろう?

教科書通りに考えてみようか。

簡単に言えば、法律を制定し、国の予算を決める国会が、行政府に優越するという単純な原則だ。まさに憲法で規定されている通りだ。もちろんこの理念は、陸海軍の意向に国全体が引き摺り回された反省にたっている。

武力をもった自衛隊を含め、どの官庁も行政府がそれ自体の意志をもって活動しようとしても、国会は立法府としていつでもその省庁設置法を撤廃して廃止することすらできる。行政府は国会の決めた法律に従わねばならず、国会は行政の要請を(不適切だと判断すれば)きく必要はない。

その国会は、すべて普通選挙によって選ばれる議員から構成される。それだけではなく、国会議員から首相が選出され、その首相が内閣を編成する。ここまでやれば、選挙とは無縁の官僚が暴走したくても、絶対にできない。そんな制度になっている。

戦前の帝国議会は、陸海軍の軍事予算を認める権限はあったが、大臣は現役の軍人であり、その活動は(元帥は天皇であるにせよ)ほぼ自ら決めることができた。戦前の制度と戦後日本の制度がここまで異なる以上、問題が発生するとすれば、違う問題になることは当たり前だ。同じ轍をふむ可能性は、法制上、ないと言うべきだろう。


法律(及び法律に基づくその他政令・省令・告示など)は、全ての国民に対して均しく適用される。しかし、国会は一部の集団から利益を奪い、別の集団に利益を配分することも可能だ。そんな制度を国会で定めればできるわけであり、こんなことまでできるのは、議員が普通選挙で選ばれるからだ。故に、たとえ公平でないと思われる改革が行われるとしても、国会がそれを決めるのであれば、そのような不公平は受け入れる。これが民主主義社会が自己変革するときの基本ロジックだ。政治とはこういうものを指す言葉である。

行政府は、国会の立法意志を実行するための実働部隊である。事後的な結果としては、行政府の公務員は常に与党の側の意志を実行する。だから社会の多数派の利益の側に立って行動する。個々の公務員は政治的意志を持ってはならない。国会議員を中心とする内閣の命令によって行動しなければならない。内閣に従っている限り、国会の意志を実行していることを意味し、個々の官僚はニュートラルであり、不偏不党であり、行政機関が政治的に活動することにはならない。

これは統治の論理として確かにトリッキーなところだ。

とはいえ、こう考えると政治家が政治家であるのは国会議員としてであり、内閣の一員として大臣の椅子に座っている時ではない。

まあ、教科書的にいえば、日本の国の形はこうなっている。

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文科省前次官が何度もいう『行政がゆがめられた』という非難の言葉は、多分、上のような筋道からだろう。

政治は国会の場において行われるべきものであって、内閣や一部官庁において政治的なことがらが行われていくべきではない。行政は無私であるべきなのだ・・・

ウ〜ム、昔はこういうことを語る先輩がいたような気がする。

もちろん、いまやっていることは極めて政治的なのであるが、もう役人は辞めたしね、というわけなのだろう。

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本当は、政治的色彩を持たざるを得ない案件は、行政府の裁量に委ねるのではなく、国会が最終判断に一枚噛んでおくことが必要なのだろう。政治的案件については、国会の承認が必要だと決めておけば、なんの問題もないわけだ。そもそも多数派が与党になっているのだから。与党の中の少数派のみが利益を誘導しようとしても、国会はそれを承認するはずはないのだから。

政治と行政は明確に線を引くべきだ、と。こういうことかもしれない。内閣は政治の執行部で、政治は国会という場で行う。これが戦後日本の国の形なのだろう。

上級官僚の人事は、内閣官房に人事局が設けられ、内閣が決定できることになった。それは縦割り官庁の弊害を避け、政治のスムーズな実行に必要だとされたからだ。しかし、官庁が政治の意図通りに行動しないのであれば、行動するように規則を密に定めればよい。進捗を報告させればよいだけの話だ。国会にはそれができる。

もしもマイナス面が大きいなら、内閣が人事統制を行う先験的ロジックはない。何しろ国会は内閣総理大臣も指名しているのだ。上級官僚の人事を了承したって奇妙でないだろう。行政府が人事原案を提出する必要はあるだろうが、国会が人事原案を検証し、承認する権利をもつほうが、ひょっとすると文字通りの「政治主導」になるとともに、むしろこの方が官僚の士気は上がるのかもしれない ― 両院で承認するのか、衆参のどちらか適当な院で承認するかの判断は別にあるだろうが。

こうしておけば、誰の利益にも奉仕しない無私であるべき官僚の活動は、すべて国権の最高機関である国会が制御、いや担保できることになる。これは、総理や大臣に頭を下げる官僚たちにも有難い仕組みだろうし、本来の筋でもあると感じるのだが。

ひょっとすると現在の内閣人事局は、完成途上で中途半端な仕組みであるのかもしれない。



2017年6月26日月曜日

実にみみっちいトラブルだったのが真相? 加計学園問題

文科省の前次官がインタビューに応じる機会が増えてきて、段々と(文科省からみて)何が問題のコアだったのか、その辺が不勉強の小生にも「理解」できてきた。ということは、これまでは問題の核心がサッパリ分からなかったというのが正直な所でもある。

要するに

  1. 文科省は規制緩和に反対している抵抗勢力ではないのだ。大学新設についてもそうだ。
  2. 獣医学部の新設は門前払いしてきた。それは獣医の需要見通しがないからだった。
  3. この現状で新設を認めるなら認めるのもいいが、なぜ1校なのか。京都産業大学も新設を希望していた。
  4. 1校だけと条件をつけるにしても、なぜその1校は総理と親しい人が経営している方なのか?不透明である。
  5. 規制緩和の名を借りて、官邸と親しい人が得をしているとみられても仕方がない。
筋が通っているではないか。これなら誰でもわかる理屈だ。そう思った。それならそうと、なぜそれを在職中に言わなかったか。大学新設の従来の理念を所管官庁としてなぜ正面から堂々と語らなかったのか。どうせ事務次官は長くて1年。すぐ辞めるのだから言えるでしょう、と。そんな疑問が残るにしても、だ。

***

獣医学部については、文部省告示により全ての新設を門前払いしてきた。その告示を撤廃させて、新設を自由化するのが、獣医学部の規制緩和としては本筋だった。そういう攻め方をしなかったのは内閣府の側のようであり、内閣府の方から『1校だけ認める』という結論にしたのだった。

前次官の話し、内閣府の説明を聴いていると、これまでは1校に限定した理由として日本獣医師会がうるさくて文科省が抵抗していたからという点が挙げられていたが、当の獣医師会は公式にそのような要望を出したことはないと言っているところを考慮すると(追記 6/27 そうそう、要望書は確かに出ていて、1校に限ると公的に明記せよと記されているのだが)、どうも内閣府の方から「政治的配慮を加えて」1校にした、と。どうやらそういうことであったようでもある。だとすると、内閣府は余計な「忖度」をしたというのが真相かもしれないのだなあ。

獣医学部新設は、従来の方針をくつがえして自由化します、と。そうすれば透明であったのだが、その路線は内閣府はとらず、1校だけの限定許可とした。だとすれば、獣医師会と関係の深い菅官房長官や麻生財務相に遠慮したのだろうか。そんな憶測もありうるのだな。

***

まあ、とにかく2校新設にすればいいのを1校だけ認めますか。話はそんな実にみみっちい話であって、文字通り「お話にならない」。これが加計学園にまつわる大騒動の真相であったかもしれない。バカバカしいこと、限りなし。

何が岩盤規制に穴をあけるじゃ!!

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考えてみれば、文科省はあれほど多数のロースクール新設を敢然と認めて、『今後は事前審査ではなく事後評価で高等教育行政を進めていきます』と大見えをきったのだ。あの時も弁護士需要の数字はあったが、大体、そんな見通しなど当たらないことは誰でも知っている。結論ありきで数字は作られるのが経験的事実だ。

実際、弁護士は過剰となり、ロースクールは当初の半数にまで減った。それでも自由化した文科省は社会からそれほど酷く非難されているわけではない。責任を追及されているわけではない。設置自由化は理念として正しい。多数の人はそう考えている証拠だ。

その文科省が獣医学部の1校や2校の新設で本気で抵抗するか??

まあ、告示を撤廃しないまま新設を認めるのは、確かに規制に穴をあけることでもあり、内閣府のお手柄ということになる。

分からないのは、需要見通しがないのに新設は認められないという文科省の言い分だ。確かに、ロースクールの時は「見通しなど当てにならない」と熟知してはいたが、数字はあった。今度はその見通しがなかった。

しかしながら、だ。需要見通しが本当になく、大学経営の見通しも立たないなら、なぜ私立大学を新設しようという人がいるのか?

変である。

仮に、獣医師需要増加の見通しがないとしても、大学新設には意味がある。新設を認めれば新たに参入した大学が、顧客(=入学希望者)を既存の大学から奪取せざるを得ない。その中で、競争メカニズムが働くはずだ。理屈でいえば、最も劣悪な教育をしている獣医学部が退出を余儀なくされ、優れた大学は残る。

どの産業分野でもそうだが、潜在的参入企業があることが、技術進歩と品質向上をもたらすことは経済理論だけではなく、経験から確認されてきた事実だ。

このように考えると、獣医学部新設に関する文科省の姿勢は、既存の獣医学部の利益を保護するだけで、獣医師教育の進歩を重視してこなかった。このような批判から免れることはできない。

***

この件で展開された内閣府と文科省との論争(=議事録に詳細に記録されているとのことだ、小生はそこまで調べたことはないが)でも主たる論点となった「規制が必要である挙証責任」は、やはり規制をしている当の官庁である文科省にあった。そう考えるのが筋であり、内閣府があえて告示撤廃を迫らなかったのか、内閣府が求めても文科省が規制にこだわったのか、そこは明らかではないが、新設容認の線で事実上決着した後も、なんら手を打たなかった文科省はやはり行政機関として支離滅裂であった、と。このくらいは言えそうである。

どちらにしても、まあ、たとえば「司法改革」のような「改革」にはまったく当たらず、話の内容は実に細かい、どうでもいいような話し。それが「加計学園騒動」の実態であった。文科省前次官の話を聞いていて感じたことだ。

もし(万が一)この実態に民進党など野党は本当は気が付いていて、それでも政権を攻撃できるイイ材料があったと、あれ程までに加計学園問題に審議時間を消費したのだとすれば、かなり(という形容詞では不十分なほど)無責任である。やはり誰か黒幕に「使われていたか」と、そんな疑念が高まるのだな・・・。



ま、それよりは、いま世間の話題をさらっている二人の女性。小林麻央と豊田真由子(実名を出してもまったく問題はないでしょう)。片や100点満点、片や0点。二人とも人にいつも見られているいわば「公人」といえ、片や歌舞伎役者の妻である町の人、片や官僚から国会議員になった東大法学部卒の(というのは余計だが)超エリート。片や人を感動させており、片や人を唖然とさせている。片や将来のレジェンド、片や将来の「しくじり先生」の最有力出演候補。一方の女性はもう話を聞くことができず、一方は聞きたくなくとも聞かされそうだ。あらゆる意味で誠に対照的な二人の女性であり、こちらの方が、色々な事を考えさせられる。が、この話題はまた後日にしよう。




2017年6月24日土曜日

補佐クラスのメモを行政文書とすれば政府は「困っちゃう」のでは

ずっと昔のことに遡るが霞が関界隈の一人の住民として、そこで雑用に明け暮れていたことがある。雑然とした室内、電話の音、ゼロックスの稼働音などなど、タバコと灰皿の臭い、書類の臭いなどとともに当時の記憶がよみがえってくる。

さてと・・・文科省の一課長補佐が作成した文書が(おそらく上司の許可なくだろうが)マスコミの手に渡ったというので世を騒がせている。そのこと自体の適否はさておくとして、これは「単なるメモである」という説明に対し、「何をいうか!書いてあることは真実だろう」というので改めて「行政文書」は何かという神学論争が始まりかかっている・・・。ホント、日本の「ジャーナリスト」は神学論争が好きなのだ。

”Ah...What... ah..what is an official document?"
「行政文書とは何か?」を英語の質問に訳するとなると、どう言えばいいのだろう。返ってくるのは"What?"の一語だろうと思うのだが。


***


複数の官庁間で文書を確定する時は、いわゆる文案について「合議」(アイギと読む)をとる。それは公式の会議でもそうである(はずだし)、大事な打ち合わせでもそうである(はずだ)。

まず普通には、課長補佐クラスがメモをとり、それを課長にあげる。課長は自分のメモや記憶と照らし合わせて、多少の修文(シュウブンと読む)をほどこす。それを二人で局長室に持ち込み、改めて局の方針を決める。そこで一部の内容について「ここまで書く必要があるかどうか」、「あれも書いておくべきではないか」等々の話もする。必要に応じて、局レベルの文書に直し(ここで日付と担当局名が入る)、それを次官にあげる。もしそれを大臣にも報告するとなると、他の関係省庁が作成している(はずの)議事録と食い違いがないかどうか連絡をして「合議」をとることもあるーつまり相手の作成した議事録を「こちらに寄越せ」と電話をする。電話を受けた側は、昔は担当者が実物を持っていくこともあったし、ファックスで送ることもあった。今ではメールに添付しているのだろうか。

まあ、要するに「空中戦」の前に「白兵戦」をやっておくわけだ。そのプロセスの中で、補佐より下の係長や担当者まで下りれば多くのバージョンのメモがある。これらは全てどこかで参照される(口頭で聴くだけだ、コピーとしてはまず配布しない)。もちろん内容は(当たり前だが)微妙に違っているが、公式には課でまとめた文案が残り、局長室で決まった文案が局としては残る。

大体、このようにして行政プロセスは(今でも)進んでいっていると思う。もし「合議」をとらないと、省庁間で異なった現状認識、問題意識が残ることになり、たとえば次官会議や(最悪)閣議の場、更には国会の委員会審議の際に食い違いが露見することになり、その場合は「閣内不統一」の批判をあびることになる。

つまり、「政府」とは一つのみ存在する(→閣議は全閣僚の一致が原則)のであって、官庁は「政府」の手足に過ぎない。官僚主導とは手足が自分の意志をもつ。政治主導とは内閣という頭が指示を出す。雑駁に言えばそんな違いである(と小生は理解している)。ま、どちらが主導するにしても意志の所在・最終責任の所在は唯一つでないと混乱する。その意志の所在が内閣ならハッキリしているし、あらゆる案件について主管省庁(=最終的に責任をもつ官庁)は一つだから担当省庁の意志で決めてもよい。それはそれでよいのだ。どちらにしても行政府の意志は一つしか存在しない理屈になる。要は、政府として意志統一ができている。これが大事で、それを事後的に跡付けられる文書が「行政文書」でなければ「困っちゃう」でしょう。試験でいえば、計算用紙は答案ではない。これと同じである。

***

故に、(特に)所管省庁が複数に渡る場合は(単独省庁の場合でも所管する部局が複数に渡る場合は似たケースになるが)、公式の公開文書か、少なくとも「合議済み」文書のみを「行政文書」としておかないと、政府部内がカオス状態に陥ることはほぼ確実だ。

【追記 6月26日】 たとえば原発事故以前に東京電力社内には15メートルを超える津波を予測範囲に含めておくべきだという意見があったと報道されている。小生も、多分そういう意見は社内にあったのだろうと思う。実際、会社(役所も同じだが)には色々な人がいて、様々な意見があるのが普通の状態なのだからー奥さんたちが井戸端会議をしても同じ話題に対して色々な意見が出てくるだろう。しかし、そんな意見があったということと、社内組織で認知され、意思決定プロセスのラインに乗せられ、採用されるにせよされないにせよ、一つの見解として会社で共有するようなポジションを占めていたかどうかは、それこそ公式の社内文書を読んで見ないと何も言えない。『ああアレ?あれ、重要だったの?』、人間集団の意思決定は時間がかかり、面倒で、難しいのが現実だ。実際、小生だって新人の小役人であった時、生意気に参考資料を書き、部内会議で発表もしていたのだ。小生のそんな参考資料があったことを根拠に、事後的に何かが暗転したとして、「中にはこのような意見もあったではないか」と、そんな批判を外部から述べる人がいれば「それは違います、現実にはそれはそんな意見もあったということです」と。過去がまだ現在であった時の状況を分析するのに、未来の人の観点を持ち込んでは何だって言える。要するに、役所の中のメモ書きは、組織の意見でもなく、書いた本人ですら責任を持てない、一つの情報として提供する、そんな物であることもあるのだ(というより、そんな物が多い)。しかも、本当に重要なやりとりは、メモではなく、お茶の時間の雑談から得られることもあったりして、そんな時はメモは紙くずとなり、最終案は最初から書くことになる。いずれにせよ、課の最終版には日付と担当課名が入り、局の最終版にも日付と担当局名が入る(はずだ)。だから、メモを行政文書として残せ、あとで検証するからと言われると、現場はビビるだろうし、小生などは「大丈夫かねえ」と感じたりもするのだ。

アメリカや欧州の官庁でどのような事務の進め方をしているか詳細は知らない。日本の官庁の事務手続きも段々と変わってきているのは確かだ(昔はインターネットもワープロもレーザープリンターもなかった)。それでも中枢部の方針を末端まで意思統一するまでの手順は大きくは変わっていないはずだ。日本人の美意識や和の精神がガラッと変わらない限り、根幹の部分はこれからも変わることはまずないだろう。

文書管理規則まで上から網をかけられると、現場は困るだろうねえ。多分、マクロ経済のUnderground Economy(=闇経済)と類似の対応物である「裏帳簿・裏文書」が内部に蓄積されていくだろう。

企業も政府もすべて「組織」は結果がすべてだ。企業は利益をあげてナンボ、政府は多くの国民を豊かにしてナンボ、であるー政府は国民に幸福を与えるべきであるという問題は既に投稿済みだ。全て「組織」には目的があるのだ、な。途中の文書管理は、なすべき業務を最も効率的に、やりやすい仕組みで設計しておくのがベストだ。それには「慣行」を尊重するべし。アカウンタビリティやモラリティを組織戦略に持ち込むのは、小生の感性にはまったく合致しない。この点では、小生は極右なのかもしれないのだ。

2017年6月22日木曜日

徒然なるままの趣味の復活

漱石の『坊ちゃん』と同じく、ずっと昔、小生は部内の同僚達をそのキャラクターに相応しい動物に例えるのを趣味としていた(当人たちには直接伝えたことはない、もちろん。あくまでコッソリとやるわけである)。

最近の出来事からイメージして:

文科省前事務次官=セミクジラ
文科省副大臣=ロバ
文科大臣=白インコ
内閣府F某審議官=メガネザル
H某官房副長官=ヒキガエル
内閣官房長官=アライグマ
総理大臣=ヤギ

さらには
財務大臣=ヤマネコ
辞めたTPP担当大臣=ラッコ

フ〜〜ム、やはりというべきか、内閣側の人は概してドウモウであり、文科省側の人は水面下に消えたりして得体がしれず、その他の関係者も草食系のイメージでとらえていることがわかる。

アッと、野党の民進党代表を忘れていた・・・、何だろうなあ。まあ、またにしよう。

マスメディア各社のイメージはどうだろう。

サンケイ=スズメバチ
読売=たぬき
朝日=ニワトリ
毎日=キリギリス
日経=きつね
東京新聞=カラス
北海道新聞=樺太犬

まあ、こんなところかなあ・・・出来れば虎やライオン、ないしヒグマでもよいのだが、重量感があってぶれず、焦って誤報を流すこともなく、スクープがないからといって販売部数には影響せず、「木鶏」、いやいや真の「木鐸」であるような、そんな秘めた力を思わせるイメージをもつ報道機関がせめて一つは欲しい気がするが、現代日本においては(明治以来昔もそうだったろうが)夢のようなことだろう。

補足(6月23日):
テレビは各局にそれほどの個性の違いはない。風向きのままに一斉に放送している面がある。だからキャラクターを決めるのは難しい。合唱が好きなので田んぼのカエル。か、アブラゼミ。わが町ではエゾハルゼミの声がだいぶん遠くなってきた。6月上旬から中頃までの林の中はチイ、チイという蝉にしては儚げな鳴き声でいっぱいだった。

2017年6月21日水曜日

『敵は味方のフリをする』を地でいっているのか? 加計学園問題

加計学園問題について文科省から文書流出が止まらない。

大体、新設最終決定の以前に様々な事前調査・直接面談が行われるのは珍しいことではない。特に、有力候補についてはそうだ。

この辺は、ネット上にある複数の意見・指摘でも記されているが、公表されている議事録を確認すればすむことで、何も課長補佐あるいは担当者(?)クラスのメモを重要文書扱いにするような必然性はまったくない。

結論的に言えば、変である。もやはそう言わざるを得ず、関係者もとっくにそう感じ始めているに違いない。これはミスハンドリングから発生した失敗ではない。

***

前に投稿したが、こんなことを書いている。
今回の「騒動」は安倍首相が憲法記念日にビデオで公表した具体的改憲提案をきっかけに、それまでのゴシップ的スキャンダルから行政現場に生まれている思想的対立劇までもが垣間見えるようなドラマへ移行し、いつのまにか筋書きのない劇の幕が上がっている。そんな風な見方もひょっとするとありうるのか?そう感じる今日この頃なのだ、な。
実はこれらの背後には、自民党を構成する歴史的古層。つまり旧・自由党と旧・民主党の間にある活断層、さらに旧・自由党の中にもある保守本流と保守傍流の間にある活断層がいまもある、与党の深層にはマグマが流れこみ熱圧が高まりつつある、そういう政治的エネルギーの作用がひょっとしたらあるのかもしれない。そんな印象も何となくある・・・。
一層面白くなってきた。そうみている所だ。
現政権は攻撃されている ー 単なる野党のいやがらせではない、野党は「使われている」だけである(と、北海道から見ていても感じる)。

もちろん「使われている」のは、野党だけではない。マスメディアがまずは利用頻度の高い「通常兵器」である。あ、そうか・・・あと使われているのは官庁(=内閣の手足)であるはずの文科省もそうである。

***

マスコミを利用した攻撃手法は、最近のヒット作『小さな巨人』で主人公・香坂真一郎が駆使したやり方と瓜二つではないか。であるとすると、やり口が何だかマンガチックである。「闇将軍」といった権力そのものを感じさせる巨大さがない。

ま、どちらにせよ権力は政権側が握っている。支持率が低下してもまだダメージ・コントロールは可能だ(憲法改正は困難になってくるに違いないが)。総裁任期は来年9月迄だ。一方、攻撃する側はどこを攻撃してもよい。時を選択できる、攻撃対象を選択できる。隙のない敵はない。

かつて見られた自民党内部の権力闘争が久しぶりに展開されるのかもしれない。以前にも書いたが、実に望ましいことだ。

そもそも民進党の支持基盤は瘦せおとろえ、既に政権を担える独立変数から政権に反対するだけの従属変数というポジションに没落しきっている。自民党で昔風の<路線闘争>を展開できる社会条件が(小選挙区であるにもせよ奇跡的にか、ごく自然にか)できているのだ。

そうそう、前の投稿を修正する必要がある。『日本の新聞社は社会における中立的な言論機関という役割を失いつつある』と書いたが、そもそも最初から日本の新聞社は社会における中立的な言論機関などではなかったのだ。

2017年6月19日月曜日

「支持率」の信頼性と意味

最近の時代の流れもあって小生の勤務先でも毎学期の全授業について授業評価アンケート調査が実施されている。

実施時期は、コース終了後であるから、毎回の授業が良かったか、悪かったかではなく、授業全体を通して個別項目ごとに数値で評価してもらう(もちろん数値といっても順序尺度である)。自由記述欄も設けてある。

それでも回答全体の平均値をとると、なぜこのような評価になるのかが理解しがたいようなことは、意外と多いというのが雑駁な印象であるーもちろん、だから役に立たないというわけではない。数も言葉も使いようということだ。


ところで、安倍現内閣の支持率が急落したとメディア各社が報道している。どこでもサンプル数は千何百人というところだ。回答率は50%程度のところが多いようだ。回答率はまあまあだと思う。さて、もし全サンプルから直ちに回答が得られているとすると、標準誤差は1.4%程度、最大誤差を真値の両側2シグマ区間まで見込むとサンプルの結果が得られる区間の幅は大体5.6%となる。

故に、ほぼ同時点に実施された支持率調査の結果がメディア各社で10パーセント以上も違うという結果には(まず絶対に)なりえない。

しかし、たとえば毎日新聞の調査結果は36%であり、読売新聞が49%、日本経済新聞が49%、朝日新聞が41%という結果になっている。

同じ母集団を対象にしたアンケート調査が、これほど大きな食い違いを示すことは統計上の数理では説明できないことである。


メディア各社と調査結果との組み合わせをみると、現政権に批判的な新聞社が実施した支持率推定値は低く、現政権に近い側の会社の結果は高くなっている。

おそらく「数字をなめている(=捏造している)」ということはないのだろう(と小生は推測している)。

ランダムに抽出した電話調査(=購読者限定ではないと思うが)だと説明されているが、多分、その新聞社に対して好感を持っていない人は回答を拒否する傾向があるのではないだろうか。だとすれば、その新聞社と立場の近い人の意見がより多く反映されるのは当たり前である。

日本の新聞社は社会における中立的な言論機関という役割を失いつつあることの証左であるわけで、この話題もそのうちとりあげたいと思うのだが、それは後に回すとして、どうやら「世論調査」とはいえ、マスメディア各社が実施している調査結果は客観性を持っていないと考えるべきだ。この点はいま確認してもよい。


ただどの調査でも共通しているのは、現政権の支持率が足元で急落しているという事実だ。たとえば日経調査で示された不支持の理由は「政府や党の運営の仕方が悪い」がトップで、この選択肢を選ぶ人が前回3月時点より8%も増えているそうだ。

何だか毎回の授業で『今日の授業は良かったですか?』というアンケートをしているようで身につまされる。

でもまあ、この2ヶ月余り、政府の運営、国会の運営は何を審議しているかという中身以前の問題として、実に「最低」であった。

だから、この2ヶ月の現政権は「良かったですか?悪かったですか?」と聞かれれば、小生も「非常に悪かった」と回答するだろう。とすれば、「不支持」になるのですかね?ま、いいでしょう。「不支持」だ。

とはいえ、だから現政権は総辞職するべきであって、民進党内閣に政治を委ねるべきだとは、小生、考えてはいない。

「世論調査」とは何を調べたいのでござんしょう。聞いてみたいものでござんす。

2017年6月18日日曜日

メモ: △△主義という言葉の中身?

最近の社会では「言葉狩り」が盛んである。報道各社も自粛するような表現が増えている。

ここで小生もまた同じような「言葉狩り」をしても、社会的なスケールはなく、無視しうるほどの個人的行為であるはずだ。

今朝の道新にコラム記事があってタイトルが『植民地主義 問い直す』となっている。北海道という地で「植民地主義」といえば、大体書かれていることは大まかに見当はつくのだが、この「△△主義」、若い時分からよく使ってきたが「主義」って何なのか?そもそも「植民地主義」という主義はありうるのか?(まあ、現実にあったことは知っているが)

そのための覚書きである。

***

もしここにプロ野球の監督が二人いて、一人は「エース中心主義」といい、もう一人が「打撃主義」と言っているとすれば、それは意味を持つ、というかありうる。しかし、一人の監督が「私は勝利主義ですから」というと奇妙だ。だってプロ野球の監督をしている以上、勝利を求めるのは究極的には当たり前のことであり、チームの勝利はすべての監督にとって最終的目的に他ならず、当たり前のことを言っているだけだからだ。

つまり、主義というのは文字通り「主たる義」の意味を持つ造語である。義という漢字は「道」とか「筋」というニュアンスに近いので、主義とはわかりやすく言えば「自分が行くべき道」というか、そんな風にも言い換えられる。

要するに、主義とは行くべき道であって、最終的目標を示すものではない。資本主義とは資本、つまり私有財産に重きをおく社会。社会主義とは社会全体に重きを置く法制システムを表す。主義であるとしても、資本なり、社会なりが人間にとっての最終的価値を示すわけではない ー 人間にとっての最終的価値は「幸福」であることは西洋の哲学では大前提として置かれている。

***

「植民地主義」という言葉に奇異な感覚を覚えたのは、19世紀グローバルな標準で「植民地主義」という主義は日本にあったのかなという疑問を感じたからだ。

確かに19世紀には欧米列強による植民地獲得競争が激化した。それは資本主義が発展する中で選ばれた「政策・戦術」であって、未開拓の地域(ではあれ、それは他国であり自国ではなかったのだが)を最終的には軍事的に侵略し、植民地として領土に編入し、そこに社会資本を建設し、自国と同じような経済制度を導入し、市場として囲い込み、課税対象にも組み入れる。そんな行き方(=主義)が高い経済的利益をあげ、自国民が豊かになるための早道であった。こういう事実に支えられた行動だった。要するに、資本主義があり、植民地主義が選ばれたというロジックがあった。

そこで日本の植民地主義である。それは西洋で発生した植民地主義と同一の戦略であったのか?日本の植民地は、実はカネばかりかかり、その割には儲からなかったという指摘がずっとある。

今朝の道新で「そうだったのだなあ」という具合にわかった(気がした)のだが、幕末から維新後の日本の(国としての)目標が「独立維持」であったとすれば、つまり日本国民が独立した国民として"survive"することが幸福実現への本来の道とされていたなら、その時代の日本は「国防第一主義」をとっていた。そういうことになる。とすれば、日本の「植民地主義」は、国防第一主義から選択された基本戦略だった。

もちろん国防を最優先(=主義)としても領土は広ければ広いほうがよいと決まっているわけではない。しかし、自国の周辺には自国の衛星国が並んでいる方が良いに決まっている。もし、そんな期待が持てなければ植民地に編入する方が良いに決まっている。これが基本的なロジックだ。

ロシアで起きたボルシェビキ革命がマルクスが理論的に考えたプロレタリアート革命とは似て非なるものであったと同じ意味で、日本の植民地主義もまたいわゆる「植民地主義」とは異なったものだった。そう言えるのではないか。

つまり国が(人が)同じ行動をしたとしても同じ動機に基づくわけではない。しかし、「主義」とは動機に着目して分類するべき言葉だ。

いやはや「言葉狩り」にしても細かいなあ・・・

2017年6月17日土曜日

結末? 加計学園騒動

本日の日本経済新聞:
安倍晋三首相は16日の参院予算委員会で、学校法人「加計学園」の獣医学部新設計画に関し、自ら個別の指示をしたことはないと強調した。学部新設条件の修正を指示したと指摘された萩生田光一官房副長官も関与を否定。文部科学省に内閣府が「総理のご意向」などと早期開学を促したとされる一連の文書内容との食い違いは大きく、疑念は晴れないままだ。
(中略)
福山氏は「疑問が全く払拭されていない」などと指摘。共産党の小池晃書記局長も「国民の大多数は納得できないと言っている」と訴えた。国会最終日の審議は食い違いが解消されないまま時間切れとなった。
(出所)http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS16H58_W7A610C1EA2000/

 この件は何度も書き記したことだが、たとえばネットで<加計学園>をググって見ると、報道各社の記事はもちろんのこと、出版社が運営しているサイトにアップされている記事、個人で公開しているブログ記事等々、あらゆる情報が即座にアクセス可能となる。中には、大手新聞やTVがまったく触れていない資料をとりあげながら、全体としてどのような経緯があったと推測できるか、詳細に述べている解説もある。このような優れた見解はアクセス頻度も高いので、Google検索では自動的に上位に表示されてくる。それらの記事を、小生、Evernoteに(一時的に)まとめて、ラベルを付けている。

今回の騒動は「ゲスの勘ぐり」、「馬鹿馬鹿しい」とも形容されているし、「疑問が全く払拭されていない」、「納得できない」という人もいる。が、敵対勢力はいつまでもずっと敵対するものだ。

もうこの話題はいいかな、という感じ。誰でも時間を少しだけ割けば、<疑念>はほとんど解消できるはずだ。一般の人もこの位は結構容易にやっている。特定のTV、特定の新聞に依存するのが一番ダメである。もはや情報インフラとしての役割は放棄しているようだ。ブログやSNSを補完する一つの情報としてのポジションに地盤沈下してしまった。

加計学園騒動とは、「騒動」の中身を起こした側も、その中身を「騒動」にした側も含めて、大体、どんなことであったのか。それほど大きな<疑念>は小生にはもう残っていない。自ら調査したわけではない。ネットでアクセス可能な情報を全体的にみれば誰でもわかる。そういう時代になったということだ。

<疑念>が晴れないのは大手新聞社に勤務している記者くらいのものだろう。それは自分の仮説が立証されなかった落胆を表しているのかもしれない。一面的な取材しかしていないので本当の意味でワケが分からなくなっている可能性もある(ネットにアップされている文章を盗作するわけにもいかない)。あるいは「こう書いておけ」とデスクから指示されているだけかもしれない。

新聞・TVといった大手マスメディアがなぜ情報インフラとしての適性を失いつつあるか?アウトラインは出来ているが、その考察はまた別の機会に。

2017年6月15日木曜日

メモ: 文科省の組織的危機?

小生のカミさんの祖父は戦前期に地元の高等女学校の校長をやっていたが、それ以前は内務省勤務の役人であったので、文部省が管轄する高女の校長は官界では筋違いのポストであり、文部省から見ればポストを内務省に一つ奪われたのだと思っている。

こんな人事が可能であったのは、内務省(及び文部省)が主導する国民精神総動員体制が昭和12年にスタートしたことも大いに与っていたのかもしれない。(義理の)祖父は、校長在職中に薙刀を正規科目に導入するなど国民精神の発揚に幾つか貢献したと聞いている。が、その分、引退した戦後の日々は辛いものがあったに違いない。いずれにしても、ずっと昔のことで、小生、カミさんの祖父とは直接話したことはない。

その内務省は、軍国主義日本と一心同体であったという科で、戦後になりGHQにより完全に解体された。陸軍省・海軍省の消滅は当たり前にせよ、非軍事部門で完全に解体された巨大官庁は内務省のみである(はずだ)。まあ。消滅という意味では司法省と法務省とを比べるべくもなく、こちらの方がより厳格であったかもしれないが。

いま進行中の「加計学園騒動」は、最初は森友風のスキャンダルに見えたが、いまや内閣府対文科省の官庁間対立、規制緩和を推進する政権派とそれに反発する官僚派の対立、更には地元の愛媛県の前知事で文科省の大物OBでもある人物と今回の騒動の首謀者である前次官、この二人が率いる文科省内の派閥対立の様相も呈してきており、ここにきて非常な盛り上がりを見せ始めた。

ここまで「燎原の火」のように騒動が広がってくると、なるほど国会は一度閉じて態勢を立て直したい。安倍現政権がそう願うのはごく自然だ。まあ「第一次でも特有の鈍感さがあったしねえ、危機管理の失敗だよなあ」と言うのはたやすい。どちらにしても、これから夏にかけて霞が関人事の季節となる。予想するに、今年度は大荒れ必至だろう。いずれ世間の関心は別の話題に移るだろうし、どの官庁のどの局長がどんな考え方の持ち主で誰の派閥に属するかなど、誰にもわかるはずがないし、関心も持たれないだろう。

ある無責任な報道では「文科省内奇兵隊(=喜平隊)」の蠢動を予測したりしているようだが、残念ながら時代は幕末ではなく、現実には高杉晋作というより「ミスター通産省」と称された佐橋・元通産事務次官と佐橋派(国際派に対する国内派)が辿った軌跡を文科省・喜平隊は辿っていくのだろう、と。そう憶測している・・・すまじきものは宮仕え、である。組織内主流派として我が世の春を謳歌した人間集団が、豈図らんや「一夜」にして没落し、落魄した晩年をおくる定めになるのだから。この種の悲哀は、たまたま1990年代に銀行経営幹部に出世したエリートも同じであったし、たまたま2011年3月の福島原発事故発生時に経営幹部に登りつめていた東電幹部も同様であった。まったく宮仕えなど出来ればするべきではない。

これは予測であるが、現政権が長く続くようであれば、文科省本省の局長級、更には課長級ポストの幾つかが「官庁間交流の拡大」という名の下で経済産業省、総務省あたりにあけ渡されていくのではないだろうか。ひょっとすると、国立大学の事務局長、都道府県の教育長、市町村の教育委員会の相当数も10年程度が経つうちに総務省・自治官僚に徐々に侵略されてしまうのではないか、と。この程度の弱肉強食の競争原理はいまも現実に霞が関界隈では働いている。

これらの進展は官庁人事欄を見るくらいしか確かめようがなく、せいぜい『文藝春秋−霞が関コンフィデンシャル』で一般の人は知るくらいだ(文科省の人事はほとんど書いてもくれないが)。いやはや「前事務次官」ともあろうお人がねえ・・・意地は通るのかもしれないが、長い目で見れば「大暴発」であるのは必定だ。自分を慕ってくれる若手が哀れではないのだろうか。

「組織防衛」には「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」ことがもっとも重要なのである。たとえ都落ちをしても、やがて「天施り日転じて」時節がやってくるのが世の習いだから。まさに"Die Alte Kameraden"でも歌われるように
Hast Du Sorgen schick' sie fort, 
denn noch immer gilt das Wort, 
schwarz und dunkel ist die Nacht, 
immer kurz bevor der Tag erwacht. 

Leid und Kummer das vergeht, 
weil die Welt sich weiter dreht, 
darum hebt das Glas voll Wein 
und laßt uns alte Kameraden sein.
明けない夜はない。世は必ず変わる。生き延びて旧い戦友たちと祝杯をあげることが一番ではないか。

追記:
それにしても、「メディア」、「報道」と総称されているとはいえ、媒体によってこれほど大きな質的差異があるのかというのが正直な感想だ。既に、加計学園騒動についてはネット上に数多くの意見・情報がアップされている。検索すれば誰でも容易にそれらの記事内容を読むことができる。すぐにだ。紙のゴミも出ないし、余計なCMもなく静かだ。そして、すべてフリーである。同じフリーのTV報道(ワイドショーも含めるとして)の情報精度の低さ、質的劣悪さは現時点の豊富なネット上の記事と比べても明白だ。大手新聞メディアは最新記事を有料購読にしているところが多い。ところが「最新記事」がまったく信頼できないことが、ここに来て明白になりつつある。総じて見ると、情報を提供するという役割を果たす上で、既存のメディア企業が優位にあるのは「スピード」だけである ー そのスピードも一部のトピックについてはYouTubeやFacebookに負けつつあるが。そして「内容」の劣悪さは余りにも明白だ。「早く知りたい」という需要を充すためにサービス料を支払うという理屈は確かにある。しかし、これほどアンバランスで一面的な情報にどれほどの利用価値があるのだろう。21世紀の情報インフラとして考えるとき、少なくとも現在の日本国内の大手マスメディア企業(特に、社員(?)の手になる内製サービス)は<差別化劣位>に置かれつつある。大手マスメディア企業は情報産業における百貨店であると言っても今後そう大きくは間違わないだろう。

このトレンドをそのまま延長して予測すると、いま大手マスメディアが行なっているいわゆる「世論調査」も、近いうちに<インターネット世論調査>が本格的に社会全体に定着し、リアルタイムで「ソーシャル・センチメント」が誰でもすぐに把握できるようになるはずだ。そうなれば回答者数は現在の千何百人ではなく、数万人オーダーになるだろう。標本誤差は無視できるほどになり、どの機関がやってもほとんど同じ結果になる。故に、メディア各社が世論調査にカネを使う動機はなくなり、おそらく新興企業が最先端の広告アルゴリズムを活用して運営するだろう。特定の会社や経営幹部の利益・思想から影響されにくいという点では、これこそ「マスメディア」の真の形になるはずだ。追記としては長くなったが、今日は(6月16日)これだけを書いておこう。

2017年6月13日火曜日

メモ: 「表現の自由」という語に混じるにおい

「表現の自由」は憲法で保障されている基本的な人権の一つである。

確かに、信教の自由や思想の自由が奪われることの惨めさは、それこそ「表現」に尽くしがたいものがある。その惨めさは、おそらくは少女時代のマリア・スクロドフスカ(後のキュリー夫人)が自国の国家元首の名を教室できかれ、どうしても自国を占領したロシア皇帝の名を答えることができなかったという、そんな幼少期に感じる理不尽な力の意識に相通じるところもあるだろう。

しかし、最近はとても鼻につくというか、鼻を刺激する腐った臭い、大変高邁な理想である「表現の自由」とは全く似つかわしくない卑しい動機が入り混じっているような感覚に襲われることがある。

そんな感覚を覚える人が、万が一、増えているとすれば(大げさにいえば)民主主義の危機だと思う。ま、いまのところ小生の言語的アレルギーの発症くらいですんでいるのだと思うが。

***

それは、人間 ー 職業的には作家であっても、研究者でも教員でも、あるいはビジネスマンをやっていても構わないのだが ー 個人としての立場ではなく、マスメディアという会社に所属する記者(=社員)としての立場にある人、会社から出演を依頼された人、あるいは経営幹部が自社が出版・放送するメディアを利用して、「表現の自由」を主張している時に特に強く感じるものだ。

その時の「表現の自由」とは、「報道の自由」と結びついていて民主主義社会の不可欠な構成要件をなすものであるという主張と一心同体の関係にあるのが普通だが、実は「表現」ではなく「営業」の自由を指しているのではないかと感じることが多く、言い換えると「販売部数拡大の自由」、「視聴率引き上げの自由」、「利益追及の自由」が各社の本質的動機になっている・・・というか、『なっているのではないか』という疑念の存在自体が、それを聞いている小生の心理を苛立たせる。そんな状態であるのだな。

憲法でいう人権は法人企業の営業の自由とは全く次元が異なる。20年間努めてきた会社が倒産して職業を奪われたからといって、国はその人の人権を保障する義務はなく、失業状態が法の下の平等に反するわけでもない。保障するとすれば、失業保険を通じて生活基盤を保障する。そういう話になる。すべては経済の議論なのだ。

経済の議論(=カネのやりとり、毎日の暮らし)をしているときに、表現の自由やら、内心の自由やらを話題にすれば、議論が混迷するのは当たり前だ。何を作って売るにしても、それは自己表現の自由だなどと議論する愚か者は(多分)いないはずだ。そんなことを認めれば、市場経済システムが破壊されるかもしれない。

経済的自由の原則とは、自由である正にそのことにより結果に対して責任を有するというものだ。製造物責任はその観点に基づくし、汚染者負担の原則もそうだ。

マスメディアが唱える表現の自由とは、実は営業としての報道(というか、情報めいたものを提供すること)の自由なのであるから、企業行動の結果には責任をおう。これが出発点になる、というのがロジックだ。しかし、メディア企業は憲法上の不可侵な権利である「表現の自由」、さらにはどこで規定されているか小生はよく知らないのだが「知る権利」などに置き換えて議論することが多い。

民間企業であるマスメディア企業が「表現の自由」を口にする時、どことなく下卑た感覚に襲われて、とても不愉快になることが多いのは、それが「営業現場の戦術」になっている、というか「まさかそうではないよね」という疑いがあること自体が既に問題だ。この心理状態はとても解決困難なのだ。

2017年6月9日金曜日

これはお薦め: モリ・カケ騒動に関連して

今年の新春から初夏にかけては、文字通り『モリとカケ』でドタバタ、ドタバタという感じで時間だけが過ぎていった。その間には、トランプ政権による北朝鮮軍事行動の現実味が高まり、この時ばかりは「それどころではない」というのだろうか、どのマスメディアも米海軍の空母派遣と北朝鮮の徹底抗戦ばかりを報道していた。夏にかけて、モリが終わって、カケの話ばかりが話されるようになったのは、トランプ政権のロシア疑惑や大統領自身の司法妨害疑惑が高まり、アメリカの方がそれどころではなくなった、それとともに北朝鮮危機がピークアウトし、これに合わせる形で「平和が戻ってきたので、また例の話をしましょうか」と。まあそんなノリなのであろう。つまり、世界情勢をみながら、『いまはこの話をしてもいいよね』という感覚が最初から露見しているので、甚だ迫力がなく、視聴率や販売部数を目当てにしたメディア企業の営業である側面が容易に見て取れるところが卑しいといえば大変卑しいのだが、残念ながらフォローするのも大変面白いのが事実だ。

とにかく多くの立場から、当事者である文科省、愛媛県側も含めて、意見や見解が既に多く報道されてきている。あとは、一人一人がどう思うかで、今後の方向性が決まってくるのだろうが、これは知性的で賢明な見方だという記事を見つけたので、メモしておく:

「忖度」、そして「政治主導」

著者は元テレビキャスターで今は教育界で仕事をしている畑恵氏だ(出所:HUFFPOST、2017年6月6日)― ハフィントンポスト自体が朝日新聞と親密な関係にあるようなので、どちらかといえば上の記事内容も反政権側に寄っている傾向が窺われるのだが、ロジックの通った良質の見解だと思う。

ただ、畑恵氏の意見の最大の骨子は「政策決定の透明性」という点にあるのだと思う。確かに政策決定は透明であり、決定までのプロセスは全て公開されることが望ましい。これが基本であると小生も同感だが、では『全ての政策決定は公開するべきである』と問われれば、それはその政策が追及している「戦略的目的」による。こう言わざるを得ない。

すべて政策は、足元の状況を改善するためのものか、長い時間尺度の下で効果を期待する戦略的なものなのかという区別がある。政策を公開するべきかという点についても、公開するべきだという民主主義的要請がある一方で、いやしくも政策であればそれを成功させる必要があり、そのためにはコミットメントを公表するか、その時点では秘匿するべきか。こうした戦略面からの要請もあると考えるのがロジックである―この点に関連して以前に投稿したことがある。

内部情報の詳細は知らないが、規制緩和・市場自由化に対する反対勢力が強固なことは、福島原発事故で東電という大企業が弱体化したことで、初めて電力自由化が経済産業省によって加速されてきた事実からもうかがい知ることができる。電力以外にも医療や教育、さらには各種専門的サービス業などには多くの規制がある。規制はすべて「正しくて意義のあるルール」であったはずだ。これらの規制を緩和しようというのが、ここ20年、というより30年を超えて一貫して努力されてきた戦略である。ある意味では、規制緩和とは規制死守を求める勢力と緩和しようとする勢力との政治的戦争である。このような現実の中で、「〇〇の方向で決定しようと提案いたしますが、皆さん、いかがでしょうか?」といった伝統的意思決定方式が機能するかどうか。このような方式ではダメであるという認識から「政治主導」、「官邸のリーダーシップ」が強調された、というのが日本の近過去である。小生はそう記憶しているのだが、そうではなかったか。

今回の「騒動」は安倍首相が憲法記念日にビデオで公表した具体的改憲提案をきっかけに、それまでのゴシップ的スキャンダルから行政現場に生まれている思想的対立劇までもが垣間見えるようなドラマへ移行し、いつのまにか筋書きのない劇の幕が上がっている。そんな風な見方もひょっとするとありうるのか?そう感じる今日この頃なのだ、な。

実はこれらの背後には、自民党を構成する歴史的古層。つまり旧・自由党と旧・民主党の間にある活断層、さらに旧・自由党の中にもある保守本流と保守傍流の間にある活断層がいまもある、与党の深層にはマグマが流れこみ熱圧が高まりつつある、そういう政治的エネルギーの作用がひょっとしたらあるのかもしれない。そんな印象も何となくある・・・。

一層面白くなってきた。そうみている所だ。


2017年6月8日木曜日

アメリカの政治: 歴史は繰り返すか?

トランプ大統領の発言、というよりツイッターの書き込みから垣間見える大統領ご本人の精神状態が、いよいよ本気で心配されるようになってきたという。

周囲を驚かすというのはいつもの事だが、テロに見舞われた直後のロンドン市長に暴言を吐き、市長から「(何か答えるより)私にはいまやるべきことがある」と扱われてしまったというので、心配の雰囲気はいやが上にも高まっているらしい。

以前にも投稿したことがある。

100年前(厳密には99年前だが)に第一次世界大戦が終わったが、ドイツ帝国を倒し、連合軍を勝利に導くうえでアメリカの参戦は決定的だった。そのアメリカ外交戦略を主導した民主党・ウィルソン大統領はまことに人格高潔な人物であり、戦後に国際連盟設立を主導したのも米大統領であった。ところが、先日に日本の麻生財務相もパリ協定、ひいてはTPP脱退を思い出したか、これにかこつけてアメリカを揶揄したように、アメリカはその国際連盟に加盟しなかった。国内で批准されなかったのだ。『そこまでの国なんですよ、アメリカは』という意味のことを財務相は語っていたそうだ。

高校の世界史教科書でもそのことは解説されており、アメリカの不加盟こそが国際連盟の弱体化(いまの国連も十分弱体だが)、ひいては第二次世界大戦の勃発を招いた、そんな失敗の根本的原因であるとされている。

まあ、アメリカの立場から見れば国際連盟加盟を却下したのもわかるような気がする。欧州の戦争にアメリカが参戦し、膨大な戦死者を出したが、『そもそもなぜ他国のためにアメリカはそこまでしなければならないのか』と。アメリカは英仏に利用されただけである、と。この憤懣に加えて、国際連盟を設立して本部をスイスのジュネーブに置き、「世界平和」の維持に努力すると。アメリカから見れば『いい加減にしてくれ」になるわけであり、アメリカが国際連盟に加盟しないという選択をしたのはとりわけて自分勝手でもなく、"America First"で言うような自国中心主義にも当たらないだろう。この辺が公平な視線だろうと感じたりするのだ。

ウィルソン大統領のあとを継いだのが共和党のハーディング政権である。ハーディング大統領候補は"Return To Normalcy"(正常な状態への復帰)を旗印に掲げ、"America First!"を連呼して第29代大統領に当選した。ところが、そのハーディング政権は、「オハイオ・ギャング」たちの「お友達」政権となり、数々の汚職やスキャンダル(それと暴言、失言?)に塗れるという結果になってしまった。そして、当のハーディング大統領自身も就任後2年余がたった後、病死してしまったのである。最近年においては、その政権の政策を見直す向きもあるようなのだが、ワースト大統領のランキングには毎回登場するのが人格高潔なウィルソン大統領の後継者ハーディング大統領である。

いま何となく懸念されているのが、100年前の歴史が繰り返されるのかどうか、になってきている。

2017年6月7日水曜日

「加計学園騒動」で世論は分かれている

加計学園騒動そのもので書くことはなくなってきた。ただ、結末、というかこの騒動がきっかけになって、何がどう進んでいくかは全く予想できない。おそらく、<事前には>予想できないことが起こってきて、<事後的には>「加計学園」も一つのきっかけだったねえ、と。そんな風に物事は進んでいくのだろう。

圧倒的多数のマスメディアは、何ということか文科省前次官が正しく、総理、官房長官、そして組織としての内閣府、更に言えば国家戦略特区という制度そのものが悪い、と。そんな風な論調をとって、前次官の一言一言をそのまま流している状況である。

野党も国会の場ではマスメディアの論調に乗っている ー 「乗っている」というより、どこかの誰かの意図が背後にあるような印象も受けるのだが、だとすれば民進党などはツールとして使われていることにもなる・・・。

他方、「森友事件」と異なるところは、現在の状況に批判的な意見も出てきている点だ。覚書として整理しておこう。

記事1:橋下徹氏、森友や加計学園における安倍政権の対応を指摘
結論から言えば森友学園問題と同じく、安倍政権側にダイレクトにお金が渡っていない限り不正・違法性はない。・・・特に今回の獣医学部の新設を規制するような「需給調整規制」こそ日本の行政を歪めている典型例。すなわち加計学園に獣医学部の新設を認めたことよりも、これまで52年も獣医学部の新設を認めてこなかった文科省こそが行政を歪めている。そして何よりも前川さんも自ら手を染めていた文科省のルール違反の天下りこそが行政を歪めている。(出所:livedoor NEWS 2017年5月31日)
記事2:前川前次官の“反乱”に霞が関の官僚は非難ごうごう(八幡和郎)
 前川氏の言い分が事実無根とはいわない。「内部のメモ」としてはあったのかもしれない。だが、内容は最低限、著しい誇張だ。上司(官邸上層部)から希望をほのめかされても、あんな直接的な言葉で相手方に伝えるような部下(官僚)などいるはずない。
 守旧派の抵抗を排しての獣医学部新設は十数年前から構想され、民主党政権で大きく前進し、安倍政権が国家戦略特区制度を創設して岩盤規制に穴を開ける機が熟した。地域バランスから「四国でも戦略特区を1つ」というのも合理的判断だ。(出所:産経ニュース、2017年6月6日)
記事3:加計学園「問題」は本当に「問題」だろうか(古川康)
いろんな事情で全国的な制度としては担当府省がやりたがらないことをまず試しにある場所でやってみる、と言うことがこの特区制度の意味。だから国家戦略特区についての責任者は安倍晋三内閣総理大臣になっている。それぞれ所管の大臣にしておいたのでは物事が進まないからだ。
だから国家戦略特区について、責任者である内閣総理大臣がどのように考えるか、ということはとても大きい、と僕は思う。今まで報道されたところだけを見ていれば、今回の件は国家戦略特区のあり方としてそんなに違和感はないような気がしている。
もちろん友達だからやる、知らない人だから断ると言うような行政のあり方はおかしい。しかし、一般的にはメディアと言うのは役所側の主張に対して批判的な論調を持つことが多いが、今回の件についてだけは「文部科学省の主張が正しく、それが内閣府によって曲げられた」と言う流れで報道されているように思う。(出所:BLOGOS、2017年6月6日)

記事4:“告発”前川氏を文科省大先輩が“一喝”「文科省の態度を反省すべき」(加戸守行愛媛県前知事)
「加計学園」問題に関する、あるインタビュー記事が話題になっている。同学園の理事長が、安倍晋三首相の友人のため、愛媛県今治市に獣医学部を新設する計画が「総理の意向」で進んだと主張する前川喜平前文部科学事務次官(62)に対し、同省の先輩で、愛媛県前知事の加戸守行(かと・もりゆき)氏(82)が反論しているのだ。・・・加戸氏は「知事在任中に困っていたのが、牛や豚などの動物を扱う公務員獣医師が不足していたことだ」と述べている。前川氏の認識とまったく違う。 
 前川氏が強調した安倍首相の意向についても、加戸氏は「安倍首相が加計学園の理事長と友人だからと(意向を)言っていたとしたら、10年、5年前に(獣医学部が)できていたかもしれない」といい、加計学園の計画を高く評価している。(出所:産経デジタル、2017年6月6日)
記事5:経団連会長、加計学園問題「優先度低い」
経団連の榊原定征会長は5日の記者会見で、学校法人「加計学園」が国家戦略特区に獣医学部を新設する計画が国会審議の主要テーマになっていることに苦言を呈した。「集中して議論してほしい項目が山ほどある。優先順位からすれば加計学園ではないだろう」と述べた。榊原氏は国会で優先的に議論すべきテーマとして、北朝鮮問題やテロ対策、環境政策をあげた。(日本経済新聞、2017年6月6日)

愛媛県前知事にとどまらず、中村時広・現愛媛県知事が開設予定の獣医学部が「風評被害」を被ると懸念しているのは当然のことだろう( 出所:産経WEST、2017年5月25日)。読売新聞による前次官下ネタ報道も大方のメディア報道に棹さすという意味ではここに含めてよいのかもしれない。

どうも、こうしてみると安倍政権に対して産経新聞は徹底支持、朝日新聞は徹底攻撃、読売新聞は(何となく)政権派、そんな構造が垣間見え、ある意味で「代理戦争」を演じているとも言えそうだ。この周辺に数多くのブログやフェースブック、ツイッターといったソーシャル・ネットワークが網の目のように社会に「意見」を拡散させながら「世論」という一つの実態を形成しているのが今という時代なのだろう。

まあ、こんな構造は以前から周知のことでもあり驚くほどでもないが、上の少数例を見るだけでも日本社会の「チャンとした」人達は『加計学園問題は特に問題ではなし』、その他の圧倒的多数は『「特区」という制度を悪用して「うまい汁」を吸っている奴がいる』と。受け止め方にはそんな分断構造、というか分布の構造があることが、どことなく伝わってくるようだ。この分布の構造と各メディア企業の読者層、政党の支持基盤が重なり合って、現在の状況をもたらしている。そう思うのだ、な。ま、これもまた以前から「そうなってるよね」という程度の印象を与えているわけだが。

こんな中で、いま興味津々でみていることは「民共一体」の行方。つまり本来はリベラルな保守勢力であった民進党が選んだ共産党の「外出着」になるという生き残り戦術が、結果として極右からリベラルを含むいわゆる「保守層」が(意図しているにせよ、意図してはいないにせよ)自民党あるいは親自民党小規模政党に吹き寄せられるという結果をもたらし、そのことがまた何かをもたらす。そんな方向で起こる出来事の実際の形である。








2017年6月6日火曜日

自分のための年表をつくっている

このブログを遡ってみていくと、政治的な話題が結構数多く登場している。

世間の井戸端会議では、まずは近隣の人の噂、次にオカミの批判、さらにあげれば遊びと食い物。大体はこのくらいで何時間はすぎるものだ。

ただ、政治的なことが自分で好きなわけでもない。小生、小役人をやっていた末期の頃、具体的には1988年から大震災のあった2011年までずっと日記をつけていた ー それ以前の記録もあるのだが、ワープロ専用機のファイル形式でフロッピーディスクに保存されていて今も読めるのかどうか不明だ。ちょうど二人の愚息が幼児期から大学を卒業して独立するまでの、長いようで実はそれほど長くもなかった時間に重なり合っている。その日記に書いていることは、とても細々とした事ばかりだ。その日の食事や寝た時間、家族で外出した行き先と、そこでどんな事があったのか。そんな事ばかりを飽きもせずに書いている。仕事でやっていた細かな作業も書いている。今では使わないPC上の小道具をインストールした、そんなことも記録している。政治的な事柄を書いているこのブログ(WEB LOG ≒ 作業日誌)よりも、その頃に書き続けていたチャンとした「日記」の方がよほど作業日誌的である。その頃、そんな細かい事がなぜ大事であったのか、今となっては思い出せない事が多い。

このブログは、多分、自分のための年表を作っておきたいのだろうなあ、と。そう思う。

考えてみれば、江戸幕府が出来た西暦1603年にも小生の先祖は、多分、いまも親戚が暮らしている四国松山の近くで、まあ海賊か、でなければ少し内陸に入った辺りで地道な百姓でもやっていたのだろう。源頼朝が征夷大将軍になった1192年にも、やはり四国で、そうでなければどこかの土地で暮らしていたわけだ。

徳川家康や源頼朝がどんな地位に就こうと、どんな権力を得ようと、特に何という関係もなかったはずだ ー いや、・・・少しは面倒な事態に巻き込まれたのかもしれないが、特に言い伝えもないということは、忘却しても良かった細かい事だったのだろう。どんな細かい事がその時はあったにせよ、社会の大きな流れは、たとえ最高権力者であっても変えようはなく、出来ることは周囲から支持されるかされないか、その意味では一人一人の人間のやっていることは誰でも同じである。

どの時代のどの先祖であっても、食事をして、何か食っていけることをやっていたには違いがないとすれば、いま生きている小生と大体は同じように日を過ごしていたわけだ。とすれば、後になって何か作業日誌的なものを読み返すとすれば、その頃はどんな時代であったか、どんな出来事が世を騒がせたのか。知りたいのはそんなことだと思う。だから年表を目で追うような、その年の十大ニュースを思い出すような記述の方がずっと役に立ちそうなのだ、な。

この辺が何となくわかってきたので、直接的な当事者ではないが、政治的なことを書き続けている。空気が乾燥していると、火事が増える。大火になるかもしれない。大火が起きれば大きな事件になる。自分には関係ないが、大きな事件になったそんな事を書く。書けば大火そのことに加えて、その前後の世の中がザックリと思い浮かんでくる。空気が乾燥していて、風が吹き荒れていた季節が実感としてよみがえる。そんな風な、ちょうど自分のための「年表」をつくりたい。そんな感覚で、このブログには結構政治的なことが書かれている。そう思っている。

2017年6月1日木曜日

「第三者委員会」は県外の人に頼むほうがいいとはねえ・・・

専門家の見解には時々「噴飯もの」、というか唖然とするようなものもある。

例によって朝のワイドショーを視ながら食事をとっていると、話題の一つに「いじめ事件」があった。卒業を間近にした中学生がクラスメートのイジメに耐えかねて命を絶ったという悲しい話である。

話の根幹は地元の教育委員会のお粗末な対応ぶりと、本省から指導(電話であろう)があった翌日に「イジメなし」の結論をひっくり返し、「イジメは確かにあった」と。何ですかこれは、というのでニュースにまでなったのだろう。

外部専門家による「第三者委員会」が機能していない実態があるというので、某専門家の意見が紹介されていた。

曰く

(第三者というのであれば)県外の人に依頼する方が適切だと思われる

なるほどねえ〜、では千葉県ならばいかがでしょう。う〜む、千葉は近すぎるな。純粋の県外人とは言えぬかもしれぬ。では、神奈川県なら・・・、いや関東地方はやめておこう。いっそ関西の方にお願いしましょうか?

こんな話をカミさんとしたところだ。

依頼される西日本在住の専門家がいるとして、そんな遠いところに時間をとっていかなければならないのか、と。使命感を奮い立たせるには努力を要するだろう。なぜ地元の人で解決できないのか。「出来ないんですよね」という証拠は?そんな証拠がもしあるとして、『そんな複雑な人間関係があるとすれば、ちょっと縁のない私には難しいですねえ』、・・・堂々巡りの話しだ。こんな状態を「小田原評定」という。


制度とは器である。器の使い方がわからなければ、あってもしようのないものだろう。

組織とは、品質管理の4Mになぞらえれば、Man=Machine=Method=Materialのうちの「やり方=Method」と「ツール=Machine」、「素材=Material」を映し出す。教育委員会という組織を外から眺めていると、「やり方」や「ツール」、「素材」に弱点が(すでに)あるのかもしれないが、本質的には「ヒト=Man」が原因だろう。

失敗の原因は、しばしばヒューマン・ファクターにある。いくら技術革新を進めても、人がタッチする限り絶対になくならない失敗。そんな失敗もある。昔の倫理、儒学は、ヒューマン・ファクターによる失敗を繰り返さないための学問だと思っている。何の価値もないわけではなかった。

2017年5月31日水曜日

「流行」に30年遅れでついていくのはアリなのか

今年の終盤国会は、相変わらず加計学園(と、出来れば森友も?)騒動と前文科次官の暴露戦術にかかりっきりという状況に近い。

対北朝鮮外交を問い直すことはせず、統合幕僚長による憲法への自衛隊明記は有難いとの発言の政治性を検証することもせず、米国抜きのTPP維持路線が日本の国益につながるのかどうかも全くとりあげない。

ゴシップ戦略を採用したからといえば仕方がないのだが、与党も与党、野党も野党。内閣支持率が下がるのとシンクロして、民進党支持率も下がるのは、ごく自然な結果である。というか、民主党を政権に押し上げたリベラルな保守層は既に同党を見限り、もはや残された支持層は社民党や共産党を支持してきた階層と重なりつつある。逃げた支持層の一部は自民党支持のリベラル層を分厚くしつつある。ポスト安倍の自民党は少なからず変化するだろう。民進党の歴史的役割はもう終わったかもしれない。政党としての運命は、そろそろ極まりつつあると言えそうだ。

こんな事情もあるので、スキャンダルをいくら暴露しても、与党の支持基盤が対立勢力に侵食されるという社会的メカニズムが働かなくなりつつある。日本では小選挙区制が二大政党をもたらすことはなかった。こんなところだろうなあ。

下らないので、仕事か本のことを作業日誌として書いておく。

***

村上春樹の本を最近になって初めて何冊か手にとった。デビュー後、40年遅れでやっと偏屈な小生も世の中に追いついてきたか・・・。

書店の棚で『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を見つけて、こんなものも書くのかと買って読んでみた。「ああ、こんな文章を書くのか」と快い印象を受けた。これを知らなんだら、読もうという気にはまだなっていなかったろう。

『東京奇譚集』で「ああ、ムラカミとはこんな世界なのか」と見直した。

少し長いものを読んでみようとチャンドラーの新訳『大いなる眠り』を読んでみると、息切れすることなく、一貫した流れが作られていた。

で、最新作の『騎士団長殺し』を読み終えようとしているところだ。小説として最上の味わいだと思う。他の作品との比較をするには知識が不十分だが。

随分以前になるが入ゼミ面接のとき、志願者に何か好きな本はあるかと聞いたところ、村上春樹が好きだと答えた学生がいて、『ノルウェイの森』はなんども読んだというのを覚えている。森村誠一や赤川次郎ばりのミステリーではないのだろうがブレイク中の人気作家だろうと軽く聞き流したのは、結果として大きな損失だった。そういえば尾崎豊を初めて聴いたのも、当人が死んでから以後、それからは10年遅れの愛聴者になった。

やはり若い人たちのいうことには真剣に耳を傾ける方がよい。

ただ、ノーベル文学賞。どうだろうか。ま、こんなことは、本当のところ、どうでもよいのだろう。前にも投稿したことがあるが、新しい何ものかがそこに創られている、というか提案されているかどうか。選ぶ側はそんな価値観を持っているのではないかと書いたことがある。つまりロジカルにいうと、独創的であるかどうかだが、その点では安部公房の作品を読んだ時のショックには比べようもない(その安部公房もカフカが世に登場した時の衝撃には及ばないだろう)。安部公房の世界は面白いというより怖いものであり、それは世の中の怖さに対応するものでもあったと今は思う。ムラカミ的世界には、(いいにしろ、悪いにしろ)読者を楽しませる要素が多く含まれている。

いろいろあるが、確かに読まないでいたのは損だった。
この齢になって少し世界が広がった気がする。

2017年5月25日木曜日

「乱」は「らん」でも、ちょっとなあ・・・です

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として二度目は喜劇として。

文科省の前事務次官が在職中の内幕を暴露するという戦術で現政権に公然と反旗を翻すに至った。「乱」である。

一昔も二昔も前にあの界隈の一隅で多忙な毎日を送っていた身としては、こんなこともあるのかと慄然とせざるを得ない。

もしもクダンの「怪文書」が本当に文科省にあったもので、多分それは担当課の書き捨て前提のメモであったのだろう、その時の事務次官がその書付を元に部内会議を仕切っていたとして、いまの時点でその文書は本物だと言えば、それが本物であるという正にそのことにより、在職中の内部事情を漏洩したという判定になるのではないか。

もし無いものを「あった」と言っているだけであるなら、単なる虚言で終わる理屈だ。

内部機密に関する<真の>情報を新聞記者に漏らしたからこそ外務省職員は処分されたという(これも大昔の)前例を待つまでもない。

国家公務員法違反になるのではないか。そもそも行政の方針は政治家、つまり内閣にゆだねることになっている。1990年代の惨憺たる失敗を踏まえ、中央省庁は再編成され、高級官僚の人事システムも改革され、政治主導の原則は益々強化されてきた。部下である公務員が『正義』やら『公益』やらを持ち出し始めれば、そもそも利害が対立する制度改革も国際交渉もまったく出来なくなる可能性が高い。民間であっても、退任した副社長が記者会見を開いて現経営陣を非難するなど、そんな事件が勃発すれば、そんな会社はどこからも相手にされなくなる。

実に危険なギャンブルだ。
それとも有力な政治家の陰謀が背後で進行しつつあるのか・・・。それにしては、筋が悪い。そもそも内閣府の規制緩和政策に対して抵抗していた(いまも、いる?)のが文科省であるのは「教育」にタッチする人には周知のことで、この点は事実というしかない。大きな流れをみればマスメディアが文科省前次官を最後まで支援するとは考えにくいのだ、な。まあ、「放送業界」もまた規制に保護された「既得権益層」とみれば、業界丸ごと案外に文科省官僚集団に与するのかもしれないのだが・・・。

必敗の乱である ー ま、乱というのはいつでも必敗なのではあるが。

思い出すのは有名な「加藤の乱」である。野党が提出した森内閣不信任案に賛成票を投じるため本会議場に入ろうとする加藤紘一議員を抱え込むように阻止する谷垣前幹事長の映像は何度も放送されている。

あれも「乱」であった、な。一週間程度の間に当時の野中幹事長に鎮圧されてしまったが。2000年のことであった。・・・そうか、もう17年もたったか。うたた凄然の心持ちである。

それに比べると、今回の乱は部下が政権に反旗を翻すという点では、江戸時代・大坂町奉行所の大塩平八郎の乱のようなものだろうか。

マスメディアは面白がって「判官贔屓」というものか、この2月までは非難・バッシングのターゲットにしていた同じ文科省次官をバックアップする気になっているようだ。そうすればそうするほど、教育行政の中枢である文部科学省自体の組織的危機が進行するのは確実なのだが、そんな感覚はメディア企業には求めても最初からないのだろう。そういえば、文科省の天下り斡旋を摘発したのは、国家戦略特区を担当するのと同じ内閣府の再就職等監視委員会であった。同じ霞が関住人ではあるが、恨み骨髄というのはこの事であったのだろうなあ。『武士の情けも知らぬのか』、『掟を破っておいて言い訳か』、『この恨み、忘れるなよ』・・・と、こんな感じであるのだろうか。

嗚呼、悲し、無惨の涙に耐えかねて・・・であるなあ。

(31日追加)「官僚」は「国民のために」とか、「公益のために」とか、独善に流れやすい妄想は捨てて、内閣のために仕事をする。つまり選挙で選ばれた政治家の要請を実行する。そのための方策を提案する。21世紀になって入った若手の官僚はこの大きな流れはとっくに分かっているのではないだろうか。


2017年5月24日水曜日

ほんのメモ: 未来の「皇族」、というか「皇位継承問題」

こんなことを書けば、戦前期なら不敬罪になるだろう。

が、ミーハー的興味は抑えがたく昨日もカミさんとこんな話をした。

「女性宮家、日本会議っていう極右系の団体があるんだけど、猛反対しているらしいね・・・」
「真子様や愛子内親王は結婚後に皇族にはしないってこと?」
「そうだろうね。というか、娘だけじゃなくて、娘の息子も女系だからダメって理屈だね」
「でもさあ、もしもだよ、悠仁親王が天皇か皇太子になってさあ、娘しか生まれない可能性はあるよね、その時に愛子さんに息子が生まれたらどうなるの?」
「愛子さんは、その時は民間人だから、その息子も皇族じゃない。そうなるね」
「でも悠仁様の娘は後を継げないよね」
「男子がいなくなったら、敗戦時に連合軍から追放(?)された旧皇族を迎えたらいい。そんな考え方なんだろうね」
「娘の息子がいるのに、そんな遠縁の人が跡継ぎになるの?」
「確かに誰も納得しないかもね。だから、そうなる前にルールを作っておくのが大事なんじゃない?」

もし内親王が結婚後も皇族であるとして、宮家をつくるとすれば「▲▲殿下」と呼ばれるのだろう。その時は、夫の民間人も「▲▲殿下」になるのだろうか?う~む、それは難しいだろうなあ。殿下であるのは夫人の方で、旦那はそうではないからだ。これまでは殿下は全て宮家の当主である夫の方であり、その妻は「▲▲宮妃殿下」と呼んでいればよかった。逆のケースをどうするかだ。イギリスではエジンバラ公という呼び名があり、その名前も「公」という実質を伴っているからいいのだが、日本ではそれもできないだろう。ただまあ、先日の道新のコラム記事によれば(それも経済学者の宇沢弘文先生のケンブリッジ時代の思い出を引用して、という話だが)、ケ大の大食堂で食事前の乾杯を女王陛下に捧げるとき、たとえご夫妻臨席の場合であっても、夫君のエジンバラ公には捧げなかったという。隣の同僚にその理由を聞いたら「子孫を残すためだけの男に誰も忠誠心など持たないヨ」と言われたとのこと。それで宇沢先生はケンブリッジに長くいるつもりがなくなったという話だ。そんな話もあるから、この問題は微妙で難しい。

5代将軍・徳川綱吉は、娘・鶴姫の婿である紀州藩主・徳川綱教に後を継がせようとした。娘の息子どころか、単なる娘婿である。実の兄の息子、つまり甥の綱豊がいるにもかかわらずである。これに「筋が通らぬ」と反対したのが徳川光圀である。しかし、水戸黄門・光圀も、後継者が娘婿ではなく、娘の息子であったら強硬に反対できただろうか。

いやはや、下世話な話でござる・・・。

2017年5月23日火曜日

断想: China Dream? vs American Dream?

中国の習近平国家主席の現在の夢は終身国家主席の地位に就くことだと噂されている(明言は、当然ながら、できないことだろう)。

ひょっとすると、それは可能かもしれない。
では、終身国家主席が終着駅かといえば、息子(娘がいるそうだから、娘婿、それとも娘本人)が後継者として同じ地位を世襲することが認められるかどうかも夢になりうるだろう。

もしそうなれば、中国は別の国となる。国名を変更するだろうし、名実ともに新たな王朝国家として復活することになるわけだが、ひょっとすると実はこうなるのが"China Dream"かもしれない。

思うのだが、こうなったとしても必然的に非民主主義国家であるとは、小生どうしても思われないのだ。

戦前期・日本は天皇が国家元首であった。しかし、天皇が自分で決められる事柄はほとんどなかったのだ。軍国主義は、庶民出身の職業軍人集団が天皇を(文字通り)「神聖化≒傀儡化」することで実現された。成立の背景をみれば、日本の軍国主義がデモクラシーに反するものとは言えないだろう。軍国主義イコール国民総動員なのだから。

その事情は江戸時代の将軍も同じだったろう。江戸時代の各藩には殿様がいたが、殿様がやりたいことをできていたとはとても思われない。家老だって事情は同じだろう。

非民主主義的国家が必ず非民主的に運営されるとは限らない。そこには(いるはずの)独裁者もいないし、(いるはずの)権力者もいないかもしれない。収奪によって黒字のはずの財政は赤字で破綻しているかもしれない。支配されているはずの国民に多額の債務を負っているかもしれない。権力は形式だけにとどまっているかもしれないのだ。

逆に、民主主義的に法制化された国家で、権力が集中する状況も頻繁にやってくる。特に普通選挙で選ばれた政治家は正当性をもつ。強権的な税制改革を実行しうるのは、独裁者もそうだが、同じことは国民から支持されている民主的政治家もできる。同じことができるなら、独裁者と強力な民主的政治家でどこが違うのだろう。

★ ★ ★

ピケティの『21世紀の資本』は確かに面白い経済書だ。そもそも所得分配論は経済学の中で地味で人気のない分野だった。その面白さの大半は、確かに$r > g$が(理屈はともかく)歴史的に成り立ってきた。この点にあって、実はそれ以外にはないとも言えるのだが、具体的に記述されている事実は文句なく面白い。結論しているのは、結局『不平等は続く可能性が高い』ということと、国際的資本課税が必要だという2点に過ぎないのだが、地味なテーマでここまで読ませる筆力は侮れないものがある。

とはいうものの、内容本位で言えば、ピケティの師匠にあたるアトキンソン(Anthony Atkinson)による『21世紀の不平等』がはるかに充実している。この本の第1部は、歴史的事実でピケティを補足しているような所があるが、確かに「読ませる力」は弟子のピケティに軍配があがる。が、白眉は第2部だ。特に第6章の『資本の共有』は、経済政策に関心があるなら<必読>に値する。


アトキンソンが当たり前のように淡々と指摘しているように、ロボットは誰が所有するか。これが今後将来の最大の経済問題になるのは確実だ。人工知能の知的財産権、ビッグデータの著作権(?)・・・、すべて扱いは同じである。21世紀の不平等は、21世紀の所有権の再設計へと至らざるを得ない。それを正面から提案している。財産権の不可侵が近代市民社会の土台だとすれば、時代は大きな曲がり角にさしかかろうとしている。この歴史的洞察力には凄みがある。

以前の投稿でも書いたが、ロボットが人間のやるべき仕事を全て奪ってしまったとする。ロボットの管理もロボットが担当するとする。その時、人間は雇用されることはなくなる。もしロボットが資本財であれば、資本分配率は100パーセントになる理屈だ。

もしロボットで代替する方が生産性があがるのであれば、そうした方が社会は豊かになり、人間はより多くの余暇を楽しむことができる。故に、そうした方がよい。しかし、分配問題をその前に解決する必要がある。このような社会では、資本に帰属する(はずの)営業余剰をいかに分配するかが、その時の最大の政治問題にもなるはずだ。新しい所有権と新しい受益権、新しい決定権を議論する必要がある。

アトキンソンが提案するように、全ての国民に成年定額資本受給権を認めることで問題が解決できるのかどうか、小生には定かではないが。

いずれにせよ、こんな時代が本当にくるとすれば、いわゆるAmerican Dreamは歴史的役割を終え、文字通り一つの時代が終わることになるのだろう。


2017年5月18日木曜日

メモ: 貧すれば鈍するの野党の惨状

今は北海道に暮らしているが、両親は元々愛媛県の人である。小生も小学校までは父が勤務していた某大手合繊企業の工場がある四国松山近郊の小さな町にある工場の傍にあった社宅で育った。父はそこでナイロンの生産管理を担当する技術者をやっていたのだが、その工場は今は炭素繊維を生産しているというのだから、小生が過ごしたのも遠い昔になった。

松山の隣町(というには隔たりがあるが)今治市に国家戦略特区が指定され、四国で初めての獣医学部開設が(総理大臣のバックアップが本当にあったのだろうか)認められることになったのは暫く前である。

一地域が大学・学部開設許認可の権限を独占する文部科学省の岩盤を打ち砕いた末の悲願達成であったのだろう。

ところが、その話が国会の政争の具になってきている。

実に情けないことだ。

国家戦略特区は内閣府所管の業務である。官房長官や特命担当大臣がいるとはいえ、内閣府は内閣総理大臣の監督下にある。組織の長たる大臣の指導に従って官僚が他省庁と折衝したとしても、上司の命に従ってそうするのは当たり前である。折衝の中で「うちの大臣が直々に通せと言ってますのでね」と言うとしても、話して当然の科白である。必要なら大臣折衝に持ち込んでやる。

これを何を血迷ったか「不祥事」であるかのようにマスメディアは報じている。

関係者の努力に泥をかけるとはなあ・・・。京都産業大学の申請は却下されたと報道されているが、同一地域に重複開設することはできないと言われていただろうが・・・。

貧すれば鈍す。文字通り「情けなきこと 涙こぼるる」だ。
野党の政略はもはや戦略の名には値しない水準になりつつある。現地で仕事に取り組んでいる人たちの立場から見れば、国会の場を借りた野党議員の言動は、もはや「国政調査」を超えて「公務執行妨害」にあたると感じているに違いない。



・・・イヤハヤ、今日はさすがに憤懣に耐えかねて書きたいように書いてしまったなあ。冷静になろう。

2017年5月17日水曜日

原資は「税金」だからというフレーズの裏の意味合い

上のフレーズはよく聞く言葉だ。何か不祥事があるとメディアもよく使っている。江戸時代のご印籠と同じ力をもつ。

「公人」たる者、常に「天知る、地知る、我知る、人知る」を忘れてはならない。

なるほどよく分かる言葉だ。

ネットを見ていると、次のような下りがある。先ごろ不適切な言動が原因で経済産業政務官を辞めた某二世政治家のことだ。

▲▲氏の不祥事を縷々紹介したのは、ゲスな話に興味があるわけではない。中川氏は政務官辞任後に開かれた4月18日、21日、28日、5月9日、11日の衆院本会議を全て欠席している。議員の務めを放棄したわけだ。衆院議員の歳費は、期末手当や文書通信交通滞在費を含め年間約3200万円にのぼる。もちろん原資は税金だ。中川氏は議員の仕事をしていない。これでは税金泥棒と言われても仕方あるまい。

(出所)産経新聞、5月14日(Yahoo!ニュースより)

確かに男女の交際は「個人の自由」だが、議員の活動に影響があったとすれば、税金の無駄になる。理屈は分かる。

★ ★ ★

しかし、上の論法に沿っていけば色々な話になっていくのではないか。

たとえば義務教育には税金が投入されている。

授業中にやかましく私語をして、授業を妨害する行為は税金で運営している業務を妨害する行為、つまり公務執行妨害である、と。

そもそも「ズル休み」を認める親の行為も税金の無駄にあたる。というより、教育を受けさせる義務があるという憲法の規定に違反している。

あるいは、引退後のサラリーマンは年金生活に入る。過去の積立金も原資だが、基礎年金には税金が投入されている。高齢者は、原則、税金からお金をもらっている。税金を使う人を「公人」だというなら、高齢者はすべて公人だ。然るに、暴力や暴言を抑えられない高齢者が増えている。トラブルメーカーになることも多い。自動車保険料も上がった。何ということであろう、税金のお世話になりながらその資格を疑わせる行為をする老人がいるとは。

まだある。国立大学の学生には税金が投入されている(国立大学ほどではないが私立大学にも助成金が入っている)。ところが某国立大学医学部在籍者が凶悪な事件をひき起こしても「税金泥棒」という非難はされていない。が、明らかに税金泥棒にあたるだろう。

これらの反社会的行動にはより厳しい姿勢で接するべきだ、すぐにこんな話しになるのではないか。

・・・実に、器の小さい、コセコセした言葉だと日頃から思っている。

★ ★ ★

「原資は税金」という点が、それほど重要なのであれば、より多くの税金を納めた国民はより多くの貢献を日本国にしていることになるのではないか。

より多くの貢献をしているのであれば、より多くの権利を持っても不思議はないのではないか。

投票権だって納めた税金額に比例するようにしたほうが良いのではないか。理屈が通るのではないか。実際、株式会社はそうしている。税金を納めていないのであれば、参政権もなくて仕方がないのではないか。そもそも多額納税者が真っ先に参政権を得たのだ。

カネに話しを戻すなら、必ず上のような話になる。格調が低いことおびただしい。

非課税証明の対象になっている人は、「原資は税金だから」という言葉を(自称)ジャーナリストから聞くたびに、肩身の狭い思いをしなければならないということか・・・。いやいや、税金を一切納めていない人はいない。消費税は必ず納めているはずだから。しかしねえ・・・。

どちらにしても、よく聞く「これも税金なんですから」という表現、実にデリカシーのない言い方だと思う。

★ ★ ★

払った税金の金額によらず全ての日本人が参政権をもつという普通選挙。大正時代にそれを可能にしたのは徴兵制度だと思われる。つまりすべての日本人に兵役の義務があったからだ。カネよりは命。命をかけて国を守る義務を引き受けている以上、税金は関係ないだろう、と。そういうことである。

ただ、上の議論はあくまで戦前期の日本に通用した話しだ。だから、カネを納めているという次元に話が戻る。カネの話しに戻るなら、払っている金額が最も大事になるのじゃないか。

たとえ議員の報酬がゼロであり、税金などは投入せず、議員活動がボランティアであるとしても選挙で選ばれ、有権者の信頼を受けている以上は、信頼を裏切らないことが信義というものだ。こんな議論をすれば格調が高くなるというものだ。戦前であれば「承詔必勤」。報酬をもらっているからやれという思想はそこにはなかった。

まあ、もちろん上の考え方にも副作用はある。信義、つまり自分を支持してくれた人たちの方を向き、その信頼に報いる、その人たちのためにこそ行動する。・・・いけないだろうか?

2017年5月16日火曜日

初の憲法改正は「公布」に劣らず情けない「改正」になるかも

首相が憲法改正の必要性を訴え、そればかりではなく日程まで提案するという状態になって、曲がりなりにも憲法が茶の間の話題にもなることが増えてきた。

いわゆる「改憲派」は、日本国憲法の制定過程がいかにも情けなく、敗戦後の占領時代に押し付けられたものというこだわりがある。

しかし、このままの状況で行くと、初めての憲法改正が首相の提案どおり、2020年に施行されるとしても、それはそれで実に情けない憲法改正に終わる。そんな可能性も無視できないと思う。

***

憲法の勉強は小学校の授業でもある(はずだ)。中でも戦争放棄については、特に重要性が高い事柄だと思う。

小生の中学校時代であったか、高校時代であったか、それは忘れたのだが、いまでいう「公民」、当時の科目名なら「政治経済」の授業であったと思うが、たまたま第9条の話になった。社会科担当の教諭が『・・ですから、日本は戦争を放棄しているわけですね。で、戦力は持たない。そうなっています。つまり、自衛隊は戦力ではないという話しです・・・』と、そんな話があったように覚えている。その時、10代であった小生は、『ということは、自衛隊が持っている武器は使わない、使わないから武器ではないってことだよな』と、周囲のクラスメートとひそひそ話をしたような記憶があいまいなまま残っている。

戦後日本を支えてきた「正統派憲法解釈」であると言ってもいいだろう。

が、この憲法解釈が日本社会の「本音と建前」を学ぶ事始めにもなっているとすれば、やはり情けないわけであり、きちんと筋を通すとすれば「自衛隊を解散する」か、「戦力をもつと書く」か、この二つのいずれかになる。

潔癖なティーンエイジャーの感覚からみて憲法の授業は非常にキレが悪いのは仕方がないのである。「現実には」という議論は憲法学でできればするべきではないだろう。

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漫談ではないが、あれから50年。

憲法学者は、自衛隊の存在、自衛隊が保有しているハイレベルの武器、武装。持たないはずの「戦力」とどう整合させて行くのか、この半世紀の間、自分の専門分野についてほとんど何の学問的進展をも示せず、何の草案も提案もなしえなかった(と、専門外ではあるのだが、そう見ている)。

安保関連法が成立したあと、今後の進展について予想したことがある。2年前の投稿に書いている。そこでは集団的自衛権の容認と安保関連法の制定がショック療法になって、これまでとはレベルの違う新しい法理論が専門家から提案され、新立憲主義のような考え方が立ち上がってくる、と。そんな風に予想していた。それでも、議論の収束には時間がかかり、安倍現首相の任期中には改憲は難しいだろうと、そう書いていた。

ところが、今のままではまるで住所変更届でも出すような感覚で、「行政の一環」として、日程どおりに安倍現首相の任期中に憲法改正となってしまうかもしれない。

ちょっと憲法のこの条文、困るんですよね、なおしましょうかネ(→修正:なおしてもらいましょうか)。

そんな感覚である、な。

そうなったら、そうなったで、今度は『この改正は当時の安倍内閣に押し付けられた条文です、実に情けない』と。

まあ、少数派からみれば憲法は「押し付けられたもの」といつでも見えるのだろうが、もっと情けないとすれば憲法学界から何の学問的議論もおこってこないことだ。

2017年5月14日日曜日

今年の"Sell in May"は不発だった?

『申酉騒ぐ』が日本の格言なら、"Sell in May"はアメリカ株式市場の格言だ。これには続きがあって『5月に売って、9月まで戻るな』となっている。

要するに、秋口に株を買い値上がりをまち、5月には売れという投資ルールが当たることが多い、そんな経験則を伝えている。

そういえば、昨年の4月、5月は底値を探るような展開だった。が、1年毎の季節変動というより、夏のブレグジット(Brexit)をどう見るかで不安が先立っているという説明が多かった。その前の2015年の5月も冴えない動きだったが、これも株価の季節性というより国際商品市況の暴落と景気後退が心配されているような説明であった。すると案の上、15年には上海市場が大暴落を演じた。5月に売れという格言はまさに的中したのだが、マクロ経済の変動とたまたまマッチしただけだという人が多かったろう。

今年はどうか。


やはり冴えない動きだ。

しかし、WSJの見方はかなり強気である。

 足元の景気拡大ペースが遅いという懸念は過去のものとなった。目下の注目は次のリセッション(景気後退)にどう備えるかだ。(中略) 5日に発表された4月の米雇用統計が堅調だったことを受け、米経済は正しい道筋をたどっており、FRBはこれまでやってきたことを今後もただ続けていくべきだという見方が一段と強まった。金融情勢は「安定期」にあるようだ。

(出所)WSJ、2017年5月9日

頭打ちのNY株価には、現在のアメリカ経済やFRB当局の見方が織り込まれているはずだ。とすれば、6月から9月まで今年のNY市場はプラスのサプライズが続き上げ基調を辿るのではないか。

理屈で考えると、株式市場に特定の格言が当てはまることはない。その裏をかいて利益を期待する投資家が必ず出てくるはずだからだ ー 市場が十分に効率的なら。故に、単純に過去の経験が繰り返されることはない。

しかし、毎年の年中行事は固定されていて、会計制度や決算の時期も固定されている。同じ時期に、投資家が同じような行動をとりたくなる。そんな反復性があるならば、株価にも現れるはずだ。だから『5月に売れ』。下がるべくして下がるなら、予想通り横ばいになるのと実質は同じである。

たとえ株価が停滞してもアメリカの金融情勢は「安定期」にあるとは、そんな意味だろう。

とすれば、『申酉騒ぐ』が文字通り東京市場で演じられたとしても、それほど驚くことではないことになる。北朝鮮リスクで東京市場は4月から5月にかけて低迷したという人が多かったが、その低迷は本当に北朝鮮リスクでもたらされたものなのか?怪しいものだ。そうなるべくしてそうなった。予想通りであったのかもしれない。予想と外れたトランプ大統領のシリア空爆はあまり関係なかった、その後の心配もあまり関係なかった、実はそうだったかもしれない。

2017年5月7日日曜日

メモ: これって現代の「統帥権干犯」論ではないか

先日、安倍首相が2020年改憲方針を提唱するや、いわゆる護憲派が猛反発しているそうである。

反対自体はその通りだと思うが、その理由の中に気になる、というか面白いものがある。

曰く
安倍総理は憲法改正については国会の熟議に任せると言ったはずだ。そもそも首相が憲法改正を提唱するのは筋が違う。
確かに、憲法改正は立法行為というより、国会が発議し、国民投票で決着するものであるから、行政府の長である総理大臣が提唱するのは筋が違うと言えば、違うのだろう。

ただ、どうなのだろうなあ?

自衛隊が違憲とされる余地を残している現状は、行政を担う長からみれば最大の問題点の一つだと考えても、それほど奇妙には感じられないのだが。

また、議員内閣制である以上は議員の1人として、また政権与党の総裁として、発議に向けて一言あるとしても、それほどおかしなことをしたわけではない(と感じる)。

むしろ、『内閣はこの件に口をはさむ権利はない、違憲である』と意見表明を封殺するかのような護憲派の言い分は、『内閣が軍事の問題に口を挟むのは統帥権干犯である』という言い分とそれほど大きな違いはないと思う。

もしもある1人の国会議員が憲法改正に関する自己の見解を新聞や雑誌に発表して、それが世論に影響を与えれば、『国会は国会として発議する権限があるだけであり、憲法改正は国民が決める。発議してもないのに、一議員の立場で具体的な案を提唱するのは筋が違う』と、そんな『口を出すな』という風な言い方を護憲派はするのではないかと推測する。

誰でも憲法については意見を表明する権利はある。「口を挟むな」と言うのは戦前期の軍部が発明した「統帥権干犯」の発想に通じるものがある。

デモクラシーとは、結局のところは、50%以上の日本人がよしとする方向を国として認めるという原理だ。政治はこの原理に沿って、そのプロセスの中で発生してくる色々な問題を解決していく活動である。

政治家が(政党が)議論をして、勝敗がつけば、勝った側の志が通る。数で勝った結果にせよ、デモクラシーとはそもそもそういうものではないだろうか。その昔、勤務していた役所の大臣が言ったことが理解できず、反発した自分を思い出す。

曰く
理にかなった政策を提案したとして、それが理由で選挙に負けたとすれば、有権者の方が正しいんだ。たとえ理にかなった政策であっても、それは実行してはいけないんだ。
反発した自分が間違っておった。今ではそう考えるようになった。まあ「成長」したのだろう。

戦前期の「神聖なる玉座」のように、多数の勢いを防ぐ防壁のようなものは、今の日本にはないのである。あるのは、日本国民の意識だけである。




2017年5月6日土曜日

「高等」教育無償化の前にやるべきこと

先日、安倍首相が憲法改正に向けた方針を語り、2020年にはいよいよ改正憲法かというので、この話題がにわかに盛り上がっている − とはいえ、まだ現実感がないのか、TVのワイドショーではスルーしている。

改正のポイントとしては、第9条はそのまま残して、自衛隊を保有することを明記し根拠規定を整えるというのが一つ、さらに教育無償化を実現する規定を設ける。具体的なことはまだ未定なのだろうし、そもそも財源があるのかどうかも分からないが、意外と前向きの印象を与えたようである。

ただ、思うのだが「教育無償化」は既に維新の会が提唱していることで、その趣旨は高等教育無償化である。大体からして、高等学校までは義務教育化せよという声が以前からある位だから、いまさら高校は無償にしますからと力説しても、ちっともインパクトがないのは確実だ。趣旨は大学(さらには大学院?)無償化でなければなるまい。

しかしこれを実現するには、以前にも投稿したように色々な難問がある。さらに言えば、それらの難問がないとしても、高等教育無償化の前にやることがあるのも事実だ。

***

こんな記事が人気を集めているらしい。

 米国での寿司・和食ブームはとどまるところを知らない。米調査機関ピュー・リサーチセンターの2015年の調査では、米国人が日本と聞いて最初に思いつくものの首位は寿司・和食だった。日本貿易振興機構(ジェトロ)の13年の調査では、米国人が好きな海外料理で和食・寿司はインド料理を上回り、首位・中華料理とほぼ並ぶ2位だった。農林水産省の調査では北米の日本食レストランは13年からわずか2年間で1.5倍の約2万5千店に急増している。
(中略) 
 昨年、日本で「スシポリス(寿司査察官)」という短編動画作品が放送された。邪道な寿司を出す店を取り締まる捜査官を主人公にした作品だ。06年に日本政府が導入しようとした海外の和食レストラン認証制度に着想を得て、皮肉をきかせたものだ。海外からの激しい反発で導入は見送られたが、農水省は諦めていない。昨年には海外の料理人の和食調理技能を認定するガイドラインをつくっている。「適切な」知識・技能を習得した海外料理人の育成と情報発信をうたう。 
 だが、寿司の世界は急激に広がり、もはや日本政府が統制できる範囲をはるかに超えている。その規模と市場原理によってスシポリスが活躍するまでもなく、人気が定着する中で自然に自浄作用も働いている。 
 寿司のおきて破りの現地化と並行して、米国の都市部では築地からネタを空輸するような本格派の寿司屋も増えている。サンフランシスコでもミシュランの星を取る本格的な寿司屋が増えた。日本食ブームが長期間続き、日本で本格的な寿司を食べる経験をした人が増えたのが背景にある。 
 それを象徴するのが有名寿司店「すきやばし次郎」の職人、小野二郎氏の人気だ。ドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」は米国の料理好きの間でカルト的な人気を誇り、和食の話が出れば「ジローに行ったことがあるか」としょっちゅう聞かれる。14年のオバマ前米大統領の訪日時の会食場所に選ばれたのもこうした理由からだった。


こんな風なので寿司職人は引く手数多という。たとえ寿司職人になったとしても、世間はそう甘くはない。こんなデータもネットにはある。

平均年収:400万円でした。(口コミ調べ)
平均給料:22万円~34万円

すし職人の平均年収の範囲はおよそ300~500万円
一流すし職人の年収:700~1000万円
※九兵衛の年収を売上客数などから予測してみたところ1500万円以上になると予測されます。

海外すし職人(ニューヨーク)の年収:700万~1056万円(求人より)
海外すし職人(上海)の年収:400万~600万円(求人より)

(出所)平均年収.jp

確かに職人修行で期待できる生活もそれほど楽なものではない。

とはいうものの・・・、

そもそも大学新卒者が正規社員として採用されるのは60%〜70%程度という。
参照:https://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/today/rt150126.pdf

非正規社員の年収は7割が200万円に届いていないというデータがある。昇給もほとんどない。
参照:https://mainichi.jp/articles/20160120/k00/00e/040/231000c

大学新卒者の平均年収も200万円程度である。
参照:https://careerpark.jp/4882

現状がこんな惨憺たるものである時、大学教育の根本を改革せずに「高等教育」だからという理由で無償で大学に進学できるようにすれば、どんな状況になるだろうか。

授業料がゼロになるなら大学(大学院にも?)に進学する動機を刺激する。しかし、独立して生活できるスキルを身につけるには、日本国内の大学(大学院も?)はほぼ全て役には立たない(もちろん学部による)。そして、本来は「もっと儲かる」はずの職人修行は、外国から日本に来た外国人に占められる。そんな実に情けない状態がもたらされるだけではあるまいか。

寿司職人だけではない。大工ほか建具職人、畳職人、表具師、染物屋、織物屋、仏壇職人、石材職人などなど、手に職をもった職人層の最近の収入傾向を調べて見るとよい。

現代という時代は、「和の文化」が金になる時代なのだ。日本の中で旧来の大学教育を受けても金にならない。そんな時代になりつつある。このことをもっと真剣に考えて見るべきだ。

政策的に無償にするというなら、確かにそれが日本人の公益となり、支援するだけの価値がある。まず先に、そういう状態にしておくには、役に立たない教育を続けているだけの大学の多さに目を向けなくてはダメだろう。




2017年5月5日金曜日

断想: 無常ということ

北海道の港町にも桜前線が到達した、と思っているうちにもう桜吹雪である。

明治の正岡子規以来、俳句の極意は写生であり、叙景であると言う人は多い。しかし、目の前にある物をそのまま言葉にしても、中々いい俳句にはならないものだ。やはり作る人の心情が伝わったところで、傑作は傑作になるというものだ。写生だけではダメであるし、美しく作っただけでも感動はしない。
夏草や 兵どもが 夢の跡
むざんやな 甲の下の きりぎりす
憂き節や 竹の子となる 人の果て 
旧里や 臍の緒に泣く 年の暮
どれも芭蕉の名句である。が、このように並べて見ると、まったく違ったところで、違った言葉で出来ている俳句ではあるが、伝えようとしている思いはたった一つであることがよく分かる。

それは何より「人の世は儚く、人生は短い」ということだ(と思う)。目に見えている全ての外界は仮の姿であるとする「無常観」とも言える。世界は無常であるが故に、過去と現在が時間軸に順序付けされず、そのまま同じものの重なりとして認識されているという哲学もそこにはある。先日来、本ブログでも投稿しているが、「存在」を時間の中にのみ見るという立場も同じである。

人は過ぎ行くが故に人でありうるのだ、と考えるとすれば人間はなんと言う孤独で、さびしい「存在」だろう。いや「存在」という名称で呼べるかどうかも分からないのが人だ(と思う)。

存在、それはつまり流転と見る立場は、仏教思想の影響下にある日本文化ならではのものと思いがちだが、そうと限ったことではない。

たとえば12世紀に生きたペルシアの詩人オマール・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』の中の一句:
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面、星の額であったろう。
袖の上の埃を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女の変え姿よ。
芭蕉が俳句に込めた世界観と、ここに歌われている儚き世界と、どこが違うだろう。


2017年5月2日火曜日

ワイドショーと並んで増えてきた番組

ずっと以前になるが、その時代時代のヒット曲、ヒット曲の歌詞には、その時代の雰囲気や景気の良し悪し、さらには社会的に信んじられていた理念までもが映し出されるものだという先生がいて、ちょうどその頃、勤務先の広報誌の編集をまかされていたこともあって、その先生にエッセーを依頼したことを覚えている。

もう一昔も二昔の前のことだ。

原稿を書いてくださったその先生もとっくに鬼籍に入った。


そのことを思い出して、気がついたのだが、ヒットナンバーばかりでなく、たとえばどんなタイプのテレビ番組が相対的に増えてきているか(減ってきているか)という番組傾向にも、その時代が表れるものではないだろうか。

そんな目で最近の(出版業界はさておき)テレビ番組の編成傾向を振り返ると、目に見えて増えてきた分野が三つある。一つは、言うまでもなく報道と素人コメンテーターを混合したワイドショー。小生が「若い頃」(いやだねえ、こう言う齢になったとは)は、ニュース番組やニュース解説はあったが、井戸端会議風ワイドショーは一つもなかった(と思う)。

残り二つは、クイズ番組とミステリー番組(というよりテレ朝風・警察ドラマ)だ。

ミステリー番組は、また別に語るとして、最近よく見るのは特にクイズ番組に東大や京大など日本国内(ばかりには多分したくないのだろうが)エリート大学の現役学生が、回答者や出題者になってよく出演していることである。小生が若い時代にもクイズ番組はもちろんあったが、東大生や京大生、慶大生などが(たまに偶然で出場することはあったが)、番組の中心要素として出るなどという演出はなかった(ように思う)。

小生、最近のこの現象を「東大生=芸能人化現象」と名付けているのだが、要するに(何を勉強しているかどうかとは関係なく)東大生であること自体に芸能ビジネス上の価値が認められてきている。そこにマスメディア産業が番組素材として注目していると。そういうことだと考えているわけだが、そこで登場するクイズは暗記している知識を問うのが多いのは当たり前として、知識が役に立たない「頓知クイズ」もまた大変多いのだな。ナゾナゾが高級化したような問題だ。もちろん正解がある。

公務員試験にも頓知クイズが出題されていたくらいだから(今でもそうなのだと憶測するが)、「下らない」と却下するつもりは全くない。子供がナゾナゾを喜ぶのは全然下らなくないのだが、ただ 「優秀」とされるはずの大学の現役学生がこのような暗記クイズや頓知クイズに強いことで場が盛り上がっているのを見ているよりは、やはりプロの歌い手が情感タップリに熱唱するのを聴く方がずっと”プロフェッショナリズム”というか、”職人の冴え”というか、ずっと高密度の実質を感じるのだなあ。

思えば、こんな歌番組もずいぶん減ってしまった。

まあ、小生以上にヘソが曲がっている人間は少ないと自負している。こんな感想を持つこと自体、偏屈そのものだと言われればそうなのだろう。


ただ思うのだが、着想鋭くまるであっと言う間に知恵の輪をとくような感じで、難し気な頓知クイズに正解を出せるというのは、どんな状況で役に立つ能力なのだろうか、と。

だって「正解」などは現実にはないことが多いし、「正解」があれば複数人が相談すれば、まずは正解に到達するものだからである。

ずっと前に小役人をしている頃、暗礁に乗り上げて関係部署すべてが降りる気配がないときに、ハッと灯がともるような感覚で「こうしてはどうですかね!」と提案することが何度もあった。誰もが着想しないような方向から、無駄な努力を続けずにすむような、見事なショートカットのような解を見つけたように思ったものだ。

その幾つかは、当時、ずっと年長の上司に採用され、そんな時には小生も自分が評価されたことを嬉しく思ったものであったが、今から思うとそれらの「解決策」はほとんどが屁理屈やトンチ、言いくるめに類するものであり、そうでなければ裏道や抜け穴を使った奇襲のような策だった。

自分と関係者がとにかくその場をしのぐには役立ったが、難航している問題を解決するような大技ではとてもなく、故に真の意味での信頼を得るには何の役にも立たない知恵だったと今では猛省している。ましてや、「これ以外に方法はありません!」と声を大にして主張したその時の自分を思い出すと、周囲を振り回し、迷惑をかけ、結局は回り道を強いてしまったという後悔が今になって針のように心を刺すことがある。

歴史上の人物と比較するのは傲慢だが、帝国陸軍の参謀・石原莞爾が満州事変の基本作戦を立案した時に『こうするしか問題は解決できません!』と、浅掘りの「知恵働き」で提案したのでなかったなら幸いだ。

・・・「エリート」というのは問題を解く才能を評価されてきた人材なのであり、常に正解があるものと前提して、正解を探してばかりいる、そんな人間たちなのである、特に日本的教育システムにおいては。


カミソリで切れるのはせいぜいが髭や皮膚である。木を切り倒すには重い斧が必要であり、岩を砕くには大砲と砲弾がいる。

「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱は、将軍が通る道に巨石があって難儀している人たちをみて、穴をほって埋めればよいと即座に提案して感心されたそうだ。

将軍家光の時代、知恵伊豆は名臣ではあったが、その知恵が歴史を通して輝いているかといえば、実はそうではなく、知恵や才覚というのは案外、到達距離が短く、賞味期限も短いものだと思ってしまうのだ。

ゲーテは『つねに努力をする者は迷うものだ』と天才・ファウストのことを評しているが、だとすれば99回の失敗のあと、最後の1回で正解をみつける。そんな「無駄な努力」を敢えて続けてしまう。本当に驚嘆するべきことがあるとすれば、信じられないほどの時間を自分の目的のために現に使ってしまうことなのだろう。

そんな努力のプロセスは、当然ながら「番組」になるはずもない。一見難問と思われる問題に、瞬時のうちに正解を出す頓知クイズのほうが絵になるわけである。「これ、正解ないですよね」ではダメなわけである。

「絵になる」ことは価値の一つではあるが、「絵になる」才能が求められている才能だと誤解され、そのような活動に資金が投入されるとすれば、やはり日本の科学の未来は危ない。見ていると、そう思ってしまいますネエ・・・。

ワイドショーだけではなく、ここにも民間ビジネスである現代マスメディア産業の外部不経済があるかもしれない。言葉やエンターテインメントは世間を映し出しているとともに、映している世間を支えることによって、社会の進展に影響を与えもするものだ。これが「外部経済効果」でなくしてなんだろう。

モノにせよ、サービスにせよ、提供者の能力レベルを超えて提供されることは決してない。

最近、気に入っている経験則である。「報道」は情報自体に含まれる価値で評価されるべきものだが、そこに作り手の意図が混じれば、もはや「報道」ではなく、情報としても疑うべきものになるのだ。